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同和鉱業片上鉄道 キハ702

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国鉄キハ07形気動車(こくてつキハ07がたきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1951年に再生改造した一般形気動車(ディーゼル動車)である。旧形式名はキハ42500形(2代目)で、1957年の称号改正でキハ07形に改称された。

キハ42500形(2代目)の前身であるキハ42000形は昭和時代初期に鉄道省が開発したキハ41000形ガソリン動車を基本とし、大都市近郊路線に投入するために車体寸法を拡大して機関出力を強化したものである。
キハ42000形には、1935年(昭和10年)から62両が量産されたガソリン機関搭載の基本形式であるキハ42000形、および、1937年(昭和12年)に3両が試作されたディーゼル機関搭載の派生形式であるキハ42500形(初代)の2形式が存在した。キハ42500形(2代目) → キハ07形はこれらのうち、戦後まで残存していた車両について機関をディーゼル機関に換装して再生改造されたグループと、これらの設計に準じて戦後追加製造されたグループで構成される。

キハ42000形は、1935年から1937年にかけて62両(42000 - 42061)が製造された。このほか、ディーゼル機関を搭載した試作車キハ42500形が1937年に3両(42500 - 42502)製造されている。
製造は、民間の川崎車輛、日本車輌製造、新潟鐵工所のほか、鉄道省の大宮工場でも行なわれた。1934年度製造(1935年竣工)の最初の4両は各種試験に投じられたのち、2両は西成線(現・桜島線・大阪環状線の一部)用に宮原機関区に、別の2両が中央本線名古屋口ローカル用に名古屋機関区にそれぞれ配属された。以後は日本各地で多くの場合、1933年以降すでに先行して41000形が導入されていた路線にこれを置き換え、あるいは併用する形で投入され、捻出した41000形で新たな気動車運行路線を開拓する措置が(42000形増備が停止する1937年の戦時体制期までの短期間であったが)進められた。
戦後にもディーゼル機関を搭載し、ドアのプレスドア化など細部の仕様を変更した同形車が製造されている。こちらは、1952年に20両が製造された。

キハ42000形気動車は、全長19m、自重約27t、定員125名、燃料積載量400リットルと、量産形気動車としては当時日本最大級の気動車で、機関も日本製気動車用床下吊り下げ形ガソリン機関としては最大のGMH17形を搭載していた。
基本設計は先行するキハ41000形に多くを負っているが、そのキハ41000形自体が江若鉄道C4形などの日本車輌製造製私鉄向け大型気動車の開発成果を基にしており、型鋼を多用した軽量車体構造や菱枠構造を採用した台車などにその影響は顕著であった。
 車体はウィンドウ・シルから上を灰黄色(黄かっ色2号)、下を藍青色(青3号)に塗装され、客用扉は3箇所に設置された。また車体前頭部は当時の流行を取り入れて流線型となっていたが、工程短縮のため半円柱の2次曲面とされ、窓ガラスには通常の板ガラスを使用したため、6枚窓構成となっている。
窓配置はD1231D1321Dという不規則なものであるが、これは戸袋部分の制約や構体の強度確保等に起因しており、車内に等間隔で並べられたクロスシートは窓とは不一致であった。

