9633:京都府京都市「京都鉄道博物館」 - 2006年、梅小路の蒸気機関車群と関連施設として、準鉄道記念物に指定
国鉄9600形蒸気機関車(こくてつ9600がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が1913年(大正2年)から製造した、日本で初めての本格的な国産貨物列車牽引用のテンダー式蒸気機関車である。「キューロク」、「クンロク」あるいは「山親爺」と愛称され、四国を除く日本全国で長く使用された。国鉄において最後まで稼動した蒸気機関車ともなった、長命な形式である。
9600形という形式は、1912年度に12両が試作された2-8-0 (1D) 型過熱式テンダー機関車が最初に使用 (9600 - 9611) したが、本形式に形式を明け渡すため、落成後わずか3か月で9580形 (9580 - 9591) に改められた。したがって、本形式は9600形の2代目である。
概要
本形式は、1913年(大正2年)3月に先行製作された軸配置2-8-0 (1D) 型の過熱式テンダー機関車初代9600形(9580形)の欠点を改良すべく設計されたものである。
明治末期の大型輸入機の設計を参考にし、独創的な発想で日本の国情によく合致する性能の機関車となった。狭軌鉄道向け機関車としては従来不可能と信じられてきた巨大なボイラーを、台枠の上に火室を載せてしまうことにより可能にした。そのため出力は上がったが、ボイラー中心高さは当時の狭軌用蒸気機関車最高の2,591mmとなり、重心位置が非常に高く、小輪径の動輪もあって常用最高速度は65km/hと高速走行は苦手であった。また、動輪直径が小さいので振動が多く、「腹の減る機関車」とも言われていた。
このような構造を採用すれば、重心位置が高くなるのは設計段階から明らかであったが、あえてこの構造を採用したのは、同様の構造を採用していたドイツ・ボルジッヒ社製の8850形の使用成績が良好で、さらに同社の確信ある提言があったからに他ならない。実際、9600形の使用上、それが問題になることはなかった。
設計当初は8850形のように圧延鋼板を切り抜いた棒台枠を採用する予定であったが、国内では製造することができず、やむなく従来どおりの軟鋼板製の板台枠式となった。初期の製造車では、ピストンバルブをシュミット社から輸入し、軸バネも川崎造船所が輸入した貯蔵品を使用したため、厳密にいうと標榜したような純国産とはいかなかったが、9618号機以降は看板どおりの純国産となり、設計も変更された。外観上、運転台下部のラインが、S字形屈曲から乙字形屈曲に変更されたのが目立つ。
9600形の特徴としては、左右動輪のクランクピンの位相が、通常の右先行型に対し、逆の左先行型となっていることがあげられる。これは、動輪の釣合錘の位置をドイツ製機関車に倣って、回転軸を含む平面で動輪全体の回転質量のバランスを取るクロスバランシングを取り入れ、クランクピンから180°の位置からわずかにずらす設計変更を行なった際に、右先行の場合は後ろに、左先行の場合は前にずらすのを設計者の太田吉松(おおたきちまつ)が逆向きに間違え、それが当時の車両局長・朝倉希一をも素通りしてしまったのが原因である。つまり、本来右先行で設計されたものが、釣合錘のずらし方を間違えたのを救済するために左右動輪の位相を逆にセットし、左先行型として活かされたというのが真相である。製造は、この異例の構造のまま770両(全製造数は828両)まで続いたが、その原因は判明していない。当時の日本は基礎技術力が低く、経済的にも恵まれた状況ではなかったため、容易に設計変更には踏み切れなかったと推測される。後に、朝倉は左足から歩を進めるというので「武士道機関車」と名付けている。
また、製造当時は標準軌への改軌構想があったため、標準軌への改造を考慮した設計がされていたというのが通説であるが、朝倉や島秀雄はこれを明確に否定している。「満州事変中に内密に指令があったとき、軸守箱と担バネを台枠の外側に移せば、台枠をくずさずにすむ簡単な方法を偶然発見した。これは日支事変まで伏せてあり、実施のとき役立った。」と2人は自伝中で述べている。蒸気機関車研究家の臼井茂信はこれについて、広軌改築論を偏執的に耳にしていた原設計者の太田がここぞの「隠し設計」として胸三寸に収めていたのではないかとも指摘しているが、真相は藪の中である。
なお、9600形は、1918年(大正7年)に石炭を満載した10トン貨車75両を牽引して北海道室蘭本線を走行した。これは日本で蒸気機関車が最も多くの車両を連結した記録である。
9600 - 9617のテンダーについて
