1964(昭和39)年の東海道新幹線開業に向けて最初に量産された360両のうち大阪方先頭車の1両。
新幹線0系電車は、日本国有鉄道(国鉄)が1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業用に開発した、初代の営業用新幹線電車である。
1964年から1986年まで38次にわたり、改良を重ねつつ総計3,216両が製造された。世界ではじめて200km/hを超える営業運転を達成し、航空機に範をとった丸みを帯びた先頭形状と、青と白に塗り分けた流線形の外観で、初期の新幹線のイメージを確立した。第8回(1965年)鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。
1964年の開業から、東海道・山陽新幹線用として足かけ44年にわたって運用されたが、2008年11月30日に定期営業運転を終了、同年12月14日のさよなら運転をもって営業運転を終えた。
史上初の高速鉄道専用車両として1964年から1986年までの23年間・38次にわたり、東海道・山陽新幹線用の初代車両として改良を重ねつつ、合計3,216両が製造された。先頭車は224両ずつ製造。初期製造車を0系新造車で置き換えたため、在籍両数は1976年の2,338両(うち2両は保留車)が最多である。JR発足時にはJR東海に1,339両(H編成53本、S編成38本、保留車35両)、JR西日本に715両(H編成32本、S編成5本、R編成21本、保留車17両)が承継された。
東海道新幹線時代の0系
航空機(特に旅客機)に範をとった丸みのある先頭形状と、青・白塗り分けのスマートかつ愛嬌のある外観を備える。初期の新幹線のイメージを確立した車両であり、戦後日本の高度成長時代を象徴する存在として、人々から長く親しまれた。1980年(昭和55年)頃までの書籍などでは「旅客機を思わせる先頭部」、「まるで地面を走る航空機」と形容されることが多かったが、晩年は後に登場した新型新幹線車両と比べ「団子鼻」と称されるようになった。
なお、「0系」と呼ばれることが増えたのは東北・上越新幹線用の200系が落成した1980年頃からのことで、1970年代以前は単に「新幹線電車」(しんかんせんでんしゃ)と呼ばれることが多かった。文献によっては「000系」と呼称していたこともあるが、1970年代以前にも鉄道関係の書籍や雑誌で「0系」と記した例は存在する。
東海道新幹線の建設から開業までは時間的にかなり限られていて、車両開発に十分な時間を割けなかったため、モデル車両「1000形」をベースにした車両(現在の0系)を開発し、そこから得られた改良箇所を後継車両に反映させる計画だった。この車両は全国新幹線網成立の時点で周波数50Hz/60Hz両用車両にする構想だった。この一環として951形・961形といった試験車両が製作された。また後継車両のために100系を欠番扱いとし、東北・上越新幹線用営業車両には200系の形式称号が与えられた。しかし、実際には計画どおりにはならなかった。
新幹線車両は、長距離高速運転による酷使の結果、当初耐用年数20年と想定されていたよりも車体・機器の劣化が早かったため(特に気密性の低下が問題になった)、初期製造車は12年目の法定検査切れの車両より廃車が始まった。以上のような理由から1976年9月より1,2次車が淘汰されていくわけであるが、当時、国鉄経営の悪化や労働紛争の影響で国鉄内部では車両を含めた技術革新が停滞しており、その一方で0系の基本性能は安定した水準に達していたことから、当時の動労をはじめとする労働組合は新型車両導入に否定的だった。さらには0系の増備が進みすぎた結果、編成中で車両の経年がまちまちだったことも加え、既存の車両と混成・編成替えを行う都合などから互換性を配慮する必要も生じた。
このため0系を新しく製造して古い0系を置き換える状態が続き、約22年間・38次にわたって、細部の改良を重ねながら0系が発注・製造され続けることになった。
車体長24.5m、車体幅3,380mmと非常に大型の流線型準張殻構造車体である。在来線車両より5m長く、50cm以上(151系に対しても約43cm)広い。また、高速安定走行実現のため、車輪径が大きく台車の背が高くなったことや床下に艤装される電装品の制約もあって客室床面高さも1,300mmと高い。このように従来にない破格の大型車体であるが、1mmから6mmの範囲で部材の板厚を細かく変更し、必要に応じ高耐候性圧延鋼材(SPA-C)・熱間圧延軟鋼板(SPHC)・一般構造用圧延鋼材(SS)と鋼材の種類を使い分けることで、設計当時の技術で実現可能な普通鋼製車体としては限界の軽量化に近い、公称構体重量10.5tを実現した。
