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豊岡駅 JR西日本・北近畿タンゴ鉄道(

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豊岡駅(とよおかえき)は但馬地方の中心地、兵庫県豊岡市大手町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・北近畿タンゴ鉄道(KTR)の駅です。野生コウノトリの生息地としても知られています。

兵庫県北部の中心都市・豊岡市の中心駅。JR西日本の山陰本線と、KTRの宮津線が乗り入れ、接続駅となっている。宮津線は当駅が終点である。


京都発着の「きのさき」・大阪発着の「こうのとり」をはじめとする、すべての定期旅客列車が当駅に停車する。浜坂方面・福知山方面双方とも、普通列車の多くは当駅始発である。以前は福知山方面から城崎温泉駅へ直通する普通列車も多かったが、2010年(平成22年)3月13日のダイヤ改正による輸送力見直しを受けて削減され、結果として当駅止まりが中心となった。


豊岡市による駅前再開発事業により、駅前広場の拡張のため、JR西日本による豊岡駅の橋上駅舎化が検討され、2010年(平成22年)から豊岡駅東西連絡橋(陸橋)の一部を改良し、バリアフリー化を含めた改築が実施された。2011年(平成23年)2月13日新駅舎が完成しセレモニーが行われ、金色のくす玉割り、また3月のダイヤ改正で採用された大阪 - 福知山直通特急「こうのとり」の車両公開・試運転が開催された。


駅構内には、兵庫県鉄道警察隊豊岡分駐隊があったが、一時閉鎖された後、最近になって、姫路分駐隊豊岡駅詰所として人員配置を復活している(新駅では、1階の1番ホーム付近にある)。なお、国鉄時代は、福知山鉄道公安室豊岡鉄道公安派出所だった。


当駅では、駅弁の販売も行われていたが、2011年(平成23年)9月12日をもって調製元「たで川」の閉店により、発売はなくなった。
新駅舎の完成で、商業施設であるアイティと自由通路で改札口から直接行けるようになり、実質、駅ビルになっている。

JR西日本:単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを有する地上駅。こうのとり・柳行李をモチーフとしたデザインの橋上駅舎。

改札口は2階にあり有人ラッチも現役で活用されています。
オープンカウンター式のみどりの窓口があり切符売場に券売機は2台。改札外に待合はなく、自由通路にベンチが置かれています。改札内跨線橋部分に待合室があります。


単式の1番のりば、島式の3・4番のりばは1階にあり、階段またはエレベータを利用する。3・4番のりばの北側には国鉄時代の駅名標がある。新駅舎供用以前は、駅舎は単式の1番のりば側にあり、旧2・3番のりばへは跨線橋で連絡していた。



のりば 路線 方向 行先
1・3・4 ■山陰本線 上り 和田山・京都・大阪方面
下り 城崎温泉・浜坂・鳥取方面


1番のりばが上り本線、3番のりばが下り本線、4番のりばが上下副本線であるが、3線とも両方向の発車に対応している。また、1番のりばと3番のりばの間にはホームのない待機線がある。そのため列車運転指令上では待機線が「2番線」となっている(後述のKTR宮津線ホームは「宮津1番線」)。

また、待機線(2番線)も両方向への出発に対応している。宮津線からJR線へは、1番のりばと3番のりばのみ出入り可能である。なお、2011年2月13日の新駅舎完成後は、旧2番のりばが3番のりば、旧3番のりばが4番のりばとなり、2番のりばが欠番となっている(待機線に相当)。


かつてはある程度発着番線が固定されていたが、2010年(平成22年)3月13日改正以降、普通列車が両方向とも当駅始発・終着を主体としたダイヤとなったこともあり、現在は3線とも上下線の区別なく使用している。

なお、当駅を越えて運転される列車については、行き違いのない場合は両方向とも駅舎側の1番のりばに発着し、行き違いのある場合は、上り(和田山・福知山方面行き)列車が1番のりば、下り(浜坂方面行き)列車が3番のりばか4番のりばに入る。山陰本線経由の上り特急は全て1番のりばから発車するが、下りは固定されていない。


夜間滞泊の設定がある。
当駅は管理駅長が配置された直営駅であり、管理駅として養父駅 - 居組駅間の各駅を管轄している。構内裏手には車庫を併設します。かなり古めかしい設備が多い。

北近畿タンゴ鉄道:頭端式ホーム1面1線を有し、JR線の1番のりばの線路反対側を切り欠いたホームとなっている。

国鉄由来の宮津線なので、元々同一構内でしたが、現在は分離されてJRとは独立した駅舎を持っており、JR側からも中間改札と柵で仕切られている。


直営駅であり、15駅の有人駅の一つでもある(ただし、朝と夜間は無人になる。2011年3月より、無人時にはJR連絡用の中間改札が閉鎖されるので注意)。以前は通常の自動券売機が置かれていたが、2014年1月ごろ食券型券売機に変更された。


発車メロディは2006年(平成18年)12月18日の午後よりコウノトリにちなんだメロディーが流れている。これは豊岡駅の放送設備の更新に伴ったもので、豊岡市は「観光客の耳に豊岡の記憶が残ってもらえれば」とPR効果を期待している。また同市の観光課が、鉄道利用促進担当だったため、発車メロディーの採用を申し出る形となった。「たじまうたのまつり実行委員会」が2006年(平成18年)9月23日に開催された『第2回こうのとり音楽祭』の中から2曲を選定。


各のりば共通(北近畿タンゴ鉄道のりばを除く)
到着時「約束の空へ」(作曲:大西しんぎょう)
発車時「輝いて!こうのとり」(作曲:西田武生)
放送形態の変更により、到着時のメロディーがハイテンポに1回なった後、JR西日本標準の到着ベルが鳴る様になった。発車時のメロディーについての変更はなかった。また発車時のメロディーについては豊岡駅に入線するすべての列車に対して鳴るわけではない。

1909年(明治42年)
7月10日 - 国有鉄道の八鹿駅 - 当駅間延伸により開業(当初は終着駅)。客貨取扱を開始。
9月5日 - 城崎駅(現・城崎温泉駅)まで延伸に伴い途中駅となる。
10月12日- 線路名称制定。播但線の所属となる


1912年(明治45年)3月1日 - 線路名称改定。播但線の福知山駅 - 和田山駅 - 香住駅間が山陰本線に編入され、当駅もその所属となる。
1929年(昭和4年)12月15日 - 峰豊線(宮津線の前身)が久美浜駅まで開業。
1932年(昭和7年)8月10日 - 線路名称改定。峰豊線が宮津線の一部となる。
1984年(昭和59年)1月21日 - 貨物取扱が廃止。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1990年(平成2年)4月1日 - 宮津線が北近畿タンゴ鉄道宮津線に転換。
2006年(平成18年)12月18日 - 午後から発車メロディーを使用を開始する。


2008年(平成20年)8月11日 - 当駅で初めて223系電車が営業運転を始める。
2011年(平成23年)2月13日 - JR新駅舎完成。供用開始。
2012年(平成24年)3月17日 - 駅前広場(路線バス・タクシー駐車場等)が完成。供用開始。

所属事業者 西日本旅客鉄道(JR西日本)
所属路線 ■山陰本線
電報略号 トカ
駅構造 地上駅(橋上駅)


ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 1,975人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1909年(明治42年)7月10日
備考 直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有

所属事業者 北近畿タンゴ鉄道(KTR)
所属路線 ■宮津線
電報略号 トカ
駅構造 地上駅


ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 167人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1990年(平成2年)4月1日
備考 直営駅

 


COSMOS ACE 自動車運搬船

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COSMOS ACEは、自動車を運搬することに特化した構造を有した自動車運搬船 です。
商船三井によるメキシコで生産される完成車のNAFTA(カナダ、メキシコ、アメリカ合衆国の3か国による自由貿易協定。)域内海上輸送サービスとして航行。

メキシコでは近年、自動車メーカー各社が積極的に工場を開設して生産を拡大、今後も生産台数の増加が見込まれています。2013年に同国にて生産された約300万台のうちおよそ8割が輸出され、この傾向が続くとみられることから、商船三井では主要な輸出先の一つである米国向け海上輸送サービスを新たに開設しニーズに応えています。自動車は4095台、トラックは1547台積む事ができます。

船内に複層の車両甲板を持ち各種自動車を積載できるという点ではフェリーと同じだが、商取引を目的とした自動車を大量に航送する目的で造られているため、フェリーとは構造が異なる。
一般的な貨物船との大きな違いは、積載し輸送する貨物(自動車)が自走して積み込まれ、また荷降ろしされることで、港湾での作業に使うためのクレーンを備えず、船内は自動車を最大限積載するために各層の天井高が各種自動車に合わせた必要最小限の高さに設計されている。