一般的な9600形のテンダー(炭水車)は、台車が3軸固定式の水タンク13m3、燃料6t積載のものであるが、最初に製造された9600 - 9617の18両については、小型の水タンク9m3、燃料2.5tで2軸固定式台車であった。これは、東海道本線(当時)山北 - 御殿場間、沼津 - 御殿場間の箱根越え区間の推進(補助機関車)用として設計されたためである。しかし、予定どおり箱根越え用に配置されたのは9610 - 9617の8両のみで、9600 - 9609の10両は神戸鉄道局に配置された。その後に製造された9600形は前述のように3軸テンダーとして石炭と水の積載量を増加したため、2軸の小型テンダーでは、別運用を組まねばならないなど、運用に不都合が生じるようになっていた。
しばらくの間は、そのままで凌いでいたものの、1923年(大正12年)2月から3月にかけ、鷹取工場で9600 - 9605の6両について標準タイプのテンダーと交換された。その時余剰となった2軸テンダー2両は、同時期に鷹取工場で組み立てられていたロータリー式雪かき車ユキ300形(後のキ600形)2両に連結されたが、後年不足を生じて大容量のテンダーに交換されたという。残りの4両分については、水運車ミ160形となった。
残りの12両についても、引き続いて交換が計画されていたようであるが、これらについては1925年度までずれ込んだ。この遅れは、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災によるものと推定されている。つまり、それどころではなくなった、ということである。これらの改造(交換)については、テンダーを新製せず、既存の6700形のテンダーとの振り替えによって実施された。テンダーを供出したのは、6704 - 6708, 6728 - 6734であったが、その後の6700形/B50形同士のテンダー交換によって乱れを生じている。
また、9608は戦前、2軸ボギー式テンダーを連結していたことが知られており、テンダーの交換、振替が長期間かつ広範囲に行われていたことが推測される。
製造
メーカーは大半が川崎造船所(686両)だが、汽車製造(69両)、鉄道院小倉工場(15両)で製造されたものもある。1913年(大正2年)を製造初年とし、1926年(大正15年)までの間に770両(9600 - 79669。ただし、百位への繰り上がりは万位に表示され、数字的には連続していない。付番法については後述)が量産された。このほかに三菱大夕張鉄道、夕張鉄道、美唄鉄道の自社発注や、樺太庁鉄道、台湾総督府鉄道向けなどに断続的に同形機が生産され、最終製造年は実に1941年(昭和16年)である。樺太庁鉄道に納入された同形機5両 (D501 - 5) は、1943年(昭和18年)の南樺太の内地編入にともない鉄道省籍となり、79670 - 79674に、樺太鉄道向けに製造された細部の異なる準同形機80形9両 (80 - 88) も、樺太庁鉄道を経て79680 - 79688(79675 - 79679は欠番)となっている。樺太向けの14両を鉄道省としての製造両数に含め、製造両数を784両と記載している文献もある。
樺太鉄道80形
80形は、樺太鉄道に納入された鉄道省9600形の準同形車で、9両全車が汽車製造で新製された。ボイラー容量がやや小さく、テンダーは2軸ボギー台車を2つ履いており、運転台は耐寒構造の密閉式となっており、当初から除煙板を装備しているのが鉄道省のものと異なっている。また、樺太の鉄道の仕様として、自動連結器の取付位置が低い。樺太庁鉄道に買収された後、1943年、鉄道省に編入され、79680 - 79688となった。
樺太庁鉄道D50形
D50形は、樺太庁鉄道に納入された鉄道省9600形の同形車で、5両が製造された。煙突前側に給水加熱器を装備している。運転台が耐寒構造の密閉型で連結器の取付け高さが低いのは、80形と同様である。1943年、鉄道省に編入され、79670 - 79674となった。
台湾総督府鉄道800形
800形は、台湾総督府鉄道に納入された鉄道省9600形の同形車で、1923年(大正12年)から1939年(昭和14年)にかけて、39両 (800 - 838) が製造された。こちらは、鉄道省籍に編入されたことはない。1937年にD98形に改められたが、番号は変更されなかった。太平洋戦争後にこれらを引き継いだ台湾鉄路管理局では、DT580形 (DT581 - 618) と改められた。戦後には、廃車の部品を組み合わせて1両 (DT619) が再製されている。
台湾の「9600形」について特筆すべきは、本形式に先立つ1920年(大正9年)にアメリカン・ロコモティブ(アルコ)社スケネクタディ工場で、同系機(600形)が製造されていることで、14両 (600 - 613) が輸入されている。原型の板台枠を棒台枠に変更し、火格子面積も増大されており、乗り心地や投炭の楽さは、本形式に優っていたという。細部の設計もアメリカナイズされていたが、原設計を日本で行なった機関車をアメリカで製造した唯一の例である。
