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上野芝駅(JR西日本)阪和線

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上野芝駅(うえのしばえき)は、大阪府堺市西区上野芝町三丁にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線の駅である。駅番号はJR-R31。普通列車のみの停車駅としては利用者は多く、駅前にはバスが乗り入れています。

百舌鳥古墳群の南端のエリアに属し、百済川を隔てた両岸の二つの丘に古墳エリアがある。そのエリアは阪和電鉄(現在の阪和線)開通後は住宅地として開発されてきた。駅の西側のエリアは霞ヶ丘、百済川の南側のエリアは向ヶ丘と呼ばれる住宅地となっている。駅の北には日本第三位の前方後円墳である履中天皇陵が位置します。

駅構造
相対式ホーム2面2線とその間に上り下り双方向の通過線があり、待避可能な構造の地上駅で、橋上駅舎を有する。かつては待避線のない相対式2面2線のホームであり、さらに以前は下り線のみ待避線がある構造であった。また駅舎が橋上化される前には天王寺寄りに渡り線が設けられていた。以上のように、駅構造は小規模ながら変化が多い。

阪和線運行管理システムの更新前は、当駅では行先の案内が「天王寺行き」「鳳方面行き」に固定された簡易型自動放送が使用されていた。 また、橋上化以来、当駅特有の列車接近表示装置が設置されていたが、現在の装置は小型化の上、イラストが更新された2代目である。後に、この装置は下松駅にも設置された。

2010年4月に上下ホームおよび南北出口へのエレベーターが計4基設置された。エレベーター設置前は道路からホームへ直接出入りするスロープがあり、車椅子利用客は駅係員をインターフォンで呼び出し、その通路を利用していた。現在この通路は閉鎖されている。

鳳駅が管轄している直営駅である。ICカード乗車券「ICOCA」が利用することができる。切符売場には券売機は3台。指定席券売機も設置されています。みどりの窓口。窓口は昼間長時間にわたって閉鎖されます。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1 R 阪和線 下り 鳳・関西空港・和歌山方面


2 上り 天王寺・大阪方面
中央に通過線が設置されています。

利用状況
大阪府統計年鑑によると、1日の平均乗車人員は以下の通りである。2012年度には津久野駅を上回り、普通のみ停車する駅では杉本町駅に次いで利用者数が多い駅となった。しかし、2015年度は前年度を上回ったものの、再び津久野駅を下回った。

駅周辺
古墳
百舌鳥古墳群
履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)
いたすけ古墳
文珠塚古墳
乳の岡古墳
学校・教育関係
賢明学院幼稚園・小学校・中学校・高等学校
堺市立上野芝小学校
大阪府立堺支援学校
大阪府立堺聴覚支援学校
堺市立百舌鳥支援学校
堺市立北こどもリハビリテーションセンター
商業施設
西友上野芝店
万代上野芝店
まるとく市場上野芝店
松源北条店
その他
大阪府道34号堺狭山線 (泉北1号線)
バス路線
南海バス
方面ごとに乗り場が異なるので注意が必要である。

駅西口を出てすぐ左側
18系統 津久野駅前経由、堀上緑町一丁行き
駅西口を出て泉北1号線側道
18系統 南陵通一丁、塩穴通、大仙中町(旧工業学校前)経由、堺東駅前行き
駅東側ロータリー内、駅舎隣接側
3系統 中深井、堀上、小阪経由、東山車庫前行き
駅東側ロータリー内、池田泉州銀行前
3系統 南陵通一丁、塩穴通、大仙中町(旧工業学校前)経由、堺東駅前行き(18系統と同一経路)


1929年(昭和4年)7月18日 - 阪和電気鉄道の阪和天王寺駅(現在の天王寺駅) - 和泉府中駅間開業時に設置。
1940年(昭和15年)12月1日 - 阪和電気鉄道が南海鉄道と合併、南海山手線の駅となる。
1944年(昭和19年)5月1日 - 南海山手線が国有化され、鉄道省(国鉄)阪和線の駅となる。
年月日不明 - 島式・相対式2面3線のホームを持つ地上駅となる。これによって下り東和歌山方面行きが待避可能となる。


1967年(昭和42年)頃 - 普通列車の6両編成化に伴い下りの待避線を廃止しホーム長を延長した。その結果、2面2線ホームの地上駅となる。なお上り線はホーム長を延長したのみ。
1980年(昭和55年)10月1日 - 新幹線型待避構造の2面2線と通過線2線をもつ橋上駅となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。

1993年(平成5年)7月1日 - 阪和線運行管理システム(初代)導入。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。
2010年(平成21年)4月1日 - エレベーターの使用を開始。
2013年(平成25年)9月28日 - 阪和線運行管理システムを2代目のものに更新。
2018年(平成30年)
3月7日 - みどりの券売機プラスの利用を開始。
3月17日 - 駅ナンバリングが導入され、使用を開始。
4月10日 - この日をもってみどりの窓口が営業終了。

上野芝駅
うえのしば
Uenoshiba
◄JR-R30 百舌鳥 (1.3km)(1.3km) 津久野 JR-R32►
所在地 堺市西区上野芝町三丁1-1
北緯34度32分59.45秒
東経135度28分42.74秒座標: 北緯34度32分59.45秒 東経135度28分42.74秒
駅番号 JR-R31
所属事業者 西日本旅客鉄道(JR西日本)
所属路線 R 阪和線
キロ程 12.4km(天王寺起点)
電報略号 ウエ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 8,770人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1929年(昭和4年)7月18日
備考 直営駅
みどりの券売機プラス設置駅

 


中洲川端駅 福岡市地下鉄空港線・箱崎線

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中洲川端駅(なかすかわばたえき)は、福岡県福岡市博多区上川端町に所在する福岡市地下鉄空港線・箱崎線の駅であり、また、箱崎線のターミナル駅でもある。

中洲の最寄駅ですが、天神からもほど近いためか意外と利用客は多くない。空港線の駅番号はK09、箱崎線の駅番号はH01。

駅のシンボルマークは福岡市出身のグラフィックデザイナー、西島伊三雄がデザインしたもので「中」(洲)「川」(端)の2文字を法被模様にデザインしたものである。

駅構造
明治通り直下に位置し、地下1階がコンコース、地下2階が箱崎線のホーム、地下3階が空港線のホームとなっている。改札口は2箇所。


ホーム中央の2箇所に乗り換え用の階段が設置してあり、地下2階では3号車と5号車に、地下3階では2号車と4号車に接続している。


地下2階・3階共に天神方に引き上げ線があり、箱崎線内折り返し列車についてはこれを使って折り返すことが多い(一部は中洲川端止まりの列車が1番のりばに到着してそのまま折り返し貝塚行きになる列車もある)。なお空港線側の方は全く使用されていない。


のりば
階層 のりば 路線 行先 備考
地下2階 1 Subway FukuokaHakozaki.svg 箱崎線 馬出九大病院前・箱崎宮前・貝塚方面
2 Subway FukuokaKuko.svg 空港線 天神・西新・姪浜方面・箱崎線降車専用ホーム 箱崎線呉服町方面からの電車
地下3階 3 博多・福岡空港方面
4 天神・西新・姪浜・唐津方面 空港線祇園方面からの電車

利用状況
2016年(平成28年)度の1日平均乗車人員は16,381人である。このうち、空港線の1日平均乗車人員は14,331人、箱崎線の1日平均乗車人員は2,050人であり、箱崎線のみの乗車人員は同線内で最も少ない。

駅周辺
繁華街・歓楽街を形成している。
中洲
川端通商店街
大洋映画劇場
川上音二郎銅像
キャナルシティ博多
グランドハイアット福岡
福岡県赤十字血液センター(献血ルーム・キャナルシティ)
博多リバレイン
ホテルオークラ福岡
博多座
博多リバレインホール
福岡アジア美術館
博多リバレインモール
西日本シティ銀行博多支店
gate's (ゲイツ)
JRA有料制場外勝馬投票券発売所エクセル博多
競輪会員制場外車券売場サテライト中洲
博多川
福岡銀行博多支店
冷泉公園
旧冷泉小学校
西鉄イン福岡


歴史
1982年(昭和57年)4月20日 - 天神から呉服町までの延長と同時に開業。
1983年(昭和58年)3月22日 - 1号線(現空港線)が博多駅(仮駅)まで開業。

中洲川端駅
なかすかわばた
Nakasukawabata
所在地 福岡市博多区上川端町
北緯33度35分41.94秒
東経130度24分23.77秒
所属事業者 福岡市交通局(福岡市地下鉄)


駅構造 地下駅
ホーム 2面4線(重層式)
乗車人員
-統計年度- (空港線)14,331人/日(降車客含まず)
(箱崎線)2,050人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1982年(昭和57年)4月20日
乗入路線 2 路線
所属路線 空港線
駅番号 ○K09
キロ程 8.1km(姪浜起点)
◄K08 天神 (0.8km)(1.0km) 祇園 K10►
所属路線 箱崎線
駅番号 ○H01
キロ程 0.0km(中洲川端起点)
姪浜から8.1km
◄(K08 天神) (0.8km)(0.5km) 呉服町 H02►

 

V-107(CH-46)タンデムローター式ヘリコプター(ボーイング・バートル社)

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V-107(CH-46)は、アメリカ合衆国の航空機メーカー、ボーイング・バートル社が製造したタンデムローター式のヘリコプター。

 バートル社が製作した、同社唯一の実用ヘリコプターであった。バートルはパイアセッキ・ヘリコプターの流れを汲む会社で、設立間もない1956年に大型輸送機の開発に取り組んだ。機体はターボシャフトエンジン双発、タンデムローターのヘリコプターで、エンジンを胴体後方の上部に取り付け、客室の騒音軽減と面積拡大をはかり、貨物の積み込みを簡易にするため、機体後部に傾斜板式の扉をとり付けた。また、客室は完全密閉できるように処理し、水上でも安全に運用できるようにした。

バートルモデル107(V-107)と名づけられた原型機は1958年4月に初飛行し、この巨大ヘリコプターに目をつけていたアメリカ陸軍によって7月に研究用YHC-1A(後にYHC-1C)として少数が購入されたが、エンジン出力が小さかったために採用されなかった。

陸軍の不評によって注文は全く無く、そこでエンジンをゼネラル・エレクトリックのT-58-110-1に転換して出力を強化したモデル107IIを発表して、1960年10月25日に初飛行した。すると、アメリカ海兵隊が1961年に強襲揚陸作戦用ヘリコプター HRB-1 シーナイト(Sea Knight)として採用したことにより、軍民両用の機体として注目されるようになった。その後、アメリカ軍の航空機呼称が変更され、機種番号がCH-46に統合された。


バートルは1960年にボーイング社に吸収されて、同社のヘリコプター部門(ボーイング・バートル、後に完全吸収)となるが、V-107の生産は続けられ、カナダやスウェーデンなどへ輸出された。また、この機体の特徴はすぐ後に生産された弟分のCH-47によく受け継がれている。

日本での運用
日本では川崎重工業が1962年(昭和37年)5月にノックダウン生産1号機を飛行させ、1965年(昭和40年)には生産販売ライセンスを取得した。各自衛隊でKV-107として採用された他、警視庁や民間向けに販売し、日本政府による武器輸出三原則が発表されるまで海外への輸出も行った。自衛隊向けの機体は「しらさぎ」との愛称が付与されたが「バートル」と呼ばれることが多い。


日本で最も多くのKV-107ユーザーとなった陸上自衛隊は、1966年(昭和41年)4月5日-1972年(昭和47年)にかけて川崎KV-107II-4を41機購入し、同年からはエンジンを石川島播磨重工業のCT58-IHI-140(1,400shp)に換装したKV-107IIA-4を1981年(昭和56年)11月12日まで18機購入、上陸・輸送ヘリコプターとして使用した。
陸上自衛隊の機体はキャビンの床面を補強しローラーコンベアを設置し、電動ウインチを使って重機材を後部扉から引き込み搭載できるようになっている。また、胴体下面には4.5トン対応のカーゴスリングを装備し、重量物の運搬を可能としている。胴体両側には80ガロンの増槽を装備しているが、沖縄県の第101飛行隊に配備された機体は、海上自衛隊や航空自衛隊と同様に500ガロンのスポンソンタンクを装備し、一部では機首に気象レーダーを取り付ける工事を行った。また、陸上自衛隊では民間向けの旅客型に準じた仕様で、胴体側面に角窓が並ぶVIP仕様機のKV-107II-4Aも1機購入している。
陸上自衛隊の機体は日本航空123便墜落事故にも出動し、生き残った乗客を救出する姿がテレビなどで報道され、有名になった。
後継機としてCH-47J/JAが導入されると減数し、KV-107II-4Aは1996年(平成8年)4月に退役、KV-107II-4/IIA-4も2002年(平成14年)3月25日に全機が退役した。


各自衛隊の中では、最も「バートル」を長らく運用したユーザーである航空自衛隊は、S-62J、救難隊のH-19C救難ヘリコプターの後継として1967年(昭和42年)からKV-107II-5を17機導入し、18号機からはエンジン強化型のKV-107IIA-5に切り替えられ、1990年(平成2年)までに計52機が納入された。
1991年(平成3年)からUH-60Jの導入が始まったことから減数に転じ、2009年(平成21年)11月3日、入間基地の航空祭でラストフライトを行なった844号機(浜松救難隊)を最後に退役した。因みにこの844号機は2008年公開の角川映画「空へ-救いの翼 RESCUE WINGS-」の冒頭のシーンでその機体番号を含め飛行・離着陸シーンを見ることができる。
白色と黄色を基調とする救難隊のイメージ色を機体に施していた。


海上自衛隊では機雷掃海ヘリコプターとして使用するため、1963年(昭和38年)9月にKV-107II-3を2機導入した。第51航空隊において試験を行い、1972年(昭和47年)からはエンジンを出力アップしたKV-107IIA-3を1976年(昭和51年)2月まで7機、合計9機を導入した。すべて第111航空隊で運用され、余裕のあるスペースを生かして掃海のほか輸送機としても使用された。1989年(平成元年)-1994年(平成6年)にかけて後継機であるMH-53E シードラゴンが11機導入されたことにより順次退役し、1990年(平成2年)3月30日に全機除籍された。
民間
川崎重工業の系列企業が数機を購入したほか、警視庁が要人輸送・離島連絡用の特注機KV-107IIA-17を1機購入した。


