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D52-468(D52形蒸気機関車)

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D52形蒸気機関車(D52がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄、製造時は鉄道省→運輸通信省)の貨物用テンダー式蒸気機関車である。

誕生の背景と設計・性能
1930年代後半になって昭和恐慌の影響を脱し、また日中戦争の影響もあって需要が増大しつつあった日本国内の貨物輸送に対応して国鉄ではD51形の増備が続けられていたが、D51形はD50形を元に粘着重量の軽減、全長の短縮など地方路線でも運用しやすくすることを重視した設計であったことから、幹線の貨物列車牽引用としてD51形より出力の高い蒸気機関車が鉄道省内で検討されていた。その中でも動軸の軸重は16t以上、ボイラーをD51形より大型化させたD形機がKD50形からKD54形として1939年(昭和14年)から1940年(昭和15年)に計画され、特にKD54-B形はD51形と同程度の下回りに燃焼室を備えた大型ボイラーを載せるなど、後年にD52形の設計へ取り入れられた要素も多いものであったが、実際の製造には至らないまま太平洋戦争の開戦を迎えた[1]。そして戦時中の1943年(昭和18年)に至り、日本国内の貨物輸送は、前年以来貨物船の軍への供出と米軍の攻撃による喪失が増大したこともあって産炭地からの石炭輸送を中心に内航運輸の輸送力が不足、これを補うため戦時陸運非常体制として京浜・阪神の両工業地帯へ北海道から年間250万t、九州から年間750万tの石炭を陸上輸送することなどを盛り込んだ輸送計画が出されるに至った。そうした情勢において、主に東海道・山陽本線で1200tの貨物列車を牽引することを目的にして誕生した機関車がD52形蒸気機関車である。

D52形は戦前に計画されたKD54形の案を元に、D51形と同一の軸配置でボイラーを可能な限り大型化、火室前方に大きな容量の燃焼室を設けて効率を向上、粘着重量の増大や重量配分の変更を図るとともに出力を上げ、ボイラー大型化の効果により最大動輪周出力は1,660馬力と、日本の蒸気機関車の中では最高の出力を持たせるものとなった。しかし、戦時中のため物資が極端に不足した情勢でもあることから、戦争完遂まで数年だけ持てば良い、または走ればよいという戦時設計が計画途中から本格的に導入されることとなり、砂箱と一体化した蒸気ドームカバーの角型化や台枠・弁装置などに鋳鋼製部品の使用といった工作の簡易化、銅系材料の節約、除煙板や踏板、炭水車の炭庫といった部分には代用材として木材が多数使われるなど、造りとしては非常に質の悪いものであった。そのため、設計上の効率はD51よりも大幅に改善されていながら、本来の力を出せない車両が多く、1944年末の大阪鉄道局管内を例にすると配属33両中12両もの本形式が材質や工作状態の不良による故障を起こしていた。また、ボイラー用材の幅広鋼材が不足したため、各缶胴の長さを変え、用材の寸法取りを合理化した。ボイラーの種類は3種(甲缶、乙缶、丙缶)あり、長さの差は煙室長で調整した。煙管長は5,000mmで統一されていたため、丙缶では燃焼室長が短くなっている。原設計は甲缶で、すべて鋲接により組み立てられており、将来の増圧 (18kg/cm2) を意図して2列鋲式であったが、乙缶・丙缶では1列鋲とし、長手継手を溶接とするなど、構造の簡略化が図られている。概ね、甲缶が国有鉄道工場、乙・丙缶が民間工場製と分かれている。これ以外にも給水加熱器もボイラー受台の中に排気膨張室兼用のものを設置して配管を簡略化、通常のボイラー外部に備える方式に比べて金属材料の使用量を削減するといったことが行われた。

さらに、細部の設計変更は本省の承認を得ることなく、現場の工場長や監督官の一存に任せられた。そのため、ドームカバーの段差やサンドパイプの減少、工作の簡略化や装備の省略化が行われ、形態のバリエーションを生み出している。

