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ブルーインパルス(曲技飛行隊・航空自衛隊)

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ブルーインパルス(Blue Impulse)は、航空自衛隊に所属する曲技飛行隊(アクロバット飛行チーム)の愛称である。
当初は部隊の中の1チームという位置づけであったが、1995年には正式に1部隊として独立した。正式部隊名は第4航空団飛行群第11飛行隊で、広報活動を主な任務とし、展示飛行を専門に行う部隊である。世界の曲技飛行隊の中でも、スモークを使用して空中に描画を行う、いわゆる「描きもの」が得意なチームとして知られている。
旧日本陸海軍が行なっていた曲技飛行(アクロバット飛行)の歴史も含めた上、第11飛行隊の体制についても解説する。また、第11飛行隊では、ブルーインパルスがイベント等で行う飛行のことを「展示飛行」、展示飛行の開催地に向かうことを「展開」と称している。なお、航空交通管制における編隊のコールサインは、愛称がそのまま用いられている。


T-4時代(1995年以降)
独立した飛行隊として発足
1989年ごろから進められていた新しいブルーインパルスの準備にあたって、関係者は「展示飛行を専門とする独立した飛行隊」を設けることを考えた。
T-2の時代まで、ブルーインパルスのパイロットは教官と兼務する形態で、パイロットの負担が大きくなるが、独立した飛行隊とすることによって、航空祭などのイベントがある週末は忙しくなるものの、週明けには休暇が取得可能となる。また、ブルーインパルスのパイロットになることによって戦闘機パイロットとしての生涯飛行時間を削ることになるという問題についても、任期を3年と約束し、任期終了後はもとの部隊に戻る体制とすることによって、ブルーインパルスの任務に対して士気が保たれる。さらに、教官と兼務ではブルーインパルスのメンバー養成にも支障をきたすことがあり、これを解決するためにも独立した飛行隊にすることが必要と考えられた。


