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諸寄駅 JR西日本)山陰本線

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諸寄駅(もろよせえき)は昭和6年に仮乗降場として開業しました。昭和13年から駅となっています。

兵庫県美方郡新温泉町諸寄字岡、小さな漁港を中心とした集落を見下ろす高台に駅は位置しています。西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。山陰海岸ジオパーク百選に登録されている千賊断崖が近くにあります。駅前は公園になっています。

鳥取方面に向かって左側に単式ホーム1面1線を有する地上駅(停留所)。棒線駅のため、ホームは鳥取方面と浜坂方面の共用である。ホームには改札口付近に上屋が設置されています。

小ぶりな木造駅舎がありますが豊岡駅管理の無人駅であり、自動券売機ありません。本来は事務室部分が右にあったが撤去されたようです。

改札口の扉はサッシ化されていますが、木製のラッチが残っています。待合室にはFRP製の椅子が設置され、時刻表と運賃表が壁に掲げられています。


発着する定期列車の殆どは米子支社鳥取鉄道部側の列車で占められているが、当駅の設備は福知山支社の管理に置かれている。

駅前にはの木造の自転車置場があります。

1931年(昭和6年)7月18日 - 国有鉄道山陰本線の浜坂駅 - 居組駅間に諸寄仮停車場として開業。季節営業の臨時駅で、旅客営業のみを行っていた。


1938年(昭和13年)6月1日 - 通年営業の駅に格上げ、諸寄駅開業。
1947年(昭和22年)2月11日 - 貨物取扱を開始。
1971年(昭和46年)4月1日 - 貨物取扱を廃止。
1983年(昭和58年)4月4日 - 無人駅化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。


電報略号 モロ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 62人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1931年(昭和6年)7月18日*
備考 無人駅
* 仮停車場として。1938年(昭和13年)6月1日に正式な駅へ格上げ。


国鉄7100形蒸気機関車と開拓使号客車

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国鉄7100形蒸気機関車と開拓使号客車
7100形は、1880年(明治13年)の北海道初の鉄道(官営幌内鉄道)の開業にあたり、アメリカから輸入された蒸気機関車である。開拓使号客車は、1880年(明治13年)に開業した北海道で最初の鉄道である官営幌内鉄道で使われた開拓使等の政府高官専用の特別客車である。アメリカのハーラン・アンド・ホリングスワース(Harlan and Hollingsworth)社で製造されたものである。アメリカ式開放客室で、中央通路・デッキ・転換式クロスシートを持ち、飲料水タンク、洋式便所、ストーブがあるのも特徴である。曲線区間でも安定走行が可能なボギー車で、また当時最新技術の空気ブレーキが使用されている。車体は、台枠に至るまで木製で、台車にも一部木材が使用されている。
当時、本州ではネジ式鎖連結器であったが、開拓使号客車を含む幌内鉄道ではアメリカで実用化されたミラー式自動連結器が採用されている。


国鉄7100形:ピッツバーグのH. K. ポーター社で、次のように合計8両が製造された。
1880年(2両) : 1, 2(製造番号368, 369)
1882年(2両) : 3, 4(製造番号487, 488)
1884年(1両) : 5(製造番号643)
1885年(1両) : 6(製造番号672)
1889年(2両) : 9, 10(製造番号1009, 1010)
官営幌内鉄道は1889年に北海道炭礦鉄道に譲渡されたが、1906年(明治39年)に制定された鉄道国有法により買収・国有化され、全車が官設鉄道に編入されている。
この機関車は番号の他に歴史上の人物(北海道絡みが多い傾向)にちなんだ愛称を付されていることでも知られ、1 - 6には番号順に、「義經(義経/よしつね)」、「辨慶(弁慶/べんけい)」、「比羅夫(ひらふ)」、「光圀(みつくに)」、「信廣(信広/のぶひろ)」、「しづか(静/しづか)」と命名されている(1889年製の2両は無名)。これは、当時のニューヨーク領事であった高木三郎の意見によったものといわれている。
西部劇から抜け出てきたような、アメリカの古典的スタイルの機関車で、その愛称とともに日本の古典蒸気機関車の代表格として親しまれている。

動輪直径は914mm(3ft)、車軸配置2-6-0(1C)で2気筒単式の飽和式テンダー機関車である。弁装置はスティーブンソン式で、弁室をシリンダ上部に設置したアメリカ形である。
テンダー(炭水車)は2軸のボギー台車を2つつけた4軸のもので、側面に愛称名が漢字で大書されていた。これは、開拓使長官黒田清隆の筆とも、大書記官山内堤雲の筆ともいわれている。
前述のように、典型的なアメリカ古典機スタイルで、前端梁に取り付けられたカウキャッチャー(牛よけ = 排障器)や大型のダイヤモンドスタック(火の粉止め)を取り付けた煙突、大型の油灯式前照灯、第1缶胴上に設けられたベル、木製の運転室などが、特徴的である。
ボイラーには、第2缶胴上に砂箱、ワゴントップ型の火室上に蒸気ドームが設けられている。
1880年に輸入された2両には、ウェスティングハウス・エア・ブレーキ製空気ブレーキが装備されており、客車とともに貫通制動ができるようになっていた。標準装備されていた自動連結器とともに、本形の先進的な部分である。当時、北海道以外の国内の鉄道では、真空ブレーキとリンク式連結器が用いられていた。
主要諸元
全長 : 12,173mm
全高 : 3,394mm
軌間 :1,067mm
車軸配置 : 2-6-0(1C)
動輪直径 : 914mm(3ft)
弁装置 : スチーブンソン式アメリカ形
シリンダー(直径×行程) : 305mm×406mm
ボイラー圧力 : 7.7kg/cm?
火格子面積 : 0.93m?
全伝熱面積 : 40.6m?
煙管蒸発伝熱面積 : 30.6m?
火室蒸発伝熱面積 : 10.0m?
ボイラー水容量 : 1.8m?
小煙管(直径×長サ×数) : 45mm×2,404mm×119本
機関車運転整備重量 : 16.37t
機関車空車重量 : 14.20t
機関車動輪上重量(運転整備時) : 13.84t
機関車動輪軸重(最大・第1動輪上) : 4.84t
炭水車運転整備重量 : 10.59t
炭水車空車重量 : 5.60t
水タンク容量 : 3.64m?
燃料積載量 : 1.5t
機関車性能
シリンダ引張力 : 2,700kg
ブレーキ装置 : 手ブレーキ(炭水車のみに取付)、空気ブレーキ(1, 2。のち撤去)、蒸気ブレーキ(3, 4)、カム・ドライバーブレーキ(1 - 4)
運転・経歴
1880年11月28日、手宮 - 札幌間が開業し、1「義經」と2「辨慶」の使用が開始された。翌1881年(明治13年)8月30日には、明治天皇がこの区間に乗車し、「義經」が「開拓使号」客車を含むボギー客車9両編成のお召し列車を牽引している。
1882年11月13日には札幌 - 幌内間が延伸開業し、3「比羅夫」と4「光圀」が増備されている。その後、5「信廣」と6「しづか」が増備されたが、1887年の増備はやや大型のボールドウィン製の1C形テンダー機関車(7, 8。後の7170形)となった。1889年には、再びポーター製が2両増備され「9, 10」となったが、後に前述の「7, 8」と番号を交換(10, 9→7, 8)し、ポーター製を「1 - 8」に揃えている。
1889年12月10日、幌内鉄道は北海道炭礦鉄道に払下げられ、本形も同社に引き継がれた。北海道炭礦鉄道ではA形(1 - 8)、後にイ形とした。