性能・主要諸元
全長:25.40m(回転翼含)
胴体全長:13.66m
胴体幅:2.21m
全高:5.09m
主回転翼直径:15.24m×2
主回転翼枚数:3枚
室内長:7.37m
室内幅:1.83m
室内高:1.83m
自重:5,251kg
運用重量:4,868kg
最大離陸重量:8,618kg
全備重量:9,700kg
超過禁止速度:254km/h=M0.21(外部搭載なし:270km/h)
巡航速度:241km/h=M0.20
実用上昇限度:5,180m
ホバリング上昇限度:3,350m
航続距離:400km(増槽使用:1,100km)
燃料容量:510gal(機内350gal+増槽80gal×2)
発動機:ゼネラル・エレクトリック製 CT58-140-1 ターボシャフト×2(出力:1,400HP×2)
(川崎製)IHI製 CT58-IHI-101-1 ターボシャフト×2(出力:1,250HP×2)
武装:固定武装なし。機内に自衛・制圧用小火器の搭載は可能。
収容人数:乗員3名+乗客25名
初飛行:1958年4月22日(モデル107原型機)

伊豆箱根鉄道7000系電車

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(いずはこねてつどう7000けいでんしゃ)は、伊豆箱根鉄道駿豆線用の電車である。1991年(平成3年)と翌1992年(平成4年)に各1編成が新製された。

概要
老朽化した1000系の代替と所有車両の新性能化と冷房車比率向上と、および快速列車(一部座席指定席制)の増発目的と、当時、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線熱海・沼津・富士等への直通運転が社内で計画されたことにより新製されたもので、3両編成2本が在籍する。

直通運転が検討されていたことから、本系列の設計に際してそれらが色濃く反映された点が特徴である。ただしJRへの直通運転は2018年現在に至るまで実現しておらず、後述の通り一部の乗り入れ対策機器については既に撤去されている。

製造会社
製造は3000系および5000系と同様、東急車輛製造が担当したが、実際は東急車輛の委託で新潟鐵工所が製造した。

車両概説
外観
車体寸法等は3000系ステンレス車を基本としているが、前面デザインについては中間部で「く」の字型に折れて後退角が設けられたことで同系とは印象が大きく異なる。前面窓は支柱のない大型一枚ガラスを採用し、前面窓下には一体型ケースに収められた前照灯と後部標識灯を配置し、前面窓上部内側には行先表示幕のほか種別表示幕と列車番号表示器が配置された。また、前面下部には小型スカート(排障器)が設置されている。

側面見付については、本系列の運用目的を反映し先頭車と中間車では全く異なる仕様とされている。先頭車は従来車同様の片側3扉構造であるが、座席配置の関係から、窓配置は従来車とは大きく異なり、当時JR東海において増備中であった311系と同一とされた。中間車については、快速運用の際に指定席車両として使用することを考慮し、JR213系サハ213形に酷似した片側2扉構造とされ、乗降性を考慮し客用扉幅は先頭車の1,300mmに対し1,400mmと100mm拡大されている。また、伊豆箱根鉄道では初採用となる側面行先種別表示幕が全車に設置された。

なお、車体の配色は3000系ステンレス車と共通であり、ステンレス地に「ライオンズブルー」と称する青帯を巻いている。

主要機器
主制御装置は三菱電機製電動カム軸式抵抗制御装置ABFM-168-15MDHCと3000系二次形と同じ物を使用しているが、主電動機は、駆動方式がそれまでの3000系、5000系で採用された同社標準の中空軸平行カルダン駆動方式ではなく、静粛性の向上と保守の軽減を図るため同社初のTD平行カルダン駆動方式を採用した事に伴い、TDカルダン駆動対応である日立製作所製HS22535-08RBを搭載した。主電動機の定格出力は3000系と同一(端子電圧375V時:120kw)であるものの歯車比が異なり、本系列では15:84=1:5.60と若干高速寄りの設定とされている。

パンタグラフは東洋電機製造製PT48系で、伊豆箱根鉄道における下枠交差型パンタグラフの初採用例となった。制動装置はナブコ(現:ナブテスコ)製の発電制動併用電気指令式空気制動 (HRD-1D) である。
補助電源装置は三相交流440V 120kVAの静止形インバータ(SIV)、空気圧縮機はHS-20形(容量:2000l/min)と、3000系二次型と同じものを搭載している。

台車は電動車が住友金属工業製緩衝ゴム式空気バネ台車FS542N、制御車が同FS042Nを装備する。これは1989年ごろから西武新2000系で実用試験が行われていた緩衝ゴム式台車FS542・FS542Aを同社向けに改良したもので、型式末尾の「N」は3000系・5000系が装備するFS372N・FS072N台車と同様、伊豆箱根鉄道向け製品であることを示す。軸箱支持装置以外の形状はFS372系台車とほぼ同一であり、台車枠以上の部品については互換性を有する。なお、FS542系台車は後年西武10000系にも採用されている。

運転台機器は前述直通運転を考慮し、3000系で採用されたワンハンドル式ではなく、JR211系と同一配置の縦横軸併用ツインレバー式が採用された。先頭車の屋根部にはJR列車無線用アンテナ取付座が準備され、保安装置もJR東海のATS-ST形との切替が可能なものを搭載している。新製当初は運転室内にATS切替スイッチも装備していたが、後に撤去された。

内装
先頭車の車内 中間車の車内
先頭車の車内
中間車の車内
座席配置は、直通運転や快速運用での快適性を考慮し、伊豆箱根鉄道初のオールクロスシート仕様とされた。客用扉間には転換クロスシート[注 6]、車端部にはボックスシートがそれぞれ設置されている。

座席モケット色は、第1編成の先頭車はベージュ系、中間車は従来車と同様の赤系統のものを採用した。第2編成では先頭車・中間車とも赤・黒・グレーの3色をランダムに配している。座面形状はバケットタイプで、座席の前後間隔(シートピッチ)は910mmであり、中間車の車端部はこれより広くなっている。

中間車は連結面に貫通扉を設置し、前述のように快速運用時の指定席車両としての用途を考慮し、貫通扉窓部分に「座席指定車」の表記が加えられた。また、全車とも側窓ロールカーテンカバー部に座席番号が表示されている。

なお、第2編成では前述シートモケットの差異に加え、戸袋窓部のカーテン省略、荷棚の変更(金網構造からパイプ構造へ)、先頭車の運転室仕切上部と各車両の連結面上部にLED式車内案内表示器を新設する等の改良が施されている。

2010年10月に2編成とも3000系や新幹線700系などで使われている音色のドアチャイムが設置された。これにより、予備車の1100系を除く全ての編成へのドアチャイム設置が完了した。

入線後の経緯
数々の新機軸を取り入れ、駿豆線における次世代の代表車両となるべく登場した本系列であったが、直通運転構想が具体的進展を見なかったことや指定席需要が伸び悩んだこと、オールクロスシート仕様ゆえに乗降に不便をきたしたこと等の理由から増備は2編成で打ち切られ、以降の車両増備は再び3000系の新製によって行われることとなった。

運行開始当初は主に快速列車運用に就いていたが、1998年(平成10年)3月の快速廃止後は他形式と区別されることなく普通列車運用に就いている。なお、快速廃止と同時に指定席も廃止されたものの、中間車に設置されていた「座席指定車」表記は後年まで残されていたが、モハ7301は2007年(平成19年)に、モハ7302は2008年(平成20年)にそれぞれ貫通扉ごと撤去されている。また、2007年(平成19年)には全車の客用扉付近につり革が新設され、2008年に各車両の各ドアには車両・ドア位置案内プレートが、各車両の車端部(外側も含む)には号車表記が貼付けられた。号車表記は修善寺側から1号車・2号車・3号車となっている。

その後、駿豆線におけるワンマン運転導入計画が具体化したことに伴い、2008年(平成20年)10月までに全編成の運転台にワンマン・ツーマン切替スイッチ、戸閉め放送スイッチが新設された。2009年(平成21年)4月1日より駅収受方式によるワンマン運転が開始され、同日より運転台の右側に「ワンマン」表記プレートが設置されている。

 

「ラブライブ!サンシャイン!!」ラッピング車両
2009年(平成21年)6月24日から8月21日にかけて、沿線自治体(三島市・函南町・伊豆の国市・伊豆市)で開催される祭や花火大会をPRするヘッドマークを2編成とも装着した。第2編成ではそれらに加えて客用扉部および戸袋部へのラッピングや、中吊り広告を専用のものにするなどの装飾が加えられた。

イベント終了後、第2編成先頭車戸袋部にグループ全体での『エコ活動推進』をPRするステッカーの貼付が行われた(すでに終了)。また、同年12月12日より伊豆の国市で開催されるいちご狩りをPRするヘッドマークを装着して運行された。現在は、客用扉にセブンティーンアイスのラッピング広告が施されている。また、中吊り広告が、一日乗車券『旅助(たびだすけ)』や伊豆・三津シーパラダイスなどの、自社PR広告に変更されている。

2017年11月に施工された全般検査で、先頭車の額縁部分が、それまでの銀色(車両本体のステンレスに歩調を合わせていた)から金色に変更され、帯色も青から紺色(3000系第6編成の基調色と同じレジェンドブルー)に変更された。また第2編成は、かねてより伊豆箱根鉄道を含む西武鉄道グループ各社が協賛しているアニメ作品『ラブライブ!サンシャイン!!』の劇場版公開(2019年1月4日から)に合わせ、同作品のキャラクターを各車両にあしらったラッピング電車として2018年12月13日より運行を開始した。

一方、第1編成は、2009年(平成21年)10月12日から2010年(平成22年)3月31日まで、駿豆線沿線に近在する静岡県立大仁高等学校の90年の歴史を振り返るラッピング電車『大仁高アルバム電車』として運行された。同校のシンボルマークをあしらったヘッドマークを装着し、客用扉部にも同シンボルマークがラッピング装飾された。戸袋窓部には同校卒業生の描いた絵や撮影した写真が飾られ、中吊り広告部分には同校の90年の歴史を刻んだ写真が展示された。4月に伊豆総合高校が開校したあとこの設備は撤去され(原型に復元)、同月下旬から、客用扉と戸袋窓部に『朝日テレビカルチャー』のラッピング広告が施されていたが、2011年(平成23年)6月に施工された全般検査の際に撤去(契約期間満了のため)された(原型に復元)。この全般検査の時に正面の種別表示器と列車番号表示器が撤去され、正面と側面の方向幕が英字併記のものに交換された。

伊豆箱根鉄道7000系電車
7000系 (三島田町駅・2007年11月撮影)
7000系
(三島田町駅・2007年11月撮影)
基本情報
製造所 東急車輛製造(新潟鐵工所)
主要諸元
編成 3両編成(MT比2:1)
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1,500V
最高運転速度 100 km/h
設計最高速度 120 km/h
起動加速度 高加速SW未投入時2.4km/h/s
高加速SW投入時[注 1]3.0 km/h/s
減速度(常用) 3.5 km/h/s
減速度(非常) 4.0 km/h/s
編成定員 389名(座席176名)
車両定員 130名(座席56名)※Mc・Tc
129名(座席64名)※M
車両重量 39t (Mc・M) / 29t (Tc)
編成重量 107t
全長 20,000 mm
全幅 2,950 mm
全高 4,183 mm
台車 住友金属工業FS542N(Mc・M車)
         FS042N(Tc車)
主電動機 直巻電動機
日立製作所HS22535-08RB
主電動機出力 120 kW / 個
駆動方式 中実軸撓み板継手式平行カルダン
歯車比 15:84=1:5.60
編成出力 960kw
制御装置 発電制動併用抵抗制御
三菱電機ABFM-168-15MDHC
制動装置 発電制動併用電気指令式空気制動
(HRD-1D)
保安装置 伊豆箱根式ATS

穴部駅 伊豆箱根鉄道大雄山線

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穴部駅(あなべえき)は、神奈川県小田原市穴部にある、伊豆箱根鉄道大雄山線の駅。駅の周囲は住宅地です。

駅構造
単式ホーム1面1線を有する地上駅。線路の南側にホームがあり、ホームの飯田岡方の端に設けられた階段が出入り口となっている。

出入り口の付近に上屋と一体化した二階建ての駅舎が置かれており、無人駅だが、自動券売機と乗車票発行機が一台ずつ設置されている。

駅にはトイレはない。駅の飯田岡方には穴部駅前踏切があり、駅の北側に出ることも可能である。

ホームには階段で直接連絡します。小田原方面のホームは先端に進むに連れて幅が狭くなっています。ホームの頭上には列車近接案内が設置されています。


駅周辺
南側に県道74号が走り、北側を狩川が流れる。久野古墳群および姥神社が近い。

高齢者総合福祉施設 潤生園
路線バス
県道74号上に穴部バス停が置かれており、以下のバス路線が発着する。

箱根登山バス
関本(飯田岡・富士フイルム経由) ※ 平日3本のみ
小田原駅東口 ※ 平日のみ

1925年(大正14年)10月15日 - 大雄山鉄道開業。ただし、線路は竣工したものの当駅の施設はまだ工事中であったため、この日の運輸営業からは除外されている。
1926年(大正15年)3月31日 - 旅客運輸営業開始。

穴部駅
あなべ
ANABE
◄ID04 五百羅漢 (0.8km)(1.2km) 飯田岡 ID06►
所在地 神奈川県小田原市穴部563
北緯35度16分48.2秒
東経139度8分54.8秒座標: 北緯35度16分48.2秒 東経139度8分54.8秒
駅番号 ID05
所属事業者 伊豆箱根鉄道


所属路線 大雄山線
キロ程 3.1km(小田原起点)
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 690人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1926年(大正15年)3月31日

T-1初鷹(航空自衛隊中等練習機)

