九六式二十五粍機銃(きゅうろくしきにじゅうごみりきじゅう)とは、第二次世界大戦中に日本海軍で使用された対空機銃である。
九六式二十五粍機銃はフランスのオチキス(ホチキス)製25 mm機関砲を基に1935年(昭和10年)に開発されたガス圧作動方式の対空機関砲である。翌1936年(昭和11年)に“九六式二十五粍機銃”として制式化されるに至った。九六式とは採用年(皇紀2596年)の下2桁を指す。海軍では口径40 mm以下の連発可能な兵器を“機銃”と呼んだため、本銃は25 mmの大口径であるが機銃と呼称される。陸軍もこの機銃を「海式機関砲」と呼称して少数を採用した。なお「高角機銃」という表現は勝手な俗称で、当時は使用されていなかった。
本銃が採用される以前には九二式七粍七単装機銃、毘式四十粍機銃がイギリスなど外国から導入されていたが、弾道特性の悪さ、動作不良、また威力の面からこれらの機銃の評価は低かった。このため1934年(昭和9年)、日本海軍はいくつかの候補とともにホチキス社製の25 mm機銃を試験し、性能が優秀なことを認めた。そこで導入に際して改修をホチキス社に行わせ、原型の機銃は一型、改修されたものは二型と呼ばれた。海軍はホチキス社から製造権を購入、1935年(昭和10年)頃から生産を開始した。本格生産は1936年(昭和11年)である。この機銃は日本海軍艦艇の主要な対空兵装の一つであり、戦艦、巡洋艦、空母、駆逐艦その他の艦艇に幅広く搭載された。また陸上基地防衛用としても使用された。本銃は信頼性自体は高かったものの、弾丸威力、追尾性能、照準方法などに問題があり、敵機の攻撃に十分対応できなかった。総生産数は1945年(昭和20年)までに32,380挺であり、年次最多生産数は1944年(昭和19年)の21,000挺である。
後継として、日本軍は鹵獲したボフォース 40 mm機関砲M1のコピー品を五式四十粍機銃として採用したものの、大量生産に至る前に終戦を迎えた。
構造、作動、型式
九六式二十五粍機銃の構造はおおまかに銃架と銃身に分けられる。連装機銃及び三連装機銃は旋回銃架を用いた。まず礎台と旋回盤が最下部にあり、この上に架構が置かれる。架構は側板で銃の俯仰部分を支持し、銃鞍を載せている。銃鞍は銃身を搭載し、保持する。連装、三連装とも、架構を後方から見て右側に旋回手席、左側に射手兼俯仰手席が置かれる。旋回手は旋回ハンドルを受け持ち、射手は俯仰ハンドルを受け持つ。また座席の下部にはそれぞれ旋回電動機、俯仰電動機が置かれた。
重量44.8 kgの銃身は放熱筒付きで先端には閃光覆がつけられている。銃身下部にはピストンロッドを納めたガス誘導室、左右には発射の反動を緩和するため、駐退器兼推進器となるシリンダーが一本ずつ設けられている。銃身長は1,500 mm、ライフリングは右回り12条、250 gの弾丸を初速900 m/sで撃ち出す。作動はガス圧利用方式で、銃身と銃身下部のガスピストン、尾栓が後退と前進運動を行うことにより、装填、尾栓の閉鎖、発射、薬室からの撃殻排出を自動的に繰り返す。発射時、弾丸を押し出すガスの一部が銃身下部の孔からガス誘導室内部に入り、ピストンロッドへと導かれる。ピストンロッドはばねにより銃口方向へ力をかけられているが、ガス圧によってロッドがばねの圧力に対抗して押し下げられ、ピストンと連動して尾栓も後退する。撃殻排出後、尾栓とピストンロッドはばねにより前進を開始し、尾栓が弾倉から弾薬包を押し出して薬室に装填する。こののち尾栓が閉鎖される。