北海道炭礦鉄道5(改装後)
北海道炭礦鉄道では、本形に対し煙室の延長やダイヤモンド形煙突のパイプ形への交換、カウキャッチャーの撤去などの改造が行なわれ、原形が損なわれていった。1899年(明治32年)には、7が北海道庁鉄道部(北海道官設鉄道)に譲渡され、同部のB2形(11)となっている。同機は、煙突や煙室の改造が施行されておらず、原形に近い形態を保っていた。だが、いずれにしても、営業列車に使用されることはほとんどなく、主に建設工事や除雪用に使われていたようである。官設鉄道(鉄道作業局)編入後はEc形と称した。
1906年10月1日、北海道炭礦鉄道は買収・国有化され、官設鉄道に編入された。前年4月に移管されていた北海道官設鉄道の1両を含めて、本形の8両全部が官設鉄道に引き継がれた。1909年(明治42年)には、鉄道院の車両称号規程が制定され、7100形(7100 - 7107)に改められた。公式の改番は次のとおりである。
旧北海道官設鉄道11(B2形), 旧北海道炭礦鉄道1 - 6, 8(形式イ) → 7100 - 7107
この時の改番であるが、実際の番号と現車の製造番号の間の関係に相当の乱れが生じている。これは、製造銘板がボイラーに取り付けられていたことと、北海道炭礦鉄道では修繕の効率化のため、足回りとボイラーを別々に管理しており、相互の振替えが頻繁に行なわれていたために生じたもので、本形が3両も保存されることとなる遠因となっている(この詳細については、次節で述べる)。
この時点で、7103が入換用に、他の7両が北海道庁建設事務所に貸出され建設用に使用されていた。
1915年(大正4年)には粘着力の増大を図るため、先輪を撤去する改造を函館工場で施行されたが、蛇行動がひどくなり、すぐに復旧されている。ただし、改造の記録が確認できるのは7103のみで、復旧の記録もなく、全車に施行されたかどうかは疑わしい。
その後、1917年(大正6年)に7106が廃車され、日本製鋼所室蘭製作所に売却されたのを皮切りに、7103が1922年(大正11年)に廃車、1923年(大正12年)に7100, 7102, 7104, 7105, 7107が廃車となり、7100, 7102, 7107が北海道建設事務所に、1925年(大正14年)には7104, 7105が梅鉢鐵工所(後の帝國車輛工業)に譲渡されている。7101は保存のため東京に送られた後の1924年(大正13年)に廃車となっている。
梅鉢鐵工所に譲渡された7104は、後に高知鉄道(後の土佐電気鉄道安芸線)の建設用に譲渡されたが、工事完成後に解体された。

 

1922年、北海道の1号機関車である「義經」を東京に新設される鉄道博物館(のちの交通博物館)に保存することとなり、7101が「義經」の後身であると推定され、1923年8月に同館に送られた。しかし、同年9月1日に発生した関東大震災により東京入りできず、同機は黒磯駅構内の機関庫に10年以上も保管(放置)されることとなった。
1936年(昭和11年)、7101は大宮工場(現在の大宮総合車両センター)で「義經」として復元されることとなった。しかし同年、鉄道ファンである島崎英一と川上幸義が『7101が「辨慶」、7105が「義經」である』との調査結果を大宮工場に報告し、7101は一転「辨慶」として復元されることとなった。1940年(昭和15年)、同機の復元が完成し、鉄道博物館に収蔵、静態保存された。1958年(昭和33年)には鉄道記念物に指定されている。交通博物館閉館後は、2007年(平成19年)10月14日にさいたま市大宮区に開館した鉄道博物館に移され、展示されている。

 

【第11小浦丸】 フェリー 福本渡船

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尾道(土堂)~向島(小歌島) 0.25km 3分
尾道は幅数百メートルの海峡をはさんで向島と向かい合っている。向島は、造船の島として知られている。海峡と言うよりも「川」と言った方がぴったりするようなこの区間が尾道水道(尾道海峡と呼ばれることもある)。尾道水道は、広島県尾道市の瀬戸内海のうち、本州と向島に挟まれた東西に長い幅約200から300メートルの狭隘部の呼称である。尾道水道沿岸には重要港湾に指定されている尾道糸崎港尾道港区が立地し、古くから瀬戸内航路の主要商港として機能して来た。尾道市街地はこの尾道港を中心とし水道に面した沿岸域に所在し、水道に南面する本州側には尾道市中心市街地、また北面する向島には造船所、そしてこれに続く内陸側平坦地には住宅地が形成されている。水道には向島と本州側尾道市街地を結ぶ生活交通網として3本のフェリー航路と2本の橋梁(尾道大橋と新尾道大橋)が整備されている。

この尾道水道には「渡船」と呼ぶにふさわしい航路がいくつもあります。
すでに両地区の間には尾道大橋が架かっており、渡船がなくては生活できないという状況ではないのだが、それでも毎日、小さな船がひっきりなしに海峡を往復している。いずれも航路延長数百m、時間にして3分から5分のミニ航路です。

尾道(土堂)⇔向島(小歌島)この区間を結ぶ航路の中で唯一、他の航路よりも安い運賃を設定している航路です。尾道側の桟橋は、富浜航路よりもやや東よりであり、向島側の桟橋は、尾道駅前桟橋のほぼ真正面に位置する。このような立地条件のよさが、他の航路よりも安い運賃設定となっています。近くに造船所があるために朝夕は通勤・通学客の利用が多く、結構混雑します。

ちなみに福本渡船の尾道士堂桟橋は、映画『さみしんぼう』(85年4月公開)で主人公の百合子(富田靖子)が通学に利用していた渡船乗り場です。また大林宣彦監督の「ふたり」でも登場する渡船乗り場です。

会社 福本渡船
船名:【第15小浦丸】
●総トン数:92.00
●主機関馬力:180×1
●航海速力:7.0
●旅客定員:125名
●積載可能車輌数:トラック7
●就航年月日:1984年8月1日

居組駅 JR西日本)山陰本線

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居組駅(いぐみえき)は、兵庫県美方郡新温泉町居組字大坂にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。

居組は日本海に面した比較的大きな集落だが、駅は集落から山側に約800m程離れており、駅の周囲には民家はほとんどない。

そのため、いわゆる秘境駅として紹介されることがある。

兵庫県に所在する山陰本線の駅としては起点から見て最後の駅で、当駅を出ると鳥取県に入る。
当駅と東浜駅の間(上り第3閉塞信号付近)に福知山支社と米子支社の境界標が存在する。

当駅の絶対信号機(場内・出発信号機)が2013年夏に廃止されるまでは、時折当駅を起終点とする試運転列車や回送列車などが設定されることがあった。当駅に発着する定期列車の殆どは米子支社鳥取鉄道部側の列車で占められているが、当駅の設備は福知山支社の管理に置かれている。

鳥取方面に向かって右側に単式ホーム1面1線を有する地上駅(停留所)。駅舎は古い木造駅舎です。
かつては単式・島式ホーム2面3線を有していたが、3番線のポイントが撤去され(時期不明)、それから2008年(平成20年)3月14日までは2面2線で運用された(同時に2線とも上り下りの出発信号機が設置され、それまで2番線を主に使用した鳥取行きは、行違い列車や通過列車を除いて従来の上り線(駅舎側の1番線)に発着していた)。


さらに2008年3月15日のダイヤ改正と同時に、かつての2・3番線ホームに通じる跨線橋が閉鎖され1面1線の棒線駅の運用となり、浜坂方面・鳥取方面とも全ての列車が1番線に発着することになった。その後も2番線の場内・出発信号機は2009年頃までは稼動していたが、2010年3月現在では使用が停止されている。
その後、2013年夏から秋にかけて、棒線化の工事が実施された。跨線橋・絶対信号機(場内信号機・出発信号機)の撤去がこれにともない実施されている。


