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双発ターボプロップエンジン旅客機 YS-11

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YS-11は、日本航空機製造の双発ターボプロップエンジン旅客機。第二次大戦後初めて日本メーカーが開発した旅客機。正式な読み方は「ワイエスいちいち」だが、一般には「ワイエスじゅういち」、または「ワイエスイレブン」と呼ばれる時刻表では主にYS1またはYSと表記、全日本空輸の便では愛称「オリンピア」の頭文字Oと表記されていた。
2006年に日本での旅客機用途の運航を終了。海上保安庁の機体は2011年(平成23年)退役、それ以外の用途では自衛隊で輸送機として運用。また、東南アジアへ売却された機体も多くが運航終了となっている。一部の機体はレストアされ解体こそ免れているものの、機体そのものが旧式で、使用されている場面は稀である。

機種名であるYS-11の「YS」は、輸送機設計研究協会の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったもの。一方、「11」の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補にふられた番号で、実際に選定された「ダート10」の番号は「1」であった。後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が検討されていた。機体仕様案の中には第0案もあった。
先述のモックアップ完成披露キャッチフレーズが「横浜・杉田で11日に会いましょう」であった。これはYに横浜、Sに杉田を掛け、11に合わせて公開日を11日にした語呂合わせであるが、これによって数値2桁「11」を「じゅういち」と読み発声することが一般に広まった。こうした経緯もあって、関係者のあいだでは当初正規に「ワイエス・いちいち」と呼ばれていたが、いつしか「ワイエス・じゅういち」と呼ばれるようになった。

機体は中型とし、レイアウトに余裕が持てるように真円部分を長く設計した。当初の設計案では太胴(外径3.3 m)であったが、設計重量超過が判明したことから、モックアップと違った細胴(外径2.88 m)に再設計された。太胴の重量ではSTOL性を確保できず、日本の地方空港に就航できないとの判断であった。このため、当初案の横列5人掛けから4人掛けに変更となった。主翼は、整備性の良さや着水時に機体が浮いている時間が長くなる事を考え、胴体の下に翼がつく低翼に。また、地方空港を結ぶことを目的としたため、1,200 m 級の滑走路で離着陸が可能な性能をもたせることとした。製造は新三菱重工(現三菱重工業)、川崎航空機(現川崎重工業航空宇宙カンパニー)、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機工業、住友精密工業の7社が分担し、最終組み立てを三菱の小牧工場[5]が担当した。

