Quantcast
Channel: 観光列車から! 日々利用の乗り物まで
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3251

61式戦車 陸上自衛隊

$
0
0

61式戦車は、日本の陸上自衛隊が運用していた戦後第1世代戦車に分類される戦後初の国産戦車である。

第二次世界大戦後、初めて開発された国産戦車であり、戦後第1世代主力戦車に分類される。開発・生産は三菱日本重工業(1964年から三菱重工業)が担当し、それまで供与されていたアメリカ製戦車との共用、もしくは置き換えにより全国の部隊に配備された。
1955年(昭和30年)に開発が開始され、1961年(昭和36年)4月に制式採用された。採用された西暦の下二桁の年をとり、61式戦車と命名された。主砲に「61式52口径90mmライフル砲」として制式化された52口径90mmライフル砲を装備し、鉄道輸送を考慮して当時の国鉄貨車に搭載できるよう車体が小型化されている。
1974年(昭和49年)に74式戦車が採用されるまで560輌が生産され、2000年(平成12年)に全車が退役した。

第二次世界大戦終結後、GHQにより全ての軍需産業を廃された日本は、戦前から培ってきた戦車や装甲車の技術を失ってしまった。後に朝鮮戦争の勃発により極東情勢が変化し、日本はGHQに再武装を指示されて1950年(昭和25年)に警察予備隊が創設された。1952年(昭和27年)にはアメリカ軍から供与されたM24軽戦車が、当時編成中の4個管区隊の各普通科連隊内に編成された戦車中隊に配備された。朝鮮戦争において国連軍と対峙したT-34/85戦車に対してM24では対抗できず、退役したものが日本に送られている。その後、陸上自衛隊に改組された1954年(昭和29年)にM4A3E8戦車(通称「M4シャーマン・イージーエイト」)約200輌が供与された。
当時供与された戦車は第二次大戦や朝鮮戦争の中古品であり、日本人の体格にあわないことや、整備業務を効率化できなかったことから故障が頻発していた。また、当時、世界各国で戦後第一世代の戦車の開発配備が進んでおり、特に第二次大戦後期には既に能力不足が指摘されていたM4や、朝鮮戦争でT-34/85に完敗したM24の更新が課題となっていた。


90mm戦車砲を搭載するM47パットンやM48パットン戦車の導入を支持する声も存在したが、その当時のアメリカ陸軍は朝鮮戦争の結果をうけて戦車ならびに対戦車兵器の更新に取り組んでおり、ヨーロッパ第一主義の方針もあって日本に戦車を供与する余裕を完全に失っていた。1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約の発効に伴い在日米軍駐留経費の日本への返還がおこなわれることになり、また、MSA協定に基づくアメリカによる対外援助により開発費用の目処が立ったため、国産開発が検討されることとなる。その際には当時の貧弱な国内道路網を勘案し、鉄道輸送が可能な車体容積であることが要求事項に盛り込まれた。
1955年(昭和30年)4月の防衛分担金減額に関する日米共同声明によって国産兵器の開発が促進されることとなり、ここに新中戦車試作の方針が決定された。同年5月に防衛庁長官より新型戦車の開発指示がなされた。