展示飛行専門の飛行隊を新規に創設することは容易ではなかったが、折りしも1990年代は災害派遣や国際貢献などで自衛隊が活動する機会が増加しており、自衛隊に対しても国民からの理解が深まっていた時期で、自衛隊は広報活動に対して、より積極的になっていた。
こうした背景から、前述の問題点を解決して安全で効率の良い運用を行うため、展示飛行専従の部隊として独立することが認められた。1992年11月6日にはブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ、2,135作品が集まった。その中から、精神科医で飛行機ファンとしても著名な斎藤章二のデザイン案が採用された。また、展示飛行の課目についてもT-4の性能を生かした内容が検討された。
1994年10月1日には松島基地第4航空団に「臨時第11飛行隊」が編成され、翌1995年7月30日には研究飛行と称するアクロバット飛行が松島基地航空祭において一般公開され、T-2のブルーインパルスと競演した。同年11月12日には百里基地で一般公開された航空訓練展示でもT-2のブルーインパルスと競演したが、この時はブルーインパルス塗装のF-86Fも展示されたため、3世代のブルーインパルスが同時に展示されることになった。同年12月22日、第4航空団第21飛行隊内の戦技研究班が解散すると同時に、「臨時」のない第11飛行隊が制式飛行隊として発足した。
こうして、1996年4月5日の防衛大学校入学式で航過飛行(フライバイ)による展示飛行、1996年5月5日に岩国基地で開催された「日米親善デー」ではアクロバット飛行による展示飛行を皮切りに、新しいブルーインパルスの活動が開始され、この年度は22回の公式展示飛行が行なわれた。
初の国外遠征
第11飛行隊として発足した翌年の1996年、アメリカ空軍からブルーインパルスへ、アメリカ空軍創設50周年を記念してネバダ州のネリス空軍基地において行なわれる航空ショーである「ゴールデン・エア・タトゥー」 (GOLDEN AIR TATTOO) での展示飛行の招請があった。これに対して検討を行なった結果、1億数千万円を投じて、ブルーインパルス史上初となる国外への展開が決定した。
しかし、アメリカでは観客の方向に向かって飛ぶことは禁じられており、高度制限もアメリカの方が厳しいなど、日本とアメリカでは展示飛行の基準が異なっていた。アメリカ連邦航空局 (FAA)の係官が来日し、松島基地でアクロバット飛行の内容をチェックしたが、さまざまな懸案が指摘された。これに伴い、課目についても進行方向を変えたりするなど、部分的な変更を迫られた。
ブルーインパルスが運用するT-4には太平洋を横断するだけの飛行能力はなく、輸送船に船積みした上で海上輸送することになり、1997年3月4日からアメリカ本土への移動が開始された。まず陸上自衛隊の木更津駐屯地まで機体と機材を輸送し、そこで輸送船にクレーンで船積みされ、同年3月10日に木更津港を出港した。パイロットが渡米するまでは訓練に使用できる機材がないため、第1航空団と第4航空団の教育集団から通常仕様のT-4をリースして訓練を行なった。
機体は同年3月28日にカリフォルニア州サンディエゴのノースアイランド海軍航空基地に到着し、同年3月26日に成田を出発した整備員が受領し、整備が行われた。パイロットは4月5日に松島基地を出発し、4月6日に成田から出発、現地で整備員と合流し、4月10日にネリス空軍基地へ向かった。ネリス空軍基地ではサンダーバーズが使用する空域を使用した訓練が行なわれたが、標高が高いことから気圧が低く、空気密度が低いためエンジンのパワーが落ち、編隊を組むのも容易ではなかったという。また、砂漠での訓練飛行は地上目標物が少なく苦労したという。
「ゴールデン・エア・タトゥー」は1997年4月25日・26日に開催され、アメリカ空軍のサンダーバーズのほか、カナダ空軍からはスノーバーズ、ブラジル空軍からはエスカドリラ・ダ・フマサ、チリ空軍からはアルコネス]、そして日本からブルーインパルスと、5カ国のアクロバット飛行チームが競演することになった。
サンダーバーズのような迫力はなかったものの、正確で緻密なパフォーマンス、日本とは全く異なる環境であるにもかかわらずトラブルのなかったブルーインパルスの整備・支援体制は、参加した軍関係者からも高い評価を得られた。この時に披露された課目のうち、ブルーインパルスのオリジナル課目である「スター&クロス」については、最初のうちは5機がバラバラの方向にスモークを引いているようにしか見えず、ほとんどの観客は意図が分からなかったという。しかし、スモークが伸びるにつれ、会場にいた子供の「スター!」という声があちこちから聞こえだした。アメリカ空軍のみならず、アメリカ合衆国そのものの象徴でもある星が空中に描かれると、観客からは絶賛されたという。
会期終了後、4月28日にネリス空軍基地からノースアイランド海軍航空基地へ移動し、そこで再度船積みを行なって5月6日に出港、松島基地に帰還したのは5月28日であった。
このアメリカへの展開は3ヶ月に及んだため、この1997年の展示飛行回数は15回にとどまった。なお、この年には松島基地に新しい隊舎が完成した。

