大久野島の中心、山頂付近に大鉄塔がありその近くに中部砲台跡があります。二十八珊榴弾砲が4門〜6門据え付けられ海峡を守っていました。
二十八珊榴弾砲は1884年(明治17年)に大阪砲兵工廠がイタリア式28cm榴弾砲を参考に試製したものであり、1886年(明治19年)に大阪府信太山にて射撃試験を行ったところ非常に優秀な性能を誇ったため、1887年(明治20年)の海岸砲制式審査を経て、1892年(明治25年)に制式制定され量産されました。
主に日露戦争に実戦投入された本砲はその火力を発揮し、日露戦争勝利の大きな立役者として活躍した砲です。
大口径砲かつ19世紀末の火砲であるため、砲弾の装填は砲身を水平にしてクレーンで吊り上げた砲弾を人力で押し込んでから装薬を入れる後装式であり、発射速度は高くない砲です。
日露戦争が始まると大口径・高性能の砲であったため前線に近い鎮海湾や対馬などへ移設することになり大久野島も6門全てが移設となりました。さらに陸軍技術審査部は二十八糎榴弾砲を攻城砲として使用する案を掲示し大久野島の2門は急遽旅順へ送られ、旅順攻略戦や旅順艦隊攻撃に使用されました。
配置された砲は実戦に使用されたが、大久野島が含まれる芸予要塞(瀬戸内海の忠海海峡と来島海峡の守備要塞)そのものはついに実戦を経験することはありませんでした。
1897年(明治30年)3月に建設が開始された現存する砲台としては非常に保存状態が良く貴重は砲台跡の一つです。大量のセメントが使われた様子、石づくりの台座、掩蔽部(身を隠したり、資材を置くところ)もしっかり残っています。
砲台の横脇には中部砲台跡は北部砲台とは違いレンガ構造の遺構があり兵舎として連弾薬庫として使用されていたとのこと。これらの施設は後に毒ガスの原料・製品倉庫としても使われた。
案内板にはここの赤煉瓦はロシアからの輸入品と言われていると書かれていました。