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D52形蒸気機関車

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D52形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄、製造時は鉄道省→運輸通信省)の貨物用テンダー式蒸気機関車です。D52 1 日本貨物鉄道(JR貨物)広島車両所(準鉄道記念物)

第二次世界大戦中、日本国内の貨物輸送は、貨物船の軍への供出や、米軍による機雷封鎖などの事情により、内航運輸の輸送力が不足し、鉄道貨物需要が逼迫した情勢となった。D52形蒸気機関車は、そうした中で、1200tの貨物列車を牽引でき、東海道・山陽本線・函館・室蘭本線で運用するためにD51形を改良して誕生した機関車である。ボイラーを可能な限り大型化し、粘着重量を高めるとともに出力を上げた。軸配置はD51形と同一だが、ボイラー大型化の効果により最大動輪周出力は1,660馬力と、日本の蒸気機関車の中では最高の出力を持つ。
しかし、戦時中のため物資が極端に不足しており、戦争完遂まで数年だけ持てば良い、または走ればよいという戦時設計の発想から、銅系材料が節約され、木材など代用材が多数使われるなど、造りとしては非常に質の悪いものであった。そのため本来の力を出せない車両が多かった。また、ボイラー用材の幅広鋼材が不足したため、各缶胴の長さを変え、用材の寸法取りを合理化した。ボイラーの種類は3種(甲缶、乙缶、丙缶)あり、長さの差は煙室長で調整した。煙管長は5,000mmで統一されていたため、丙缶では燃焼室長が短くなっている。原設計は甲缶で、全て鋲接により組み立てられており、将来の増圧(18kg/cm?)を意図して2列鋲式であったが、乙缶・丙缶では1列鋲とし、長手継手を溶接とするなど、構造の簡略化が図られている。概ね、甲缶が国有鉄道工場、乙・丙缶が民間工場製と分かれている。
さらに、細部の設計変更は本省の承認を得ることなく、現場の工場長や監督官の一存に任せられた。そのため、ドームの角型化や サンドパイプの減少、工作の簡略化や装備の省略化が行われ、形態のバリエーションを生み出している。
本形式における特殊な装備の例としては、ディスク輪心がある。本形式では、二重壁の箱型としたボックス輪心が制式の設計であったが、円板を湾曲させて一枚板構造としたものである。終戦後に汽車製造で落成した380 - 384号機の5両がこれに該当する。
本形式の構造については、否定的な見方が多い中、それまで鋲止めだったボイラーの溶接による量産法の確立、ボイラー限界設計の実車における見極めによりその後のボイラーの安全基準や工作技術の向上に繋がったとする見方もある。また、鋳鋼製台枠の採用や、石炭の燃焼効率を高めるためボイラーに燃焼室を設けたり、重心の前方移動による牽引力増加(これにより、煙突がシリンダの排気口より前にせり出す構造は本機の外観上の特徴の一つとなっている)、船底型テンダーの採用による資材節減、工数低減による生産性向上等、とかく前例踏襲で技術革新に乏しかった国鉄における蒸気機関車開発において旧来の手法にとらわれない性能向上、生産手法の導入や現代でいうところのVE(バリューエンジニアリング)を実践する等、その後の技術向上に大きく貢献したとの見方もある。

民間メーカー5社と2か所の国鉄工場(工機部)で製造された。当初は全部で492両が製造される計画であったが、終戦により285両で製造は打ち切られた(最終出場は、1946年3月31日付の62号機。実際の落成日は4月16日)。そのため欠番が多数あり、最終番号は468号機である。


竣工した本形式は、東海道・山陽本線並びに北海道の函館・室蘭本線に配置され、後に東北本線にも進出した。本形式が全機出揃った1946年3月末時点の配置は札幌鉄道局(29両)、東京鉄道局(27両)、名古屋鉄道局(72両)、大阪鉄道局(81両)、広島鉄道局(76両)。