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T-1は、航空自衛隊の中等練習機。愛称は初鷹(はつたか)。レシプロ機による初等訓練を終えたパイロットが引き続きジェット機による中等訓練を行うために製作された。第二次世界大戦後初の実用国産飛行機であると同時に、初の国産ジェット練習機でもある。2006年(平成18年)3月に全機が退役した。後継機はT-4。

 

開発経緯
中等練習機国産化
1954年(昭和29年)7月1日に発足した航空自衛隊では当初、使用する機体は主力戦闘機のノースアメリカンF-86から、練習機も含めて全てアメリカ合衆国から支給されたものであった。初等練習機にT-34A、中等練習機にT-6、高等練習機にT-33Aを使用していたが、このうちT-6は第二次世界大戦期に高等練習機として用いられたレシプロ機であり、ジェット機のT-33との性能差が大きすぎるという問題があった。さらに着陸装置が戦前の尾輪式のため、離着陸時や地上での視界が両機と全く異なることなども欠点であった。

そこで防衛庁はT-6に代わる中等練習機を発足直後から検討しており、自衛隊での機体要望を12月までにはまとめ上げていたが、折りしも1956年(昭和31年)にはアメリカによる航空禁止が全面解除(1952年(昭和27年)に一部解除)されることとなっていたため、これを機に国産技術の回復を図ろうという気運が高まった。この動きはYS-11の製作に結びつくが、この際、中等練習機も国産化しようということになり、1955年(昭和30年)8月23日に航空幕僚長が防衛庁長官に空自の仕様案を提出、庁内でのアメリカ製を推す声を抑え、11月4日に国内開発を決定した。

空自が要求した仕様。
タンデム複座の中間練習機
推力1トンから1.2トンのエンジンを装備
最大速度420ノット(778km/h):制限マッハ0.85
上昇限度4万フィート(12190m)以上
上昇時間は高度3万フィート(9144m)まで13分以内
連続航続2時間
着陸速度・失速速度75ノット(139km/h)
離陸距離600m以内
制限加重 +8G
当時ライセンス生産が始まったロッキードT-33Aと比べて、エンジン推力は半分ながら、性能面では一部凌駕するものであった。

防衛庁は12月、国内の機体メーカー4社に機体を公募した。国内航空最大手の新三菱はすでに戦闘機F-86Fのライセンス生産で多忙という理由で参加せず(実際は防衛庁の開発担当者が、帝大の同窓生だった三菱の東條輝雄に、他社の技術力育成のために譲ってくれと頼んだ話がある)、川崎航空機の応募「T1K1」、新明和工業「T1S1」、富士重工業「T1F1」が翌年3月までに出揃ったため、選考に入った。「K1」と「S1」がT-33と同じ直線翼にエアインテイクが機体両脇に設置されていたのに対し、「F1」はF-86を意識した鋭角な後退翼とエアインテークを機首に配置するなど、機動性が高いと考えられたため、7月11日にT1F1の採用を決定した。

富士重工の開発
内藤子生技師を主務として設計と実機製作に取り掛かったT1F1だが、富士重工業が旧中島飛行機であるとはいえ、航空再開から4年、富士重工設立から3年しか経っておらず、また、第二次世界大戦中に同じく中島飛行機が海軍の発注を受けて開発し量産を進めていた「橘花」を除けば、ジェット機開発の経験など無かった。

試作のための研究と試験には、国内メーカーと国公立の研究所の協力体制がとられ、ライセンス生産をしていたF-86FとT-33Aのノウハウが大きな助けとなった。また、国内の航空研究設備の多くが戦後解散し、機材も分解してしまったため、アメリカ・コーネル大学の風洞設備を借りて遷音速時の空力特性研究を行うなど、研究開発は苦難に満ちたものだった。同時に、米軍のレシプロ練習機T-28Bと英軍の練習機 DH-T55 バンパイアを一機ずつ購入し、操縦特性や構造、装備品、バンパイアで並列複座の得失について徹底的に検証した。

搭載するエンジンは、国内5社共同出資で設立した日本ジェットエンジン社(NJE)が開発中である推力1,200kgの「XJ3」の予定であったが、製作が遅れていることが明らかになり、防衛庁の求める納期に間に合わなくなってしまった。このため富士は、試作1号機に英国ブリストル社製・オーフュースMk.805エンジン(推力1,815kg)を搭載してT1F2とし、試作1号機(82-5801)は1958年(昭和33年)1月16日に初飛行(テストパイロットの高岡迪1等空佐は終戦直前に「橘花」の初飛行も勤めた)これを3月25日に防衛庁に納入し、3月13日に初飛行した2号機(82-5802)以降、6号機までが防衛庁での試験に供された。この試験でいくつかの不具合が改良され、T-1Aと名づけられた機体は、1962年(昭和37年)6月までに量産機と試作機あわせて46機が配備された。


1960年(昭和35年)にはNJEの国産ターボジェットエンジン「J3」が完成したので、T1F2の試作1号機(05-5801:元02-5801)のエンジンをJ3に転換して5月17日に初飛行した。J3はNJEから石川島播磨重工業による量産体制に移り、T1F1試作2号機はT-1Aの10号機(05-5810)をJ3に転換したものとなった。これが1962年(昭和37年)まで試験に供され、T-1Aに代わって量産体制に移った。純国産機であるT1F1量産型は、1963年(昭和38年)7月12日の完納式までに20機が納入され、T-1Bとなった。

なお、1962年からF-104J/DJ戦闘機の導入によって教育体制が変わり、米軍の無償供与とライセンス生産効率化によって大量配備され、278機(212機が国産)もの大所帯となったT-33Aが中等練習機に格下げされたため、T-1は総勢66機の導入にとどまった。


配備
旧型レシプロ機のT-6から最新鋭ジェット機への転換には、いくらかの準備を必要とした。まず、1959年(昭和34年)7月から宇都宮基地第13飛行教育団の整備隊員を、岐阜基地の実験飛行隊に派遣してT-1Aの整備訓練を行い、9月からは飛行教官を派遣して教官の飛行訓練を行った。

1960年(昭和35年)8月1日付で第13飛行教育団第1飛行教育隊が宇都宮から岐阜に移転し、T-1Aによる飛行訓練を開始した。第1飛行教育隊は1961年(昭和36年)2月1日付で岐阜飛行教育分遣隊に改編され、本格的な操縦訓練が行われたが、1962年(昭和37年)3月15日には宇都宮の教育飛行群全てが岐阜へ移動して分遣隊は廃止され、第1飛行教育隊に統一した。岐阜で訓練の基礎を固めた第13飛行教育団は、1960年(昭和35年)11月に在日米軍から返還された、福岡県の芦屋基地に1962年(昭和37年)9月からT-1Aの移動を開始した。また、最後まで宇都宮に残っていた第13飛行教育団司令部も同時に芦屋に移り、10月までに全ての移動を完了した。続いて芦屋ではT-1Bの受領を開始、機体の増加によって第2飛行教育隊が編成され、A/B合わせて芦屋基地での教育運用が開始された。

また、T-1は少数ながら岐阜の実験航空隊(実験飛行団を経て、現・飛行開発実験団)、浜松基地の第1術科学校にも配備され、1982年(昭和57年)9月からは小牧基地の第5術科学校に芦屋からT-1Bが10機ほど配備された。このT-1Bは増槽を標準装備しているのが特徴であった。

退役
後継機の川崎T-4の就役に伴い、1998年(平成10年)8月より第13飛行教育団にT-4が配備され、1999年(平成11年)6月に第1飛行教育隊がT-4に機種改変、2000年(平成12年)12月にはT-1による飛行教育が終了し、2001年(平成13年)2月1日にT-1Aが全機退役し、第2飛行教育隊もT-4に改変され、残ったT-1Bは第5術科学校に移動した。T-1Aのうち1996年(平成8年)9月10日用途廃止初号機である25-5841号機は製造会社である富士重工業宇都宮製作所に展示されている。

2004年(平成16年)1月13日に35-5866号機が宇都宮飛行場にて航空自衛隊へ引き渡され、T-1Bの定期修理(IRAN)が終了した。2006年(平成18年)3月3日、最後に残った第5術科学校の3機と飛行開発実験団の1機が小牧基地でラストフライトを行い、T-1Bも全機が退役した。このうちの1機25-5856号機は埼玉県の所沢航空発祥記念館に展示されている。また、芦屋基地には第13飛行教育団の機体が2機正面門前に展示されている。群馬県太田市の富士重工業太田矢島工場には第5術学校所属の機体が展示されている。飛行開発実験団の機体は岐阜県のかかみがはら航空宇宙科学博物館に展示されている。

機体
主翼は低翼配置で25パーセント翼弦、26度46分の後退翼となっており、中島飛行機時代の「彩雲」などに使用された中島Kシリーズ層流翼型の発達型である。厚い主翼には十分なタンクスペースが確保されている。新しい後退翼理論を取り入れた水平尾翼は34度15分、垂直尾翼は33度18分の後退角がついており、音速に近づいて衝撃波が発生しても尾翼の効きが残る。やや前方に出たドーサルフィンを持つ垂直尾翼と上反角を持つ水平尾翼の組み合わせにより、良好なスピンリカバリーをもたらしている。

空気流入効率と全面抵抗減少を狙ってエアインテーク(空気取り入れ口)は機首にある。軽量化のために細くした胴体は装備品の搭載にしわ寄せが来てしまい、また、体の大きなパイロットには窮屈になってしまった。しかし抵抗が小さいため加速力と上昇力ではT-33A練習機を上回り、操縦性や離着陸特性も数段勝っている。

電子機器は価格を抑えるためにF-86F戦闘機およびT-33Aと同じ既製品を使用している。また、キャノピーと射出座席、降着装置はT-33Aと同じ、増槽はF-86Fと同じ120ガロンのものを流用した。A型のオーフュースエンジンは出力が大きく、性能も良いが、その分J3よりも多くの燃料を消費したため、T-1Aは常時増槽を装着して飛行することとなり、これがT-1AとT-1Bの外見上の大きな識別点となった。B型は当初、長距離飛行の場合を除いて増槽は設置しなかったが、後にA型同様、通常装備となった。

射出座席は当初マーチンベーカー製であったが、後にT-33共々安全性を高めた国産型に転換された。この国産射出座席開発に際しては、1966年(昭和41年)から岐阜基地で行われた射出実験の成果が投入されている。実験は岐阜基地の滑走路南で実施。鉄道用レール(新幹線のロングレール採用)とトロッコによるロケットスレッドが用意され、T-1Aの試作4号機(#804)の胴体前部をトロッコに括り付け、F-86の武装であるロケット弾44発(弾頭なし)を推進剤にして、地上滑走を再現した。機体の射出座席には平均的な日本人男性のダミー人形2体(衝撃計測機器付き)が乗せられ、トロッコの低速走行中に空中へ射出、パラシュートで地上へ帰還する試験を7度行った[1]。試験で実用化された射出座席への改修により、ゼロ高度・低速度(地上滑走中)での安全な脱出が可能となった。なお、改修費用は1機あたり500万円(当時)であった。また、#804は試験終了後に復元された。

T-1B型は、1965年(昭和40年)に推力を1400kgに増強したJ3-IHI-7が完成したため、B型全機がこのエンジン(後にはJ3-IHI-7B)に転換し、正式名はT-1B-10となっている。しかし、T-1B全機が改修対象だったため、特に区別する必要も無く、この名称は一般には浸透しなかったようである。

この機体は練習機であるため武装はないが、射撃訓練用に機首右下に12.7mm重機関銃1門を装備できた。また、有事の際には翼下にサイドワインダー空対空ミサイルや爆弾やガンポッドなどを搭載できるようになっていた。計画のみに終わったが、F-104のレーダーを機首に搭載してFCS訓練機とした型も検討されていた。

スペック
乗員 - 2名
全長 - 12.12m
全幅 - 10.49m
全高 - 4.08m
翼面積 - 22.22m2
空虚重量 - 2,858kg
エンジン
T-1A:ブリストル オーフュース ターボジェット×1基
T-1B:IHI J3-IHI-7B ターボジェット×1基
出力
T-1A:1,815kg
T-1B:1,400kg
最大速度 - M08.0または503kt/4.572m
巡航速度 - M05.5または340kt/6.096m
失速速度 - 84kt/着陸時、海面上昇率1.981m/mm
実用上昇限度 - 13.564m
航続距離 - 850km
離陸/着陸距離 - 離陸853m/着陸1.052m
武装
固定武装無し(12.7mm重機関銃1門の装備可)
翼下に対地ロケット弾×4または空対空ミサイル×2装備可

用途:中等練習機
製造者:富士重工業
運用者:航空自衛隊
初飛行:1958年1月19日
生産数:66機
運用開始:1960年8月1日
退役:2006年3月3日
運用状況:全機退役

 

ひろしま観光ループバス「ハローキティ新幹線 ラッピングバス」(ひろしまめいぷる~ぷ)SKG-LR290J2

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いすゞ・エルガミオ

エルガミオ(ERGA Mio)は、ジェイ・バスが製造し、いすゞ自動車が販売している路線用中型バス。開発はいすゞ自動車が行っているが、いすゞ自動車と日野自動車のバス製造事業統合により、現在は日野・レインボーとの統合車種となっている。
エルガミオの車名の由来は次の通り。エルガとはラテン語で「~に向かって」と言う意味を持ち、新たな時代に向かって走り始めた路線バスをイメージして名付け、ミオとは英語のminiとフランス語のmiocheの造語で、大型に対して一回り小さいことを示す。

登場時
エルガミオと部品が共通化されている。
1999年6月23日、日本の長期規制(平成10年排出ガス規制)に合わせジャーニーK(LR)をフルモデルチェンジして発売された。外観の変更点としては、全体的に四角く、コーナーに丸みを帯びたボディーとなったほか、視認性向上のためにヘッドランプが変更され、ジャーニーKの横置きから縦置き4灯式(左右2段ずつ)になった。翌年にフルモデルチェンジされた大型路線バス・エルガも同様のデザインであるが、これは部品共通化に伴うコスト削減を視野に入れたものである。

