Quantcast
Channel: 観光列車から! 日々利用の乗り物まで
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3251

三式戦闘機二型「飛燕」6117号機

$
0
0

三式戦闘機二型「飛燕」6117号機

三式戦闘機(さんしきせんとうき)は第二次世界大戦時に大日本帝国陸軍が開発し、1943年(昭和18年)に制式採用された戦闘機である。開発・製造は川崎航空機により行われた。設計主務者は土井武夫、副主任は大和田信である。ドイツの液冷航空エンジンDB601を国産化したハ40を搭載した、当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機である。防弾装備のない試作機は最高速度590km/hを発揮したが、防弾装備や燃料タンク等を追加した量産機では鈍重な戦闘機になり下がり、アメリカ軍に「もっとも食いやすい(つまりアメリカ軍にとっては攻撃し易い)戦闘機」という印象を与えている。基礎工業力の低かった当時の日本にとって不慣れな液冷エンジンハ40は生産・整備ともに苦労が多く、常に故障に悩まされた戦闘機としても知られる。ハ40の性能向上型であるハ140のエンジン生産はさらに困難であり、これを装備する予定であった三式戦闘機二型はわずか99機しかエンジンが搭載できず、工場内に首無しの三式戦闘機が大量に並ぶ異常事態が発生した。そこで星型空冷エンジンを急遽搭載した日本陸軍最後の制式戦闘機、五式戦闘機が生産された。

本機は、太平洋戦争に実戦投入された日本軍戦闘機の中では唯一の液冷エンジン装備機である。当時、同盟国であったドイツ国のダイムラー・ベンツ社製DB 601エンジンは、Bf 109Eに搭載された1000馬力級航空エンジンであった。日本陸軍はこのDB 601をライセンス生産し、ハ40として三式戦闘機に搭載した。空冷エンジンが主力であった日本軍機の中にあって、本機の外形は水冷エンジン装備機特有の空力学的に滑らかで細身なデザインを持つ。開発者の土井によれば、出力が同じ場合、液冷戦闘機の抵抗面積は空冷戦闘機に比べて20%程度も減少し、速度は6%向上する。ただしラジエーターを要する分重量が増すのが欠点である。

その搭載エンジンから「和製メッサー」とも呼ばれたが、エンジンとのちに本機の一部が装備したMG 151/20機関砲以外はBf 109と全く別の設計である。機体設計は川崎設計陣が独自に行ったものであり、左右一体型の主翼と胴体の接合法、ラジエーター配置、主脚構造などがBf 109と大きく異なる。内部構造的には共通点が少ない。

1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示。キ60は1940年2月から、キ61は12月から設計が開始された。キ60は不採用となったものの、1941年(昭和16年)12月に初飛行したキ61試作機は最高速度591km/hを発揮し、総合評価で優秀と判定されて直ちに制式採用が決定された。この数値は設計主務者の土井の観点から見ても全くの予想外と評された。しかし、先行して試作され不採用となったキ60の経緯と同様、水冷エンジンに対する日本の生産能力と整備には問題があった。DB 601は日本の基礎工業力では生産や運用が難しい精密な構造のエンジンであったこと、また日本の整備兵は複雑で高性能な液冷エンジンに不慣れで整備作業そのものも難しいものであったことが、安定した稼働と飛行、空戦能力、作戦立案と実行に強く悪影響を及ぼした。海軍では、DB 601のライセンス生産品であるアツタを採用し彗星艦上爆撃機を量産化していたが、同様にエンジンの不調による稼働率の低迷に悩まされた。さらに、陸軍で採用されたハ40系のエンジンは、量産開始後に陸軍からニッケルを使用材料から外す決定が下されるなどしたため、部品強度が落ちた。そのため本機の量産と運用にはなお紆余曲折が存在した。

は、量産開始後に陸軍からニッケルを使用材料から外す決定が下されるなどしたため、部品強度が落ちた。そのため本機の量産と運用にはなお紆余曲折が存在した。

 

愛称・呼称
試作名称であるキ番号はキ61であった。制式名称である三式戦闘機という呼称は皇紀2603年(1943年(昭和18年)に制式採用されたことに由来する。制式制定は1943年10月9日。愛称は飛燕(ひえん)、部隊での呼称・略称は三式戦、ロクイチ、「キのロクイチ」、「ロクイチ戦」などがある。川崎社内では「ろくいち」と呼ばれたが、二型登場後は「いちがた」「にがた」と呼ばれるようになった。愛称の「飛燕」は1944年後半に発表されたとする文献もあるが、1945年1月16日付の朝日新聞の、本土防空に当たっていた飛行第244戦隊(後述)の活躍を報じる記事で発表されている。その記事では「その軽妙俊敏さは、あたかも青空を截って飛ぶ燕にも似ているところから「飛燕」と呼ぶことになった」としている。なお碇(2006)の資料によれば、1945年1月の時点で川崎航空機の年表に愛称が見られるともされる。また『世界の傑作機 陸軍3式戦闘機 飛燕』(1989年) では、高アスペクト比を持つ細長い主翼を持つ、独特のスタイルに由来すると解説している。連合軍におけるコードネームはTony(トニー)であった。これはアメリカではイタリア系移民の典型的な名前とされ、当初、アメリカ軍がさしたる根拠なく本機を日本の同盟国であるイタリア空軍のマッキ MC.202のコピー機と誤認したことに因んで名づけられた。本機の印象、特にファストバック型キャノピーがBf109に類似すること、および同系統のエンジンを搭載していたことから日本でも『和製メッサー』と呼ぶあだ名があった。

総生産機数
総生産機数は各型合わせておおよそ3,150機であるが、うち275機の機体が五式戦闘機(キ100)に転用されたため、三式戦闘機としての実数はこれよりやや少なく、2,875機前後となる。総生産数は諸説を列挙する。なお二型は通説では増加試作機30機および量産型374機が生産されているが、文献により413機+α機であるとする説もある。