炭水車は鋳鋼製2軸ボギー台車を装備するが、テンダー下部の水槽部分で強度を保持できるとの発想から、6mm厚の底板を用いた船底型のフレームレス・モノコック構造とし、一般的な台枠を省略した。これは同時期の戦時型D51と同様な省力化・省資材化の手法で、モノコック構造の鉄道車両への本格採用が1950年代中期近くまで立ち遅れた日本においては例外的な採用例である。このタイプの炭水車は、一部の設計を変更した形で終戦後に増備された中・大型の旅客用蒸気機関車にも導入されている。炭庫部分は石炭の質が悪化したことに対応して容量を当初計画の10tから12tに増大、転車台が空襲などで使用できない場合の逆行運転を想定し後方視界を確保するため、水槽部分より幅を狭めた形となった。

本形式における特殊な装備の例としては、ディスク輪心がある。本形式では、二重壁の箱型としたボックス輪心が制式の設計であったが、円板を湾曲させて一枚板構造としたものである。終戦後に汽車製造で落成したD52 380 - 384の5両がこれに該当する。

製造
本形式は設計に並行して1943年6月から2か所の国鉄工場(工機部)で先行的に部品や機関車本体の製造を開始し、その後に製造計画を割り当てられた民間メーカー5社による本格的な製造に移行した。当初は全部で492両が製造される計画であったが、1945年(昭和20年)の終戦により計画は中止、終戦時点で未完成だった28両は同年度中に落成・国鉄へ納入されたものの、最終的に285両で製造は打ち切られた(最終出場は、1946年3月31日付のD52 62。実際の落成日は4月16日)。そのため欠番が多数あり、最終番号はD52 468である。

なお、D52 151, 152は三菱重工業で製造予定であったが、川崎車輛に製造が代行された。
しかしながら、D52 153 - 197, (D52 239 - 332のうち、D52 239 - 287を除外した)288 - 332の90両のすべてが、それぞれ三菱重工業、川崎車輛に割り当てられたとは考えにくく、蒸気機関車研究家の金田茂裕は自著の中で、「これらの合計90両は故意に空番を作って各工場の生産能力を外部から知られ難くするための工作であったのではないか」とも指摘している。

運用
竣工した本形式は東海道・山陽本線(沼津 - 下関間)の沿線機関区へ重点的に配置され、続いて函館・室蘭本線(函館 - 倶知安間および長万部 - 岩見沢間)での運用目的から北海道に配置されたほか、品鶴線・山手貨物線・東北貨物線(新鶴見操車場 - 大宮操車場間)用として関東地方にも投入された。

1944年に行われたD52 1の性能試験においては10‰の上り勾配で1200tを牽引、この結果に基づいて大戦中は一般貨物列車1100t、石炭集結列車1200t運転を実施することなるが、途中停車・遅運転事故続発のため定数低下となり、この時期1200t列車を牽引していたのは結局EF12形電気機関車のみであった。