フルモデルチェンジと同時にラインナップに変更が加えられた。床形状やホイールベースとしては、「ノンステップバス」・「CNGノンステップバス」・コミュニティーバスへの対応を前提とした「7m級ワンステップバス」(ホイールベース (WB) 3.4m)が追加された一方、ツーステップバスは観光用・自家用が別の車種「ガーラミオ」になったため、路線用車両がオプション設定されるのみとなった(2004年8月で消滅)。

これらのラインナップの変化により、床形状はノンステップ・ワンステップ・ツーステップ(路線仕様)の3種類、ホイールベースは4.4m(J尺)・3.75m(F尺)・3.4m(E尺)の3種類となった。なお、ノンステップバスに関しては、その当時はいろいろな構造の車両が入り乱れていたが、エルガミオは中扉以降を段上げする構造をとっている。

サスペンションにも変更が加えられ、乗り心地が良くニーリングによって停留所で車高を調整して乗降が楽に出来る、エアサスペンションが標準仕様化された。それまで、ジャーニーK時代にはエアサスペンションはノンステップ車のみの採用であったが、モデルチェンジを機にワンステップ車にも採用が拡大された。これにより、リーフサスペンション車はオプション設定とされた(2002年に廃止)。

環境の面では、アイドリングストップ装置を国内の中型路線バスで初めて採用した。トランスミッションはディーゼルエンジン車はワンステップバス・ノンステップバスともにマニュアル車(ACT車)とオートマチック車(AT車)がある。CNG車に関しては5速MT車であったが、PDG-LR系からは5速AT車となっている。
2004年頃から日本のバス車両メーカー間でのOEM供給が進み、2010年の西日本車体工業の解散と日産ディーゼル(現UDトラックス)のバス部門撤退により、日産とOEM供給提携が行われていた三菱ふそうトラック・バスが独自に中型車(エアロミディ)製造を復活させるまでの約1年間は、国内バスメーカーで製造される唯一の中型バスモデルであった。

登場後からの大きな変更点
日野へ供給されるレインボーIIはほぼ同一の車種である。
登場後は一転して、ラインナップの減少やコスト削減を目的とした仕様の統一が目立つ。2001年に全長7m級・WB3.4mのワンステップバスが早くも生産中止となったほか、2002年にはメーカー標準仕様・「ERGA-VP」の設定によりリーフサスペンション車が、2004年にはWB3.8m(F尺)車が、2005年8月にはツーステップバスがそれぞれ生産中止となった。これらによりラインナップが整理され、WB4.4m(J尺)のノンステップバス・ワンステップバス・CNGノンステップバスのみになり、現在に至る。
なお「ERGA-VP」は、どの事業者でも使いやすい仕様にし、部品を共通化してコスト削減を図る取り組みで、現在に至るまで採用されている。名前のように、大型路線バス・エルガでも同様の施策が施されている。
その一方、いすゞ自動車と日野自動車のバス製造事業統合に伴い、製造会社がいすゞバス製造からいすゞ・日野合同資本のジェイ・バスへと移り、現在は一部の例外を除きジェイ・バス宇都宮事業所(旧いすゞバス製造)にて製造が行われている。また、いすゞ・日野間では車種の統合が行われ、エルガミオは日野に「レインボーII」として供給されている。初期(PA-KR系)はいすゞから日野へのOEMという扱いだったが、PDG-KR系からは統合車種という位置づけになっている。


2代目
SKG-LR290J2
エルガミオとレインボーはこの世代より両社の統合車種(OEM時代を除く)のディーゼルノンステップ中型路線バスとしては初めて外観が統一された。
2016年4月5日に17年ぶりにフルモデルチェンジし、発売。搭載エンジンは2ステージターボ付き直列4気筒の4HK1-TCN(154kw/210ps)にすることによって平成27年度燃費基準を達成するとともに、ポスト新長期排出ガス規制に適合。前年8月にデビューした新型エルガ(QKG/QRG-LV290N1/Q1)と同様にAMT(自動クラッチマニュアルトランスミッション)を採用した。ちなみにこちらはエルガと違い、トルコン式ATの設定はない。
6月24日、一畑バスに第1号車が導入された。その後各地への導入が進んでいる。

登録年:2017年6月
全長:8.99m
全幅:2.3m
全高:3.04m
ホイルベース:4.4m
エンジン出力:210PS
車両総重量:11,215KG
乗車定員:55人(運転席を含む)

穴生駅 筑豊電気鉄道筑豊電気鉄道線

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穴生駅(あのおえき)は、福岡県北九州市八幡西区穴生一丁目にある、筑豊電気鉄道筑豊電気鉄道線の駅である。駅番号はCK05

駅周囲には高層の集合住宅が多い。


駅構造
相対式ホーム2面2線の高架駅。駅高架下はスーパーマーケットになっている。開業当初は地上駅だったが、駅近くの踏切が渋滞の原因となっていたため、1982年(昭和57年)に高架化された。

無人駅だが、ホーム入口の中2階には定期券発売所が設置されている。

のりば
ホーム 路線 行先 備考
1 ■筑豊電鉄線 永犬丸・楠橋・筑豊直方方面
2 黒崎駅前方面

ホームに上屋が全面に設置され、FRP製の椅子が多数設置されています。

駅前の駐輪場は利用状況が高い様子。


駅周辺
駅周辺は中高層マンションや公共施設が多く建ち並ぶ。
福岡県道11号有毛引野線 - 駅直下を縦断する4車線の主要地方道。
サンク穴生店 - 駅1階のテナントとして入居。
北九州市立穴生小学校
北九州市立八幡特別支援学校
独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構福岡支部福岡職業能力開発促進センター(愛称:ポリテクセンター福岡)
北九州市立萩原小学校


九州地方整備局八幡維持出張所
八幡図書館大池分館
福岡法務局八幡出張所
福岡県北九州赤十字血液センター
北九州市消防局八幡西消防署
西鉄バス北九州八幡自動車営業所
Aプライス穴生店
福岡ひびき信用金庫穴生支店
八幡穴生郵便局
北九州農業協同組合本店・穴生支店

利用状況
2013年度の1日平均乗降人員は1,310人である。

1956年(昭和31年)3月21日 - 駅開業。
1982年(昭和57年)11月17日 - 駅が高架化される。

 

穴生駅
あのお
Anō
◄CK04 萩原 (0.6km)(0.5km) 森下 CK06►
所在地 北九州市八幡西区穴生一丁目
北緯33度51分26.98秒
東経130度44分41.73秒
駅番号 CK 05
所属事業者 筑豊電気鉄道
所属路線 筑豊電気鉄道線
キロ程 2.3km(黒崎駅前起点)
駅構造 高架駅
ホーム 2面2線
乗降人員
-統計年度- 1,310人/日
-2013年-
開業年月日 1956年(昭和31年)3月21日
備考 無人駅


柏駅(JR東日本)

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柏駅(かしわえき)は、千葉県柏市柏一丁目および末広町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東武鉄道の駅である。

JR東日本の常磐線と、東武鉄道の東武アーバンパークライン(野田線)が乗り入れ、接続駅となっている。JR東日本の駅には、快速線を走る特急・中距離電車および常磐線快速電車と、緩行線を走る常磐線各駅停車が停車する。

 

駅構造
改札は当初からある北側の中央口と、東武は1992年(平成4年)4月、遅れてJRは1999年(平成11年)4月に開設した南口の2か所にある。

駅舎は中央口側は通路と一体のものが双方にあり、双方の通路を接続することで東口・西口を相互に利用している。一方南口は1本の跨線橋に両社の駅舎を接続する形を取っている。JRと東武の改札内は完全に分離されており、連絡改札口も存在しないため、双方の改札口を通らないと乗り換えができない。

構内は双方が接しており、同じ向きに線路とホームが並んでいる。

なお、西口の出入口は駅名に東武・JRの2社表示があるのに対し、JR管理の東口の出入口はJR東日本のロゴのみで東武の表示がないが、既述の通り両社の駅舎は事実上一体であるため、東口もJRコンコース経由で東武コンコースにつながっている。

JR東日本
島式ホーム2面4線を有する地上駅で、橋上駅舎を有している。駅番号は快速と各駅停車でそれぞれ「JJ 07」「JL 28」が付与される。

改札口は中央口と南口のほか、朝ラッシュ時限定の3・4番線(快速)ホーム直結の入場専用改札が中央口改札側(自動券売機の左側)にある。

2005年7月9日のダイヤ改正より朝ラッシュ時の上りを除く「フレッシュひたち」の全列車と上り「スーパーひたち」1本が停車するようになり、3・4番線ホームに自由席特急券券売機が設置されていたが、2015年3月14日のダイヤ改正で新たな着席サービスの開始(自由席の廃止)に伴い、2015年3月6日から新型の指定席券売機が設置され、自由席特急券券売機は使用停止となった。設置場所も11号車付近から、8号車付近に移設されている。なお、現在の特急停車は夜の下り1本と朝ラッシュ時の上りを除く「ときわ」全列車と下りの「ひたち」1本となっている。

中央口前にみどりの窓口・びゅうプラザがある。なお、南口券売機横にあったみどりの窓口は2006年7月に営業を終了し、その役目を指定席券売機や中央口のみどりの窓口に譲っている。自動改札機はSuica・PASMOおよびSuicaと相互利用を実施している各ICカードに対応している。

緩行線は北柏方に留置線が1本あり、松戸・綾瀬方面へ折り返すことが可能である(毎日朝夕に、当駅折り返しの常磐線各駅停車が設定されている)。なお、1番線の当駅始発列車は我孫子方面発よりもわずかに南柏寄りに停車し、整列乗車位置を分けている。

快速ホームは、利用客増加に伴い1998年7月12日にホームの拡幅工事が行われ、4番線側が広げられた。このため、3番線側は階段の壁とホームの端までのスペースが狭いままの箇所がある。また、10両編成の快速・特別快速は上野寄りに詰めて停車する(中央改札口そばの階段下が10号車の停車位置に当たる)。

複々線化工事前は、2面2線に、貨物列車用の中線1線のみ存在するシンプルな構造の駅であった。

事務管コードは▲441112。

のりば
当駅は快速線と緩行線の線路別複々線区間内にあり、1・2番線が各駅停車専用で、3・4番線が快速専用のホームとなっている。

番線 路線 方向 行先
1 常磐線(各駅停車) 上り 新松戸・綾瀬・西日暮里・大手町・代々木上原方面
2 下り 北柏・我孫子・取手方面
3 常磐線(快速) 上り 松戸・日暮里・上野・東京・品川方面
(上野東京ライン)
4 下り 我孫子・天王台・取手・成田・土浦・水戸方面
上野東京ライン開業に合わせて、2・4番線はほぼ全面的に放送が更新され、1・3番線は埼京線で導入されている放送に一部更新された。

備考

3・4番線ホームにはSuicaグリーン券自動券売機・指定席券売機がそれぞれ設置されている。

JR東日本 - 2017年度の1日平均乗車人員は125,354人である。
同社の駅では武蔵小杉駅についで第27位、常磐線のみのJR駅では、北千住駅に次ぐ2位、千葉県内の駅では船橋駅、西船橋駅に次いで3位である。取扱収入ではJR東日本で第17位で、千葉県内では第1位である。


1972年(昭和47年)に当時の日本国有鉄道(国鉄)が実用試験として自動改札機を当駅に設置。国鉄としては中央快速線国立駅・武蔵小金井駅に次ぐ3番目の導入である。試験終了後は撤去された。
常磐線の複々線化当初、快速線ホームは設置されておらず、利用客の利便性の低下において国会で激しい追及を受けたため、新たに快速線ホームが設置され、1972年10月2日から快速電車が停車するようになった。
快速電車が停車するようになった1972年当時の国鉄側コンコース内の広さは、幅21m、奥行き15mで、階段4か所、階段の幅は3.8mであった。
この拡張前のコンコースは狭いことで知られており、1984年(昭和59年)4月19日には大混雑でけが人が出る騒ぎとなった。朝のラッシュ時間帯は改札制限を行い、駅員14人が改札内外で整理を行っていたが押し寄せた乗客によって改札ボックスに押しつけられ負傷した。同年3月7日には当時の国鉄総裁・仁杉巌がピーク時の当駅を視察した。
常磐線 - 武蔵野線方面の臨時急行列車(ぶらり鎌倉号(現:ぶらり横浜・鎌倉号)、わくわく舞浜・東京号(現:快速「舞浜・東京ベイエリア号」)など)が停車していた時期もあったが、2013年3月15日まで「フレッシュひたち」の定期列車として使用されていたE653系を使用していたため誤乗が絶えず、途中から当駅通過のダイヤに変更された。これは485系に変更されてからも継続された。ただし、快速「ぶらり高尾散策号」はE653系を使用していた頃も含め、柏駅停車を継続している。また、「フレッシュひたち」は2013年3月より基本的にE657系での運行に変更されたこともあり、「ぶらり鎌倉」についても、2014年から当駅への停車が復活し、2015年春季以降上野東京ライン経由となった「ぶらり横浜・鎌倉号」も引き続き停車する。なお、「舞浜・東京ベイエリア号」は引き続き通過している。

