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御殿山駅 京阪電気鉄道京阪本線

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御殿山駅(ごてんやまえき)は、大阪府枚方市御殿山町にある、京阪電気鉄道京阪本線の駅。駅番号はKH22。


駅名は「惟喬親王(これたかしんのう)」の御殿『渚院』にちなむ。

1929年5月に京阪本線の枚方東口(現・枚方市) - 牧野間に新設開業した駅で、当時は駅の周辺795メートルが京阪国道(現・京都府道・大阪府道13号京都守口線)を走る併用軌道だった。1931年(昭和6年)7月に分離され専用軌道化されたが、今もこの区間は府道と並走している。

1939年3月1日午後2時45分に発生した陸軍兵器支廠倉庫(弾薬庫)の爆発事故で香里園駅 - 樟葉駅間が不通になり、4日の午後8時より運行を再開したが駅の使用再開は6日午前11時までかかった。

1956年3月1日周辺の2.4haの土地に「御殿山テレビ住宅」44区画が分譲される、これは京阪電鉄が当時高嶺の花だったテレビとコラボレーションした不動産販売企画でわが国初の試みだった。

1980年2月20日夜、当駅と枚方市駅の間の通称「磯島曲線」で発生した京阪電車置石脱線事故では、翌日の始発までに復旧できず、渡り線などの折返し設備もないことから、事故現場が仮復旧した21日午後まで運休した。運休中は樟葉駅と枚方市駅の間で京阪バスによる振り替え輸送された。

出町柳行ホームへは平日・土曜の午前8時から午前8時50分まで利用できる臨時出口だけであったが、2009年10月より出町柳方面ホーム淀屋橋側に常設改札口の設置と階段・スロープの工事、淀屋橋方面行ホームのスロープの改修工事、上下線の各ホームに多目的トイレの設置工事が開始され2010年3月に完成した。この時、臨時出口を廃止した。

相対式2面2線のホームを持つ地平駅。 互いのホームは地下通路でつながっている。

駅舎(改札口)は出町柳行・淀屋橋行、共にホームの枚方市寄りにあり、淀屋橋行の改札口には自動券売機3台、自動改札機5台(その内3台はICカード対応)が設置されている。駅舎は切符売場と改札口に大きな屋根が付いただけの構造になっています。


のりば
番線 路線 方向 行先
1 ■京阪本線 上り 中書島・三条・出町柳方面
2 下り 枚方市・京橋・淀屋橋・中之島線方面
※両ホームとも有効長は8両。

ホームはややカーブしており、高速で通過する列車に合わせてカントが設けられている。そのため、淀屋橋方面行き列車への乗降の際、電車とホームの間が広く開いていたが、2006年(平成18年)4月のホーム改修工事により多少改善され、2014年3月にはホーム下に隙間を知らせるLEDの足下灯が設置された。また、駅到着前には注意を呼びかける車内放送が流され、駅でも注意喚起放送が流される。 ホーム京都側2両分ほどのところにはホームに屋根が無い。

駅周辺
渚地区
枚方渚郵便局
御殿山神社
御殿山図書館
枚方市立御殿山生涯学習美術センター
渚の院跡(江戸時代に建てられた観音寺の梵鐘と鐘楼が残っている])
ライフ 御殿山店
御殿山バッティングセンター
コメリ 御殿山店
近畿情報高等専修学校
大阪府立枚方なぎさ高等学校
磯島取水場(淀川から村野浄水場・中宮浄水場へ取水口)

バス路線
京阪バス 御殿山停留所
38号経路 枚方市駅(北口)行/摂南大学枚方キャンパス行(家具団地経由)

1929年(昭和4年)5月25日 - 京阪本線の枚方東口(現・枚方市) - 牧野間に新設開業。
1931年(昭和6年)7月21日 - 駅京都側が併用軌道から専用軌道に改修される。
1934年(昭和9年)9月29日 - 現在地に駅が移設される。
1939年(昭和14年)3月1日 - 大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫の爆発事故により香里園駅 - 樟葉駅間が不通、3月6日駅の使用が再開。
1943年(昭和18年)10月1日 - 会社合併により京阪神急行電鉄(阪急電鉄)の駅となる。
1949年(昭和24年)12月1日 - 会社分離により京阪電気鉄道の駅となる。
1969年(昭和44年)4月20日 - 構内地下通路完成、構内踏切を廃止。
1980年(昭和55年)2月20日~21日 - 磯島曲線で発生した京阪電車置石脱線事故のため、事故直後から翌21日の午前中すべての列車が運休。
1985年(昭和60年)9月2日 - 上り臨時改札口を新設、使用開始。
1996年(平成8年)3月29日 - 大阪行きホームに車イス対応のトイレ設置使用開始。
1999年(平成11年)7月1日 - 大阪行きホームに冷房付き待合室設置。
2010年(平成22年)3月27日 - 京都行き改札口使用開始、駅がバリアフリー化完了。
2014年(平成26年)
3月7日 - 大阪行きホームの足下灯をLEDに更新。
5月21日 - 大阪行きホーム側改札外に有料駐輪場「エコステーション21 御殿山」供用開始
2016年(平成28年)3月19日 - ダイヤ改正で日中の普通電車の運用が無くなり、準急のみ停車する時間帯が生まれた。

