河川舟運(かせんしゅううん)とは、川や運河において物資や旅客を運搬する輸送のことで、河川水運や内陸水運とも呼ばれる。
日本の河川舟運は、古代より行われ、近代以前の年貢米の輸送や商品流通に大きく貢献してきた。その一方で、河川舟運は物資のみならず、地域の文化・慣習を伝播するという面や、都市や河岸・津などと呼ばれる船着場集落の形成にも役割を果たしてきた。近代に入ると、殖産興業政策による産業の発展に伴い、運搬する物資が増加し、河川舟運は最盛期を迎えた。しかしながら、明治中期以降、鉄道の開通や河川改修、陸上交通の発達、橋の役割の変化などに影響を受け、河川舟運は徐々に衰退していった。河川舟運に関する研究蓄積は多いものの、近代以降の河川舟運の盛衰過程については、未だ明らかになっていないことが多い。
昭和中期ごろまで、米や木材といった荷物を運ぶためには、険しい山道を歩く陸上交通よりも、水運の方がはるかに速く容易であったことから、ほとんどの河川で、現在の道路機能の代わりを担う、人や貨物を運ぶ重要な物流の中心となっていた[2]。たとえば、琵琶湖を水源とし大阪湾に注ぐ淀川では、上流域で瀬田川、中流域で宇治川と名を変えて呼ばれていて、京都と大坂を結ぶ交通の大動脈として機能した。淀川に合流する支流の木津川は、奈良の平城京や東大寺など寺院建設のために、瀬田川流域の森林から伐採された木材が木津川を遡って奈良に運ばれたりもされた。
明治に入って、鉄道網が整備されるようになると、川の交通は次第に衰退していったが、木材だけは昭和中期ごろまで「いかだ流し」と呼ばれる運搬方法によって川で運ばれていた。しかし、電源開発や利水確保のために川にダムが建設されるようになると、こうした木材運搬も廃れていった。
今日における交通の主役は陸上交通にとって代わったため、河川舟運はほぼ見られなくなったが、一部では、かつてのような本来の運搬としての機能の形を変えて、観光用の川下りや遊覧の船便があるほか、東京の首都圏では荒川、隅田川で水上バスが運行されている。
斐伊川(ひいかわ)は、島根県東部および鳥取県西部を流れる一級水系斐伊川の本流。古事記にも肥河(ひのかわ)として記述が見られる。
鉄穴流し
鉄穴流し(かんなながし)とは、江戸時代に中国山陰地方で大規模に行われた砂鉄の採集方法である。その手法は岩石や土に混じった砂鉄を川や水路の流れの破砕力を利用して土砂と分離させ、比重差によって砂鉄のみを取り出す。採り出された砂鉄は主にたたら製鉄の製鉄原料に用いられた。