(明治29年)12月25日 - 日本鉄道の柏駅が開業。
当時、当駅一帯は「千代田村」「柏村」といった地名があったが、当時「千代田」は千代田城、つまり現在の皇居を示し「畏れ多い」とされる言葉だったため「柏」を採用したという経緯がある。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により常磐線の所属となる。
1911年(明治44年)5月9日 - 千葉県営軽便鉄道野田線の駅が開業。
1923年(大正12年)- 12月27日 - 北総鉄道船橋線の駅が東側に開業。
1930年(昭和5年)8月30日 - 総武鉄道船橋線から野田線柏駅への連絡線を設け、船橋線の柏駅を野田線柏駅に統合。
1948年(昭和23年)4月16日 - 東武鉄道野田線と船橋線を統合、野田線となる。
1956年(昭和31年)12月27日 - 西口を開設。
1965年(昭和40年)10月 - 混雑緩和のため当駅折り返しが新設される。
1970年(昭和45年)4月20日 - 貨物取り扱いを、東武野田線からの貨車継承を除いて廃止し、北柏貨物駅に移管。同時に、常磐線複々線化工事に着手。
1971年(昭和46年)
4月1日 - 橋上駅舎(現在の中央口)完成。
4月20日 - 国鉄常磐線複々線化。ただし快速線にホームは設置されず。
1972年(昭和47年)
6月28日 - 自動改札機を設置(国鉄初の、利用者を限定しない実用試験運用、試験終了後撤去)[2][注釈 2]。
10月2日 - 国鉄常磐線の快速線ホーム設置で快速電車が停車するようになる。
1973年(昭和48年)6月30日 - この日限りで自動改札機の試験を終了。
1979年(昭和54年) - 東武鉄道の駅に駅ビル「柏ローズタウン」(現・柏高島屋ステーションモール)が開業。
1980年(昭和55年)10月1日 - 客車列車を除く普通列車がすべて停車するようになる。
1984年(昭和59年)
東武鉄道野田線の貨物列車廃止。
1月 - 国鉄駅舎の増改築工事開始。
12月 - 国鉄柏駅の駅舎増築完成。コンコースの奥行きを30m拡張し、ホーム階段を4つから6つになった。
1986年(昭和61年)11月1日 - 国鉄特急列車(「ひたち」)の一部が停車するようになる。
1987年(昭和62年)
2月20日 - 東西自由通路(現在の南口がある橋)が完成。
4月1日 - 分割民営化に伴い、国鉄の駅はJR東日本が継承。
1992年(平成4年)
4月23日 - 東武柏駅に南口を開設。
12月22日 - JR柏駅で自動改札の供用を開始する。
1998年(平成10年)7月12日 - JR常磐線の3・4番線ホームを3m拡幅。
1999年(平成11年)4月8日 - JR柏駅に南口を開設。
2005年(平成17年)7月9日 - JR特急列車「フレッシュひたち」の千葉県内停車駅を柏に統一。朝の上り一部を除くすべての「フレッシュひたち」が停車。特別快速新設に伴い、停車駅となる。
2007年(平成19年)3月10日 - 東武柏駅に発車メロディを導入。
2011年(平成23年)7月23日 - 東武柏駅の番線表記が変更。
2015年(平成27年)
2月7日 - 東武柏駅の1番線・2番線でホームドアが稼働開始。
3月14日 - 東武柏駅の3番線・4番線でホームドアが稼働開始。


JR東日本 柏駅
かしわ
Kashiwa
所在地 千葉県柏市柏一丁目1-1
北緯35度51分44秒
東経139度58分15.8秒座標: 北緯35度51分44秒 東経139度58分15.8秒
所属事業者 東日本旅客鉄道(JR東日本)
電報略号 カシ←カシワ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 125,354人/日(降車客含まず)
-2017年-
開業年月日 1896年(明治29年)12月25日
乗入路線 2 路線
所属路線 ■■常磐線(快速)
駅番号 □JJ 07
キロ程 26.9km(日暮里起点)
上野から29.1km
◄JJ 06 松戸 (11.2km)(4.4km) 我孫子 JJ 08►
所属路線 ■常磐線(各駅停車)
駅番号 □JL 28
キロ程 26.9km(日暮里起点)
綾瀬から19.2km
◄JL 27 南柏 (2.4km)(2.3km) 北柏 JL 29►
備考 2路線とも正式名称は常磐線
直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有

C56形蒸気機関車(C56 92)

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C56 92:鹿児島県出水市肥薩おれんじ鉄道出水駅西口。同市内の総合運動公園から2008年3月に移設。

C56形蒸気機関車(C56がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が製造した小型軽量テンダー式蒸気機関車である。愛称はシゴロク、シーコロ、または高原のポニーである。

本線より著しく低規格な簡易線には、大型機関車は入線できない。このためまず短距離線区向けには1932年(昭和7年)にタンク式のC12形が開発された。軽量で前後進の容易な小型機である。

しかし比較的長距離の線区では、C12形では石炭と水の搭載量が少ないので、運用に適さない。このためC12形から水槽と炭庫をはずし、テンダー式に設計しなおされたのがC56形で、両形式は共通部分の多い系列設計となっている。これは制式蒸気機関車系列化の先達であるドイツにおいて支線区向けに設計された、64形タンク機と24形テンダ機の設計手法を参考にしたと思われる。両形式は形態もC12形、C56形にそれぞれ類似している。

当時は簡易線には、転車台が設置されている箇所が少なかった。C12形はタンク機関車のため逆機は容易であるが、C56形はテンダー機関車のため後方が見にくくならないよう、テンダーの炭庫側面を大きく欠き取って後方視界を確保したスタイルが特徴的である。しかし、実際にはC12形と異なり従輪がなく、逆機時の走行特性が著しく低下した。これが原因で脱線が多発したため、低速での入換を除けば逆機はあまり行われなかったといわれている。

製造
鉄道省向けとしては、1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)までの間に160両が製造されている。製造メーカーは川崎車輛、汽車製造会社、日立製作所、日本車輌製造、三菱重工業の各社である。このほかに、樺太庁鉄道向けに4両、民間向けに1両が製造されている。

C56形が使用されていた各地の簡易線では、後継のディーゼル機関車がなかなか実用化されなかったのが幸いし、比較的晩年まで貨物列車牽引用に残っていた。しかし、簡易線区用に開発されたDD16形ディーゼル機関車が貨物牽引用に投入・置き換えが始まった。

特筆事項の一つとして、SLブームの1972年10月、鹿児島本線でのお召し列車牽引(91+92号機)がある。92号機は半年後の1973年4月に、日南線でC11 200との重連で再びお召し列車を牽引した。

1973年(昭和48年)夏に、小海線でC56形が2ヶ月間復活した(臨時列車「SLのべやま号」、中込駅 - 小淵沢駅間)。小型軽快で高原地帯を走る姿が小馬(ポニー)を連想させ、「高原のポニー」と呼ばれた。これ以降「ポニー」がC56形の愛称になった。

1974年(昭和49年)、三江北線の貨物列車牽引を最後にC56形は定期運用を退いた

 

国内残存のC56形
戦後に国内に残った68両の本形式は大規模な配置換えが行われ、北陸地方、甲信越地方、中国地方、九州地方で使用された。使用線区は、小海線・飯山線・大糸線・越後線・七尾線・三江北線・木次線・妻線・宮之城線・山野線。ほかにも北海道や横浜などでも、ごく少数が入換用に使用されていた。

運用路線に閑散線区が多かったことや限られた牽引力から、優等列車牽引にはほとんど用いられなかったが、木次線では1953年(昭和28年)から1959年(昭和34年)まで陰陽連絡の快速列車「ちどり」運用を線内全線通しで担った。

北海道では90両が供出される以前は本形式が多数配置され、各路線で主力機として運用されていたが、供出後の配置換えで数両のみ残り、その後はC11形に取って代わられた。晩年は入換用として過ごし、本州のC56形より一足早く1960年代には姿を消した。


運用者 鉄道省→日本国有鉄道
製造所 日立製作所、三菱重工業
川崎車輛、汽車製造
日本車輌製造
製造年 1935年 - 1939年
製造数 160両
引退 1974年
愛称 シゴロク、シーコロ、ポニー
主要諸元
軸配置 1C
軌間 1,067 mm
全長 14,325 mm
全高 3,900 mm
動輪上重量 31.76 t
総重量 65.53 t
動輪径 1,400 mm
軸重 10.61 t(第3動輪)
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 400 mm × 610 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 14.0 kg/cm2
大煙管
(直径×長さ×数) 127 mm×3,200 mm×16本
小煙管
(直径×長さ×数) 45 mm×3,200 mm×68本
火格子面積 1.30 m2
過熱伝熱面積 19.8 m2
全蒸発伝熱面積 74.2 m2
煙管蒸発伝熱面積 54.4 m2
火室蒸発伝熱面積 7.4 m2
燃料 石炭
燃料搭載量 5.00 t
水タンク容量 10.0 m3
制動装置 自動空気ブレーキ
最高運転速度 75 km/h
最大出力 592 PS
定格出力 505 PS
シリンダ引張力 8,290 kg
粘着引張力 7,940 kg

 

 

黒川駅(名古屋市営地下鉄名城線)

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黒川駅(くろかわえき)は、愛知県名古屋市北区城見通3丁目にある、名古屋市営地下鉄名城線の駅である。

駅番号はM09。駅周辺は区役所をはじめとして行政機関が集中し、各方面へのバス路線が集中する北区の中心駅で、乗降客数は区内の駅では突出しています。

島式1面2線ホームをもつ地下駅。ホームにはコンビニエンスストア(サークルK)がある。

使用されることはないが大曽根側には非常用の渡り線がある。
当駅は、名城線西部駅務区栄管区駅が管轄している。

切符売場には券売機が3台とICカードチャージ機が1台設置されています。改札口には狭い間口に改札機が4台設置されています。ICカード専用機はありません。

のりば
ホーム 路線 方向 行先
1 名城線・名港線 左回り 栄・金山・新瑞橋・名古屋港方面


ホームは主要駅らしく幅は広くゆとりのある造りです。
2 名城線 右回り 大曽根・本山方面


なお、1992年(平成4年)運輸政策審議会答申第12号においては、新設の地下鉄金山線が黒川駅へ接続することが計画されている。

駅周辺
北区の行政施設が集まる。交通上も区北部へのバスが出る交通の要所である。


北区役所
愛知県北警察署
北生涯学習センター
名古屋北税務署
名古屋北年金事務所
名古屋市交通局協力会本部
名古屋市北図書館
名古屋市立金城小学校


黒川バスターミナル
名古屋北郵便局
三菱UFJ銀行黒川支店
名古屋銀行黒川支店
愛知銀行黒川支店
大垣共立銀行黒川支店
百五銀行黒川支店
環状線(名古屋市道名古屋環状線)
愛知県道102号名古屋犬山線
空港線(国道41号)
名古屋高速1号楠線
ネックス・プラザ(名古屋高速道路広報資料センター)
葬儀会館ティア黒川
名古屋市立八王子中学校
アピタ名古屋北店
株式会社福丸商会
名古屋カレーうどん店「本店 鯱乃家」(旧称「若鯱家」

1971年(昭和46年)12月20日 - 開業。

駅番号 ○M09
所属事業者 名古屋市交通局
(名古屋市営地下鉄)
所属路線 名城線
キロ程 2.8km(大曽根起点)
駅構造 地下駅


ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 14,205人/日(降車客含まず)
-2016年-
乗降人員
-統計年度- 28,162[1]人/日
-2016年-
開業年月日 1971年(昭和46年)12月20日

N-62 イーグレット(軽飛行機)日本大学工学部・伊藤忠航空整備

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海外メーカーが独占していた第二次世界大戦後の日本の軽飛行機市場に国産機で乗り込むことを計画していた伊藤忠は、前作N-58で得られた経験を基に、木村秀政教授が指導する日大工学部の学生グループとともに1962年(昭和37年)春から独自設計の実用機であるN-62の設計を開始した。1963年(昭和38年)には風洞実験が開始され、1964年(昭和39年)8月8日に原型初号機が初飛行。飛行試験や静強度試験機による地上での破壊試験などを経て1965年(昭和40年)9月6日に航空局の、1966年(昭和41年)にはアメリカ連邦航空局(FAA)の形式証明を取得している。

1965年中には生産型の1号機が完成し、その後1966年までの間に5機が生産され、日大のほかに伊藤忠航空輸送や中日本航空で商業運航やパイロット育成に用いられた。日大の保有機は学生の操縦による2回の韓国訪問飛行にも用いられている。しかし、パーツの輸入や生産設備の不備が生産コストの高騰を招いたこと、安価かつ実用性重視というコンセプトや浅い歴史を原因とした内部艤装の貧弱さなどを原因として需要が伸びず、性能は好評だったものの計6機(および静強度試験機)のみの製造に終わった。

機体は全金属製セミモノコック構造の高翼単葉機で、N-58と同様に日本の国情を反映して短距離離着陸(STOL)性を重視しており、水平尾翼をアンチサーボタブ(英語版)を有するオールフライング式のものとすることで、低速時に優れた安定性・操縦性を発揮することができた。また、同クラスの他機種と比べて激しい曲技飛行が可能であるなど、他の性能も海外製の機体には劣らなかった。内装は価格を下げるために贅沢な装備を廃している。なお、生産型のキャビンは原型初号機のものから後方に10 cm拡大されている。

2016年(平成28年)現在では、かかみがはら航空宇宙科学博物館に1機のN-62が展示されている。

諸元
全長:7.3 m
全幅:10.8 m
全高:2.7 m
翼面積:14.1 m2
自重:590 kg
全備重量:1,000 kg
エンジン:ライカミング O-320-B2B(英語版) 空冷水平対向4気筒(160 hp) × 1
最大速度:217 km/h
巡航速度:200 km/h
実用上昇限度:6,000 m
航続距離:1,000 km
乗員:4名

MK593 MTVR TRAILER CARGOMK593 MTVR TRAILER CARGO トレーラー+飲料タンク 米軍海兵隊

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多目的に使用されるトレーラ。

トレーラーは、電源が入っていない車両で牽引動力車両によって。これは一般的に商品や物資の輸送に使用されます。
時には、レクリエーション用車両、旅行用トレーラー、または限られた生活施設を備えた移動可能な住居もある。


MK593 MTVR TRAILER CARGO
長さ198.0
幅98.0

大雄山駅 伊豆箱根鉄道大雄山線

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大雄山駅(だいゆうざんえき)は、神奈川県南足柄市関本にある、伊豆箱根鉄道大雄山線の駅で、当路線の終着駅となっている。所在地南足柄市の代表駅で、駅前には大規模店や金融機関のビルなどが立ち並び、賑わっています。


駅構造
島式ホーム1面2線と側線及び車庫を有する地上駅になっている。平屋の洋風木造駅舎です。駅前には熊にまたがる金太郎の銅像が設置されています。

乗り場は南側が1番線、北側が2番線となっている。線路はいずれも当駅より先には伸びておらず、ホームと垂直に接する形で、西側に駅本屋が建てられている。車庫は構内の北側に位置し、また、乗務員、運行指令員も配置される運行上の中枢駅で駅舎の南東側には大雄山線運転区の2階建ての建物が置かれている。

