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国鉄20系客車

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国鉄20系客車は、日本国有鉄道(国鉄)が1958年(昭和33年)に開発した寝台特急列車用客車である。

1958年から1970年までに合計16形式473両が製造された。他形式からの改造編入が6両あり、最終的には19形式479両となった。
最初に投入された列車にちなみ「あさかぜ形客車」とも呼ばれ、その設備の優秀さから登場当時は「走るホテル」とも評された。
電源車から一括供給される電力による国鉄制式客車としては初となる全車空調装置の装備・完全電化食堂車・TR55系空気バネ台車などで居住性を大きく改善した画期的な車両である。

日本で初めて同一系列・同一意匠の車両による「固定編成」を組むことを前提とした体系的な基本構想の下に設計された客車である。
塗装は青15号にクリーム色1号の帯を3本巻いた外観はデザイン的にも優れ、以後の客車寝台特急も含めて「ブルートレイン」と呼ばれる起源となった。

車体:設計は先行する10系客車を基本とし、普通鋼使用であるものの台枠だけではなく側板などにも荷重を負担させることで梁や柱などの構造部材を省略して大幅な軽量化軽量かつ側面腰板部で絞った大断面準張殻構造車体を採用した。
屋根部は床下冷房搭載により扇風機カバーや通風器などの突起物を一切取り付ける必要が無くなったことから、車両限界を最大限に活用すべく丸く深い切妻構造の断面形状である。
また完全冷房化により、側窓は車掌室やトイレなど開閉の必要のあるものを除き全て複層ガラスとゴムシーリングによる固定窓とした。座席車はシートピッチに合わせた狭窓を、寝台車や食堂車は区画に合わせた広窓を採用し在来車の窓配置を踏襲する形で窓寸法が決定されている。
2段式1等寝台車では上段寝台明かり取り用小窓を幕板部に設置し、外観上の特徴となった。
編成の最前部・最後尾に連結される電源車は3枚の平面ガラス、緩急車は2面の曲面ガラスを採用する丸妻型デザインである。また分割運用にも対応する編成中間の緩急車は、貫通路を備える切妻形デザインとした。
内装は当初は10系客車同様のハードボードと称する木質樹脂板を使用したが、途中からメラミン樹脂化粧板に変更された。
同時に寝台車の天井内張板も穿孔板から一般の化粧板に変更。
ナロネ20・22形の「ルーメット」タイプ1人用個室を国鉄の営業用客車では初めて採用した。
2等寝台車は10系寝台車と同様の3段式の折りたたみ寝台を備える側廊下式配置で組立・解体作業は手動で行う。
このため多数の人手と長い時間を要することから側廊下には跳ね上げ式の折りたたみ座席を設置した。
客用扉は自動ドアの採用を見送り、電磁弁で遠隔ロックのみ可能な手動式折り戸である。
開閉作業は列車給仕により行われていたが、1976年10月の車掌補廃止以降は開扉は乗客が行うようになった。閉扉は車掌の業務となったため扉が開いた状態のまま発車し走行中に車掌が各車を巡回して閉める光景もしばしば見られた。そのため、各ドアには「手であけてください」等の2種類のドアステッカーが貼られた。
愛称板は非貫通タイプの電源車・緩急車では5角形のアクリル板による電照式大形愛称表示装置を採用した。
初期には列車によって配色を変える試みがなされ、地色は「あさかぜ」は薄水色、「さくら」はピンク色、「はやぶさ」は黄色、「みずほ」は水色(文字は黄色)が採用されたが、1964年の「富士」「はくつる」以降は簡略化のため白の地色に濃青の文字にほぼ統一され、前記の各列車も次第にそのスタイルに取り替えられた。
ただし「あけぼの」「ゆうづる」では、両列車に青森運転所と秋田運転区の運用が混在したことから区別のため、青森車が白色地、秋田車がピンク地とされた。
1978年より導入した「絵入りサインマーク」は、特急列車では既に本系列が置換え対象となっていたため1980年代に多客期の臨時列車として投入された「明星」「あかつき」「日本海」で新規に作成された程度で、急行列車では1980年の「銀河」を皮切りに九州地区の「かいもん」「日南」でも採用された。また、同時期から1990年代にかけて運行された臨時急行「おが」「あおもり」「玄海」「霧島」「雲仙」で絵入りサインが採用された一方で、その他の定期急行運用では文字の「急行」表示のみとされた。
分割用緩急車であるナハフ21・ナハネフ21・ナハネフ23では貫通路を挟んだ形の2分割タイプのバックサインで、列車名のアクリル板を車内側の蓋を開けて差し込む構造である。
客用扉及び車端部には固定式の等級・種別・号車・行先の各表示灯を設置。
行先表示灯は「東京←→博多」の様に発着地両表示とし、着地を裏から照明の点滅で明示した。

1958年10月から、東京 - 博多間を結ぶ特急「あさかぜ」に投入され運行を開始した。これ以後本州・九州における寝台特急に広く投入され、日本各地に寝台特急列車網を構築した功績は大きい。
1970年代後半からは、設備が時代に合わなくなってきたため、本来の定期特急列車としての運用から外されて急行列車ならびに臨時列車の運用が主体となる。1980年(昭和55年)10月の「あけぼの」の24系化を最後に特急での定期運用が消滅し、1980年代後半からは塗装のうちドア部分や最上部の白帯が省略された。
1985年3月のダイヤ改正では余剰車を1985年(昭和60年)3月17日 - 9月16日に茨城県筑波郡谷田部町(現在のつくば市御幸が丘)で開催された国際科学技術博覧会(つくば博・科学万博)へのアクセス列車「エキスポライナー」「エキスポドリーム」に投入した。
1986年(昭和61年)11月には「だいせん」「ちくま」を最後に急行列車での定期運用が終了。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化時には主に臨時列車用として東日本旅客鉄道(JR東日本)に34両、西日本旅客鉄道(JR西日本)に63両が承継され、「カートレイン」や「シュプール号」などの臨時列車に使用された。しかし、老朽化により年々廃車されると同時に運用も減少し、末期には予備車扱いで少数が残存するのみであった。
1997年(平成9年)11月29日、JR西日本で本系列の最終運用となる新大阪発岡山行き快速「さよなら20系客車」が運転され、翌1998年(平成10年)までに全車廃車となった。

 

ナハネフ22形
全車寝台化への方針変更によりナハフ20形に代わって1964年から1970年にかけて1 - 26が日本車輌製造のみで製造された2等寝台緩急車。ナハフ20形同様の非貫通式を採用し、最後尾は車掌室と展望室を設置する。寝台はナハネ20形同様の3段式が8ボックス48人分設置されており、トイレ・洗面所もナハネ20形と同じである。車掌室とは別に乗務員室も設置された。改造車については後述。JRに継承された車両も1996年には廃車となり形式消滅した。

 

 


恵良駅 JR九州)久大本線

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恵良駅(えらえき)は、大分県玖珠郡九重町大字右田にある、九州旅客鉄道(JR九州)久大本線の駅である。
かつては当駅から宮原線が分岐していた。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅。互いのホームは構内踏切で連絡している。構内にはかつて当駅で分岐していた宮原線の跡が残っている。無人駅。


かつては住宅を併設した木造駅舎があったが、2014年1月18日に住宅部分から出火し、駅舎を全焼した。焼失した駅舎は1986年に当時の国鉄から土地とともに九重町が購入したもので、九重町では2014年度中に駅舎を新築する予定。新しい駅舎には、八鹿酒造を再興するとともに、右田井路の整備に私財を投げ打ち、久大本線の敷設や旧森高等女学校の創立等にも貢献した麻生観八の史料館を併設し、これに合わせて駅舎の外観は酒蔵のようにされる計画である。
現在は仮設の待合室。

ホームにはコンクリート製の待合室がある。

1929年(昭和4年)12月15日 - 鉄道省(国有鉄道)の豊後中村 - 豊後森間開業にともない設置。
1937年(昭和12年)6月27日 - 宮原線の当駅 - 宝泉寺間が開業、分岐駅となる。
1943年(昭和18年)9月1日 - 宮原線の当駅 - 宝泉寺間が不要不急線として休止となる。
1948年(昭和23年)4月1日 - 宮原線の当駅 - 宝泉寺間の営業が再開される。


1984年(昭和59年)12月1日 - 宮原線廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR九州に継承。
2014年(平成26年)1月18日 - 隣接の建物から火災が発生し、延焼により駅舎消失。

所属路線 久大本線
電報略号 エラ←ヱラ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線


乗車人員
-統計年度- 40人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1929年(昭和4年)12月15日
備考 無人駅

所属事業者 日本国有鉄道(国鉄)
所属路線 宮原線
キロ程 0.0km(恵良起点)
開業年月日 1937年(昭和12年)6月27日
廃止年月日 1984年(昭和59年)12月1日

引治駅 JR九州)久大本線

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引治駅(ひきじえき)は、大分県玖珠郡九重町大字町田にある、九州旅客鉄道(JR九州)久大本線の駅です。


九重町役場の最寄り駅です。周囲を山と雑木林に囲まれた静かなところにある駅で利用者も少なくひっそりとしています。


駅前に玖珠観光バスのバス停がある。また、徒歩約5分のところにヤマザキのコンビニがある。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。無人駅ですが民家のようなモルタル木造駅舎が残っています。駅のすぐそこまで山が迫り平地はありませんが、駅前はかなり広いです。

元の駅事務室部分は地域の集会所として利用されているようです。改札口はとても狭く待合室には木製の長椅子が置いてあります。

ホームには待合所と木製長椅子とごみ箱が設置されています。

ホームは嵩上げされ、かつては側線が存在した様子もが窺えます。


1929年(昭和4年)12月15日 - 鉄道省(国有鉄道)の駅として開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い九州旅客鉄道に承継。

電報略号 キチ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線


乗車人員
-統計年度- 70人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1929年(昭和4年)12月15日
備考 無人駅

 

国鉄183系電車 クハ183・クハ188形

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国鉄183系電車は、1972年に日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流特急形電車である。
第16回(1973年)鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。