二国間で、船を使った自動車の輸出入を行う際には、他の貨物と混送させることが一般的であった。しかし、1960年代に日本の自動車生産が活発になると、車体に傷が付かないような積載方法が求められる自動車は船舶会社から敬遠されるようになり、自動車輸送に特化した船が構想されるようになった。

船体重量と比較して、喫水が高く、横風の影響を受けやすい。重心の調節のためにバラスト水を注排水するが、それでも台風などによって流されて座礁などの海難事故を起こしやすい。車両積載デッキは、一つの大きな空間となっており、ここに浸水すると沈没を避ける手段がなく、浸水に対しても弱い構造となっている。

船種: Vehicles Carrier
総トン数: 46346トン
載貨重量トン: 15439 t
全長: 188m 全幅: 31.2m
速力レコード(最大/平均): 19 / 19 knots
建造年: 1998
IMO: 9153563
MMSI: 355395000
呼出符号: 3FWL8
船籍国: Panama [PA]
AIS Type: Cargo



クモハ114形 直流電車

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2両編成を組成するためモハ114形からの改造で登場したMG・CP等の補助機器とパンタグラフを搭載する制御電動車。クモハ115形と同様、前位台車用側主電動機冷却風取入口は前位側戸袋窓上部取付を採用する。モハ114形:電動発電機 (MG) や空気圧縮機 (CP) などの補助機器とパンタグラフを搭載する中間電動車。クモハ115形またはモハ115形とユニットを組む。1965年製の83 - からはCPC-1000形×2台からC-2000形×1台搭載に変更された。

ベースは国鉄115系電車で日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流電車です。寒冷地区・急勾配路線での運用を目的にした近郊形車両で1963年(昭和38年)からから1983年(昭和58年)まで改良を重ねながら115系は1,921両が製造された。

115系の開発ですが国鉄の新性能電車は、1957年に製造を開始した101系通勤形電車を祖とし、その後は151系特急形電車・153系急行形電車とともに増備が進められた。また、1961年6月には山陽本線の全線直流電化が完成。鹿児島本線と常磐線の交流電化により3扉セミクロスの401・421系交直流両用電車が登場した。しかし、東海道線東京口などでは80系電車や客車など2扉車が使用されており、増加する通勤客に対応できないことから、401・421系電車と同等の車体構造を持つ111系が製造された。
さらに同時期には山間部路線でも電化が始まり中長距離列車が運行されるようになったが、111系が搭載する出力100kW級MT46系主電動機では出力不足が如実であり、編成組成において電動車を多くし高MT比とするか補助機関車の連結が要求された。しかし電動車を増やすという観点からは製造・運転ともに高コストとなり不経済であることから、111系をベースに電動機出力増強を目的に開発されたのが113系と本系列である。

114系は1963年から1970年(昭和45年)にかけて製造されたグループの1つ。
客室窓部は、ユニット窓ではなく四隅に丸め処理がなされる。広域波動輸送に対応する目的から製造されたモハ114-818 - 831・モハ115-94 - 107・クハ115-193 - 216・サハ115-25 - 30は新製時から横軽対策施工車である。
1963年1月に製造開始。同年3月に宇都宮運転所[注釈 7]皮切りに、新前橋電車区(現・高崎車両センター)・三鷹電車区(現・三鷹車両センター)・小山電車区(現・小山車両センター)に新製配置された。
後に新潟・静岡・岡山・下関の各地区にも転出したために分割民営化時にはJR東日本・JR東海・JR西日本に承継。2013年現在も改造車を含み運用される。

6000・6500番台(JR西日本)
舞鶴線の電化開業に伴いクモハ115形+モハ114形1000番台ユニットを種車に、モハ114形の先頭車化改造により2両編成とされた番台区分である。
工事期間の短縮と簡素化の観点から新設運転台は既存の先頭車と同一の形状とする事を止め、窓や灯具の配置を踏襲しつつ種車の構体を活用した切妻形状とされたのが特徴で、クモヤ145形などに近い外観となった。また廃車発生品の流用などで工事費の低減も図られた。
岡山電車区所属車から転用の2組は改造時に後述のブレーキ装置の高速化改造を受けて原番号+5000の区分。網干電車区(現・網干総合車両所)所属のブレーキ装置のてこ比改良車が種車の3組は車両番号下4ケタが引き継がれた6500番台の区分とした。
クモハ115形には真空式の和式トイレ設置、クモハ114形には霜取りパンタを搭載して2パンタ化改造が施工された。体質改善40Nおよびワンマン運転対応化工事も施工されたが、通常の体質改善40N車と異なり座席構造は従来のセミクロスシートのまま(これは共通運用の113系にも共通する)で車内スピーカーも更新されず原型のままである。
ワンマン運転対応化工事改造の内容を以下に示す。
運賃箱設置・EBの取付
運用効率化のため嵯峨野線用113系と同様の自動解結装置を取付け
側引戸を電気指令化
1999年(平成11年)に5本10両が改造された。「R編成」と命名されたが、既に福知山電車区に配置されていた113系5300・5800番台の2両編成(S編成)と共通で運用された。
2008年8月の223系投入で経年の若い本車は他線区へ転属となり、同年11月にR4編成(クモハ115-6538+クモハ114-6625)・R5編成(クモハ115-6539+クモハ114-6627)の2本が下関車両管理室へ転出。12月11日に旧R4編成はT-13編成となり営業運転を開始した。さらに2008年度内に4本が転属し、自動解結装置を撤去して車両番号が-5000となる改番が実施された。
モハ114-1106・1123・6621・6625・6627 → クモハ114-6106・6123・6621・6625・6627

 

段原一丁目停留場 広島電鉄(皆実線)

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段原一丁目停留場(通称:段原一丁目電停)は、広島県広島市南区段原一丁目にある広島電鉄皆実線の路面電車停留場。かつては段原大畑町が電停名でしたが、周辺の再開発による地名変更を受けて2001年に現停留所名に改称されました。

2面2線の相対式。3両、5両連接車に対応している。

運行路線
駅前大橋ルート開業後は、大幅な見直しが行われる。
南行きホーム 5号線 広島港(宇品)ゆき・宇品二丁目ゆき・皆実町六丁目ゆき
北行きホーム 5号線 広島駅ゆき

 

ホーム入口には、車止めを兼ねた安全地帯標識が設置されホーム上には小さな上屋があります。またホームには横断歩道からスロープで連絡します。

電停付近は住宅街である。南東には比治山がそびえる。電停東の路地を入ると骨董の店が並ぶ段原骨董街がある。
広島市立段原小学校、松川公園、広島南消防署、比治山神社、大正橋(かつては同名の電停があった。)広島食料会館、段原一丁目バス停:当電停とは場所が異なり(東にあるバス停が段原一丁目バス停)、広電バス4号線・5号線・広島バス26号線が経由する。

1944年(昭和19年)12月27日 - 大畑町として開業
1969年XX月XX日 - 段原大畑町に改称。
2001年(平成13年)11月1日 - 段原一丁目に改称。
※改称した理由は、「段原再開発」による地名の変更が由来。地名変わってから数年後のことである。

所在地 広島市南区段原一丁目
北緯34度23分25.36秒 東経132度28分26.63秒
駅番号 H4
所属事業者 広島電鉄
所属路線 皆実線
キロ程 0.5km(的場町起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1944年(昭和19年)12月27日

玄武洞駅 JR西日本)山陰本線

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玄武洞駅(げんぶどうえき)は兵庫県豊岡市城崎町上山字畑ヶ田、玄武洞公園の対岸に位置にある。西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。


駅名通り玄武洞(玄武洞公園)への玄関口であり、駅前から円山川を渡る渡船がある。玄武洞(玄武洞公園)へは渡船の利用で約3分。ただし、荒天時等欠航あり。また、「おみやげ 城崎街道・海の駅」へは駅から全但バス 上山バス停下車、徒歩2分。ただし、運行回数が少ない。

相対式ホーム2面2線を持ち、列車交換が可能な地上駅。鉄骨コンクリート造の駅舎は北側(1番のりば側)円山川沿いの国道から一段高い位置にある。南側(2番のりば)側からも出入可能。ホームには階段で直接連絡します。互いのホームは跨線橋で連絡している。


豊岡駅管理の無人駅。狭い待合室にはFRP製の椅子が3つとごみ箱があります。かつては駅舎内に自動券売機が設置されていましたが、現在は撤去されています。トイレがあり。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1・2 ■山陰本線 上り 豊岡・京都・大阪方面
下り 城崎温泉・鳥取方面
駅舎側の1番のりば側を上下本線、2番のりばを上下副本線とした一線スルーとなっているため、通過列車および行違いを行わない停車列車は上下線とも1番のりばを通る。2番のりばは行違い待ちを行う列車のみが発着する。