1990年代後半
1998年には長野オリンピック(長野五輪)の開会式上空における航過飛行(フライバイ)の要請を受けた。東京五輪とは異なり「五輪を描く」ことはなかったものの、開会式の会場が冬期の山岳地域であり、会場が冬期迷彩のように視認性に劣るため[123]、会場の脇には移動式TACANが設置された。また、開会式当日は第11飛行隊の飛行隊長が会場から無線で編隊に直接指示を送る体制をとった。開会式当日、ベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章の演奏・合唱が終了すると同時に、会場上空で5色のスモークを引きながらレベルオープナーを披露した。
同年7月には松島基地にブルーインパルス専用の格納庫と「ブルーインパルス・ミュージアム」が完成、同年7月27日の松島基地航空祭において「お披露目式典」が行なわれた[101]。
1999年からはカラースモークは使用されなくなった。一方、1982年の事故以来、浜松基地の航空祭では水平系の課目しか行われていなかったが、この年の11月14日には浜松基地で行われた「エアフェスタ浜松」においては、17年ぶりに垂直系の課目を含めた展示飛行が行われた。
飛行隊として独立してから、部隊運用や管理はスムーズに行なわれており[125]、全国の航空自衛隊隊員にとって、ブルーインパルスは魅力的な部隊となった。
40周年目の事故
ブルーインパルスが40周年、第11飛行隊も5周年となる2000年は、岩国基地で行われたフレンドシップデーなどで、「2000」という文字を描くなど、ブルーインパルスが得意とする「描きもの」が展示飛行に採りいれられた。
ところが、同年7月4日、金華山沖での訓練を終えて帰投する途中、5番機と6番機が宮城県牡鹿郡牡鹿町(当時・2005年以降は石巻市)の光山山頂付近に墜落、3名が殉職するという事故が発生した。この事故直後からブルーインパルスは活動を停止、同年7月末に予定されていた松島基地航空祭も中止となった。
事故原因は海霧の中で高度を下げすぎたのが原因とされたが、1991年の同じ7月4日にも墜落事故が発生しており、その日がどんな日であるかはブルーインパルスのメンバー全員が分かっていたにもかかわらず発生してしまった事故であった。しかも、この事故では墜落地点が女川原子力発電所に近い地域で、女川原子力発電所の半径3.6kmに設定されていた飛行禁止区域をかすめて飛んでいたことが問題視され、周辺自治体の一斉反発を招いてしまった。
このため、航空自衛隊では、訓練空域や松島基地への進入経路を一部見直した上で飛行最低高度を設定するなどの安全対策を実施し、自治体との話し合いを続けた結果、2001年2月9日から訓練飛行を再開した。単独機である5番機と6番機の要員を失ったブルーインパルスの建て直しのため、第11飛行隊発足当時のメンバーであったパイロットが一時的にブルーインパルスに教官として復帰し、パイロット育成を実施した。また、機体も2機が失われてしまったが、通常2機が川崎重工でIRAN(定期検査)に入っているため、6機での展示飛行は出来なくなってしまった。
それでも、同年8月26日の松島基地航空祭から展示飛行が再開された。同年9月9日の三沢基地航空祭ではアクロバット飛行を含む展示飛行も行われたが、同年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の発生により、その後の展示飛行はすべて中止となった。
2002年4月5日に行われた防衛大学校入校式から活動を再開したが、これがT-4ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行となった。また、6月4日に行なわれたFIFAワールドカップ会場の埼玉スタジアム2002上空でも航過飛行(フライバイ)を行なった。同年中には2001年度予算案で2機の調達が認められた[128]ことから、9月までに2機のT-4が引き渡され、再び6機での展示飛行が可能となったのは同年12月1日の岐阜基地航空祭からであった。
この期間はパイロットのローテーションが変則的となり、3年という本来の任期を越えて在籍したパイロットもいた[128]が、2003年にはほぼ以前と同様の状態に戻すことが出来た。

自衛隊では航空祭のみ活動する臨時の曲技飛行隊が複数存在するが、ブルーインパルスは唯一常設の曲技飛行隊である。
前述の通り、ブルーインパルスは当初「飛行隊の中で曲技飛行(アクロバット飛行)を担当する1セクション」という扱いで発足している。このことを踏まえ、本節では第11飛行隊として設立された1995年12月以降の体制について記述する。

組織
第11飛行隊の内部組織は、飛行隊長を頂点とし、その下に飛行班・整備小隊・総括班という3つの部署が設置されている[160]が、これは他の航空自衛隊の飛行隊と同様である。
第11飛行隊特有の特徴として、パイロットと整備員については任期が3年と定められていることが挙げられる。これは、実戦部隊を離れたがらないパイロットが多い事に配慮し、3年間という条件をつけることによって第11飛行隊への選出を行ないやすくするためである。また、飛行班・整備小隊においては階級が「空士」の隊員は存在しない。これは、空士は二等空士・一等空士・空士長とも任用期間が3年に限られており、第11飛行隊の3年という限られた任期の中では、他の部隊で行われているような新人養成や空曹への昇進試験などに時間を割く余裕がないための配慮である。
通常の制服のほかに『展示服』と呼ばれる、展示飛行の際に着用するための専用の制服や飛行服が用意されていることや、整備員とパイロットの連帯感が強いことも特徴である。相互の理解を深めるため、訓練時にパイロットが他のポジションの後席に同乗する機会を設けている。