便所は老朽化のため使用が停止されている旨の張り紙がある。 豊岡駅管理の無人駅であり、自動券売機も設置されていない。待合室には造り付けの長椅子が設置されています。改札口には木製の改札ラッチが残っています。

1911年(明治44年)11月10日 - 国有鉄道山陰本線の浜坂駅 - 岩美駅間延伸により開業。客貨取扱を開始。
1971年(昭和46年)4月1日 - 貨物取扱を廃止。
1983年(昭和58年)4月4日 - 無人駅となる。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2008年(平成20年)3月15日 - 2番線ホームと連絡跨線橋を閉鎖。
2012年(平成24年)3月17日‐ダイヤ改正により、一部普通列車が通過となる(当該列車は翌2013年3月16日改正で「快速」に名義変更)。

電報略号 クミ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線


乗車人員
-統計年度- 20人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1911年(明治44年)11月10日
備考 無人駅
* この間に福知山支社と米子支社の境界標あり(当駅から諸寄寄りは福知山支社管内)

東浜駅 JR西日本)山陰本線

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東浜駅(ひがしはまえき)は、海辺の小さな集落に位置する小駅で鳥取県岩美郡岩美町大字陸上(くがみ)字下塚畑にある西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅です。

起点から見て山陰本線の最初の鳥取県の駅である。また、同県最北端の駅である。当駅と居組駅の間(上り第1閉塞信号付近)に福知山支社と米子支社の境界標が存在する(各種書類上の分界駅は居組駅とされるが、ダイヤ運用上では浜坂駅が事実上の境界となっている)ため、時折当駅を起終点とする試運転列車や回送列車などが設定されることがある。東浜海水浴場が近くかつて海水浴シーズンには多くの利用客で賑わったようです。


相対式2面2線のホームを持ち、交換設備を有する地上駅。駅舎は駅名看板を駅舎上に掲げた平屋のコンクリート造の駅舎です。双方向に出発信号機を備え、駅舎側の1番のりばを直線とする一線スルー構造となっているが、上下線の本線は分けられており、下り停車列車は2番のりばを使用する。互いのホームは跨線橋で連絡している。下りホームには鉄骨造の待合室が設置されています。


鳥取鉄道部管理の無人駅であり、入口付近に乗車駅証明書発行機がある。細長い待合室にはFRP製の椅子が数多くずらりと並んでいます。駅前は広く、バス停や駅開業記念碑があります。


のりば 路線 方向 行先
1 ■山陰本線 上り 浜坂・豊岡方面
2 ■山陰本線 下り 鳥取・米子方面


留置線の跡が残っています。

1950年(昭和25年)1月1日 - 国鉄山陰本線の居組駅 - 岩美駅間に新設開業。
1968年(昭和43年)10月10日 - 貨物取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。

電報略号 ヒマ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1950年(昭和25年)1月1日
備考 無人駅(乗車駅証明書発行機 有)
* この間に福知山支社と米子支社の境界標あり(当駅から岩美寄りは米子支社管内)

 

ハニフ1形式(デ963形)

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1904年の電化に伴って甲武鉄道が導入した電車は、全長10mあまりの二軸車であった。しかしながら、これらの電車は総括制御機能が備えられており、郊外電車として連結運転が可能で、単車で運行する路面電車とは一線を画する車両であった。主電動機や、制御装置等の電装品はアメリカのゼネラル・エレクトリック社から、台車は同じくブリル社製の二軸台車21Eを輸入し、自社の飯田町工場で車体を新製した。この二軸台車の軸距は10ft(約3m)で車体の割に短く、ピッチング(前後のゆれ)が激しかったという。
電動機は、1904年の車両にはゼネラル・エレクトリック社製の出力45PSのものを、1906年以降増備の車両にはウェスチングハウス社製の出力50馬力が使用され、どちらも1両に2個装備した。集電装置は2線式のトロリーポールで、両運転台車は車体前後の屋根上に1対ずつ4本、片運転台車は後部に1対2本のポールを装備した。
車体は、前後に開放式の出入り台を設けたオープンデッキ式で、出入り台の中央部に運転台が設けられていたが、出入り台には一般旅客と運転手の間に仕切りはなかった。また、前面の窓部は前方に張り出しており、5枚の窓が設けられていた。側面は2個一組の下降窓が6対並び、その上部の幕板にはアーチ状の飾り窓が設けられていた。屋根は、客室部のみをモニタールーフとしていた。
この電車は、1904年に二等三等合造車3両を含む16両が製造され、電化区間の延伸に伴って1906年度に12両を増備、さらに国有化後の1909年(明治42年)度に新宿車庫で4両が製造され、計32両が出揃った。この他に、客車改造の制御車が4両製作されている。
基本形式
1907年の国有化時には28両の電車が引き継がれたが、当面は甲武鉄道時代の記号番号のまま使用され、1909年に鉄道院によって追造された車両もその続番が付与された。1910年(明治43年)3月には、鉄道院による新しい車両形式称号規程の制定により、車内設備と運転台が片側か両側かで3形式に分けられた。その後、前述の付随車が改造により製作されている。

デ963形
計26両が製造された、甲武鉄道の電車を代表する形式で、甲武鉄道の4輪(2軸)電車全体をデ963系と呼称することもある。甲武鉄道時代には、1904年には1, 3, 6 - 13の10両、1906年には17 - 27の11両は飯田町工場で、は28が新宿車庫で製造され、国有化後の1909年には、ハ29 - 32の4両が新宿車庫で製造されている。外観はニデ950形、デ960形とほとんど変わることがない。1910年、鉄道院の車両形式称号規程の制定時には、番号順にデ963形(963 - 988)に改められた。
前述のように、1912年に3両が半室荷物車に改造され、ニデ950形に編入された。その後は後継のボギー車の増備にともなって電装品を流用され、1914年(大正3年)度の時点では、973 - 979, 981 - 987の14両が両運転台式の制御電動車、残りの963 - 965, 967 - 970, 972, 988の9両が片運転台式の制御車となっていた。

甲武鉄道の電動車のホイールベースは10ftであったが、車体長の割にホイールベースが短いため、前後の動揺(ピッチング)や蛇行動(ヨーイング)が激しく、その改善のため、1909年に一部の車両についてホイールベースの延長が行われた。台車を分割してその間に鋼材を継ぎ足し、2ft6in延長したものである。この改造は、これらが私鉄に譲渡された後にも行われている。これらの4輪電車は、後継のボギー電車(ホデ1形。後のホデ6100形)の増備にともなって余剰となり、1914年度から1915年(大正4年)度にかけて電装品を新製車に譲り渡して客車として、当時勃興しつつあった地方私鉄の開業用に譲渡された。

 

本系列のうち、信濃鉄道から松本電気鉄道に移ったデ968 → ハニフ1については、国鉄電車の祖としての価値が認められ、廃車後も同社新村車庫に設けられた専用の庫内に保存された。その間、何度も国鉄による保存計画が取り沙汰されたものの、実現に至ることはなかった。しかし、2007年(平成19年)10月14日にさいたま市大宮区に開館した鉄道博物館で保存展示されることが決定し、同車は同年3月に松本電気鉄道から東日本旅客鉄道へ寄贈され、当面はハニフ1のままで展示されている。デ968への復元は、今後検討されることとなっている。

岩美駅 JR西日本)山陰本線

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岩美駅(いわみえき)は、鳥取県岩美郡岩美町大字浦富字国次にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。
当駅前後には1往復のみ乗り入れる特急「はまかぜ」が停車いたします。

鳥取県立岩美高等学校の最寄り駅もあって朝夕は多くの利用客で賑わいます。また浦富海岸や岩井温泉への下車駅です。岩井温泉へは以前は鉄道(岩井町営軌道)が走っていました。