下りホームには待合所があります。上屋下には造り付けの長椅子が設置されています。ホームは嵩上げの痕跡が階段状になって残されています。

1912年(明治45年)3月2日 - 国有鉄道山陰本線の豊岡駅 - 城崎駅(現・城崎温泉駅)間に玄武洞仮停車場として開業。季節営業の臨時駅で、旅客営業のみを行っていた。
1918年(大正7年)4月21日 - 通年営業の駅に格上げ、玄武洞駅となる。
1970年(昭和45年)12月15日 - 無人駅化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2012年(平成24年)3月17日‐ダイヤ改正により、一部普通列車が通過となる(該当列車は翌2013年3月16日より快速に改称するが、豊岡駅発着の快速の一部は停車することになる)。
年月日不明:自動券売機撤去。

電報略号 ケン
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 37人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1912年(明治45年)3月2日*
備考 無人駅
* 仮停車場として。1918年(大正7年)4月21日に正式な駅へ格上げ。

PS-18巡視船さんれい(180トン型巡視船PSらいざん型)海上保安庁

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びざん型巡視船は、海上保安庁の巡視船の一種である。分類上はPS型巡視船で、船種は180トン型。配置替えに伴い、びざん型巡視船→ばんな型巡視船→らいざん型巡視船と名称を変遷してきた。

みはし型巡視船(現しんざん型巡視船)の連続行動時間の延長を図る目的で建造が計画された。乗組員の居住性を向上させるために船型を拡大し、食料や水の搭載量も増やした。主機関はみはし型のものを踏襲して、SEMT ピルスティク製(富士ディーゼル、後に新潟鐵工所によりライセンス生産)の4サイクル高速ディーゼルエンジンを3基搭載しており、V型16気筒型の16PA4V-200VGA(単機出力3,500馬力)を両舷に配してスクリュープロペラ各1軸(計2軸)を、V型12気筒型の12PA4V-200VGA(単機出力2,400馬力)を中央機として低速用ウォータージェット推進機1基を駆動する。


また7番船「みずき」は、新日韓漁業協定によって増加した韓国・朝鮮系の密漁船に対応するために「捕捉機能強化型」に指定され、中央機を両舷機と同機種として出力を増強している。また8番船「こうや」以降は、九州南西海域工作船事件を受けて、推進システムをウォータージェットのみの2軸推進に変更し、軽量化、水中抵抗の軽減、操縦性の向上を図り、操舵室のシートにはホールド性のよいハイバック・シートを採用している。

また、遠隔放水銃、赤外線捜索監視装置、停船命令表示装置、5.4m型複合艇も装備している。現場からの評判は高く、現在でも建造が継続されている。


当初は1番船は非武装、2~6番船は甲板に海上保安官が身を乗り出して射撃する13mm単装機銃(ブローニングM2重機関銃)を搭載していたが、現在は全船、目標追尾型遠隔操縦機能(RFS)付き20mm多銃身機関砲に換装され、防弾ガラスも装備している。
ネームシップのびざん(現らいざん)はかむいより船番号が遅いが、これは配属地によるもので、あくまでもびざんの方が計画・進水とも早い。


本来は巡視船艇の船名は転属に伴って改名されるが、九州南西海域工作船事件に従事した7番船のみずきはその功績から例外として転属後もその名を留めている。なお、みずきは2010年の尖閣諸島中国漁船衝突事件にも従事しており、2012年7月には魚釣島の領海を侵犯した台湾の海岸巡防署の巡視船と衝突している。
建造費は20億円である。

種別 180トン型巡視船
就役期間 1994年 - 現在
前級 みはし型巡視船
次級 つるぎ型巡視船
総トン数 197トン
全長 46.0m
全幅 7.5m
深さ 4.1m


機関 ディーゼルエンジン×3基
スクリュープロペラ×2軸
+ウォータージェット×1基
機関出力 9,400 hp/7,000 kW
速力 35ノット
航続距離 600海里
乗員 15名
兵装 JM61 20mm多銃身機関砲×1門
搭載艇 5.4m型複合艇
C4ISTAR RFS射撃指揮装置(機関砲用)
航行区域:沿海

城崎温泉駅 JR西日本)山陰本線

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城崎温泉駅(きのさきおんせんえき)は、志賀直哉の小説で有名な城崎の温泉街にある駅。兵庫県豊岡市城崎町今津字稗田にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅です。

北近畿の温泉の名所として、また、冬の蟹料理の本場として、観光地としての賑わいを見せている。山陰本線京都口の電化区間の西側終端となっている。このため、電車特急の「きのさき」「こうのとり」の終着駅となっており、この先は伯耆大山駅まで非電化区間となり気動車での走行となる。
2000年(平成12年)に第1回近畿の駅百選に選定されている。2005年(平成17年)4月1日に城崎町が隣の豊岡市と合併することに伴い、同年3月1日に「城崎駅」から「城崎温泉駅」へと改称された。その際には、演歌歌手の細川たかしが一日駅長を務めた。

1909年(明治42年)9月5日に国有鉄道により豊岡駅 - 当駅間が開通したことによりその終着である城崎駅として開設された。この区間は後に播但線となる区間の延長として建設されており、同年10月12日の線路名称制定により正式に播但線とされた。1911年(明治44年)10月25日には香住駅まで延伸し、当駅は中間駅となった。1912年(明治45年)3月1日に全通に伴って当駅を含む区間は山陰本線に編入され、当駅もその所属となった。


当地は江戸時代から名高い温泉地であったが、全国的に有名な温泉地として本格的に発展が始まるのは鉄道の開通によるもので、特に1917年(大正6年)に志賀直哉の発表した「城の崎にて」に代表される数々の文学作品に登場したことで知名度が向上し、関西を代表する温泉地として成長していった。開設当時の駅は温泉街から外れた場所に位置していたが、利用客が増えるにつれて駅前がにぎわい始め、やがて温泉街と一体化した街となっていった。
1925年(大正14年)5月23日に発生した北但馬地震では、城崎温泉は壊滅的な打撃を受け、駅舎も倒壊した。翌年5月21日に鉄筋コンクリート造りの2代目駅舎が落成した。これは当初はシンプルな外観のものであったが、1949年(昭和24年)5月11日に完成した改築工事により、瓦屋根を載せた和風スタイルとなって現在の姿となった。


山陰本線初の特急として「まつかぜ」が運転開始される際には、豊岡駅との間で特急停車駅を巡って激しい争いが繰り広げられたが、1961年(昭和36年)10月1日の運転開始より当駅は特急停車駅となった。1986年(昭和61年)11月1日には当駅まで福知山線・山陰本線の電化工事が完成し、多くの特急を含む電車列車が当駅で折り返すようになった。
2000年(平成12年)7月7日に駅舎前に「駅舎温泉さとの湯」がオープンし、10月14日には「近畿の駅百選」第1回に選定された。2004年(平成16年)、翌2005年(平成17年)4月1日付で豊岡市などと合併することにより、自治体名から「城崎」が消えることになったことから町民などから知名度の高い城崎温泉の名を駅名に残してほしいという要望が出て、旧城崎町が経費(約5000万円)を負担して「城崎温泉駅」へ改称する要請をJRに対して行い、合併を前にした2005年3月1日付で実現した。

島式・相対式3面4線のホームを持つ地上駅で、大きな木造駅舎は4番のりば側にある。各ホームへは跨線橋で連絡しており、2・3番のりばと4番のりばにエレベーターが設置されている。
蟹料理の本場らしく、駅構内の至る所に蟹のポスターが掲示されている(かつては水槽があり生きた蟹を見ることができた)。待合室にキヨスクと駅弁販売所兼用のうどん店がある。
電光掲示板が改札、2,3番のりば(併用)4番のりば、跨線橋内2・3番のりば降り口付近(以前1番のりば降り口付近にあったものを移設)にある。
駅前にあり、日本最大と称する駅舎温泉「さとの湯」は城崎温泉街の外湯のひとつとして機能しており、豊岡市城崎総合支所の「温泉課」の庁舎でもある。

無料で利用できる足湯があり、電車の待ち時間をゆったりとすごすことができる。城崎温泉唯一の市立温泉(他外湯は湯島財産区立(事務局は上記温泉課))である。民間委託されていて、広報などでたびたび経営者の募集がかかる。
朝の福知山方面の始発列車の発車駅の関係で、朝5時台に豊岡駅からこの駅まで運行する便が設定されている(それも含めて下り1本のみ、豊岡駅 - 当駅間のみ運転の普通列車がある)。
直営駅(豊岡駅の被管理駅)であり、オープンカウンター式のみどりの窓口が設置されている。