もっとも初の超高速電車として機器構成の冗長性を高めて信頼性を確保する設計であり、搭載機器が重装備であったため、各車の公称自重は52.5t(25形)から57.6t(21形)に達した。
そのデザインは、空力特性を考慮して形状を決定された。設計者の三木忠直の下で風洞実験に当たった鉄道技術研究所の技術者田中眞一によれば、レーシングカーや航空機などの設計を検討したうえで、ジェット機のDC-8の先頭形状をモディファイして前面形状を設計したという。
前頭部先端は丸いカバーを装着している。この中には非常用の連結器が納められている。開発当初、このカバーは半透明のアクリル樹脂製で、前灯の漏れ光線を光源にして光る構造となっており「光前頭」と呼ばれた。後に走行中の鳥との接触で破損することから、不透明の丈夫なFRPに変更し、「光前頭」は廃止された。前灯と尾灯は同一のライトであり、尾灯として使用する場合は赤いスクリーンを通して点灯させる仕組みである。前期車はバタフライ式スクリーン、後期車は半円形スクリーンである。
先頭車床下には、障害物を跳ね除けることのできる排障器を設けている。鋼板を多重にしたこの「スカート」部分は、少々の岩なら軽く跳ね除ける。高速運転時の脱線を警戒したものである。そして本来は揚力による浮き上がり脱線転覆を防ぐ意味があり、スカート両脇のフィンも、風の力で車体を押し下げる作用を持つ。これも三木忠直の航空力学を応用したものである。
先頭車屋上には、今や新幹線のトレードマークともなった、架線に電気が流れているかどうかを検知する逆L字型で薄い板状の「静電アンテナ」が装備されている。新幹線開業前の試作車1000形のものとは大きく異なっている。設置位置の変化はあるものの、この0系で採用された静電アンテナの形状は、N700系に至るまでほとんど変わっていない。
先頭車内部には警笛装置が在来車同様に備わっているが、それまでの国鉄車両とは違い2種類のラッパ(AW8、AW9)を組み合わせた。これは、やわらかく明るい音色を出すために和音で表現しようとした結果である。この和音での警笛は後の新幹線車両にも引き継がれている。
車両の連結部には、車端ダンパが装備されており、車両妻面上部にオイルダンパを設置して、それをアームとリンクを介してお互いを連結することにより、車体に発生するロール方向の振動を低減させる。また、ヨー方向の振動もある程度の低減を図る機能を持っている。
最初期の車両は列車種別・列車名・号数・行き先が書かれた行先票が取り付けられていたが、高速走行中の脱落の可能性や列車本数の増加による煩雑さ、さらには盗難が相次いだこともあり、早期に使用を取りやめ、しばらくは車両側に行き先表示がされることはなかった。東京 - 新大阪間のみだった当時は運行系統自体は単純であり駅の表示だけで事足りたが、岡山開業以降は複雑化したため、以後の新造車は現行の電動幕式が取り付けられた。電動幕に関しては、既存の車両に対し、当初は取付工事が行われた車両も存在したものの、新製車で旧来車を淘汰する方針となり、1976年以降は取り付けられることはなかった。また指定・自由席表示も当初の札式から、省略の時期を経て、スリムライン、電動幕と変化している。
塗装:オリジナルの塗装は、車体がアイボリーホワイト、窓周りがブルーの塗り分けだった。この青色塗装は、新幹線ブルーともいわれる。配色は、航空機をライバルとして意識し、青空と白い雲のイメージから採用されたものである[要出典]。配色の由来は太平洋の青、航空機など諸説あるが、JR東海の運営するリニア・鉄道館が保管していた旧国鉄の内部資料「東海道新幹線電車技術発達史」に記載のあることが判明し、それによれば、1962年、国鉄や車両メーカーの担当者、外部の画家やデザイナーらが参加した会合で配色が決定した際、卓上にあった煙草のハイライトのパッケージが議論の中で重要な役割を果たした。星晃へのインタビューによれば、塗色はパンアメリカン航空の旅客機の塗装と煙草のハイライトのパッケージを意識したものである[。当初は部外委託委員会の検討結果から「アクリル樹脂エナメル塗装自然乾燥」で行われたがその後変更された。なお21-2は保存の際にこれに近い材料を使い復元されている。1988年に登場した「ウエストひかり」用車両は100系と似た窓下に子持ちラインを追加した塗装パターンを採用した。当初地色は他の0系同様のアイボリーであったが、その後1995年に100系の地色と同じパールホワイトとなり、それ以外の車両も順次変更されている。
普通車(1969年まで二等車)の座席は、海側を3列とした合計横5列配置の輸送力重視型である。開業以前に二等車(現・普通車)はシルバークラス、一等車(現・グリーン車)はゴールドクラスとする案があったため、モケットはそれに合わせた配色となった。
