日本海軍省の標石。
鷹ノ巣浦と大奈佐美島(おおなさみじま)との間の厳島海峡は、広島や呉に入港する大型船舶の航路となっています。
かつて、この海峡から侵入する敵の艦艇を防ぐために鷹巣山の山稜部に設けられたのが鷹ノ巣高砲台です。ここには28cm榴弾砲(りゅうだんほう)6門が設置され、2門の砲座を一組としたものが3箇所にありました。
砲座を囲んで、すり鉢状の土盛りがしてあって、周囲には石造りの砲側庫(ほうそくこ)や地下式の弾廠(だんしょう)がありました。1898年(明治31年)7月 鷹ノ巣高砲台着工
広島湾要塞:広島湾と呉軍港の防備のため設置された大日本帝国陸軍の要塞です。当初は呉要塞と呼称した。広島湾と呉軍港への敵艦船の進入を阻止するため、音戸瀬戸・早瀬瀬戸・那沙美瀬戸・大野瀬戸に要塞砲台の設置が検討された。
28cm榴弾砲跡 2門
1887年(明治20年)1月の計画では早瀬瀬戸・那沙美瀬戸の防禦案であったが、1893年(明治26年)2月には四つ全ての瀬戸の防禦計画が決定された。
具体案の計画中に日清戦争が開始されたため、工事が開始されたのは1897年(明治30年)になってからである。
砲台建設は、1897年(明治30年)3月、大那沙美島砲台から開始され、1903年(明治36年)12月までにすべての砲台が竣工した。
豊予要塞の完成に伴いその存在意義を失い、1926年(大正15年)8月に廃止された。
明治の全国の要塞10ヶ所のうち4カ所までもが瀬戸内海にありました。
近代要塞と瀬戸内海国立公園の立地が海峡部、好展望地と一致しています。
近代要塞遺構はその一や地形から到達性が悪く開発が難しかった様子です。
近代要塞は近代の軍事施設でその施設そのものが堅固でした。
厠(トイレ)痕
兵士待機所があります。
西側の観測所。建造物は半地下に煉瓦作りで上が観測所。
西側の観測所の上部です。半地下にある掩蔽部。
南側の観測所。天井はありません。
北側観測所。
広島湾要塞司令官
税所篤文 少将:1903年5月1日 -
(兼・事務取扱)河井瓢 砲兵大佐:1904年3月10日 - ※本務・広島湾要塞砲兵連隊長
柴田正孝 少将:1904年7月7日 -
田中信隣 大佐:1904年9月17日 -
加藤泰久 少将:1906年4月16日 - 1907年11月13日
川合致秀 砲兵大佐:1907年11月13日 - 1910年11月30日
榊原昇造 少将:1910年11月30日 - 1912年9月28日
有田恕 少将:1912年9月28日 - 1913年8月22日
近野鳩三 少将:1913年8月22日 - 1914年5月11日
渡辺岩之助 少将:1914年5月11日 - 1915年5月24日
堤可広 少将:1915年5月24日 -
谷田繁太郎 少将:1917年8月6日 -
磯村年 少将:1918年1月18日 -
高橋綏次郎 少将:1918年7月24日 -
川瀬房四 少将:1919年7月25日 -
鳴滝紫麿 少将:1920年8月10日 -
浅岡信三郎 少将:1921年7月20日 -
大平善市 少将:1923年8月6日 -
山内岳造 少将:1924年1月18日 -
境孫四郎 少将:1924年12月15日 - 1925年5月1日