飛行班
飛行班長以下、1機あたり1〜3人のパイロットが在籍する。パイロットは「ドルフィン・ライダー」と呼ばれており、パイロットスーツの左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN RIDER" と記されている。1番機については飛行隊長と飛行班長の両方が担当する期間もある[129]が、2番機から6番機までは交代要員としてのパイロットは存在しない。第11飛行隊は展示飛行の任務しか行なわないため、日常のミッションはアクロバット飛行やウォークダウン・ウォークバックの訓練となる。
自衛隊では珍しく所属するパイロットの個人名が紹介されている。
3年間という任期が定められており、任期の3年の内訳は
1年目
TR(訓練待機、Training Readiness)として演技を修得する。展示飛行の際にはナレーションを担当したり、訓練のため後席に搭乗することがある。
2年目
OR(任務待機、Operation Readiness)として展示飛行を行う。
3年目
ORとして展示飛行を行いつつ、担当ポジションの教官としてTRのパイロットに演技を教育する。
限られた期間内で訓練と展示飛行をこなす必要があるため、途中での担当ポジションの変更は一切なく、また第11飛行隊に選出されたパイロット自身が担当ポジションを希望することも出来ない。左胸のネームタグもポジションナンバー入りとなっている。
パイロットの選出にあたっては、操縦技量が優れていることのほか、高度なチームワークが要求されるために協調性があることが求められている。また、広報活動が主な任務であり、航空自衛隊の代表として多くの観衆と接するため、社交性も要求される。なお、手当ては普通のパイロットと同様である[129]。ブルーインパルスへの異動は「本人の希望による異動」と「命令による異動」があり、2003年時点ではどちらかといえば後者の方が多かったが、2010年時点では本人が希望することが多くなっている。
それまでのTAC部隊では全くやったことのない操縦技術を習得せねばならず、最初はどのパイロットも戸惑いがあるという。また、TAC部隊で戦闘機を自在に操っていたパイロットにとっても、訓練内容は高度で厳しい内容であるといわれる。一方、訓練の中で編隊飛行の操縦技量等が著しく向上し、3年の任期を終了してTAC部隊に戻ると、空中集合の早さに同僚のパイロットから驚かれたり、「どうしてこんなに編隊が上手いの?」と質問されたりするという。これについて第11飛行隊の初代飛行隊長は「高度な操縦技術を3年間みっちり行なえば、一般の部隊に戻った後にフィードバックできることも多いはず」と述べている。
なお、展示飛行は日中にしか行われないが、技量維持のため1ヶ月に数回ほど夜間飛行訓練を行なっている。
基本的に過去の在籍者の再在籍は行われないが、事故による要員不足時に教官要員としての再在籍があった他、それ以外でも、要員の都合上異動から数年後に担当ポジションを変えて再在籍した例がわずかながらある。

整備小隊
地上クルーのうち整備を担当するのが整備小隊で、整備小隊長以下20人前後が在籍。整備員は「ドルフィンキーパー」と呼ばれ、整備服の左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN KEEPER" と記される。1機につき3名の機付整備員が配置され、そのうち1名が機付長として受け持つ機体についての作業を任されている]。他の部隊と異なり、機体を磨く作業が重要視されているのが業務内容の特徴である。航空祭などではエンジンスタートや地上誘導などを担当するだけではなく、展示飛行の際にはウォークダウン・ウオークバックを披露する。観客に背中を見せる機会が多いため、展示服の背中にはブルーインパルスのロゴも入っている。
パイロットと同様、任期は3年間を原則としており、通常は1月に着任して実務訓練を受ける。また所属隊員の個人名が紹介されている。

総括班
総括班長は2006年4月までは5番機のパイロットが兼務していたが、2006年4月以降は展示飛行を行なわないパイロットが選任されている[173]。パイロットであるため、ネームタグは飛行班と同じデザインで、7番機のポジションナンバーが入っている。
総括班は、飛行スーツやヘルメット、酸素マスクなどの維持管理を行う「救命装備員」(LIFE SP)、飛行計画(フライトプラン)を管理する「飛行管理員」(DISP)]、物品調達を行う「補給員」(SUPPLY)、その他の庶務を行う「総務員」(ADMIST)という業務内容で、航空祭の時にもパイロットや整備員と同行して展示飛行の準備を行うため、展示服が用意されている。

