四一式山砲は、1910年(明治43年)前後に開発・採用された大日本帝国陸軍の山砲。
1930年代中期からは歩兵砲として、小改修を施した本砲が歩兵連隊に配備されたため、連隊砲(聯隊砲)とも称された。
四一式山砲は日露戦争における主力山砲であった三十一年式速射山砲の射程不足、発射速度不足、方向射界皆無といった欠点の解消のために開発された。三十一年式速射山砲は本格的な駐退復座機を備えていなかったため、発射のたびに反動で射撃位置から後退した砲を元の位置に戻す必要があり、当然照準も1発撃つごとにやりなおすものであった。故に「速射砲」という名称を持ちながらも実際の射撃速度は2 - 3発/分程度であった。日露戦争後、陸軍技術審査部は同審査官・島川文八郎陸軍砲兵大佐に対し後続山砲の開発を命じ、1908年(明治41年)に大阪砲兵工廠で試製砲が完成、1911年(明治44年)に四一式山砲として制式制定された[6]。四一式山砲は駐退復座機を備えていたため射撃速度は10発/分程度まで上げることに成功した。また、当初の分離薬筒方式を完全弾薬筒方式に改めてからは、最大20発/分が可能となった。
重量540kg、馬6頭で分解運搬(駄馬)ないし、馬2頭で牽引運搬(輓馬)可能。山砲として開発されたため人力による分解運搬も可能であり、山岳戦や森林・密林地帯で威力が発揮された。また、構造が比較的簡単であるため組み立てや操作が容易であった。-23℃でも使用可能。
採用・配備以降、帝国陸軍の主力山砲として主に師団砲兵たる山砲兵連隊で運用された。1920年(大正9年)には本砲の欠点であった威力と安定性を向上させた後続山砲の開発を研究開始、1930年代初中期には(四一式山砲と比べ)さらに組み立てや操作が容易かつ細かく分解でき、近代的な開脚式砲脚を備える高性能山砲である九四式山砲が開発・採用された。九四式山砲は旧式となった四一式山砲を順次更新していったが、戦前日本の国力の低さから完全に置き換えるまでには至らず、第二次世界大戦においては九四式山砲とともに主力山砲のひとつとして終戦まで運用が続けられ、また、太平洋戦争(大東亜戦争)では作戦地の地形や道路の状況から九四式山砲ともども野砲兵連隊などに配備される例も多く、各戦線に投入された。なお、本砲は海軍陸戦隊でも使用されている。
また、本砲をベースとする戦車砲・九九式七糎半戦車砲を搭載する砲戦車(自走砲)として、二式砲戦車 ホイが開発・生産されている。
歩兵連隊では本砲の75mmの大口径と短砲身18.4口径(口径長)ながら低伸性に優れた弾道を生かし、対戦車砲として使用されることもあり、徹甲弾(鋼板貫通限界厚は射距離100mで50mm、射距離500mで46mm、射距離1000mで43mm[8])も配備されていた。大戦後期にはタ弾(対戦車用成型炸薬弾)である二式穿甲榴弾も配備された。タ弾は射程距離に関わらず75~100mmの装甲を貫徹することができた。
1944年4月、ニューギニアにて豪州陸軍による鹵獲された四一式山砲の射撃試験が行われており、射距離150ヤード(137.16m)からマチルダII歩兵戦車の車体正面(装甲厚75mm)を射撃している。四一式山砲の徹甲弾ではマチルダII戦車の車体正面を貫通できなかったが、二式穿甲榴弾(タ弾)と思われる成形炸薬弾では車内まで貫通した。
四一式山砲4門と対戦車砲(速射砲)4門で連隊本部隷下に連隊砲大隊を編成していた。1個分隊に1門、分隊長以下11名、馬6頭。砲操作3名、弾薬係3名、弾運び4名(12発)。連隊砲1個中隊に4門が配備された。
弾薬は専用の3発入り弾薬箱と6発入り弾薬箱に収められて運ばれていた、3発入り弾薬箱でも31Kgもあり、6発入り弾薬箱は背負うことが困難なので馬に駄載するか、木のソリが付いていたので引きずりながら運んだ。このため4門分の弾薬を運搬するために砲術要員とは別に馬10頭、馬車5台、弾薬小隊77人を必要とした。
重量 539.5kg(歩兵用は535kg)
砲口径 75mm
砲身長 1379mm(18.4口径)
初速 352.4m/秒
最大射程 7,100m (九四式榴弾)
俯仰角 -8 - +25度
水平射角 左3.5度、右2.5度
発射速度 約10発/分
使用弾種 十年式榴弾
九〇式榴弾
九四式榴弾
九五式破甲榴弾
徹甲弾
発煙弾
照明弾
タ弾 等