1972年7月15日の総武本線(快速線)東京 - 錦糸町間開業ならびに房総東線蘇我 - 安房鴨川間電化完成により総武本線・房総東線(現・外房線)・房総西線(現・内房線)で運転されていた急行列車の一部を特急列車に格上げするとともに地下区間となる総武快速線に対応させることから、当時の運輸省(現・国土交通省)通達「電車の火災事故対策について(鉄運第81号)」で定められたA-A基準を採用。さらに波動輸送への対応も考慮して製造されたグループである。
1972年にMM'ユニット(モハ183形・モハ182形)33組66両・クハ183形22両・サロ183形11両の99両が新規開設となった幕張電車区(現・幕張車両センター)に集中配置された。1973年 - 1975年に継続して増備され、最終的には9両編成(6M3T)19本と事故廃車代替1両にあたるMM'ユニット57組114両・クハ183形39両・サロ183形19両の総計172両が、日本車輌製造・東急車輛製造・近畿車輛・川崎重工業(現・川崎重工業車両カンパニー)で製造された。
同時期に製造されていた485系を基本としいる。

車体:屋根高さは485系と同じ3,475mmであるが以下の相違点がある。波動輸送対応で冬期の山岳線区での運用を考慮し耐寒耐雪構造を採用し、狭小断面トンネルが存在する中央本線高尾以西への入線対応から運転席上の前灯が省略された。運転が予定される線区に客車向けの低いプラットホームがないことから、181系電車と同様にドアステップは設けず床面高さを1,235mmから1,200mmに、床面からの窓框高さを855mmから800mmへと下げた。
制御車のクハ183形はクハネ581形・クハネ583形・クハ481形200番台・クハ381形0番台と同様な貫通扉を設置した。


当初は内房・外房特急の総武快速線内併結運転を計画されたため地下区間での緊急時脱出の観点からの設置である。近郊形・急行形と同様のデザイン採用案もあったが、581・583系の実績ならびに特急形という点を考慮した結果である。
1車両あたり普通車は末端区間で普通列車としての運用を考慮したため客用扉を片側2か所とした。


車内設備
定員はモハ2形式が68名。クハ183形が58名。サロ183形が48名。従来の特急形車両の基本を踏襲しながらも以下に示す機構が新規採用された。
普通車の座席は従来の回転クロスシートからR51系簡易リクライニングシートに変更された。
冷房装置は、従来のAU12形からモハ183形はAU71A形集中式冷房装置1基、その他の車両はAU13E形分散式冷房装置5基を搭載した。
トイレは普通車・グリーン車とも和式のみであり、循環式汚物処理装置を在来線車両では初めて全車に完全装備した。


側面行先表示器は485系と同様に自動巻取式方向幕が搭載されているが、当初投入された房総地区は季節によって輸送旅客数が大幅に異なるため、閑散期には波動輸送への充当も考慮され70コマ対応のものが搭載された。
使用する列車が短距離列車主体であったため食堂車は当初から計画されていない。代替としてサロ183形に車販準備室と車販コーナーを設置した。
台車・機器:信越本線での運用も考慮され新造時から横軽対策が施工されるなど東日本地区直流電化区間全般での使用も視野に入れた汎用性の高い設計が採用された。
台車はダイヤフラム式空気バネとウイングばね式軸箱支持のDT32E形を電動車に、TR69E形を付随車に採用した。基礎ブレーキはDT32E形が片押し式の踏面式で、TR69E形は1軸当たり2枚装備するディスク方式である。


MM'ユニットは、奇数形式のモハ183形に中央本線や上越線などの勾配線区での運用に対してノッチ戻し制御ならびに勾配抑速ブレーキを装備したCS15系制御装置を搭載。偶数形式のモハ182形を含め8台のMT54系主電動機(120kW)を制御する方式で歯車比は3.5と従来からの国鉄特急電車の標準的システムを踏襲する。パンタグラフはモハ183形に2基搭載したが、国鉄末期以降は離線の可能性が減った事から架線の損耗を抑えるため第2パンタグラフの使用を中止し1993年以降に撤去された。クハ183形には、210KVA電動発電機(MG)と容量2,000/minの電動空気圧縮機(CP)を床下に搭載した。東京 - 錦糸町間の保安設備が車内信号方式を採用したためATC-5形を前位側客室扉後方に設置された機器室に搭載した。

183系1000番台:上越線エル特急「とき」に使用されていた181系、東海道本線東京口の特急「あまぎ」ならびに上野 - 万座・鹿沢口間の季節特急「白根」に使用されていた157系の老朽化に伴う置換え用として1974年11月に当時設計開発途上だった信越特急用系列(後の189系)から横軽協調運転装置を省略する形で製造されたグループである。「とき」充当車は新潟運転所上沼垂支所(現・新潟車両センター)に、「あまぎ」「白根」充当車は田町電車区(後の田町車両センター→現・東京総合車両センター田町センター)に配置された。
開発・製造の詳しい経緯は#183系1000番台登場の経緯を参照のこと。0番台からの変更点:豪雪地帯である上越線に投入されることから耐寒耐雪構造がさらに強化されているのが特徴であり、台車も耐雪強化構造となったDT32I・TR69I形を採用したほか、形式毎では以下に示す設計変更が行われた。
クハ183形
寒冷時における運転台へのすきま風防止のため先頭部の貫通路と貫通扉を廃止し、0番台では省略された運転台の後方監視窓を設置。ATCは未搭載であるが、運転台の拡張とMG冷却風道用の雪切室を設けたために定員は逆に減少して56名である。
客室窓周りの赤塗装は従来乗務員室扉前位でクロスさせて下部前灯部分にかかるデザインであったが、本区分番台では乗務員室扉はベージュ塗装として塗り分け位置を変更。
前灯周位の塗り分けも翼をイメージした形状になり、同じく貫通扉を有しない485系300番台や同1000番台などと比較してやや『つり目』風とでも言うべきデザインに変更。

JR移行直後より「あずさ」「あさま」は並行する中央自動車道・関越自動車道・上信越自動車道の高速バスと激しい競争になり、JR東日本では指定席車両のグレードアップ(デラックス)化で対抗させることになった。その結果1987年 - 1989年に「あずさ」用9両編成x8本、1990年 - 1992年に「あさま」用11両編成x7本と増結用グリーン車1両の計150両へ施工した改造工事である。
基本的に両者とも同内容の施工であるが、「あさま」編成は「あずさ」編成での実績を踏まえた上で改良したため内容が一部変更された。「あさま」編成は外部塗装の違い以外に以下の点が変更された。
座席のハイデッキ部分をやや低くし頭上の圧迫感を低減
照明に附帯するルーバーを廃止しフラットタイプ化
冷房ダクトも含めた平天井に近い形態に変更
グリーン車仕切ドアを通路に合わせて移設
グリーン車に男子トイレを追加
グリーン車公衆電話に電話室を新設して静粛性を確保
上述3点追加により客室面積が縮小した結果定員は「あずさ」編成より1列減の33名
ただし増結グリーン車専用(禁煙車)のサロ189-1は電話室に電話を設置せず業務用室として使用
車内チャイムのうち「武田節」を「故郷」に変更
また「あずさ」編成とは指定席車と自由席車の位置が逆なほか、8号車は閑散期の指定席車→自由席運用が存在したため該当車は指定席車両と同様の改造を行ったが、「あずさ」編成と異なりシートピッチ可変機構は省略された。またグレードアップ改造を施工しなかった一般編成も「あさま」用一般編成の普通指定席車該当車をグレードアップ車と同型座席に交換。グレードアップ編成投入列車は、時刻表に「デラックス車両で運転」と記載されたことから、運用は限定された。しかし1997年の長野新幹線開業で「あさま」編成が松本運転所に転出し「あずさ」に転用されて以降は、次第に限定運用が解除され一般車と共通運用された。


クハ188形:クハ182形と同じく、1986年にサハ481形100番台にクハ189形に準じた運転台を取付けて先頭車化改造した形式である。クハ189形とは異なり、直江津方が100番台、上野方が600番台に区分される。クハ182形100番台と同じく、先頭車改造と同時に種車にあった車内準備室を撤去したため定員もクハ189形と同じ56名である。2006年現在、長野総合車両センターにN103編成の両端先頭車として102・602の2両が在籍する。
クハ183-1009・1020、モハ189・188-31が埼玉県さいたま市大宮区の鉄道博物館ヒストリーゾーン南側屋外で、休憩・飲食用車両として2008年8月1日より展示されている。

 

【むかいしまⅠ】駅前渡船 向島運航(株)

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尾道(JR尾道駅前)~向島(富島)
尾道水道は広島県尾道市にある瀬戸内海の水道です。尾道の中心市街地がある本州と向島を隔てる。尾道海峡と呼ばれることもある。


尾道の中心市街地と向島は幅200~300mの海峡で隔てられていて、そこを行き交う渡船は尾道ならではの風情を醸し出すものです。この海峡は尾道水道と呼ばれて、その沿岸は瀬戸内海航路の主要な港として古くから機能してきました。向島の北側には造船所や住宅地が広がっていて、尾道の生活圏を成しており、この渡船を利用して通勤、通学する人も多くいます。

駅前渡船は3航路の中でも、最も尾道駅に近い乗り場で、JR尾道駅前でR2を挟んで向かい側にある。乗り場付近は公園となっている。渡船乗り場入口にはポールが立てられバイク・車での進入は出来ない。尾道駅からは徒歩約3分。この航路はしまなみ海道サイクリングロード推奨ルートの一つにもなっていて、浮桟橋へ向かう道にサイクリングロードを示す青いラインがひかれています。フェリーが小さいため原付と自転車は積み込み可能ですが、車の積み込みはできません。操舵室が相輪の付いた三重塔のようなデザインになっているのも特徴です。

 航路は3航路の中で最長で、乗船時間は約5分。尾道水道から狭い水路に入ります。水路の入り口には福本渡船の乗り場があり、すぐそばを通ります。向島側の乗り場は日立造船の工場真横にある。川沿いには造船所とクレーンが立ち並んでいます。向島の乗り場は屋根付きの浮桟橋にベンチがあり、朝夕の通学通勤客でにぎわう。乗り場前までは車で来ることが出来る、乗り場入口付近は自転車置き場と化していてバイクと車での乗り入れは不可能。


会社:向島運航(株)
運航日 毎日運航
船名:【むかいしまⅠ】
●総トン数:19.00
●主機関馬力:165×1
●航海速力:6.5
●旅客定員:95名
●積載可能車輌数:旅客のみ
●就航年月日:1999年5月1日