支援設備
格納庫(ハンガー)は1998年7月に建設された。緩やかなアーチ形状の屋根で、正面には "Home of The Blue Impulse" という文字が入れられておりハンガー内部の床面中央には直径10mほどの大きさでブルーインパルスのエンブレムが描かれている。
飛行隊舎は格納庫に隣接しており、1階には資料展示室があるほか、屋上には訓練を見学するための観客席が設けられている。
なお、同隊舎と格納庫は2011年3月の東日本大震災による津波で水没し損傷したが、駐機場と格納庫を約3,6メートルかさ上げし、格納庫には防水扉を設置。滑走路との間に長さ約200メートル、幅約23メートルの誘導路も新設した。
業務用車両として、現地クルーの移動支援用にトヨタ・ランドクルーザーとホンダ・アクティを導入していたが、2010年に日産・エクストレイルを導入した[186]後、ランドクルーザーは使用されていない]。いずれもブルーインパルスの機体と同じイメージの塗装が施されている。この他、ブルーインパルス専用のトーイングカーと電源車を保有する。なお、給油車については飛行群ではなく整備補給群の所属であるが、そのうち1台は「スモークオイル専用の給油車」で、松島基地にしか存在しない。

T-4(1996年以降)
3代目機体T-4は、その機体形状から「ドルフィン」の愛称もある国産の中等練習機である[204]。翼面荷重が260キログラムと小さく、エンジン推力に対する重量比もF-86FやT-2と比較すると大きく、低空での性能はF-15をも凌ぐ。このため、「360°ループ」のような高Gの連続課目や「バーティカルキューバンエイト」のような垂直系の高負荷課目が余裕を持って出来るようになった。
ブルーインパルスが運用する機体は戦技研究仕様機と称し、以下の点が通常仕様と異なっている。
発煙装置
胴体後方の第3燃料タンクを発煙油(スモークオイル)専用のタンクに転用している。発煙油の搭載量は約320リットル(85ガロン)で、通常の展示飛行1回で使用する発煙油は200リットル程度である。背面飛行などで機体の姿勢に変化があっても供給が途切れないように、発煙油のポンプはタンク内の上下2箇所に設けている。また、これに関連して、操縦席には発煙油の残量計・発煙油ポンプのスイッチ・スモークのON/OFFのトリガーが増設されている。
通常仕様のT-4では、速度が240ノット以上になると垂直尾翼の過荷重防止策として、方向舵の作動角が5度に制限されるラダー・リミッターが装備されている[208]が、戦技研究仕様機ではアクロバット飛行時の機動性を高めるため、作動角の制限を10度に拡大している。
バードストライク対策
低い高度を高速で飛行する機会が多いため、通常仕様では風防(キャノピー)は厚さ11ミリメートルのストレッチアクリル製であるが、戦技研究仕様機ではアクリルとポリカーボネートの4層構造として、厚さも25.4ミリメートルとなっている。これは、450ノットの速度で重量4ポンド(約1.8キログラム)の鳥とぶつかった場合にも損傷を防げる強度である。また、ヘッドアップディスプレイ (HUD) の表示板をガラス製から樹脂製に変更し、破損時の危険性を低下させているほか、操縦ケーブルが格納されている主翼前縁部にも防護構造を施している。
低高度警報装置
降着装置とフラップがともに収納されている場合に、設定した高度以下になると警報を促す装置を装備している。
こうした変更により、通常仕様のT-4とは大きく仕様が異なる。このため、F-86FやT-2と違い、原則として通常のT-4で訓練することができなくなった。2010年までに導入されたT-4戦技研究仕様機は、11機全機が新造機として取得され、後に2機が既存機の改修で追加されている。
機体の塗装は、T-2と同様に一般公募が行われ、応募された2,135点の中から、斎藤茂太の子でモデラーやF-4のファンとして知られる精神科医の斎藤章二によるものが採用された[98]。
なお、T-4導入後の1995年8月には、T-4の後継機としてF-2支援戦闘機の導入が俎上に上っており、1996年度の防衛予算案でブルーインパルス仕様として9機のF-2が計上されたが、認められなかった。


展示飛行
国立競技場のファイナルイベント、「SAYONARA国立競技場FINAL "FOR THE FUTURE"」での展示飛行(2014年5月31日)
展示飛行が行われるのは、各地の航空自衛隊の基地で行われる「航空祭」が主である[212]が、国民的な行事への参加などもみられる[213]。また、2010年ごろには、海上自衛隊や陸上自衛隊など、航空自衛隊の基地以外でのイベントへの参加もみられるようになっている。


