九州旅客鉄道小倉総合車両センター。D51 542と並べられている。当初は塗色を変更し記念資料館として使用されていたが、現在はぶどう色に戻され車内は公開されていない。台車以外の床下機器は撤去されている。
国鉄60系客車(こくてつ60けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が1949年(昭和24年)から木造客車を改造して鋼製客車とした客車の形式群である。このグループを総称する形で鋼体化改造車(こうたいかかいぞうしゃ)とも呼ばれる。
太平洋戦争後の1947年(昭和22年)2月25日、八高線東飯能 - 高麗川間で客車列車が脱線転覆し、184人が死亡する事故が発生した。この事故は現代に至るまで、日本の鉄道史上における死者数第2位の大事故として記録されている。事故列車は木造客車で編成されており、構造脆弱な木造車体が転覆によって大破したことが、死者数を増大させたと考えられた。
鉄道省(国鉄の前身)が新規製造の客車を鋼製客車に切り替えたのは1927年(昭和2年)であり、八高線事故時点では既に20年以上が経過していた。しかし、この時点でもまだ国鉄保有客車数10,800両の約6割が木造客車であり、ローカル線の普通列車では木造客車が当たり前、それも古い雑形客車さえ珍しくない状況であった[。
これらの木造客車の多くは明治時代末期から大正時代末期にかけて製造されたもので、製造後最低でも20年から40年程度が経過し、全体に老朽化が進行していた。また、戦時中・戦後の酷使や資材難によって内外の荒廃は進み、木造客車の根本的な整備には鋼製客車と比較して莫大な費用がかかると試算された。そして、八高線での事故を契機として早期に木造客車を全廃し、鋼製客車に置き換えることが強く望まれるようになった。
だが当時は戦後の混乱期でインフレーションが進行しており、短期間のうちに鋼製客車を大量に新製して木造客車を全て取り替えることはコスト的に困難とされた。また当時の鉄道運営を管轄していた進駐軍は、車両新造許可には消極的で、度重なる車両増備の要望にも容易に応じなかった。
これらの課題の対策として、木造車の改造名目で安価に鋼製客車を製造する「鋼体化」と呼ばれる手法が取り上げられた。木造客車を構成する部材のうち、もともと鋼鉄製で流用の効く部材の台枠や台車、連結器などを再利用し、鋼製の車体のみを新製するものである。
国鉄では戦前の鉄道省時代に同様な手法で、車体の老朽化した木造電車を鋼製車体に改造する工事を大量に行った実績があり、また少数ではあったが木造客車の鋼製化工事の施工例もあった。木造電車は客車よりもドア数(開口部)が多く車体強度が劣り、加減速も頻繁で老朽化が早かったのが、戦前からの早期改造着手の原因である。
戦前の木造電車改造は「鋼製化改造」と呼ばれたが、戦後の木造客車改造についてはそれと区別する目的で「鋼体化改造」と呼ばれた。その内容は1949年度から1954年度までの6年間で、約3,300両の木造ボギー客車を鋼製車体に改造するという、日本の鉄道史上例のない規模の壮大な計画であった。これにより、安全性の向上、老朽車置き換えと補修費用の節減、総合的な輸送力の増強を同時に実現しようとしたのである。
木造車鋼体化計画の許可を得るため、国鉄では進駐軍で国鉄の運営を管轄していたCTS(Civil Transportation Section=民間輸送局)の担当者をラッシュアワーの総武本線両国駅に案内し、窓や羽目板の破損した老朽木造車に、すし詰めとなった乗客が窓から乗降している危険な現状を実見させた。更に、過去の事故における木造車と鋼製車の被災状況記録なども比較提示し、木造車の老朽化対策が喫緊の課題であることを懸命にアピールしたという。この結果、国鉄は1949年(昭和24年)から鋼体化改造に着手できることになった。
鋼体化改造の場合、客車の製造費用を従来の半分程度に抑えることができるとともに、安全対策を主眼とした既存車両改造名目のため、車両新造に関わる制約を受けずに済んだ。