のりば
駅舎反対側を1番のりばとして、以下のようになる。
のりば 路線 方向 行先 備考
1 ■山陰本線 上り 豊岡・和田山・京都・大阪方面 一部の当駅始発
2 ■山陰本線 下り 浜坂・鳥取方面 当駅始発の普通・快速
上り 豊岡・和田山・京都・大阪方面 主に香住方面からの豊岡行き
3 ■山陰本線 上り 豊岡・和田山・京都・大阪方面 主に特急列車
4 ■山陰本線 下り 浜坂・鳥取方面 特急「はまかぜ」含む
上り 豊岡・和田山・京都・大阪方面 当駅始発のみ、主に普通・快速


現在、基本的には上記のように使われているが、臨時列車運転時は乗り場が変更されることがある。4線とも上下線双方へ発車可能であるが、4番のりばのみは豊岡方からしか入線できない。以前は、のりば番号は駅舎側から順に振られており、列車運転指令上の番線番号では逆に駅舎反対側から順に振られていた(4番のりばが「1番線」、1番のりばが「4番線」)。2011年3月17日現在、のりば番号を番線番号に合わせて変更(旧1番のりば【4番線】→新4番のりば、その他同様)することにより解消している。なお、豊岡駅でも、2011年(平成23年)2月13日の新駅舎供用に合わせて、同様に番線とのりばを一致させる措置をとっている。


原則として福知山方面からの特急を3番のりばに入れ、浜坂方面より2番のりばに入る普通列車(快速含む)から対面乗換できるようにダイヤが考慮されている。後者が折り返し便の場合、前者からの対面乗換も可能。ただし特急「はまかぜ」と当駅始発特急が同時に入線する場合、どちらかが2番または4番のりばに入る。1番のりばはホーム長が短いため、普通・快速列車のみとなる。


2010年(平成22年)3月13日より放送設備の更新に伴い『いい湯だな』が入線メロディーとして使われるようになった。放送形態の変更により、到着時に『いい湯だな』のサビ部分がなった後、JR西日本標準の到着ベルが鳴る様になった(先んじて入線メロディーを導入した豊岡駅と同じ形態)。この到着ベルは2011年3月頃まで使用され、現在はJR西日本標準の接近メロディーに変更されている。
2010年より ズワイガニ漁の解禁と特急「はまかぜ」の新型車両導入に合わせ、入線メロディを冬季限定でPUFFYの『渚にまつわるエトセトラ』に変更し、琴の音色とした。

1909年(明治42年)
9月5日 - 国有鉄道の豊岡駅 - 当駅間延伸により、その終着である城崎駅として開業。客貨取扱を開始。
10月12日 - 線路名称制定。播但線の所属となる。
1911年(明治44年)10月25日 - 播但線が香住駅まで延伸し、途中駅となる。
1912年(明治45年)3月1日 - 線路名称改定。播但線の福知山駅 - 和田山駅 - 香住駅間が山陰本線に編入され、当駅もその所属となる。
1925年(大正14年)5月23日 - 北但馬地震により駅舎倒壊、城崎の町も壊滅的打撃を受ける。
1926年(大正15年)5月21日 - 2代目駅舎落成。
1949年(昭和24年)5月11日 - 城崎駅舎改築工事完成。
1961年(昭和36年)10月1日 - 京都 - 松江間の特急「まつかぜ」運転開始により、特急停車駅となる。
1970年(昭和45年)10月1日 - 貨物取扱を廃止。


1986年(昭和61年)11月1日 - 福知山線・山陰本線電化工事により、当駅まで直流電化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1996年(平成8年)3月16日 - 4番のりばを新設して、2面3線から3面4線へ。
2000年(平成12年)
7月7日 - 駅前に「駅舎温泉さとの湯」オープン。
10月14日 - 「近畿の駅百選」に選定。
2005年(平成17年)3月1日 - 城崎温泉駅に改称。 
2009年(平成21年)
9月5日 - 駅100周年。
9月6日 - 駅100周年にあわせ、100才の一日駅長就任。
2010年(平成22年)3月13日 - 入線メロディー導入。

電報略号 キサ
駅構造 地上駅
ホーム 3面4線
乗車人員
-統計年度- 905人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1909年(明治42年)9月5日
備考 直営駅
みどりの窓口 有
* 2005年に城崎駅から改称。

竹野駅 JR西日本)山陰本線

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明治44年開業の竹野駅(たけのえき)は、兵庫県豊岡市竹野町草飼字釜藤にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。

山陰本線はこの駅から米子市の手前、淀江駅までが非電化の駅となります。

前に竹野海岸方面へのバス停がある。 駅前の土産物屋は無くなり喫茶店が数軒と酒屋があるのみとなっている。

木造瓦葺きの大きな駅舎が残り、特急「はまかぜ」の停車駅である。駅周辺の竹野浜や弁天浜には民宿が沢山あり、夏は海水浴・冬はかにツアーの観光駅として賑わっている。 豊岡駅管理の簡易委託駅でPOS端末による発券が行われているが、夕方から早朝までは無人となっている。 城崎温泉駅から杉林の峠を越えて竹野川の平地に出ると当駅に辿り着く。

単式・島式の複合型2面3線のホームを持つ地上駅であったが、3番線の分岐器部分棒線化で、2面2線となった(2012年5月現在、3番線ホームのレールは残存しているが、3番ホームにはフェンスが設置してある)。

回廊付きの大きな木造駅舎は1番線ホーム側にあり、反対側の2番線ホームへは古い跨線橋で連絡しています。「はまかぜ」への189系導入に伴いホームの嵩上げが行われた。

改札内に男女別の水洗式便所がある。

切符売場では委託の窓口が営業しており券売機は未設置です。

待合室に椅子がコの字配列。

のりば 路線 方向 行先
1 ■山陰本線 上り 城崎温泉・豊岡方面
2 ■山陰本線 下り 浜坂・鳥取方面
下りホーム上屋下には待合室が設置されています。

かつて貨物取扱いを行っていたと思われる駅舎横の側線部分にはラッセル車が留置されています。

かつて北前船の寄港地として栄えた土地。駅入口脇にはミニチュアの北前船が設置されています。但馬地方最大の海水浴場で夏は海水浴、冬はカニツアーの観光客で賑わいます。

1911年(明治44年)10月25日 - 国有鉄道播但線の城崎駅(現・城崎温泉駅) - 香住駅間延伸により開業。客貨取扱を開始。
1912年(明治45年)3月1日 - 線路名称改定。播但線の福知山駅 - 和田山駅 - 香住駅間が山陰本線に編入され、当駅もその所属となる。


1970年(昭和45年)10月1日 - 貨物取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。

電報略号 タケ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 278人/日(降車客含まず)
-2010年-


開業年月日 1911年(明治44年)10月25日
備考 簡易委託駅
POS端末設置


国鉄150形蒸気機関車

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国鉄150形蒸気機関車
150形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道院に所属した蒸気機関車である。
1872年(明治5年)、日本で最初の鉄道開業に際してイギリスから輸入された蒸気機関車5形式10両中の1形式で、1両のみが輸入された。1号機関車と呼ばれている。1871年(明治4年)、バルカン・ファウンドリー社 (Vulcan Foundry Co., Ltd.) 製(製造番号614)である。国の重要文化財に指定されている。

動輪直径は1,295mm (4ft3in) , 車軸配置は2-4-0 (1B) で2気筒単式の飽和式タンク式蒸気機関車である。
弁装置は当時多かったスチーブンソン式、安全弁はサルター式となっている。
長年にわたる使用期間中、随所に改造が加えられており、製造時の形態からは相当な変化が生じている。当初かなりオープンな構造だった運転台には外覆が整備され、ボイラー位置も209mm (8 1/4in) 高くされた。運転台直前にあった蒸気ドームはボイラー中央部に移設され、元のドーム位置には汽笛が設けられている。この改造は、1884年(明治17年)7月から翌年6月にかけ、神戸工場で実施されている。後述の神戸地区への転用は、この改造を見越してのものであったと思われる。

主要諸元
改装後の(1909年形式図による)諸元を示す。
全長:7,417mm
全高:3,569mm
軌間:1,067mm
車軸配置:2-4-0 (1B)
動輪直径:1,321mm
弁装置:スチーブンソン式基本型
シリンダー(直径×行程):305mm×507mm
ボイラー圧力:9.84kg/cm?
火格子面積:0.81m?
全伝熱面積:52.2m?
機関車運転整備重量:23.45t
機関車動輪上重量(運転整備時):17.58t
機関車動輪軸重(第1動輪上):9.09t
水タンク容量:2.05m?
燃料積載量: 0.51t
機関車性能
シリンダ引張力:2,340kg
ブレーキ装置:手ブレーキ、反圧ブレーキ