ただし、民間航空と滑走路を共用している基地の場合、ブルーインパルスが展示飛行を行なっている間は一切の離着陸が出来なくなるため、展示飛行がみられないこともある。こうした基地で展示飛行が行われる場合、開催日のかなり前から民間航空会社へ協力を要請しており]、ノータム(NOTAM)と呼ばれる航空情報にもその旨運航関係部署に配信される。開催当日、民間航空会社側では配信された情報によって、出発地の離陸時間を調整したり、空港手前の旋回待機を行ったりしている。
また、飛行場以外の場所や、滑走路が短くT-4の離着陸が出来ない基地での展示飛行では、別の基地に展開を行ない、そこを拠点にして展示会場まで飛ぶ方法がとられており[213]、これを「リモートショー」や「リモート展示」と称している。

気象条件
ブルーインパルスの展示飛行内容は、気象状態や使用可能な空域などによって決められる。
アクロバット飛行の展示飛行は、視程(目視できる距離)が8キロメートル以上で行なわれ、雲底の高さ(シーリング)によって以下のように区分されている[218]。
第1区分
シーリングが10,000フィート以上
第2区分
シーリングが7,000フィート以上
第3区分
シーリングが5,000フィート以上
第4区分
シーリングが3,000フィート以上
この区分は、そのときの天候に応じた可能な限り高い区分での展示飛行を行なっているため、展示飛行中であっても天候の変化によって変更されることがある。
空域に制限がある場合や飛行場以外の会場で行われる展示飛行では、視程が5キロメートル以上確保でき、シーリングが3000フィート以上ある場合に「編隊連携機動飛行」と呼ばれる展示飛行が実施される。バンク角が90度を超えないような水平系の演目や、航過飛行(フライバイ)などを組み合わせた内容となる[213]。
また、視程が5キロメートル以上確保でき、シーリングが1500フィート以上ある場合は、航過飛行(フライバイ)が実施される。それ以下の気象条件では、ブルーインパルスの展示飛行は原則として行われない。

各機の役割
通常、展示飛行は予備機を含めた7機で展開を行う。予備機を除いた6機の役割は以下の通りである。
1番機(編隊長、Leader)
編隊の先頭を飛行する編隊長機で、編隊の隊形の基準になるため、正確な操縦が要求されるが、僚機の追従が難しいような操縦は出来ないため、慎重な飛行が求められる。すべてのメンバーを統率し、高度や安全の責任をすべて負う役割で、TAC部隊でも飛行班長クラスのベテランが担当する。
2番機(左翼機、Left Wing)]
隊形変換の際に移動の速さの基準となる役割を持つため、課目の見栄えを左右する。
3番機(右翼機、Right Wing)
チーム内で最も若いパイロットが担当する。2番機の動作に合わせて隊形の対称性を確保する役割がある。


4番機(後尾機、Slot)
後方から隊形をチェックする役割。1番機の後方に入り込むため、垂直尾翼に1番機のジェット排気が当たる状態となり、縦系統に動く課目ではうまく舵が合わないとキャノピーがジェット排気の中に入り込んでしまうため、「地獄の後尾機」とも称される、編隊で最も過酷なポジション。
5番機(第1単独機、Lead Solo)
1機のみで行う「ソロ課目」や、6番機とともに行う「デュアル・ソロ課目」を受け持つ。第2編隊長機としての役割もあり、1番機にトラブルが生じた場合は残りの機体を統率する。デルタ隊形の場合は4番機の左側に入る


6番機(第2単独機、Opposing Solo)
1機のみで行う「ソロ課目」や、5番機とともに行う「デュアル・ソロ課目」を受け持つほか、5機での課目では1番機が率いる編隊と合流する。デルタ隊形の場合は4番機の右側に入る


