B20形蒸気機関車(B20がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である運輸通信省(のち運輸省)が第二次世界大戦末期から終戦直後にかけて少数を製造した、主として入換え作業用の小型タンク式蒸気機関車である。
機関車の概要・特徴
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これほど小さな国鉄機関車は明治時代以来で、極めて異例といえる。戦時中に規格生産された産業用機関車の一種であり、本線用の国鉄制式機関車の系譜とは、本来全く無関係の存在である。
通常なら車両扱いされない「構内作業用機械」が、都合で「鉄道車両」扱いされて車籍を持った、という捉え方が本形式の実状に近い(類似例としては、私鉄路線に接続する専用線での入換作業や、自社内での保線・除雪作業用のモーターカーの一部に、車両扱いされて車籍を持ったものがある)。なお、形式の「B20」とは、動軸2軸を有する(B型)の運転整備重量20トンの機関車という意味で、まさに産業用機関車の形式付与方法そのものである。国鉄制式蒸気機関車の形式付与体系と照らした場合、動軸数を表すアルファベット+タンク機を表す10 - 49という付与法則には一応合致しているが、B10形との間に存在すべきB11 - B19を飛ばしている形になる。
戦時中の設計・製造ゆえに実用上問題が多く、余りに小さ過ぎたこともあって用途が極端に限定されたこともあり、車齢の若いうちに多くが廃車されたが、2両が保存されうち1両(10号機)は現在自走可能状態にある。
開発の経緯
太平洋戦争開戦直後の1941年12月、大手・中小の鉄道車両メーカー多数が国策によって「車両統制会」を設立、その管轄下で産業用の小型蒸気機関車・ガソリン機関車の統制規格生産を行うことになった。
産業用蒸気機関車については、富山市郊外に工場を持つ本江機械製作所(1943年に立山重工業へ社名変更)が最大の製造業者となった。
規格統制会の「小型蒸気機関車専門委員会」が設計した規格形機関車は、構造を簡易化するため随所に代用材が用いられ、部材寸法も規格材を少ない加工で用いることを主眼に粗く設定されている。また、ボイラー強度を低く済ませる目的で性能を見切り、あえて飽和蒸気方式とした。また、戦時中の物資不足も重なっていたために銘板も木製であるなど、実用上最小限の材料で製作されていた。
多数の蒸気機関車が産業鉄道や軽便鉄道、あるいは軍工廠内専用鉄道に供給されたが、生産と運用の実態は戦時中ということもあり、多くが不明である。
この系列設計の中で、比較的大型に属する軌間1,067mm対応で20トン級(乙B20型[1])の何両かは、運輸通信省(1943年鉄道省から改組、1945年運輸省に改組)に籍を持つこととなる。
構内作業用を目的に1944年、省向けに5両が製造されることになったが、立山重工業に余力がなく、省の郡山工場(製造番号12 - 16)で造られている。戦後1946年から翌年にかけ、立山重工業で10両(製造番号347 - 353, 402 - 404)を追加製造し、合計15両となった。
基本構成
技術的にさして見るべき所はなく、単純化された戦時設計で、あくまでも生産性重視の省力構造である。徹底した資材節約と工数削減化により一切の装飾が排除され、ドームやタンクは直線形態、仕上加工も省略するか最低限に抑えるなど、美観に対する配慮はほとんど見られない。
最大の特徴は、圧縮ポンプなどの空気ブレーキ機構を持たず、代わりに自機用の蒸気圧ブレーキを装備することである。もとより強大なブレーキ力が必要な高速運転や長大編成牽引とは無縁であり、小運転なら機関車単機のブレーキでも制動可能と割り切ったものであった。
蒸気圧ブレーキは、海外の古典機関車に例が見られるが、さすがに昭和時代の国鉄機関車としてはB20形が唯一の採用である。無論、貫通ブレーキを持たず制動力の弱い本形式では本線列車の牽引など不可能で、あくまで構内での入換作業専用であった。
運用
戦後、本来の使用目的の入換として使われたのは、横須賀の米海軍基地の貨車入換仕業に配置されたB20 2、B20 5、B20 6、B20 8号機など数両のみで、あとは各地の機関区に分散配置され、機関区での六検時の無火状態の機関車の入換えや、機関区構内での石炭輸送などで細々と使用されているに過ぎなかった。貫通ブレーキ用コンプレッサーを持たないため、本線営業列車を単独で牽引することは不可能である。