当初普通車はその銀色と青色のモケットを張っている転換式座席(W-12、W-70)だったが、1981年以降の新造車両(2000番台)は東北新幹線200系とほぼ同様のオレンジ基調のフリーストップタイプ・回転式簡易リクライニングシート(D-23、D-32)に変更、交換された。3列側は回転させるスペースがないため、一方向固定(集団見合型との比較アンケートの結果、集団離反型を採用)とされた。残存する在来車も順次同仕様に交換されたが、「こだま」用の編成に組み込まれた車両の中にはJR化後も廃車されるまで転換式のままだったものもある。この転換式座席と同じ色のモケットが在来線車両の優先座席に使われたことが「シルバーシート」の名称の由来である。また、交換後の転換式座席は、キハ31形など新製費を抑えた在来線車両に再利用される例も多かった。後年、オレンジ色の D 系シートはJR東海の新幹線待合室に再利用されている。
東海旅客鉄道(JR東海)の「こだま」用Y編成とYK編成の指定席車(9 - 12号車)、西日本旅客鉄道(JR西日本)のSK編成「ウエストひかり」、WR編成の全車は左右それぞれ二人掛けの4列に付け替えられた。「こだま」用Y・YK編成の4列シートはR-56形を、「ウエストひかり」用SK編成と「ウエストひかり・こだま」用WR編成のシートはWRK-201形を名乗る。しかし、ドア位置は以前の3列+2列のままであったため、デッキから車内に入る際の動線がやや屈曲したものとなった。
21形(Mc)
普通席(旧二等席)を備える制御電動車。36形を除く偶数各形式とペアを組んで使用される。博多向き運転台を備え、主制御器・抵抗器、電動発電機などを搭載する。側窓の大窓車は新大阪開業(1964年)から博多開業(1975年)にかけて143両製造されたが、当初の開通区間に達成した博多開業時より故障が目立ちかつ劣勢化しはじめた初期の1次車の置き換えで登場した小窓車1000番台車によって1976年から廃車が始まりさらにはメーカー都合などで当時製造が開始された200系と同じ接客設備と運転台開閉小窓が装備された改良型2000番台(1981年)も登場すると廃車が加速するが、編成単位での置き換えたのは最初の1000番台3編成だけで、以降は劣化した車両を置き換える方式のいわば車両単位に変わっている。この結果1000番台車は51両、2000番台は30両にとどまった。0系同士での置き換えは1985年度増備の38次車までとなり、1986年の100系量産車(X編成)が登場すると編成単位での廃車が再開され1970年の万博対応増備車もターゲットとされた。また、100系G編成車が登場するとひかり編成のこだま編成化も行われた。100系の増備が一段落し、1992年のぞみ用として300系が登場すると1994年には岡山開業用から博多開業用までの車両が廃車対象となり大窓車が全滅し1000番台車も廃車の対象となった。700系が登場して東海道新幹線区間運用が終了した1999年の時点では一部の1000番台車と2000番台が残るのみであった。最後まで山陽区間を引退した2008年の時点では2000番台改造7950番台が存在したが、これは25・26形の先頭改造車であった。
21-2
廃車後長らく大阪府吹田市 JR西日本社員研修センターで研修用に使用されていたが、埼玉県にある鉄道博物館へ収蔵されることになり、博物館に隣接している大宮総合車両センターへ搬送された。搬送は2008年8月27日JR西日本社員研修センター内でクレーン吊上げ、トレーラー積込み、同月28日にセンターから搬出、神戸港から船積み、東京港大井埠頭に到着後、同月31日未明大宮総合車両センターに搬入された。再塗装や車両内部の全面復元がなされた後、2009年9月13日未明に鉄道博物館に搬送され、10月21日から鉄道博物館に新設する展示棟内に展示された。前頭部は、アクリル樹脂製のものが取り付けられている。これはかつて交通博物館に存在した0系先頭部のモックアップ(後に解体)に取り付けられていたもので、カバーのみが鉄道博物館に継承、同車の展示に伴い取り付けられたもの。
埼玉県川口市にあった日本車輌製造東京支店蕨工場製で、1964年7月24日の車両落成時はN2編成と命名、1972年から「ひかり」用のH2編成に改称、1977年に営業運転終了、1978年4月から国鉄関西鉄道学園(現・JR西日本社員研修センター)で運転士・車掌養成用訓練設備として活用後、保管されていた。JR西日本から東日本旅客鉄道(JR東日本)に無償譲渡されたもの。ほとんどが東海道新幹線開業時の仕様そのままである。