御殿山駅
ごてんやま
Goten-yama
◄KH21 枚方市 (1.7km)(2.0km) 牧野 KH23►
所在地 大阪府枚方市御殿山町2-2
北緯34度49分44.2秒 東経135度39分14.22秒
駅番号 KH  22
所属事業者 京阪電気鉄道
所属路線 ■京阪本線
キロ程 23.5km(淀屋橋起点)
電報略号 御(駅名略称方式)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 6,736人/日(降車客含まず)
-2017年-
乗降人員
-統計年度- 13,365人/日
-2017年-
開業年月日 1929年(昭和4年)5月25日


移動式レーダーサイト 米軍

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レーダーサイト(英語: radar site)とは、軍事用レーダーの地上固定局で監視情報を他の関連部署と共有し、軍事目的に利用するための施設である。レーダーを、風雪などの自然環境や敵の攻撃から保護するための装備や施設も備える。

軍事用レーダーサイトは電子戦情報の収集をも任務とする場合がある。

対空無線
見通し外通信アンテナ (オーバーホライゾン、略してOH)
軍事用レーダー運用拠点としては、固定的に運用する本レーダーサイトのほか、航空機に搭載して運用する早期警戒管制機と早期警戒機、および艦船に搭載して運用するレーダーピケット艦やイージス艦、車両に搭載されて設置場所を変更可能な移動式レーダーがある。

軍事目的のレーダーサイトは、どの国においても防衛の要となる重要施設で、3次元レーダーを使用しての対空監視を任務としている。組織的な戦闘が可能なサイトは、地上の防空部隊(地対空ミサイル)や航空部隊(戦闘機)と連携して、防空戦力の支援とその運用を効率良く行えるように組織されている。また多くのレーダーサイトでは、無線傍受(エリントやコミント)などの情報収集任務も行なわれている。

航空作戦では相手の防空能力を低下させることが作戦の成果に大きく影響する。そのため、防空の一翼を担うレーダーサイトはジャミングのような妨害や直接的な攻撃の対象になる。現代の空軍では、レーダー波を逆探知して自らレーダーサイトに着弾する対レーダーミサイルや誘導爆弾を運用していることが多い。

湾岸戦争開戦後、即座に多国籍軍によりイラクのレーダーサイトの指揮所が撃破され、次いでサイトが攻撃されたことからも、レーダーサイトの現代戦における前線基地の役割、その重要性が伺える。

固定型で大型のレーダーサイトは、出力が大きく探知能力も高いが、移動できず攻撃に対して脆弱である。また設置場所については、地平線の見通し線の関係から、高所や沿岸への設置が望まれる。この他、レーダー覆域の空白を埋めるために海上に人工プラットホームを設置し、そこに据えられるケースもある。

現在は、地上レーダーと、偵察衛星、早期警戒管制機、イージス艦、哨戒機のレーダー情報を、一括して統合運用する軍事における革命が進行中である。

敵性国家は、相手国のレーダーサイトの警戒監視能力を探るために、偵察衛星、電子偵察機、情報収集艦、ヒューミントなどあらゆる手段を駆使して、平時から情報戦を行なっている。近代的な国家間が軍事衝突に陥る場合、第一撃は必ずレーダーサイトに対する攻撃から始まる。レーダーサイトは、現代戦の要であり、同時に脆弱性も包含する軍事施設である。

神鉄六甲駅 神戸電鉄有馬線

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神鉄六甲駅(しんてつろっこうえき)は、兵庫県神戸市北区有野町唐櫃字種池にある、神戸電鉄有馬線の駅。駅番号はKB13。標高323m。

阪急電鉄の六甲駅(灘区)とは、六甲山を隔てて直線でも7km以上離れている。

駅構造
相対式2面2線のホームを持つ地平駅。駅舎は欧風山小屋デザインで下りホーム側有馬口寄りにあり、上りホームへは構内踏切で連絡している。改札口の改札機は3台。切符売場に券売機が2台設置されています。


沿線光ネットワークに接続された駅務遠隔システムが導入されており、センター駅から自動券売機、自動改札機、自動精算機、TVカメラ、インターホン、シャッターが遠隔操作される。そのため駅員巡回駅となっており、構内売店も設けられていない。以前は駅近辺の商店で割引乗車券等の委託販売を実施していたが、2009年11月時点では行われていない。