宮地駅 JR九州豊肥本線

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宮地駅(みやじえき)は、阿蘇カルデラ最東端の駅で熊本県阿蘇市一の宮町宮地にある、九州旅客鉄道(JR九州)豊肥本線の駅です。

旧・一の宮町の駅で、平成17(2005)年2月に町村合併により「阿蘇市」の代表駅にはなりました。

かつては構内に宮地機関区が存在しており、現存する転車台はSL折り返しに使用されていました。

豊肥本線の運行上の拠点となる駅で、当駅を経由する旅客全列車が停車する。
普通列車は双方向とも大半の列車が当駅で折り返しとなる。特急列車は「あそぼーい!」が当駅始発・終着で運行される。肥後大津駅・熊本駅方面の列車は比較的多いが、当駅 - 豊後竹田駅間の普通列車は県境の山間地帯を挟むこともあり、乗客も少なく1日5往復と本数が極端に少なくなります。早朝に豊後荻駅発豊後竹田駅行きの普通列車が1本あるが、当駅からは豊後荻駅までタクシーや自動車を使わなければ利用は事実上不可能である。駅前駐車場脇には産交バスの宮地駅前バス停がある。

島式ホーム1面2線を有する地上駅。木造駅舎のデザインは阿蘇神社にちなんだ社殿風です。駅舎とホームは構内踏切で連絡している。

車両基地所在駅で夜間滞泊が設定されている。構内には引込み線のほか転車台があり当駅折返しの「SLあそBOY」牽引の蒸気機関車が方向転換の為に使用されていた。1943年(昭和18年)11月竣工の駅舎は当駅至近に存在する阿蘇神社に因み社を模したものとなっている。


直営駅。かつてはマルスを有していたが、現在はPOS端末を有する。当駅では直接指定券の発売はできないが、「九州横断特急」程度の指定券であればPOS端末を通して発売される。

のりば
1・2 ■豊肥本線 (上り) 肥後大津・熊本方面
(下り) 豊後竹田・大分方面


ホームは構内踏切で結ばれています。

1918年(大正7年)1月25日 - 宮地軽便線の立野駅から当駅までの延伸に伴い宮地駅として開業。当時は終着駅。
1922年(大正11年)9月2日 - 宮地線に路線名を変更。


1928年(昭和3年)12月2日 - 当駅から玉来駅までが開通。熊本駅から大分駅までが一本の線路で結ばれ、豊肥本線の駅になる。
1982年(昭和57年)11月 - 貨物取扱廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道に継承。

電報略号 ミヤ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 414人/日(降車客含まず)
-2005年-
開業年月日 1918年(大正7年)1月25日
備考 直営駅

豊後国分駅 JR九州)久大本線

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豊後国分駅(ぶんごこくぶえき)は、大分県大分市大字国分にある、九州旅客鉄道(JR九州)久大本線の駅である。駅名由来である豊後国分寺跡が近くにあります。

大分市歴史資料館の最寄り駅でもあります。

駅周囲はほとんどが農地で、少し離れて東側に国分地区の集落が、西側の高台に国分新町の分譲住宅地がある。

また、駅から南へ約1.5キロメートル、大分川と国道210号を渡った先には市内最大規模の住宅団地である富士見が丘ニュータウンがあり、当駅を利用したパークアンドライドの実施試験が行われた。朝の通勤時には始発列車も設定されています。

相対式ホーム交換可能な22面2線を有する地上駅です。互いのホームは構内踏切で連絡している。大分からの折り返し列車が設定されているため、乗務員の休憩所が有る。


通常は無人駅だが、平日朝特別改札のために社員が派遣されることがある。自動券売機が設置されている。ICカードSUGOCAは出入場のみ対応し、当駅でチャージや購入はできない。


1989年(平成元年)3月11日 - 開業。当初は交換設備なし
2012年(平成24年)12月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。

電報略号 フコ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線


乗車人員
-統計年度- 319人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1989年(平成元年)3月11日
備考 無人駅(自動券売機 有)

EF58形電気機関車

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EF58形電気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客用直流電気機関車です。

当初、1946年から1948年にかけて初期型車が製造されたものの、31両が完成したところで諸事情により一旦製造中止となった。
1952年以降、全くの別形式と見なしてよいほどの大改良を経て量産を再開した。以後、初期型車も車体載せ替えを含む仕様統一の改造を受け、1958年まで増備された。のべ製造両数は172両である。
根本的には戦前の鉄道省型電気機関車由来の設計を強化した、旧式システムの機関車ではあったが、1952年以降の改良型は高速運転時の性能に優れ、特急列車の牽引にしばしば用いられた。この改良型は、流線型を取り入れた秀逸で、なおかつ独特のロバストネス(逞しさ)を感じさせる車体フォルム(デザイン)も手伝って、多くの鉄道ファンから「ゴハチ」の通称および愛称で親しまれている。
1950年代から1970年代にかけ、東海道・山陽本線や高崎・上越線、そして東北本線黒磯以南といった主要幹線において、旅客列車牽引の主力として用いられた。末期には、1978年に電化された紀勢本線にも配備された。
1980年代までにほとんどが営業運転から撤退し、動態保存機的な少数の残存機も2000年代末までにほぼ運用を退いた。お召し列車牽引指定機関車として知られる61号機は、故障並びに後継となる特別電車・E655系の登場により保留機となった。
なお、同時期の1947年から1958年まで製造された貨物列車牽引用電気機関車EF15形は、電気機器などの多くをEF58形と共通設計としており、外見は著しく異なるが「兄弟形式」と評されている。

性能的には戦前最後に新造された旅客用電気機関車EF57形と同等の水準を狙ったもので、鉄道省の旅客用大型機関車の原則に沿った2C+C2の軸配置を採用し、MT41形主電動機[1]を搭載していた。制御方式は戦前からの標準であった手動進段の単位スイッチ式、デザインも戦前からの伝統に則った「前後デッキ付の箱形車体」となった。
しかし外見こそEF57形に似ていたものの、その品質はEF57形とは全く異なるものであった。随所に代用部材や簡易構造が用いられ、戦時設計の貨物用機関車EF13形に近似した「準戦時型」車両で、粗悪と評しても過言ではなかった。唯一評価に値するのは、車軸の軸受けに初めてローラーベアリングを採用したことであったが、このローラーベアリングも当初は品質不良で発熱を起こすなどの問題を生じさせた。
パンタグラフは本来電車用のバネ作動式PS13形で、強度にも難のある簡易構造。電気機関車用の空気圧作動式はコストや資材難から採用されず。
漏電などの事故を防ぐために必要な高速度遮断器は高価で複雑なことから省略。
ブレーキシューの作動は車輪を両側から締め付けるクラスプ式ではなく、簡易な片押し式。
車体外板は薄手でゆがみが多く、工作不良、等々。
また、EF57形に搭載されていた暖房用蒸気発生装置(ボイラー)が省略されたため、冬季には別に石炭焚きボイラー付の「暖房車」を連結する必要があった。

1952年から1958年にかけて新規製造された35号機から175号機までの141両、および初期型の台車・一部機器を流用して1953年から1957年にかけて新造グループ同様の車体・性能に改造された1号機から31号機である。「新EF58形」とも呼ばれ、一般にEF58形と言えばこの形態を指す。
初期型EF58形とは「完全に別の機関車」と評しても過言でないほどに変化した外観となったが、「EF58形」の形式称号は継承された。兄弟形式であるEF15形も製造期間中に出力向上をはじめとする性能変更が多く生じているが、同様に一貫して「EF15形」の形式称号を継続している。

1952年4月の高崎線電化に伴い高崎・上越線に就役し、相前後して東海道本線にも進出した。
なお、EF58形は高速性能優先で登坂能力が弱いため、急勾配の峠越え区間である上越線水上-石打間は、前部補機のEF16形を連結して通過した。
東海道本線電化は1953年7月に名古屋、1955年7月には米原へと西進した。そして1956年11月、最後の区間である米原 - 京都間の電化完成で、全線電化を達成する。また東北本線も1958年4月に大宮 - 宇都宮間が電化され、翌1959年5月には黒磯までが直流電化区間となった。
EF58形はこのような情勢下で1958年まで大量増備され、1950年代後半の最盛期には、東海道本線の特急・急行列車、普通列車を問わず、客車列車のほとんどを牽引するまでに至った。
車体: 自動式の暖房用ボイラーを搭載するため、そのスペースを確保する目的で車体が延長され、斬新な半流線型となった。
鉄道省→国鉄によって1920年代から1940年代にかけ製造されてきたすべての大型電気機関車は、蒸気機関車と同様に、長大な台車枠を相互に連結して土台とし、前後への牽引力もこの台車枠で受け持つ構造になっていた。車体については、台車枠の動軸部分上に短い車体を載せるのが普通であった。この車体は蒸気機関車のボイラーと同じで牽引力を分担せず、単に機器室外覆の役割を持つだけである。
台車枠前後両端に配置された無動力の先輪上は、乗務員の乗降や入れ換え作業時の要員搭乗に使われるデッキとなっていた。乗務員は車体端面のデッキ側ドアから運転台に出入りしていた。
改良型EF58形では台車枠を土台とする古い構造自体に変化はなかったが、先輪上のデッキを廃し、車体を先輪上の車端いっぱいにまで延長した。戦前の流線型機関車EF55形で片側の流線型部分のみ車端まで車体とした例はあったが、F級機関車でデッキ無しとして全長に渡る車体を載せたのは、日本ではEF58形が最初である。結果としてはデッキ付車の車体が14m級だったのに対し、全長19m弱に達する長大な車体となった。
車体支持点位置の関係上、車端部まで中央部並みの車体幅とするとカーブ通過時に車両限界を突破してしまう。そのため、先輪上に当たる運転台部分は車幅が徐々に狭まる形となり、断面が小さくなって、車体の長大さを強調することになった。車端部幅員は2300mm程度に抑えられている。
この運転台の前頭形状は、貫通扉を廃した半流線型の正面2枚窓となった。1950年下期から製造された80系クハ86形増備車のデザインの流れを汲む「湘南形」である。
床の高さと前頭部断面の小ささ、屋根部から接合された外板の曲げ半径の大きさが重厚な印象を持たせる。一方で、正面中央に折れ筋が入り、窓部分に傾斜の付いた湘南形の形態は、正面窓下に双曲線を描くクロームメッキの飾り帯と相まって、流麗さをも兼ね備えていた。
戦後形機関車らしい斬新な車体と、戦前技術の延長上にある古典的な台車枠の組み合わせは、この機関車のユニークな特徴である。
デッキ廃止により運転台は車体の先端に位置することになり、乗務員の乗降は運転台直後に設けられた側面ドアから行われるようになった。運転台からの視界は広がり、正面デッキ扉の廃止で隙間風も軽減された。運転室自体も広くゆとりがある。もっとも、隙間風が減った反面で風通しが悪くなったため、盛夏期には運転室が非常に暑くなるというデメリットも生じた。


