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フォード・モーター エドセル(Edsel )

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フォード・モーター エドセル(Edsel )
エンジン:6719cc 馬力:345HP

エドセル(Edsel )はアメリカのフォード・モーター社が1957年から生産していた自動車のブランド名。

 

フォードvsフェラーリ (吹替版)   Matt Damon  

 


1950年代当時のフォード・モーター社のブランドは、大衆車ブランドのフォード(英語版)と高級車ブランドにあたるリンカーンの間の中級価格帯が大きなギャップとなっていたが、1938年には中級車種としてマーキュリーが新設され、第二次世界大戦後もこのラインナップは維持されていた。だが当初、フォード・モーターのデラックスモデルの上位相当であったマーキュリーは、1949年以降はむしろリンカーンに近いアッパーミドルクラスの価格帯を占めるようになっており、新たなギャップが生じつつあった。フォード・モーター副社長のアーネスト・ブリーチ(英語版)は、このマーキュリーとフォードの間に生じた中級価格帯のギャップを埋めるモデルが必要であると1950年代初期から考えていた。

部門再編が行われている中、エドセルはフォードとマーキュリーの間に位置する中級車という位置付けとされ、同様の位置づけのもと好調な販売を続けていたゼネラルモーターズのポンティアックやオールズモビルなどに対抗して、フォード・モーターの車種の多様化を行うという目的のもとにフォード社内で一から立ち上げられたブランドである。これに伴い、フォード社内での独立部門(エドセル・ディヴィジョン)立ち上げ、新型車開発、ディーラー網整備などが進められた。

 

24時間戦争   AJ・ベイム  

 

フォード・モーターはエドセルを展開する事でGMとクライスラーの市場シェアを大幅に奪取し、米国内におけるGMとのギャップを埋める事を期待していた。フォード・モーターは米国の消費者がエドセルが未来の車であると信じるよう、1年に渡るティーザー・キャンペーンに大いに投資したが、それが却って大きな失敗を招く要因となった。エドセルが一般公開された時、米国市場と消費者にはエドセルが魅力的ではなく、高価であり、その前評判はフォード・モーターによって過大評価されたものだと受け止められた。エドセルは米国の自動車購買層の支持を得る事は出来ず、売れ行きは大いに低迷、フォード・モーターはエドセルの開発・製造・マーケティングに関して1983年当時の換算で250万米ドルにものぼる損失を被った。

その結果、今日では「エドセル」の名称は、企業が極めて多額の宣伝広告を行いながらもそれが消費者から全く受け入れられずに、商業的な大失敗を招いてしまった事例を象徴する代名詞となってしまった。

 

ラッシュ/プライドと友情(字幕版)   ダニエル・ブリュール  

 


1956年1月17日、フォード・モーターはフォード家(の手を離れ、法人化された。これにより、フォード・モーターは戦後の市場原則に従い、現時点での市場動向に基づいた自動車販売を行えるようになった]。フォード・モーターの新経営陣は社内のロースター(英語版)の見直しを行い、それまでの同族経営的体質を改め、GMやクライスラーに準じたものとされた。同時に、フォード・モーターのフラッグシップであったリンカーンは当時の経営陣からはGMのキャデラック部門やクライスラー内のインペリアル部門に対抗できるだけの力が無く、GMのオールズモビル部門、或いはクライスラーのビュイックとデソート部門に対抗できる程度であると判断された。フォード・モーターはそれまで自社の製品ラインの中で高級車の地位を担っていたリンカーンに代わる新たな高級車部門を創り出す計画を策定し、1956年にはリンカーン部門内に新たにコンチネンタル部門を分立させ、コンチネンタル・マークII(英語版)を投入したが、思わしい効果が上がっていない状況であった。

新たな中級車の開発は1955年後半に実験的(Experimental)を意味するEカーのコードネームで開始され、フォード・モーターはこの計画に対してブランド名「Edsel」(実際の発音は「エゼル」に近い)を与えた(息子のヘンリー・フォード2世(英語版)からの反対にも関わらず)。これは、フォード・モーター創業者ヘンリー・フォードの息子で1919年からフォード・モーター2代目社長を務めたエドセル・フォードに敬意を表したものである。エドセル・フォードは社長時代、リンカーンへの様々なテコ入れやマーキュリーブランドの新設などで1930年代フォード・モーターの経営建て直しを進めた功労者で、流麗なパーソナルカー「リンカーン・コンチネンタル」の開発も自ら起案した粋人であったが、病弱だったうえ、第二次大戦中にフォード・モーターが担ったB-24爆撃機工場建設という難事業のストレスも抱え、1943年に病死している。エドセル発売時のフォード・モーター社長ヘンリー2世は、エドセル・フォードの長男に当たった。エドセルという車名には、社長のヘンリー2世をはじめ創業家のフォード一族が反対していた。ヘンリー2世は「自分の父親の名前を(大量に生産される自動車の)ハブキャップに付けて回転させたくない」と不快の念を示したという。マーケティング部門や広告代理店も、車名としては決して響きのよくない「エドセル」案には否定的で、一般受けのする代案を多々提示したが、この時提案された新事業部の名称や車種名のいくつかは、フォードだけではなく、リンカーンやマーキュリーの車名に共有されたものもあった。「エドセル」案を推進していたのは、ほかならぬ新中級車開発を推進してきたアーネスト・ブリーチらであり、最後にはそれが通ってしまった。

