大神基地(おおがきち)は、太平洋戦争末期に大分県速見郡大神村(現在の日出町東部)に存在した人間魚雷回天の訓練基地である。
当初、大神村の周辺は海軍によって海軍工廠建設のために25ヘクタールという広大な土地が強制買収された。しかし、戦局の変化により、この計画は建設途中にして台湾の高雄に変更された。
1944年(昭和19年)8月に人間魚雷回天が正式な兵器として認められると、回天の訓練基地が山口県の大津島に開設され、続いて光基地や平生基地が開設されていった。海軍用地として買収済みだった大神でも、その一部を回天基地として転用することが決定して建設を開始。朝鮮人労働者や学徒動員など3,000人近い労働力を使い建設が進められ、1945年(昭和20年)4月25日に兵員2,000人を擁する大神基地が開設された。また、4月20日に第二特攻戦隊所属「大神突撃隊」が編成され、同25日に開隊式を行った。
大神突撃隊には最大24基の回天が配備され、285人の搭乗員が5月23日から別府湾で訓練を行った。回天の数が搭乗員の数に対して絶対的に不足していたため、搭乗員の中から20名近くを「出撃予定者」として選抜し、集中的に実施された。8月3日には8基の回天が第8特攻戦隊の愛媛県宿毛湾の麦ヶ浦基地へ出航し、同12日に出撃待機命令を受けたが、出撃することなく終戦を迎えた。
大神突撃隊は8月25日に解隊し、大神基地はその後、武器・弾薬・施設・物資等を連合軍と大分県に引き渡すが、最初に11月15日付けで武器・弾薬を連合軍に引き渡したのを皮切りに、大分県への引渡しも含む計4回が実施された。。残った回天は海洋投棄された。
大神基地跡には、地下格納壕、魚雷調整場、変電所、浄水場プール等の跡が残っている。基地内にあった回天神社は、大神基地跡付近の住吉神社境内に遷座し、回天の電動縦舵機(ジャイロ部分)、発停装置、燃焼器推進軸受等の部品が御神器として祀られ、回天の1/3模型や九三式魚雷機関が奉納されている。日出町では2014年度に基地の跡地を大神回天訓練基地記念公園(仮称)として整備する計画で、4月3日には跡地に回天の実物大レプリカが設置されている。
昭和20年8月3日の夕方に第二十号一等輸送艦が大神基地に入港してきました。神社下の格納壕に格納していた戦備回天を兵器や資材と一緒に積載しました。
大神基地には追躡艇(ついしょうてい)に使用してきた「震洋」が10隻ありました。本土決戦に備えて使用できる全ての兵器をもって対抗するために、回天だけでなく震洋も使うということが昭和20年7月下旬に決まりました。
5隻の震洋による「大神震洋隊」が結成され、人員は少尉jの隊長以下、乙飛20期の二飛曹50名の中から6名を選抜し、次席指揮官の少尉候補生を入れて8名でした。数名の整備員も配属されています。
大神基地では地上構造物だけでなく、待避及び物資貯蔵用壕がいくつも掘られていました。
代表的なものは受信室壕・送信室壕・各科倉庫壕(北・南)・燃料格納壕・回天格納壕・実用頭部隧道(酸素圧縮喞筒(ポンプ)室壕)・変電所です。
不測の事態に備え、16日以降も発射訓練を継続したのです。
しかし、その発射訓練も数日で終わり、復員及び解隊に向けた終戦業務を着々と進めていったのでした。特攻隊の基地は米軍による報告を恐れ速やかに解隊するようにという通達があったと言われています。 8月24日には本部に祀られていた回天神社を現在の住吉神社の境内に移しています。また別れを惜しんでの酒宴が設けられました。
8月25日の早朝、松尾秀輔少尉が練兵場で自決しました。遺書を書いた後、中央部で故郷・台湾の方角へ向かって正座し、左胸に手榴弾を抱いて爆発させ自決したのです。享年21でした。
軍人として国を守れなかった事への強い自責の念が自決という道を選択したのかもしれません。