しかし、戦時急造形のため材質・工作は良くなく、国鉄機関車としては特殊過ぎることもあって、早期に整理されることになった。国鉄蒸気機関車全廃まで使用されたものは、小樽築港機関区所属の1号機と鹿児島機関区所属の10号機があるに過ぎない(末期は実用機というよりマスコット的な位置づけだった)。
また、B20形のうち立山製の11・12号機は、戦後1947年に御坊臨港鉄道(現・紀州鉄道)に貸し出された。11号機は短期間で返却されたが、12号機は1948年に正式な払い下げを受けた。
その後、御坊臨港鉄道は、1951年に他の手持ち蒸気機関車を森製作所で改造してディーゼル機関車(DB158号機)とした。寸詰まりな姿で「森ブタ」と通称される、一連の森製作所製蒸機改造機関車の一例である。これにより、B20形は予備機となった。
ところが1953年7月には和歌山県地方が大水害(紀州大水害)に見舞われ、B20形は復旧困難な損傷を受けた。そこでこちらも森製作所によって台枠・輪軸等を流用したディーゼル機関車への改造工事が行われ、1954年に三菱製117HP機関を搭載した凸型のB形15t機関車「DB2012号機」として竣工した。この機関車は森製作所としては最後の蒸気機関車改造ディーゼル機関車である。1970年代初頭まで御坊臨港の貨物列車牽引に用いられた。
主要諸元
全長 : 7,000mm
全高 : 3,150mm
軌間 : 1067mm
車軸配置 : 0-4-0 (B)
動輪直径 : 860mm
シリンダー(直径×行程) : 300mm×400mm
ボイラー圧力 : 13.0kg/cm2
火格子面積 : 0.81m2
全伝熱面積 : 35.86m2
全蒸発伝熱面積 : 35.86m2
煙管蒸発伝熱面積 : 31.8m2
火室蒸発伝熱面積 : 4.06m2*ボイラー水容量 : 1.35m3
小煙管(直径×長サ×数) : 45mm×2,300mm×98
機関車重量(運転整備) : 20.3t
最大軸重(第2動軸上) : 10.86t
機関車性能:
シリンダ引張力 : 3,190kg
粘着引張力 : 5,075kg
動輪周馬力 : 299PS
ブレーキ装置 : 手ブレーキ、蒸気ブレーキ
保存機
B20 1 (万字線鉄道公園)
B20 1 (万字線鉄道公園)
B20 1側面
B20 1側面
1号機 - 北海道岩見沢市国鉄万字線朝日駅跡「万字線鉄道公園」に静態保存[2]
10号機 - 京都市京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)に動態保存
梅小路の10号機
10号機は1946年に富山市の立山重工業で製造後、新製配置は姫路第一機関区で、その在籍中の1948年1月から7月までは大和鉄道(近鉄田原本線の前身)に貸し出されていた。1949年6月に鹿児島機関区に移動した。同機関区在籍末期の1969年7月27日に鹿児島鉄道管理局主催[3]のイベント走行でB20+C55+C12+8620形という編成で本線の営業列車を牽引したことがあるが、通常、本線走行は法規的に不可能であった。幸運にも1970年代初頭まで同区に残り、1972年に梅小路蒸気機関車館に収められた。
当初は動態保存対象機であったが、入館当初、数回火が入ったものの、以後はほとんど動くことがないまま1979年(昭和54年)3月31日付で車籍を失い完全に静態保存となった。
2002年には、梅小路蒸気機関車館の開館30周年記念事業の一環とJR西日本発足15周年を迎えるにあたってのビッグイベントとして、数十人のボランティアの手を借りて動態復元されることとなり、5月から修繕工事を施されて再び自走可能となり、同年10月12日に動態復元完成式が行なわれた。大型機関車揃いの梅小路におけるマスコットとなっている。車籍は無く展示走行用備品扱いであるが、梅小路運転区に在籍するDE10形ディーゼル機関車と共に、火の入っていない蒸気機関車の移動などに用いられており、復活後も本来の役目を担っている。また、時折転車台に乗って汽笛吹鳴ショーを披露するなどしている。
10号機の動態復元は関西のメディアで大々的に取り上げられ、多くのSLファンの注目を浴びた。同館では、蒸気機関車の大きな汽笛音に「子供が泣き出して困る」と言った大人の悩みも寄せられていたが、B20はきかんしゃトーマスにも似た小柄さから子供たちにも人気があり、「豆タンク」の愛称で親しまれている。
2006年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。