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東京第2陸軍造兵廠:荒尾製造所

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東京第2陸軍造兵廠:荒尾製造所(火薬)

東京第2陸軍造兵廠 は11の製造所と一つの研究所から成っていた。関東大震災で大きな被害があった東京都板橋区の旧東京陸軍造兵廠での火薬の生産を群馬県岩鼻や京都宇治などに広げ満州事変以降は火薬消費量の増大化にともない、敷地にゆとりがあり、火薬原料の石炭酸がが入手しやすい大牟田に隣接した、当時荒尾に生産増量の為、最新設備を備えたことによります。

東西約5KM南北最大1KM、二造荒尾は1938年(昭和13年)測量開始。14年には旧荒尾町、有明孫、八幡孫の100万坪を軍用地として買収し八幡村果樹園集落は赤田方面に集団移転させられました。

正門、本村門、有明門、八幡門の五カ所の門を設置したあとは従業員以外の工廠内の立ち入りが厳しく規制されました。1945年終戦までの数年間、多くの人的・物的エネルギーが投入されました。

来る総力戦に備えて、当時の最新鋭の火薬工場が建設されました。荒尾駅から二造まで引込線があり、電車(当時、だるま電車と称されていた。)が 貨車を牽引していました。

敷地中央部の市屋から緑ヶ丘まで、最大幅22m~15mの幹線具用道路約4KMを当初に整備し、支線道路や循環道路が網の目状に設置されました。また、原材料や製品の移送用に万田駅から二造中央部間に専用鉄道が施設(全長5195m)されました。昭和17年4月の荒川市政施行頃には、第一工場のクロベン工場やシダ工場が次々と完成して、火薬や炸薬の生産が開始されました。当時作成された「工員補助名簿 荒尾製造所」には、技官・雇員等の2592人が記載されている。

第1工場:黄色薬工場(トリニトロフェノール、ピクリン酸) 2棟 
シダ室・(石炭酸を先ず硫酸で2,4-ジスルホン酸とし、次いで硝酸でニトロ化して トリニトロフェノールを製造)
クロベン室・(クロルベンゼンを混酸でニトロ化し2,4-ジニトロ化物をつくり、 苛性処理してジニトロフェノールをつくり、更に混酸でニトロ化し トリニトロフェノールを製造)

茶褐薬工場(トリニトロトルエン、TNT) 2棟 
 トルエンを混酸でニトロ化してトリニトロトルエンを製造(バッチ式2段ニトロ化、TNTは最終的には水洗だけて、精製されて いないので不純物が若干残っていたものと思われる。)

白色薬工場 1棟 (テトリル)
 (ジメチルアニリンを混酸でニトロ化してテトリルを製造)

第2工場:(炸薬型成)第1工場からのトリニトロフェノール(ピクリン酸)、トリニトロトルエン(TNT)、テトリルを爆弾用に型成

 黄色薬は最盛期(昭和19年)に全国生産量の約3割、茶褐薬も約2割、合計生産量の最大は300トン/月
 原料は大牟田の三井染料から供給されたようです。(当時、原料は石炭系で、 石炭酸やベンゼン・トルエンは八幡製鉄所からも供給されたものと思われる。

<当時の原料製法>
 石炭をコークス炉で乾留(蒸し焼き)すると、軽油とコールタールが副生します。
 軽油の主成分はベンゼン、トルエン、キシレンです。蒸留で簡単に分けられます。
 ベンゼンを塩素化してクロルベンゼンが得られます。
 コールタールを蒸留すると、カルボル油が得られます。これを苛性ソーダで抽出して石炭酸(フェノール)を得ます。フェノールは凝固点が約40℃なので、取り扱う際には加熱が必要です。
 <混酸>
 濃硫酸と濃硝酸の3:1の混合物。アンモニアを空気酸化して生じるNO2を硫酸に 吸収させて作る。荒尾ニ造では硫酸と硝酸を別々に受入れていたようである。

 荒尾二造では爆弾や地雷の火薬、さく薬を生産、陸軍小倉造兵廠へ鉄道で輸送し、爆弾や砲弾に充填され、火薬生産の一大拠点として終戦までその生産力を保持していました。また、製品の爆薬は小倉造兵廠に送られたものと思われます。

 沿革
 1938 測量開始 国家総動員法成立
 1939 5ヶ年計画の工場建設着工
 1940 月田の丘陵切り通し工事、国鉄市尾ガード工事、官舎建築
 1941 本事務所完成
 1942 万田駅~二造間の専用鉄道開通
 1942 第1工場(黄色薬工場、茶褐薬工場、白色薬工場)、第2工場(炸薬型成)   完成、操業
 1945 8/15 終戦

 土地 947,415坪  建物 523棟(23,500坪) 最盛期には約2500人が働いていたようです。本格的な苦笑を受けることなく、石炭酸を原料とする黄色火薬工場ではしょうわ19年の月間では全陸軍生産量の29.6%の占有を茶褐火薬(TNT火薬)工場でも全国生産量の18.6%を占有するほどの膨大な生産量でした。時間の都合で一番の遺構である「変電所跡」に立ち寄よれなかったのが残念。

陸軍兵器廠(りくぐんへいきしょう)は、大日本帝国陸軍の機関の一つ。兵器・弾薬・機材などの補給、要塞の備砲工事を担当した。

日清戦争後の軍備拡充に対処するため、1897年(明治30年)9月、従前の砲兵方面本署・支署を廃止し陸軍兵器廠が創設された。陸軍大臣隷下の本廠を東京、大阪、門司、台湾の4箇所に設置し、各管区内の師団司令部・台湾守備混成旅団司令部・要塞などの所在地に支廠を置き統括した。

1903年(明治36年)5月、四つの兵器本廠を東京の兵器本廠に統合し、支廠を師団司令部所在地、門司・台北に置き、要塞所在地の支廠は業務を要塞司令部に移管し廃止した。
1918年(大正7年)6月、師団司令部・台湾総督府・関東都督府に兵器部が設置されたことに伴い、師団司令部等所在地の支廠を廃止し6支廠とした。また、1932年(昭和7年)8月、要塞の備砲工事業務を陸軍築城部に移管。
1940年(昭和15年)4月1日、兵器廠と陸軍造兵廠を統合し新組織の陸軍兵器廠となり、新設の陸軍兵器本部の隷下となった。また同時に兵器支廠を兵器補給廠と改称した。

 


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