旧海軍燃料タンク基地が呉市広町虹村にありました。現在の広多賀谷地区にあたり1926年(大正15年)から1942年(昭和17年)にかけて、約120基(1基の容量5,000~10,000トン)の水蓄式重油槽が建設されました。
虹村の地層が約40mの粘土層だったことと地下水位が水位が適当だったため従来の地上タンクではなく水蓄式重油槽が採用されました。
戦争遺構としては「水蓄式油槽鉄蓋」が旧呉鎮守府長官官舎の敷地内にあります。
水蓄式重油槽の現存するものは殆どありませんが一部が工場や私有地の敷地内に残っています。
また虹村公園のグラウンドには円形の染みのような模様が埋め立てられた水蓄式重油槽が土地の沈下等によって現れており重油槽跡として確認できます。
旧海軍燃料タンク基地のあった周辺では円形の模様が数多く見ることが今でもできます。
広油槽所は海軍技師、真島健三郎(当時 呉海軍経理部建築科長)より考案された水蓄式重油槽群でした。重油槽の底部はコンクリートで覆わず、砂礫層のままとしているのが特徴で湧出する地下水を底とし、その上に重油を浮かべる構造でした。
油槽のあった広町虹村の地下水位は海面とほぼ同じなため、蓄える油の量にかかわらず、液面は常に一定となる。 また、この油槽は丸いコンクリートの枠を自然沈下させ、内部の土砂を取り除き、順次枠を上に継ぎ足す工法により建築されている。 通常は大型の地上タンクが設置できない軟弱な土地であるが、その特性を逆手に取った工法・貯蔵法でした。
真島健三郎は小野田セメントの協力を得て1901年(明治34年)から1902年(明治35年)にかけて水雷艇船渠築造の主任として、当時まだ採用を危ぶまれていたコンクリート造建物の施工に携わり成功を収める。
また1908年(明治41年)繋船堀築造の際には海水に全面が触れるコンクリートを使用し問題ないことを確かめるなど、RC構造技術の先駆者として多くの重要な業績をあげた人物です。香川県出身。