大戦中は一般貨物列車1100t、石炭集結列車1200t運転を実施するが途中停車・遅運転事故続発のため定数低下となり、この時期1200t列車を牽引していたのは結局EF12形電気機関車のみであった。
戦争中酷使され、しかも工作の良くなかった戦時設計車は、就役後にボイラー爆発事故を続けて3件も起こしたため、一旦全車の使用が停止され、ボイラーの検査が実施された。その結果、事故車および状態不良の55両は1950年(昭和25年)までに廃車され、後述の他形式への改造種車70両を除いた、残る160両のうち148両は、翌1951年以降、浜松工場、鷹取工場ならびに広島工場において、代用材を標準材に取り替え、ボイラーを順次新製された甲缶に交換するとともに、自動給炭機(メカニカルストーカー)設置などの装備改造を行うことによって、ようやく当初の設計どおりの性能を発揮できるようになった。形態的にも、ボイラー受台の中にあった排気膨張室兼用の給水加熱器の撤去と煙突前方の煙室上への新設、角型・カマボコ型ドームの丸型化、木製除煙板や炭水車炭庫側面の鋼板化等により、形態的にも戦前製作機と比べて遜色のないレベルとなった。一方、装備改造から漏れた12両(D52 12, 96, 126, 131, 146, 216, 222, 340, 417, 419, 456, 460)は、除煙板や歩み板、石炭庫側板等の木製部を鋼板製に取り換えた程度で、自動給炭機も装備されず、戦時型の面影を強く残していた。
この時期(1946年 - 1950年)に廃車となったものは、D52 5, 7, 8, 9, 27, 30, 47, 51, 59, 73, 78, 80, 83(事故), 84, 87, 88(戦災), 90(戦災), 91(戦災), 95, 97, 103, 107, 110, 111, 113, 114, 116, 120, 205, 206, 207, 208, 209(事故), 212, 215, 220, 221, 238, 346, 347, 350, 351, 359, 364, 371, 381, 394, 395, 409, 410, 411, 412, 413, 443, 465
軍事輸送の終了による貨物用機関車の余剰化と、旅行の制限がなくなったことによる旅客輸送量の激増にともなう旅客用機関車の不足のため、1948年から1949年にかけて本形式のボイラーを流用し、C59形相当で従軸を2軸とした足回りと組み合わせた旅客用機関車C62形が49両(うち1両は2両分のボイラーを組み合わせて1両分の良品を捻出したため、種車となったD52形は50両である。)製造された。
また、1950年から1951年にかけて従軸を2軸として軸重を軽くし、線路規格の低い線区(乙線)への入線にも対応したD62形に20両が改造されている。
1949年(昭和24年)5月に電化区間が浜松まで延長され、D52形が改修され、名鉄局管内で集中使用するようになってD51形が950tを牽引する区間でD52形が1100tを牽引、さらに夏季牽引定数が設定されここで蒸気機関車による東海道区間での1200t列車牽引が実現し、EF12形・EF13形・EF15形の牽引定数1200tに追いついて、稲沢操車場 - 新鶴見操車場間で1200t列車を通し運転することが実現した。
戦後しばらくして、函館・室蘭本線からはいったん撤退し、東海道・山陽本線をはじめ御殿場線、岩徳線、鹿児島本線(門司 - 鳥栖間)で運用された。また一部は瀬野八の後部補機として使用されていたが、そこの配置車には自動給炭機が装備されていないものもあった。


最終的には再度北海道地区の函館・室蘭本線への充当を目的として、山陽本線の電化に伴い余剰機となった姫路第一機関区所属の8両(56, 136, 138, 202, 204, 235, 404, 468)と岡山機関区所属の5両(140, 201, 217, 400, 414)計13両が昭和35年度に、昭和43年度に吹田第一の142、糸崎の28の延べ15両が五稜郭機関区に配置され、函館・室蘭本線で1972年(昭和47年)まで使われた。本機の最終使用は1972年12月で、稼動状態で最後まで残ったのはD52 202号機1両である。国鉄最強の称号で名高い本形式であり、SLブームの中での引退であったものの、軸重の重さゆえ運行できる路線が限定されたこと、貨物機であったことから一般のなじみが薄かったため、その引退はひっそりとしたものであった。

 

 


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