軍艦防波堤(秋田港)
1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発し、土崎にも大きな被害をもたらしました。戦時中は港湾改修工事も鈍化し、1945年(昭和20年)8月14日(終戦前夜)には土崎大空襲により港は壊滅的な打撃を受けました。数回にわたって落とされた爆弾は100kg爆弾が7,360発、50kg爆弾が4,687発に及びました。
爆撃目標の日石製油所は全滅状態となり、市街地も大きな被害を受けました。死者二百数十名の犠牲者が出ています。
港でも工事中の「浚渫船(海底にたまった砂を掘り出す船)」2隻が爆撃を受け沈没、死者が出ております。
当時の港の出口は冬の波で砂が押し寄せ、春には航行出来ない状況でした。敗戦直後は掘ることも出来ずに港は働きを失う寸前にあったのです。
沖から押し寄せる砂を防ぐには北防波堤の建設が必要でしたが、経済が混乱していてお金も材料もありませんでした。いろいろ考えて、軍艦を沈めて防波堤とすることを思いつきました。
昭和23年、駆逐艦「栃・竹」、海防艦「伊唐」の三隻が沈められ、268mの北防波堤となって砂をさえぎり、秋田港を守りました。
この軍艦は戦争中の物が不足した時代に作られたので鉄板が薄く、防波堤の完成直後からこわれはじめました。しかし、たびたび補修されながらも30年間にわたって荒波をさえぎり、昭和50年港の外港展開とともに取り除かれ、その役目を終えました。
戦後50年以上も過ぎた今でも、不発弾が残っている可能性がある区域では、港の工事などをする前に、磁気探査によって異常物が無いことを確認し、安全を確保してから工事を進めています。
竹(たけ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦で、樅型駆逐艦の6番艦である。同名艦に松型駆逐艦の「竹」があるため、こちらは「竹 (初代)」や「竹I」などと表記される。
艦歴
1918年(大正7年)12月2日、神戸川崎造船所で起工。1919年(大正8年)8月26日午前7時30分進水。同年12月25日竣工。
1940年(昭和15年)2月1日除籍。除籍後は舞鶴海兵団の練習船。1944年(昭和19年)2月10日、雑役船に編入され、海軍機関学校附属の練習船となる。1948年(昭和23年)解体、船体は秋田県秋田港防波堤となるが、1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに取り除かれた。
性能諸元
排水量 基準:公表値 770トン
常備:850.00トン
全長 全長:290 ft 0 in (88.39 m)
水線長:280 ft 0 in (85.34 m)
垂線間長:275 ft 0 in (83.82 m)
全幅 26 ft 0 in (7.92 m)または7.93m
吃水 8 ft 0 in (2.44 m)
深さ 16 ft 3 in (4.95 m)
推進 2軸 x 400rpm
直径 8 ft 6 in (2.59 m)、ピッチ3.378m
または直径2.565m、ピッチ3.353m
機関 主機:ブラウン・カーチス式オールギアードタービン(高低圧) 2基
出力:21,500shp
ボイラー:ロ号艦本式缶(重油専焼) 3基
速力 36ノット
燃料 重油250トン
航続距離 3,000カイリ / 14ノット
乗員 計画乗員 107名
竣工時定員 110名
兵装 45口径三年式12cm砲 単装3門
三年式機砲 2挺
53cm連装発射管 2基4門
魚雷8本
搭載艇 内火艇1隻、18ftカッター2隻、20ft通船1隻
備考 ※トンは英トン
海防艦 伊唐 鵜来型海防艦は、大日本帝国海軍が太平洋戦争において運用した海防艦のひとつ。主に船団護衛に用いられた。基本計画番号はE20b、日振型海防艦の準同型艦である。日振型からの振り替えにより、1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)にかけて同型艦20隻が就役している。
戦後、ネームシップ以下4隻が従来の艦名に丸を付けた定点観測船を経て、1954年から海上保安庁のおじか型巡視船として再就役した。
伊唐(いから) - 1945年(昭和20年)3月24日竣工(浦賀船渠)。終戦時残存。復員輸送任務の後、解体。船体は秋田県秋田港防波堤となるが、1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに取り除かれた。
種別 海防艦
命名基準 島名
同型艦 20隻
前級 日振型海防艦
次級 丙型海防艦
要目
排水量 基準:940t
全長 78.8m
全幅 9.1m
吃水 3.06m
機関方式 22号10型ディーゼルエンジン2基2軸
4,200馬力
速力 最大 19.5ノット
燃料 重油
航続距離 16ノットで5,000海里
乗員 150名
兵装 45口径12センチ高角砲 連装1基・単装1基
25mm連装機銃三連装5基・単装5~8基
九四式爆雷投射機2基
三式爆雷投射機16基
爆雷投下軌条1式
爆雷120個
レーダー 一三号電波探信義1組
二二号電波探信義1組
電波探知機1組
ソナー 九三式水中聴音機1組
三式二型探信儀2組
駆逐艦 栃 松型駆逐艦(まつがたくちくかん)は日本海軍の一等駆逐艦。丁型駆逐艦とも呼ばれる。 太平洋戦争中の1943年(昭和18年)から建造した戦時量産型駆逐艦である。神風型駆逐艦(初代)と並ぶ日本海軍最多の建造数(32隻)と最短の建造日数(約5ヶ月)を記録。そして最後に量産化された駆逐艦でもある。
なお、橘以降の艦は、橘型/改松型/松型改/改丁型/丁型改などとして区別されるが、 艦艇類別等級表では松型と橘型を区別していない。
橘型駆逐艦 仮称第5491号艦(八重桜)からは基本計画番号をF55Bと改め(それまではF55)、「八重桜」は後に工事中止となり「橘」が1番に竣工、このためF55Bの艦は橘型と呼ばれている。その他に改松型松型改改丁型などとも呼称される。 基本設計は横須賀海軍工廠設計部で行われた。
船体
線図の変更
艦尾形状は丸みを帯びたクルーザー・スターン(船尾)から角形のトランサム・スターンに変更
キャンバー(露天甲板の反り)を廃止
艦首のフレア(側面の反り返り)は平面を組み合わせ、ナックルで繋ぐ。
艦首水線下のカットアップを廃止、艦首は艦底まで直線になった
上甲板もHT鋼から普通鋼に変更、その分板厚を増した。
溶接を全面的に採用し、ブロック工法を採用
この経験は後に、現在の日本の造船技術を支える近代工法の確立につながった。
なお、本型は簡易廉価な平面や直線を組み合わせた船体形状を採用したが、速力への影響はあまり無かった。
終戦時には18隻が航行可能状態で残存していた(32隻竣工、9隻沈没、5隻航行不能)。それらは戦後復員輸送に使われ、その後各国に戦時賠償艦(戦利艦)として引き渡された。中国やソ連は引き渡された艦を自国の海軍に編入して使用した。アメリカ、イギリスに引き渡された艦の一部と残った艦(航行不能艦や未成艦)は解体されるか防波堤の一部として使われた。
栃(とち):「第4816号艦」、1945年2月5日命名、同年5月28日船台を空けるために進水(舞鶴)。5月18日工事中止。船体は戦後、秋田港防波堤となるが、1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに取り除かれた。
要目 (橘)
基準排水量 1,350英トン
公試排水量 1,640トン
深さ 5.80m
吃水 3.41m
主機関 艦本式タービン(高低圧) 2基
速力 27.3ノット
ソナー 四式水中聴音機、三式探信儀一型
松型からの変更された要目のみ