1955年(昭和30年)に「SS」(後の60式自走105mm無反動砲)と共に研究開発がスタートした。戦後10年の空白があったものの、開発を担当した三菱日本重工業は朝鮮戦争中の朝鮮半島から後送されてくる戦車や車輌の修理やオーバーホールで技術を蓄積していた。
警察予備隊創設当時から国産戦車の希望はあったものの、具体化したのは陸上自衛隊に改組した1954年(昭和29年)になってからで、この年に陸上幕僚監部、富士学校などの装備計画委員による議論が始まり、翌1955年(昭和30年)1月に次の開発目標案が示された。
重量:25トン
火砲:90ミリ砲
強力なエンジンと低接地圧
装甲は以上を実現する範囲で忍ぶ
25トンという重量とそれを実現するために不可欠な軽装甲は、朝鮮戦争におけるバズーカ砲や無反動砲の成形炸薬弾などの歩兵用携行対戦車兵器の活躍や、世界初の対戦車ミサイル(SS10)の開発などによるフランスを中心とした装甲無用論を受けたもので、当時の陸上自衛隊内部においては一定の勢力を持っていた。また、創設期から第4次防衛力整備計画策定まで防衛官僚として強い影響力を発揮した海原治も、生産単価を低くする目的で戦車の軽量化を強く主張していた。主要な幹線国道でさえ大半が土道・砂利道だった当時の国内の道路事情、山地や水田が多いという地形的事情などを考慮し、低接地圧の実現と機動性確保の面からも、車体の軽量化は強く求められていた。
しかし、基礎設計を行ったところ25トンの重量には収まらず、相当に装甲を薄くしても30トンは必要だと明らかになり、同年中頃に「90ミリ砲搭載、30トン」を主軸とした要求性能が陸幕長から防衛庁長官に上申され、協議の上で32トンに修正された。重量増による機動性の問題も、M24軽戦車とM4A3E8を用いた踏破試験において必ずしも重量が問題となるわけではなく、むしろM4A3E8の方が良好であったことから沙汰止みとなった。