岩井町営軌道(いわいちょうえいきどう)は、かつて鳥取県岩美郡岩井町(現・岩美町)の岩美駅と岩井温泉駅を結んでいた鉄道路線である。軌道法による軌道でした。


後に市町村合併により岩美町となる岩井町が運営、国鉄山陰本線と岩井温泉を結び、温泉客輸送や、荒金鉱山から産出される銅鉱石の搬出を目的に敷設されました。

単式と島式の2面3線のホームを持ち、列車交換や待避が可能な地上駅。赤瓦の木造駅舎は単式の1番のりば側にあり、島式の2・3番のりばへは跨線橋で連絡している。

駅前広場にはタクシーも常駐し広い。


鳥取鉄道部が管理し、ジェイアール西日本米子メンテックが駅業務を受託する業務委託駅で、自動券売機あり。出札窓口にはPOS端末を備える。


駅舎は1910年(明治43年)6月の開業当時のものであるが、1994年(平成6年)に今上天皇の利用に先立ってリニューアル工事が施された。

駅自体には便所は設置されていないが、隣接する岩美町観光案内所に男女別の水洗式便所がある。待合室には多数のFRP製の椅子が設置されキオスクもあります。

岩美駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先 備考
1 ■山陰本線 上り 浜坂・城崎温泉方面
2・3 ■山陰本線 下り 鳥取・米子方面 3番のりばは一部の普通のみ


1番のりばが上り本線、2番のりばが下り本線、3番のりばが上下副本線である。3番のりばから浜坂方面の発車も可能であるが、定期列車での設定は無い。優等列車の待避自体の設定もないため、3番のりばは一部の鳥取方面の普通列車が線路保守を兼ねて入線する程度である。
2・3番ホームの上屋下には待合室が設置されています。

1910年(明治43年)6月10日 - 国有鉄道山陰本線が鳥取駅から延伸し、その終着として開業。客貨取扱を開始。
1911年(明治44年)11月10日 - 山陰本線が浜坂駅まで延伸し、途中駅となる。


1926年(大正15年)1月20日 - 岩井町営軌道が開業。
1944年(昭和19年)1月11日 - 岩井町営軌道休止(1964年3月27日正式廃止)。
1975年(昭和50年)4月5日 - 貨物取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。

電報略号 イミ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線


開業年月日 1910年(明治43年)6月10日
備考 業務委託駅
POS端末設置
* この他岩井町営軌道(1964年廃止)

 

 

 

 

TF40-IHI-801A F-1、T-2用エンジン 航空自衛隊

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ロールス・ロイス・チュルボメカ RT.172 アドーア(英語: Rolls-Royce Turbomeca RT.172 Adour)は、イギリスのロールスロイスとフランスのチュルボメカの合弁会社であるロールス・ロイス・チュルボメカ社によって開発、生産された2軸式のターボファンエンジンである。このエンジンの名称はフランス南西部を流れるアドゥール川に由来する。

アドーアは当初、イギリスとフランスの共同開発によるジャギュア攻撃機用に開発されたエンジンで1968年に最初の運転に成功した。当初はアフターバーナーは搭載していなかった。
2009年7月の時点で19種類に及ぶ2,800基以上のアドーアが生産され、総飛行時間は2009年12月に800万時間に達した。アメリカ合衆国ではこのエンジンをF405-RR-401(ベース型:アドーア Mk 871)として現在でもアメリカ海軍でボーイング / BAE システムズ T-45 ゴスホーク練習機で使用しており、改良型としてF405-RR-402(ベース型:アドーア Mk 951)が開発されている。開発当初サージングの問題があり、対策がとられた。日本でも三菱製T-2/F-1用に石川島播磨重工業(現・IHI)がライセンス生産したTF40-IHI-801A(ベース型:アドーア Mk 102、派生型:アドーア Mk 801)を採用していた。

しかしIHIがライセンス生産を締結する前にFMS形式で防衛庁(当時)が先行量産型のアドーアを輸入した。これを元にIHIがIHI801Xとして生産していたが、ロールスロイス側は改良型エンジンをリリースした上、技術的な対応などRR側の対応があまりにもおざなりなものであった為、生産途中で仕様が独自変更されている(この一件で欧州製に対する不信が防衛庁に起こることとなる)。そして搭載されていたT-2、F-1の退役と共に同機も退役した。

TF40-IHI-801A - 三菱 F-1 と T-2用の石川島播磨重工によるMk 801のライセンス生産型
用途機種 F-1、T-2
重量 1675.5ポンド(760kg)
圧縮機 低圧:2段 高圧:5段
タービン 低圧:1段 高圧:1段
推力 5,115ポンド(2.317kg) アフターバーナー使用時:7,605ポンド(3,307kg)
回転数 低圧:13,600 RPM  高圧:15,512 RPM
圧縮比 11:1
燃料消費率 0.755 アフターバーナー使用時:2.14
製作 石川島播磨重工


大岩駅 JR西日本)山陰本線

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大岩駅(おおいわえき)は、鳥取県岩美郡岩美町大字大谷字上赤梨子にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅である。

桜の名所で春になると駅正面に植えられている桜が咲き、非常に綺麗。駅周辺には田園が広がっているだけですが少し離れた海側の集落には比較的人家も多い。

鳥取方面に向かって右側に単式ホーム1面1線を有する地上駅(停留所)。
数メートルの高さの盛土区間で、階段またはスロープでホームに上がる。

すぐ裏手の国道9号線側からも構内踏切で連絡しています。駅舎はなく、ホーム上に待合室が設置されています。

鳥取鉄道部管理の無人駅であり、ホーム上に乗車駅証明書発行機が設置されている。

待合室には長椅子が設置されています。

駅前には広いスペースがありトイレと規模の大きな駐輪場があります。

1950年(昭和25年)1月1日 - 国鉄山陰本線の岩美 - 福部間に新設開業。客貨取扱を開始。
1962年(昭和37年)10月1日 - 貨物取扱を廃止。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。

電報略号 オワ
駅構造 地上駅(盛土上)
ホーム 1面1線
開業年月日 1950年(昭和25年)1月1日
備考 無人駅(乗車駅証明書発行機 有)

 

福部駅 JR西日本)山陰本線

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福部駅(ふくべえき)は、鳥取県鳥取市福部町栗谷にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の旧福部村の駅です。鳥取砂丘の最寄駅。ただし駅利用の中心は通学の高校生達です。

島式1面2線のホームを持つ交換可能な地上駅。駅舎は撤去され、小さな待合室のみの駅舎が設置されています。

鳥取鉄道部管理の無人駅であり、線路西側にある駅舎内には乗車駅証明書発行機がある。駅舎側からホームへは構内踏切を渡る必要がある。

待合室内には白いFRP製の長椅子が1脚設置されています。

国鉄時代には、ホームに面していない線路があり、貨物列車の待避などのために使用されていた時期もあったが、JRとなってからは使用されず撤去された。

福部駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1(駅舎側) ■山陰本線 上り 浜坂・豊岡方面


2(反対側) ■山陰本線 下り 鳥取・米子方面


ホーム上には駅舎より立派な待合室が設置されています。

駅前には規模の大きな駐輪場があります。

1910年(明治43年)10月10日 - 国有鉄道山陰本線の岩美駅 - 鳥取駅間に、塩見駅として新設開業。客貨取扱を開始。
1949年(昭和24年)3月1日 - 福部駅に改称。
1961年(昭和36年)9月23日 - 貨物取扱を廃止。
1972年(昭和47年)2月10日 - 無人駅化(簡易委託駅化)。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。

電報略号 フヘ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
開業年月日 1910年(明治43年)10月10日
備考 無人駅(乗車駅証明書発行機 有)
* 1949年に塩見駅から改称。
** この間に滝山信号場有(5.9km先)

 

 