アメリカ側の作成資料では作動を以下のように説明する。トリガー機構が動かされると、シアがガスピストンのベントから外される。これでピストンと尾栓が前進後退運動可能になる。前進時、尾栓の前面が弾倉口から弾丸を一発押し出して薬室に押し込み、尾栓が固定位置まで来る。自由な状態のガスピストンがさらに前進すると尾栓が銃身に固定される。これは尾栓に取り付けられ、引き込められた状態にある2個のヒンジ状ロッキングラグが、銃身内部に強制的に押し上げられることによる。尾栓と接続したガスピストンはまた、尾栓前面から突き出るよう作られた打針も動かし、弾薬の雷管を突かせる。発射の瞬間、尾栓は閉鎖状態にある。弾丸発射後、薬室のガス圧が最大になるまで閉鎖が続く。弾丸が銃身内部のガスベントを過ぎるとガスがガス誘導室に入り、ガスピストン前面を押す。ピストン後退に伴って尾栓のヒンジ状ロッキングラグが下げ外され、尾栓が解除される。残留ガス圧が尾栓およびガスピストンの複合体を後退させ続け、後退ばねを圧縮する。このとき空薬莢が抜きだされ、エジェクターを叩いて機銃の下方へ排出される。機銃が弾丸を撃ち尽くすと、尾栓が後退し、コックしたままの状態で射撃を停止する。機銃には安全、連射、単射の切り替え装置がついている。駐退器兼推進器は液体とばねを併用した。弾倉は15発入りで全備重量は16.37 kgだった。アメリカ側の資料では、材質は圧延鋼板製、W字状のスプリングを内蔵している。空虚重量14.75ポンド(6.69 kg)。弾薬は無起縁式である。
動力は電動および手動である。従動照準の場合には電動が用いられるが、銃側照準の場合には手動も用いられた。ハンドルによる旋回速度は毎秒15度、1回転で5.5度旋回する。またハンドルでの俯仰速度は毎秒12度、1回転で3.5度俯仰した。資料により連装機銃の旋回速度は1秒に13度、俯仰速度は1秒に9度とも記述がある[3]。アメリカ軍側の作成資料では、俯仰はギア式で軽快に操作でき、指一本で操作するクラッチと摩擦式ブレーキが設けられているとしている。旋回ハンドルは操作がやや遅く使用が難しかった。指一本で操作するクラッチと固定用クランプが設けられている。射撃は射手足下のペダルで行う。ペダルは銃のトリガーと機械的に接続されている。外方のペダルは中銃以外を操作する。内方のペダルは中銃を操作する。両方のペダルを踏み込めば3挺同時射撃が可能と推測される。しかしながらこの件については乾氏の調査研究によって左側のペダルで左右銃。右側のペダルで中銃。両方で3挺から発射されることが写真図面等から明された。
型式として、二十五粍機銃には単装、連装、三連装が存在する。単装機銃は銃身を両側面で支持する銃架と架台が結合したもので、銃の後方から見て銃身左側に肩付け式の支持部、その前方に大型の環型照準器が設けられている。銃身下部後方には銃把と引き金が設けられた。機銃弾は15発入りの箱形弾倉を用いて給弾し、銃身上部からはめこんだ。全体重量は三型で250 kg。銃身の重量自体は44.8 kgである。また弾入りの弾倉は16.37 kgの重さがあった]。単装機銃は機銃員1名が銃側照準により人力操作した。開発時期は昭和19年半ば頃である。連装、三連装と比較すれば重量が軽く、狭い艦上のスペースにも銃架を設けられることが利点だった。単装機銃の採用理由は連装型の銃架の生産が間に合わなかったこと、高速で不規則な機動をえがく敵機に照準を合わせるには、LPR照準器ないし手動ハンドルでの旋回では追尾が間に合わなかったことなどが挙げられる。艦に向かって飛来する敵機は見越し角の計算がほぼ不要であり、機敏な銃側照準ができる単装機銃はLPR照準器より有利ともみなされた。ただし銃架に防盾などは設けられず、戦闘時の損害は大きかった。