74式戦車・90式戦車より車高は高い
当初陸上幕僚監部(陸幕)では76ミリ砲搭載の20トン戦車を予定したものの、朝鮮戦争でM24がT-34に対抗できなかった戦訓から、90ミリ砲が必要とされた。90ミリ砲については、アメリカ軍よりM36駆逐戦車を試験用に供与を受け、同車に搭載されたM3砲を研究した結果、国産も可能であるとされ、日本製鋼所で試作された結果、長砲身化された52口径90ミリライフル砲が「61式52口径90mmライフル砲」(型式 M3改)として制式化された。戦後世代90mm戦車砲との砲弾共有のため、砲身・薬室はより高い腔圧に耐えられるよう強化されている(規定最大腔圧:約330Mpa)。
1955年10月、三菱日本重工東京製作所でモックアップの検討会が開かれた際、富士学校から臨時で参加した機甲科の砲術、ならびに操縦、整備担当者がこれに対し「姿勢が高く、装甲が薄く、これでは戦車らしい働きをする前に敵の小火器の餌食となってしまう」、「戦車乗りの良心にかけて、本案の戦車を装備化することは同意し難い」との意見を表明した。委員ではない、いわば部外者の意見ではあったが、装備研究委員長はこれを受け入れ、富士学校、技術研究所、三菱重工を交えた要求性能の練り直しを行った。最終的に「車重35トン、最高速度時速45キロ、90ミリ砲搭載、車高2.5メートルでなるべく低くする」とし、12月に、防衛庁長官に対して再度の要求性能の変更が上申された。
61式戦車の一次試作車STA-1及びSTA-2が完成する直前の1956年10月にハンガリー動乱が発生した。この時西側諸国は初めて投入されたソ連のT-54の存在を確認することになった。
開発中にT-54・T-55が出現したこともあり、より強力な砲を求める声もあったが、当時の西側の主体はイギリスの20ポンド砲とアメリカの90ミリ砲であり、日本独自の大口径新型砲の開発は時間と経費の問題から断念され、射撃精度とHEAT、HVAPなどの砲弾の改良で対抗するとした[4]。
エンジンは新たに高馬力の空冷ディーゼルエンジンを開発することとなり、変速機は当時としては斬新なトルクコンバータ付きオートクラッチ機構の導入と、戦後の西側戦車同様にエンジンと変速機を直結して車体後部に収めるパワーパック方式の後輪駆動が望まれたが、技術的問題や車幅の不足、さらに当時の自衛隊にパワーパックを丸ごと交換できる機材と技術が無かったため断念された。最終的に国産技術による乾燥多板式高低速用二列クラッチと前進5段、後進1段の常時噛合歯車式トランスミッション(クラッチ以外はごく一般的なマニュアルトランスミッション)を車体前部に置く前輪駆動方式が採用された。
中特車の試作
自衛隊内の装備審議会の結果、90ミリ砲を搭載する30トン程度の中特車を試作することが決定した。 分類上は中戦車だが、当時の国内の政治的状況から戦車ではなく「特車」と呼び変えていたもので、1962年(昭和37年)1月から「戦車」と呼ばれるようになった。
前提とされたのは、敵からの発見を避けるためできうる限りの低姿勢と、鉄道輸送時に求められる在来線の車両限界を超えないため、全幅を3メートル以下とする二点だった。
開発ではまずSTA-1、STA-2という2種類の試作車が製作された。大きな違いは車高で、STA-1は低姿勢(高さ2.2メートル)を追求したため全長は長く、材質は普通鋼板で製作され1956年12月に完成した。STA-2は高さ2.5メートルでSTA-1より全長が短くなり、空冷ディーゼルエンジン、トーションバーサスペンション、トルクコンバータ、動力付き操縦装置などを搭載、防御鋼板で製作され1957年2月に完成した。エンジンはまだ開発中だったため、既存の民生用ディーゼルエンジンを改造したものが搭載されていた。当初の予定ではこの2輌の試作車だけで要求性能を達成、量産準備のための増加試作に入る予定であったが、第1次試作の2輌は要求性能に達しなかった。
STA-1の低車高は評価されたものの、砲塔の旋回時に機関室が干渉し、これを避けるため全長が長くなり、履帯の接地長に対して相対的に輪間が狭くなってしまった。これでは旋回時などに抵抗が増し、運動性に悪影響を与えるため、実用化にはエンジンとトランスミッションの更なる小型化が必要であるとしてSTA-1の案は採用されず、STA-2の車高2.5メートルの配置が採られた。また、STA-1にて新型エンジンのテストが行われ、オートクラッチのパワーロスが大きいことが判明、機械式2段クラッチに変更された。
(当初、試作車STA-1、STA-2ではスウェーデンのSRM社製2段型トルクコンバーターを導入し搭載したもののパワーロスと敏捷性に問題があり、要求を満たす性能ではなかった)1950年代後半当時の国産技術では、500馬力超のディーゼルエンジン出力に見合う戦車用トルクコンバーターの開発ノウハウは不足しており、後にSTA-2ではトランスミッションと操向装置は、戦時中の四式中戦車を参考にした「チト式」に変更されている(試作車STA-3、STA-4では、トランスミッションは機械式ハイ・ロー切換2段クラッチ、操向装置はクレトラック式となった)。
1956年(昭和31年)末から約1年かけて行われた技術試験と実用試験の結果、第2次試作が決定され、STA-3が1960年(昭和35年)1月、STA-4が1959年(昭和34年)11月に完成し、1960年4月に防衛庁に引き渡された。砲口制退器の変更、エンジン出力の増強、携行機関銃弾の増加、制限重量までの余裕を防御装甲に振り向ける、半自動装填装置の採用などが行われたが、両車の違いはSTA-3には防楯付き砲塔機関銃、STA-4にはM48戦車と似た密閉型砲塔が設けられたことである。
制式採用
第2次試作車両のテスト結果、STA-4を基に更なる装甲の増強、砲塔を後方にずらして操縦席に余裕をつくる、測遠器の新型化などの他、細部の変更も加えたものが1961年(昭和36年)4月、61式特車(後に61式戦車と改名)として制式化され、量産と配備が開始された。
1962年度(昭和37年度)予算において最初の量産車10輌が調達され、量産第1号車は1962年10月15日に納入された。