製造メーカーによる差異:EF58形は、日立製作所、東芝、三菱電機、川崎車両、汽車製造、日本車輌の各所にて車体の製作が行われた。これらの製作所で製造された各車においては、当然、装備の仕様共通化は図られており、目立って大きな差異はないものの製造メーカーにおける特徴のある部分がいくつか見られる。
車体枕梁の形状差
全般検査時などにて車体を吊り上げる時にフックを掛ける枕梁の形状は、通常は逆台形のものが備わっている。しかし日立製作所製のもののみは、正方形に近い形のものが装備されている。また例外的には、旧車体を流用して誕生した東芝製の35、36号機の枕梁形状も日立製のものに近似したものとなっていた。なお、この枕梁はエアフィルター下、車体裾に装備されている。
運転室屋根の形状差
本形式のイメージを大きく左右する部分が、車体前面部分の造形にあると言える。中でも運転室屋根の造形が異なる事に起因するイメージの差は、それぞれの機関車が運用地域における固有の装備を有するようになった末期において、近しい装備を有している車両があるにもかかわらず「1両1両が違う機関車」と言わしめる結果となった。
具体的には車体前端部分の屋根の傾斜に差があり、日立製作所製のものはその他のものに比べ屋根傾斜が浅く、端部において直線的に正面側に落ち込む形状をしており、その他のものは端部に向かって徐々に傾斜がきつくなっていく形状を採っている。
多くの車両が写真などに残されるなど、既に現存しない車両がほとんどではあるものの、その形状差から起因するイメージ差は明白で、特に斜め方向より正面を見た場合、屋根の厚い日立製は正面窓上のおでこ部分が広く男性的な印象を、その他のものは屋根の薄さにより丸みの強い、スマートな印象を受けることとなった。こと原型大窓機においてその差がハッキリとし、日立製61号機と川崎製64号機では屋根の厚みに起因する印象差は、とても大きなものとなっている。
排風ベンチレーターの形状差
本形式の屋根上に設置されるモニタールーフの両側には、機器冷却用の排風ベンチレーターが設置されている。一般的には屋根上機器の配置の関係で、1エンド側のものが2エンド側のベンチレーターより幅広のものが設置されている。
しかし川崎製の車体については、両側共に通常の2エンド側と同サイズの狭幅のものが設置されている。その為、通常はモニタールーフとベンチレーターの間隔は均等になっているものの、川崎製の車体を有する車両についてはモニターと2エンド側ベンチレーターとの間隔が広くなっているのが特徴である。
川崎タイプの特徴を持つ、唯一の例外が改装機の18号機である。同車の車体は新三菱が手がける新EF58の1号車であり、前面窓下部のRや先台車の端梁が未改造のままであるなど、試作車的な要素が見られた。
また、これとは逆に1エンド側の幅広のベンチレーターが両側に設置されている事例もある。これは、7枚窓の異型機であった35、36号機にのみ見られたものである。
装備改造工事に伴って発生した事例
1 - 31号機についてはデッキ付での出で立ちで製造されたが、後の装備改造工事に伴って新型車体の載せ替えも同時に施行されたことは上述のとおりである。しかし、装備改造を施行したのが元々の製造工場によってのみ行われた訳ではなく、異なった製造メーカーにおいて実施された例が多々存在することとなった。例えば日立製である1号機は、装備改造を東芝にて行ったため、日立製の銘板を取り付けてはいるものの上述の日立製車体の特徴を有さないものとなっている。その逆のパターンとしては、19号機が挙げられる。こちらは東芝製であるものの装備改造を日立にて行ったため、東芝の銘板を掲げながらも日立特有の車体を有するものとなっている。また22、26号機の2両は川崎製でありながら日立での改装を実施したため特徴を全く異にする日立車体を有するものであった。製造メーカーの差異については、「装備改造実施車については一概に当てはまらない」と言える。

 

 

 


賀来駅 JR九州)久大本線

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大正4年開業の賀来駅(かくえき)は、大分県大分市賀来北三丁目にある、九州旅客鉄道(JR九州)久大本線の駅です。

近年開発が進んでいる地区で、周囲は比較的整然と区画割されている。戸建住宅のほか集合住宅も多い。また、駅の南側100メートルほどの所に県道207号(医大バイパス)が通っており、ロードサイド型店舗も多く進出している。

駅前のバス停からは別府大学大分キャンパスへのスクールバスが発着している。駅近くの賀来神社では大名行列が6年に1度行われます。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。駅舎は無く、ホーム上に待合所が設置されています。ホーム上の待合所には木製の長椅子が設置。また自動券売機と係員の窓口が設置されている。無人駅で通常時駅員の配置はなく、窓口にはシャッターが下りている。ICカードSUGOCAは出入場のみ対応し、当駅でチャージや購入はできない。

1915年(大正4年)10月30日 - 大湯鉄道の駅として開業。
1922年(大正11年)12月1日 - 大湯鉄道国有化により、鉄道省の駅となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、九州旅客鉄道が継承。
2012年(平成24年)12月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。

電報略号 カキ←タカク
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線


乗車人員
-統計年度- 467人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1915年(大正4年)10月30日
備考 無人駅(自動券売機 有)

 

 

久谷駅 JR西日本)山陰本線

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久谷駅(くたにえき)は兵庫県美方郡新温泉町久谷字桑替、駅周囲は人家もほとんどない所です。西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。

浜坂方面に向かって左側に単式ホーム1面1線を有する地上駅(停留所)。ホームに簡素な待合所が新設されています。


元々は相対式ホーム2面2線を持ち、交換設備を有しており、2007年度(平成19年度)までは駅舎側の1番線に豊岡方面行きが、浜坂寄りの構内踏切を渡った先の2番線に浜坂方面行きが発着していた。


しかしその後、2008年(平成20年)3月15日のダイヤ改正と同時に、2番線ホームの入口に立入禁止の柵が設置され、浜坂方面・豊岡方面ともに駅舎側の1番線のみに発着するようになり、1面1線の駅となった。

但し構内踏切自体は、2番線側にあった南口からの連絡通路として残り、南口側からの出入りは引き続き可能であった。なお、閉鎖された2番線の場内・出発信号機自体は2009年頃まで稼動していたが、2010年(平成22年)3月時点では使用を停止していた。


その後、2012年秋頃に棒線化の工事が実施された。その際に使用を停止していた2番線を使用するように分岐器は撤去された。平屋のコンクリート造駅舎および1番線・駅前の広場の使用は停止され、国道から駅舎までの道路(兵庫県道261号赤崎久谷停車場線)の踏切手前に駐車スペースが設けられた。

2012年12月後半頃の時点では1番線のレールは残されている。
豊岡駅管理の無人駅となっており、自動券売機も設置されていない。


1912年(明治45年)3月1日 - 国有鉄道山陰本線の香住駅 - 浜坂駅間延伸により開業。客貨取扱を開始。
1963年(昭和38年)3月1日 - 貨物取扱を廃止。
1970年(昭和45年)12月15日 - 無人駅化。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2008年(平成20年)3月15日 - 2番線ホームを閉鎖。
2010年(平成22年)7月17日 - 余部橋梁工事のため、同日から8月11日まで列車が運休(バス代行)となり、営業を一時休止。
2012年(平成24年)3月17日‐ダイヤ改正により、一部普通列車が通過となる。
2012年 秋頃‐棒線化の工事が実施される。

電報略号 クタ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線


乗車人員
-統計年度- 11人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1912年(明治45年)3月1日
備考 無人駅、掲載の駅舎は2012年秋に閉鎖された

 

FRANBO PROSPECT 在来型貨物船

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FRANBO PROSPECTは台湾船社Franbo Lines(正徳海運)の貨物船です。貨物船の種類は在来型貨物船 (Cargo Ship)になります。

在来型貨物船は汎用の船舶で荷役に時間はかかるが、特殊な設備を持たない分運賃は安い。船艙に障害物がないので、特殊な形状の貨物を運ぶのに適する。クレーンも備えている為、どこの港でも、荷役ができる。荷役に時間をようするため、コンテナ船のように効率の良い運航はできない。


煙突には船舶会社などの識別にも利用されるファンネルマークは川崎近海汽船の運航を表すKです。ファンネルマークは企業名をデザイン化したものなど、様々なデザインが使用されています。

IMO: 9510034
MMSI: 352753000
呼出符号: 3EWE3
船籍国: Panama [PA]
AIS Type: Cargo
総トン数: 7350
載貨重量トン: 11000 t
全長 x 幅: 114.58m × 19m
喫水:9.21m
エンジン:Mitsubishi UE 7UEC33LSⅡ
出力:3,965kw
速力:13.0kt(最大15.4kt)
船倉容積:15,107㎥
建造:Saigon Shipbuilding and Marine Industry/ Vietnam
建造年: 2010

大分駅 JR九州)

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大分駅(おおいたえき)は、大分県大分市要町1番1号にある、九州旅客鉄道(JR九州)の駅である。40年余りの歳月と約600億円をかけ、2012年3月17日完全高架化が完了した。

大分県の県庁所在地である大分市の代表駅である。当駅を経由する全列車が停車する。日豊本線、久大本線、豊肥本線の計3路線が乗り入れており、このうち日豊本線を所属線としている。
日豊本線は、起点の小倉駅から当駅までは、日出駅 - 杵築駅間、中山香駅 - 立石駅間を除き複線化されているが、当駅以南は終点の鹿児島駅まで全線単線となる。当駅は、当駅以北で運行される特急「ソニック」と、当駅以南で運行される特急「にちりん」(一部当駅を跨いで運行する列車もある)の接続駅となっており、普通列車も当駅で折り返すものが多い。
久大本線は当駅を終点としている。豊肥本線は当駅を起点としているが、列車運行上では当駅に到着する列車が下り、当駅を発車する列車が上りとして扱われている。
当駅は、終列車の発車時刻が全3路線、4方向ともに同時刻の23時30分とされている。
2011年11月には開業100周年を迎えた。