軌道自転車(線路保守用)

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軌道自転車とは、運転者が乗車して鉄道線路上を走行する車両である。旧来は自転車やオートバイ部品流用が多見されたが、現在は各社が専用車体を製作している。

線路上を走行する自転車、バイクで、レールバイクとも呼称され、線路上を走行するため鉄道に分類される。二輪自転車を改造した人力駆動車や新造のエンジン駆動する四輪車などがある。
現在の保線作業では、軌道自動自転車と呼称されるエンジン駆動製品が多用されている。通常は前進一方向で線路から持ち上げて方向転換するが、逆進可能な製品もある。
エンジン駆動製品は、バイク同様のスロットルグリップ回転する、右手親指でスロットルレバーを開閉、アクセルスロットルとブレーキが一体化したレバー操作など、複数の運転方法がある。セルモーターや紐を引くリコイルスタートで始動するスクーター類似製品もある。2010年11月開催の鉄道技術展で、国内主要メーカーがモーター駆動する電動式商品を発表している。

観光用:路線に鉄道廃線を再使用した全長数kmから10数km程度で、観光時期や週末限定で営業するものが多い。
日本では美幸線廃線のトロッコ王国美深、高千穂鉄道廃線の高千穂あまてらす鉄道や、旧神岡鉄道神岡線廃線では春から秋季に、客自身が運転する「レールマウンテンバイク」が催される。諸外国ではドイツ、スウェーデン、ノルウェー、ポーランドなどヨーロッパ山岳観光地に多見され、韓国では廃線跡活用などが複数散見される。
線路保守用:主に保線作業で使用され、災害時線路巡回や夜間等軽作業時の移動運搬用途も多い。
その他:鉱山鉄道内作業で供される事例や、ロシア東部など一部国や地域では、沿線住民が無許可で軌道自転車を運転し移動する事例もある。

1290形タンク式蒸気機関車

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1290形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道院に在籍した、タンク式蒸気機関車である。

1875年(明治8年)及び1882年(明治14年)に、鉄道建設工事用にイギリスから輸入された蒸気機関車(バラスト・エンジン)で、計3両が輸入された。1873年(明治6年)及び1881年(明治13年)マニング・ワードル社(Manning Wardle & Co., Boyne Engine Works)製(製造番号431, 435, 815)である。
1873年製の2両は官設鉄道において使用されたが、1881年製の1両は日本鉄道に引き渡され、建設工事に使用された。日本鉄道に行った1両は、埼玉県川口市の善光寺裏まで運ばれ、そこで組立したことから、「善光」(ぜんこう)の愛称が与えられている。
また、1873年製の2両は製造番号が離れているが、これは1両が造幣寮の注文であったためという説がある。異説として、これはヨークシャー社製の10(後の鉄道院110形)であったという説もあるが、いずれも確証がなく、真相は闇の中である。


構造:動輪直径は914mm(3ft)、車軸配置はC(動輪3軸、先従輪なしの意味)のタンク式蒸気機関車である。本形は、ボイラー上に鞍のように角形の水槽を載せたサドルタンク型で、動輪を動かすシリンダは台枠の内側に設けられており、弁装置はスチーブンソン式である。外からは各動輪を繋ぐ連結棒が見えるのみで主連棒等の機構を見ることはできない。蒸気ドームは火室上に設けられており、サルター式安全弁を備えている。また、煙室扉の形状も独特で、通常は左右に開閉するものであるが、2/3を上下に開閉するようになっている。
運転室は低速で運転されるのみであるため、屋根を4本の鋼管で支えるのみで、当初は前後の風除けすら付いていなかった。後に風除けが前後に設けられ、官設鉄道の2両は、運転室を拡大して火室上の蒸気ドームまで覆う形となり、煙室扉の開き方も普通の左右開きに改造されている。
また、日本鉄道が導入した1両の弁装置はジョイ式となっており、官設鉄道の2両もこれに倣っている。
主要諸元
全長:6,991mm
全高:3,150mm
軌間:1,067mm
車軸配置:0-6-0(C)
動輪直径:914mm(3ft)
弁装置:スチーブンソン式基本型(1290, 1291)、ジョイ式基本型(1292)
シリンダー(直径×行程):304mm×432mm
ボイラー圧力:8.4kg/cm?
火格子面積:0.55m?
全伝熱面積:36.9m?
煙管蒸発伝熱面積:33.1m?
火室蒸発伝熱面積:3.8m?
小煙管(直径×長サ×数):44.5mm×2445mm×97本
機関車運転整備重量:16.81t
機関車動輪上重量(運転整備時):16.81t
機関車動輪軸重(最大・第2、第3動輪上):5.89t
水タンク容量:1.84m?
燃料積載量:0.56t
機関車性能
シリンダ引張力:3,140kg
ブレーキ装置:手ブレーキ

1875年に来着した2両は、22, 24と付番され、西部地区(阪神間)の建設工事に使用された。その後、日本鉄道建設用の1両が1882年に来着し、こちらは25と付番され、「善光」の愛称をいただいたことは前述のとおりである。
官設鉄道の2両は、1885年にH形に類別され、1898年(明治31年)には、形式がB1形と改められている。
本形は、建設工事用として各地を転々としており、京阪神間の開業後の1880年に敦賀 - 長浜間の建設のため、船積みされて金ヶ崎(現在の敦賀港)に送られたが、1886年3月に1両が湖東線建設のため戻されている。
日本鉄道の25は、1894年(明治27年)に官設鉄道と日本鉄道の機関車管理体制が分離されたのに伴う改番で、M3/3形の3となったが、後に工事用機関車を「甲」、工場入換用を「乙」としたことから、甲1(機関車には「1」とのみ表示)となった。つまり、日本鉄道には、通常の営業用の「1」と工事用の「甲1」、入換用の「乙1」と3両の1号機関車が存在したことになる。
甲1は、1906年(明治39年)の日本鉄道国有化時には東京に戻っており、田端機関庫で入換用として使用されていた。国有化を受けて1909年(明治42年)に制定された鉄道院の形式称号規程では、1290形と定められ、官設鉄道の22, 24は1290, 1291に、旧日本鉄道の甲1は1292に改められた。
1911年(明治44年)4月に1290と1291は千葉県庁に払下げられ、千葉県営鉄道(野田線)の1, 2となりこの2両で開業した。1923年(大正12年)に千葉県営鉄道は北総鉄道[4]に譲渡され、1930年(昭和5年)3月に廃車された。その後の消息は明らかでない。
1292は、工事用として秋田鉄道(現在のJR東日本花輪線の一部)に貸出されるなどしていたが、1918年(大正7年)に使用中止になった。1922年(大正11年)7月になると千葉県営鉄道(野田線)が野田町の野田醤油株式会社の工場新築工事の資材輸送のためにこの機関車を借り受け、ここで3両が揃うことになった。その後、1923年に廃車された。

屋島駅 JR四国)高徳線

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屋島駅(やしまえき)とは、香川県高松市高松町にある四国旅客鉄道(JR四国)高徳線の特急停車駅です。駅周辺は市街地でにぎやかです。駅番号はT23。観光地・屋島への下車駅です。琴電屋島駅へは徒歩約12分の距離です。駅表示パネルのコメントは源平合戦ゆかりの駅。

島式・相対式ホーム2面3線を持つ地上駅。三連並んだ三角の庇が特徴大きな木造駅舎があります。2番のりばが一線スルーになっている。

自由席特急券発売可能な自動券売機が設置されています。駅内には、NPO法人による観光案内所が設置されています。待合室には長椅子が設置されています。委託駅。


かつては、駅舎内にJR四国グループのパン屋ウィリーウィンキーが併設されていたが現在は閉店しています。2007年4月1日よりことでんバスの屋島山上シャトルバスが乗り入れる。