片渕 (2007)によれば、各型・試作型合わせて3,153機。または+α。
秋本 (1999)によれば、3,148機だが、これより若干多めの可能性も示唆されている。
土井 (2002a)によれば、I型だけで2,750機。これにII型の8機と二型(II-改)の30+374機(五式戦闘機に改造されたものを含む)を加えると3,162機としている。
一般に中島飛行機の一式戦闘機が5,751機、同じく中島の四式戦闘機が約3,500機生産されたとされているので、その発動機の生産に多大な問題を抱えながらも、太平洋戦争世代の陸軍戦闘機としては第三位の生産機数を誇る(ただし九七式戦闘機も1943年までに通算3386機が生産されており、それも含めるなら四位である。なお、旧日本軍全体では海軍の零式艦上戦闘機が10,400機程度生産されており、これが一位となる)。

川崎は複数の工場を持っており、機体は岐阜工場、エンジンは明石工場で生産されていた。

1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示した。キ60の設計は1940年2月から、キ61の設計は12月から開始された。設計は両機ともに土井武夫が担当した。キ60はBf109Eと互角以上の性能を示したものの、他に合同試験された二式単座戦闘機の方が有望であり、なによりキ61の方が良好な性能を発揮していたため、制式化は見送られている。

キ61の設計コンセプトは、「航空兵器研究方針」における重戦・軽戦のカテゴリにこだわらない万能戦闘機で、「中戦(中戦闘機)」とも呼ばれた。当時の陸軍は、軽単座戦闘機に旋回力と上昇力を求め、さらに12.7mm機関砲の搭載も要求したことから、必然的に陸軍内の議論で発生した語ともされる。しかし碇(2006年)の文献では、副主任の大和田が「戦闘機は総合性能で敵に勝っておらねばならず、軽戦・重戦で分けるのは不合理だ」と語り、またこれが川崎の開発チーム共通の理念であったともしている。そもそも開発チームが「中戦」と呼んでいたとする文献もあるなど、川崎側が発祥であるともされる。

土井自身は陸軍の「軽戦闘機」思想にこだわらず、キ61を理想的な戦闘機にまとめあげようとしたと語っている。またこの考えの裏には、かつて土井が設計を担当し、高速性を追求した軽戦闘機キ28が、1939年の競争試作で旋回性が劣るとしてキ27(九七式戦闘機)に敗れた経緯も影響したと指摘する説もある。土井は自信作であったキ28について「当時の陸軍が一撃離脱戦法を知っていれば」と述べているまた、その反動からか、一度は95式戦闘機の改良版とも言える引き込み足式の、最大速度480km/hに達する高速の複葉機を計画したこともあった。しかしこれはその後廃案になり、「三式戦闘機」案に変更されている。1940年9月頃には細部設計が開始された。なお開発初期の1940年5月頃に、土井はこの時期からキ61を空冷エンジン搭載機とする可能性に言及したとする文献もある。

木型審査は1941年6月に行われ[33]、試作機は1941年12月に完成し初飛行を行った。キ61はキ60と同系統のエンジンを使用しており、陸軍側もあまり期待していなかったとする資料もあるが、この審査ではキ60やBf109Eの速度を30km/h上回る590km/hを発揮した。これは設計者の土井すらも全く予想外の高性能だった。なおこの時期の陸軍戦闘機は、軽戦闘機である一式戦闘機は495km/h乃至515km/h重戦闘機である二式単座戦闘機(制式採用前)でも580km/hの最高速度しかもたなかった。このため1942年10月には毎日航空賞が、1943年12月には陸軍技術有功賞が、土井と大和田に贈られた。

エンジン
1936年、ドイツで液冷1000馬力級航空エンジン、DB601が開発・生産された。これは過給器に流体継手を採用し、キャブレターではなく燃料噴射装置を採用した、先進的なエンジンであった。日本陸海軍はこのエンジンに興味を示し、海軍側は愛知時計電機(のちに愛知航空機と呼ばれる企業)が、また1939年1月には川崎航空機が、各々50万円でライセンスを購入し、日本国内での生産を行うこととなった。

川崎の鋳谷社長が土井に語った談として、ヒトラーはこの購入に関し「日本政府として購入すれば50万円で済むのに」なる旨の言を発し、また日本の陸海軍は敵同士かと笑ったともされる。渡辺 (2006年)などによれば当時の陸海軍の反目がエスカレートしており、別々の購入に至った。また林(1994年)の文献によれば、海軍と陸軍は購入に関して別々に交渉を続けており、在ベルリン海軍事務所から在ベルリン日本大使館陸軍航空補佐官加藤敏雄中佐に、既に海軍側が制作権購入の交渉を始めたので手を引いてくれとの電話が有ったとの逸話が紹介されている。また碇 (2006年)の文献では、ダイムラーベンツ社が、道徳上同じ国に二度もライセンス料を払わせる訳にはいかないと一旦辞退を申し出たことが記述されている。

以上はライセンス購入に際し陸海軍の対立の定説として語られている顛末であるが、軍事史家である古峰文三は以下のような説を著述している。DB 600(601ではない)は、愛知がライセンスを購入したものの、愛知が陸軍にエンジンを供給することが許されていた。またDB 601については愛知・川崎とも1社のみで全軍に供給できるだけの生産力が期待できず、2社で生産に当たるのはやむを得なかった。2社で生産する以上ライセンス生産料も2社分支払うのが契約上当然であり、また他の発動機も陸海軍で共用している状況から、DB 601の経緯のみに注目して対立の根拠とすることはし難いとしている。

ライセンス生産にあたり、ドイツから日本に輸入されたのは離昇出力1,175馬力のDB 601Aaで、燃料噴射装置の特許を持つボッシュ社がライセンス生産を認めないなどのトラブルがあったものの、1940年12月、ハ40は完成を見た。量産型の完成は1941年7月、書類上では同9月である。