 

南へ行けば(字幕版)   レア・セドゥ  

 

エドセルは、フォード・モーターで開発された共通のプラットフォームは使うものの、デザインに変更を加えて別ブランドで売るという、フォード・モーターがこれまでに行い一定の成功を収めてきた手法を取り入れ、綿密なマーケティング計画を元にフォード・モーターの社運をかけて開発された。フォード・モーターは後にエドセルについて、新しい車の計画とデザインを含む製品開発において市場調査が重要とされるならば、エドセルは後年のフォード車のそれと比べて遙かに多くの費用が投じられたと主張した。フォード・モーターは投資家やデトロイトの報道陣に対して、エドセルは結果としてオールズモビルやビュイックと競争できるだけの優れた製品とはならなかったが、そのスタイリングと仕様書の詳細自体は、当時の一般大衆の幅広い欲求を本質的に満たしうる、洗練された市場分析と研究開発の努力の産物だったと述べた。

フォード・モーター自身の宣伝により発売日の1957年9月4日は「Eデー」と銘打たれた。1957年10月13日には、フォード・モーターはエドセルの販促の為だけにCBSの特別番組枠を取得し、「ザ・エドセル・ショウ(英語版)」という1時間に渡る宣伝番組を全米に向けて放送した。しかしこうした宣伝努力も、販売初期に生じたエドセルのスタイリングと製造品質に対する一般大衆の悪印象を払拭するには十分ではなかった。後日の宣伝ではエドセルは「(1940年に消滅していたキャデラックの下位部門である)ラ・サール(英語版)の生まれ変わり」であるとも主張された。フォード・モーターは数ヶ月にわたり業界紙を通じて、ラ・サールの消滅により失われた大きな需要がある事を市場調査を通じて「知っていた」と主張し、自動車を初めて購入するエントリーユーザーがエドセルを選ぶ事を期待して、「全く新しい種類の車」を造り上げたと主張した。しかし、実際にはエドセルはその機構と車体形状の多くを他のフォード車と共有していた為、素人でも一目見れば類似点は明らかであった。

 

#4 ル・マンを制したジャガーDタイプ   ---  

 

エドセルは新たな部門としてフォード・モーター内に創設され、フォード部門、マーキュリー部門、リンカーン部門、そして同時期に新設され共に短命に終わったコンチネンタル部門と共に販売された。各部門はそれぞれ独自の小売組織とディーラー網を有していた。自立したエドセル部門は1956年11月から1958年1月まで存在し、その後のエドセルの販売及びマーケティング部門は、マーキュリー-エドセル-リンカーン部門(各部門の頭文字を取りMELと略される)に統合された。当初、エドセルは約1,187店のディーラー網を通じて販売され、これによりフォード・モーター製品を売るディーラーは総数で10,000店を超える事となった。当時、フォード・モーターが目標としたクライスラーは約10,000店、GMは約16,000店を擁していた。しかし、それらのディーラーの多くは程なくエドセルの販売をやめ、リンカーンやマーキュリー、あるいは後に追加されたイギリス・フォードやドイツ・フォード(英語版)の車種を売る店となり、一部はそのまま閉店した。


1958年のモデルイヤーの車種として4つのサブモデルの生産が開始された。サイティーションとコルセアは大型のマーキュリーがベースとされ、ペーサーとレンジャーは小型のフォードがベースとされた。サイティーションは2ドア及び4ドアハードトップと2ドアコンバーチブルが用意され、コルセアは2ドア及び4ドアハードトップのみ。ペーサーは2ドア及び4ドアハードトップと4ドアセダン、2ドアコンバーチブルが用意され、レンジャーは2ドア及び4ドアのハードトップまたはセダンの構成であった。9人乗り4ドアワゴンの最上位モデルで木目調外装を有したバミューダ(英語版)と普及モデルのヴィレジャー、入門モデルである6人乗り2ドアワゴンのラウンドアップは、それぞれ当時のフォード製ステーションワゴンと同様に116インチ(2,946 mm)のホイールベースを持ち、レンジャーやペーサーと内装や機能を共有していた。

 

アメリカン・スナイパー(吹替版)   ブラッドリー・クーパー  

 