駅本屋は1階建てで、内部には待合所と駅事務室とがある。待合所内部には売店がある他、自動券売機2台に加えてICカード専用機も含め自動改札機が3通路分設置されている。社員の配置された直営駅となっている。

夜間滞泊が設定されている。

のりば
1・2 ■大雄山線 小田原方面


ホームは頭端式1面2線。駅北側には車両基地が併設されています。

駅周辺
周辺は南足柄市の中心部。スーパー、銀行、商店、学習塾などのビルが立ち並び、大雄山線沿線では小田原駅周辺に次いで活気のある所である。駅名の由来となった大雄山最乗寺へは、駅前からバスを利用する。大晦日から元旦にかけては大雄山線も路線バスも終夜運転を行う。

ヴェルミ(駅前複合施設・小田原百貨店大雄山店・ビジネスホテル)
松田警察署大雄山駅前交番
南足柄市役所
南足柄市文化会館
南足柄市立南足柄小学校
南足柄市立南足柄中学校
南足柄市立足柄台中学校
神奈川県立足柄高等学校
箱根登山バス関本営業所(駅横のりば・窓口あり)
南足柄市保健医療福祉センター


バス路線
大雄山駅(伊豆箱根・富士急湘南) / 関本(箱根登山)
箱根登山バス、伊豆箱根バス、富士急湘南バス

1番乗り場
道了尊ゆき(伊豆箱根バス) 7時30分~17時、毎時1~3本
2番乗り場
小田急線新松田駅ゆき(箱根登山バス) 6時~21時30分、毎時2~7本
3番乗り場
小田急線開成駅ゆき(富士フイルム西門・大雄山線和田河原駅経由)(箱根登山バス) ※ 土曜・休日は朝1本のみ
小田急線新松田駅ゆき(富士フイルム西門・大雄山線和田河原駅・五反田経由)(箱根登山バス) ※ 平日朝夕各1本のみ
小田原駅東口ゆき(富士フイルム西門・飯田岡経由)(箱根登山バス) ※ 平日朝夕3本のみ
狩川橋ゆき(富士フイルム西門・小田急線富水駅入口・小田急線蛍田駅経由)(箱根登山バス) ※ 平日夕方1本のみ
富士フイルム循環(箱根登山バス) ※ 平日1本のみ
松102:アサヒビールゆき(山北町向原(東山北駅)経由新松田駅ゆき)(富士急湘南バス) ※土曜・休日の10時~15時、毎時1本のみ
4番乗り場
地蔵堂ゆき(苅野・矢倉沢経由)(箱根登山バス) ※ 昼間は内山も経由
足柄万葉公園(足柄峠)ゆき(苅野・矢倉沢・地蔵堂経由)(箱根登山バス) ※ 土曜・休日2本のみ(地蔵堂からは土曜・休日のみ7本)
内山ゆき(箱根登山バス) ※ 朝夕のみ、1日2本のみ矢倉沢経由
A乗り場
小田急線新松田駅ゆき(箱根登山バス) ※ 朝夕のみ・富士フイルム西門始発便
B乗り場
富士フイルム西門ゆき(箱根登山バス) ※ 朝夕のみ


1925年(大正14年)10月15日 - 開業(当時は大雄山鉄道の駅)。
1941年(昭和16年)8月23日 - 合併により駿豆鉄道(現在の伊豆箱根鉄道)の駅となる。
1996年(平成8年)7月 - 駅前の再開発事業が完成する。
1998年(平成10年) - 「関東の駅百選」に選定される。
2003年(平成15年)3月 - PASMO導入に向けて、大雄山線で初めて自動改札機を導入。
2004年(平成16年)- 自動券売機を更新。
2007年(平成19年)3月18日- PASMOを導入。
2015年(平成27年)3月1日- 発車メロディーが童謡「金太郎」に変更。
その他
駅前に童話で有名な「金太郎」像が設置されている。
関東の駅百選に選定されている。選定理由は「足柄山のシンボル「金太郎像」が出迎えてくれる三角屋根の山小屋風の駅」。
毎年12月のクリスマス前になると、駅舎全体がライトアップされる。
1928年に当駅と最乗寺を結ぶ道了鋼索鉄道の敷設免許が下りたが1931年に失効した。また、その他
の延伸構想として、御殿場線の山北駅までの路線が計画されていた。

大雄山駅
だいゆうざん
DAIYUZAN
◄ ID11 富士フイルム前 (0.5km)
所在地 神奈川県南足柄市関本592-1
北緯35度19分8.8秒
東経139度6分11.3秒座標: 北緯35度19分8.8秒 東経139度6分11.3秒
駅番号 ID12
所属事業者 伊豆箱根鉄道
所属路線 大雄山線
キロ程 9.6km(小田原起点)


駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 2,540人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1925年(大正14年)10月15日

ホダカ125MX 125CC 1945年 穂高工業所

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穂高工業所は1945年創業で、当初はオートバイの変速機(ミッション)を製造し、多くの中小メーカーに納入していた。東京の山口自転車よりオートバイエンジンの製造を依頼されたことがきっかけとなり、ヤマグチオートバイの輸出先であったアメリカPABATCO社から完成車の製造依頼があった。1964年、アメリカ向けの90CCトレール(山岳走行)オートバイ「ホダカ」を頑丈なフレーム、シンプルなエンジン、高品質サスペンションなどで高評価を得て、1978年まで延べ15万台以上が生産された。

株式会社穂高工業所(ほだかこうぎょうしょ)は、かつて愛知県名古屋市に存在していた日本のオートバイメーカーである。ホダカのブランドでオートバイを生産していた。
会社の設立は1950年(昭和25年)。当初は自動車用トランスミッションのメーカーだったが、やがてバイク用エンジンの製造を始め、東京の山口自転車や名古屋のトヨモータースなどにエンジンやトランスミッションを納入していた。ただし、歯車などの重要部分を除く部品の80%は外注であり、穂高工業所自身はそれらの外注部品を自社工場で組み立てて製品とするアッセンブリメーカーであった。名古屋市南区の本社工場以外にも名古屋市内の数箇所に工場を持ち、他にも農業用2サイクルエンジンを豊田自動織機や三菱重工名古屋製作所に納入していた。
1953年、名古屋近辺で開催された名古屋TTレースに出場するため、自社製のOHV単気筒150ccエンジンを搭載した完成車を製作した。しかしレースでは出場した3台とも完走することができず、この時の完成車も市販に移されることはなかった。
1954年ごろから一時は150社を数えたオートバイメーカーの淘汰が始まり、穂高工業所の取引先であったトヨモータース、ロケット商会、北川自動車などの倒産・廃業が相次いだ。しかし穂高工業所の最も大きな納品先であった山口自転車はそんな中でも健闘しており、最盛時には山口自転車に月4000台のエンジンを納入した。これは当時の穂高工業所の全生産台数の7割を占める数字であった。

名古屋に乱立していたバイクメーカーが次々と消えていく中でも穂高工業所は数少ない生き残ったメーカーとなっていたが、1963年、頼みの山口自転車が突然倒産してしまった。大量のストックの納品先を突然失った穂高工業所は台湾にこれらを輸出してストックを処分すると同時に、山口自転車に代わる新たな取引先を探し始めた。そんな穂高工業所に救いの手を差し伸べたのが、アメリカで山口自転車のオートバイを輸入販売していたシェル石油出資の輸入商社である PABATCO (Pacific Basin Trading Company 、太平洋沿岸商社)であった。販売網だけを残して突然売るべきオートバイを失ってしまったPABATCOは、山口自転車のオートバイのエンジンとトランスミッションを作っていた穂高工業所に完成車体の生産を持ちかけたのである。
ホダカ ACE90
こうして1964年に穂高工業所とPABATCOの共同開発による一号車であるホダカ ACE90 (空冷2サイクル単気筒90cc、8.2馬力)が完成し、5月には名古屋港からアメリカに渡った。ACE90はワイドレシオの4段トランスミッションを持つトレールバイクで、軽量な車体とパワフルなエンジンを活かして高い悪路走破性を発揮した上に市街地走行にも適した高性能なモデルだった。またパーツも高品質な物が使われており、耐久性も高かった。これらの要素がアメリカのユーザーに受け入れられ、他社製品に比べて高価であったにもかかわらず次第にファンを増やしていき、1966年には生産台数1万台を達成した。

1967年にはACE90の排気量を98ccにした ACE100 を発売。ホダカは高いパーツ互換性を持っており、初期型のACE90でも各部のパーツを最新の物に交換することでACE100と同等のスペックにすることが可能だった点も、アメリカで人気を博した理由のひとつだった。
ホダカは手頃な排気量に加えて手を入れるには好都合なシンプルなメカニズムであったことからレース用のベース車としても好評で、モトクロスからロードレースまであらゆるカテゴリの入門用バイクとして選ばれ、PABATCOも豊富なキットパーツを用意していた。1968年にデイトナで行われたロードレースでは、トレールバイクであるにもかかわらず100ccクラスでは大差で優勝、125ccクラスでも4位に入るという大活躍を見せて話題となった。PABATCOでは多くのホダカが購入と同時にレース用に改造されるのを見て1969年にモトクロッサーの 100 Super Rat を、1970年にはACE100にモトクロス装備を装着した ACE100B を発売した。こうしてACE90をベースとしたモデルは125ccの公道仕様 Wombat シリーズとモトクロッサーの Combat シリーズまで続いた。
1970年代になるとユーザーは次第にもっと大きな排気量、大きなパワーのオートバイを求め始めた。そんなトレールバイク市場に日本の4大メーカー(ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキ)やヨーロッパのKTMといったメーカーが参入してきた。ホダカも250ccのエンデューロモデル 250ED やトレールモデル 250SL で迎え撃ったが、従来モデル同様に耐久性を重視した結果他社製品に比べて軽快さが失われ、次第に苦戦していく。
そして1977年、PABATCOの親会社であるシェル石油が突然事業の廃止を決定した。第一次オイルショックの影響による事業整理が理由だった。最大の市場を失った穂高工業所は完成していたストックをやむなく日本国内で販売するが、日本では運輸省の型式認定を受けていなかったために公道走行ができず、ごく少数しか売れなかった。
その後、ヨーロッパや韓国のメーカーとの技術提携の話があったがうまくまとまらず、やがてオートレース車用ミッションのメーカーとして再生を図った。その他にも台湾や中国へのエンジン生産援助を企画したがいずれも採算を取ることができず、1991年、全ての業務活動を停止した。
アメリカでは今でもホダカの熱心なファンがおり、すでにオリジナルが手に入らなくなったパーツの製作などの活動をしている。

 


志紀駅(JR西日本)関西本線

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志紀駅(しきえき)は、大阪府八尾市志紀町三丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)関西本線の駅である。駅番号はJR-Q26。「大和路線」の愛称区間に含まれている。駅は主要国道の交差点が近い立地です。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅である。2階建ての駅舎です。駅の入り口には商店街アーチの様子です。分岐器や絶対信号機がない停留所に分類される。ホームは盛土上にあるため、改札口側からは階段を上る。またエレベーター用として、双方のホームを結ぶ跨線橋が設けられている。

八尾駅が管理している直営駅で、ICカード乗車券「ICOCA」が利用することができみどりの窓口も営業しています。切符売場には券売機が3台と定期券発売機が設置されています。

改札口に改札機は4台。うち1台がICカード専用機です。頭上にはLED式の発車案内があります。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1 Q 大和路線 上り 王寺・奈良・高田方面
ホームは上屋がほぼ全面に整備されています。

2 下り 天王寺・JR難波・大阪方面
ホームには後付けでエレベータ付きの跨線橋が設置されています。

 

 

 

2 下り 天王寺・JR難波・大阪方面
ホームには後付けでエレベータ付きの跨線橋が設置されています。

駅周辺
弓削神社
長瀬川
八尾市役所志紀出張所
志紀コミュニティセンター
八尾市立志紀図書館
八尾市消防署志紀出張所
八尾志紀郵便局
池田泉州銀行八尾支店(■旧泉州店舗)
近畿大阪銀行志紀支店
ライフ志紀店(西口・国道25号線沿い)
八尾空港
陸上自衛隊八尾駐屯地
近鉄バス八尾営業所
国道25号
国道170号


バス路線
当駅周辺はバス路線は存在しない。かつては駅周辺から発着していたが、2008年に行われた路線整理のため消滅。当駅から西に400m離れた近鉄バス八尾営業所内にある「志紀車庫前」停留所が最寄りとなっていたが、その停留所から発着していた近鉄八尾駅前行(26番、八尾木経由)も2017年4月1日より運行休止となった。

1909年(明治42年)
4月1日 - 国有鉄道の自働車(蒸気動車)専用乗降場として、柏原駅 - 八尾駅間に新設開業。
当駅部分は墓地の跡地である。これは、開業当初当駅周辺のみ高台で、他の場所では水没する恐れがあり、やむなく現地になったためである。
10月12日 - 線路名称制定により、関西本線所属となる。


1946年(昭和21年)- 燃料事情悪化により廃止。
1961年(昭和36年)10月11日 - 脇田幾松(初代八尾市長)などの努力で八尾市で駅舎を建設し、営業を再開。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。


1988年(昭和63年)3月13日 - 路線愛称の制定により、「大和路線」の愛称を使用開始。
1992年(平成4年)11月1日 - みどりの窓口営業開始。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。


2009年(平成21年)10月4日 - 大阪環状・大和路線運行管理システム導入。
2018年(平成30年)3月17日 - 駅ナンバリングが導入され、使用を開始。

駅番号 JR-Q26
所属事業者 西日本旅客鉄道(JR西日本)
所属路線 Q 関西本線(大和路線)
キロ程 160.5km(名古屋起点)
加茂から39.6km


電報略号 シキ
駅構造 地上駅(盛土上)
ホーム 2面2線


乗車人員
-統計年度- 10,774人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1909年(明治42年)4月1日
備考 直営駅
        みどりの窓口 有

筑豊電気鉄道3000形電車

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筑豊電気鉄道3000形電車は、1988年から登場した筑豊電気鉄道の鉄道車両である。同社の主力車両。