戦時設計車であった本形式は、運用上の酷使、工作や整備の不良もあって1945年中に死傷者を伴うボイラー破裂・爆発事故を続けて3件も起こしたことから、一旦全車の使用が停止され、X線によるボイラーの検査等を実施する一方、応急的な対策としてボイラー水位を高めたり火室控の交換、蒸気圧の減圧といった処置を施して対応した[7]。その後、後述の他形式への改造種車として70両が転用、さらに事故車および状態不良の55両は1950年(昭和25年)までに廃車され、残る160両のうち148両は、翌1951年以降、先行して改造を行ったD62形の整備内容に準じた形の装備改造を浜松工場、鷹取工場ならびに広島工場において実施した。装備改造は自動給炭機(メカニカルストーカー)を設置、給水加熱器もボイラー受台内部のものを撤去して煙突前方の煙室上に新設、戦時設計で代用材を使用していた部位を正規のものに交換、炭水車の中梁追加や炭庫の改造といった内容で、外見上は角型・カマボコ型ドームの丸型化、木製除煙板や炭水車炭庫側面の鋼板化などにより、形態的にも戦前製作機と比べて遜色のないレベルとなった。一方、装備改造から漏れた12両 (D52 12, 96, 126, 131, 146, 216, 222, 340, 417, 419, 456, 460) は、除煙板や歩み板、石炭庫側板などの木製部を鋼板製に取り換えた程度で、自動給炭機も装備されず、角型のドームを残すなど戦時型の面影を強く残したまま、瀬野八の後部補機運用を受け持つ瀬野機関区に配置されていた。装備改造車はようやく当初の設計どおりの性能を発揮できるようになったが、かつて事故を起こしたボイラーは未だ戦時中製造のものを検査、補修の上使用しており、1954年(昭和29年)にはボイラー破裂事故を再発したことから、本形式やD62形・C62形を中心に戦中戦後に製造された蒸気機関車のボイラー再検査を実施、翌1955年(昭和30年)から新造ボイラーへの交換が行われることになった。

軍事輸送の終了による貨物用機関車の余剰化と、旅行の制限がなくなったことによる旅客輸送量の激増にともなう旅客用機関車の不足のため、1948年から1949年にかけて本形式のボイラーを流用し、C59形相当で従軸を2軸とした足回りと組み合わせた旅客用機関車C62形が49両(うち1両は2両分のボイラーを組み合わせて1両分の良品を捻出したため、種車となったD52形は50両である。)製造された。

また、1950年から1951年にかけて従軸を2軸として軸重を軽くし、線路規格の低い線区(乙線)への入線にも対応したD62形に20両が改造されている。

戦後は函館・室蘭本線用として長万部機関区に配属されていた全車が1948年までに本州へ転属ないし廃車、東海道・山陽本線でも状態不良からD51形とほぼ同一性能として運用されていた本形式も、1949年(昭和24年)5月に東海道本線の電化区間が浜松まで延長、続いて1951年から実施された装備改造の実施後はD51形が950tを牽引する区間で本形式が1100tを牽引、さらに夏季牽引定数が設定されここで蒸気機関車による東海道区間での1200t列車牽引が実現し、EF12形・EF13形・EF15形の牽引定数1200tに追いついて、新鶴見操車場 - 稲沢操車場間で1200t列車を通し運転することが実現した。その後も本形式は関ヶ原や船坂峠といった10‰勾配の連続する区間で牽引性能を最大限に発揮し、東海道・山陽本線全線での1200t貨物列車運転を実現させているだけでなく、ワキ1形やワキ1000形などで編成された急行貨物列車も牽引している。また、山陽本線の難所である瀬野 - 八本松間(瀬野八)の補助機関車としても使用され、同区間を通る上り旅客列車と軽量の貨物列車には単機、重量貨物列車には重連で充当された。

本形式は東海道・山陽本線以外に御殿場線、岩徳線で旅客列車や貨物列車を牽引したほか、梅田貨物線や城東貨物線でも少数が運用されていた。また1955年(昭和30年)末以降は東海道本線の電化により余剰車が延べ9両鹿児島本線(門司 - 鳥栖間)用として門司機関区に転属、同線で貨物列車を牽引したが、1961年(昭和36年)の門司 - 久留米間電化により全車が休車、現地で廃車となった1両を除き翌年までに本州へ転属している。その後1964年(昭和39年)に山陽本線が全線電化、御殿場線も1968年(昭和43年)に電化が完了したことによりそれらの路線で運用されていた本形式も全車運用を離脱、後述する北海道地区へ転属した一部を残して廃車となった。

