呉市音戸町坪井 2 丁目 7-11(坪井区自治会館) 広電バス田原経由倉橋島線→「坪井」すぐ
伊勢型戦艦は、大日本帝国海軍の戦艦の艦級である。本級は扶桑型に引き続き建造された2番目の超弩級戦艦である。
同型艦は伊勢、日向の 2隻。
昭和 28 年建立。横の観音像も関係あるもので、付近で大破着底した戦艦伊勢の戦死者の霊を祀るために建てられた。日向は情島付近で着底、島にも碑があるという。
北号作戦を終えた日向は呉軍港に停泊していたが、3月1日に第一予備艦に指定され、直後の3月19日の呉軍港空襲で爆弾3発(二番砲塔左舷後部、左舷缶室、艦後部)が命中した。損傷を受けた日向は4月20日に第四予備艦に指定され、5月1日に特殊警備艦となり、呉港外(情島沖)で浮砲台となった。
7月24日の呉軍港空襲でアメリカ軍空母機の波状攻撃を受け、日向の草川艦長も戦死した。この年7月の時点で乗組員のうち約半数が退艦していたが、これらの攻撃による乗組員の被害は、残存乗組員千余名中戦死者204名、重軽傷者600余名に及んだ。7月26日、日向は着底大破した。
戦後の1947年(昭和22年)7月、日向の解体が完了して艦歴を閉じた。なお、情島で着底した日向の様子を戦後にアメリカ軍が撮影したカラー映像が残っており、今日でもその被害の凄まじさを観察することができる。日向に装備されていた航海灯と軍艦旗が広島県呉市の大和ミュージアムに所蔵されている。
10月29日、伊勢は呉に戻った。11月1日、射出機を撤去し、伊勢は航空戦艦としての機能を失う。大戦末期、日本国内では石油・ゴムなどの資源が枯渇した。そこで伊勢は連合軍制海権下の南シナ海などを強行突破して資源を輸送する「北号作戦」に参加する。11月9日、佐世保を出港、南方に向かった。この作戦ではアメリカ潜水艦やアメリカ軍機の襲撃を受け、命中寸前の魚雷を高角砲で迎撃するなど危険な場面が度々あった[38]。1945年(昭和20年)2月20日、奇跡的に無傷で呉に帰還を果たした。
この後の伊勢は燃料不足のため「呉鎮守府第1予備艦(浮き砲台)」に指定され、燃料不足とアメリカ軍の機雷封鎖で行動不能な状態のまま呉港外・音戸町坪井沖に停泊した。7月24日、アメリカ軍機動部隊艦載機による呉軍港空襲により艦橋に直撃弾を受け、牟田口艦長はじめ艦の主だった指揮官20名ほどが戦死、浸水は5000tに達した。師岡勇高射長が艦長代理となり呉工廠第四ドックに曳航しようと作業中の7月28日、再びアメリカ軍艦載機の空襲により直撃弾11発を受けて大破着底、戦死者は573名に及んだ。空襲後、伊勢の二番砲塔は三式弾が装填されたまま最大仰角で停止した。火災もひどく暴発の恐れもあったため呉市街を向いたまま発射、発射後は砲塔が仰角を保ったまま艦の正中位置まで旋回したところで伊勢は完全に動力を失い停止した。このときの主砲発射が奇しくも日本海軍戦艦の最後の大口径砲の発砲となった。
終戦後、伊勢は引き揚げられて解体されスクラップとなった。
伊勢型戦艦は当初は扶桑型戦艦(扶桑、山城)の3番、4番艦として予定されていた。しかし、予算の関係で予定していた3番艦の起工が遅れ、しかも扶桑型に欠陥が見つかったため再設計された。扶桑型の問題点で解消できた部分は多いとはいえ、問題点等も含めると、まだまだ日本独自の技術よりは、イギリス式から受け継いだ流用技術に依存するところが多く、当時の日本の建艦事情の問題点も窺える。英国技術を日本流に昇華させ、日本独力の技術で建造された純正戦艦と呼ばれるようになるのは次の長門型戦艦まで待たなければならなかったとも言われる。