筑豊電気鉄道の車両冷房化推進の一環として、1988年から1989年にかけて3001 - 3005が、1995年から1996年にかけて3006 - 3009が導入された。全車アルナ工機(現アルナ車両)で作られたが、台車や機器などを非冷房の2000形2車体連接車の機器を再用して作られた。改造元になった番号は2110 - 2118(ただし改造後の番号は改造前とは逆順になっている)。カラーリングは当初白地に車体上部に2本のオレンジの帯、車体裾と窓下にライトブルーの帯。3006 - 3009では前面窓下にオレンジの帯が追加されてライト周りもライトブルーになり、それ以前の車両も統一された。いわゆる軽快電車の影響を受けた大きな前面窓などが特徴的である。2007年より車体側面に西鉄グループを現すCIロゴが追加されていたが、現在では表記されていない。

行先表示は、3005までは漢字表記のみであったが、3006以降はローマ字併記となった。また、最近では全車ローマ字併記に統一されたほか、誤乗防止のために行き先ごとに色分けが行われている。

1995年から1996年にかけて導入された3006 - 3009は、冷房装置の容量増強・シングルアームパンタグラフ搭載・車内の車掌台仕切りや座席袖仕切りのパイプから仕切り板への変更などの改良が施されている。

登場当初はテレビが取り付けられた編成も存在した。テレビ付きの編成ではNHK総合テレビを放映していたが、液晶モニターに交換してからは地上波テレビの受信は行わなくなった。2007年にマスタが三菱電機製のアドムーブに更新され、液晶モニター配置は直方側がアクオス(以前からの流用品)・黒崎側に三菱電機製となった。次の停車駅や沿線イベントの案内、地元商店街CMの静止画映像を流している(機器の更新により音声は出なくなった)。なお操作は車掌による手動であった。

当該車両の制御・走行機器自体は、電動カム軸式抵抗制御・吊り掛け駆動であるが、補助電源装置にGTO素子のVVVFインバーターを使用しているため、夏季に冷房を起動する際、VVVF制御の電車の起動音に似た音が生じる。台車は登場時より2000形から流用された近畿車輛製KD-14であったが、2006年頃から川崎重工製KW-177(先頭部)・KW-178(連接部)への交換が行われている。2000年代に入ってからATS取り付け工事が行われ、全編成が完了している。また運転台へのデッドマン装置、事故対策用のドライブレコーダーの設置が行われた。

ICカード導入・ワンマン化改造
2015年春のnimoca導入・ワンマン化にあわせて、順次以下のように車内の設備を更新した。

音声合成装置による自動放送の導入(2015年3月より英語放送開始)
自動両替機付運賃箱、ICカードリーダーの設置
車内に整理券発行機を設置
運賃表を幕式から液晶式に更新、従来の次駅案内装置の撤去
ドアブザーを自動音声による注意喚起に変更
扉扱い操作を全戸運転士の操作に変更(従来は前戸のみ)
運転士の車内放送用ヘッドセットマイク設置
運転士用の中ドア監視用カメラ、液晶モニターの追加
車掌台に保安ブレーキとは別に客用SOSボタンの追加
車掌乗務時には、車掌はベルにて戸閉合図を送り運転士が扉操作する。

車番と改造元の車両
3001(2118)
3002(2117)
3003(2116)
3004(2115)
3005(2114)
3006(2113)
3007(2112)
3008(2111)
3009(2110)
※カッコ内が改造元車両の車番

主要諸元
製造初年:1988年
全長:18600mm
全幅:2430mm
全高:3940mm
自重:26.6t
車体構造:全鋼製
定員(着席):96(48)人
出力・駆動方式:45kW×4、ツリカケ式
集電装置:軽快式Z型パンタグラフ(3001~3005)、シングルアーム式パンタグラフ(3006~3009)
運用
筑豊電気鉄道全線で、終日運行されている。なお、3001-3005は、西鉄北九州線の併用軌道区間である黒崎駅前―八幡駅前間まで乗り入れていた。

特別塗装・ラッピングなど
3005編成は、2015年7月10日から2016年6月まで、ラッピングを施し、「世界遺産遠賀川水源地ポンプ号」として運行。その後開業60周年企画の一環として、2016年10月28日より4年間の予定でクリームとベージュの「開業当時の塗装色(当時の西鉄北九州線色)」となっている。但し、塗り分けは3000形の標準塗装を元にしている。3004編成は2018年8月2日より西鉄天神大牟田線のアイスグリーンの塗装で運行中である。また、行政や地元企業などが主体となったラッピング編成も一部の編成で運行されている。

筑豊電気鉄道3000形電車
基本情報
製造所 アルナ工機
主要諸元
編成 2車体3台車固定編成
軌間 1,435 mm
電気方式 直流600V
(架空電車線方式)
最高運転速度 60 km/h
編成定員 96人(着席48人)
全長 18,600 mm
全幅 2,430 mm
全高 3,940 mm
車体 普通鋼(全金属製)
台車 川崎重工製 KW-177、KW-178
主電動機 直流直巻電動機
主電動機出力 45kW
搭載数 2基 / 両
駆動方式 吊り掛け駆動方式
編成出力 180kW
制御装置 抵抗制御
保安装置 自動列車停止装置・保安ブレーキ・デッドマン装置
備考 初期車は西鉄北九州線路面区間との直通運転実績あり。

税関監視艇(あき)

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神戸税関は、兵庫県、山口県を除く中国地方4県と四国地方4県の9県に、太平洋・瀬戸内海・日本海という三つの海域を管轄している。海岸線の総延長は、7,135km におよび、その長い海岸線での密輸を水際で阻止するため、監視艇の機動力と輸送力は不可欠であり、配備官署を基点とした海域における船舶の取締りに監視艇を活用している。

監視艇
港湾等での臨船審査や密貿易監視のための沿岸哨戒などに使用する船舶が配置されており、監視艇あるいは税関監視艇と称される。日本の税関では1990年代中期以降、大きさや行動水域により次のように分類されている。

大型広域取締艇 - 30メートル級以上の大型艇。小笠原諸島や南西諸島などの遠隔地の離島までを行動水域とする。
広域監視艇 - 25メートル級以上の艇。近海広域を行動水域とする。
港湾監視艇 - 20メートル級の艇。おもに基地港周辺を行動水域とする。
検査・取締り機材など
移出入物品の検査を効率的かつ正確に実施するため、様々な特殊機材などが使用されている。

X線検査装置
荷物・貨物を開披せずに内容物の検査が可能であることから、税関の検査業務において広範囲に活用されている。国際空港や国際郵便交換局内の税関出張所に設置して使用されるほか、特殊なものとして港湾のコンテナヤード出入口に設置し、大型トレーラーをそのまま収容して検査する大型X線検査装置や、2トントラックシャーシに架装し、必要な場所に移動して検査を実施できる車載型X線検査装置もある。
麻薬探知犬
嗅覚により、荷物の中に隠された麻薬などの不正薬物を探知するよう専門の訓練を施された犬。全国の税関に配置されている。近年は薬物のほか、爆発物や銃器をも探知できる新たな訓練を施された探知犬も配置されている。


平 16 年建造
船主 神戸税関 
寸法《L(O.A.)*B*D》 (m) 19.00×4.30×2.45
総トン数(t) 30
主機関 型式 MTU 12V183TE92
出力×数 669kw(2,230min)×2
最高速力(kts) 35ノット
搭乗人員 乗員 4名
旅客
その他 8名

両国駅 JR東日本

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両国駅(りょうごくえき)は、東京都墨田区横網一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。墨田区最西端の駅。

駅名の由来
元来、両国とは両国橋を挟んだ隅田川の両岸を指す地名であった(隅田川西岸は旧日本橋両国)。しかし、総武鉄道は当初隅田川の東岸までの開通に留まったため、両国橋の東、東両国に両国橋駅を開業し、後に両国駅と改称した。駅名の影響に両国国技館の開設も加わり、現在では両国という地名は専ら両国橋の東の地域に対して用いられる。駅周辺には国技館や相撲部屋等、相撲関連の施設が多いためか、駅の所在地名を「よこづな(横綱)」と誤解しやすいが、正しくは「よこあみ(横網)」である。

乗り入れ路線
JR東日本の総武本線支線、東京都交通局の都営地下鉄大江戸線が乗り入れ、接続駅となっているが、一番近い出口同士でも300メートル余り離れている。ちなみにJR線と大江戸線の乗換では御徒町駅と上野御徒町駅、浜松町駅と大門駅の方が近接している。

JR東日本:JB 中央・総武線(各駅停車) - 駅番号「JB 21」
東京都交通局:E 都営大江戸線 - 駅番号「E 12」
JR東日本総武本線の駅は、定期列車は緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。この他、千葉方面の快速線に接続している列車ホームが存在するが、現在は臨時列車のみに使用される。
また、特定都区市内制度における「東京都区内」に属する。

総武線各駅停車用の島式ホーム1面2線の電車ホームと、単式ホーム1面1線の列車ホームを有する高架駅である。電車ホームから一段低い高さに列車ホームがある。千葉支社管轄の直営駅で管理駅として浅草橋駅を管理する。

近くに大相撲興行などが開催される両国国技館があることにちなみ、西口の駅入口にある駅名表示は根岸流の書体で「両国駅」と書かれ、西口改札横には優勝額が展示されている。また、西口改札を入ってすぐの所にはタイルの色が違う所があり、これはよく見ると土俵の形になっている 。

のりば
番線 路線 方向 行先
1 JB 総武線(各駅停車) 西行 浅草橋・秋葉原・新宿方面
2 東行 錦糸町・市川・千葉方面
3 ■団体・臨時ホーム(総武快速線千葉方面と接続)
1番線の案内の一部には、物理的に直通していない東京駅・上野駅の表記があるが、両駅へ行く場合は秋葉原駅での乗り換えが必要となる。

3番線は「幻のホーム」とも呼ばれ、発着予定がない時期に飲食などのイベント会場とされることもある[。 なお、2018年1月にはサイクルトレイン「B.B.BASE」専用通路が整備され、道路から直接ホームにアクセスすることが可能となった。

当駅北側には、総武快速線・総武トンネルの入口がある。列車ホームは、総武快速線東京駅(総武トンネル)開業前、長らく総武本線、成田・鹿島線、内房・外房線などへの中・長距離列車の発着ホームで、東京都心のターミナル駅の一つとして機能していた。列車ホームへは西口または1・2番線ホーム中央にある乗り換え通路からしか入れず、通常は閉鎖されている。現在は定期列車としては回送列車が1日1本乗り入れるのみで、その他は臨時列車が使用するのみとなっている。

列車ホームは当初は3-6番線の2面4線の櫛型形状であり、その北側に広大な留置線と貨物設備を有していた。総武快速線の建設に伴い6番線と留置線・貨物設備は廃止され、駅敷地も大幅に縮小された。この縮小部分には後に両国国技館および江戸東京博物館が建設されている。

JR発足当初は 特急「あやめ」「すいごう」の発着があり、総武快速線の団体列車がここで折り返すことも多かった。また2010年3月12日までは、旅客以外の定期列車として内房・外房線沿線の新聞販売店や主要駅のキヨスク向けに夕刊を発送する新聞輸送列車が1日1本、3番線ホームから発車していた。その後1988年(昭和63年)3月13日に特急列車の乗り入れが終了し、団体列車も東京トンネルの入線制限が緩和されたためにほとんどの列車が東京駅まで直通できるようになるなど、使用頻度は大きく減少した。

これらの利用縮小によりまず5番線ホームが廃止され、次いで4番線ホームも廃止、現在では3番線ホームのみとなっている。旧4・5番線は現在は保線基地となり、架線が撤去され列車が入線することができなくなった。なお、3番線ホームは2008年秋の観光キャンペーン「ぐるっと ゆめ半島ちば」を機に全面リニューアルされ、同年11月29日発の「快速 ぐるっと ゆめ半島1号」より使用が開始された。

なお、新宿方面から総武線千葉方面に乗り入れる特急などはすべて当駅の電車ホームを通過する。
2008年9月2日に発車メロディとスピーカーが変更された。発車メロディは現在当駅のみで使用されている。
西口には、バリアフリー施設としてエスカレーターやエレベーターなどを併設している。


駅構造
JRの駅は東西に出入口があり(階段の位置はホームの両端ではなくやや中央寄り)、駅舎は高架下にある。ホーム横にはターミナル駅の面影を残す駅舎とホームが残されている。この旧駅舎コンコースを利用し、居酒屋チェーン「はなの舞」の独自業態「大江戸八百八町・花の舞 両国国技館前店」が営業していたが閉店(後に清澄通り沿い錦糸町方の高架下に「両国八百八町・花の舞 江戸東京博物館前店」として移転)。閉店後の旧駅舎を改装して2016年11月25日に複合飲食施設「-両国- 江戸NOREN」が開業した。

JR東日本
総武鉄道の力では隅田川を渡る橋を建設することが難しかったこともあり、両国橋駅は総武鉄道の都心側のターミナルとして機能するようになった。当初の駅舎建物は駅の西側に建てられており、木造2階建てで面積170坪(約562平方メートル)、建設費は約9,000円であった。また、脇に同じく木造2階建ての総武鉄道本社も建てられていた。プラットホームは全長212 mあり、その先の東側にも地下道を通じて亀沢町方面への出口が造られていた。隅田川からの運河が構内に掘られ、水運との連絡が行われるようになっていた。貨物営業は1904年9月1日に開始された。

 

駅周辺
大相撲の興行施設である両国国技館(上の写真の緑の屋根の建物)が駅の近くにあるほか、江戸時代には勧進相撲が執り行われた両国回向院が駅の南側にあり、相撲部屋や力士サイズの服を取り扱う洋品店などがあるなど相撲の街として全国に知られている。1909年竣工の旧・両国国技館[13]は回向院の境内にあったが、第二次大戦後の蔵前国技館使用期を挟んで、1985年に竣工した現・両国国技館は駅の北側に位置している。