これらの鋼体化客車は他の制式鋼製客車などとの区別のために60番台の形式を付されており、このことから後年になって便宜上、60系客車と呼ばれるようになった。
構造上の特徴
オハユニ61の客室端座席。窓の日除けは鎧戸、客室端部肘掛けは通路幅確保の都合で省略、各座席に背ずりクッションは無く、端部ではニス塗りの壁板をそのまま背ずりとする徹底窮乏仕様。座席間ピッチも通常型客車より狭い。壁面に便所使用知らせ灯が付いているが、この壁面の先に便所と洗面所、更に郵便室が続いている
普通列車用木造車の置き換えが主目的であることから、そのほとんどは三等車もしくは荷物車・合造車として製造された。
台枠
最大の流用部材である台枠には、1919年(大正8年)から1927年にかけて製造された2,800 mm幅の広幅車体を備える「鉄道省大形客車」のUF12・15などが、主に再利用されている。
これらの木造2軸ボギー客車は車体長が17 mであったが、1929年(昭和4年)以降国鉄客車の車体長は20 m級が標準となっていたことから、鋼体化改造車も20 mの車体長とする必要があった。そこで補充車と称して、1910年(明治43年)から1919年(大正8年)ごろにかけて製造された2,500 - 2,600 mm幅の車体を備える「鉄道院基本形客車」の木造車体を解体し、残った幅狭台枠(UF11など)を4等分に切断、台枠延長用部材に加工した。こうして得られた部材を、前述の「大形客車」4両の台枠の切断面にそれぞれ挿入して継ぎ足した。更に車端部は鋼製客車並みの構造に改装、台車心皿位置を木造2軸ボギー車よりも若干車体中央寄りに変更してオーバーハングを拡大し、鋼製車用の20 m級台枠に延長改造したのである。台枠の幅こそ新旧で差はあったが、主たる部材の溝形鋼材(チャンネル材)は中形客車・大形客車とも8インチ級の同一断面で互換性があったため、挿入部材への流用が可能となった。
この結果、17m級の大形客車4両と基本形客車1両の計5両から、20m級の鋼体化改造車4両ができることになった。実際に鋼体化客車の床下から台枠を観察すると、延長改造時の切断・接合の痕跡を確認できる。
しかし、書類上はともかく実際には種車に関わる事情は複雑で、極力輸送力に影響を与えないように工事を進める必要があった。そのため、車種を問わず状態不良で休車となっている車両から優先的に工事を実施した結果、実際の種車と車籍が一致しないケースが少なからず生じた。また、17 m級大形客車用台枠に長形台枠 (UF12) と魚腹形台枠 (UF15またはUF16) の両方が混在していたことや、工事を担当した各国鉄工が用いた工法の相違などから、台枠は同一形式であっても同一形状であるとは限らなかった。更に一部では、もともと20 m級のサイズがあった28400系木造3軸ボギー客車(大形3AB車:優等列車用)などの台枠(UF41・42など)を改造して流用したケースも見られた。
木造車の台枠はねじ式連結器が標準の時代に製造されたものがほとんどであるため、鋼体化の後も、台枠端部にはねじ式連結器時代のバッファー取り付け穴の痕跡が残っていた。
その他の流用部品
オハユニ61の座席脚台。これまた木造車の流用品と見られる。座席の背もたれはモケットもクッションもない板張り
木造車からは台枠だけではなく、TR11形台車や自動連結器、自動空気ブレーキ機器などの主要機器もオーバーホール・調整のうえ再利用された。
暖房すらなかった70系戦災復旧客車とは異なり、まともな旅客サービスが可能なよう蒸気暖房装置が装備されたが、これも鋼製車で標準の低圧式でなく、種車の木造車から配管を流用した旧式な高圧式で、これは特別二等車のスロ60形も同様であった。鋼体化初年度は、暖房管の長さも17 m木造車時代そのままで、20 m化された結果、車端部には暖房がないという体たらくであったが、さすがに1950(昭和25)年度以降は車体全長に延長された。
更には、取り壊される車体部分からも、座席の土台となる金属製の枠や、荷棚の金具など、再利用可能な部品が極力流用された。