最終的には再度北海道地区の函館・室蘭本線(函館 - 東室蘭間)への充当を目的として、山陽本線の電化に伴い余剰機となった姫路第一機関区所属の8両 (D52 56, 136, 138, 202, 204, 235, 404, 468)と岡山機関区所属の5両 (D52 140, 201, 217, 400, 414) 計13両が1960年(昭和35年)度に、1968年(昭和43年)度に吹田第一機関区の142、糸崎機関区の28の延べ15両が五稜郭機関区に転属し、函館・室蘭本線で1972年(昭和47年)まで使われた。本機の最終使用は1972年12月で、稼動状態で最後まで残ったのはD52 202である。国鉄最強の称号で名高い本形式であり、SLブームの中での引退であったものの、軸重の重さゆえ運行できる路線が限定されたこと、貨物機であったことから一般のなじみが薄かったため、その引退はひっそりとしたものであった。

保存機
京都市の京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)をはじめとして、7両が静態保存されている。同機の活躍舞台として知られた御殿場線の縁から、神奈川・静岡両県での保存が極めて多い。

D52 1:広島市東区「日本貨物鉄道(JR貨物)広島車両所」(準鉄道記念物)
D52 70:神奈川県足柄上郡山北町「山北鉄道公園」(山北駅前)
2016年3月、圧縮空気による動態運行が可能な状態に整備され、同年10月14日の「D52 奇跡の復活祭」にて十数メートル自走した。動態運行は定期的な運行が予定されている。復元と稼動に中心的な役割を担っていた国鉄OBが直後に急逝し、次回の運行を中止すると報じられたが、役割については国鉄OBと交流があった男性に引き継がれている。有火ではないものの、自走可能な唯一のD52である。
D52 72:静岡県御殿場市御殿場駅前ポッポ広場
保存当初は同市内の湯沢平公園で展示されていた。2010年9月28日に公園での展示を終了し、同年11月28日から現在地で展示されている。
D52 136:静岡県沼津市「高沢公園」
D52 235 (138) :神奈川県相模原市「鹿沼公園」
現車はD52 138ではないか、との説があるが、2009年8月、「相模原D52保存会」の手により整備された際、現車のロッドにD52 235の刻印があるのが発見された。蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について D52型data)
相模原D52保存会の2010年3月ブログには、「138号機の刻印が複数個発見されている」との記述と刻印の写真が掲載されている。
D52 403:神奈川県平塚市「平塚市博物館」
D52 468:京都市下京区「京都鉄道博物館」(準鉄道記念物)

運用者 運輸省→日本国有鉄道
製造所 浜松工機部・鷹取工機部
汽車製造・日本車輌製造
川崎車輛・日立製作所
三菱重工業
製造年 1943年 - 1946年
製造数 285両
引退 1972年
愛称 デゴニ
運用範囲 東海道本線・山陽本線
函館本線・室蘭本線
東北本線
主要諸元
軸配置 1D1 (2-8-2、ミカド)
軌間 1,067 mm
全長 21,105 mm
全高 3,982 mm
機関車重量 74.42 t(空車)
85.13 t(運転整備)
動輪上重量 66.29 t(運転整備)
炭水車重量 19.74 t(空車)
51.76 t(運転整備)
総重量 94.16 t(空車)
136.89 t(運転整備)
動輪径 1,400 mm
軸重 16.63 t(最大・第3動輪上)
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 550 mm × 660 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 16.0 kg/cm2
ボイラー水容量 9.87 m3(過熱式)
大煙管
(直径×長さ×数) 140 mm×5,500 mm×35本
小煙管
(直径×長さ×数) 57 mm×5,500 mm×94本
火格子面積 3.85 m2
全伝熱面積 167.1 m2
過熱伝熱面積 77.4 m2
全蒸発伝熱面積 167.1 m2
煙管蒸発伝熱面積 147.4 m2
火室蒸発伝熱面積 17.5 m2
燃料 石炭
燃料搭載量 10.0 t
水タンク容量 22.0 m3
制動装置 自車: 空気ブレーキ
編成: 自動空気ブレーキ
最高運転速度 85 km/h
最大出力 1,949 PS
動輪周出力 1,660 PS


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