なお液冷エンジンを搭載したため機首が長く、地上での前方視界は良いものではなかったとする文献もある。

主翼
主翼は全幅12m、面積20m2、アスペクト比7.2という高い比率の翼形を採用した。当時の戦闘機はアメリカ軍の戦闘機P-51B型でアスペクト比は5.9、Bf109Eで6.0、零式艦上戦闘機は6.4であり、日本陸軍が運用していた他の戦闘機、一式戦闘機、二式単座戦闘機、四式戦闘機も6.0 - 6.08程度となっている。これらと比較して三式戦闘機の主翼はアスペクト比が高い。これは翼面荷重を低めるよりも翼幅荷重を低めた方が、高速性能・運動性能、および高々度性能を確保できるという土井の設計思想によるものである。長大な翼幅からくるロール性能の低下は、補助翼(エルロン)の設計でカバーした。なお翼面荷重は147kg/m2で、一式戦闘機(隼)の100kg/m2よりは大きいが、二式単座戦闘機(鍾馗)の171kg/m2よりは小さい値である。

またこの主翼の主桁は左右一体構造で作られた頑丈なものであった。当時、主桁はI型断面のものが多く用いられていたが、三式戦闘機のものは凵型のアルミ合金を二重にしたものを前後のウェブで上下に組み合わせ箱形としたもので、フランジ部は結合された主翼小骨のものも合わせて3重となっており、その上内部にもトラスが組み込まれると言う頑丈なもので、荷重試験では総重量2,950kgと仮定して主翼に15Gをかけても破壊されず、それ以降の試験を中止した。強度過大であることから性能向上のために主翼の軽量化が検討されたが、キ61は既に十分な性能を示していたために見送られた。三式戦闘機は当初計画の2,950kgから、最大で二型の3,800kgにまで総重量が増加しているが、この面での主翼の設計変更は必要が無く、生産が滞ることはなかった。なお、後方にはT型またはL型をした補助桁も設置されている。

また全幅の広い主翼を用いたことから、主脚のスパンは4.05mと降着に際して十分に安定したものであり、荒地での運用に耐えられるものであった。そのため胴体下部は引き込まれた主脚のタイヤと降着装置で占拠されることなく、燃料タンクやラジエーターの艤装が容易となっている。主翼は片側6本のボルトで胴体に取り付けられているが、これはFw190やP-51と類似した取り付け方法である。またこの部分は平らに整形され、将来機体に改造が行われて重心が変わっても、主翼位置の前後修正による重心位置調整が容易である。

なお開発時に、土井技師の不適切な対応もあり、急降下時に補助翼がフラッター(異常振動)で千切れ飛ぶと言う事故が発生しているが、無事着陸に成功し事なきを得ている。

胴体
三式戦闘機の胴体および機首は、日本では一般的かつ大直径の空冷星型エンジンを搭載した各種戦闘機と比べ、液冷エンジン搭載の利点が出たものとなった。全幅は840mmである。キ60より全高は100mm抑えられ、1360mmであった。こうした小型化は空気抵抗を減らして高速化に効果がある。機体の分割部分を減らし、生産性の向上とともに強度と軽量化の両立を図ったのも特長である。

胴体は4本の縦貫通材を骨組みの主材とした。ただしこれらは尾翼直前の第12円框で分離されており、一体構造ではない。この構造は生産性向上に役立ったとされる。本機は量産性にも配慮がなされ、主翼取り付け法も生産性を高めた他、飛行機の外形を作ってから工員が中に入り内装を行う従来の手順を改め、各モジュールを内部まである程度作り上げてから最終的に組み立てるシステムが取られた。機体構造はセミ・モノコック構造となっており、また発動機架は通常の鋼管で組み上げたものでなく、前方で胴体と一体構造、言わばモノコック形状ととなっている。これは一体構造の主翼と相まり、降下限界速度が850km/hまで許容されるなど、機体強度は非常に頑丈なものであり、また重量軽減にも貢献している。。土井によれば速度計は700km/hまでのものが採用された。ただし780km/hまで計測できたとの証言や、のちに1,000km/hまでの速度計に変えられたとの証言もある。この構造は重量軽減にも非常に有効だったともいわれる。設計主務の土井によれば、三式戦闘機が空中分解を起こした事例は一度もなかった。また真偽不明であるが、土井は同じ文献で、三式戦闘機が音速を突破したケースがあると耳にしたと著している。機体が頑強なことから、不時着も比較的行いやすかったと証言したパイロットもいる。

キャノピーは日本軍機として珍しい形状を採用した。キャノピー後部と胴体が一体化した、空力学的に有利なファストバック方式が採られている。この型式は後方視界が制限され、空戦に際して見張り能力につき指摘される懸念があった。また前下方をのぞき見るための窓が設けられた。視界に関し、実戦部隊からとりたてて指摘はなかったとする文献と、あったとする文献がある。土井によればこのキャノピー形状と前下方をのぞき見るための窓はBf109からの流用である。なお大戦末期、おおよそ1944年12月以降に作られた機体、あるいは五式戦闘機に改造された機体については、日本で一般的な涙滴型風防に改められている。


三式戦闘機の航続距離は8時間以上、3,200kmを飛行可能であった。長大な航続距離で著名な零式艦上戦闘機に匹敵する飛行能力を持つ。燃料は、胴体内タンク、および左右各2つの翼内タンクに820リットルの燃料を収容し、さらに両主翼に200リットルの増槽を懸吊して総計1,220リットルの燃料を確保した。ただしこれは量産型では機体に755リットル、増槽を合わせて1155リットル搭載、航続距離は7時間40分または3070kmと、若干低下している。和泉(1994)では一型初期の燃料搭載量は増槽を含め935リットルとしている。なお増槽を懸吊すると最高速度が80km/hほど低下したという。

武装・その他

なお、川崎側の資料など、一般には試作機には最初からハ40が搭載されていたと言われているが、審査を担当した荒蒔義次らは、3号機までは輸入したDB 601Aaを搭載していたと証言している。また、ハ40を搭載した4号機からは過給器の不調が多かった。量産型第一号機は1942年8月に完成した。

