冷麺とは、朝鮮半島由来の冷製麺料理。朝鮮語では냉면(ネンミョン、韓国の標準語)または랭면(レンミョン、北朝鮮の標準語)。冷やし中華と区別するため、韓国冷麺や韓国風冷麺などとも呼ばれる。
日本における冷麺
1939年(昭和14年)に神戸市長田で平壌出身の張模蘭と全永淑が開業した「元祖 平壌冷麺屋」が日本で朝鮮半島式の冷麺を提供する現存最古の店である。現在、日本の多くの焼肉店で定番メニューとして提供されている。日本人の口に合うようアレンジされた冷麺も各地にあり、代表的なものに岩手県盛岡市の盛岡冷麺と大分県別府市の別府冷麺が挙げられる。
盛岡冷麺は咸興出身の在日朝鮮人1世である青木輝人(朝鮮名:楊龍哲)が1954年(昭和29年)5月に開業した「食道園」が発祥で、1987年(昭和62年)に「ぴょんぴょん舎」を開業した在日2世の邊龍雄らが「盛岡冷麺」というブランド名を確立させた。小麦粉を主材料とする透明感のある太麺が特徴である。盛岡冷麺の生麺は「さぬきうどん」などとともに公正取引委員会から「特産」「名産」などの表示に基準が設けられた10品目の一つにもなっている。
別府冷麺は1950年(昭和25年)頃に満州からの引揚者が開業した店が発祥とされる。スープは和風ダシ、麺は店によって太麺と中細麺の2種類あるのが特徴である。食堂やラーメン屋や居酒屋などでも提供されるメニューとなっており、金属製の器ではなくラーメン用の丼鉢などに盛りつけられる。
盛岡冷麺は、岩手県盛岡市の名物麺料理。辛味のある冷麺である。わんこそば、じゃじゃ麺と並んで「盛岡の三大麺」と称されている。盛岡では一般的に「冷麺」というとこれを指す事が多く、主に焼肉店での定番として供される。公正取引委員会が承認する特産・名産麺料理10品目の中で唯一の冷製専用品目である。
盛岡冷麺の麺は、スパゲッティなどのパスタと同様に小麦粉、片栗粉などを用いた生地に強い力を加え、麺の太さに合わせた穴から押し出して作られる。この際、麺が高温になりアルファ化するために強いコシがもたらされる。この押し出し麺という製法は、盛岡冷麺には不可欠とされる。
その後の製品開発により、非押し出し製法である混練法で冷麺を製麺している製麺所も存在する。盛岡冷麺の殆どに付け合わせ(口直し)として果物が載せられるが、リンゴ、スイカ、梨など季節に合わせて変えるのが一般的である。 また、盛岡で冷麺の辛みとして合わせるキムチは主に大根であり、カクテキと表す方が適切である。殆どの店では辛みの程度を数段階(辛みなし、弱、中、強)から選べるが、冷麺とは別の皿で出させる別辛を選ぶ者も多い。
朝鮮半島北部(現・北朝鮮)の咸興(かんこう、ハムフン)生まれの在日朝鮮人1世の青木輝人(朝鮮名:楊龍哲(よう りゅうてつ、ヤン・ヨンチョル:양용철))が、1954年(昭和29年)5月に盛岡でテーブル4つの「食道園」を開業し、店で出したのが最初である。料理人としてのプロの技術を持たなかった楊は、自分が子供のころに食べた咸興の冷麺を独力(独学)で再現しようとしたという[1]。