最低限の接客設備
専ら普通列車での運用が前提であったことから、接客設備等は木造車並みの部分も多く、安全対策のために車体構体を鋼製に改造しただけで、同時期の完全新製車(スハ43など)と比べると、乗り心地や居住性の面では劣った。
車内はベニヤ板内装のニス塗り及びペンキ塗り、窓の日よけは既に客車・電車用として巻き上げカーテン(ロールスクリーン)が出現していた時代にもかかわらず、二重窓となる北海道向け車以外では旧式な木製の鎧戸が用いられた[注 35]。しかも戦前形の車両のような2段分割鎧戸でなく、1段式、明り取りの隙間を最下部に残す構造として、工数を軽減していた。なお、初期のオハ60・オハフ60は木造車並みの狭幅窓(700 mm)であったが、木造客車は落とし込み式の下降窓であるのに対し、鋼製客車は上昇式の窓構造であり、一部の私鉄鋼体化電車に見られた窓ガラス・窓枠に至るまでの再利用はなされていない。
座席は木造車並みの木製背ずりで、スハ32形以降の20 m 級制式三等客車が定員88人であるのに対し、鋼体化車では快適性・居住性よりも輸送力を重視したため、木造車並みの狭いピッチ (1,335 mm 間隔) とされ、ボックスが左右1組ずつ増えて定員96人(緩急車では制式定員80人のところ88人)となった。当初は専らローカル線の短距離運用向けと想定されていたため、極限まで定員を増やす目的で洗面所を省いて便所のみ設置とすることも考えられていたが(それだけでも4人定員が増える)、車体の新しい車両は長距離運用にも充当したいという意見もあって、洗面所スペースが一般客車同様に設置された。
また、鋼体化改造車の標準台車として用いられたTR11は、明治時代に鉄道作業局で設計された台車に由来する旧式の釣り合い梁(イコライザー)式台車であり、軽量な17 m 級木造車での使用を前提とする設計であった。それゆえ、大形化された20 m 級鋼製車体とのマッチングが悪く、高速走行時の動揺が酷かった。
しかし1960年代までは、客車そのものが極端に不足していた当時の事情から、結局、本来オハ35系またはスハ43系を充当すべき急行列車にも、これらの代わりに60系が連結されているケースも少なくなく、遜色急行等と揶揄された。特に、予備車や普通列車用車両まで動員せねばならなかった臨時急行列車や団体専用列車には、このような例が頻々と見られた。
優等列車向け車両
オハニ63に関しては、製造当初から急行列車や特別急行列車に使用することを考慮されていたため、当時標準の急行列車用新製車であるスハ43系に合わせた客室構造になっていた。背ずりはモケット張りで頭もたれを備え、座席間隔も標準サイズのゆとりが確保された。]
さらに、リクライニングシート装備の特別二等車2系列(スロ50、スロ60)も鋼体化名義で製造されているが、これらは実質台枠のみ木造車流用で、台車は乗り心地の良い、鋳鋼製で軸バネをウィングバネとした新設計のもの (TR40・47) を新造している。スロ60形は資材手当の関係上鋼体化客車となった他、スロ61→スロ50形は新製車の予算で作られた経緯がある。
製造とその過程
1949年(昭和24年)から1956年(昭和31年)の間に、全国の国鉄工場および主要な民間車両メーカーのほとんど、さらに戦後、鉄道車輛業界に新規参入したメーカーまで、文字通り総動員して製作された。
国鉄工場 旭川・苗穂・五稜郭・土崎・盛岡・新津・大宮・大井・長野・名古屋・松任・高砂・後藤・多度津・幡生・小倉
民間車両メーカー 愛知富士産業・飯野産業・宇都宮車両・川崎車両・汽車製造東京支店・近畿車輛・帝國車輛工業・東急車輛製造・新潟鐵工所・日本車輌製造東京支店・日本車輌製造本店・日立製作所・富士産業・富士重工業・富士車輌・輸送機工業
同時に鋼製客車の新製も進められ、台枠流用の対象から外れた基本・中形客車の約半数と、雑形客車[注 48]の淘汰による不足分を補った。1949年(昭和24年)に登場したオハ60系は小さな窓が並ぶタイプ(2ボックスに対し700 mm幅の窓が3枚)であったが、翌1950年(昭和25年)からはオハ35系と同様、窓を1ボックス毎の大窓(1,000 mm幅)としたオハ61系に移行した。さらにこれの側窓を2重窓化した北海道向けのオハ62系も製造された。