運転・経歴:
同時に発注された10両のうち、最も早く日本に到着した本機は1と付番され、1872年10月14日(新暦)の新橋 - 横浜間鉄道開業後は、客貨問わずに使用された。しかし、使用成績は思わしくなく、現場ではその改善に腐心したようである。1872年8月から1885年6月までの走行距離は104,641哩で、2 - 9(のちの160形、190形など)の半分弱、最も使用成績の良くなかったとされる10(のちの110形)の2倍程度であったという。
京浜間で約8年使用された後、1880年(明治13年)11月には東海道線神戸地区へ転用された。1885年には前述の大改造後、半田に送られ、中山道幹線の建設資材輸送用に使用された。1905年(明治38年)には、大阪地区で入換専用になっているのが確認されている。
本機の番号は、1909年(明治42年)の鉄道作業局の終わりまでは一貫して「1」であり、1894年の分類ではE形、1898年の鉄道作業局の分類ではA1形となった。1906年(明治39年)の鉄道国有法施行を受けて1909年に実施された鉄道院の車両称号規程では、150形 (150) と定められた。
本機は、1911年(明治44年)4月1日付けで島原鉄道の開業用に譲渡され、同社の1となって客貨牽引に用いられた。同社では、正面の煙室戸にアメリカ製機関車のようなクランプ金具(クリート)が取付けられ、蒸気ドーム覆いは、円筒形の不細工なものに交換された。ドームと汽笛の間には同じく鉄道院から払い下げを受けた元九州鉄道のクラウス製蒸気機関車から流用されたと思われるドイツ風の砂箱が設置され、オリジナルでは側水槽の前方と踏段の裏側にあった角形の砂箱は撤去されている。


昭和の初めごろ、元鉄道記者の青木槐三が貴重な1号機関車として当時の鉄道省への返還・保存のための運動を始めた。その甲斐あって、1930年(昭和5年)、600形656号機との交換で鉄道省に戻ることになった。島原鉄道ではまだ十分に活用できると考えていたために、このような交換となったのである。同年7月3日、本機は諫早駅で盛大な惜別式を行ない、『送国宝一号機関車』と書かれた幟を飾って鉄道省に引き渡された。その際、創業者で時の社長・植木元太郎は、創業期に功績のあった機関車への感謝の念を込め『惜別感無量』と記した自筆のプレートをあつらえて、側水槽に装着させた。このプレートは現在でも本機に装着されている。

佐津駅 JR西日本)山陰本線

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佐津駅(さつえき)は、兵庫県美方郡香美町香住区無南垣(むながい)字左近谷口にある西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。

駅中心部からやや外れた集落の高台にあります。

佐津浜海水浴場の最寄駅。隣の竹野駅との間にはかつて「切浜ビーチ」という臨時駅がありました。

兵庫県最北端の駅で豊岡駅管理の無人駅。通常は普通列車のみ停車駅であるが観光シーズンの冬場には特急「はまかぜ」が臨時停車することもある。改札口には木製のラッチが残っています。自動券売機は設置されていない。

島式ホーム1面2線の列車交換可能な地上駅。

回廊つきの木造駅舎は線路北側にありホームには跨線橋で連絡している。 無人駅。

かつてホームには「吉鶴牛生産地 佐津地区」の木製碑が置かれていたが現在は撤去されている。待合室には壁沿いに長椅子が設置されています。

のりば 路線 方向 行先
1 ■山陰本線 上り 城崎温泉・豊岡方面


2 ■山陰本線 下り 浜坂・鳥取方面


ホームには木造の待合室が設置されています。

駅前広場には大型バスも乗り入れ可能なほど広くなっています。

1911年(明治44年)10月25日 - 国有鉄道播但線の城崎駅(現・城崎温泉駅) - 香住駅間延伸により開業。客貨取扱を開始。
1912年(明治45年)3月1日 - 線路名称改定。播但線の福知山駅 - 和田山駅 - 香住駅間が山陰本線に編入され、当駅もその所属となる。


1971年(昭和46年)10月1日 - 貨物取扱を廃止。
1984年(昭和59年)10月1日 - 無人駅化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。


電報略号 サツ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 124人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1911年(明治44年)10月25日
備考 無人駅

オートモ号 日本の初期の国産自動車

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豊川 順彌(とよかわ じゅんや)は1915年のアメリカ留学が機会となって、機械工学を学ぶうちに自動車の魅力に取りつかれ、帰国して自動車製造を志した。「日本内燃機」を設立する蒔田鉄司らの優秀な人材を集め、研究・試作を続け1921年に空冷780ccと水冷1610ccの2種類の「アレス」号の試作を完成させた。オートモ号には日本の国情にあった小型車には空冷エンジンがふさわしいと考えて4気筒の空冷エンジンを搭載した。

当時はまだ世界的にも珍しかった空冷アレス号は1924年、豊川家の先祖の姓「大伴」と'Automobile'をかけて「オートモ号」と改称され、発売された。オートモ号は東京 - 大阪間40時間ノン・ストップ走行の成功、東京・洲崎で行われた自動車レースに唯一の国産車として出走し予選1位、決勝2位の好成績を収めるなどその高性能と信頼性を大いにアピール、販売面でも女優の水谷八重子らをモデルに起用したカタログを作る等の努力を行い、日本製乗用車として初めてまとまった数が生産されることとなり、1927年までに約300台が生産され、上海へ輸出もされた。

オートモ号の販売は成功とはいえなかった。当時の日本の乗用車市場はアメリカ車にほぼ独占されており、経験も規模も劣る白楊社は対抗するすべを持たなかったのだ。1928年、白楊社は解散を余儀なくされる。それでも、苦心の末にオートモ号を製造したことは、日本の自動車産業にとって大きな資産となった。開発に関わった池永羆、大野修司、倉田四三郎らは後に豊田自動織機製作所自動車部に結集し、蓄えたノウハウを存分に発揮することになる。

幌型3人乗りで、全長3メートル、幅約1.2メートル、高さ約1.6メートル、重量約450キログラム。
(国立科学博物館所蔵)

鎧駅 JR西日本)山陰本線

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鎧駅(よろいえき)は兵庫県美方郡香美町香住区鎧字タルビにある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。

小さな入江を高台から見下ろす絶景に位置する小駅。


「青春18きっぷ」のポスターや、『ふたりっ子』などのドラマの撮影にも使われた駅である。

また2004年(平成16年)放送のTBS系列のドラマ『砂の器』の撮影も行われた。

浜坂方面に向かって左側に単式ホーム1面1線を有する地上駅(停留所)。駅舎は平屋の無機質なコンクリート造駅舎です。


元々は相対式ホーム2面2線を持ち、交換設備を有しており、2007年度(平成19年度)までは駅舎側の2番線に浜坂方面行き、地下道を渡った先の1番線に豊岡方面行きが発着していた。

2008年(平成20年)3月15日のダイヤ改正と同時に1番線への列車停車設定がなくなり、浜坂方面・豊岡方面ともに駅舎側の2番線に発着するようになった。

1番線の場内・出発信号機自体は2009年(平成21年)頃までは稼動していたが、2010年3月現在では使用を停止している。1番線ホームから日本海を見下ろすことができるため、観光客への配慮から1番線ホームへの出入りは可能となっているが、当該ホームに列車が停車しない旨を記載した張り紙が張られている。


2012年の秋頃に棒線化の工事が実施された。分岐器は撤去されたが、12月中旬の時点では、1番線ホームのレールは残されている。場内・出発信号機の機能は維持されたが、鉄娘な3姉妹で取り上げられた特急などの上り通過列車の運転停車はなくなった。

ホームには釣鐘洞門の石碑があります。


豊岡駅管理の無人駅で駅舎は極めて簡素なものであり、自動券売機も設置されていない。待合室にはFRP製の椅子が設置されています。

宮本輝の小説『海岸列車』は当駅を舞台にしたシーンが主題となっている。
TBS系列ドラマ『砂の器』(2004年放送)の第2話において「丹後神山駅」という駅名でロケ地となった駅である。
過去には鎧漁港で水揚げされた海鮮物を貨物列車で運び出すために港と駅がインクライン(傾斜鉄道)で結ばれており、現在も遺構が残る。
インプレスTV『週刊★ロマン鉄道』の「余部橋梁を走る鉄道 山陰本線」で紹介された。

1912年(明治45年)3月1日 - 国有鉄道山陰本線の香住駅 - 浜坂駅間延伸により開業。客貨取扱を開始。
1970年(昭和45年)12月15日 - 貨物取扱を廃止かつ無人化。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2008年(平成20年)3月15日 - 海側のホーム(1番のりば)への列車の停車がなくなる。
2010年(平成22年)7月17日 - 余部橋梁工事のため、同日から8月11日まで列車が運休(バス代行)となり、営業を一時休止。

2012年(平成24年)3月17日‐ダイヤ改正により、一部普通列車が通過となる。
2012年 秋頃‐棒線化の工事が実施される。

電報略号 ヨロ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線


乗車人員
-統計年度- 25人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1912年(明治45年)3月1日
備考 無人駅

 

 