スモーク
展示飛行で使用されるスモークは、切削油(スピンドルオイル)と称する、本来は機械加工の潤滑・冷却に用いる油をエンジン排気口の後部に噴射、エンジン排気の温度によって油が気化し、それが大気中で冷却されて微小粒子へと凝結し、白いスモークとして見えるという仕組みである。
スモークは課目に応じて発生させるタイミングが決まっており、1番機や5番機からの指示によってスモークを発生させたり停止したりしている。ただし、1機のみで行う「ソロ課目」においては、パイロットの判断により使用する。
なお、1998年まで使用されていたカラースモークは、切削油に専用の染料を混ぜることによって発生させていた。カラースモークを使用しなくなった理由としては、以下の理由が挙げられている。
染料を混合した切削油は十分に攪拌しておく必要があるため、展示飛行直前の給油(実機への搭載)が前提となり、手間がかかる。
機体に染料の飛沫が付着した場合、除去作業の手間がかかる。
染料の沈殿を防ぐため、展示飛行ごとに切削油の抜き取り作業が必要になる。
染料そのものの購入コストがかかる。
1998年の防府市と千歳市での展示飛行で、「車に色がついた」との苦情が寄せられ、調査の結果カラースモークが原因と判明した
カラースモークの色はポジションによって決まっており、1番機と5番機が白(ホワイト)、2番機が青(ブルー)、3番機が赤(レッド)、4番機が黄(イエロー)、6番機が緑(グリーン)を使用していた。
カラースモーク再開について、2020年の東京オリンピック開会式で再び五輪マークを描く構想が空自内で持ち上がり、航空開発実験集団がフランスなど海外の展示飛行で使用している染料を取り寄せて、車や洗濯物などの地上物への影響や、機体との適合性など、日本で使えるかどうかの検証を行い、2017年末をめどに調査結果をまとめ、可否を判断する予定である。

T-4 塗装
1997.1~
1992年11月、T-4ブルーインパルスの塗装デザイン案がT-2の時と同様に一般公募された。選ばれたのは精神科医でもあり、ブルーインパルスの熱狂的なファンでもあった斉藤章二氏のデザイン案であった。幼少のころに強い印象に残ったF-86Fブルーインパルスのデザインを意識した作品だという 。
そのデザインは、上面はF-86F同様白でまとめられているが、下面はヴァーミリオンではなくブルーになっている。主翼や水平尾翼も上面は白、下面はブルーで統一されている。尾翼は全面ブルー、そこにポジションの数字が入れられている。
この塗装デザインは2016年現在も使用されている。