のりば
(駅舎側) ■有馬線(下り) 有馬口・有馬温泉・横山・三田方面
(反対側) ■有馬線(上り) 谷上・鈴蘭台・湊川・新開地方面


※のりば番号は設定されていない。
ホーム幅は狭く、緩く左にカーブしています。
ホームは構内踏切で結ばれています。

駅周辺
住宅が多い。

多聞寺
唐櫃インターチェンジ(六甲有料道路及び六甲北有料道路)
兵庫県道15号神戸三田線(有馬街道)


路線バス
六甲登山口停留所(有馬街道沿い)
6系統:三宮駅前(三宮バスターミナル) 行/有馬温泉 行(阪急バス・神姫バス共同)
14系統:三田駅 行/神戸駅 行(神姫バス)
なお、「六甲登山口」という停留所は阪急六甲駅近くにも存在する(神戸市営バスが停車)。


その他
阪急六甲駅は南に約7キロ、徒歩で約4時間半(シュラインロード・アイスロード経由)

鉄道では新開地駅経由で約56分、谷上駅から北神急行電鉄・神戸市営地下鉄経由(三宮駅乗換)でも約41分ほどかかる。

隣の駅
神戸電鉄
有馬線
■特快速・■急行
通過
■準急・■普通
大池駅 (KB12) - 神鉄六甲駅 (KB13) - 唐櫃台駅 (KB14)

1928年(昭和3年)11月28日 - 神戸有馬電気鉄道の湊川 - 電鉄有馬(現在の有馬温泉)間開通と同時に、六甲北口駅として開業。
1929年(昭和4年)10月10日 - 六甲登山口駅に改称。
1947年(昭和22年)1月9日 - 三木電気鉄道との合併により、神有三木電気鉄道(現在の神戸電鉄)の駅となる。
1988年(昭和63年)4月1日 - 神鉄六甲駅に改称。
1996年(平成8年)10月 - 駅舎改築


神鉄六甲駅*
しんてつろっこう
SHINTETSU-ROKKO
◄KB12 大池 (1.0km)(0.8km) 唐櫃台 KB14►
神戸市北区有野町唐櫃字種池3039-2
北緯34度47分7.99秒 東経135度12分23.90秒座標: 北緯34度47分7.99秒 東経135度12分23.90秒
駅番号 ○KB13
所属事業者 神戸電鉄
所属路線 有馬線
キロ程 18.1km(湊川起点)
新開地から18.5km


駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 523人/日(降車客含まず)
-2017年-
開業年月日 1928年(昭和3年)11月28日
備考 無人駅
* 改称経歴
- 1929年 六甲北口駅→六甲登山口駅
- 1988年 六甲登山口駅→神鉄六甲駅

出町柳駅 京阪電気鉄道

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出町柳駅(でまちやなぎえき)は、京都府京都市左京区にある、叡山電鉄・京阪電気鉄道の駅。駅番号は京阪電気鉄道がKH42、叡山電鉄がE01。

「出町柳」で鴨川左岸(東側)の当駅周辺の地名として定着しているが、元は出町と柳の二つの地名を合わせた駅名である。出町は鴨川右岸(西側、上京区側)の河原町今出川付近一帯を指す俗称、柳は鴨川左岸(東側、左京区側)の当駅周辺の字である(なお、叡山電鉄側の現所在地が「左京区田中上柳町」、京阪電鉄側の現所在地が「左京区田中下柳町」である)。


島式ホーム1面2線を有する地下駅。ホームは10両分の長さがあるが、大阪寄りの約2両分は使用されておらず、線路との間は壁となり今出川口への通路となっている。そのため、今出川口からホームまでの動線距離が長い。

改札口は北寄りの「叡電口」と、南寄りの「今出川口」がある。鴨川へ排水する雨水用下水道幹線が今出川通の下を通っているため、叡電口側と今出川口側は改札外のコンコースで繋がっていない。双方の改札口間はホームまたは地上を経由して行き来する。

叡電口は叡電駅舎内とその周辺および今出川通北側につながっている。叡電駅舎内からコンコース階に下りた地点と改札口は少し離れており、下り下段のエスカレーターはロングエスカレーターと称され、下りた先の部分がそのままムービングウォークとなって、改札口近くまでつながっている。

今出川口は今出川通南側の出入口につながっている。今出川通を経由する西行きのバス停に近い。利用時間は7:00から21:00までである。ただし、毎年8月16日夜には、駅近辺を主体に開催される大文字五山送り火観客に対応して、利用時間を30分延長することがある。

