国鉄ED40形電気機関車(こくてつED40がたでんききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が1919年(大正8年)から製造した直流用電気機関車である。
信越本線横川 - 軽井沢間(碓氷峠)用のアプト式電気機関車で、1919年に4両、1920年(大正9年)に4両、1921年(大正10年)に3両、1922年(大正11年)に2両、1923年(大正12年)に1両の計14両が鉄道院大宮工場(現在のJR東日本大宮総合車両センター)で、10000形(後のEC40形)の増備用として製造された。国鉄が初めて導入した国産電気機関車である。本形の増備により、1921年に碓氷峠区間での蒸気機関車の運転が廃止された。
製造時の形式番号は、10020形 (10020 - 10033) であったが、1928年(昭和3年)10月の車両形式称号規程改正により、ED40形 (ED401 - ED4014) に改番された。
車体は箱形の切妻車体で、中央部の屋根上に停車場内で使用するパンタグラフを1基搭載している。本線上では第三軌条から集電するため、集電靴が片側2か所に設備されている。また、運転台は坂下の横川寄りにのみ設けられた片運転台型で、軽井沢方は連結器上に張り出す形で抵抗器室が設けられている。電動機は、動輪用、歯車用に各1基、計2基が床上に設置されており、動力は歯車で減速した後、連結棒で4軸の動軸及び2軸の歯車に伝達される。
運用
基本的に一貫して横川機関庫(1936年9月1日付で横川機関区に改称)に配置され、信越本線の横川 - 軽井沢間で使用されたが、ED42形の増備と老朽化により、1943年(昭和18年)7月から廃車が開始され、1952年(昭和27年)3月に廃車された13号機をもって、全車が除籍された。
国有鉄道時代に横軽間以外の線区で使用された記録としては、1951年(昭和26年)7月にED40 13がラック関係機器を下ろして富山港線で使用されていたという記録がある。
私鉄への譲渡
国鉄から私鉄へは、2両(6, 10)が1947年(昭和22年)に東武鉄道へ、3両(9, 11, 14)が駿豆鉄道(現在の伊豆箱根鉄道駿豆線)へ、2両(3, 4)が南海電気鉄道へ譲渡されている。その際、アプト式用の機器(ピニオン(歯車)用の電動機、歯車等の駆動装置)は取り外されている。また、南海電気鉄道へ譲渡された2両のうちED404は後年秋田中央交通へ再譲渡された。
東武鉄道に譲渡された2両は、譲渡以前の1944年(昭和19年)から同社の日光軌道線に貸出されていたもので、譲渡後は、ED4000形4001・4002に改番されたが、昭和30年(1955年)に電気機関車の一斉改番の際にED4000の形式は本線系統のED10形に譲り、本形式はED600形601・602に再改番された。同年、新型機ED610形ED611が投入されたことに伴い、ED601は翌年4月に廃車されたが、ED602は1968年(昭和43年)1月、日光軌道線の廃止に先駆け貨物輸送廃止まで予備車として使用され、同年2月24日の路線廃止と共に廃車となり廃車後は復元保存のため国鉄に寄贈された。日光軌道線では、古河電気工業日光電気精銅所への軍需輸送のために使用され、パンタグラフのほかにポールを併用しており、また、急勾配が介在するため、電気機関車は常に坂上側に運転台を向けた形で坂下側に連結され、登坂列車については推進運転となった。一方降坂列車については、運転台のない側が先頭ととなることから、第2エンド側にステップを設けて、前方警戒のための車掌がそこに乗務した。
2007年(平成19年)10月14日、さいたま市大宮区に開館した鉄道博物館で展示されている。展示に際して重整備が行われ、ラック式機構が復元された。展示に際しては、車体の下に設けられた通路からピニオンギアとラックレールが噛み合う仕組みを観察できるようになっている。
営業最高速度 粘着区間:25 km/h
ラックレール区間:18 km/h
全長 9,924 mm
全幅 2,606 mm
全高 4,080 mm
車両質量 60.70 t
軸配置 Db
軌間 1,067(狭軌) mm
電気方式 直流600V
(第三軌条方式、架空電車線方式併用)
総出力 940 kW
主電動機 直流直巻電動機 MT3A
主電動機出力 470 kW (一時間定格)
搭載数 2基 / 両
定格速度 15.0 km/h
定格引張力 粘着区間:5,700 kgf
ラックレール区間:11,400 kgf
歯車比 動輪:6.47 (15:97)
歯輪:5.82 (17:99)
駆動装置 歯車1段減速、連結棒式
制御装置 抵抗制御・電磁単位スイッチ式制御器
制動方式 EL-14B自動空気ブレーキ
発電ブレーキ・手用動輪用ブレーキ、手用ラック歯車用帯ブレーキ
製造メーカー 鉄道院大宮工場