日本陸軍では20mm機関砲の開発が遅れたために、武装は12.7mm機関砲ホ103を採用した。しかしホ103とて制式採用は1941年であり、この時期のホ103の信頼性には懸念が持たれており、採用は機首の2門にとどめ、主翼の2門は7.7mm八九式固定機関銃を装備している。燃料タンクは被弾に対して若干の防弾能力が付与されている。308機目までは3mm厚のゴムと10mm厚のフェルトで防漏しており、388機目までは上面9mm、側面6mm厚のゴムで覆われた。。量産機は1942年末までに34機、エンジンは65台が完成した。

飛行性能
試作時、三式戦闘機は最高速度・上昇力・旋回性の全ての比較領域においてBf109-Eを凌駕した。特に最高速度は30km/h優速であった。

1942年秋頃、福生で「戦闘機研究会」という名称の比較試験が行われた。内容は日本陸軍戦闘機および月光、雷電などの日本海軍戦闘機と、P-40E、ハリケーン、Bf-109Eなど諸外国機を集めて性能比較を行うものであった。キ61は速度の優勢のほか旋回半径の小ささで外国機に比べて勝り、格闘戦では有利と考え得るものであった。海軍側は三式戦闘機に関し、座席よし、舵やや重きも釣り合いよし、安定性よし、前方視界悪し、上昇悪し、急降下時は舵が非常に重いが座り・出足ともによし、と評価している。

三式戦闘機の操縦性には特筆すべき癖や問題はなかった。補助翼・昇降舵の操作にはロッド式が採用され、方向舵には操縦索(ワイヤー)式が採用されている。 1942年12月21日の「戦闘機研究会」または秋に福生の陸軍航空審査部で行われた陸海軍試作機の互乗研究会では、本機に試乗した海軍パイロットの一人が操舵系統の良好さに驚き、こんなに良くできた舵を持った飛行機に乗ったのは初めてだと、陸軍にその秘密を質問した。陸軍側はそれに答えられなかったが、同席していた土井の答えは、液冷戦闘機独特の縦に細長い長方形状の胴体形状が一番大きく影響しているのでは、というものであった。

本機の降下制限速度は850km/hと、非常に頑丈な機体である。軽量化を強く追求した零戦52型以前の機体は降下制限速度が670km/hであり、零戦52型甲でも740km/hである。

三式戦闘機は離昇出力1175馬力のハ40を搭載する戦闘機であり、1型甲の全備重量は3,170kgである。同質のエンジンを搭載するBf109Eを上昇力で凌駕すると説明する資料があるものの、大塚(2007)の文献中の表では、三式戦闘機は全備重量3,170kgで6,000mまでの上昇時間が8分30秒、Bf109E-7は2,540kgで7分30秒、Bf109Fは2,780kgで6分30秒となっている。出力不足は特に上昇力の不足となって性能に現れた。特に燃料満載状態では護衛するはずの爆撃機に劣る上昇力しか持たなかった。また上昇力の不足は、前述の「戦闘機研究会」で海軍側の指摘にも表れている。

 

 

 

ハ140
1942年春から開発されたハ40改良型のハ140は、吸気圧をあげてエンジン回転数を2,500rpmから2,750rpmに高め、離昇出力を1,175馬力から1,500馬力に高めるものだった。過給器の大型化とその冷却のために水メタノールが導入された。三式戦闘機の場合は95リットルの水メタノールを搭載予定であった。80kg程度の重量増加のほか[162]基本構造はハ40と大差はなかった。航空審査部では、ハ40と比較してさして整備困難と見ておらず、1944年7月の航空審査部による報告ではハ40より信頼性があるとされている]。また航空審査部の2名の士官および下士官も少々の問題は有ったが整備しにくいと言うほどでもなく、大体もしくは十分に動いたと回想している。ただし川崎が航空審査部に精度良好な個体を回すのは当然であるし、ハ40の審査に加わった人物が目を光らせている状態であるのであるから、航空審査部で良く回るのはむしろ当然であろうとの見方もある。なお歴史群像編集部 (2010) では、量産性はハ40より更に悪化し、通常の1000馬力級空冷エンジンの5倍の工程数が必要だったという。この生産性の悪さが「首無し機体」の一因になったのではないかとしている。

実際の所は、好調なものは良く回ったのであるが、やはり従来よりのベアリングの焼き付き、マグネットギアの摩耗、点火栓側極の溶解、冷却水ポンプの不良、排気弁焼損などトラブルは多発、開発は行き詰まりを見せていた。弁の焼損は、隣接するシリンダー同士の熱膨張や歪みの干渉により弁座が歪み、特に排気弁を損傷させたものだという。ハ140は三式戦闘機二型に搭載される予定であったが、エンジンの完成台数は低調であった。このため二型の多くはのちに空冷エンジンを積んで五式戦闘機に改造されることとなった。ちなみにドイツでは、DB601は改良を重ね、DB603では離昇出力2000馬力を突破、1945年にはやはり水メタノール噴射を併用して2850馬力を出している。

なお日本陸軍は1944年以降、燃料不足のため、代用燃料として松根油などから抽出したアルコールをガソリンに混合するか単体で利用し軍用機を飛ばそうとしていた。通常の星型空冷エンジンにはあまりよいものではなかったが、航空審査部でのテストによれば、ハ140を搭載した三式戦闘機二型は、これを用いることでむしろ通常のガソリンよりも高い性能を示したという。

愛知で作られていたアツタもDB601を基とするエンジンである。これはハ40と異なる独自の発展を遂げ、離昇出力1,400馬力を発揮するアツタ32型が開発されていた。両社が独自に原型を発展させたために互換性は全くないが、1943年11月に軍需省が設立されるとこの発動機にも統一の目が向けられた。なお品質的には川崎のハ40系より愛知のアツタ系の方が良好であったとされる。エンジン統一にあたり、プロペラ取り付け位置や排気管の位置、重心の位置など問題点が列挙され、標準型エンジンは基本をアツタ32型とし、プロペラ軸や過給器をハ140に合わせ、水メタノール噴射装置を加えたものとなった。

