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田向山(手向山)砲台 下関要塞

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「砲台」は対艦射撃用の砲台、「保塁」は陸戦用の砲台の事である。下関要塞は、関門海峡周辺に設置された大日本帝国陸軍の要塞。当初は下ノ関要塞と表記した。

砲台)とは、大砲などの火器を設置するための台座である。 大きな大砲を防衛上の重要地点や交通の要衝など軍事戦略的・地理的に有利な地点で射界が広く取れる高所に設置して、敵の侵攻に対して効果的な防衛拠点とするものである。

また、反動の大きな大砲を専用の砲台に設置することで運用の利便性を高め、同時に命中精度の向上も期待している。

土地を整地しただけの仮設のものから、石組みやレンガ組み、コンクリート造で掩体を作り陣地や保塁としたもの、さらに火薬庫、兵舎などの関連施設を併設して要塞化したものもある。
代表的なものに海上の艦船を砲撃するために海岸線近くに設けられる沿岸砲台があり、幕末に築かれた台場もその一種である。


設置される大砲はカノン砲か榴弾砲であり、沿岸砲台の場合には移動目標である軍艦に命中させるためにカノン砲であることが多い。
旧日本陸軍では、海岸の沿岸砲台を「砲台」、陸戦砲台を「保塁」として区別した。


現代の戦場では、恒久的な砲台が築かれることはなくなった。自軍の砲の位置が固定されると、敵火砲やミサイル、あるいは空爆の的になるからである。対砲迫撃レーダーや航空偵察で正確かつ短時間で発射位置を特定されるようになったため、砲兵は射撃後、すぐに発射地点から移動するのである。

高い防御力そのもので敵の進撃を阻害するための永久築城(要塞)もまた、電撃戦に代表される戦術の進化の前に陳腐化してしまった。沿岸砲台もやはり移動式の対艦ミサイルの登場でその役目を終え姿を消しつつある。

明治時代、四面を海に囲まれた大日本帝国は外敵を防ぐため、全国に砲台を整備する必要に迫られていた。1886年(明治19年)には陸軍省が全国に砲台を建築する事を計画し、関門海峡でも1887年(明治20年)9月より、田の首砲台・田向山砲台を起工し要塞の建設が開始された。

この時代の防衛は、敵が海岸付近まで攻めてきた所を船と協力して撃滅する、まさに「陸に砲台、海に船」といったものであった。そのため、陣地は関門海峡の沿岸に集中しており、多くの大砲が設置された。


1895年(明治28年)4月には東京湾要塞司令部と共に下関要塞司令部が設置された。その後、1899年には要塞地帯法により下関要塞地帯と名付けられ、写真撮影などが禁止された。重要な拠点であった下関要塞は重要な軍事機密でもあった。1893年(明治26年)には英国汽船クレーブランド号の「乗組員」が下関要塞の古城山砲台に侵入、施設図面を記録し逮捕されるという事件がおきている。


日露戦争が終わり、平和な時代になると要塞の整理が行われ、特に街中にあった敷地の一部が払い下げられた。現在では市民の憩いの場である老松公園もこの敷地を使ったものである。昭和に入ると日本と朝鮮、満州との間を守るため、玄界灘の島々に砲台を設置し、壱岐要塞や対馬要塞とも協力して朝鮮海峡全体を防衛するようになった。

また、関門海峡一帯には空襲を防ぐために高射砲を多く設置した。小倉は小倉陸軍造兵廠を持つ軍都であったので激しい空襲も行われたが、要塞は終戦までその任務を全うした。戦後、1974年には地元の有志が九州側の陣地跡に石碑を建て、歴史を今に伝えている。

1864(元治元)年8月5日、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国艦隊が、関門海峡周辺の長州藩の砲台を砲撃しました。1886(明治19)年、陸軍省は全国の重要な地に砲台を築造し、沿海の防備を厳しくすることにしました。当時、定遠・鎮遠という巨大戦艦を有する清国の北洋艦隊の脅威を感じていた関門地区には、関門海峡を挟んだ下関と北九州に砲台と堡塁が築造されました。

陸軍は、敵艦船を砲撃するのを砲台、砲台の背面防御し、陸戦砲撃をするのを堡塁としました。北九州では、田向山(手向山)・笹尾山・矢筈山・古城山・和布刈砲台が、また富野・高蔵山堡塁が築造されました。1994(明治27)年8月日清戦争が勃発しました。

清国の北洋艦隊は壊滅し、1895(明治28)年4月日清講和条約は調印されました。関門海峡を挟む砲台・堡塁を統合した関門要塞は、1895(明治28)年下関要塞と呼称されることが正式に決まり、下関要塞司令部が発足し、砲兵連隊が配備されました。これらの地域は下関要塞地帯と呼ばれました。

これらの砲台・堡塁は明治末には廃止となりますが、機密保持のため立ち入りは制限され、地域内の測量・撮影などは1945(昭和20)年の終戦まで要塞司令部の許可が必要でした。

円形のコンクリート部分には目標となる地名がどの方角にあるか刻まれている。

1887年(明治20年)、関門海峡周辺の要塞化にともない、下関側の田の首砲台とともに手向山は最初に砲台の設置がはじまった。長崎事件は前年であり、日清戦争は7年後のことだった。これより手向山は一般人の入山が禁止された。山は小倉にあった帝国陸軍第12師団支配下の下関要塞司令部によって1945年(昭和20年)まで管理された。

太平洋戦争の末期には、市街地空襲で西鉄北九州線の車両基地が被災する事態に備えて電車の退避場所を確保することとなり、手向山トンネル西側の北九州本線から山腹へ分岐する引込線を設け、山腹に2本の退避線が設置された。

所属 下関要塞
起工 明治20年9月
竣工 明治21年9月
備砲 24cm臼砲12門 6砲座×各2門 計12門
任務 大瀬戸制圧
廃止 明治末期


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