この回天は、終戦後ハワイの米陸軍博物館に展示されていたが、当局の好意により昭和54(1979)年10月、靖國神社に永久貸与されたものです。回天は、太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、最初の特攻兵器です。秘密保持のため付けられた〇六(マルロク)、的(てき)との別称もある。
1944年7月に2機の試作機が完成し、同年8月1日に正式採用され、11月8日に初めて実戦に投入された。終戦までに420機が生産された。
1型
艇後半の機関部を九三式酸素魚雷から流用して作製。他に1型を簡素化して量産性を高めた1型改1および1型改2がある。九三式三型魚雷は直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、時速約90km/hで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。回天はこの酸素魚雷を改造した全長14.7m、直径1m、排水量8tの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5tとした場合、最高速度は時速55km/hで23キロメートルの航続力があった。ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。回天の母体である九三式三型魚雷は長時間水中におくことに適しておらず、水圧で魚雷内の燃焼室と気筒が故障してエンジンに点火できず点火用の空気(酸素によるエンジン爆発防止の為に点火は空気で行われた)だけでプロペラが回る「冷走」状態に陥ることがあった。この場合、艦上では修理が難しいため、出撃不能となる。また、最初期は潜水艦に艦内からの交通筒がなかったため、発進の前に一旦浮上して回天搭乗員を移乗させねばならなかった。当然のことながら敵前での浮上は非常に危険が伴う。回天と母潜水艦は伝声管を通じて連絡が可能だったが、一度交通筒に注水すると、浮上しない限り回天搭乗員は母潜水艦に戻れなかった。また、エンジンから発生する一酸化炭素や、高オクタン価のガソリンの四エチル鉛などで、搭乗員がガス中毒を起こす危険があることが分かっていたが、これらに対して根本的な対策はとられなかった。
回天の生産は、8月末までに100基の1型を生産する計画が立てられたものの、実生産数は9月半ばまでに20基、以後は日産3基が呉市の工廠の限界だった。これは、アメリカ軍が実施した海上輸送の破壊による資材不足や損傷艦の増大、この頃より本格化したB-29による本土空襲、工員の不足や食料事情の悪化が生産を妨げたためである。回天のベースになった九三式三型魚雷は燃焼剤として酸素を使用するため、整備に非常な手間がかかり、1回の発射に地上で3日の調整が必要だった。十分な訓練期間がない以上、回天の整備隊は3日で2回のペースで調整するよう督促された。
全没排水量:8.30 t
全長:14.75 m
直径:1.00 m
軸馬力:550 馬力
速力/射程距離:30 kt / 23,000 m、20 kt / 43,000 m、10kt / 78,000 m
最低航行速度:3 kt
乗員:1 名
炸薬:1.55 t
安全潜航深度:80 m