1964年(昭和39年)8月に運輸省(現国土交通省)の型式証明を取得し、国内線向けの出荷と納入を開始した。初飛行から型式証明取得まで、1号機の試験飛行は540時間、2号機は460時間であった。9月9日には全日空にリースされた2号機(JA8612)が東京オリンピックの聖火を日本全国へ空輸し、日本国民に航空復活をアピールした。この聖火輸送に因んでその後、全日空が導入したYS-11には機首に「オリンピア」の愛称がマーキングされたが、機体や全日空の時刻表には「YS-11」の型式名や機種名は記されていない。表面上は聖火輸送の実績に由来した名称と説明されていたが、当時の日航製の開発が遅れていたことや、日航製の経営資金の枯渇から経営不安説も流れ、倒産した場合、倒産した会社の飛行機の名称をそのまま使う事態を避ける思惑が全日空にあったと言われている。他にも、米国の最有力顧客となったピードモント航空も、当時の米国では日本製品の信頼性が高くなかったことから、乗客のイメージを配慮して、広告宣伝や時刻表には「ロールスロイス・プロップジェット」と表記し、日本製航空機であることや、YS-11の機種名の表示は行わなかった。
1965年(昭和40年)3月30日に量産1号機(2003)を運輸省航空局に納入、4月からは航空各社への納入が始まった。9月にはFAAの型式証明も取得して輸出の体制が整った。
民間航空会社に最初に納入されたのは1965年(昭和40年)4月10日に東亜航空に引き渡された量産型2号機JA8639(S/N2004)であったが、納入した国内の航空会社で最初に定期路線で就航させたのは日本国内航空である。運輸省の量産一号機の翌々日の4月1日に、東京(羽田) - 徳島 - 高知線で定期航空路線の運用を開始した。日本国内航空は量産機の発注を行っていたものの、納入が路線開設に間に合わず、試作2号機を1965年(昭和40年)3月11日に日航製からリースして間に合わせたものである。この試作2号機は全日空が聖火の輸送で使用したものであり、日本国内航空では自社塗装に塗り直し、「聖火号」(初代)と命名して就航させた。因みに日本国内航空が最初に受領したのは量産型4号機(S/N2006)JA8640で、1965年(昭和40年)5月15日に納入され、「真珠号」と命名されている。同年12月8日に量産型14号機(S/N2006)JA8651を受領し、「聖火号」(二代目)と命名し、初代「聖火号」を日航製造に返却した。
その後、YS-11の定期運航は日本国内航空に続き、1965年(昭和40年)5月10日に東亜航空が広島 - 大阪(伊丹)線、大阪 - 米子線に就航、同年5月31日に南西航空がリース契約で受領し、同年6月8日に那覇 - 宮古線に就航した。同年7月29日には全日空が受領し、同年9月20日に大阪 - 高知線で就航した。南西航空がリース契約となったのは、本土復帰前の沖縄では航空機登録制度が未整備で、南西航空への売却であっても表面上はリース契約とせざるを得なかったからである。南西航空は本土返還後に正式に購入した。
遅れて、1969年(昭和44年)4月1日に日本航空が日本国内航空よりウエットリースで福岡 - 釜山間で初の国際線の就航を始めて、当時の主要国内航空会社がYS-11の定期旅客運航を行ったことになった。日本航空では同路線の就航をボーイング727で計画していたが、同じ路線を運航する大韓航空の機材がYS-11であったことから、機材に差が出ることを嫌った韓国政府の意向から日本航空も同じとせざるを得なくなり、日本国内航空から調達したものであった。
YS-11-100は運航を重ねるにつれ、主脚の異常、脚開閉扉の設計ミス、外板継ぎ目からの雨漏りによる電気系統不良などの欠陥が判明し始めた。そのたび、日航製職員や航空会社の整備士は改修のため徹夜の連続となった。この経験は、1967年(昭和42年)のYS-11A(2050以降)の設計に生かされた。
1968年(昭和43年)にはトラブルもほとんど解消し、1機あたりの飛行時間は月300時間以上、定時出発率99パーセントを誇る、高い信頼性を持つ航空機となった。

機体の設計者たちは戦前に軍用機設計に携わってはいたが、旅客機の設計をしたことがない(それどころか乗ったこともない)者がほとんどであった。このため設計は軍用機の影響が強く、信頼性と耐久性に優れる反面、騒音と振動が大きく居住性が悪い、(後述する理由で)操縦者に対する負担が大きいという、民間旅客機でありながら軍用輸送機に近い性格の機体となってしまった。快適性・安全性・経済性が重視される民間機としては好ましくなく、運用開始した航空会社側からは、非常に扱いにくいという厳しい評価を受けた。
それでも日本の航空業界側は「日本の空は日本の翼で」という意識のもと、改修に改修を重ね、機体を実用水準に高めた。航空業界によって使える機体に育ったとも言える。やがて東亜国内航空では日本国外に輸出された機体を購入しなおすなど、YS-11に対する信頼性は大いに上がった。
機齢が40年を超えた機体も現れ始めたが、自衛隊や日本国外のエアライン等では2013年現在も使用され続けている。航空大国アメリカでは「日本製の飛行機」、「ロールス・ロイス製エンジンを搭載した飛行機」、「ピードモント航空が使っていた飛行機」という形で知られている。


操縦性
操舵系統には戦後主流になりつつあった油圧を使わず、操縦桿と動翼をケーブルにより直接つなげており、自動操縦装置もなく(後に一部機体にはオートパイロット装備)、ほとんどを人力で動かしているため、沼口正彦を始め多くのパイロットが「世界最大の人力飛行機」と評している。信頼性確保と軽量化を目的としての人力操舵採用であったが当然の結果として操縦に力を要し、通常は低速になると軽くなる動翼は常に重く、特にエルロンが最も重いという。また気流が乱れると自衛官ですら「腕がパンパンになる」と評するほど悪化し、展示飛行で急旋回する際には「ワイヤーが切れると思うほど」引く必要があるという[15]。海上自衛隊ではオートパイロットが装備されていない機体で訓練を行う際、30分ごとに交代するなどの対策を行っていた。
離着陸に関してはパイロットから「上昇もしないんですけど、降りるのも降りてくれない」と評されており、主翼が長めであるため滑空性能が強すぎることが指摘されている。
このように特有の問題を抱えていたため、管制官も降下指示を早めに出したり急かさないなど配慮をしていたという。