C56形蒸気機関車

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C56形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が製造した小型軽量テンダー式蒸気機関車である。愛称はシゴロク、またはポニーである。

本線より著しく低規格な簡易線には、大型機関車は入線できない。このためまず短距離線区向けには1932年(昭和7年)にタンク式のC12形が開発された。軽量で前後進の容易な小型機である。しかし比較的長距離の線区では、C12形では航続距離が短く運用に適さない。このためC12形から水槽と炭庫をはずし、テンダー式に設計しなおされたのがC56形で、両形式は共通部分の多い系列設計となっている。これは制式蒸気機関車系列化の先達であるドイツにおいて支線区向けに設計された、64形タンク機と24形テンダ機の設計手法を参考にしたと思われる。両形式は形態もC12形、C56形にそれぞれ類似している。当時は簡易線には、転車台が設置されている箇所が少なかった。C12形はタンク機関車のためバック運転は容易であるが、C56形はテンダー機関車のため後方が見にくくならないよう、テンダーの炭庫側面を大きく欠き取って後方視界を確保したスタイルが特徴的である。しかし、実際にはC12形と異なり従輪がなく、バック運転時の走行特性が著しく低下してしまった。これが原因で脱線が多発したため、低速での入換を除けばバック運転はあまり行われなかったといわれている。

鉄道省向けとしては、1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)までの間に160両が製造されている。製造メーカーは川崎車輛、汽車製造会社、日立製作所、日本車輌製造、三菱重工業の各社である。このほかに、樺太庁鉄道向けに4両、民間向けに1両が製造されている。製造当初は、日高本線・米坂線・小海線・飯山線・大糸線・越後線・七尾線・三江北線・木次線・小松島線・妻線・宮之城線・山野線などの路線に投入された。

C56形は軽量小型でありながら長距離の運用に適する設計であるために軍部より注目され、太平洋戦争開戦直前の1941年11月および12月に、製造された160両のうち半数以上の90両 (C56 1 - 90) が供出され、タイ・ビルマ(現・ミャンマー)へと送られた。

戦後に国内に残った68両の本形式は大規模な配置換えが行われ、北陸地方、甲信越地方、中国地方、九州地方で使用された。使用線区は、小海線・飯山線・大糸線・越後線・七尾線・三江北線・木次線・妻線・宮之城線・山野線。ほかにも北海道や横浜などでも、ごく少数が入換用に使用されていた。
運用路線に閑散線区が多かったことや限られた牽引力から、優等列車牽引にはほとんど用いられなかったが、木次線では1953年(昭和28年)から1959年(昭和34年)まで陰陽連絡の快速列車「ちどり」運用を線内全線通しで担った。
北海道では90両が供出される以前は本形式が多数配置され、各路線で主力機として運用されていたが、供出後の配置換えで数両のみ残り、その後はC11形に取って代わられた。晩年は入換用として過ごし、本州のC56形より一足早く1960年代には姿を消した。
C56形が使用されていた各地の簡易線では、後継のディーゼル機関車がなかなか実用化されなかったのが幸いし、比較的晩年まで貨物列車牽引用に残っていた。しかし、簡易線区用に開発されたDD16形ディーゼル機関車が貨物牽引用に投入・置き換えが始まった。
特筆事項の一つとして、SLブームの1972年10月、鹿児島本線でのお召し列車牽引(91+92号機)がある。92号機は半年後の1973年4月に、日南線でC11 200との重連で再びお召し列車を牽引した。
1973年(昭和48年)夏に、小海線でC56形が2ヶ月間復活した(臨時列車「SLのべやま号」、中込駅 - 小淵沢駅間)。小型軽快で高原地帯を走る姿が小馬(ポニー)を連想させ、「高原のポニー」と呼ばれた。これ以降「ポニー」がC56形の愛称になった。
1974年(昭和49年)、三江北線の貨物列車牽引を最後にC56形は定期運用を退いた。

製造所 日立製作所、三菱重工業
川崎車輛、汽車製造
日本車輌製造
製造番号 別記
製造日 1935年 - 1942年
総製造数 165両
軸配置(ホワイト式) 2-6-0
軸配置(アメリカ式) モーガル
軸配置(日本式) 1C
軌間 1,067 mm
動輪径 1,400 mm
全長 14,325 mm
全高 3,900 mm
最大軸重 10.61 t(第3動輪)
動軸 31.76 t
含炭水車重量 65.53 t
燃料種別 石炭
燃料容量 5.00 t
水容量 10.0 m?
ボイラ 過熱式
ボイラ圧力 14.0 kg/cm?
火格子面積 1.30 m?
大煙管寸法本数 127 mm×3,200 mm×16本
小煙管寸法本数 45 mm×3,200 mm×68本
煙管伝熱面積 54.4 m?
火室伝熱面積 7.4 m?
全蒸発伝熱面積 74.2 m?
過熱器形式 シュミット式
過熱伝熱面積 19.8 m?
気筒数 単式2気筒
気筒寸法 400 mm×610 mm
弁装置 ワルシャート式
営業最高速度 75 Km/h
出力 592 PS
定格出力 505 PS
引張力 8,290kg
粘着係数 7,940 kg
単独ブレーキ 空気ブレーキ
列車ブレーキ 自動空気ブレーキ

 

 

香住駅 JR西日本)山陰本線

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香住駅(かすみえき)は、兵庫県美方郡香美町香住区七日市字クゴにある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。

夏場は海水浴客で、冬場は温泉客・カニを食べに来る客で賑わう観光駅である。町中至る所でカニのオブジェを見かけます。

松葉ガニの水揚げで知られる香美町の玄関口として冬場は観光客で賑わう。特急「はまかぜ」が全列車停車し、通常期は1往復ここで折り返す。


豊岡駅の管理駅でみどりの窓口が設置されている。 かつては終日駅員が配置され旅行センターもあったが、2003年(平成15年)6月1日から夜間の駅員配置が無くなり営業時間が大幅に短縮された。2004年(平成16年)10月16日から駅の管理がJR直営からジェイアール西日本福知山メンテックに移管された。

駅舎内、切符売場にはタッチパネル式の券売機が1台設置。待合室にはFRP製の椅子があります。キオスクは撤退しています。
余部橋梁が強風の場合、当駅から浜坂駅までが運休となり、バス代行(全但バスが担当)となる。雨量計が設置されている。

単式・島式2面3線のホームを持つ地上駅。トタン屋根の大きな鉄骨造駅舎は単式の1番のりば側にあり、島式の2・3番のりばへは地下道で連絡している。2008年(平成20年)3月15日のダイヤ改正以降、鎧駅および久谷駅の行違い設備が使用停止となっており鳥取方面は浜坂駅まで行き違いが可能な駅が無くなり、当駅で行き違いを行う列車が増えている(同時に相谷信号場の行違い設備も使用停止されている)。
各ホームに今では数少なくなった反転フラップ式案内表示機が設置されていたが、2013年3月に撤去された。


のりば
のりば 路線 方向 行先 備考
1 ■山陰本線 上り 城崎温泉・豊岡方面
2 ■山陰本線 下り 浜坂・鳥取方面
3 ■山陰本線 上り 城崎温泉・豊岡方面 一部の特急列車


下り 浜坂・鳥取方面 一部の普通列車
以上はあくまで臨時列車の運行が設定される冬季を除いた運用である。
1番のりばが上り本線、2番のりばが下り本線、3番のりばが上下副本線であるが、3線とも豊岡方面からの折り返しに対応。浜坂方面からの折り返しは3番のりばのみ対応(ただし定期列車での設定はない)。


原則として1番のりばに上り列車、2番のりばに下り列車が発着。3番のりばは普通列車を追い越す特急や当駅折り返しの特急が使用する(ただし、待避有無に関わらず3番のりばに入る普通列車もある)。また、当駅折返し列車のうち、特急「はまかぜ」は前述の通り3番のりばで、普通列車は1番のりばで折り返す(ただし臨時列車増発時は2番のりばで折り返しが行われる場合もある)。


また、香住止「はまかぜ」の延長運転時も、通常通り3番線に入線し、そこから浜坂方面に発車する。
上りのみ特急「はまかぜ」に追い越される普通列車が1本だけ存在する。


この場合、2008年(平成20年)3月14日までは普通列車が待避線である3番線に入り、特急が1番線を通っていたが、3月15日以降はこれが逆転している。
夜間滞泊は設定されておらず、22時台の豊岡駅からの列車は回送列車になる。

