明治22年の呉鎮守府開庁と同時に「呉鎮守府吉浦火薬庫」がここに置かれたのが始まりです。
その後、明治36年に対岸の昭和町に呉海軍工廠が建設されると呉海軍工廠造兵部第六工場(のちの呉海軍工廠砲熕部)の火薬庫となりました。
昭和10年に砲熕部から独立し、終戦まで「呉海軍工廠火工部」として火薬や砲弾を製造していました。海上保安大学校に唯一残る建物遺構で呉海軍工廠砲熕部第六工場の施設として建設されました。
「呉市指定文化財第116号 有形文化財
旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室(海上保安大学校煉瓦ホール)
FORMER KURE NAVAL ARSENAL (JAPAN COAST GUARD ACADEMY BRICK HALL)
平成28(2016)年12月20日指定
現在の海上保安大学校の敷地には、明治22(1889)年に呉鎮守府吉浦火薬庫が設置されました。
その後、明治36(1903)年に呉海軍工廠造兵部第六工場(のち砲熕部第六工場と改称)火薬庫となりました。一方、この地には、明治42(1909)年に古瀬大学と呼ばれた呉海軍工廠火薬試験所が設立されました。
火工場機械室は、大正3(1914)年に呉海軍工廠砲熕部第六工場の施設として建設されました。この煉瓦造りの建物は、完成から約100年以上経過していますが、その間に大きな損傷を受けることなく、建設当時のままの姿が現在まで残っており、かつて海軍の拠点だった呉市の歴史を伝える貴重な文化財であります。
現在は、演奏会などが行える多目的ホールとしても使用しています。
呉市・呉市教育委員会」
呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)とは、広島県呉市にあった日本の海軍工廠。戦艦「大和」建造で有名。終戦により工廠は解散。現在はジャパン マリンユナイテッド呉工場として大型民間船舶の建造を行っており、艦艇建造は行っていない。
戦前
1889年 (明治22年) 呉鎮守府設置と同時に「造船部」が設置される。当初造船は神戸にあった小野浜造船所に頼っていたが、徐々に呉での設備を拡充、小野浜造船所は後に閉鎖された。 1903年 (明治36年)に日本海軍の組織改編で呉海軍工廠が誕生。その後は東洋一と呼ばれるほどにまで設備を充実させた。工員の総数は他の三工廠、横須賀、佐世保、舞鶴の合計を越える程で、ドイツのクルップと比肩しうる世界の二大兵器工場であった。戦艦「大和」を建造するなど多くの艦艇建造を手がけ、日本海軍艦艇建造の中心地となった。
砲熕部(砲塔(砲身を含む)の製造、開発)、製鋼部(装甲板の製造、開発)が設置され戦艦建造の主導的役割を果たしていた。三菱重工業長崎造船所で建造された戦艦「武蔵」の主砲塔、砲身も呉で製造されている。
1912年3月29日、1万人参加のストライキがうたれた。このストライキには、作家の宮地嘉六も参加し、第九工場の首謀者として検挙された。さらに、1918年8月の1918年米騒動には多数の工廠労働者が参加し、銃剣を持った海軍陸戦隊と対峙し、死傷者が出た。
戦中
1945年6月22日9時よりB-29・290機が飛来し、造兵部を中心に施設を破壊した。海軍工廠関係の死者約1900名。
呉軍港空襲
戦後
土地、設備は播磨造船所と米ナショナル・バルク・キャリア社(NBC)が引き継ぐ。呉造船所、石川島播磨重工業(現IHI)呉工場を経て現在はジャパン マリンユナイテッド呉工場。呉工場での自衛艦艇の建造は無いが、修理は行っている。なお「造船船渠(大和の建造用ドック)」は1993年に埋め立てられ、跡地は工場として再利用されている。しかし、大和の修理を行った「船渠(ドック)」は現存しており、自衛艦や米軍艦船などが現在も使用中である。
呉海軍工廠が大和建造時に採用した船体を部分ごとに造るブロック工法、部品共通化などの革新的管理システムは、後に世界に広まる効率的な日本型生産方式の源流ともいわれる。