客室設備
トイレを装備しているが、当時の輸送機にはまだ多かった蓄積方式(いわゆる汲み取り構造で、消毒・消臭液を汚物タンク部に溜めてある)を採用、便器に水を流す設備はなかった。汚物の液体分だけを漉し取って消毒液を混ぜ、便器の水洗に利用する「循環式」は、YS-11では採用に至っていない。トイレ内の照明はかなり暗めに設定されていた。この他にも冷暖房が必要な時期になると空調関係が不安定になりやすい[15]など、快適装備は旧来型で信頼性も高いとは言えなかった。
荷物棚が座席上部に存在するが、ここは帽子ぐらいの大きさのものしか収納できない(いわゆるハットラック)ため、大きな荷物は搭乗前に手荷物として預けるか、座席の下に置く必要があった。機内の照明には丸形の蛍光灯が使用されており、一昔前のバスを思わせる内装となっていた。日本国外で活躍している機体もほぼ機内は無改造のまま使用されていることが多く、カーゴ設備や機内サービス器具、座席上部の読書灯などにその名残を見ることができる。
一方で、初期の機体には内蔵式のタラップ(エアステア)が用意されておらず、地上設備の貧弱な地方空港での運用に難があるなど、ここでも旅客機としては使い勝手の悪い面が見られた。なお、後にユーザーの要望を受けて、内蔵式タラップも装備されている。


合計182機(国内民間機75機、官庁34機、輸出13カ国76機など)が製造され、日本をはじめとする各国の航空会社や政府で使用された。一方で日本国内だけで4件の事故(うち墜落3件)を起こした。
日本国内ではローンチ・カスタマーとなった全日空で1970年代30機の保有がピークとなり、1980年頃より順次退役し、1991年(平成3年)8月31日の新潟 - 仙台間・ANA720便が最後の運航となった。一方、1971年(昭和46年)に日本国内航空(JDA)と東亜航空(TAW)が合併した東亜国内航空(TDA)では、1980年代には42機を保有する最大のオペレーターとなっていた。既に機体は生産中止となっていたことから、日本国外の中古機を買い戻して調達していた。これはTDAが抱える多くの路線が、騒音問題や空港施設の関係から、YS-11に依存しなければならなかったことが理由である。
しかし、経年と共に整備費用(維持費)が上昇したことで、YS-11の経済効率の悪さが顕著になって行き、搭乗率が高くとも運航経費の上昇で赤字となる路線が多かった。1975年(昭和50年)の整備費の指数を100とすると、1977年(昭和52年)には193.7、1978年(昭和53年)に228、1979年(昭和54年)には249.1となり、加えて、燃料費の高騰、公租公課の上昇と、経済性は下がる一方となり、YS-11の就航路線で黒字を計上する例は僅かとなり、ほとんどが赤字路線へと転落、1994年(平成6年)3月8日の南紀白浜 - 東京便を最後に同社(JAS)から引退した[1]。
日本国内の民間航空機としては引退したが、その頑丈なつくりのため、各国に輸出された機体にはまだ現役にあり続けるものも少なくなく、タイやフィリピンなどではまとまった数の機体が各航空会社で活躍している。また、ギリシャでは、海運王アリストテレス・オナシス率いるオリンピック航空への輸出機が転籍を経て、現在もギリシャ空軍機として使用されている。政府専用機として国家元首の移動に使用された機体もある。また、大韓航空にリースされた1機はハイジャックされ、北朝鮮に抑留状態となった(乗客乗員51名の内39名が韓国へ移送)抑留された機体のその後は不明である(大韓航空機YS-11ハイジャック事件参照)
日本国内の官庁向けでは、10機が海上自衛隊、13機が航空自衛隊、5機が海上保安庁、6機が国土交通省(旧運輸省)航空局に納入され、通常の輸送任務のほか練習機や各種任務機として配備運用されている。航空自衛隊ではC-1輸送機導入までのつなぎとして導入したのが始まりだが、後にエンジンをより強力なゼネラルエレクトリック(GE)製のアリソンT64に換装して性能を向上したYS-11EA/EBが登場した。これらは俗に「スーパーYS-11」と呼ばれる。1990年(平成2年)海上保安庁のYS-11「おじろ」は樺太(サハリン)から全身火傷のコンスタンティン・スコロプイシュヌイを搬送する作業に使用された。
日本国内の民間航空会社においては、日本の航空法が設置を義務付ける空中衝突防止装置(TCAS)が搭載されていないため、機体寿命より早く引退した。特例期間として2003年(平成15年)9月30日まではTCASの装備なしでも飛行可能であったが、当時運航していた2社の内、エアーニッポン機材は同年8月31日をもって全機退役させることになり(最終フライトはJA8772で女満別から新千歳)、日本エアコミューターはTCASの簡易版である空中衝突警報装置(TCAD)の装備により、法律上は2006年(平成18年)12月31日まで運航可能の特例が認められた。上記によって2004年(平成16年)には、日本国内において就航させていた航空会社は日本エアコミューターのみとなり、2006年(平成18年)9月30日に法律上の期間を満了することなく全路線から撤退した。しかし日本国外では中古機を含めて当分は旅客機として活躍すると思われる。また、TCAS設置が義務付けられていない自衛隊においては、航空自衛隊にて現役で使用されているほか、日本航空学園では地上訓練用の教材として現役を続けている機体が存在する。


