国鉄20系客車は、日本国有鉄道(国鉄)が1958年(昭和33年)に開発した寝台特急列車用客車である。
1958年から1970年までに合計16形式473両が製造された。他形式からの改造編入が6両あり、最終的には19形式479両となった。
最初に投入された列車にちなみ「あさかぜ形客車」とも呼ばれ、その設備の優秀さから登場当時は「走るホテル」とも評された。
電源車から一括供給される電力による国鉄制式客車としては初となる全車空調装置の装備・完全電化食堂車・TR55系空気バネ台車などで居住性を大きく改善した画期的な車両である。
日本で初めて同一系列・同一意匠の車両による「固定編成」を組むことを前提とした体系的な基本構想の下に設計された客車である。
塗装は青15号にクリーム色1号の帯を3本巻いた外観はデザイン的にも優れ、以後の客車寝台特急も含めて「ブルートレイン」と呼ばれる起源となった。
車体:設計は先行する10系客車を基本とし、普通鋼使用であるものの台枠だけではなく側板などにも荷重を負担させることで梁や柱などの構造部材を省略して大幅な軽量化軽量かつ側面腰板部で絞った大断面準張殻構造車体を採用した。
屋根部は床下冷房搭載により扇風機カバーや通風器などの突起物を一切取り付ける必要が無くなったことから、車両限界を最大限に活用すべく丸く深い切妻構造の断面形状である。
また完全冷房化により、側窓は車掌室やトイレなど開閉の必要のあるものを除き全て複層ガラスとゴムシーリングによる固定窓とした。座席車はシートピッチに合わせた狭窓を、寝台車や食堂車は区画に合わせた広窓を採用し在来車の窓配置を踏襲する形で窓寸法が決定されている。
2段式1等寝台車では上段寝台明かり取り用小窓を幕板部に設置し、外観上の特徴となった。
編成の最前部・最後尾に連結される電源車は3枚の平面ガラス、緩急車は2面の曲面ガラスを採用する丸妻型デザインである。また分割運用にも対応する編成中間の緩急車は、貫通路を備える切妻形デザインとした。
内装は当初は10系客車同様のハードボードと称する木質樹脂板を使用したが、途中からメラミン樹脂化粧板に変更された。
同時に寝台車の天井内張板も穿孔板から一般の化粧板に変更。
ナロネ20・22形の「ルーメット」タイプ1人用個室を国鉄の営業用客車では初めて採用した。
2等寝台車は10系寝台車と同様の3段式の折りたたみ寝台を備える側廊下式配置で組立・解体作業は手動で行う。
このため多数の人手と長い時間を要することから側廊下には跳ね上げ式の折りたたみ座席を設置した。
客用扉は自動ドアの採用を見送り、電磁弁で遠隔ロックのみ可能な手動式折り戸である。
開閉作業は列車給仕により行われていたが、1976年10月の車掌補廃止以降は開扉は乗客が行うようになった。閉扉は車掌の業務となったため扉が開いた状態のまま発車し走行中に車掌が各車を巡回して閉める光景もしばしば見られた。そのため、各ドアには「手であけてください」等の2種類のドアステッカーが貼られた。
愛称板は非貫通タイプの電源車・緩急車では5角形のアクリル板による電照式大形愛称表示装置を採用した。
初期には列車によって配色を変える試みがなされ、地色は「あさかぜ」は薄水色、「さくら」はピンク色、「はやぶさ」は黄色、「みずほ」は水色(文字は黄色)が採用されたが、1964年の「富士」「はくつる」以降は簡略化のため白の地色に濃青の文字にほぼ統一され、前記の各列車も次第にそのスタイルに取り替えられた。
ただし「あけぼの」「ゆうづる」では、両列車に青森運転所と秋田運転区の運用が混在したことから区別のため、青森車が白色地、秋田車がピンク地とされた。
1978年より導入した「絵入りサインマーク」は、特急列車では既に本系列が置換え対象となっていたため1980年代に多客期の臨時列車として投入された「明星」「あかつき」「日本海」で新規に作成された程度で、急行列車では1980年の「銀河」を皮切りに九州地区の「かいもん」「日南」でも採用された。また、同時期から1990年代にかけて運行された臨時急行「おが」「あおもり」「玄海」「霧島」「雲仙」で絵入りサインが採用された一方で、その他の定期急行運用では文字の「急行」表示のみとされた。
分割用緩急車であるナハフ21・ナハネフ21・ナハネフ23では貫通路を挟んだ形の2分割タイプのバックサインで、列車名のアクリル板を車内側の蓋を開けて差し込む構造である。
客用扉及び車端部には固定式の等級・種別・号車・行先の各表示灯を設置。
行先表示灯は「東京←→博多」の様に発着地両表示とし、着地を裏から照明の点滅で明示した。
1958年10月から、東京 - 博多間を結ぶ特急「あさかぜ」に投入され運行を開始した。これ以後本州・九州における寝台特急に広く投入され、日本各地に寝台特急列車網を構築した功績は大きい。
1970年代後半からは、設備が時代に合わなくなってきたため、本来の定期特急列車としての運用から外されて急行列車ならびに臨時列車の運用が主体となる。1980年(昭和55年)10月の「あけぼの」の24系化を最後に特急での定期運用が消滅し、1980年代後半からは塗装のうちドア部分や最上部の白帯が省略された。
1985年3月のダイヤ改正では余剰車を1985年(昭和60年)3月17日 - 9月16日に茨城県筑波郡谷田部町(現在のつくば市御幸が丘)で開催された国際科学技術博覧会(つくば博・科学万博)へのアクセス列車「エキスポライナー」「エキスポドリーム」に投入した。
1986年(昭和61年)11月には「だいせん」「ちくま」を最後に急行列車での定期運用が終了。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化時には主に臨時列車用として東日本旅客鉄道(JR東日本)に34両、西日本旅客鉄道(JR西日本)に63両が承継され、「カートレイン」や「シュプール号」などの臨時列車に使用された。しかし、老朽化により年々廃車されると同時に運用も減少し、末期には予備車扱いで少数が残存するのみであった。
1997年(平成9年)11月29日、JR西日本で本系列の最終運用となる新大阪発岡山行き快速「さよなら20系客車」が運転され、翌1998年(平成10年)までに全車廃車となった。
ナハネフ22形
全車寝台化への方針変更によりナハフ20形に代わって1964年から1970年にかけて1 - 26が日本車輌製造のみで製造された2等寝台緩急車。ナハフ20形同様の非貫通式を採用し、最後尾は車掌室と展望室を設置する。寝台はナハネ20形同様の3段式が8ボックス48人分設置されており、トイレ・洗面所もナハネ20形と同じである。車掌室とは別に乗務員室も設置された。改造車については後述。JRに継承された車両も1996年には廃車となり形式消滅した。