西国街道とは江戸時代に、京都と下関を結ぶ山陽道を、広島藩では「西国街道」と呼んでいました。当時の五街道(東海、中山道、日光道、奥州道、甲州道)に次ぐ規模を誇り、道幅は2間半(約4.5メートル)もありました。今も、往時をしのぶ歴史的な建造物が点在しています。近世山陽道の別名である。また、西国路(さいごくじ、さいこくじ、せいごくじ、せいこくじ)、中国街道(ちゅうごくかいどう)、中国路(ちゅうごくじ)、山陽路(さんようじ)などとも呼ばれる。
京都から下関までの経路で、律令時代に整備された大路と一致する。
また、狭義の西国街道として同街道の内、西宮〜下関までの区間、あるいは同じく京〜西宮までの区間を指すこともある。
昔、草津は軍の港につかわれたので「軍津」と呼ばれ、それが「草津」になったといわれます。
草津は千年以上もの歴史をもつ町で、いわれのある社寺が多数あります。
まちの中を西国街道が通っており、江戸時代には間宿が栄え、広島藩(一時期は三次藩)の専売品などの積み出しを取り締まる番所や、浜田藩の船屋敷も置かれるなどにぎわっていました。
また、かき養殖も盛んな地域であり、大阪に向けた「かき船」が評判を得て風物詩ともなり、広島のかきを有名にしました。
船板壁
往古漁業の町として栄えた草津には、廃船になった船板を家の外壁や塀に利用した家屋が多くありましたが、現在は何軒かになってしまいました。 船は永年海水に浸かっており、固くて虫が付きにくく、腐りにくい利点があるところに目を付けた先人の知恵でしょう。また、廃船をリサイクルしたものでもあります。 船板壁には、現在では見られなくなってきている平釘も散見できます。
草津町(くさつちょう)はかつて広島県佐伯郡に存在した町である。1889年(明治22年)の町村制発足時には「草津村」として設置されたが、1909年(明治42年)町制を施行して草津町となり、1929年(昭和4年)4月1日、広島市に編入合併して消滅した。
中世
中世の草津村は古江村(のちの古田村)を村域に含んでおり(慶長年間頃まで)、近隣の己斐村・山田村・井口村と同様、厳島神社の社領(荘園)であった。戦国時代には、当初、厳島社神主家配下の羽仁氏が草津城を拠点にこの地を支配しその後大内氏・陶氏の勢力圏に入った。1554年(天文23年)以後は毛利氏支配下となり、水軍の将である児玉氏が毛利の防長移封まで3代にわたって草津を統治した(詳細は草津城参照)。入江や干潟に富んだ地形は早くからこの地に港を発達させることになり、城の南にある草津湊(くさつみなと / 草津漁港の前身だが埋め立てにより現在は沖合に移転)は毛利水軍の基地になるとともに米・塩などの荷揚げ、厳島社への参拝や瀬戸内の島々への渡船場として賑わい、村には町屋が形成された。
近世
藩政期、草津は広島城下の外港としての役割を果たし、浜田藩(松平氏)の船屋敷が一時設置されていたこともある。また街道筋に位置する草津城址には城下町の西端を示す大門が設けられた。広島およびその近辺の水産物の集散地でもあり、延宝年間以降はカキの養殖が盛んになり、仁保島・江波などと並ぶ特産地となった。さらに沖合に広がる遠浅の干潟では早い時期から新開地の造成が行われた。
近代
1870年(明治3年)、沖合に造成された広大な庚午新開は、1889年の町村制発足により佐伯郡草津村が設置されると、その全体が村域に編入された。1909年(明治42年)には町制が施行され草津町と改称した。新開地である庚午がサツマイモ・大根などの栽培が盛んな野菜の産地であったのと対照的に、草津では住民の多くが水産物の漁獲・加工・販売などに従事していた。1922年(大正11年)には広島瓦斯電軌(現・広島電鉄)宮島線が己斐から草津まで延長され駅が設置された。そして1929年(昭和4年)の広島市編入に至る。