自衛隊
自衛隊では1965年(昭和40年)から1973年(昭和46年)までにYS-11を23機導入した。内訳は航空自衛隊13機、海上自衛隊10機であった。この採用には、世界への信頼誇示のため、防衛庁に進んで採用してほしいとの強い要望が通産省から寄せられたという話もある。空自の一部の機体はジェネラル・エレクトリック社製 T64-IHI-10J を搭載し、プロペラを3枚に変更した「スーパーYS-11」となっている。航空法改正により、日本の航空機は空中衝突防止装置の設置が義務付けられたが、自衛隊機は対象外であり、かつ民間機より飛行時間が短いため、民間YS-11が引退した後も運用されている。
航空自衛隊
航空自衛隊ではC-46の老朽化が進んでいたことから、次期輸送機導入までのつなぎとして、1965年(昭和40年)から1971年(昭和46年)にかけて、人員輸送機YS-11Pを4機、人員・貨物輸送機YS-11PCを1機、貨物輸送機YS-11Cを7機、飛行点検機(フライトチェッカー)YS-11FCを1機、それぞれ購入した。後に大型のC-130H輸送機が導入されたことから、余剰となったYS-11Cを他用途に改造した。2機が電子戦訓練機YS-11Eに、1機が航法訓練機YS-11NTに、2機が電子測定機(電子偵察機)YS-11ELに、2機がエンジンとプロペラを換装した「スーパーYS」電子測定機YS-11EBに、それぞれ改造された。EBの1機はPCからCとなったものを再改造した。YS-11ELの2機も後に「スーパーYS」化されて、YS-11EBに統合された。YS-11Eは「スーパーYS」に改造され、YS-11EAとなった。YS-11Pも2機がYS-11FCに改造された。
部品不足により、2015年6月22日に最初の1機が用途廃止となった[17]。
海上自衛隊
海上自衛隊は1967年(昭和42年)から1973年(昭和48年)にかけて前部が人員(40席)、後部が貨物の混載輸送機YS-11Mを導入した。1・2号機はYS-11-100をベースにした機体だが、3・4号機はYS-11A-300・400をベースにしており、最大離陸重量が増加した。この2機はYS-11M-Aとして区別される。また、1970年(昭和45年)から機上作業練習機YS-11T-Aを6機導入した。2009年、4機のうち1機が事故により用途廃止になるのを皮切りに順次引退が開始され、2014年12月26日、アメリカ海軍から中古のC-130R(アメリカ海軍が保管している中古のKC-130R空中給油機をアメリカ国内で動作可能状態に再生して、空中給油機能を取り外した機体)を6機を後継機に最後まで残っていた2機の退役を持って全機用途廃止となった。整備マニュアルは独自に作成した物を利用していたという。
海上保安庁
海上保安庁では、1965年(昭和40年)のマリアナ海域漁船集団遭難事件により、多数の船員を救助できなかった痛手を教訓とし、「行動半径700海里において2.5時間の低空捜索能力を有する」長距離捜索救難機を導入することになった採用されたYS-11Aは洋上での長距離飛行に備え、航法通信設備、六分儀、偏流計などの装備を追加、また、胴体後部には直径800mmの球形見張り窓(バブルウィンドウ)と横向き見張り窓、胴体下面にはシーマーカーなど標識投下装置2本、救命いかだなど物資投下口も設置された。翼内バグタンクのほかに815L入り胴体タンクを3個追加し、1,300kmの空域を低空で2時間半捜索できるようになった。LA701は尾部に磁気観測ヘッドを納めた強化プラスチック製の磁気探査装置ブームが装備されており、水路の地磁気と真方位、磁方位を定期観測していた。
