中国軍管区司令部跡(ちゅうごくぐんかんくしれいぶあと)は、広島県広島市中区基町にある、中国軍管区司令部防空作戦室の遺構。
大日本帝国陸軍の軍管区の一つであり、かつて半地下式の作戦司令室、通信室が設けられていた。
現存する被爆建物の一つであり、ここが広島市への原子爆弾投下の第一報を外に向けて伝えた場所である。
広島城址公園内の広島護国神社境内、城の内堀の石垣付近にある。半地下式鉄筋コンクリート平屋造。
施設は広島市が所有し、公益財団法人広島市みどり生きもの協会が管理している。普段は立ち入り禁止。
平和学習目的のみ屋内見学が許可され、その場合は事前に協会に予約する必要がある。
また入り口には広島市により原爆被災説明板が設置されている。
広島城は1894年(明治27年)広島大本営が置かれて以降主要軍事拠点として機能しており、太平洋戦争に入ると天守を取り囲むように様々な軍関係の建物が建設された。
戦争末期、空襲下でも指揮できるようシェルター機能を兼ねた半地下式RC平屋構造で司令部防空作戦室が作られた。
1945年(昭和20年)6月12日には、本土決戦に備え広島師管区が中国軍管区に改称され、天皇に直隷し中国地方を管轄することとなった。
同1945年(昭和20年)8月6日被爆。周りの建物は1号庁舎の中央レンガ部分と拘置所の一部を残し爆風により壊滅した。
ここは爆心地から790mに位置したがその強固な構造形式のため倒壊には耐えた。熱線の被害は限定的であったが、小窓から入った衝撃波によって中の人間が吹き飛ばされ鼓膜が破れる者も出るなど多くの負傷者を出した。
1956年(昭和31年)、広島市民球場建設を期に広島護国神社が広島城址公園内に移転してくると、ここは神社の倉庫として使用された。
1990年(平成2年)、被爆50年目間近になり、市に移管され歴史的な被爆建物として保存された。
構造
延床面積208m2。天井高は約1.9m、壁厚は50cmもあり、上部は土で覆われ木も生えている状況で一見するとわからなくなっている。
中は5つの部屋に仕切られており、当時は入口側からそれぞれ「情報室」「無線通信室」「指揮連絡室」「作戦司令室」と呼ばれた。
作戦司令室は、文字通り参謀や将校が作戦を練るところ。壁には防空監視哨の位置を示す電球が埋め込まれた中国地方と四国北部の地図があった。
小窓を布で隠すなど外から中の様子が分からないよう処理され、軍人用の入り口が別に設けられていた。片隅には臨時ニュースを流すときのため広島中央放送局(NHK広島放送局)アナウンサーが待機する場所も設けられていた。
指揮連絡室は、作戦司令室からの伝票を受け役所や主要軍事施設へ電話連絡していた。学徒動員で来ていた比治山高等女学校(現比治山女子高等学校)生徒2、3人で担当した。
無線通信室には通信兵が入っていた。
情報室は、防空監視哨からの電話を受け取るところで、ここのスイッチを操作すると作戦司令室の壁の地図の電球が点滅した。比治山高等女学校生徒10人程度で担当。
また、当時は重要書類を入れていた資料室や、すぐそばに鉄塔もあった。
第一報 8月6日
中国軍管区司令部跡
8時過ぎ、エノラ・ゲイが広島市街を目視確認する直前、広島県警所轄の甲山監視哨・三次監視哨・松永監視哨等から呉海軍鎮守府に、敵大型機(あるいはB-29)3機が広島市方面に向かうとの電話連絡があり、8時10分頃に警戒警報が発令された。
陸軍中国軍管区司令部にも同様の電話連絡があり、8時13分に広島・山口両地区に警戒警報が発令された。続いて海軍の中野探照燈台・板城探照燈台や陸軍の中国軍管区司令部から呉鎮守府に続報があり、呉地区に空襲警報が発令された。
高射砲陣地が戦闘配置し、対空戦闘用意の態勢に移行して高度標定機による敵機観測と高射砲弾の信管調定を開始した。また呉鎮守府飛渡瀬砲台では15.5cm高角砲がエノラ・ゲイを有効射程内に捕捉し、射撃命令を待っていた。
中国軍管区司令部の地下壕にある作戦室の指揮連絡室では、隣の作戦室からの伝票「八・一三、広島、山口、ケハ」を受け取り、学徒動員の恵美(旧姓・西田)敏枝が宇品高射砲大隊と吉島飛行場に、荒木(旧姓・板村)克子が四国軍管区司令部(善通寺)に、岡(旧姓・大倉)ヨシエが電話交換機を使って各地の陸軍司令部や報道機関に一斉に電話連絡しようとした瞬間、原爆が炸裂した(中国軍管区司令部からの警戒警報は各方面に伝達されることはなかった)。
広島中央放送局の流川演奏所では、古田正信放送員が呉鎮守府が発令した警報のメモを持って第2演奏室(スタジオ)に入った。古田が原放送所(放送休止時間のため停波中)に警報発令の合図を送り、放送所の送信機が始動した直後に原爆が炸裂、演奏所と放送所を結ぶ中継線が断線したため警報は放送されなかった。
広島放送局では約40名の職員が犠牲となった。
広島城内にある中国軍管区司令部の地下壕は半地下式のコンクリート耐爆シェルターであったため、熱線の被害は限定的であったが、小窓から入った衝撃波によって多くの負傷者を出した。
荒木と岡は一旦壕の外に脱出したが再び地下壕に戻り、荒木は四国軍管区司令部からの電話連絡を受け、岡は西部軍管区司令部(福岡)と歩兵第41連隊(福山連隊)司令部に、広島空襲の第一報を電話で伝えた。
比治山高等女学校の3年生が司令部へ出動したのは、1945(昭和20)年の4月だった。 3クラスの中から50数名が選ばれ、その後30数名が追加され90名になった。 生徒たちは3つの班に分けられ、8時間ずつ、交代で勤務していた。
岡(旧姓大倉)ヨシエさんはそのうちの1人であった。 8月6日もいつもなら午前8時に仕事が終わり、交代のため壕の外に出るところだったが、次の班の朝礼が長引き、引き続き仕事をしていた。 それが幸いし、原爆の直撃を免れた。
しかし、反対に外で朝礼をしていた1班と3班の生徒は、その全員が亡くなった。
原爆が投下された広島の状況を他の司令部(福岡の西軍管区指令部と福山の歩兵41連隊)にはじめて連絡したのは岡さん。「広島が全滅です。新型爆弾にやられました」と電話で第一報を軍に伝えたとされます。2017年86歳死去
旧名称 中国軍管区司令部防空作戦室
用途 遺構
建築主 大日本帝国陸軍
事業主体 広島市
管理運営 公益財団法人広島市みどり生きもの協会
構造形式 鉄筋コンクリート構造
延床面積 208m2 m²
階数 半地下式一階建
所在地 広島市中区基町21番1号