府内中央口(北口)周辺は大分市街地の中心部で、百貨店等の商業施設や大分県等の行政機関が立ち並び、商店街が縦横に延びて、人通りも多い。その一方で、上野の森口(南口)周辺には静かな雰囲気の街並みが広がっている。駅の南北で様相が大きく異なるのは、3本の鉄道路線により市街の南北が完全に分断されていたためであるが、駅の高架化と併行して上野の森口(南口)周辺の再開発も行われている。

大分市中心部の市街地は、地上駅であった大分駅を通る3本の鉄道路線により南北が完全に分断され、商業施設や公共機関が北側に集中していた。この南北地区格差の解消と、南側の開発促進を狙い、1996年度(平成8年度)から連続立体化(高架化)事業が行われた。
当初は2008年9月のチャレンジ!おおいた国体までの全線開通を予定していた。しかし、久大本線及び豊肥本線部分は2008年8月24日に開通したものの、日豊本線部分は間に合わず、全面開業は2012年3月17日となった。


豊肥本線・久大本線部分が先行して高架化した後は、これら両本線から高架化が未完了の日豊本線への直通はできなくなった。このため、久大本線の別府直通の特急列車については、2008年3月改正から大分 - 別府間は臨時扱いとして運行を休止していた。また、夕方に豊肥本線から日豊本線に直通していた普通列車の乗り入れも休止していた。なお、「九州横断特急」は、新設の渡り線(完全高架後は撤去)により高架化後も引き続き別府まで運行され、地上の日豊本線ホームより発着していた。


2012年3月17日のダイヤ改正では、同日の高架全面開業に合わせて、久大本線の特急列車の別府直通が復活した。また、高架化完成により日豊本線が利用できるホームが増えたため、これまで一部が別府駅始発・終着であった日豊本線の特急が、大分駅始発・終着に統一された。
高架化された区間は日豊本線3.65km(豊肥本線1.60kmを含む)及び久大本線1.92kmの計5.57kmで、高架化により日豊本線10箇所及び久大本線3箇所の計13箇所の踏切が除去される。

日豊本線、久大本線、豊肥本線を合わせて島式ホーム4面8線と留置線3線からなる大規模な高架駅である。
駅の北側(大分市街中心部側)を府内中央口(北口)、駅南側(大道側)を上野の森口(南口)と呼ぶ。ただし、既存の市街地は駅北側に偏在していて、大多数の利用者は府内中央口(北口)のみを利用するため、高架化完成以前は、府内中央口(北口)を指す場合には単に大分駅と呼び、特に上野の森口(南口)を指す場合には駅裏と呼ぶことが多かった。


2012年3月17日の高架化完成に伴い、高架ホーム下に新駅舎が設けられた。府内中央口(北口)と上野の森口(南口)とは新駅舎内のコンコースで結ばれており、駅の営業時間(4:00-25:30)中は通り抜けが可能である(手押しに限り自転車も通行可)。ただし、府内中央口(北口)側は駅ビルの工事等のために仮設通路を介しての通行となる。
改札口はコンコースの中央付近の西側に設けられている。自動改札機が設置されており、2012年12月1日からSUGOCAにも対応している。JR九州直営でマルス端末機が設置されている。自動券売機、みどりの窓口、JR九州旅行大分支店は改札口の並びに移転し、改札口横には喫茶店「えきのカフェ」が新設された。なお、高架化前の旧北口改札口は馬蹄形で、この形のものとしては国内で初めて導入されたものであった。自動放送導入駅。


改札内にはキヨスク、ICカードチャージコーナー、トイレなどがある。ICカードチャージコーナーはのりこし精算機ではなく、チャージ機のみである。併設して公衆電話が設置されている。
コンコースを挟んで改札口の向かい側には、2012年3月17日に、コープおおいたを核店舗とし、土産店、飲食店(トランドール、ロッテリアやミスタードーナツ等)、コンビニ(ファミリーマート)、ATMコーナー等、33店舗が入居する豊後にわさき市場がオープンした。
コンコースでは休日にはミニトレイン「ぶんぶん号」が運行される。

番号は駅府内中央口(北口)側から順に割当てられている。特急列車を優先しており、方面によってのりばが概ね分けられているが、乗車する際は駅の案内板や放送に注意が必要である。
各ホームにはエレベーター及びエスカレーターが設置されている。豊肥本線・久大本線は電化されていないため、高架ホームの7、8番線の線路には架線が張られていない。
列車案内アナウンス開始時のみメロディが鳴る。到着・発車時はベルである。
また、1-4番のりばの各ホームにはICカードチャージ機とICカード専用自由席特急券売機が、5-8番のりばの各ホームにはICカードチャージ機のみが設置されている。
以下は平成26年3月15日現在のものである。


のりば
1 ■特急「ソニック」 中津・小倉・博多・佐伯方面
■日豊本線 鶴崎・臼杵・佐伯方面・中山香行き(※1)
■特急「九州横断特急」 豊後竹田・阿蘇・熊本方面
2 ■特急「にちりん」「にちりんシーガイア」 佐伯・延岡・宮崎空港方面
■日豊本線 鶴崎・臼杵・佐伯方面
3 ■特急「ソニック」「にちりんシーガイア」「にちりん」 中津・小倉・博多方面
■日豊本線 別府・杵築・中津方面
4 ■特急「にちりん」 佐伯・延岡・宮崎空港方面
■特急「九州横断特急」 豊後竹田・阿蘇・熊本方面
■日豊本線 別府・杵築・中津方面
5 ■特急「九州横断特急」 豊後竹田・熊本・人吉方面・別府行き
■日豊本線 別府・杵築・中津方面・幸崎行き(※2)
6 ■特急「九州横断特急」 豊後竹田・熊本・人吉方面・別府行き
■豊肥本線 三重町・豊後竹田方面
7 ■特急「ゆふ」 由布院・久留米・博多方面・別府行き
■久大本線 由布院・日田方面
■豊肥本線 三重町・豊後竹田方面
8 ■特急「ゆふいんの森」 由布院・久留米・博多方面・別府行き
■久大本線 由布院・日田方面
4650M列車(同駅17:13発)のみ該当 1639M列車(同駅18:09発)のみ該当
なお、上記ののりばは通常時の発車についてのものであり、多客期に運行される臨時列車や、到着列車はこの限りではない。

府内中央口(北口)には1958年に建設された鉄筋コンクリート構造3階建て(一部4階建て)の駅ビル(旧駅舎)があったが、2012年3月17日の完全高架化を以って使用を終了。解体後、旧駅舎及び地上ホーム跡地に新駅ビルが建設される予定である。新駅ビルは現在よりやや南寄りに移動し、府内中央口(北口)前の駅前広場は九州最大となる。駅前広場の一部には大屋根のあるイベントスペースを設置する計画である。

新駅ビルは2013年4月30日に着工し、2015年春に竣工予定。名称はアミュプラザとJR大分シティとが候補とされている。
新駅ビルは、敷地面積約20,000m?、延床面積約107,000m?、店舗面積約31,000m?で、鉄骨鉄筋コンクリート構造地上8階・地下1階の低層部と東側の地上21階のタワー部とからなる。当初の計画では、地上23階建て、延床面積約120,000m?の予定であったが、温泉施設向けの機械室の面積削減や、駐車場の設計変更により、全体の規模が若干小さくなった。ただし、店舗面積には変更はない。
このうち1-4階は商業エリアで、1-2階には衣料品、雑貨、カフェ等の店舗、3階には東急ハンズ、スポーツ用品店、フードコート、4階にはレストラン街、シネマコンプレックス、大型書店が入居する予定。タワー部の8-18階にはホテル、19-21階には天然の温泉施設が設けられるとともに、低層部の8階には屋上庭園が設けられ、鉄道神社も設置される。また、5-8階には860台分の駐車場が設けられる。

高架化前は、貨物列車の通過線、機関車の入れ替え用側線等の設備が整っていた。かつては府内中央口(北口)の東側に貨物ホームが存在したが、現在は大分市が管理する駐車場になっている。南東部には旧・豊肥久大鉄道事業部豊肥久大運輸センター(旧国鉄時代は大分運転所)があったが、この車両基地は大分駅高架化にともない牧駅近くの大分鉄道事業部大分車両センターの隣接地に移転し統合され、移転先には高架橋も作られた。また、整備場は高架化に伴い解体された。この整備場にはキハ07形気動車が保管されていたが、2003年に九州鉄道記念館に移設された。
夜間滞泊が設定され、1番のりばに885系が、2番のりばに815系が、佐伯寄りの留置線に415系がそれぞれ1本ずつ留置される。

大分駅は鉄道院豊州本線が別府駅から当駅まで延伸したのに伴い1911年(明治44年)に開業した。大分市の市制施行(同年4月1日)からちょうど7ヶ月後のことであった。開業当初は豊州本線の終着駅であったが3年後の1914年(大正3年)に豊州本線は幸崎駅まで延伸し、中間駅となった。また同日に同じ国鉄の犬飼軽便線が当駅から中判田駅まで開通したため同線と豊州本線との接続駅ともなった。
1915年(大正4年)10月30日には大湯鉄道が大分市駅から小野屋駅までを開業する。大湯鉄道はその後1922年(大正11年)の12月1日に国有化され大湯線となり、大分市駅はこのとき大分駅に統合された。これにより、当駅は国鉄の豊州本線・犬飼線(3ヵ月前の1922年(大正11年)9月2日に犬飼軽便線から改称)・大湯線の接続駅になった。
この間、1918年(大正6年)には、外堀止まりだった路面電車の豊州電気鉄道線(後の大分交通別大線)が大分駅前まで延伸。1972年(昭和47年)の廃線まで駅前より発着していた。
1928年(昭和3年)12月2日には玉来駅から宮地駅までの開通により熊本駅から大分駅まで犬飼線なども含めて全通し豊肥本線に改称された。1932年(昭和7年)12月6日には大隅大川原駅から霧島神宮駅までの開通により小倉駅から大分回りで鹿児島駅までが豊州本線等を含めて全通し日豊本線とされた。そして1934年(昭和9年)11月15日には日田駅から天ヶ瀬駅までの開通により大湯線も含めて久留米駅から大分駅までが全通したため久大線となった。久大線は1937年(昭和12年)6月27日に久大本線に改称され、大分駅は現在の様に日豊本線・豊肥本線・久大本線の接続駅となった。
第二次世界大戦当時、大分市街は再三にわたり空襲を受けた。1945年(昭和20年)4月21日には大分駅機関庫が被弾。同年7月16日の大分空襲では中心部の2,358戸が焼失し、大分駅から海が見えたと伝えられる。
戦後は1958年(昭和33年)に駅舎を新設している。この駅舎は、数度にわたる改装を繰り返しながら2012年(平成24年)の高架化まで使用された。駅前には古くから大きな楠があり、駅の象徴となっていたが、構内の拡張工事に伴い1964年(昭和39年)8月に伐採された。
市街地の拡大に伴い、駅の両側の市街地を駅と線路が分断していることが問題となり、1980年(昭和55年)10月に駅を横断する地下道が完成している。ただし、この地下道はコンコース内にあり、無料で通り抜けはできなかった。
1987年(昭和62年)に国鉄の分割民営化に伴い九州旅客鉄道(JR九州)の駅となった。
2012年(平成24年)3月17日に高架化が完成し、高架駅となった。