1969年(昭和44年)3月20日、羽田航空基地にLA701号機が導入され、同年には根室沖で発生した船舶火災事件で15名の救出に成功するなど、早くも航空救難に活躍した。1971年(昭和46年)11月にはLA702号機が就役し、2機体制となった。その後、新海洋秩序による排他的経済水域の設定に伴う業務拡大で、1977年(昭和57年)度に全日空の中古リース機を3機購入し直し、羽田・千歳・那覇に5機が配備され、日本の領海をカバーする体制が完備された。千歳と那覇の4機には1991年(平成3年)5月に「おじろ」「しゅれい」の名が付けられたものの、羽田のLA701だけは名称がなかったが、1995年(平成7年)5月に「ブルーイレブン」と名づけられた。2000年(平成12年)からは「JAPAN COAST GUARD」のロゴ、次いでマスコットの「うみまる」シールも貼られた。
海上保安庁のYS-11Aは、救難や航路監視、領海警備、海底火山の観測などのほかにも、羽田所属機は特殊救難隊の空輸や南鳥島・硫黄島ロランC局の職員の送迎や物資運搬に、千歳所属機は冬季の流氷観測にも運用された。特に千歳所属機は、1990年(平成2年)にサハリンで大火傷を負った少年コンスタンティン・スコロプイシュヌイの北海道への救急搬送に用いられたほか、2度にわたるロシアへの緊急支援物資輸送に用いられた。「ブルーイレブン」はヨット捜索救助と中国密航船発見の功から、2度の長官表彰を受けた。
老朽化により2009年(平成21年)2月から解役が始まり、09年12月には「おじろ2号」が解役。最後まで残った「ブルーイレブン」も、42年間の総飛行時間は2万3,000時間以上に達していた上に、航空法の改正で改造が必要なことから、2011年(平成23年)1月13日に解役。退役した機体は、部品取り用に航空自衛隊に提供された。後継機には、2006年(平成18年)11月に、ボンバルディアのDHC-8 Q300海保仕様機を3機発注した。2009年(平成21年)から導入が始まっている。
航空局
運輸省(現国土交通省)航空局では飛行検査機として採用され、管制保安部に配属となった。前方右側の貨物扉を廃止、機体上面に短波・高周波アンテナ、2本のUHFアンテナ、後方下面にTACANアンテナ、2個のマーカーアンテナ、補助動力装置 (APU) の吸排気口増設などの改造が行われ、キャビンは前方に各種無線機器、自動操縦装置関係機器、オーディオ機器が置かれた作業室、後方を8名が搭乗できる客室とした。最初は機首部分と垂直尾翼、主翼先端が蛍光オレンジ色に塗られていたが、後に全身モノトーンホワイトと細帯に変更された。元東亜の2084(JA8709)は、後に飛行検査情報システム(AFIS)と空中衝突防止装置(TCAS)を搭載していたが、老朽化のために2006年(平成18年)12月22日に全機引退した。
航空局では後継機としてボンバルディアBD-700、サーブ2000、ボンバルディアDHC-8 Q300を採用した。引退した2003(JA8610)は量産1号機であり、記念として国立科学博物館によって東京国際空港内で年間約900万円かけて動態保存されており、2007年には日本機械学会によって機械遺産に、2008年4月には日本航空協会によって重要航空遺産に認定されている。
製造番号2084の機体(JA8709)は中古機として1985年に航空局へ登録された後、2007年4月に用途廃止され、長らく東京国際空港(羽田空港)にて保管されていた。2014年12月に実施された競売で大阪府のエアロラボインターナショナルが機体を落札、レストアを実施して再飛行を目指している。2015年5月27日午後、羽田空港から高松空港に飛行した。