本形式はキハ41000形同様に動力伝達方式が機械式と呼ばれる、自動車のマニュアルトランスミッションと同様の手動変速方式で、総括制御ができない構造であったため、大都市近郊の路線で1両で頻繁運行するのが原則であった。ラッシュ時などに連結運転を行う必要がある場合は、各車両に運転士が乗車し、先頭車の運転士がブザーにより後方の車両へ合図を送り、後方の車両の運転士はその合図に従って運転操作を行う協調運転を行っていた。この協調運転は大阪市の西成線(現在の桜島線)などの路線で実施され、戦後も千葉県など一部で行われた。
機関はキハ41000形搭載の鉄道省と日本国内のエンジンメーカー各社が共同で開発したGMF13形6気筒エンジンをベースに、気筒数を増やして直列8気筒とした「GMH17」(水冷4ストローク縦型、サイドバルブ、排気量16.98リットル)ガソリン機関で、連続定格出力150PS/1500rpm、最大出力200PS/2000rpmであった。垂直シリンダエンジンの床下搭載という制約からくるストロークの限界と、GMF13がボア拡大できる余地が(ブロックの摩耗時ボーリング再生を配慮した気筒間肉厚マージンの大きさを考慮しても)十分なものではなかったことから、GMF13のボア・ストローク拡大ではなく、130mm×160mmのボア・ストローク比はそのままに気筒数を追加する、比較的技術のハードルが低い手段を採ったものである。ヘッド部分はGMF13が3気筒ずつ分割の2ブロック構成であったのに対し、GMH17では4気筒ずつ分割の2ブロック構成とした。
点火時期調整については、GMF13では遠心力制御による機械式ガバナを用いたのに対し、GMH17は出力増大を考慮して吸気負圧制御をも併用した機械・真空式ガバナに進歩した。キャブレターは排気量増大に見合った大容量キャブレターが作れず、日本気化器(現・ニッキ)製のGMF13用ストロンバーグ型アップドラフト・キャブレター「トキハUT-5」の同型品を2基装備したツイン・キャブレター方式で対処している。なお、国産機関の採用は、ウォーケシャ6RBなどの輸入機関を使用する例が多かった江若をはじめとした私鉄向け大型気動車群や外地向け気動車群とは一線を画していた。
円錐式クラッチ板、4段の変速機(D211)はキハ41000形と同一であったが、台車に装架される逆転機については、歯車比を3.489から2.976に変更して高速運転に対応したD208を別途設計している。
台車はキハ41000形の軸バネ式の菱枠台車TR26をベースに、約7tの重量増加に対応して下揺枕を設けて枕バネ構成を変更、車軸を10t短軸とし、ホイールベースを1800mmから2000mmに拡大したTR29を採用した。TR26・29系台車はその軸距の短さとバネ構成から、高速運転時にピッチング現象が発生しやすいという問題があったが、当時の国鉄車両用台車としては珍しく走行抵抗軽減を目的としてスウェーデンのSKF社製品を元に日本精工(NSK)などで国産化した複列テーパー(円錐)ローラーベアリングを軸受に採用し、軽量化に特に留意した構造と共に、日本車輌の私鉄向け気動車の設計を元にした先進的なコンセプトの下で設計された台車であった。
キハ41000形と比してより高性能な、幹線での運用をも可能とする走行性能が与えられていたが、ブレーキシステムは軽量化のためにキハ41000形と同じ、直通・自動両用型のGPSブレーキがそのまま継承され、前述の機械式変速機とあわせて、長大編成での運用は考慮されていなかった。

1936年に、GMH17をベースに日本国内の鉄道車両用機関の有力メーカー3社の手によってディーゼル化したエンジンが試作され、これらを搭載し比較試験を行うためにキハ42000形と機関系統の機器以外は同一の車両が3両、キハ42500形という別形式で製造された。
この時試作されたのは新潟鐵工所LH8、池貝鉄工所8HSD13、三菱重工業8150の3社3種で、いずれもGMH17を基本とする縦型8気筒150馬力級ディーゼル機関であった。前2社が渦流式の副燃焼室を持つ排気量16990ccの渦流室式、三菱が直接燃焼室に燃料を噴射する排気量19467ccの直噴式、と各社が自社の得意とする技術を生かした仕様での独自設計で、各部に様々な差違があり、特に前2社製と三菱製では口径・ストローク共に異なるシリンダヘッド周辺を始め、相互間の部品の互換性はなかった。
これら3種による試験の結果、比較的悪質な燃料での使用に耐え、シリンダ内圧が低いため工作技術面でのハードルも低く、また海外特許や輸入部品への依存度が低いため国内生産が容易な渦流室式の採用が決定され、鉄道省と試験に参加した3社と川崎車輌、神戸製鋼所の共同設計で、標準型8気筒150馬力級ディーゼル機関の設計と試作が行われたが、実質的には新潟鐵工所LH8Xの直系というべき設計となった。なお、戦時体制への移行で機関の開発が中断され、実車試験は実施されなかったが、この機関が戦後のDMH17系ディーゼルエンジンの原型機となった。