このグループは年度ごとの設計変更が少なく、形態の変化があまりない。それまでの客車と比較して外観上のバラエティーには乏しいが,たとえば苗穂工場施工車の妻構に補強用のリブが取り付けられるなど、各担当メーカー・工場ごとに細部に相違が存在した。
当時、木造車鋼体化の推進に重点が置かれ、木造車そのものの延命工事が控えられたことで、鋼体化優先順位を後回しにされた木造客車の老朽はより一層深刻化した。1951年(昭和26年)5月には総武本線四街道駅にて、木造客車の側溝が乗車率300 %に及ぶ乗客の圧力で外側に脹れ出して破損、運転不能となる、現在ではあり得ない事故まで発生している。このため、国鉄では使用に耐えられない木造客車を緊急廃車にしたが、影響で木造合造車の多かった郵便車が不足し、穴埋めにオハユニ61形が大増備されるという一幕もあった。
戦後に残存していた木造車の多くは三等座席車、荷物車、ないしそれらの合造車であった。だが木造の荷物車・合造車には鉄道院基本型客車を格下げ改造した個体も多く含まれ、鋼体化種車にできないものが多かったこと、魚腹台枠車の鋼体化方針が17mのままか20m延長か決まらず、20m延長での工事着手が1953年以降にずれ込んだことなどで、工事当初の改造種車は大型木造客車の三等座席車に集中した。結果、普通列車用の旅客車が不足、また老朽のひどい木造車の早期廃車を強いられたことで荷物・郵便等の合造車も不足し、一方で純新車の増備は進駐軍側の厳しい監督と国鉄の予算不足で自由にならなかった。最も需要の大きい三等車・荷物車が恒常的に払底し、鋼体化事業取り組みの期間、国鉄全体の深刻な輸送力不足の原因となった。国鉄の三等客車(ハ、ハフ)は1948年度に8,269両あったが、鋼体化着手の1949年度には7,914両、1950年度7,631両、1951年度7,437両と目に見えて減少しており、使用に耐えない老朽車の廃車進行、年々の旅客・荷物輸送需要増大に、鋼体化改造と新車増備とが追いついていなかったことがわかる。
鋼体化改装進行途上の1952年(昭和27年)6月の部内会議では、国鉄車両局から鋼体化客車の内装・材質について、安全に支障のない範囲での工数削減や仕上げ簡易化、実用に支障ない範囲でのメーカー手持ち部品の使用、材質のランクダウン許容(標準より軟質のラワン材の部分使用を認める)などの仕様変更が提示されている。これは、コスト問題などで木造車鋼体化が計画より遅れ、客車需給が窮迫していた当時の輸送状況や、既に鋼体化工事に参加していた民間メーカー以外にも新規参入するメーカーが生じたことが背景にあった。このあたりにも、多少仕上がりの質を落としても、鋼体化全体の促進を優先し、鋼体化改造を急がせた当時の事情がうかがわれよう。
国鉄の客車鋼体化改造は、これらの紆余曲折を経て、1955年度(1956年)までに計画を若干超過しながらも完了、国鉄では営業運行に使用される木造車全廃を達成した。ただしその後も、救援車など旅客用途以外の事業用車については、1965年ごろまで少なからず木造客車が残っており、電車では伊那電気鉄道買収車改造の木造付随救援車・サエ9320が1979年まで残存した。
なお、1,067mm軌間の私鉄については1970年代前半まで加悦鉄道や大分交通など一部の事業者で木造車が営業運転に使用されており、762mm軌間の尾小屋鉄道では外板に鋼板を打ち付けてあったが、木造車が1977年(昭和52年)の廃線まで現役で使用されていた。1,067mm軌間の別府鉄道土山線では1984年の廃止時点まで、木造2軸客車のハフ7(元神中鉄道ハフ20形)を営業運行に使用、名古屋鉄道では木造ボギー電車モ520形に外板鋼板打ち付け工事を施しつつ、1988年まで営業運行に供用していた。保存用を除くとこれらが日本における木造車による旅客営業の最後となる。