ラジエーター
液冷エンジンに不可欠なラジエーターは幅約800mm、高さ約480mm、アンドレー式のものである。このラジエーターは胴体下部中央、すなわちパイロットのやや後方あたりに半埋め込み式として配置された。機体から外には250mmが露出している。キ60では上下式としたがこれは重量が嵩むため、三式戦闘機では固定式に改められた。ラジエーターは前方から見て、エンジン冷却水冷却部、潤滑油冷却部、エンジン冷却水冷却部と3つに分かれている。使用された冷却液は化学物質を混合しない通常の淡水であり、冷却するに際して約3.8kg/cm2に液を加圧し、沸点を125度として使用した。

土井は戦後、同じ箇所にラジエーターを配したP-51を見た時、その気流の処理の見事さに、さすがにアメリカの方が進んでいるとの感想を抱いた。また同時に、このアメリカ軍最優秀機と三式戦闘機のラジエーター処理がほぼ同様であったことは感無量であったともしているが、実際類似しているのは設置した場所だけで、構造や形状などは全く異なっている。なお、三式戦闘機における全空気抵抗の内、ラジエーターのそれは14%を占めていた。

飛行第78戦隊ではラジエーターの修理を多く報告しており、中でも油漏れが大きな問題とされた。まず前述のとおり水冷却器と油冷却器が一体構成であり、これを機外に降ろす作業が容易ではなかった。またオイルタンクはパイロットの足下にあり、これは寒冷地やそれなりの高々度では良い暖房になったが、南方の低高度ではコクピット内が相当に暑くなったようである。またこの水油同居形式のラジエーターは、空気取り入れシャッターで各冷却機構の能力を調整するものであったが、調整が難しく、油温の上昇、水漏れなどの不具合が続出した。また、オイル配管をエンジンから遠い機体下面まで取り回したせいで、しばしば配管の各所からオイル漏れが生じることとなった。なお、水冷方式である本機は地上待機状態であまりエンジンを回すと、すぐに水温が上がり冷却水が沸騰、圧力逃がし弁が開き、蒸気が排出される。これは「お湯を沸かした」などと言われた。またこの状態はオーバーヒートを起こしている状態であり、離陸は困難である。また飛行中に蒸気を通り越して冷却水そのものまで吹き出すようなトラブルも見られた。

 


バリエーション
原型機 キ61
1941年12月製造、初飛行。試作3機、増加試作9機。以降は特記無き限り川崎航空機岐阜工場での製造。

一型甲 (キ61-I 甲)
1942年8月から1943年9月生産。最初の量産型である。 日本陸軍は航空機関砲の開発で遅れを取っており、1940年または1941年まで12.7mm航空機関砲を、また事実上1944年まで20mm航空機関砲を持たなかった。12.7mm航空機関砲の試作が決定したのは、1940年になってからのことである。このため1941年に制式化された12.7mm機関砲(ホ103 一式十二・七粍固定機関砲)は1940年に100門、1941年度に439門が生産されたがこの時点では数が不足しており、また信頼性もまだ高い物ではなかった、このため、機首に12.7mm機関砲2門と翼内に7.7mm機関銃(八九式固定機関銃)2挺と言う装備になっている。 燃料タンクは防漏仕様で、初期には3mm厚のゴムと10mm厚のフェルトで覆っていたものが、421号機からは上面9mm、側面6mmのゴムに改められている。機体番号113から500まで、388機生産。

一型乙 (キ61-I 乙)
1943年9月から1944年4月生産。一型甲の翼内銃を12.7mm機関砲に換装、計4門に強化した型。当初計画ではこの砲の装備が正規状態である。514号機以降には操縦席後方、ラジエーターの上部に厚さ8mm、重量22kgの着脱式の防弾鋼板を追加した。一部燃料タンクには被弾時の危険性が指摘され、現場レベルでは撤去される例があった。空となった当該タンクにはさらに欠陥があり、飛行中に弁の不良で他タンクから燃料が流れ込み、機体の重量バランスを大きく狂わせた。また離陸直後の墜落事故についても、このタンクによる重量バランスの狂いが指摘された。よって乙型の14機目(514号機)からはこれを廃止し、燃料搭載量は755リットルから555リットルに減少。また、150機目(650号機)からは翼内タンクに12mm厚ゴムによる防弾が行われている。このため燃料搭載量は更に、500リットルに減少した。また引き込み式だった尾輪は生産性向上の為、途中から固定式に改められた。

生産数は約600機、或いは592機または603機、592機などと言われている。片渕(2007)によれば、『軍需省熊倉少佐資料』中の『陸軍機装備現況表』では機体番号は501から1092であるとされるが、『三式戦闘機取扱法』では翼内銃を12.7mmにしたのは514号機以降であると明記されていると(ただし、513号機(401機目)からの可能性もあると)している。ちなみに昭和18年度、陸軍による生産内示機数は6,760機と言う実情を鑑みない数値であったという。

一型丙 (キ61-I 丙)
1943年9月から1944年7月生産。翼内銃砲をドイツから輸入したマウザー砲(モーゼルとも呼ばれる)(MG151/20)に換装し、20mm機関砲2門と12.7mm機関砲2門の重武装にした型。主翼から砲身が飛び出しているのが外見の特徴。陸軍では航空用20mm機関砲の開発が遅れていたため、ドイツから20mm機関砲を輸入した。数量は800門、弾丸40万発である。川崎内では「キ61マ式」とも呼ばれた。ただし重量増で飛行性能は低下している。

定説では既存の一型甲、一型乙からの改造機を含めて388機が一型丙となった。だが川崎において1943年に234機、1944年に153機、合計387機が生産され、現地改修機は存在しないとする資料もみられている。しかし前線の搭乗員の手記でも、現地改修が実際に行われたふしがあるとする証言もみられているほか、碇(2006)の文献では235機が新規生産で、400からそれを引いた百数十機が現地改造であろうとしている。その他にも改修機とは別に400機が川崎で生産されたとの資料もみられる。