連装機銃はホチキス社が開発した原型の型式である。一型の重量は1,290 kg、二型の重量は1,650 kgである。射撃時は左右の銃を交互に発射し、弾丸の切れた銃の弾倉を適宜交換して連続発射を維持した。機銃員5名が操作に当たる。
アメリカ側資料では、三連装機銃の大きさは全高約4フィート6インチ(144.34 cm)、全長8フィート6インチ(259.08 cm)、全幅7フィート4インチ(223.52 cm)である。銃身は空冷式、後座は約5インチ(12.7 cm)である。艦艇に搭載された三連装機銃は機銃員9名で運用し、給弾には給弾員が補助に当たった。重量は二型で2,828 kgである。銃座が大型で2 t超の重量を持つことから、搭載には強度が確保できる場所が必要となった。1銃あたり毎分150発程度の連射能力を持つ。機銃のシールドとして、空母では煤煙避盾がつく場合があった。また他に、敵弾を防ぐための防弾板を射手の前に立てた型がある。大和型戦艦では、主砲発射の際に発生する爆風から身を守るために機銃を覆うように付けられた非防弾の爆風避盾を採用した。戦争が激化し、敵航空機の脅威が高まるにつれ艦艇への機銃搭載数は増加する傾向にあった。
耐久性
二十五粍機銃は概して信頼性が高かったが、射撃によって部品が破損することもあった。破損箇所は打針(ストライカー)、エキストラクター、ばね類の折損、尾栓の破損、閃光覆いの亀裂、ネジや留栓の脱落、環型照準器に多く見られた。ただし日頃から手入れされているものは故障しなかった。
ニューブリテン島、スルミ飛行場の主要な防御として二十五粍連装機銃が4基、ほか光学機器と発電装備が配備された。機銃陣地は飛行場を挟んで2基ずつ配備し、電話によって防空見張り所と連絡を付けている。8月2日に8機、25日に4機、29日に不明ながら空襲を受けた。機種はP-40とB-26である。日本側判定としては合計で6機の敵機を確実撃墜したとしている。二十五粍機銃の損傷は打針(ストライカー)の折損が多かった。陣地配備としては敵の侵入に対し、多方向から銃撃できるよう配備するのが有効とされた。
登場作品
映画
『男たちの大和/YAMATO』
大和型戦艦「大和」に搭載されたものが、坊ノ岬沖海戦時などで襲来する大量のアメリカ海軍機に対して使用される。
撮影には、可動する実物大セットが使用されている。
九六式二十五粍機銃
種類 対空機関砲
原開発国 大日本帝国
運用史
配備期間 1936年から1945年
配備先 大日本帝国海軍
関連戦争・紛争 第二次世界大戦
開発史
製造業者 横須賀海軍工廠造兵部、他
製造期間 1936年から1945年
製造数 32,380挺
派生型 二連装(原型)、三連装、単装
諸元
重量 単装(三型)250 kg、連装(一型)1,290 kg、連装(二型)1,650 k]、三連装(二型)2,828 kg
銃身長 1,500 mm
要員数 1名(単装)、5名(二連装)、9名(三連装)ほか給弾員が補助に当たった。
砲弾 通常弾、曳光弾、曳光弾改一、曳光弾改二、曳光通常弾、曳光通常弾改一、曳光通常弾改二、焼夷通常弾、曳光通常弾二型、演習弾
口径 25 mm
作動方式 ガス圧利用
砲架 電動旋回(機銃射撃指揮装置)または手動旋回(銃側照準)
仰角 単装、-15度から+85度、連装・三連装、-10度から+80度
旋回角 360度
発射速度 最大発射速度:230発毎分、実用発射速度130発毎分
初速 900 m/s
有効射程 有効射高3,000 m前後
最大射程 最大射程8,000 m、最大射高5,250 m
装填方式 15発入り箱型弾倉
照準 従動照準時・九五式射撃指揮装置(LPR式)、銃側照準時・LPR照準器および環型照準器