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旧陸軍糧秣支廠建物(広島市郷土資料館)

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この建物は1911年(明治44年)に建てられた宇品陸軍糧秣支廠缶詰工場の一部にあたる。戦後、国が管理していたものを市が譲り受け再整備し博物館として開館した。
ほぼ竣工当時のまま保存され、被爆により曲がった鉄骨など保存展示している。また「旧広島陸軍糧秣支廠建物」として1985年(昭和60年)4月22日に広島市の重要有形文化財に指定されている。

広島市郷土資料館(ひろしましきょうどしりょうかん)は、広島県広島市南区宇品にある歴史系博物館(登録博物館)である。
1985年(昭和60年)5月開館。元々この建物は、明治時代に建てられた旧陸軍施設であり、広島市への原子爆弾投下にも耐えた被爆建物であり、その後様々な経路を経てその一部を資料館として整備したものである。
広島市域の人々の暮らしにかかわる歴史をテーマとした博物館。企画展と常設展がある。また、教室事業も活発に行っている。併設されている図書室の規模はそれほど大きくはないが、民族や風俗・文化遺産や調査書などが充実している。

宇品陸軍糧秣支廠(うじなりくぐんりょうまつししょう)は、かつて広島県安芸郡宇品(現広島市南区)に設置されていた大日本帝国陸軍の糧秣の保管・補給・製造施設。
概要
糧秣とは、「糧」は兵士の食糧、「秣」は軍馬の飼料、「廠」は工場や役所を意味する。ここで行われていた業務は兵食ならびに飼料の調達・配給・貯蓄である。それに加えて牛肉缶詰や搗精(精米)作業つまり製造も行われ、更に精米や缶詰の試験・検査の技術的な研究も行われていた。

糧秣廠は、本廠が東京深川越中島に、支廠は大阪天保山・札幌苗穂・満州に置かれる。本廠の派出所あるいは出張所も存在した。その中で宇品は大阪とともに初期から存在した支廠の一つにあたる。また広島には糧秣の他、被服支廠と兵器支廠と陸軍3支廠が揃っていた。
現在は一部建物が広島市郷土資料館として用いられている他、モニュメントとして部分的に残されている。

機能
広島市郷土資料館の前身である缶詰工場の印象が強いため一部で誤解されているが、あくまでこの糧秣支廠の業務は物資の調達・配給・貯蓄がメインであり、民間からの購入の方がここの工場での製造より上回っていた。
物資の調達購入は、ほぼ一般競争入札によるものであり、産業組合などから随意契約での購入は勅令を経たものつまり戦時中など特別な場合に限られた。例えば米については玄米と精米2種類で行われ、大正時代においては地元広島のみならず兵庫・岡山・愛媛・山口・大分と西日本全域で購入している。軍馬用藁叺は県内で十分まかなえていた。ただ当時を検証する資料は少なく、貴重なものの例として当時購入した“鳴門水飴”の瓶が現存している。
製造、特に牛肉缶詰製造は全国の糧秣廠でここのみである。1923年(大正12年)の関東大震災で本廠が被害を受けて以後は専らここで製造されることとなった。1907年(明治40年)頃からは戦時用だけでなく平時用の食料品製造・調達も行われ、1909年(明治42年)8月の大阪の北の大火(天満焼け)や1910年(明治43年)8月の大水害などの際には罹災者用の救援物資が広島から被災地へ向けて送られた。


職工つまり作業員の採用にあたり、地元市民が採用されたものの身辺調査が行われていたため良家の子息のみ採用されていた。広島の陸軍3支廠のうち、糧秣が最も少ない人数で運用されていた(職工は1924年(大正13年)時点で糧秣121人(男73人/女48人)・被服652人・兵器185人)。全盛期の職員は工場だけでも3,500人いた。


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