YS-11は以下の記録を持っている。
定時出発率
エアーニッポンで使用していたYS-11は、1997年(平成9年)に定時離陸率99.6 - 99.8%、日本エアコミューターで運航されていたYS-11も2004年(平成16年)に定時出発率91.8%を達成している。これは世界の最新鋭飛行機でもなかなか達成できないものである。

退役したYS-11の一部は日本国内各地の博物館などに寄贈され、静態保存され展示されている。みちのく北方漁船博物館展示機は、元日本エアコミューターの機体だったが、日本エアシステムの塗装で展示されている。電車とバスの博物館のYS-11は、1988年1月10日に事故を起こした機体の前頭部コクピット付近のみのカットボディ。東亜国内航空塗装でフライトシミュレータとして使用されている。
試作1号機
千葉県山武郡芝山町(成田国際空港に隣接)航空科学博物館(展示開始 1989年8月)
元エアーニッポン機
岐阜県各務原市 かかみがはら航空宇宙科学博物館(展示開始 1996年)
埼玉県所沢市 西武新宿線航空公園駅東口駅前広場(管理は所沢航空発祥記念館)(展示開始 1997年)
香川県高松市香南町 さぬきこどもの国(展示開始 1998年)
佐賀県佐賀郡川副町 佐賀空港 (展示開始 1998年)
兵庫県豊岡市 但馬空港 (展示開始 1999年)
元日本エアコミューター機
青森県青森市 あおもり北のまほろば歴史館(展示開始 2003年)
青森県立三沢航空科学館(展示開始 2003年)
神奈川県川崎市宮前区 電車とバスの博物館
元崇城大学機
熊本県上益城郡益城町 熊本空港(展示開始 2013年)
元航空自衛隊機
あいち航空ミュージアム(展示開始 2017年秋)

総生産数は決して多くはないが、日本の高度経済成長期を象徴する存在の一つとしてのノスタルジーや、武骨な構造・独特のエンジン音などを持つ個性的な機体として、日本には多くのファンがいる。
日本国内の航空専門誌では「日本の名機」「日本初の名国産機」などとも評しているが、実際にはエンジンを初めとして計器類などパーツのほとんどは海外製で、重量過大や操縦性の問題といった未熟さを指摘する意見もある。
鉄道雑誌では同じ1964年東京オリンピックの前後にデビューした日本の乗り物として、陸の新幹線0系電車と対をなす存在として語られることがある。両者にはかつて軍用機製造に携わっていた人々によって作られた(YS-11については同じ航空分野のため自然な経過であるが、新幹線については三木忠直や松平精らのエピソードが著名)、という共通点がある。

仕様
出典: イカロスMook 旅客機年鑑、前間孝則著「YS-11 国産旅客機を創った男たち」
乗員= 2名
定員= 56-64名
全長= 26.3m
全幅= 32.0m
全高= 8.98m
主翼面積= 94.8m2
胴体直径= 2.88m
自重= 14,600kg(A-100型) 15,400kg(A-500型)
最大離陸重量= 23,500kg(A-100型) 24,500kg(A-200型) 25,000kg(A-500型)
エンジン= ロールス・ロイス ダート ターボプロップエンジン2,660-3,060 shp×2
最大巡航速度= 470-480km/h
失速速度= 140km/h
航続距離= 1,090km(フル搭載時) 2,200km(最大)
記録映画
日本航空機製造により、3本の記録映画が製作されている。現在フィルムは製作プロダクション等が所蔵しているが、目にする機会はきわめて少ない。作品中では「わいえすじゅういち」の呼称が使われている。 なお、『YS-11 新しい日本の翼』『YS-11 そのすぐれた性能』は2004年9月にチャンネルNECOで放送されている。


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