大艦隊の停泊が可能な宿毛湾には、大正10年(1922)に戦艦「長門」を旗艦とする艦隊が寄港して以降、昭和17年(1942)まで、次々と艦隊が姿を見せており、宇須々木が訓練、休養を支える基地として活用された。
宿毛湾沖は、ワシントン軍縮会議により廃艦となった戦艦「土佐」を沈下させたり、戦艦「大和」が沖の島ー鵜来島間を公式航行試験を行ったことでも知られている。
この宇須々木に、常駐の基地が設置されたのは昭和8年ごろで、兵舎が2棟でき、航空隊が配置された時期もあったが、太平洋戦争が激化する中で、昭和20年3月、第21突撃隊の特攻基地本部となった。第21突撃隊は越浦(土佐清水市)、泊浦、柏島(大月町)などにも派遣隊を置き、特攻用の「震洋」が配置された。さらに戦況の推移にともない、豊後水道全域を指揮する、第8特攻隊の司令部も大分県佐伯(佐伯市)から移転した。
終戦時宇須々木は、須崎(須崎市)の第23突撃隊、佐伯の第24突撃隊も指揮下におく重要な基地だった。当時は兵舎、桟橋、無線塔、病院など多くの施設があったが、現在も弾薬庫、貯油庫、飛行艇揚陸スロープ、飛行艇の係留場、誘導灯、防空壕などの遺構が残り、戦争を今に伝えている。現在の宇須々木公民館は兵舎後に位置する。(看板引用)
宿毛海軍航空隊(すくもかいぐんこうくうたい)および昭和19年1月1日に改称した第四五三海軍航空隊(だい453かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。水上機の搭乗員の教育を推進するため、生徒・学生・練習生への実機練習を推進した。
(水上機スロープ)
ミッドウェー海戦の大敗によって不足した航空母艦飛行機隊を補完する水上機の増強を図るため、高知県幡多郡宿毛町に水上機基地を設置し、練習航空隊を設置した。長らく連合艦隊の演習水域として使用された宿毛湾は、海軍軍人の出入りも多く、頻繁に連合艦隊の艦艇も停泊する絶好の立地条件であった。
そのため、練習連合航空隊に属することが多い練習航空隊では例外的に、連合艦隊の中心部隊である第一艦隊の隷下に置かれた。実戦部隊に転換されると、昭和18年に落成した鹿児島県揖宿郡指宿町の指宿水上機基地に主力を移した。