1911年(明治44年)11月1日 - 国有鉄道(当時は鉄道院)の駅として、豊州本線(現在の日豊本線)別府 - 大分間の開通時に開業。
1912年(大正元年) - 大分機関庫設置。
1914年(大正3年)4月1日 - 豊州本線が幸崎駅まで開通。同時に、犬飼軽便線(現在の豊肥本線)が犬飼駅まで開通。
1916年(大正5年) - 二等駅となる。
1915年(大正4年)10月30日 - 大湯鉄道の大分市駅が開業し、同鉄道線大分市駅 - 小野屋駅間が開通。
1922年(大正11年)12月1日 - 大湯鉄道が国有化され、大湯線(後の久大本線)となる。大分市駅を大分駅に統合。
1937年(昭和12年) - 一等駅になる。
1945年(昭和20年)4月21日 - 大分大空襲により駅本屋構内被災全焼。
1958年(昭和33年)4月 - 新駅舎完成。
1961年(昭和36年) - 0番線を増設。
1964年(昭和39年)8月 - 構内の拡張工事に伴い、駅前のクスノキが伐採される。
1965年(昭和40年)10月 - みどりの窓口開設。
1972年(昭和47年)4月 - 旅行センター開設。
1975年(昭和50年)10月 - 駅改良を実施。
1980年(昭和55年)10月 - 地下道工事が完成。
1984年(昭和59年)2月1日 - 車扱貨物の取扱を廃止。
1986年(昭和61年)11月1日 - 荷物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)3月 - 駅舎を改装。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。
2008年(平成20年)8月24日 - 豊肥・久大本線部分の高架化が完成し、同線の新ホームが運用を開始。同線地上ホームの旧6番線(5番のりば)、7番線、8番線が運用終了。
2011年(平成23年)11月1日 - 開業100周年を迎える。
2012年(平成24年)3月17日 - 日豊本線部分の高架化が完成し、全面高架化完成。
2012年(平成24年)12月1日 - ICカードSUGOCA導入。
2013年(平成25年)4月30日‐大分駅ビルの工事開始。

かつては大正時代創業の梅乃家が駅弁を販売していたが、2007年11月に駅弁事業から撤退。同社はホームの立ち食いそば・うどん店とコンコース内の食堂も運営していたが2012年3月の高架化に伴う構内の改装に伴い閉店した。 現在販売されている主な駅弁は豊後牛めし・大分宝ちらし寿司弁当・大分の車窓・豊後水道味めぐり・湯布院牛ステーキ弁当・からあげ弁当・華おこわミニいなり、また、大分駅が高架化した際、数量限定で高架記念弁当が発売された。
キヨスク、駅コンコースの店舗(一部除く)で、ICOCAとSUGOCA、nimoca、はやかけん、Suica、PASMO、TOICA、manaca、Kitaca等の電子マネーが利用可能である。

名古屋鉄道1800系

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1960年代から1970年代半ばの頃の名鉄特急は7000系電車(パノラマカー)が中心となって運用されてきたが、当時の特急は基本的に特別料金不要の種別であったことや、特急の他に急行や普通などにも使用されていたことから、本格的な有料特急専用車両ではなかった。バブル景気真っ只中の1988年(昭和63年)に登場した本系列はデッキ付きで全席リクライニングシートなど特急専用車両を指向して作られているのが特長である。

1800系は名古屋本線一部特別車特急のラッシュ時における一般席増結用車両として1200系1次車と同時期の1991年に5本が製造された。翌年には廃車された7500系の機器を流用した1850系が3本製造され、さらに1996年に1800系2次車4本が製造され、この2形式は合わせて2両編成12本(24両)の陣容となった。

車体外観・内装:一般車のみの2両組成で一見1200系と似ており、基本的に1200、1230系に準じる。ただし、先頭部の「パノラマSuper」の電照パネルがなく、ミュージックホーンも装備しておらず、ドアの閉まる前の注意喚起の自動放送も搭載していない。そのため、1800系ならびに1850系が先頭車となる特急(名鉄名古屋・名鉄岐阜・犬山方面)はミュージックホーンを鳴らすことができない。また車内案内表示器において電車のデザインの内容は1200系と同一であるが、1380系と併結して運用に入ったときのみ、1200系のものから3500系・3700系と同じものとなり、1200系・1230系との併結時にはそれらの編成の注意喚起の自動放送が流れる。
また1850系の1851編成と1380系は、1000系列(1600系は除く)の中で、転落防止幌が設置されている。

運転・走行機器:制御方式は界磁添加励磁制御で、6800系や5700系6両組成の1M車(モ5650形)と同じ方式であり、歯車比は1000系やモ5650形と同じ4.82として120km/h走行にも対応している。限流値を上げて起動加速度を2.2km/h/sとし、1200系と極力足並みを揃えた。補助電源装置は1000 - 1200系と異なり、当時標準のSIV(70kVA)をク1800に搭載する。その関係で冷房装置も他系列と同様の稼働率制御(型式 RPU-4013)となっている。
一般席増結用車両にも、後述する1230系のように7500系の走行用機器を一部に使った編成が存在しているが、これらは1850系と呼ばれている。機器の流用元は7500系のうち運転台付き中間車7566・7665を挟んでいた7515Fである。制御装置は1230系と同じ他励界磁制御であるが、本系列では限流値を下げて加速度を1800系と同じ2.2km/h/sとしている。1850系は3編成6両が在籍する。

西大分駅 日豊本線

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明治44年開業の西大分駅は市街地北端、大分県大分市大字生石にある、九州旅客鉄道(JR九州)・日本貨物鉄道(JR貨物)日豊本線の駅です。駅から徒歩3分、フェリーターミナルそばに位置する駅になります。

旅客は貨物のおまけ的存在のようで、利用はそれほど多くありません。駅の近く柞原神社の礼祭「浜の市」は毎年9月14日から20日にかけて駅周辺で催される。

島式ホーム1面2線と貨物用1面1線の設備を有する地上駅。明治開業当時の古い大きな木造駅舎です。駅舎とホームは跨線橋で連絡している。ホームのない側線が下り線外側に2本、上り本外側に3本ある。貨物施設を併設するため構内は広い。


JR九州鉄道営業が駅業務を行う業務委託駅である。マルスは無いがPOS端末が設置されている。また、近距離きっぷの自動券売機が設置されている。

かつてJR貨物への簡易業務委託駅であった時代は、駅本屋において出改札業務を行ったが、現在はホームに置かれているプレハブ型の建物で行われている。


ICカードSUGOCAは出入場とチャージのみ対応。駅舎内の待合室にはFRP製の椅子が多数設置されています。


JR貨物が使用する1面1線のコンテナホームが駅舎の東側(旅客ホームの北側)にある。貨物列車専用の着発線はなく、下り本線から分岐し大分駅方面に伸びる引き上げ線から西大分駅方面戻るように荷役線は分岐している。また、営業窓口のJR貨物大分営業支店、乗務員基地の大分総合鉄道部も駅構内にある。


かつては、駅の南にある富士紡績大分工場(現・フジボウテキスタイル大分工場)への専用線があったが、1980年代に廃止された。また、東側から分岐して大分港まで伸びる専用線(大分港臨港線)も存在していた。

大分港臨港線は西大分駅から大分港駅まで1.5kmを結ぶ貨物専用線で、王子町駅(王子港町付近)でスイッチバックして大分港駅に向かっていた。沿線にはモービル石油、昭和石油、日本石油、日本鉱業、共同石油などの専用線があり、石油や鉱物などの貨物輸送を行っていたが、こちらも1987年に廃止された。

跡地は駅付近の一部に踏切跡が残っていたり線路跡が道路や緑地(枕木の道)に整備されて面影をとどめているものの、ほとんどは区画整理されてしまい大分港周辺には専用線があった面影や痕跡は全く残っていない。


1日2往復の高速貨物列車、1日1往復の専用貨物列車が停車する。全列車、北九州貨物ターミナル駅と延岡駅または南延岡駅を結ぶものである。


1911年(明治44年)11月1日 - 国有鉄道の駅として開業。
1955年(昭和30年)12月1日 - 大分港駅までの貨物支線が開通。
1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取扱を廃止。西大分駅 - 大分港駅間が廃止(ただし、同区間は日豊本線の支線扱いとして貨物輸送自体は1987年まで継続)
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR九州・JR貨物が継承。


2003年(平成15年)11月 - POS端末機導入。
2012年(平成24年)12月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。
駅東側の国道10号(別大国道)上に路面電車大分交通別大線の「西大分電停」が1972年(昭和47年)まで存在した。かつては当駅を5時台に出発し南宮崎に11時台に到着する普通電車が存在した。

電報略号 ニオ←ニヲ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 437人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1911年(明治44年)11月1日
備考 業務委託駅

レーション 自衛隊

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レーション(ration)は、本来は食料などの配給品(特に期間を区切って支給されるもの)であるが、一般的には軍隊において軍事行動中に各兵員に配給される食糧(コンバット・レーション)を指すことが多い。本項ではこのコンバットレーションについて記述する。
日本では野戦食や戦闘食、戦闘糧食、野戦糧食、携帯口糧などと呼ばれる。また、正式な用語ではないが、払い下げなどで一般に出回ったコンバットレーションを近年ではミリメシ(military+飯の略)と通称することもある。

