震洋(しんよう)は、第二次世界大戦の日本海軍の特攻兵器。
小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬(約250kg)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦し、上陸船団に体当たり攻撃する特攻兵器。
末期は敵艦船の銃座増加に伴い、これを破壊し到達するために2発のロケット弾が搭載された。また、2人乗りのタイプもあり、こちらには機銃1~2丁が搭載され、指揮官艇として使用された。
震洋の構想は1943年ごろすでに黒島亀人連合艦隊主席参謀が語っていた。終戦までに6000隻が生産された。
1944年8月大森仙太郎特攻部長から明治維新の船名から「震洋」と命名される。秘匿名称は「○四(○の中に四)金物」(マルヨンかなもの)、○四兵器。マルレと合わせて○ハとも呼ばれた。
1944年8月28日付でて○四は「震洋」として海軍大臣から認可された。(内兵令71号)
なお、陸軍の四式肉薄攻撃艇(マルレ)とともに水上特攻兵器として知られるが、マルレは最初から特攻艇として開発されたものではない(四式肉薄攻撃艇#開発の経緯)。
終戦翌日の昭和20年8月16日午後七時頃、高知県須崎の第二十三突撃隊司令から「本土上陸の目的をもって敵機動部隊が土佐沖を航行中、直ちに出撃してこれを撃滅すべし」との戦闘命令が、二十三突の震洋隊・回天隊へ発令された。手結基地「震洋」隊でも直ちに準備にかかり、「震洋」試運転中に突然一艇から発火し、22艇が次々と爆発し搭乗員、整備員等111名が爆死した。
これを発見した見張所は「敵機動部隊、高知平野東部手結岬方面を砲撃中。目下付近の海軍特攻部隊は続々出撃、戦果拡大中」と打電。これを受けた陸軍四国防衛軍は大本営に「敵艦船とわが海軍部隊が交戦中」と報告した。四国在の各部隊は一斉に戦闘配置につき、第二十三突撃隊本部から須崎と浦戸の基地回天隊にも「回天戦用意」が発令された。
翌17日朝、誤報であることが判明し各隊の戦闘用意は解除された。終戦後の混乱期にあっとはいえ、この事件は世間に大きく取り上げられる事も無く終わった。
昭和31年にいたり地元の夜須町有志が立ち上がって奉賛会を結成するとともに、各方面から浄財を集め「震洋隊殉國慰霊塔」を建立、毎年8月16日に慰霊祭が執り行われている。
この土この磯 噫々一二八震洋隊
手結の岬の海鳴は あの日の戦友の雄叫びか .
土佐住吉の潮騒は 散った御霊のささやきか
おゝこの土もこの磯も 若き血潮が染みている
昭和甲子作詞 平成癸酉之建 呉志飛三八六五二
区分 一型艇 五型艇
全長(m) 5.1 6.5
全幅(m) 1.67 1.86
全高(m) 0.8 0.9
喫水(普通/満載(m)) 0.326/0.380 0.55/0.60
排水量(トン) 1.295 2.2
機関 トヨタ特KC型ガソリンエンジン×1 トヨタ特KC型ガソリンエンジン×2
馬力 67HP 134HP
最高速度(特別全力) 16ノット(23ノット) 27ノット(30ノット)
航続距離 110海里/16ノット 170海里/27ノット
兵装 爆装250kg、ロサ弾×2 爆装250kg、ロサ弾×2、13mm機銃×1
乗員 1名 2名