大井宿(おおいじゅく)は中山道の46番目の宿場。美濃国恵那郡大井村(現・岐阜県恵那市)に存在した。
江戸方から、横町・本町・竪町・茶屋町・橋場と5町があった。それぞれの町は6ヶ所の枡形によって区切られていた。
大井宿から槙ヶ根追分を経て、下街道を利用する旅人も多かった。なお、川越街道の大井宿(埼玉県ふじみ野市)とは別物である。
美濃路随一の宿場
大井宿は中山道69次のうち、江戸から数えて46番目の宿場町です。
かつては美濃路随一の宿場として栄え、全国でも9番目の盛況ぶりだったそうです。格式高い本陣の門や格子戸のある庄屋宅、うだつと黒壁の美しい旧家などが静かにたたずみ、当時のにぎわいを見せた大井宿の様子がしのばれます。
大井宿の特徴
宿場内には、敵の侵入を防ぐため道が直角に曲がる「桝形(ますがた)」が6ヵ所造られています。これほどたくさんあるのは中山道の宿場でここだけ。また大井宿本陣(大名などの宿泊所)は1947(昭和22)年に全焼しましたが、表門・庭園は今も残っております。
なお2000(平成12)年には、江戸時代の豪壮な庄屋古山家住宅を市が復元整備した「中山道ひしや資料館」がオープン。町屋の建物を肌で感じながら、街道や宿場の知識を深めることができます。
概略
尾張藩領(1843年)
人口:466人
家数:110軒
本陣:1軒
脇本陣:1軒
旅籠:41軒
満足和歌集にある岡田善政の大井宿
江戸幕府の旗本で笠松陣屋で美濃国の幕府領を管理していた岡田善政が満足和歌集に大井宿のことを書き記している。
「まさしくたもつといふ年の三年(正保三年)葉月はじめのほど、江戸を出侍り、十六日まごめの峯くだるより、みのゝ國を見おろして、今ぞ心おちゐにける。その夜は大井の里にとまる。此所は慶長の末つかたまでは、伊勢の翁(善政の父の善同)のあづかり所にて、たびたびきかよふ里なり。今やどる家のあるじも、むかしのずさなり。ふる人も此家にやどりなれ給ひてしとおもひ出づれば、庭のやり水かけとまる心ちらして涙もよゝと流れそひぬ。物語に、あかしのあま君、おやそんわうの後を尋ねて、年へてのぼり住みける都にちかき大井の宿、むらさき式部が筆のすさびも思ひ出られて」 「くみてしる都の宿のあはれさは こゝも大ゐの里のいさら井」
中山道ひし屋資料館
中山道ひし屋資料館(なかせんどうひしやしりょうかん)は、岐阜県恵那市にある資料展示施設である。
中山道大井宿の有力な商家・庄屋であった古山家(屋号:菱屋)の住居を改修・復元した施設であり、2000年(平成12年)9月開館。
建物は明治初期に改築されているが、近世の大規模町屋建築の特色が残っており、1997年に恵那市の文化財に指定されている。この建物は明治時代には郵便取扱所や恵那郡役所掛所として使用されている。
館内の展示物は俳諧の古文書、大井宿やその周辺の村に関する資料である。
ほぼ当時のままの建物自体が展示の中心である。また、茶室借りることも可能。
明治天皇大井行在所
中山道大井宿の旅籠であった伊藤家は、明治13年の明治天皇巡行の際にご宿泊所となり、現在でも当時の座敷、風呂場、便所がそのままの姿で保存されています。同時に、江戸時代から明治初期にかけての町家の姿をよく残しており、建築史的にも貴重なものです。
行在所横には、大井宿本陣の北門とも、岩村城の城門であったとも言われる長屋門が、古屋家から移設され新たな見どころの一つとなっています。
上宿石仏群
高札場
本陣跡(岐阜県指定史跡)
中山道ひし屋資料館(大井村庄屋古山家)
宿役人の家(林家)
白木番所跡
中山道広重美術館
西行硯水公園
大湫宿までの史跡・みどころ
西行塚
槙ヶ根一里塚
槙ヶ根立場
深萱立場跡
名古屋城下に至る下街道(したかいどう)との追分であった。
最寄り駅
JR中央本線・明知鉄道明知線 恵那駅