これらの食料の多くは劣悪な環境における輸送にも堪え得る保存性と、摂取カロリー量の確保を至上目的としたものである。古くより軍隊では、軍事行動中の食料供給の量的な問題に頭を悩ませており、また、劣悪な環境により伝染病が発生しやすいこともあり、最も基本的な食料を衛生的かつ大量に輸送するため、保存性に優れ、また、余計な手間の要らないものが求められてきた。その一方で、平時よりもはるかにストレスの溜まりやすい戦場では食事は重要な娯楽なので味の改良も進められている。
今日のコンバットレーションと呼ばれる食品は、屋外の食器も家具もない環境で食べやすいよう配慮がなされている。缶詰やレトルト食品、ビニール袋に真空密封包装されたクラッカーやパンなどが一つのパッケージに収められたものが主流。スプーンなどの簡単な食器が付く。兵員の興味を惹き、ストレスを和らげ、士気向上や気力の維持に効果のあるとされるチョコレートやガム、飴などの菓子類が付属することもある。食品を温めるためのヒーターと呼ばれる固形燃料・コンロや生石灰と水の反応熱を利用したものが付属されており、温かい食事を摂れるように配慮されたものもある。
なお、これらは今日の軍隊が災害救援に動員されることも多いため、軍組織が一般人保護活動の一環として、被災した民間の人々にも配布することがある。日本赤十字社では、お見舞い品セットという段ボール箱入りの保存食(内容は缶詰、缶入りドロップなど)を緊急時に被災者へ配布することもあるが、この内容も(市販のカラフルなパッケージのものであることを除けば)レーションの発想に近い。なお、赤十字のお見舞い品セットは1998年まで生気付けのウイスキーのポケット瓶が同梱されていたが、NPO法人「アルコール薬物全国市民協会」の抗議により外された。

レーションには大きく、個々の兵士に配分されるものと、部隊(小隊や分隊単位)で配分されるものに分けることができる。前者には1回分の食事セットとなっているものや、1日分がセットになっているものがあり、いくつかメニューのバリエーションがあり、食事に飽きさせない工夫がなされている。部隊単位で配分されるものには食材として提供されるものが主で、調理して食べることができるため、現地で入手可能な食材を利用して工夫を凝らした料理に仕上げることも可能である。
また、一部にはタバコや酒類などの嗜好品が同梱されているものや、ベジタリアンであることや宗教的な忌避などに配慮して、特定の食材を含まないレーションも存在している。古くは「配給品」であることから、蝋燭や石鹸、歯磨剤などの消耗品を含むものも多かったが、現在ではこれらは食料とは別に配給されるため、今日のレーション中には含まれないことが多い。
個人向けレーションには、現地の飲用に適さない水を濾過・沸騰させて飲む場合も多いことから、湯や湯冷ましに入れて飲用するティーバッグや粉末ジュース、インスタントコーヒー、ココアや粉末スープ類が付属し、食事に彩りを添えたり、食後の娯楽に供するための配慮がなされている。
しかし、食事という個人の好みによる部分が非常に大きく、また、国によっても食文化や食のタブーに対する考えが全く異なってくるため、一概に「レーションとはこういうものである」と言い切ることはできない。
駐屯地や基地での通常の食事は特にギャリソン・レーション(garrison=守備隊・駐屯地)と呼ぶ。

戦闘糧食II型(せんとうりょうしょくにがた)は、自衛隊で使用されているレーション。通称「パックメシ」。1990年に自衛隊が採用した新しい戦闘糧食で、従来の戦闘糧食 I型が缶詰であるのに対して、II型は全てレトルトパウチ包装である。ゆえにI型に比べて持ち運びと調理が容易になっている。I型では25分であったご飯の湯煎時間が、II型では10分になっている。しかし、レトルトパウチは金属缶に比べて強度の面で劣り、保存期間も短い。そのため今後もI型と併用される。
保存方法と内容物が異なるのみで、基本的には戦闘糧食I型と同様、湯煎して数日間食べられる状態にしてから配給される。運用に関する詳細は戦闘糧食 I型を参照。
I型に比べてメニューが増えており、中華丼もあり、おかずは筑前煮、チキンステーキ、肉団子、塩鮭などもある。また、フリーズドライ食品を採用し、スープや味噌汁が付く場合もある。また、ご飯に漬物が添付されることもある。自衛隊カンボジア派遣中に行われたUNTAC参加国の戦闘糧食コンテストで1位を獲得したことがあり、レーションとしては比較的評判が良い。
パックの外装は基本的に戦闘糧食I型と同様オリーブドラブ色で、行動中に草むらに廃棄しても目立たないようになっている。ただし、オリーブドラブ色に黒い文字で内容物が書いてあるため見分けが付きづらい白飯と赤飯を区別するため、ご飯パックのみ端のほうが透明になっている。また、I型と違いII型は、主食が一合ずつ2パックに分かれており、白米2パックや白米とドライカレーという組み合わせで供給されることもある。
指揮官クラスは食器に盛りつけ、一般隊員はそのまま絞り出すように食しており、特に状況中においては僅かな時間で食せるうえゴミもかさばらない事から缶飯と違い行動中の隊員からは人気があった。
加熱時は必要に応じて携帯加熱剤(大型のカイロタイプおよび水を使う発熱剤)などで加熱して食しており、特にカイロタイプは挟んでタオルにくるんでおけば休憩時にそのまますぐに食すことができた。

2009年度より一般部隊に配分された改良型ではフリーズドライによる汁物が廃止になり、米飯はレトルト米飯パックから民間で一般的なトレー入りの無菌包装米飯に変更されて食べやすさと美味しさが大きく向上している。また、米飯パック2個と副食1種類または2種類を一つの真空包装パックに入れて1セットとしており、プラスチックのフォークスプーンも封入されるなど食事が取りやすい状態の物が導入されている。
従来品と比べ種類も豊富であり、ハヤシハンバーグやウインナーカレーなどの洋食から野菜麻婆などの中華系総菜、かも肉じゃがや秋刀魚蒲焼きなどの和食と従来の1.5倍にメニューが増えている。
従来のフリーズドライ型スープやみそ汁の代わりに、パックに入ったコーンスープ類が導入されており、利便性は向上している。
米飯は一般的なパックご飯と同様の1パック一膳相当分を2つ、副食は食事の嗜好を考慮して通常2種類入っており、ハンバーグと手羽先といった肉類から始まり、野菜や魚を主体としたメニューが組まれている。
一食あたりの摂取カロリーはおよそ1100キロカロリーとなる。

 

 

 

 


【にゅうしまなみ】尾道渡船(株)

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尾道(土堂)~向島(兼吉) 0.3km 4分
尾道渡船は、尾道市の土堂と向島兼吉を結ぶ航路で、渡船の中でも最古と言われます。JR尾道駅からは徒歩約9分で、海岸沿いの道を歩くと尾道渡船の桟橋が見えてきます。『尾道渡船フェリー乗り場』という看板がある。この渡船は連続テレビ小説「てっぱん」のロケ地にも使われました。桟橋には、全体を白で塗った簡素な待合室があります。

尾道郵便局に近いので、郵便バイクが頻繁に乗り降りしています。 対岸へは4分程度の船旅で、千光寺に最も近い航路のため、船上からよく見えます。向島の乗り場近くには映画「あした」のロケで使用した待合室が移築されています。

尾道側の士堂桟橋は、R2からだと尾道郵便局のある交差点を曲がり少し行った所にある。向島側の兼吉桟橋は、R317東西橋交差点を曲がり北へ向かう川沿いの道を進む。岸元ラインの乗り場に向かう時に渡った橋は渡らずに、そのまま川沿いに進み突き当たりを左に曲がれば乗り場に到着する。岸元ラインの乗り場はすぐ近くにあるが、尾道渡船の乗り場は向島町にある。


会社 尾道渡船(株)
運航日 毎日運航
船名:【にゅうしまなみ】
●総トン数:19.00
●主機関馬力:195×1
●航海速力:6.0
●旅客定員:47名
●積載可能車輌数:乗用車5
●就航年月日:2003年1月1日

八鹿駅 JR西日本)山陰本線

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八鹿駅(ようかえき)は、養父市の代表駅で兵庫県養父市八鹿町八鹿字大森にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅です。

養父市の代表駅で特急を含むすべての客扱い列車が停車する。 豊岡駅が管理し、ジェイアール西日本福知山メンテックが駅業務を受託する業務委託駅であり、部分的に乗車券販売、改札を行っている。
「夢千代日記」で知られる湯村温泉にバスが乗り入れています。湯村温泉には浜坂駅から行くこともできるが大阪・京都方面からでは大回りになるため当駅からバスを利用するのが一般的である。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを持つ待避・行違い可能な地上駅。

スレート屋根の大きな木造駅舎です。駅舎は単式の1番ホーム側にあり、島式の2・3番ホームには古い跨線橋で連絡しています。またホームには木造の上屋。 改札の内・外に水洗式便所がある。みどりの窓口があります。

切符売場にはタッチパネル式の券売機が1台設置。キオスクも待合室で営業し木製の椅子が設置されています。

のりば
のりば 路線 方向 行先 備考
1 ■山陰本線 下り 豊岡・城崎温泉方面
2・3 ■山陰本線 上り 和田山・京都・大阪方面 3番のりばは一部の普通のみ


構内裏手には1線の留置線があります。
1番のりばが下り本線、2番のりばが上り本線、3番のりばが上下副本線となっている。基本的には、1・2番のりばに各方面行きの列車が停車するが、一部の福知山方面の上り普通は3番のりばに停車する。


2010年(平成22年)3月12日までは当駅で福知山方面の上り普通列車が特急「きのさき」を待避する運用が1日1回設定されていたが、翌日の改正で和田山駅での待避に変更されたため、現在は両方向とも当駅における列車待避の設定はない。

現在のダイヤで3番のりばに入る列車は、いわゆる線路保守目的を兼ねての停車のみということになる。同日の改正では3番のりばに停車する下り定期列車は設定されていないが、寝台特急「出雲」が設定されていた頃は、朝の豊岡方面の下り普通が3番のりばで同列車を待避していた。

 