なお一型乙の機体番号は514から1092が振られているが、一型丙には3001から3400が振られている。

一型丁 (キ61-I 丁)
1944年1月から1945年1月生産。武装を機首にホ5 20mm機関砲2門(弾数各120発[309])、翼内に12.7mm機関砲2門とした型。

輸入マウザー砲を全て使用した後も20mm機関砲の搭載が望まれたため、ようやく実用化の成ったホ103の拡大版である国産20mm機関砲(ホ5 二式二十粍固定機関砲)を搭載した。弾丸の威力はマウザー砲に及ぶものではなかったが、全長が短いため機首に搭載でき、命中率はあがった。和泉(1994)p.39では発射速度と初速は遜色なかったものの、故障は多かったとしている。1943年11月頃、杉山元元帥が川崎の岐阜工場を訪れ20mm機関砲の搭載を要請したとする資料もある。

渡辺(2006)は、ホ5の搭載に関し、重量物を重心に近づけて機動性を確保し、また命中精度を確保する観点から(翼は捩れるなどするため命中率が劣る)、サイズの大きなマウザー砲では望めなかった機首に搭載したとしている[。

しかし他の文献では、本来マウザー砲と同様に翼内装備としたかったものが翼内に収まりきらず、やむを得ず半年をかけてホ5用の同調装置を開発し、機首に搭載したとされている。この同調装置とは、プロペラ圏内に装備された機関銃を発砲するに際し、自機のプロペラに弾頭が命中しないよう、プロペラが安全な位置にある時にだけ発射機構を機械的に連結する装置である。航空機黎明時代にはプロペラを強化し、多少弾丸が当たってもこれを弾き飛ばすなどしていたが、機銃が強力になるとこの方法は廃れた。20mm機関砲弾では弾頭内部の炸薬によりプロペラが吹き飛ぶ威力があった。20mm弾薬は海軍も危険としてプロペラ圏内への機関砲装備を容認しなかったし、世界的にも稀な部類ではある。1942年6月5日には土井により、翼厚の関係上主翼への搭載は不可能で、この部分の翼厚を100mm程度に再設計する必要があるとの報告がなされている。再設計と生産設備の転換自体は1週間で完了できる比較的容易なものであった。

武装変更に伴い機首の20cmの延長、榴弾の信管過敏による暴発対策で機首上面外板を厚いものに変更、これにより機体重心が前進したため後部にバラストを搭載し、主翼を4cm前方に移動している。また、胴体内タンクを95リットルで復活させた。このため燃料搭載量は595リットルとなった。

翼内から機首への大口径機関砲搭載位置の変更は、命中率向上と重量物の機体重心近くへの移設による旋回性能向上につながるものだが、実際は改造による自重にして約250kgの重量増加により飛行性能全般が低下している。高度6000mでの最高速度は590km/hから560km/hへ、上昇力は5000mまで5分31秒から7分程度へと低下している。なお、351機目から増槽架を100kg爆弾搭載可能なものにしたとする文献もある。

本型は機体に大改修を加えているため当初「三式戦闘機一型改(キ61-I改)」と称されたが、のちに「三式戦闘機一型丁(キ61-I 丁)」となった。計画では機体番号4001から4900までの900機の生産であったが、後継の二型が間に合わず、機体番号5354機までが生産された。生産機数は1,358機、または1,354機と最多である。

なお、「首無し」の機体は後述するハ140搭載の二型のものが有名だが、ハ40の徹底的な改良という要因により供給が不足し、I型についても1944年秋から首無しの機体が増えており、11月には最大の190機を数えていた。

キ61-II
1942年4月頃より計画され、エンジンはハ40の改良型であるハ140(離昇出力1,400馬力)に換装、主翼をホ5を内蔵できるように再設計、翼面積22m2のものとした。さらに垂直安定板を若干増積、胴体を42cm延長した。土井(2002b)によれば、機能の確実化と整備の容易化にも配慮がなされた。 武装はホ5 20mm機関砲を4門、またはホ5 2門に12.7mmホ103 2門を装備、最大速度640km/hを目指し、上昇限度は13,500mとなるはずであった。さらに30mm機関砲ホ155の搭載も検討されている。渡辺(1999)によれば、キ61とキ61-IIは遠目にはよく似ているが、近づいてみるといたる部分が異なっており、同一部分を探すのが困難な程だと言う。

1943年8月に試作器が完成・初飛行したが、エンジン、特に水ポンプの故障の頻発で実用化は遅延した。1943年9月から1944年1月までに試作機を8機生産したものの、空戦性能もあまり芳しくなく、8号機も完成こそ1944年1月とされているが、6月に至ってもやっと発動機空中試験を始める状況で、最終的に計画は中止された。なおエンジン出力の強化に伴いラジエーターも管長を250mmから300mmとし、冷却力を20%強化している。

二型甲(キ61-II甲)
1944年2月頃より計画が開始された。キ61-IIの主翼を一型丁のものに戻したもので、このため翼内武装も一型丁と同等のものに戻っている。なお、大型主翼を採用した理由とそれを元に戻した理由は資料が無く、よくわかっていない。従来の主翼にはサイズの問題で20mm機関砲ホ5が搭載できなかったが、これの搭載のために新たな主翼を用意した可能性のほか、飛行性能の向上のためとする説もある。碇(2006)は、大型主翼の飛行性能が悪く、速度向上の意味から元のものに戻したとし、渡辺(1999年)は、主翼大型化の効果があまり見られなかったためとする。歴史群像編集部 (2011) では、理由は明確に言及されていない。そのほか、主翼を元に戻した理由は古峰文三が以下の様な考察を行っている。当時の二型はエンジンの問題により全力を発揮した飛行試験が充分に行える状態ではないと推測され、比較により性能上の問題が露呈したとは推察しにくい。よって、単にホ5の供給不足により、新型主翼に生産を切り替えてこれを搭載する必要がなかったから元の主翼に戻したのではないか、とする説である。また秋本(1989)では、単に一型丁にハ140を載せて各部を改修した方が良いとのことになっただけとしている。