咸興の冷麺はスープのないピビム(ビビン)冷麺が有名だが、咸興冷麺にもユクス(肉水:牛肉の出汁スープ)つきのものもあったといい、楊は自分が好きだったスープつきの咸興冷麺を自分の店で出した。咸興独特のかみきれないほどコシの強い麺は当初、盛岡市民には不評で「ゴムを食べているようだ(ゴムみたいだ)」などと言われてしまい、また当時は辛いキムチも日本では一般的ではなかったこともあり、まったく受け入れられなかった。 楊によると、咸興の冷麺はそば粉入りの灰色の麺だったといい、初期は店でもそば粉入りの麺を出していた。この灰色の麺は楊自身にもおいしそうに見えなかった。 楊はかつて働いた東京の韓国料理店で出されていた、白い冷麺を参考にそば粉を抜き、麺を白く変える。が、ジャガイモのでんぷんを使ったコシの強い麺や、キムチのトッピング、牛骨ダシ中心の濃厚なスープという「故郷の味の3要素」は守り続けた。やがて盛岡の新しいもの好きな若者たちの間で、そのユニークさが「一度食べたらあとを引く」と評判になり、店には客が入る様になった。ここに、「盛岡冷麺」の基本形が完成したといわれる。ただし楊自身は、「盛岡冷麺」でも「咸興冷麺」でもなく、「平壌(へいじょう、ピョンヤン)冷麺」という看板を掲げ続けた。商売っ気のある楊は「咸興より、平壌の方が大きな街で有名だからそうした」と生前、いたずらっぽく語っていたという。
1979年(昭和54年)に都南中央跨線橋の西袂に開業した郊外型店「焼肉ガーデン ペコ&ペコ」(2001年閉店)は、テレビ・ラジオ・市内映画館などのメディア広告を使い「冷麺」を宣伝し、この宣伝がヒットして「冷麺」は岩手県内に知れ渡ることとなった。なお、「ペコ&ペコ」では「平壌冷麺」ではなく、単に「冷麺」と呼称していた。
「盛岡冷麺」の名称を市内の店で初めて使用したのは、1987年(昭和62年)に「ぴょんぴょん舎」を創業した在日韓国・朝鮮人2世の邊龍雄(へん りゅうゆう、ピョン・ヨンウン)である。それまで盛岡では、楊の店にならって「平壌冷麺」、または単に「冷麺」と呼ばれていた。 まだ「ぴょんぴょん舎」開店の準備中だった邊に、1986年(昭和61年)10月に盛岡で開かれた「日本めんサミット」出店の声がかかり、小さなブースで出した冷麺の看板に「盛岡冷麺」「ぴょんぴょん亭」の文字が書かれたのである。 「盛岡冷麺」という呼称を使うよう勧めたのは、サミット運営を担当した盛岡市職員の田口善政だったという。 田口は、盛岡式の冷麺が県外で「盛岡冷麺」と呼ばれているのを知っていたのである。
「盛岡冷麺」という名称は当初、在日のコミュニティーからは「故郷の味を安売りするもの」「祖国の食文化を日本に売り渡す」と猛反発を受けた。が、これを機に徐々に「盛岡冷麺」の名が市民に浸透し始め、全国的にも盛岡の名物として知られるようになる。邊をはじめ、楊を追って冷麺をつくり始めた店では、それぞれが独自の試行錯誤を繰り返し、盛岡冷麺の味は次第に日本人の味覚に合ったものに変化しつつある。
こうした「盛岡冷麺」誕生と浸透の経緯は、1993年(平成5年)に朝日新聞岩手版に小西正人記者によって連載された記事「冷麺物語 日本と朝鮮・韓国の間に横たわるもの」で初めて詳細に明らかにされた。連載記事は2007年(平成19年)に「盛岡冷麺物語」(リエゾンパブリッシング刊)として書籍化された。その後、この記事をベースにしたTV番組「ザ・ルーツ 俺たちの盛岡冷麺」が、2009年(平成21年)3月、岩手朝日テレビで放送されている。
2000年(平成12年)4月からは、讃岐うどん、札幌ラーメン、長崎ちゃんぽん、沖縄そばなどと同様に、公正取引委員会が「盛岡冷麺」の生麺に対して「特産」・「名産」表示を認め、盛岡冷麺は "本場" として認定された。