人力車(じんりきしゃ)とは、人の力で人を輸送するために設計された車。日本では、主に明治から大正・昭和初期に移動手段として用いられたが、現在も観光地などで用いられている。人力俥とも表記する。
車軸の両側に1つずつ車輪を持ち、上に乗客が座る台座と、或いは雨避けとなる覆いを持ち、台座とつながれた柄を俥夫(しゃふ)が曳いて進むという構造を持つ。手押し車のように後ろから押すことによって進む車もあった。
日本語では、略して人力(じんりき)、力車(りきしゃ)。車夫はまた車力(しゃりき)とも言った。また英語のRickshaw(リクショー)は「リキシャ」を語源とする日本語由来の英単語。
人力車に関する車の文字はすべて俥とも表記した。俥の字は本来は中国象棋の駒の名称に使われるだけの漢字であったが、明治以降の日本において中国にそのような漢字があることに気付かずに、人力車を表すために作られた国字の一種である(中国にもともとあった漢字の字体に暗合したものであるので、正確には国字ではない。)。そのため「俥」(くるま)一文字だけで人力車を表している。この他に、明治時代ごろの表記では車編の右上に人を、その下に力を書いた合字を書く例もあった。
人力車には乗客が一人乗りのものや二人乗りのものなどがあるが、日本で普及したのは一人乗りのものが圧倒的に多かった。また車夫は通常1人だが、特に急ぎの場合などは2人以上で引いたり、時には押したり、交代要員の車夫が併走したりすることもあった。
運送手段として
馬車や鉄道、自動車の普及により、都市圏では1926年頃、地方でも1935年頃をピークに減少し、戦後、車両の払底・燃料難という事情から僅かに復活したことがあるが、現在では一般的な交通・運送手段としての人力車は存在していない。
保存
昭和初期までは一般的に存在した庶民的な車両であるため、交通博物館(2006年5月14日に移転の為閉鎖)をはじめ、各地の博物館や資料館などで保存されている。ただし、展示されている人力車には修復されたものや展示のために新たに製造されたものもある。
観光用として
現在は主に観光地での遊覧目的に営業が行われている。人力車を観光に最初に用いたのは1970年の飛騨高山のごくらく舎であり、後に京都や鎌倉などでテレビ番組等で度々紹介されて各地に普及した。当初、京都といった風雅な街並みが残る観光地、又は浅草などの人力車の似合う下町での営業が始まり、次第に伊豆伊東、道後温泉といった温泉町や大正レトロの街並みが残る門司港、有名観光地である中華街などに広がっていった。観光名所をコースで遊覧し、車夫が観光ガイドとして解説してくれるものが一般的である。
北海道小樽市、秋田県角館、東京都浅草雷門、埼玉県川越市、千葉県成田市、神奈川県鎌倉市・横浜中華街、静岡県伊東市・掛川市・松崎町、岐阜県高山市・郡上八幡、三重県伊勢神宮、京都府嵐山・左京区・東山区、奈良県奈良公園、兵庫県姫路城、岡山県倉敷美観地区、愛媛県松山道後温泉、福岡県門司港レトロ、大分県由布院温泉などで利用できる。
現行の道路交通法では人力車は軽車両の扱いとなるが、自転車とはならないため、自転車以外の軽車両を禁止している自転車道や、自転車通行可とされた歩道であっても人力車で通行する事は出来ない。
観光人力車の乗車料金は10分程度の移動時間中に観光案内を含めた初乗り運賃が1人当たり1000 - 2000円から15分・30分・60分・貸切などさまざまである。2人乗りのものに3人乗車することも可能であるが、相当な重さになることから、観光人力車では料金を割り増しとするものが多い。
観光人力車では到着した後の観光客への観光案内時間中の駐輪場所の整備、客待ち時における待機場所の整備が遅れている。
観光人力車の他、結婚式や祭などでの演出としての使用や、歌舞伎役者のお練りなどに使用されることがある。
人力車の製造
観光人力車や博物館展示用の人力車製造が続けられている。製造台数の多いメーカーとしては静岡県伊東市の株式会社升屋製作所を挙げることができる。
当時の日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、馬よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段になった。
1870年、東京府は発明者と見られる前記3名に人力車の製造と販売の許可を与えた。条件として人力車は華美にしないこと、事故を起こした場合には処罰する旨があった。この許可をもって「人力車総行司」と称した。人力車を新たに購入する場合にはこの3名の何れかから許可をもらうこととなったが、後述のとおり数年で有名無実となってしまう。同年、人力車の運転免許証の発行が開始されている。
人力車は安全性の高さと運賃の安さ、玄関先まで届けられるという小回りの良さが大衆に受けて急速に普及し、1872年までに、東京市内に1万台あった駕籠は完全に姿を消し、逆に人力車は4万台まで増加して、日本の代表的な公共輸送機関になった。これにより職を失った駕籠かき達は、多くが人力車の車夫に転職した。1876年には東京府内で2万5038台と記録されている。19世紀末の日本には20万台を越す人力車があったという。人力車夫は明治期都市に流民した下層社会の細民の主要な家業となり、明治20年代には東京市内に4万人余も存在したが、その後都市交通の発達により数を減少させていった。また、人力車夫の中には女性もいたといわれている。初期の人力車は、箱に車輪を取り付けただけの単純な構造であったが、日進月歩で改良されて、凸凹道でも耐えうるスプリング付きの車輪が登場するようになり、木輪はゴム輪に変わり、その後空気入りのゴムタイヤへと改良されていった。
また、1870年代半ばより中国を中心として東南アジアやインドに至るアジア各地への輸出が始まり、特に東京銀座に秋葉商店を構えた秋葉大助はほろや泥除けのある現在見るような人力車を考案し、性能を高め贅を凝らした装飾的な人力車を制作し、その多くを輸出して大きな富を得た。他方、当初人力車の製造と使用を許可された和泉たちは激増する車夫たちすべてから使用料を取ることができず、また当時の特許制度(「専売略規則」)の不備・使いにくさもあいまってほとんど利益を上げることができなかった。この事実が、後に日本に本格的な特許制度の誕生をうながした。
その後、都市部で路面電車が普及し、自動車が日本に登場するようになる。タクシーが出現するようになると、衰退の一途をたどるようになり、大正時代には人力車の姿はほとんど見えなくなった。近年になって、観光地で明治時代の文化であった人力車を復活する動きが出て、観光客向けにサービスを提供するようになっている。