のりば
ホーム 路線 行先
1 ■高徳線 志度・三本松・徳島方面
栗林・高松方面


2・3 ■高徳線 栗林・高松方面


1925年(大正14年)8月1日:開業。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。
2008年(平成20年)12月:「元気YASHIMAを創ろう会」によって、土・日・祝日のみ開けられる観光案内所が設置される。
2009年(平成21年)7月:地域住民でつくる古高松地区コミュニティ協議会内の地域活性化部会「JR屋島駅盛上げ隊」による駅の運営管理(毎週水曜日は定休日)が開始。きっぷ売り場に隣接した「地域振興スペース」には、地元住民の手による芸術作品の展示が行われる。
2011年(平成23年)
5月:地元住民の手により、「こどもの日」の前後の期間中、駅前広場にこいのぼりが掲げられるようになった。(2012年も継続中)
11月:それまで休眠状態であった駅の井戸が、地元住民の手によって復活した。
12月:地元住民の手により、「クリスマス」の前後の期間中、駅前広場にクリスマスイルミネーションが点灯されるようになった。(継続中)
2012年(平成24年)6月:駅前の県道において、源平の里あきない会の主催により、「源平の里ほたる祭」が開催された。(2012年も継続中)

電報略号 ヤシ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 687人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1925年(大正14年)8月1日

消防艇 ひろしま 展示放水 広島市消防局

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消防艇「ひろしま」。広島港と似島や金輪島などの消防防災体制の強化を目的に、1979年(昭和54年)12月に配備。に水上消防署(現 広島市南消防署水上出張所)の発足時に配備されました。

現在 の消防艇は、平成10年4月に更新され、消火活動や人命救助活動をはじめ、人員・資機材の搬送を行っています。現在のものは1998年(平成10年)4月に配備された2代目。南消防署水上出張所に配備

ひろしま 
総トン数:55.63t
 エンジン:カミンズ VT12-800M×2(749PS×2) 
消防ポンプ:多段ボリュート×2(1.45MPa×16,000L/min) 
放水砲:4500型(リモコン式)2門、3000型1門 
吐水口:65mm×12 
泡原液槽:3,000L
 製作:1979年

消防艇とは、水上や沿岸において発生した火災の消火や災害への対応を行う船舶である。主に地方政府の消防組織や沿岸警備隊が保有している。


専用に設計された消防艇の多くは強力なポンプを備え、取り込んだ水を船の高い位置に取り付けられた放水銃から放水することで火災消火を行なうが、その他にも救助専門艇や指揮専門艇、これらの兼用艇がある。積載する化学消火剤を放水に混ぜることで石油火災に対処するものもある。

消防艇は主に消防組織か沿岸警備隊に所属し、24時間体制で船舶や沿岸域での火災や水難救助などに出動する。

日本の消防艇は地方自治体の消防組織に所属するものと海上保安庁に所属するものがほとんどである。

消防組織に属する消防艇は、2006年4月1日現在で50隻、海上保安庁に属する消防艇は19隻ある。ただし、海上保安庁の巡視船艇は、警備救難に従事するものでもポンプと放水銃を備えたものが多く、火災の際には消防艇として活動できる。

19隻というのは、特に消防機能を強化された船艇(FL型・FM型など)の数である。これらは、主として船舶交通量の多い港湾や海峡近く、あるいは沿岸に石油コンビナートを擁する消防署所、海上保安部に配備されている。また、自衛防災組織も消防艇を保有している。


これらに加え、海上自衛隊の支援艇の一部、民間ではタグボートや警戒船業務を行う船舶の中にも消防設備を持ち、火災の際に消防艇として活動できるものがある。
船舶の火災通報は、火災事故船自身や周囲の船からの通報や各種救難信号によって水上消防署へもたらされ、消防艇が出動する。日本の専用消防艇はすべてが化学消火剤を混ぜて噴射する能力を備えている。タンカー事故などでは海上への油漏れを最小限にするオイルフェンスを展開する事も行なう。

構造
大部分の消防艇は、港湾内や河川・湖沼といった水域(日本の区分でいう平水)を担当範囲としているため、大型のものは少なく、全長は十から数十mのものが多い。艇の高さは活動区域によってさまざまで、低い橋の下を航行できるように高さを抑えたものもあれば、大型船の火災に対応できるように高い櫓を備えたものもある。機動力を高めるため、サイドスラスターやシュナイダープロペラを装備するものもある。

装備
火災消火のため放水銃を装備しているものがほとんどで、放水銃は、専用あるいは航行用兼用のエンジンによって駆動されるポンプから、消火用水の供給を受ける。消火用水は海水を汲み上げてこれを利用するが、タンカー火災などの場合は海水に消火剤を混合して使用する。

このほか艇により、陸上の消防車に消火用水を供給するための送水口、火炎から自艇を守る自衛噴霧装置、小型救助艇を装備している。

能力
専用消防艇の多くが6500-10,000リットル/分程度の放水能力を持つ放水銃を4-6門備え、大きな放水銃では15,000リットル/分の能力を持つものもある。

MO 船舶番号:136143
船籍:日本 船籍港:広島
総トン数:52トン 最大速力:19.0ノット
全長:23.60m 型幅:5.40m
乗員:20人 竣工年月:1998.03.19
所管:総務省 広島市消防局 南消防署水上出張署

根府川駅 JR東日本)東海道本線

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根府川駅(ねぶかわえき)は、神奈川県小田原市根府川にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)東海道本線の駅である。関東の駅百選認定駅。

根府川付近では箱根火山の溶岩である根府川石が産出されていた。現在では根府川ではなく北側にある米神の谷で採取されている。また、一帯はかつて日本でも有数のみかん栽培地であったが、その後の需要低迷や後継者不足により生産量は減りつつある。

2面3線のホームを有する地上駅。1番線は貨物列車専用のホームだったが1970年頃に撤去されたため、のりばは2番線から4番線となる。東側の4番線は国道135号を挟んで相模湾に面しており、よく晴れた日には房総半島や伊豆大島まで見渡すことができる。ちなみに詩人・茨木のり子は、当駅を舞台にした「根府川の海」という詩を発表している。元旦にはJR東日本が運行する初日の出号が停車する。


高度差が大きいため(ホームの海抜は45m)、ホームはがけの下、駅舎はがけの上にある。ホームから上った跨線橋と同じ高さに木造瓦葺の駅舎がある。エスカレータやエレベーター、証明写真撮影機などは設置されていない。


東海道本線の中では美濃赤坂支線を除けば唯一の完全な無人駅である(真鶴駅管理)。Suica改札機、自動券売機(稼働時間8:30 - 16:30)と乗車駅証明書発行機が設置されているが、自動精算機は設置されていない。時折近辺の駅から出張してくる駅員が乗車券の回収や乗越精算を行っている。また、駅員不在時に連絡するものとして真鶴駅につながるインターホンが自動券売機の横に設置されている。
ホーム延伸工事が行われる以前[いつ?]は、15両編成停車時にドアカットが行われていた。


自動券売機の稼働時間外でのグリーン車への乗車の際は、駅で乗車駅証明書を取った後、車内改札でグリーンアテンダントに乗車駅証明書を見せれば、事前料金の値段で乗車することができる。駅前広場に箱根登山バス「根府川駅」バス停留所が設置されている。

のりば
番線 路線 方向 行先 備考
2 ■東海道線 上り 小田原・横浜・東京方面
3 ■東海道線 上り 小田原・横浜・東京方面 待避時
下り 熱海・伊東・沼津方面
4 ■東海道線 下り 熱海・伊東・沼津方面