1908年(明治41年)7月1日 - 官設鉄道の和田山駅 - 当駅間延伸により、その終着として開業。客貨取扱を開始。
※1957年(昭和32年)頃までは仮名書きを「やおか」と表記していた。
1909年(明治42年)
7月10日 - 官設鉄道が豊岡駅まで延伸。途中駅となる。
10月12日 - 線路名称制定。播但線の所属となる。
1912年(明治45年)3月1日 - 線路名称改定。播但線の福知山駅 - 和田山駅 - 香住駅間が山陰本線に編入され、当駅もその所属となる。
1982年(昭和57年)10月3日 - 貨物取扱を廃止。

電報略号 ヤカ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 613人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1908年(明治41年)7月1日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有
* この間に宿南信号場有り。(3.3km先)
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。

江原駅 JR西日本)山陰本線

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江原駅(えばらえき)は旧日高町の中心、兵庫県豊岡市日高町日置字矢組にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。

スキーやパラグライダーなどで人気のある神鍋高原への下車駅です。

豊岡駅が管理しジェイアール西日本福知山メンテックが駅業務を受託する業務委託駅。

戦前には旧・出石町との間を結ぶ出石鉄道の起点駅であった。 雨量計が設置されている。出石方面への路線バスも発着します。

島式ホーム1面2線の列車交換設備を備えた地上駅で一線スルーになっておらずホームは方向別に分けられている。 かつては地上に駅舎があった。

山陰本線では珍しい現在の橋上駅舎は城崎郡日高町(現・豊岡市)が駅の表側と裏側を接続する陸橋として作ったものを改築し駅舎として使用している。みどりの窓口が営業し切符売場にはタッチパネル式の券売機が1台あります。

改札口にはラッチの残り頭上にはLED式発車案内。改札口は1ヶ所でエレベータが設置されている。

橋上駅舎の東口から出石方面への路線バスが発着します。西口には市役所支所や高校が立地し賑わっています。

のりば 路線 方向 行先
1 ■山陰本線 上り 和田山・京都・大阪方面


2 ■山陰本線 下り 豊岡・城崎温泉方面


ホームには長い上屋があります。

 


1909年(明治42年)
7月10日 - 官設鉄道の八鹿駅 - 豊岡駅間延伸により開業。客貨取扱を開始。
10月12日 - 線路名称制定。播但線の所属となる。
1912年(明治45年)3月1日 - 線路名称改定。播但線の福知山駅 - 和田山駅 - 香住駅間が山陰本線に編入され、当駅もその所属となる。
1929年(昭和4年)7月21日 - 出石鉄道線が開業し、当駅に乗り入れ。
1944年(昭和19年)5月1日 - 出石鉄道線休止(1970年廃止)。
1986年(昭和61年)11月1日 - 貨物取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1992年(平成4年)11月 - みどりの窓口営業開始。

電報略号 エハ←ヱハ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 650人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1909年(明治42年)7月10日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有
* この間に宿南信号場有り。(4.2km先)
** この他出石鉄道。(1970年廃止)

 

板東俘虜収容所・ドイツ橋

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板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)は、第一次世界大戦期、日本の徳島県鳴門市大麻町桧(旧板野郡板東町)に開かれた俘虜収容所。ドイツの租借地であった青島で、日本軍の捕虜となったドイツ兵4715名のうち、約1000名を1917年から1920年まで収容した。1917年に建てられ、約2年10か月間使用された。

1917年に丸亀、松山、徳島の俘虜収容所から、続いて1918年には久留米俘虜収容所から90名が加わり、合計約1000名の捕虜が収容された。収容所長は松江豊寿陸軍中佐(1917年以後同大佐)。松江は捕虜らの自主活動を奨励した。今日に至るまで日本で最も有名な俘虜収容所であり、捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を行ったとして知られている。

板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ人捕虜と日本人との交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野で両国の発展を促したとも評価されている。板東俘虜収容所の生み出した“神話”は、その後20年余りの日独関係の友好化に寄与した。


板東俘虜収容所は、多数の運動施設、酪農場を含む農園、ウイスキー蒸留生成工場も有し、農園では野菜を栽培。また捕虜の多くが志願兵となった元民間人で、彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々であった。彼らは自らの技術を生かし製作した“作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、ヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露した。

また、建築の知識を生かして捕虜らが建てた小さな橋(ドイツ橋)は、今でも現地に保存されている。文化活動も盛んで、同収容所内のオーケストラは高い評価を受けた。今日でも日本で大晦日に決まって演奏される、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのも、板東収容所である。このエピソードは「バルトの楽園」として2006年映画化された。

板東俘虜収容所跡地のうち、東側の約1/3は現在「ドイツ村公園」となっており、当時の収容所の基礎(煉瓦製)や給水塔跡、敷地内にあった二つの池や所内で死去した俘虜の慰霊碑が残されている(残る西側は県営住宅や一般の住宅地になっている)。2007年11月から2011年にかけて鳴門市教育委員会による発掘調査が行われ、地中に埋まっていた建物の基礎などが再確認された。2012年4月に調査報告書がまとめられ、収容所が存在した当時に捕虜によって作成された測量図通りに遺構が発見されたと記載された。鳴門市教育委員会では2014年度に国史跡への指定申請をおこなう予定である。
近傍には元俘虜たちから寄贈された資料を中心に展示した「鳴門市ドイツ館」があり、当時の板東俘虜収容所での捕虜の生活や地元の人々との交流の様子を知ることができる。

演劇団、人形劇団、オーケストラ、スポーツチームなどが結成された。彼ら捕虜の多くが、もともと民間人の志願兵であったため、技術を生かして様々な自治活動を行った。彼らは収容所内の自治活動に参加。菜園管理や動物の飼育、厨房(酒保)やベーカリー(パン屋)も経営していた。また、捕虜らに向けた授業や講演会が多数行われ、東アジア文化コースと題して日本語や中国語の授業も行われた。
収容所内に設けられた印刷所では、その他にも、“Die Baracke”(ディ・バラッケ、「兵営」や「兵舎」の意味)と呼ばれる瓦版(ニュースペーパー)の刊行、語学教科書やガイドブック、実用書などが発行された。また全国各地の収容所内や外部施設で、俘虜作品展覧会も行われた。
音楽に通じた捕虜の何人かは、収容所内外で地元民へ西洋楽器のレッスンを行った。収容所外では徳島市の立木写真館(写真家立木義浩の実家で、NHK朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」のモデル)で開催された。

8棟あった兵舎(バラッケ)の建物のうち半数は第二次大戦後まで残り、引き揚げ者用の住宅として利用されていたが、1978年までにすべて解体された。これらの建物には解体後、民間に払い下げられたものがあった。長らくその所在は明確ではなかったが、2002年に倉庫や牛舎として再利用されているバラッケが発見され、現在までに同様に再利用された建物は8カ所発見されている。最初に再発見された2つのバラッケ(安藝家バラッケ・柿本家バラッケ)は2004年に国の登録有形文化財に登録された。このうち柿本家バラッケは2006年にドイツ館南側の「道の駅第九の里」に解体・移築され、店舗施設「物産館」として利用されている。
地元ではその後発見されたものも含めた建物を元の場所へ移築復元することを目標としたNPO法人が2008年10月に結成された。
映画『バルトの楽園』撮影に際して2005年に板東に建設され、撮影終了後2009年2月まで公開されたロケセット(BANDOロケ村)はドイツ村公園とは別の場所で規模も実際とは異なるが、2010年4月に一部を移築の上で「阿波大正浪漫 バルトの庭」として再公開するにあたり、現存する実際のバラッケ1棟も敷地内に移築・公開された。

ドイツ橋は、徳島県鳴門市大麻町桧の大麻山にある大麻比古神社の敷地を流れる板東谷川に架かる石橋のアーチ橋である。独逸橋とも。以前は木橋であったが、この地に第一次世界大戦の捕虜として収監されたドイツ人達によって造られた。


ドイツの租借地であった青島において捕虜となったドイツ兵の一部は、大麻比古神社の約2km南にあった板東俘虜収容所に収監されていた。当時、大麻比古神社境内はドイツ人捕虜達の散策に利用されていたが、板東俘虜収容所における捕虜への対応が人道的かつ寛大で友好的であり、また地域住民との交流も積極的に行われたことから、彼らが帰国する際に記念として築造を提案した。1919年(大正8年)4月初旬に着工し、同年6月末に完成した。橋の材料は和泉砂岩で、アーチの形式はローマ式の半円形で馬蹄形の石築アーチ橋となっている。内面で180個、全体で3000個の石が使用されており、その重さは195トンになる。


2004年(平成16年)1月30日に徳島県の文化財史跡に指定された。現在は保存のため、橋の上の通行はできなくなっている。
神社の境内にはこれとは別に、ドイツ人捕虜が造成した池があり、この池にも捕虜の建造した小さな石造りの2連アーチ橋がかかっている。

こちらには「めがね橋」という愛称が付けられており、現在も通行は可能である。

国府駅  JR西日本)山陰本線

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国府駅(こくふえき)は、兵庫県豊岡市日高町上石字高屋にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。

豊岡駅管理の無人駅。かつては1番のりば階段下の小屋に自動券売機が設置されていたが、撤去されている(食券販売機タイプのもの、発券される乗車券は自動改札機に対応していなかった)。

列車交換が可能な相対式ホーム2面2線を持つ盛土上の高架駅。 駅舎、改札は無く(1番のりば側待合室に事務所跡がある)直接各ホームに設けられた階段を登ってホームに入る形になっている。

ホーム両側に待合室ありホーム間の連絡は線路下のトンネルを用いる。

のりば 路線 方向 行先
1・2 ■山陰本線 上り 和田山・京都・大阪方面
下り 豊岡・城崎温泉方面


1番のりばを上下本線、2番のりばを上下副本線とした一線スルーとなっているため、通過列車および行違いを行わない停車列車は上下線とも1番のりばを通る。


反対方向からの通過列車と行違いを行う停車列車は、上下線とも2番のりばに停車する。
停車列車同士の行違いの場合は、福知山方面行(上り)が2番のりば、豊岡方面行(下り)が1番のりばに入る。

1948年(昭和23年)10月13日 - 国有鉄道山陰本線の江原駅 - 豊岡駅間に新設開業。客貨取扱を開始。
1961年(昭和36年)10月1日 - 貨物取扱を廃止。
1970年(昭和45年)12月15日 - 無人駅化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。


電報略号 コフ
駅構造 高架駅(盛土上)
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 83人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1948年(昭和23年)10月13日
備考 無人駅

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