生産・配備
61式特車(61式戦車)として制式化された型は1962年(昭和37年)-1966年(昭和41年)までの第二次防衛力整備計画に90輌が発注された。さらに40輌が追加され、1973年(昭和48年)の製造終了までに560輌が生産された。
富士教導団戦車教導隊を皮切りに全国の戦車部隊に配備が進められ、1984年にはM41軽戦車を装備する最後の部隊での装備更新が終了し、陸上自衛隊の全ての戦車装備部隊が74式戦車もしくは61式戦車によって編成されることになり、戦車装備の完全国産化を実現した。
なお、試作車のうちSTA-4は教育部隊で「教材」として長らく使用されている。
1961年(昭和36年)の制式採用から39年後の2000年(平成12年)、90式戦車の配備に伴い、全車退役した。現役末期には赤外線探照灯の追加装備、スモークディスチャージャー(発煙弾発射機)を増設するなどの細かい改修が行われているが、大きな改良が施されることはなかった。
制式採用から39年間、生産・配備された全ての車両は一度も実戦投入されることなく退役した。
退役後は全国各地の陸上自衛隊駐屯地で展示品とされている車両が少数ある。
特徴
車両の基本構造は鋳造砲塔と鋼板溶接車体の組み合わせである。車体前面は60度傾斜、砲塔はお椀形状であり、避弾径始が考慮されている。砲塔上面までの全高は2.49mとなったが、当時の陸上自衛隊が保有していたM4A3E8戦車、M41軽戦車や米軍のM47・M48戦車よりは低く抑えられた。
主砲先端部のハンマーヘッド型(T字型)マズルブレーキや後部へ張り出した砲塔、履帯のたるみを支える3個の上部転輪など、全体的な印象はアメリカのM41軽戦車に近い。また、ヘッドライトは左右フェンダーの先端上方に、排気管は左右フェンダーの後部上方に取り付けられているが、こうしたレイアウトは同時代の西側各国の戦車にはほとんど見られない外見的特徴である。


攻撃力
主砲には「61式52口径90mmライフル砲」と呼ばれる52口径90mmライフル砲(携行弾数50発)を搭載し、主砲同軸機銃に7.62mm機関銃M1919A4(携行弾数4,000発)、砲塔上面の銃搭にリモコン式の12.7mm重機関銃M2(携行弾数525発)を各一挺装備した。
主砲の使用弾種は榴弾(HE)、曳光対戦車榴弾(HEAT-T)、曳光高速徹甲弾(HVAP-T)、曳光被帽徹甲弾(APC-T)、発煙弾(WP)などがある。製造は日本製鋼所が行い、開発の際はアメリカ軍の砲弾との共有化が図られている。
本車の装備する61式52口径90mmライフル砲の諸元は、1961年4月26日の旧防衛庁『仮制式要綱 61式90mm戦車砲 XB3002』によれば、以下の通りである。
本砲の砲身全長は約4730mm(制退機を除く)の52口径、弾丸経過長(ライフリング長)は約3,975mm、本砲の全備重量は約2,500kg、砲身重量は約1,150kg、防盾重量は約750kgである。砲身構造は単肉砲身、砲腔にはクロムメッキが施されている。ライフリングは等斉右旋回32条、25口径に付1回転である。本砲の仰俯角は+13度~-10度、後座長は通常で約314mm、最大で約356mm である。本砲はアメリカ軍制式の90ミリ戦車砲(90mm M3系列、M36系列等)と使用弾薬に互換性がある。本砲の最大腔圧は約267Mpa(アメリカ軍制式M71 HE射撃時)、約310Mpa(アメリカ軍制式M318 AP-T射撃時)、規定最大腔圧は約330Mpa である。
旧防衛庁『仮制式要綱 61式戦車 XD9001』によれば、砲塔及び戦車砲の動力照準器の最高速度は、砲塔の旋回速度が約24度/秒(420ミル/秒)、戦車砲の仰俯角速度が約4度/秒(70ミル/秒)となっている。
本砲の正確な砲威力については不明であるが、使用弾薬に互換性のあるアメリカのM47・M48パットンの90mm M41戦車砲と比較した場合、90mm M41戦車砲ではM318 AP-Tを射撃した場合の砲口初速は853m/s、61式52口径90mmライフル砲で同砲弾を射撃した場合の砲口初速は約910m/sとなっており、長砲身・高初速である61式52口径90mmライフル砲の砲威力は90mm M41戦車砲よりも高いと思われる。


