豊川 順彌(とよかわ じゅんや)は1915年のアメリカ留学が機会となって、機械工学を学ぶうちに自動車の魅力に取りつかれ、帰国して自動車製造を志した。「日本内燃機」を設立する蒔田鉄司らの優秀な人材を集め、研究・試作を続け1921年に空冷780ccと水冷1610ccの2種類の「アレス」号の試作を完成させた。オートモ号には日本の国情にあった小型車には空冷エンジンがふさわしいと考えて4気筒の空冷エンジンを搭載した。
当時はまだ世界的にも珍しかった空冷アレス号は1924年、豊川家の先祖の姓「大伴」と'Automobile'をかけて「オートモ号」と改称され、発売された。オートモ号は東京 - 大阪間40時間ノン・ストップ走行の成功、東京・洲崎で行われた自動車レースに唯一の国産車として出走し予選1位、決勝2位の好成績を収めるなどその高性能と信頼性を大いにアピール、販売面でも女優の水谷八重子らをモデルに起用したカタログを作る等の努力を行い、日本製乗用車として初めてまとまった数が生産されることとなり、1927年までに約300台が生産され、上海へ輸出もされた。
オートモ号の販売は成功とはいえなかった。当時の日本の乗用車市場はアメリカ車にほぼ独占されており、経験も規模も劣る白楊社は対抗するすべを持たなかったのだ。1928年、白楊社は解散を余儀なくされる。それでも、苦心の末にオートモ号を製造したことは、日本の自動車産業にとって大きな資産となった。開発に関わった池永羆、大野修司、倉田四三郎らは後に豊田自動織機製作所自動車部に結集し、蓄えたノウハウを存分に発揮することになる。
幌型3人乗りで、全長3メートル、幅約1.2メートル、高さ約1.6メートル、重量約450キログラム。
(国立科学博物館所蔵)