1911年(明治44年)10月25日 - 国有鉄道播但線の城崎駅(現・城崎温泉駅) - 当駅間延伸により、その終着として開業。客貨取扱を開始。
1912年(明治45年)3月1日 - 山陰本線が浜坂駅から当駅まで延伸開業。同時に播但線の福知山駅 - 和田山駅 - 当駅間が山陰本線に編入され、山陰本線単独駅となる。
1974年(昭和49年)10月1日 - 貨物取扱を廃止。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。
2010年(平成22年)7月17日 - 余部橋梁架け替え工事に伴い同日から8月11日までの間、当駅から浜坂駅まで運休(バス代行)となり、一時的に豊岡方面からの列車の終着駅となる。

電報略号 カス
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線


乗車人員
-統計年度- 516人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1911年(明治44年)10月25日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有

餘部駅 JR西日本)山陰本線

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餘部駅(あまるべえき)は、兵庫県美方郡香美町香住区余部字ナワテにある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。国内最大のトレッスル橋で知られた駅で第3回近畿の駅百選選定駅です。山の中腹にあり、地上からは細い通路を登り5~10分かかります。

余部橋梁が駅のすぐ東側に架かる。橋梁を望む展望台が駅裏手にあったが、橋梁の架け替え工事で山側に線路を通すため掘削されるのに伴い、2008年(平成20年)4月11日をもって一時閉鎖された。しかし、新旧橋梁切替時期から再開を望む声が多く寄せられたことによって、香美町の定例議会で再開の提案が2010年9月に可決され、補修工事後2010年11月3日に再開された。


余部の集落は鉄橋の直下にあり、駅からは長い坂道を下りていく必要がある。この坂道には階段がなく、雪の積もる冬場には滑落の危険があるほど急である。また幅が狭いため自動車は通れず、駐車場が坂道のふもとに設置されている。この道も橋梁工事のため2008年(平成20年)2月に一部付け替えられている。

駅名と地名の読みは同じだが、漢字表記が異なる。この駅の開業が1959年(昭和34年)であり、1930年(昭和5年)に開業した姫新線の余部駅(よべえき)との重複を避けたためとされる。マスコミにおいては「余部駅」と表記されることもある。
豊岡駅管理の無人駅で、自動券売機や乗車駅証明書発行機も設置されていない。
駅の開業は地元住民の要望が強く反映された。余部橋梁が完成してから1950年代まで、余部集落住民が山陰線を利用するためには、列車の合間を縫って徒歩で余部橋梁を渡り、トンネルをくぐって隣の鎧駅まで行く必要があった。1955年(昭和30年)、地元住民が駅設置の実現化に向け、国鉄に強く働きかけたり、小学校児童が県知事に駅設置を願う手紙を書くなどの行動が展開された結果、駅設置が決定した。建設の際は住民たちも駅造りを手伝い、その様子を描いた壁画がホーム傍に立てられていたが、新橋梁建設工事開始後は周辺案内板等と共に撤去されている。


浜坂方面に向かって右側に単式ホーム1面1線を有する地上駅(停留所)。分岐器や絶対信号機を持たない棒線駅で、ホームは豊岡方面と浜坂方面の共用である。駅のトイレは閉鎖された為、利用の際は下の集落に降りなければならない。


余部橋梁の架け替え前は、ホームは浜坂方面に向かって左側であった。そこから線路とは反対方向に集落に下りる通路が通じていたが、橋の架け替えに伴いこのスペースに新たに線路を通すことになったことから、構内踏切が設置されて新たな通路が設けられた。新橋の供用開始に伴う線路の付け替えで、構内踏切は解消されている。

ホーム中ほどにはコンクリートブロック造の待合室が設置されています。待合室内には長椅子が設置されています。
橋の架け替えによる営業再開に際して、旧橋で使用されていた鋼材を切断したベンチがホームに設置されている。


1959年(昭和34年)4月16日 - 国鉄山陰本線の鎧駅 - 久谷駅間に新設開業。旅客営業のみ。
1986年(昭和61年)12月28日 - 余部鉄橋列車転落事故が起こる。

1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2004年(平成16年) - この年より、春休み、ゴールデンウィーク、夏休みなどの多客時に臨時快速列車あまるべロマンの運行が開始され、同列車の停車駅となる。
2008年(平成20年)2月29日 - 余部橋梁工事のため、仮設の通路と踏切が設置される。
2010年(平成22年)7月17日 - 余部橋梁工事のため、同日から列車が運休(バス代行)となり、営業を一時休止。
2010年(平成22年) 8月12日 - 余部橋梁の架け替え完成に伴い、営業を再開。ホームから見て従来とは反対側に線路が移設される。

電報略号 アマ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 98人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1959年(昭和34年)4月16日
備考 無人駅

 


09-16CSM マルチプルタイタンパー(東鉄工業)東海道本線

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プラッサー社(オーストリア)製
型式 09-16CSM
全長 29,700mm(ワゴン含む)
全福 2,840mm
全高 4,000mm

重量 80.8t
走行速度 80km/h
回送時最少曲線半径 100m
作業時最少曲線半径 250m

マルチプルタイタンパー (Multiple Tie Tamper) とは鉄道の保線用機械の一種。略してMTTまたはマルタイとも呼ばれる。一般の鉄道車両と同様にレール上を自車の車輪で自走できるが、一般的には車籍を有しない機械扱いであり、これを用いて作業を行う時には線路閉鎖が行なわれる。

列車走行に伴うレールのゆがみを矯正するために使われる。バラスト軌道の場合、列車が走行すると枕木が沈降し、レールがわずかにゆがむ。このゆがみは列車の乗り心地を悪化させる上に、高速走行を阻害する原因にもなり、定期的なメンテナンス(=保線)が必要である。マルチプルタイタンパーが導入される前は、つるはし(ビタ、ビーター)やタイタンパーで保線作業を行っていたが、大量の人員と長時間にわたる作業時間を要していた。最新の機械では、機械操作に2 - 3人、その他監視等に1 - 2人で作業でき、一般軌道では100メートルを10 - 15分程度でつき固めることができる。

機械がレールを掴んでミリ単位で持ち上げ、枕木下に隙間を設ける→ツール(爪のような部分)で砂利を突き固め、枕木下に砕石を入れることで予定の高さに線路を直していく。
またペダル操作により自走できるため作業もスムーズにできる。この作業で突き固めだけでなく、同時に高さの調整(高いところを低くすることはできない)や左右方向の歪み(狂い)も直している。ポイント部分でも突き固めることのできる高機能なものもある。最近ではこの作業の邪魔にならない形状のATS地上子が増えていて、突き固めたときに飛び散るバラストから地上子を保護するカバーも設置が進んでいる。

プラッサー&トイラー (Plasser & Theurer) は、オーストリアの線路工事用重機メーカー。本社をウィーン、工場をリンツに置き、欧州周辺の鉄道をはじめ、ロシア、アフリカ、中南米、アジア、そして日本にも輸出している世界規模のマルチプルタイタンパーメーカーである。
1953年にオーストリアで設立。欧州では同業他社としてスペノ社とマティサ社(共にスイス)があるが、世界の鉄道の大半ではプラッサー&トイラー社の製品が採用されている。
日本では1971年、プラッサーグループの日本法人として日本プラッサー株式会社(豊島区駒込)を設立。旧国鉄(現・JR)、日本の私鉄をはじめ公共公団との関わりも深い。
2010年現在、製品は世界104か国へ輸出されており、15,000台以上が稼働している。全世界の従業員3,000人のうち1,500人がオーストリア勤務である。

 

レスキューキッチンシステム4号(K-4)

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レスキューキッチンシステムの前身は、既に各方面で利用されている「移動式炊飯器」です。この「移動式炊飯器」に更なる改良を施し、自動化を進めたのが「レスキューキッチンシステム」です。自動化の程度と発電機の搭載の有無で「K-1」と「K-2」のタイプに大別されます。その他にもユーザーの注文に合わせた「派生型」が何種類かあります。

この「レスキューキッチンシステム」は、災害などにより電気・ガスの供給が停止してしまったような状況下や、加熱設備のない屋外・野外においても迅速に炊き出しを行うことが可能です。また、災害時以外の屋外・野外での催事などにも幅広くご活用可能です。

「災害」とは決して起こって欲しくないものです。しかしそれを防ぐ技術、適切な予測技術が確立していない以上、災害発生時の備えを忘れてはなりません。電気やガスが止まり、薪や炭なども手に入らない。そんな時こそ、「レスキューキッチンシステム」がお役に立ちます。レスキューキッチンシステムは以下の特徴を備えます。
一つのユニットで、約100食分の炊飯が30分足らずで出来上がります。
操作性・安全性にも優れていますから、使用方法も簡単なので、様々な状況下で活躍します。
しかも、レスキューキッチンシステムが活躍するのは、非常時ばかりではありません。多人数が集まる屋外・野外での各種催事などもレスキューキッチンシステムは活用できます。