全備重量は355kg増加した。しかし速度は高度6,000mで610km/h、高度8,000mでも591km/hと向上しており、上昇性能も一型丁より改善を見た。また武装は一型丁と同等だが、機首の20mm機関砲ホ5の弾数が、各120発から200発へと増加した。また燃料タンクの防弾能力を強化したため、翼内タンクが合計265リットルから210リットルへ低下した。ハ140を搭載したこの機体は従来のものとは異なり、完全武装状態でも10,000mまで楽に上昇できた。なお二型機体は、航空審査部飛行実験部に所属する機体のほか、1944年11月ごろより[338]、片岡載三郎掛長(かけちょうまたはかかりちょう。現在で言うところの係長)を隊長とし、川崎航空機のテストパイロットで編成された川崎防空戦闘隊によっても一線部隊に先行して運用された。後者は一型機体と合わせ、1944年12月13日、1945年1月3日あわせB-29、B-25合計3機または4機の撃破を報告し、航空本部長から感謝状を贈られている。そのうちB-29 3機は片岡掛長による戦果である。

増加試作機が30機または36機生産された後、1944年9月より「キ61-II改」として量産が開始された。ハ140が順調に量産され、所期の性能を発揮すれば機体が高性能をあらわすことも可能であったが、機体こそ374機が完成したものの、ハ140に大きな問題が生じていた。生産は遅延し品質も悪かった。生産台数は44年7月に20台納入の予定が8台、8月には40台納入予定が5台、9月には1台のみが完成したに過ぎない[344]。こうした生産状況からは本機を実用機として戦力化することが極めて困難であった。航空審査部の担当名取智男大尉はハ140を生産している川崎の明石工場に通い詰め不具合を調査したが、性能の維持は不可能であり、これに乗って飛んでくれとは整備屋としてとても言えないと言った惨状であった。したがってキ61-II改の生産は100機程度で打ちきられた。これは整備条件の良い、内地の防空部隊に限って配備される予定であったという[345]。ちなみに二型の制式化は、生産の打ち切りが決定した後、間もない頃のことである。

結局、エンジンを搭載し完成機となったものは99機であったが、B-29による爆撃で機体が破壊され、最終的に軍に納入されたのは約60機程度という状況であった。この後、川崎はキ61-II改の生産を縮小し、四式重爆撃機を生産するよう指示された。結論としてエンジンの不調および生産遅延が三式戦闘機の大量生産を阻害した。なお、製造番号は5001以降が振られている。

半完成品となった三式戦闘機の残余である275機は「首無し」の状態で放置された。これらは後に空冷エンジンを搭載し、後述の五式戦闘機に改造された。定説では二型の機体の生産機数は374機、完成機が99機、5式戦闘機への改造機が275機である。だがこの数字には試作機の39機が入っておらず、また374機という数量には新工場である都城工場で製造された分が計上されていない。古峰によれば川崎航空機工業株式会社『航空機製造沿革』「機体之部」では「374+」とされており、実数はやや多く機体生産がなされたのではないかとする説もみられる。

三式戦闘機二型は、エンジンが完調であれば性能自体は良好だった。土井によれば高度10,000mにおいても容易に編隊飛行が行えたと評価される。また本土でB-29の迎撃に当たった第55戦隊の隊員らも、古川戦隊長が故障は見受けられるが同条件ならP-51にも引けを取らないのではないかと評価したほか、旋回性能だけは一型に劣るが全体的に二型が上である、高度11,000mでも確実に飛行ができる、さらにはエンジンの故障も少ないと証言している。また明野の飛行学校で行なわれたテストでは、急降下性能は四式戦闘機、五式戦闘機を凌駕していた。五式戦闘機の登場後も二型が完全に捨てられたわけではなく、五式戦闘機で当座を凌ぎながら信頼性の向上を目指し、1945年6月に40機、7月に40機、8月に10機という補給計画が残されている同じく、機体を五式戦闘機に取られながらも、終戦直前まで少なくとも2個戦隊の充足・戦力化を目指し細々と生産が続けられていたとする文献もある。しかし同時に1945年7月には生産の完全打ち切りと五式戦闘機への完全移行が決定したともされる。

さらなる発展型として、キ61-IIに大口径砲を搭載する、すなわち、ハ140特エンジンに37mm機関砲をモーターカノンとして搭載する計画が存在した。これは古峰(2007)にキ61-II武強として紹介されているが、現在までのところ、ウィキペディア編集者には、他の文献ではII型についてこの呼称は確認できない。ただし三式戦闘機一型については、「陸軍現用試作機称呼名称一覧表」(1945年2月25日、陸軍航空本部)において、丙型と丁型の「区分」を「武強」としている例が有る。この機体の翼内武装は廃止され、他の武装は機首に20mmホ5が2門のみ装備された。のちにこれはキ88と呼ばれるものとなり、1943年6月には組み立ての開始が行える状態になったようだが、1943年9月、計画は中止された。また正式名称不明であるものの、性能向上型である三型には離昇出力1800馬力のハ240の装備が計画されていた。

二型乙(キ61-II乙)
日本機研究の権威、レネ・フランクリン氏や秋元実氏の文献で二型甲の武装を20mm×4に強化した実験機として製造されたと紹介されている。ただし、三式戦闘機の薄い翼内にホ5が搭載できたかどうかについては諸説ある。(ただし、同じ20mmではマウザー製のものは搭載できた前例があることに留意すべきであるし、機関砲を覆うブリスターを設けて対応したという文献もみられる。)このため主翼が大型化して主桁から変更されているであろう当初の2型を用いているとの説もある。