4番線ホームからは眼下に海を臨むことができる。熱海寄りの白糸川橋梁はかながわの橋100選に選出されている。関東大震災で倒壊し、翌年再建されたもの。


当駅は駅の構造上、鉄道写真の撮影に適した駅(撮影ポイント)であり臨時列車などが運行される際は多数の撮影者が当駅を訪れる。そのため駅の架線柱などには注意書きがある。

 

1896年(明治29年)から1922年(大正11年)までは、人車鉄道・軽便鉄道の豆相人車鉄道(のちの熱海鉄道)も存在していた。同線の「根府川駅」は、当駅よりも高台の位置に設けられていた。
1922年(大正11年)12月21日 - 国有鉄道熱海線 国府津駅 - 真鶴駅間の開通と同時に開業。旅客・貨物取扱を開始。
1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により地すべり(土石流ともいわれる)が発生し、当駅に進入中の真鶴行き下り列車(8両編成、乗客約150名)が客車2両を残して駅舎、ホームもろとも海中に没する。列車に乗車していた約110名とホームに居た二十数名の計約130名が死亡した。駅周辺の住民も多数死傷した(根府川駅列車転落事故も参照のこと)。駅構内に残ったのは車止め一つだけだった。
駅は翌年再建されたが、沖合の海底には当時のプラットホームが横たわっている。ホーム跡は漁礁のようになり、スキューバダイビングの潜水ポイントにもなっている。なお、ホーム跡にある駅名標は後に付けられたものである。


ホームとともに沈んでいた機関車と客車は1934年(昭和9年)9月23日に地元真鶴町の業者によって海中から引き揚げられた。。当時の新聞記事では一部は鉄道省に寄付、一部を地元で鉄屑として処分するつもりとある。直後に鉄道博物館(旧)で牡蠣の殻が大量に付着したバキュームホースと機関車のナンバープレート「977」(960形蒸気機関車)が展示された。 現在バキュームホースは所在不明で唯一ナンバープレートのみが残されており、交通博物館から鉄道博物館に引き継がれ展示されている。
この事故で娘を亡くした岡野喜太郎(スルガ銀行創業者)によって1932年(昭和7年)に真鶴駅寄りの海に面した場所に慰霊碑が設置され、1973年(昭和48年)には、改札横に根府川駅職員一同によって『関東大震災殉難碑』が設置された。

1934年(昭和9年)12月1日 - 熱海線所属から東海道本線所属に変更。
1970年(昭和45年)5月20日 - 貨物取扱を廃止。
1972年(昭和47年)3月15日 - 荷物取扱を廃止。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、東日本旅客鉄道の駅となる。
1999年(平成11年) - 関東の駅百選に選定される。
2001年(平成13年)11月18日 - ICカードSuica供用開始。
2002年(平成14年)3月1日 - 無人駅となる。

電報略号 ネフ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 639人/日(降車客含まず)
-2008年-
開業年月日 1922年(大正11年)12月21日
備考 無人駅(自動券売機 有)

 


アクティ軽バン 基地内用業務車 (航空自衛隊)

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アクティ(Acty)は、本田技研工業が販売する商用バンおよびトラックの軽自動車である。生産は八千代工業に委託されている。

1963年に誕生した日本メーカーの量産車初のDOHCエンジンを搭載したT360、後継のTN360の後を継ぐかたちで1977年に登場し、現在に続いているホンダの軽トラックである。アクティ登場の際には、ライトバンもラインナップに新たに登場した。
ボディー形状からキャブオーバーもしくはセミキャブオーバーと分類されることがあるが、構造的にはアンダーフロアエンジンのミッドシップ(MR)である。そのため(スバルのサンバーがRRで「農道のポルシェ」とされるのに対し)「農道のフェラーリ」、あるいは同じホンダ車で「農道のNSX」と言われることもある。


空車時のトラクション確保および走行能力を得るため、アンダーフロアエンジン搭載やド・ディオンアクスル式リアサスペンションの採用、荷台までフレーム一体式のモノコック構造、高回転特性のエンジン、各メーカーの軽トラック搭載自然吸気エンジンの中でもっともハイギアードな変速比設定など、ホンダならではの独自設計を施してある。
2014年3月現在、新車で購入可能な軽トラック、および軽キャブオーバーバンとしては唯一、エンジンの動弁機構にSOHCが採用されており(アクティ以外の軽トラック、および軽キャブオーバーバンは全て、エンジンの動弁機構にDOHCが採用(OEM含む))、新車で購入可能な軽トラック、および軽キャブオーバーバンとしても唯一、OEMが存在しない(そもそもホンダ車にはOEM車やOEM供給自体がない)。
車名の由来は英語の「ACTIVE(活動的な)」からの造語。仕事やレジャーなどで、いつもキビキビ働くクルマという思いより命名された。

販売期間 1988年 - 1999年
乗車定員 バン:4人
ボディタイプ 5ドア ライトバン
エンジン E07A型:660cc 直3 SOHC
最高出力 E07A型:38PS/5,300rpm
最大トルク E07A型:5.5kgf?m/4,500rpm
変速機 5速MT/4速MT/3速AT
駆動方式 MR/4WD
サスペンション 前:マクファーソンストラット
後:ド・ディオン式
全長 3,255mm
全幅 1,395mm
全高  バン:1,870mm
ホイールベース 1,900mm
車両重量  バン:770-860kg

 

的場町停留場 広島電鉄(本線)

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的場町停留場(通称:的場町電停)は、広島市南区的場町一丁目にある広島電鉄本線・皆実線の路面電車停留場。両線の乗り換え停留場でもある。

相生通りと比治山通りが交わる的場交差点の紙屋町寄り(本線)と比治山下寄り(皆実線)にそれぞれ2面2線のホームを持つ。交差点の猿猴橋町方にポイントがあり、電停の手前で本線から皆実線が分岐する構造となっている。このため、広島駅に向かう電車の乗り場が2箇所あることになるが、広島駅まで近い(約500m)こともあり、どちらのホームが先発電車となるかなどの案内表示は特に設けられていない。
皆実線の停留所の広島港(宇品)側には、1982年(昭和57年)1月30日に設置された 上り線(広島駅方面)から下り線(宇品方面)への渡り線がある。

運行路線
駅前大橋ルート開業後は、大幅に見直しが行われる。
本線(西行き)ホーム 0号線 (紙屋町経由)日赤病院前ゆき・広電前ゆき
1号線 (紙屋町経由)広島港(宇品)ゆき
2号線 広電宮島口ゆき・広電西広島(己斐)ゆき
6号線 江波ゆき
本線(東行き)ホーム 1号線2号線6号線 広島駅ゆき
皆実線(南行き)ホーム 5号線 比治山下経由広島港(宇品)ゆき・宇品二丁目ゆき・皆実町六丁目ゆき
皆実線(北行き)ホーム 5号線 広島駅ゆき

ホームは連接車対応して長く化粧タイルで装飾され、ガス灯風の電灯も設置されています。

駅周辺には荒神橋、清水劇場、ホテルセンチュリー21広島、JRAウインズ広島、西京銀行広島支店がある。


1912年(大正元年)11月23日 - 的場停留場として開業。
1945年8月6日 - 原爆により休止。
1945年10月11日 - 本線の全線運行再開に伴い、営業再開。
1948年(昭和23年)7月1日 比治山下方面の運行を再開。
1960年(昭和35年)3月30日 - 現在の的場町に改称。

所在地 広島市南区的場町一丁目
北緯34度23分35.6秒 東経132度28分28.53秒
所属事業者 広島電鉄
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線(本線)
2面2線(皆実線)
開業年月日 1912年(大正元年)11月23日
乗入路線 2 路線
所属路線 ■本線
駅番号 M3
キロ程 0.5km(広島駅起点)
◄M2 猿猴橋町 (0.3km)(0.3km) 稲荷町 M4►
所属路線 ■皆実線
駅番号 H3
キロ程 0.0km(当駅起点)