①米・水を図のように仕込み、点火します。
②水はやがて沸騰し、水中に無数の蒸気の泡が発生し、水かさが増します。
③蒸気の泡を多く含んだ比重の軽くなった熱湯が、底部から上部へ押し上げられて、米の上から降り注ぎます。熱湯は米粒の間を通り、さらに仕切板の多数の細孔を通過し、やがて底部に戻ります。
④この熱湯の循環を繰り返し、やがて液体としての水が米に吸収され、無くなった時点で、炊飯が完了します。

久谷駅 JR西日本)山陰本線

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久谷駅(くたにえき)は兵庫県美方郡新温泉町久谷字桑替、駅周囲は人家もほとんどない所です。西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。

浜坂方面に向かって左側に単式ホーム1面1線を有する地上駅(停留所)。ホームに簡素な待合所が新設されています。


元々は相対式ホーム2面2線を持ち、交換設備を有しており、2007年度(平成19年度)までは駅舎側の1番線に豊岡方面行きが、浜坂寄りの構内踏切を渡った先の2番線に浜坂方面行きが発着していた。


しかしその後、2008年(平成20年)3月15日のダイヤ改正と同時に、2番線ホームの入口に立入禁止の柵が設置され、浜坂方面・豊岡方面ともに駅舎側の1番線のみに発着するようになり、1面1線の駅となった。

但し構内踏切自体は、2番線側にあった南口からの連絡通路として残り、南口側からの出入りは引き続き可能であった。なお、閉鎖された2番線の場内・出発信号機自体は2009年頃まで稼動していたが、2010年(平成22年)3月時点では使用を停止していた。


その後、2012年秋頃に棒線化の工事が実施された。その際に使用を停止していた2番線を使用するように分岐器は撤去された。平屋のコンクリート造駅舎および1番線・駅前の広場の使用は停止され、国道から駅舎までの道路(兵庫県道261号赤崎久谷停車場線)の踏切手前に駐車スペースが設けられた。

2012年12月後半頃の時点では1番線のレールは残されている。
豊岡駅管理の無人駅となっており、自動券売機も設置されていない。


1912年(明治45年)3月1日 - 国有鉄道山陰本線の香住駅 - 浜坂駅間延伸により開業。客貨取扱を開始。
1963年(昭和38年)3月1日 - 貨物取扱を廃止。
1970年(昭和45年)12月15日 - 無人駅化。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2008年(平成20年)3月15日 - 2番線ホームを閉鎖。
2010年(平成22年)7月17日 - 余部橋梁工事のため、同日から8月11日まで列車が運休(バス代行)となり、営業を一時休止。
2012年(平成24年)3月17日‐ダイヤ改正により、一部普通列車が通過となる。
2012年 秋頃‐棒線化の工事が実施される。

電報略号 クタ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線


乗車人員
-統計年度- 11人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1912年(明治45年)3月1日
備考 無人駅、掲載の駅舎は2012年秋に閉鎖された

 

銀河 レストラン船 瀬戸内海クルーズ㈱

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銀河(広島港) - 総トン数602トン、全長52.0m、全幅9.4m、巡航速力14.2ノット、定員 450名

レストラン船とは、出航地と帰港地が同じで、本格的なレストランを備え、レストラン以外のキャビンを持たない旅客船のこと。

洋上の眺望を得ながらレストランでの食事やお茶を楽しむという目的に特化した客船で、クルーズ客船のランチタイムやディナータイム、ティータイムの楽しみを抜き出して提供するサービスのシステムともいえる。 一般に通常の遊覧船に比べて大型であり、パーティや船上ウエディングなどに利用されることも多い。
日本でのレストラン船の始まりとして、瀬戸内海汽船の南十字星(1979年)・銀河(1983年)などが記録に残されている。ちなみに周航船であるが、琵琶湖の外輪船ミシガン(総トン数940トン、旅客定員787名)は1981年に就航している。

銀河は広島港を母港にし風光明媚な瀬戸内海を楽しめるクルーズ船です。世界遺産宮島を洋上より拝観。宮島下船プランもある。

ランチクルーズは四季折々に移り変わる瀬戸の島々を眺め、銀河シェフ自慢のコース料理を楽しみながら、世界遺産「厳島神社」の島 “宮島”へのクルーズ。

ディナークルーズは市街地の夜景とベイブリッジとライトアップされた「厳島神社」朱の大鳥居を観ながら本格的なフレンチコース料理を楽しむクルーズ

その他パーティークルーズ、船上ウェディングなどをはじめ瀬戸内海の大三島、生口島、大崎上島、音戸の瀬戸、燧灘、小豆島・・・etc。様々な港や島、へも航海します。


会社名 瀬戸内海クルーズ㈱
対応エリア 瀬戸内海の平水水域
営業日/営業期間
毎週水曜日から日曜日(7月19日から8月31日は火曜日も営業)
営業時間
ランチクルーズ[11時30分から14時00分]、ディナークルーズ[18時50分から21時00分]
定休日/休業日
毎週月曜日、火曜日

市内電車・・・広島駅発5番線「広島港」行き(約30分)。
広島市内からは1・3番線「広島港」行き(約30分)。
タクシー・・・広島駅、広島市内から約30分。

浜坂駅 JR西日本)山陰本線

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浜坂駅(はまさかえき)は新温泉町の代表駅で兵庫県美方郡新温泉町浜坂字東岡にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅です。

新温泉町の代表駅であり、近畿北部の温泉どころ、湯村温泉への鉄道での玄関口である。この他、新温泉町もその名の通り、周辺に温泉を多く抱えている地域である。


特急「はまかぜ」(当駅折返しあり)の全列車が停車する。普通列車は2往復を除き当駅で折り返しとなる。また、余部橋梁が強風となった場合、香住駅から当駅までが運休となり、バス代行(全但バスが担当)となる。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを持つ地上駅で、豊岡駅が管理している。昭和34(1959)年3月改築された平屋のコンクリート造駅舎は単式の1番ホーム側にあり、島式の2・3番ホームへの通路は地下道で連絡しています。


みどりの窓口が設置されている。切符売場にはタッチパネル式の券売機が1台。2002年(平成14年)から夜間の配置がなくなり営業時間が大幅に短縮された。さらに2004年(平成16年)からは駅の管理がJR直営からジェイアール西日本福知山メンテックに業務委託され営業時間も延長されたが、2010年(平成22年)10月1日より終了時間が50分繰り上げとなった。

待合室にはFRP製の長椅子が多数あります。
便所は改札外に男女別の水洗式便所(バリアフリー対応)がある。


改札口とホームには、現在では数少なくなった反転フラップ式案内表示機が設置されていましたが、2013年3月に撤去され液晶式に更新されています。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1・2・3 ■山陰本線 上り 城崎温泉・豊岡方面
下り 鳥取・米子方面


運転系統上の境界駅であるため発着番線が一定せず、列車によって発着ホームは頻繁に変更されるため、利用時には駅掲示の時刻表で発着ホームをよく確認する必要がある。運転指令上では1番のりばが上り本線、2番のりばが下り本線になっているが、どのホームも両方向からの入線及び出発が可能である。夜間滞泊は豊岡方面のみに設定されている。


特急「はまかぜ」の発着ホームもダイヤ改正毎に見直されており、2010年(平成22年)3月13日改正のダイヤでは当駅が終着の「はまかぜ」1号は1番のりばに到着し、「はまかぜ」4号として折り返している(2009年(平成21年)3月13日までは3番のりばで折り返していた)。ちなみに「はまかぜ」の乗車位置目標は全てのホームに設けられている。

駅前には温泉が湧いており足湯があります。

構内の外れにはSL時代の給水塔が残っています。

駅舎の一角には鉄道グッズ館「鉄子の部屋」があり、
鉄道関連の資料が展示されています。

 

以前は駅弁販売駅で待合室とホームに売店があったが、1999年(平成11年)10月に撤退した。駅弁であった「かにずし」は元の業者が駅近くの商店で販売している。 売店は現在も営業を続けており、弁当「余部鉄橋物語」を販売している。

1911年(明治44年)11月10日 - 国有鉄道山陰本線が岩美駅から延伸し、その終着として開業。客貨取扱を開始。
1912年(明治45年)3月1日 - 山陰本線が香住駅まで延伸し、京都駅 - 香住駅間の既存線と繋がる。これにより途中駅となる。
1982年(昭和57年)10月3日 - 貨物取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。
1999年(平成11年)10月2日 - この日から普通列車は全列車当駅始発・当駅終着となる。


2002年(平成14年)3月 - 夜間の駅員配置の廃止。
2004年(平成16年)10月16日 - 駅業務委託化。
2010年(平成22年)7月17日 - 余部橋梁架け替え工事に伴い同日から8月11日までの間、当駅から香住駅まで運休(バス代行)となり、一時的に鳥取方面からの列車の終着駅となる。

電報略号 ハサ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線


乗車人員
-統計年度- 354人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1911年(明治44年)11月10日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有

 

 

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