駅北側には、国技館に隣接して東京都江戸東京博物館がある(江戸東京博物館にはJR駅より都営地下鉄駅の方が近い)。前述の通り、かつては貨物駅があり、総武快速線建設に伴い貨物駅が閉鎖された後には国鉄バスの東京自動車営業所(後のジェイアールバス関東東京支店)があったが、現在は江東区塩浜の越中島貨物駅周辺に移転し、その跡地に両国国技館が建設されている。

国技館の北隣には旧安田庭園および刀剣博物館がある。庭園の西側には隅田川が流れ、川岸に首都高速6号向島線の高架が建設されている。同高速はほぼ南北に伸び、JR駅の西側で総武線の上を通る。

旧安田庭園の東側、江戸東京博物館の北側には2004年にNTTドコモ墨田ビルという超高層ビルが竣工した。ここには「NTTドコモ歴史展示スクエア」というショールームがあり、過去のNTTドコモなどの携帯電話端末などを一堂に見ることができる。

旧安田庭園の北東側、NTTドコモ墨田ビルの北側、清澄通りと蔵前橋通りに面した角の一角には都立横網町公園がある。ここには関東大震災で多数の犠牲者を出した陸軍本所被服廠跡地で(震災当時は既に「跡地」であった)、都立公園の中でも慰霊を目的とした特異な存在である。敷地内には震災犠牲者や東京大空襲犠牲者などを祀る東京都慰霊堂や震災復興記念館、東京空襲犠牲者追悼碑などが建てられており、毎年3月10日(東京大空襲忌日)と9月1日(関東大震災忌日)には慰霊法要が営まれる。この横網町公園へはJR駅より都営地下鉄の駅の方が近い。

JR東口から南に向かって京葉道路(国道14号)を越え、さらに南に少々入った辺りに本所松坂町公園(吉良上野介の屋敷跡・忠臣蔵の討ち入りの舞台)がある。さらにその近くの両国公園には「勝海舟生誕の地」碑がある他、附近には江戸から明治期の著名人の足跡(芥川龍之介生育の地など)が数多くある。また、駅南東側一帯は池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の主要な舞台になったことでも知られている。

JR西口から南側に向かうと、京葉道路との交点(両国二丁目交差点)の南側に再開発地域の複合ビル「両国シティコア」があり、内部に劇場「シアターΧ」(シアターカイ)が運営されている。旧・両国国技館はここに位置していた。シティコアの南側に両国回向院があり、そこからさらに南に進むと竪川と首都高速7号小松川線の高架橋が東西方向へ伸びる。同高速は隅田川岸に作られた両国ジャンクションで6号向島線から分離しているが、当駅近辺には両路線とも出入口は設置されていない。

利用状況
JR東日本 - 2017年度の1日平均乗車人員は39,768人である。

 

千葉県方面への鉄道を建設した私鉄であった総武鉄道が1904年4月5日に「両国橋駅」として開業させた。総武鉄道は市川駅より東側の区間を先に開業させており、そこから西へ東京へ向かって順次建設を進めてきた。そして、本所駅(後の錦糸町駅)から両国橋駅までの区間が都心側で最後に開業した。この当時、本所から両国橋までの沿線はすでに市街地になっており、高架線とすることを条件に免許が出された。会社側は建設費のかかる高架線を避けようと、地上の線路に変更しようとする工作をしたが、結局煉瓦造りの橋脚の上に鉄桁を載せた形状の高架橋を約1.5 kmに渡って建設して開業することになった。これは日本の鉄道で最初の高架区間であった。当初は単線で開業したが、最初から橋脚は複線用に準備されており、1906年8月19日に複線化された。この高架橋の関係で、垂れ流し式のトイレからの汚物が沿線に被害を及ぼすことを避けるために、本所より西側ではトイレの使用が禁止されていた

また、吾妻橋駅(現在のとうきょうスカイツリー駅)をターミナルとしていた東武鉄道も亀戸線を建設して総武鉄道に乗り入れるようになり、両国橋駅は開業と同時に房総方面だけではなく北関東方面へのターミナルとしても機能するようになった。このために吾妻橋駅は一時廃止されるが、1907年9月1日に総武鉄道が国有化されて国鉄となったこともあり、1910年3月1日に吾妻橋駅を浅草駅に改称して旅客営業が再開され、3月27日に両国橋駅への東武鉄道の列車の乗り入れが廃止された。ただし、貨物列車については、1926年7月1日に小岩駅と金町駅を結ぶ新金貨物線が開通するまで、東武亀戸線を経由して北千住駅で常磐線と連絡する運転が継続された。

1923年9月1日、関東大震災が発生した。駅舎は倒壊しなかったが、駅構内の機関車5両、客車94両、貨車48両が延焼により焼失した。高架橋も大きな被害を受けて、復旧して運転を再開したのは10月9日のこととなった。バラック立ての仮駅舎を建設して暫定的に営業を行っていたが、増大する旅客・貨物需要を捌ききれなくなったため、1929年12月30日に新駅舎が営業を開始した。これは2012年現在供用されている駅舎である。この時点で行き止まり式の2面4線の構造となった。駅舎の面積は3,034坪(約10,030平方メートル)であった。当時は乗車口と降車口が分離されており、外から駅舎に向かって左側に乗車口、右側に降車口があった。内部には出札口、2等待合室、3等待合室、手荷物カウンターなどが設置されていた。

元々隅田川の両岸を両国(17世紀まで隅田川が武蔵国と下総国の境界であったため)と称し、そこに架かる橋を両国橋と呼んでいたことから、橋の近くにある駅を両国橋と名付けたものであったが、次第に隅田川東岸のことを両国と称するようになった。駅名もまた、一般には単に両国駅と呼ばれることが多くなっていた。そこで、1931年10月1日に正式に「両国駅」へ改称した。

この頃、房総方面にあった全部で94の駅の中では、東京側のターミナルであった両国駅は乗降客数と収入の面ではぬきんでた1位であり、貨物取扱量も第2位であった。東京の鉄道駅の中では東京、上野、新宿、横浜、新橋に次ぐ第6位の取扱収入で、当時は渋谷や池袋などよりも収入の大きな駅であった。しかし、両国駅より西側の総武本線の建設が行われると、このターミナルとしての繁栄は次第に凋落していくことになった。

関東大震災で焼失した市街地の区画整理が行われたことで線路用地の捻出が可能となり、1932年7月1日に御茶ノ水までの線路が完成し、総武本線の起点が御茶ノ水に変更された。これにより両国は孤立したターミナルの状態を脱することになった。御茶ノ水と両国の間は電化されて電車が折り返し運転を行うようになり、房総方面への列車の乗換駅となった。これに合わせて、現在も使用されている1・2番線のプラットホームが整備された。地下道で従来の列車用ホームとの連絡がなされ、また電車用のプラットホームへ直接出入りできる改札口が高架下に設けられた。当初は両国より東側はまだ電化されていなかったので、房総方面へは両国駅での乗換を必要としていたが、それでも乗り換えだけの乗客は改札口を通過しないため両国駅の乗降客数や収入は大きく減じることになった。さらに電化が東へ進展して1935年7月1日に千葉駅まで完成すると、房総方面の列車が同駅で折り返すものが増え、次第に両国駅の列車ホームで発着する列車は減少していくことになった。特に第二次世界大戦後の石炭不足による蒸気機関車牽引列車の減少と房総方面が気動車化の重点線区とされたことで、当駅を始発・終着とする房総方面の列車は2往復まで減少することになった。

しかし外房線・内房線とも千葉から先はまだ非電化であり、1958年7月10日から気動車準急「犬吠」の運転が開始され、その始発・終着駅となった。さらに房総方面の準急・急行は増発され、一部総武緩行線経由で新宿方面へ乗り入れる列車もあったものの、多くの優等列車は当駅始発・終着とされた。これにより再び房総方面へのターミナル駅としての地位が高まることになった。特に毎年夏には房総への海水浴客を輸送するための臨時列車が多数設定されて両国駅の列車ホームは賑わった。後に列車ホームは電化された。

次の大きな転機となったのは、1972年7月15日の総武本線複々線化である。東京駅から錦糸町駅までの地下線で総武快速線が建設され、総武線の快速列車が東京駅へ直通するようになった。183系の特急がこの時より完成した東京地下駅から総武線、内房線、外房線に乗り入れを開始する。この線路は当駅構内の北側を通過してはいるが、地下から地上へ出てくるところにあり、また急カーブでもあることから、当駅にホームは設けられなかった。これにより総武快速線の列車は当駅に停まらなくなった。貨物営業も近隣の越中島駅などへ集約されることになり、物流拠点としての役目を終えた。この時点ではまだ房総方面への急行列車の一部など両国駅発着で残存していたが、1982年11月15日のダイヤ改正により房総方面の急行列車は全廃され、特急「しおさい」「あやめ」「すいごう」が1日1往復だけ当駅に発着する状態となった。1988年3月13日のダイヤ改正でこれらの発着も終了し、当駅は総武線各駅停車のみが停車する駅となって、現在に至っている。

一方、東京で進んでいた地下鉄網整備の中で、両国地域を通る路線は長く開業していなかったが、2000年に都営大江戸線の駅が開業し、両国から地下鉄の利用が可能となった。

 

年表
1904年(明治37年)
4月5日 - 総武鉄道のターミナル駅として開業。当時は両国橋駅(りょうごくばしえき)と称す。また、東武鉄道の列車も亀戸線経由で当駅に乗り入れ、東京側のターミナルとした。
9月1日 - 貨物営業開始。
1906年(明治39年)8月19日 - 本所までの区間が複線化。
1907年(明治40年)9月1日 - 総武鉄道の鉄道国有法に基づく国有化で、国有鉄道の駅となる。
1910年(明治43年)3月27日 - 東武鉄道の浅草駅(現在のとうきょうスカイツリー駅)の営業再開により、東武鉄道の列車の乗り入れを廃止。
1923年(大正12年)
9月1日 - 関東大震災で被災、駅舎焼失。
10月9日 - 震災の被害を復旧し、運転を再開。
1929年(昭和4年)12月30日 - 新駅舎使用開始。
1931年(昭和6年)10月1日 - 両国駅に改称。
1932年(昭和7年)7月1日 - 御茶ノ水駅までの電車線開業。
1958年(昭和33年)7月10日 - 準急「犬吠」運転開始。
1969年(昭和44年)
8月20日 - 当駅発勝浦行き客221レ蒸気機関車による最終運用。これを最後に東京都23区内発着の蒸気機関車牽引による客車列車が全廃。(その後も貨物列車は翌年度まで存続)
10月1日 - 貨物配達取扱を廃止。
1970年(昭和45年)7月1日 - 貨物営業廃止。
1972年(昭和47年)7月15日 - 総武本線複々線化および東京 - 錦糸町間開業により総武快速線の運転開始。
1982年(昭和57年)11月15日 - この日のダイヤ改正により房総方面の急行が全廃され、当駅列車ホームを発車する列車が激減する。特急「しおさい」「あやめ」「すいごう」の各1往復が設定される。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い、JR東日本の駅となる。
1988年(昭和63年)3月13日 - 特急「あやめ」「すいごう」の乗り入れ終了。これにより、定期旅客列車では総武線各駅停車のみが停車する駅となる。
1998年(平成10年) - 「関東の駅百選」に選定される。選定理由は「鉄筋2階建ての駅舎で相撲とともに歩んだ下町の代表となる駅」。
2000年(平成12年)12月12日 - 都営大江戸線の駅が開業。
2001年(平成13年)11月18日 - JR東日本でICカード「Suica」供用開始。
2007年(平成19年)3月18日 - 東京都交通局でICカード「PASMO」供用開始。
2008年(平成20年)11月29日 - 列車ホーム(3番線)の改修完了による使用開始。
2010年(平成22年)3月12日 - この日をもって新聞輸送列車の乗り入れ終了。3番線ホームの定期列車の発着がなくなる。
2016年(平成28年)11月25日 - 両国駅旧駅舎を改装し、複合飲食施設「-両国-江戸NOREN」が開業。
2018年(平成30年)1月6日 - 当駅発着のサイクルトレイン「BOSO BICYCLE BASE」が運行開始。同時に道路から改札を通らずに当駅3番線へ直接向かえる「B.B.BASE」専用通路の使用を開始。

R 両国駅*
りょうごく
Ryōgoku
◄JB 20 浅草橋 (0.8km)(1.5km) 錦糸町 JB 22►
所在地 東京都墨田区横網一丁目3-20
北緯35度41分46秒
東経139度47分33秒座標: 北緯35度41分46秒 東経139度47分33秒
駅番号 □JB 21
所属事業者 東日本旅客鉄道(JR東日本)
所属路線 ■総武線(各駅停車)
(正式には総武本線支線)
キロ程 1.5km(錦糸町起点)
千葉から35.9km
電報略号 レウ
駅構造 高架駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 39,768人/日(降車客含まず)
-2017年-
開業年月日 1904年(明治37年)4月5日
備考 直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有
区 東京都区内駅
* 1931年に両国橋駅から改称

第五こふじ 新来島どっく専用の連絡船

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「第三こふじ」より角形でスマートになった分、船体の長さ・幅共に大きくなり、車が多く積めるようになりました。また、「第五こふじ」が就航するまでは、「第三こふじ」がドック入りの際、純旅客船の「第二こふじ」が代わりを務めるしかなく、その間車を運ぶことができないため、車のお客様に広く案内しなければなりませんでした。

国内で現役として活躍する最後の芸予型フェリー。


南区宇品町金輪・新来島宇品どっく桟橋と南区市営桟橋を連絡している新来島どっく専用の連絡船です。以前は宇品港と似島を連絡する似島汽船の連絡船でした。


船舶番号 122104
信号符字 JK4077
IMO番号 7824780
建造番号 250
船籍港 広島
全長 41.00m
型幅 8.70m
型深さ 2.94m
機関 ディーゼル×1
船主名 西部造船(株)
建造所:今村造船所(1979)
就航:昭和54年5月~平成7年10月
ディーゼル:950馬力  総トン数:197.14トン
旅客定員:600人    最強速力:12.6ノット
備考:鋼鉄船・当初暖房のみ、後に冷暖房

 

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