動力・機動性能
旧防衛庁『仮制式要綱 61式戦車 XD9001』によれば、以下の通りである。
61式戦車の最高速度は45km/h、加速性能は 0-200m加速が25秒(JISD 1014自動車加速試験方法による)、登坂能力は31度(堅硬土質において)、超堤能力は0.8m(水平堅硬土質において)、超壕能力は2.7m(水平堅硬土質において)、最小回転半径は約10m、履帯幅は500mmとなっている。12HM21WTディーゼルエンジンの裸最高軸出力は650PS/2,100rpm(冷却ファンや空気清浄器を除いた場合)、最高軸出力は570PS/2,100rpm で、最高軸トルクは200mkg。全負荷における最低燃料消費率は210g/PSh。搭載燃料は主タンクが450リットル、補助タンクが200リットルとなっている。
61式の加速性能、0-200mまで25秒という数値であるが、後に登場する諸外国の第3世代戦車と同一条件で比較した場合、レオパルト2A4が推定23.5秒、M1エイブラムスの試作車XM1が推定29秒[10]であることから、61式の加速性能は0-200m区間に限定した場合、諸外国の第3世代戦車と同等水準と言える。本車のパワーウェイトレシオを考慮すると最高速度よりも加速性能を重視したものと考えられる。
動力系は戦後設計された戦車では唯一、車体後部のディーゼルエンジンと前部の変速機とをドライブシャフトで接続する方式の前輪駆動が採用されている。そのため車高を低くすることができず、また、車体前部装甲板の一部が変速機の整備のためのボルト留めパネルになっているなど、防御性能において不安を抱えることとなった。
操縦席は日本の交通法規に合わせて車体右側に配置されていたが、砲塔内の車長・砲手と合わせて車輌右側に乗員4人中3人が偏在するためリスクコントロール面で問題となり、74式戦車では車体左側に移されている。操縦は左右2本のレバー操作式で、変速機の歯車の回転が少しでもずれると変速できないなど、アメリカ軍から供与されたM24軽戦車やM41軽戦車に比べて操縦が難しく、乗員から「世界一操縦が難しい戦車」と言われたことがある。また、操縦する際に左手に腕時計をしていると、変速に失敗した際に弾き戻されるシフトレバーが左手に当たり腕時計が壊れるため、操縦する際は腕時計を右手に付け替えた、という話が伝えられている。
サスペンションは第二次世界大戦後の各国戦車の主流となっていたトーションバー方式を採用し、履帯は生産コストと整備・修理の簡便性を考慮して、センターガイド方式のシングルピン・シングルブロック型が採用された。

全長 8.19m
車体長 6.30m
全幅 2.95m
全高 2.49m(砲塔上のM2重機関銃を含んだ場合、3.16m[1])
重量 35t
懸架方式 トーションバー式
速度 45km/h
(加速性能0-200mまで25秒)
行動距離 200km
主砲 61式52口径90mmライフル砲
砲口初速910m/s(M318AP-T 使用時)
副武装 7.62mm機関銃M1919A4(主砲同軸)
12.7mm重機関銃M2(砲塔上部・車長展望塔)
装甲 砲塔 114mm、車体 55mm
エンジン 三菱12HM21WT
空冷4ストロークV型12気筒直噴式ターボチャージド・ディーゼルエンジン
570hp/2,100rpm
排気量 29,600cc
乗員 4名
登坂力 31° 燃料消費量 0.3km/L 最小旋回半径 10m

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3251

Trending Articles