T-4時代
1996年(平成8年)
4月 防衛大学校入校式で、「T-4ブルーインパルス」最初の公式展示飛行(編隊課目のみ)を行う[101]。
5月5日 岩国航空基地「日米親善デー」で、「T-4ブルーインパルス」最初の第1区分公式展示飛行(フル演技)を行う。
1997年(平成9年)
4月 アメリカ合衆国ネバダ州・ネリス空軍基地にて開催の『アメリカ空軍創設50周年記念エアショー(「ゴールデン・エア・タトゥー」)』にて初めて海外での展示飛行を実施[106]。
1998年(平成10年)
2月 長野オリンピック開会式で展示飛行。
1999年(平成11年)
この年からカラースモークの使用を中止。
11月14日 浜松基地航空祭で18年ぶりとなる第1区分の展示飛行を実施。
2000年(平成12年)
7月4日 飛行訓練後の帰投中に2機が墜落し、パイロット3名が殉職。事故以降、その年の展示飛行を全て中止する。
2001年(平成13年)
2月 飛行訓練を再開。
8月26日 松島基地航空祭より4機による展示飛行を再開する[128]。
9月11日 アメリカ同時多発テロ事件発生により、これ以降、当年度の全ての航空祭が中止に[123]。
2002年(平成14年)
5月26日 静浜基地航空祭より航空祭における展示飛行を再開。
6月4日 2002 FIFAワールドカップにて埼玉スタジアム2002上空で展示飛行。
8月 墜落事故で失われた機体の補充として新たに2機の新造T-4アクロバット仕様機を受領。
12月の岐阜基地航空祭から6機体制に戻る。
2004年(平成16年)
9月・10月「パシフィックツアー」中のサンダーバーズと百里、浜松で競演するも天候不順で展示飛行は全て中止。
2005年(平成17年)
12月開催の那覇基地航空祭にてT-4ブルーインパルス化初の展示飛行(編隊課目のみ)を実施。
2007年(平成19年)
4月28日 熊本城の築城400年祭の一環として、熊本市上空にて展示飛行(航過飛行)を実施、熊本県出身の村田将一3等空佐が1番機を操縦した。
9月30日 F1 日本GP決勝が開催される「富士スピードウェイ」上空で展示飛行(航過飛行)を実施予定だったが、悪天候により飛行中止。
2008年(平成20年)
4月12日-13日 瀬戸大橋開通20周年事業でサンポート高松上空と瀬戸大橋上空で展示飛行(航過飛行)を実施。
2009年(平成21年)
6月1日-6月2日 横浜開港150周年を記念して、第28回横浜開港祭において、横浜市西区臨港パーク上空で展示飛行(航過飛行)を実施。
10月18日 米空軍アクロバットチームサンダーバーズと三沢基地航空祭で競演。
2010年(平成22年)
3月27日 プロ野球チーム東北楽天ゴールデンイーグルスのホーム開幕戦のオープニングにて、クリネックススタジアム宮城上空で展示飛行(航過飛行)を実施。
8月22日 第56回松島基地航空祭にてブルーインパルス創設50周年記念として航空中央音楽隊が「The Simmer of the Air」等を生演奏する中、展示飛行を実施。
9月25日 第65回国民体育大会ゆめ半島千葉国体の開会式において、千葉マリンスタジアム上空でデルタ隊形による編隊航過飛行を実施。
2011年(平成23年)
3月11日 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による津波被害のため松島基地所属の航空機は壊滅的被害を受けたが、第11飛行隊の保有する10機のうち、7機(天候調査などに使用される通常仕様の1機を含む)が翌日の九州新幹線全通を祝う編隊通過飛行のため芦屋基地に展開、2機がIRAN(メーカーでの整備)に出されていたため、第11飛行隊の航空機で被害を受けたのはブルーインパルス仕様T-4の1機のみであった。しばらくは芦屋基地を拠点とし飛行訓練を行った。
8月7日 千歳基地航空祭において、シーズン初の展示飛行(編隊連携機動飛行)を実施。
8月20日 宮城県東松島市で、震災後初めて地元での編隊飛行を披露。最寄りの松島基地は未だ使用できないため、この日は青森県の三沢基地から離陸。
2012年(平成24年)
11月3日 入間航空祭にて、展示飛行中の2番機にバードストライクが発生し緊急着陸。その後の展示飛行は中止となってしまった。
2013年(平成25年)
3月25日、松島基地に戻るのを前に、芦屋基地を一般開放して、周辺住民に感謝の気持を込めて、芦屋基地で最後の展示飛行を行った。
3月31日、松島基地でブルーインパルスの帰還式が開かれた。ブルーインパルスは震災以来、拠点としていた芦屋基地を離れ、2年ぶりに松島基地へと帰還した。
2014年(平成26年)
1月29日、松島基地から南東に約45kmの太平洋上で1番機の機首部と2番機の左後方が接触し同基地へ緊急着陸。ブルーインパルス同士の接触事故は発足以来初。
5月31日、国立競技場のファイナルイベント「SAYONARA国立競技場FINAL "FOR THE FUTURE"」にて、競技場上空で展示飛行(航過飛行)を実施。
2016年(平成28年)
8月28日、一般公募9,000人と特別招待1,000人の合計10,000人限定で公開された「松島基地復興感謝イベント」にて展示飛行を実施。基地上空で展示飛行を披露するのは6年ぶりとなる。
2017年(平成29年)
8月26日、「東松島夏まつり」にて展示飛行を実施。
8月27日、「松島基地航空祭」(完全一般公開)にて午前・午後の2回に渡り展示飛行を実施。同基地完全一般公開での展示飛行は2010年以来7年ぶりとなる。

創設 1960年4月16日
(第1航空団第2飛行隊内「空中機動研究班」として)
国籍 日本の旗 日本
軍種 航空自衛隊
任務 曲技飛行による航空自衛隊の広報活動
基地 浜松基地(1960年4月16日から1981年3月31日まで)
松島基地(1982年7月以降)
ニックネーム ブルーインパルス
モットー 創造への挑戦(Challenge for the Creation.)
使用機種 ノースアメリカン/三菱重工業 F-86F(1960年4月16日から1981年3月31日まで)
三菱重工業 T-2(1982年7月から1995年12月22日まで)
川崎重工業 T-4(1995年12月22日以降)
主なミッション 東京オリンピックにおける展示飛行(1964年)
日本万国博覧会における展示飛行(1970年)
ネリス空軍基地における展示飛行(1997年)


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