KSP 2002E バラストレギュレーター・ダイナミック スタビライザー/コンパクター

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マルタイとのペア作業で使用されるブラウ月の大型保線車両です。マルタイが突き固めた道床(バラスト)を全部に備えたブラウを整えてさらに{ダイナミックスタビライザー}という振動発生装置を使用し道床を締固めて、線路の安全と列車の乗り心地を保ちます。
そして、仕上げにはレール内外に残った砂利を回転するブラシできれいに掃き飛ばすことができます。
この車両は安全性を高める、大きなフロントガラスが特徴の最新型で「道床整理車」という名称でも呼ばれています。

 


東鉄工業株式会社は、東京都新宿区信濃町に本社を置く建設会社である。創業時の経緯から鉄道工事に強みを持ち、現在はJR東日本とつながりが深い。
1943年(昭和18年)に鉄道の輸送力確保を目的に、当時の鉄道省の指示で国策会社として設立された。戦後は鉄道以外の工事にも進出し、2013年(平成25年)には創業70年を迎える。
線路・土木・建築・環境の4事業のなかで、線路事業では、JR東日本管内の線路メンテナンスの約3割を担うなど、国内最大規模である。また、メンテナンスだけでなく新幹線、高速道路、マンションなどの工事でも多くの施工実績がある。
大株主であり最大顧客でもあるJR東日本からは、線路の保守以外にも鉄道の安全・安定輸送に係る鉄道施設の工事を受注している。 バブル崩壊後の建設不況の中で、財務体質の強化や不採算工事の排除などの経営改革を行い、2009年3月期から4期連続で有利子負債ゼロを達成するなど安定した財務内容を誇る。

早川駅 JR東日本)東海道本線

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早川駅は、神奈川県小田原市早川一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)東海道本線の駅である。

島式ホーム1面2線と側線1本を有する地上駅である。コンパクトな木造駅舎とホームは地下通路で連絡している。ホーム延伸工事が行われる以前は、15両編成停車時にドアカットが行われていた。
業務委託駅(JR東日本ステーションサービス委託)。簡易Suica改札機設置駅。切符売場には券売機は2台あります。。待合室にはFRP製の椅子が設置されています。駅前ロータリーは駐輪場になっています。

ホームは築堤上にあり駅舎と地下道で連絡しています。


のりば
番線 路線 方向 行先
1 ■東海道線 下り 熱海・伊東・沼津方面
2 ■東海道線 上り 小田原・横浜・東京方面
夜間は電留線に翌朝小田原駅始発となる電車が2本留置される。外側に1線ずつ留置線が設置されています。

2004年10月16日以前までは、一部の快速「アクティー」が当駅と根府川駅を通過していたが、現在は全て停車する。なお、湘南新宿ラインの特別快速が小田原 - 熱海駅間で延長運転されることがあるが、その列車は当駅と根府川駅を通過する。

2005年8月ごろのSuicaのコマーシャル(『片思い編』)に登場した。
小田原漁港が近隣にあることから、小田原市が提供する観光情報サイトにおいて『JRの駅では日本一港に近い駅』として紹介されたことがある。
2014年4月13日放送の『サザエさん』「ハヤカワさんの駅」(作品No.7094)において、波平とカツオ、そしてカツオの同級生である早川さんが釣りに訪れ、駅の出入口で写真を撮る描写があった。

東海道本線の開通以前は、人車鉄道・軽便鉄道の豆相人車鉄道(のちの熱海鉄道)も1896年 - 1922年にかけて存在し、この付近に「早川駅」が置かれていた。
1922年(大正11年)12月21日 - 国鉄熱海線小田原駅~真鶴駅間開通と同時に開業。旅客・貨物取扱を開始。
1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災で駅舎倒壊。
1934年(昭和9年)12月1日 - 熱海線所属から東海道本線所属に変更。
1959年(昭和34年)12月1日 - 貨物取扱が廃止。
1972年(昭和47年)3月15日 - 荷物取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、東日本旅客鉄道の駅となる。
2001年(平成13年)11月18日 - ICカードSuica供用開始。
2007年(平成19年)4月1日 - 業務委託化。
2007年(平成19年)6月22日 - みどりの窓口営業終了。

電報略号 ヤワ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 1,438人/日(降車客含まず)
-2013年-
開業年月日 1922年(大正11年)12月21日
備考 業務委託駅

 

鴨宮駅 JR東日本 東海道本線

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鴨宮駅(かものみやえき)は、神奈川県小田原市鴨宮にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)東海道本線の駅である。
旅客列車は、東京駅発着系統と、新宿駅経由で高崎線に直通する湘南新宿ラインが停車する。

東海道新幹線モデル線の鴨宮基地があったことから、地元の有志により駅の南口側に「新幹線の発祥地・鴨宮」の記念碑が建てられている。また、当駅から小田原側700m程の地点から新幹線側を見ると(北緯35度16分24.5秒 東経139度10分20.5秒 付近)、日本国有鉄道(国鉄)による「新幹線発祥之地」の銘板が見える。
かつては、地場産業として竹製ものさし製造が盛んであった。計測機器会社が立地しているのはその名残りである。また、海岸には日本専売公社(現:日本たばこ産業)の製塩所があった。
橋上駅舎完成後に南口が開設され、路線バスの発着も北口から南口に移された。また、公共施設が南側にも多く立地するようになった。

島式ホーム1面2線を持つ地上駅で橋上駅舎を有する。駅舎のバリアフリー工事が完了し、南口、北口、ホームからの上りエスカレータとエレベーターがそれぞれ各1基ずつ設置された。


業務委託駅(JR東日本ステーションサービス委託)。自動改札機・タッチパネル式の券売機が3台と指定席券売機・みどりの窓口が設置されている。

のりば
番線 路線 方向 行先 備考
1 ■東海道線 上り 大船・横浜・東京方面
■湘南新宿ライン 渋谷・新宿・大宮方面 大宮から高崎線へ直通
2 ■東海道線 下り 小田原・熱海・伊東・沼津方面
ATOS初期導入路線の駅でもあり、近年案内放送などの更新が行なわれた。

貨物取扱:2009年現在は臨時車扱貨物のみを取り扱っており、貨物列車の発着はない。これは一旦廃止された貨物取扱を、将来貨物施設が整備されることに備え、国鉄分割民営化直前に「開閉期間・取扱範囲は別に定める」として再開したものである。なお、西湘貨物駅が1970年に開業してから当駅の貨物列車の発着はないものの、同駅から伸びる貨物側線が存在し、1994年頃まで鴨宮駅の先にあったゼネラル石油の油槽所で貨物の取り扱いがあった。

 


1920年(大正9年)10月21日 - 国有鉄道熱海線の酒匂川信号所が開設される。
1922年(大正11年)4月1日 - 酒匂川信号場に改称。
1923年(大正12年)6月1日 - 酒匂川信号場を駅に昇格して鴨宮駅が開業。旅客と貨物の取扱を開始。
1934年(昭和9年)12月1日 - 東海道本線所属に変更。
1970年(昭和45年)5月20日 - 貨物取扱いを廃止。
1972年(昭和47年)3月15日 - 荷物取扱いを廃止。
1976年(昭和51年)7月 - 橋上駅舎完成。
1979年(昭和54年)10月1日 - 大船 - 小田原間複々線化(東海道貨物線)完成。
1987年(昭和62年)
3月31日 - 貨物取扱を再開。
4月1日 - 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道と日本貨物鉄道の駅となる。
2001年(平成13年)11月18日 - ICカードSuica供用開始。

電報略号 モノ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 12,982人/日(降車客含まず)
-2013年-
開業年月日 1923年(大正12年)6月1日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有

 

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