私鉄の同形機
9600形は、北海道の炭鉱鉄道を中心に同形機が製造されている。これは、軸重が軽い割に牽引力が大きいという本形式の特徴が、炭鉱鉄道の要求に合致したものといえよう。後述の払下げ機とともに石炭輸送に従事した。
三菱鉱業大夕張鉄道
1937年(昭和12年)8月にNo.3(製造番号876)、1941年1月にNo.4(製造番号1300)がいずれも日立製作所で新製された。この機関車は逆機に適するよう、C56形に似た、炭庫の側部を削り、その後端を低くしたスロープ型テンダーを装備している。No.4は、当初から美唄鉄道に貸し渡されていたが、1947年(昭和22年)12月に大夕張鉄道に戻った。
1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)にかけて、美唄鉄道の5が貸し渡されてNo.15として使用され、1969年(昭和44年)10月に同機が転入してNo.2となった。No.2とNo.4は1974年(昭和49年)1月、No.3は同年3月に廃車となった。
三菱鉱業美唄鉄道
前述のように、1941年(昭和16年)日立製作所製のNo.4が借入れられたが、1947年(昭和22年)に大夕張鉄道に戻っている。また、1940年(昭和15年)川崎車輛製の5(製造番号2393)が三菱石炭油化工業から転入しているが、1974年(昭和49年)に大夕張鉄道で廃車となった。
三菱石炭油化工業(樺太本斗郡内幌村)
1940年(昭和15年)に2両 (21, 22) が川崎車輛で製造された。1両(22。製造番号2393)は、美唄鉄道に移って5となっている。21のソ連接収後の消息は不明。
夕張鉄道
開業以降9600形の縮小版である11形を使用してきた夕張鉄道には、1941年(昭和16年)7月に川崎車輛製の1両(21。製造番号2530)が入線している。この機関車が、9600系蒸気機関車の最終製造車である。1975年の夕張鉄道廃止時まで在籍し、同鉄道の一部を引き継いだ専用線で行われた、映画新幹線大爆破の撮影でSL+貨車+DLの推進運転での爆破シーンに登場。その後、整備され栗山町に保存された。
運用
製造当初は東海道本線などの幹線でも用いられたが、より牽引力の強いD50形が1923年(大正12年)に、またD51形が1936年(昭和11年)に出現すると主要幹線を追われ全国各地の亜幹線や支線に分散した。1929年(昭和4年)に30t積み石炭車の走行抵抗を測定した上で、1930年(昭和5年)に室蘭本線の運炭列車で単機牽引の2000t列車が設定された。
出力の割には軸重が軽く運用線区を選ばないのが特長で、このため1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると、陸軍の要請により、鉄道省の工場で標準軌に改軌のうえ中国に送られた。改造は1938年(昭和13年)2月から1939年(昭和14年)4月にかけて6次にわたって行なわれ、実に本形式の総両数の3分の1弱にあたる251両が供出されている。詳細は不明であるが、150両が華北交通でソリホ形 (1501 -)、残りの一部が華中鉄道でソリロ形と称したとされる。戦後、華中鉄道から中華民国へ引き継がれたのは、80両であった。そのうちの10両が華北交通に貸し出されており、これら以外については、日本陸軍が管理した線区で使用されていたと推定されている。
さらに1941年(昭和16年)に4両 (9620, 9622, 9639, 9659) が廃車となっているが、これらも改軌の上で中国に送られたものと思われる[8]。また、1944年(昭和19年)には、6両 (29619, 29655, 59660, 59677, 69626, 69687) が輸送力増強のため樺太鉄道局に転属した。いずれも日本の太平洋戦争敗戦とともに中国およびソ連に接収され、帰還したものは1両もない。中国に接収されたものはKD5型と改称され、さらに一部は1,000mm軌間に改軌されKD55型となった。KD55型は昆明鉄路局宜良機務段(機関区)に配属されベトナム国境に続く昆河線にて1980年代まで運用されていた。
戦後は北海道・九州の石炭輸送路線や、米坂線・宮津線など、貨物輸送量が多かったり急勾配を抱えていたりするにもかかわらず、路盤の弱い路線を中心に使用された。特筆すべき点として室蘭本線にて牽引力テストが行われた際、3000トンの超重量列車の引き出しに成功したことが挙げられる。使い勝手の良さ、レールへの粘着力、列車の牽引力において決定的な代替能力を有する機関車がなかなか開発されなかったため[9]、古い形式でありながら蒸気機関車の運用末期まで残った。