1958年式エドセル・レンジャーのダッシュボード。自動変速機のシフトはこの時代のアメリカで短期間流行ったボタン操作式だが、テレタッチと称されたエドセルのそれは、ステアリング中央に電話機のように円周状にボタンを配置という類例の無い物で、スピードメーターも回転ドーム式というギミックの極致だった。
エドセルのメカニズム自体は、当時の中級以上のアメリカ車で標準的なレイアウトである、前輪独懸、V8エンジンにATを合わせたホチキス・ドライブ方式のFRという堅実な構成であるが、インパクトの強いボディデザインと多くの新機構・アクセサリーを備え、市場へのアピールを図った。ドーム状の円盤が回転するスピードメーター、押しボタン式電話機にも似たテレタッチ(英語版)AT操作盤(従来型のコラムシフトはより低価格で購入できた)、メーターパネル内に収められた方位磁針とダイヤル式カーエアコン操作盤のような、ギミック的な要素が強い機能ばかりが注目されがちであるが、エンジンオイルの油量警告灯、パーキングブレーキ警告灯、燃料残量警告表示灯、水温計ではなくエンジンの温間と冷間を示す警告灯の装備[9]、人間工学的に設計された操縦装置とブレーキシュー隙間の自動調整式ドラムブレーキ(フォード・モーター自体は業界初としていたが、実際はスチュードベーカーがエドセルの前の10年間で導入していた)、シートベルトの標準装備(当時多くのメーカーではオプション扱いであった)、メインキーのみで開閉できる「チャイルドロック」に相当する機能を有したリアドアロック、ダッシュボードのキー操作のみでトランクリッドを開けるリモートオープナー機能など、2016年現在のファミリーカーではごく当たり前となった革新的な機構を多数備えていた。

 

逃亡者 (字幕版)   ハリソン・フォード  

 

フォードとマーキュリー、リンカーンとは異なり、エドセル部門は専用の製造工場を持っておらず、全てのエドセルはフォードまたはマーキュリーの工場に製造が委託された。こうして、鳴り物入りで販売が開始されたエドセルであったが、その結果は惨憺たるものだった。

エドセルはその大きな期待にも関わらず、初年度に米国で63,110台、カナダで4,935台が販売されたに留まった。米国の自動車産業市場では2番目に大きな立ち上げキャンペーンが行われたにも関わらず、初年度の販売台数では1929年に創設されたデソート以下となってしまった。

1959年型エドセルは、フォードベースのレンジャーとコルセアのみが投入され、より大型のマーキュリーベースのエドセルであるサイティーションとコルセアは廃止された。最上位のフォードをベースとしていたペーサーをコルセアと名を改める形で販売継続し、このコルセアは2ドアと4ドアのハードトップ、4ドアセダン、2ドアコンバーチブルの構成で販売された。レンジャーは2ドア及び4ドアハードトップ、2ドアと4ドアセダン、そしてステーションワゴン版のヴィレジャーとして販売された。独立車種であった3種のステーションワゴンは全て廃止され、辛うじてヴィレジャーのみがレンジャーの派生グレードとして残った形である。1959年式エドセルは、発売後わずか1年しかたっていないにもかかわらず大幅にデザインが変更されたが、グリル中央の馬蹄型モチーフは形を変えつつも維持された。販売は好転せず、1959年型の北米販売実績は4万8,000台足らずに落ちた。販売台数は米国で44,891台、カナダで2,505台である。

1960年型エドセルは、結局1958年型以来のシャーシとホースカラー・グリルを捨て、マーキュリー・フォードのバッジエンジニアリングで急遽用意された1960年型を短期間、わずかに2,846台を製造した。1960年式は護衛車両(英語版)として生産された車体以外は全てケンタッキー州ルイビルの組立工場で生産された。販売車種はレンジャーのセダン、ハードトップ、コンバーチブル及びステーションワゴンのヴィレジャーのみまで縮小された。1960年式エドセルは基本的なシャーシ、ガラス(英語版)、及び主要なボディパネルを同じルイビル工場で生産された1960年式フォード・ギャラクシーおよびフェアレーン(英語版)と共有していた。しかし、この年式のエドセルは独特のグリル、フード、4つの直立した長方形のテールランプ、ボディ側面のスイープ・スピア形状のモールディング(英語版)が装着された。フロントとリアのバンパーも独特であった。1960年式エドセルは120インチ(3,048 mm)のホイールベースを持ち、同年式のフォードで一般的なホイールベースの119インチ(3,022 mm)スパンと比較しても異なるリアサスペンションを使用した。しかし、エンジンと変速機は共用であった。

 

遊星からの物体X (字幕版)   カート・ラッセル  

 

1960年式エドセル・レンジャーの4ドアハードトップは、フォード・フェアレーン4ドアセダンの細いピラーを用いたルーフラインが排他的に採用されており、ギャラクシー系列をはじめとする他のフォードの4ドアハードトップの「四角い」ルーフラインとよく対比される。後部ドアと内装パネルにはギャラクシーの4ドアハードトップのものが用いられ、これによってエドセルの4ドアハードトップは、1960年代の他のどのフォード車にも見られない独特のボディスタイルが形成された。

 

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