三型(キ61-III)
生産性を向上させるため、風防をファストバック型から涙滴型に変更し、胴体後部の改良を加えたるという五式戦闘機一型乙と同じ措置をとったバージョン。1機が試作されたとされている。同様の措置をとった五式戦闘機は0.1065m全長が長くなり、121kg質量が増加している。また、風防の「合わせ」はあまりよくなく、隙間に大量のグリースを注入しておかねば、飛行時に操縦士は振動から来る轟音に襲われたとする資料もあり、気密性もあまり良くなかったようである。

五式戦闘機 (キ100)
五式戦闘機は三式戦闘機のエンジンを星形空冷エンジンに換装した戦闘機である。1945年(昭和20年)に制式採用された(制式採用されたか否かには諸説あり。詳しくは当該項目を参照)。 前述のとおりハ140の生産は遅延し、エンジン未装着の三式戦闘機が多数放置された。早急な戦力化のため、陸軍ではハ140に換えてハ112-IIを搭載することを計画した(日本海軍も同じく艦上爆撃機彗星のアツタエンジンに換えて金星62型エンジンを搭載している)。金星62型エンジン、陸軍名称ハ112-IIは星型空冷であるため、直径こそ121.8cmと大きいが、離昇出力1,500馬力を発揮するものであった。これは広く部隊に配備されている三式戦闘機一型丁のハ40が発揮する1175馬力より強力で、ハ140の1500馬力に匹敵した。またハ112-IIには水メタノール噴射装置も装備されていた。航空本部や土井技師は三式戦闘機の空冷換装を前向きに検討開始した。軍需省の意向や川崎航空機のエンジン部門の実戦化への努力等、空冷化に対して考慮すべき点があったものの、戦局と生産の観点から、1944年4月、航空審査部は川崎に対し内々に三式戦闘機の空冷化を依頼した。また上記二型の戦力化の失敗により、10月1日には正式に空冷化三式戦闘機・キ100の試作が命じられた。

三式戦闘機の840mmの胴体に直径1218mm、カウリングなども含めれば外径1280mmのハ112-IIをいかに収めるかは、ドイツより輸入されていたFw190 A-5の機首まわりの処理を参考とした。エンジンと機体の接続部に生じる段差は渦流を生じ大きな空気抵抗となるが、この部分にエンジンの推力式単排気管を設置し渦流を吹き飛ばし、最小限の整形のみで空気抵抗を低減する処理を施した。

1944年の12月末には換装のための設計を終え、試作一号機は翌1945年2月1日(または11日)に初飛行を行った。空冷化により前面投影量が増え、空気抵抗の増加により最高速度が580km/hとなった。これはキ61-II改より30km/hほど低下していた。しかし、空冷化による水冷装置の撤去など軽量化に伴い、上昇力は四式戦闘機を上回るものとなった。空戦性能は三式戦闘機を上回ると判定され、三式戦闘機一型丁と比較すれば最高速度においても凌駕した。窮余の策の空冷エンジンへの換装は大成功であった。

第59戦隊のパイロットたちも、三式戦闘機を装備運用した時期に比較し、五式戦闘機は敵新鋭戦闘機とも相当に善戦できると評価した。また何より、稼働率が大きく向上した。取り敢えずの戦力化・稼働率の向上に加え予想外の高性能を発揮したキ100は、2月には五式戦闘機として制式採用された。量産機第一号は2月に完成し、3月には36機、4月には89機、5月には131機が生産された。生産の停止した三式戦闘機二型に代わって陸軍の主力戦闘機となり、陸軍航空隊はこれを大歓迎する。だが米軍の空襲のため6月は88機、7月は23機にまで生産が落ち込んだ。8月に生産された10機をもって生産完了し、試作機3機を含め総生産数は390機または393機程度であった。ほか、生産機数は文献により諸説が存在する。

ただしハ112-IIはハ140より良く稼動したとされるが、やはり新型エンジンであり、信頼性が抜群であったと言うわけではなかった。1945年7月に五式戦闘機を装備した第59戦隊の稼働率が48パーセント、三式戦を装備した第55戦隊の稼働率が62パーセントとのデータもある。

本機の完全な現存機は日本国内に1機(三式戦闘機「飛燕」二型(キ61-II改))が存在するのみである。この機体は1944年に川崎航空機岐阜工場で製造された「飛燕」二型試作17号機である。戦争中、この機体は陸軍航空審査部所属であり、終戦直後に福生飛行場でアメリカ軍に接収され、のちに日本航空協会に譲渡返還されたものである。同機は戦後に大規模な修復を受けているものの、現在良好な状態で保存されている三式戦闘機としては世界で唯一である。この機体は、遊園地での展示や航空自衛隊岐阜基地での23年間の保管ののち、1986年からは鹿児島県知覧町に貸与され知覧特攻平和会館に展示されていたが、2015年9月に岐阜県各務原市にある川崎重工岐阜工場に搬入されて修復を受け、神戸市での展示を経て、2016年11月に再び各務原市へ戻って、かかみがはら航空宇宙科学博物館(増築・改装中)の博物館本館裏手の収蔵庫にて展示されており、2018年3月24日からは、同博物館の改築後の本館内で恒久展示される。

日本にはこのほか高知県沖の海中から引き上げられた機体が京都嵐山美術館にて、胴体前部と主翼桁のみと言う不完全な状態のものが展示されていたこともある。

また、オーストリア南部のワンガラッタ市の航空機復元会社に、川崎重工業の現役及びOB社員によるボランティア・グループが協力して飛行可能なように復元中のI型があるそれ以外では、ニューギニア島、チェンデラワシ湾の海底に残る機体と主翼の一部が水中写真家の戸村裕行によって撮影され、それが飛燕であると潮書房「丸」編集部の鑑定により発表されている。

2017年に入り、1970年台にパプアニューギニアのジャングルで発見されオーストラリアのコレクターが保有していた残骸がヤフーオークションに出品された。この機体は倉敷市の会社経営者が1500万円で落札し、11月30日に倉敷市にて引き渡された。

 

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3251

Trending Articles