歴史が長いだけにその形態は変化に富んでいる。キャブ裾や窓の形状、自動連結器への改造工事跡のバッファー穴や、空気制動化への改造によるエアータンクの位置など、個体ごとの変化が多い。さらに四国を除く、北海道から九州まで数多くの機関区に所属。これらの地域や事情に適合させるために様々な改良、改造が行われた。テンダーの形状、デフレクターの有無や形状、煙突や蒸気ドームの形状や高さ、前照灯の増設など、そのスタイルは実にバラエティに富んでいる。
最後に残ったのは室蘭本線追分駅近くにあった追分機関区の入換用に使用されていた39679、49648、79602の3両で、1976年(昭和51年)3月2日に最終仕業となった。そのうち79602は3月25日まで有火予備で残っていた。これを最後に国鉄の蒸気機関車は保存用を除いてそのすべてが姿を消した。実働63年、最初期の標準型国産蒸気機関車として登場し、日本の蒸気機関車の終焉を見届けた最も長命な蒸気機関車であった。
この後39679は、苗穂工場に長期留置されたものの、保存されずに解体され、49648は中頓別町の寿公園に保存された。また79602も保存のため追分機関区扇形庫内に保管されていたが、1976年(昭和51年)4月13日の追分機関区の火災により焼損し、解体されてしまった。文献によっては39679、49648も火災により焼失したとの記述も見られるがこれは誤りである。
譲渡
その特性上重量貨物列車の運転される北海道の炭鉱鉄道を中心に払下げられた。最初は1942年(昭和17年)に三菱鉱業美唄鉄道に払下げられた69603であるが、その後、1964年(昭和37年)までに21両が9社に払下げられている。
保存機
広義の動態保存機としては圧搾空気を使用して走行可能とした真岡駅SLキューロク館の49671がある。当機は運転台を右側に移設改造という特徴があるが、これは青函連絡船函館桟橋の入換機関車であった名残である。静態保存機は青梅鉄道公園の9608や京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)の9633、大井川鐵道の49616、九州鉄道記念館の59634をはじめ、全国各地に見られる。
9600形の付番法
9600形の製造順と番号の対応は、1番目が9600、2番目が9601、3番目が9602、…、100番目が9699となるが、101番目を9700とすると既にあった9700形と重複するので、101番目は万位に1をつけて19600とした。その後も同様で、下2桁を00から始め、99に達すると次は万位の数字を1つ繰り上げて再び下2桁を00から始め…という付番法とした。したがって、100番目ごとに万位の数字が繰り上がり、200番目が19699、201番目が29600、…となる。
このため、ナンバーと製造順を対応させる公式は、
万の位の数字×100+下二桁の数字+1=製造順
となる。
例えば59634であれば万の位の数字が5、下2桁が34となるので、製造順は5×100+34+1=535両目となる。
登場した作品
映画
吹雪の名寄本線 天北峠に挑む9600 - ヒストリーチャンネル(2007年6月20日放送)
新幹線大爆破
テレビドラマ
旅路 - 1967年(昭和42年)のNHK連続テレビ小説。主に現・梅小路蒸気機関車館保存機の9633号機が登場。
運用者 鉄道院→日本国有鉄道
製造所 川崎造船所(川崎車輛)、汽車製造、国鉄小倉工場
製造年 1913年 - 1926年
製造数 770両
引退 1976年3月2日
愛称 キューロク、クンロク
主要諸元
軸配置 1D
軌間 1,067 mm
全長 16,551 mm
全高 3,813 mm
機関車重量 59.82 t
動輪上重量 52.73 t
総重量 94.32 t
固定軸距 4,572 mm
先輪径 840 mm
動輪径 1,250 mm
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 510 mm × 610 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 12.7 kg/cm2
大煙管
(直径×長さ×数) 133 mm×4039 mm×22本
小煙管
(直径×長さ×数) 51 mm×4039 mm×126本
火格子面積 2.32 m2
全伝熱面積 153.6 m2
過熱伝熱面積 35.2 m2
煙管蒸発伝熱面積 108.4 m2
火室蒸発伝熱面積 10.0 m2
燃料 石炭
燃料搭載量 6.00 t
水タンク容量 13.00 m3
制動装置 真空ブレーキ→自動空気ブレーキ
最高速度 65 km/h
出力 870PS