私鉄でのキハ42000形は戦前に鉄道省が製作した最大の量産気動車で、戦後も追加新製が行われており、戦後すぐの段階では払い下げ対象とはならなかった。例外的に戦災等による廃車体が茨城交通や羽幌炭礦鉄道などに早期に払い下げられ、車体復旧後バス用ディーゼルエンジンを搭載してディーゼルカーとして復活しているが[17]、この時期は戦時中の私鉄買収に伴う種々雑多な買収気動車群の整理・廃車が優先されており、私鉄からの気動車払い下げ申請には原則的にこれらが充てられていた。
そのため、この時期に本形式と同クラスの大型気動車の確保を企図した夕張鉄道と南薩鉄道の2社は、本形式をベースとした車両を1952年に相次いで自社発注している。
このように、国鉄での温存が図られたキハ42500形も、1950年代中盤以降は液体式のキハ10系やキハ20系の増備が進むにつれて余剰となり、最終的に廃車されたうち25両が同和鉱業片上鉄道、有田鉄道、江若鉄道、関東鉄道、茨城交通などに払い下げられた。
このうち、最多の7両[18]を揃えて主力車としていた江若鉄道では、当初は原型のまま使用された[19]が、のちに3両について片運転台化+切妻化した連結面側への貫通路設置あるいは両運転台のままでの貫通路設置+前面形状変更(平妻化)と乗務員扉の設置、前照灯のシールドビーム2灯化、機関のDMH17への換装、変速機の液体変速機(TC-2)への換装と総括制御化、車体補強(床下へのトラスロッド追加など)等々、国鉄のキハ10系と同等の機能となるよう改造を実施し、総括制御による「気動車列車」を運行していた。これらの車両は湖西線建設に伴う江若鉄道の廃止後は関東鉄道へ譲渡され、同社の気動車整備にも影響を及ぼした。
鹿島参宮鉄道(→関東鉄道(鉾田線)→鹿島鉄道)へ払い下げられ、最終的に鹿島鉄道キハ600形となった2両(キハ42032、42036。1936年/1937年製)は譲受後、変速機を液体式変速機に交換、前面形状を平妻に改造、冷房装置を搭載するなど大幅な改造・改修を重ねた。結果、車体側面の形態と台車(TR29台車)、床油引きの木張り床板等に、往年の姿を残すのみとなっていたが、2007年3月31日の鹿島鉄道線廃止まで第一線の主力車として運用された。現役最後の42000形気動車、かつ第二次世界大戦前製造車では日本最後の現役営業気動車となった2両の車齢は、鹿島鉄道線廃止時点で約70年に達した。これは、日本で一般旅客営業に運用された気動車の中でも、史上最長の運用期間記録である。

現在の保存車としてはキハ07 41(旧番号キハ42055)は宮原線での使用を最後に1969年に廃車後、豊後森機関庫で保管されていたが、1986年に大分運転所に移されて引き続き保管された後、2003年に修復され、九州鉄道記念館に展示車両として静態保存されている。
キハ07 5(旧番号キハ42029、同和鉱業片上鉄道キハ702)は1991年7月1日の片上鉄道廃止まで旅客営業に運用された後は柵原ふれあい鉱山公園で動態保存され、月に1回の割合で展示運転されている。なお、廃止以前の昭和43年1月に、ヘッドライトのシールドビーム2灯化工事が行われて幾分イメージが変わったが、正面の流線形のフォルムは維持されている。
キハ07 29(旧番号キハ42032、鹿島鉄道キハ601)は70年以上にわたって使用された現役最後の国鉄キハ42000形気動車であったが、2007年の鹿島鉄道の廃止による廃車後は、他の鹿島鉄道の車両1両とともに旧鉾田駅にて動態保存され、イベントで実際に運転された。その後、2009年11月に鉾田市に寄贈され、同年12月には鉾田市内の温泉施設にて引き続き動態保存されている。

 


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