今出川通と川端通の交差点四隅の4か所の出入口のうち南側の2か所は今出川口、北側2か所は叡電口の改札コンコースに繋がっている。

道路からほぼ平面の叡山電鉄駅舎内から叡電口コンコースへの通路と、叡電口コンコースからホームへはエレベーターが設置されており車椅子等での移動が可能である。

当駅は始発駅であることから、以前は独自の発車メロディが流れており、特急・K特急の場合は『牛若丸』のアレンジ曲であった。2007年6月17日からは向谷実作曲による発車メロディが導入された。K特急の発車時は『出町柳から』が使用されていたが、2008年10月のダイヤ改正でK特急の設定が廃止されたため、同時に使用終了となった。しかし、2009年12月の臨時快速特急(中之島行)運転時に使用された。2016年3月19日のダイヤ改正では、京橋~七条間ノンストップの列車(快速特急)が再び設定され、『出町柳から』のメロディも復活したが、2017年8月5日に向谷実作曲の快速特急用メロディが導入され、再び使用終了となった。

京都における終端駅であることから、列車で「京都出町柳駅」と行き先案内することがあった。2003年秋のダイヤ改正以降は使われなくなったが、電光掲示板およびLED式の行先表示機を搭載した車両ついては、2017年7月より大阪府内の駅で「京都 出町柳」と表示されるようになった。

駅ホームのカラーリングは黄緑である。

のりば
番線 路線 行先
1・2 ■鴨東線・京阪本線 中書島・枚方市・淀屋橋・中之島線方面
両ホームとも8両編成の停車が可能。特急は通常は2番線からの発車となる。快速特急は2番線のみの発車となる。当駅の大阪寄りに引き上げ線が1線あり、折り返し列車の調整などで使用する。

快速特急・特急・通勤快急・快速急行の乗車扱い
開業から2017年2月24日までの間、快速特急・特急・通勤快急・快速急行のうち、転換クロスシート装備列車(8000系・新3000系)は当駅到着時に少し手前の停車位置に止まり、乗客を全部降ろしてからいったんドアを閉め、転換クロスシートの向きを変え、車内整理を行ってから少し前進して本来の乗車位置でドアを開けて乗客扱いをおこなっていた(ただし、回送列車の折返しを除く)。これは乗車と降車のドア扱いを分離する目的があるほか、車内に乗客がいる状態で転換クロスシートの自動転換作業を行うと危険であるという理由もあった(早朝及び夜間時、人身事故などによる遅延時には行わない)。2013年まで存在したテレビカー設置車両(8000系および初代3000系の5号車)のみ、テレビの設置方向にあわせるため進行方向に対して後ろ向きに転換を行っていた。

座席転換作業の必要がないロングシートの6000系・7200系・9000系などを使用する列車であっても、乗降客分離のための停車位置変更は必ずおこなわれていた。ただし8000系を使用する当駅行き特急が到着後、大阪方面行き急行として折り返す場合は、この扱いはなされなかった。

2017年2月25日のダイヤ改正日から淀屋橋・出町柳駅における車内整理のための列車移動が廃止され、直接乗車位置まで列車が来て停車し、車内整理(車内清掃、座席転換等)後にそのまま乗車が可能な形に変更された(早朝及び深夜時は車内整理は行わない)。

モニュメント
京阪鴨東線の開通を記念して駅構内に元大谷大学教授下村良之介作の「月明を翔く」・徳力富作「洛北八景」・京都市立芸術大学教授福島敬恭作の「ダンシングブルー」が設置されている。

その他
列車運行管理システム ADEC(自立分散式運行管理システム)の19駅有る各信号取り扱い駅の一つで駅制御装置が配置され信号機やポイントの制御から駅の案内放送や行き先表示まで自動化されている。

災害対策として防災管理盤により駅設備はモニターリングされ、万が一の火災発生時には防火防煙シャッターの制御・排煙機の運転、避難路確保の為の自動改札機の開放、火災発生表示機の点灯・運転指令所への通報が自動またはワンスイッチでおこなえる。また地下駅の構内でも警察無線や消防無線が使えるように無線通信補助設備や防災電話などが完備されている。

設備の更新 1989年の鴨東線開通から25年以上たち老朽化した設備の更新が開始され、2015年(平成27年)1月9日~同月23日にかけてホーム階-地下コンコース間のエレベーター更新。蛍光灯のLED照明への更新、2017年に叡電口のトイレのリニューアル、同年5月23日同年7月中旬までかけて構内エスカレーター2基が更新される。

京阪 出町柳駅
でまちやなぎ
Demachiyanagi
◄KH41 神宮丸太町 (1.3km)
所在地 京都市左京区賀茂大橋東詰
駅番号 KH  42
所属事業者 京阪電気鉄道
所属路線 ■鴨東線
キロ程 2.3km(三条起点)
淀屋橋から51.6km
電報略号 出(駅名略称方式)
駅構造 地下駅
ホーム 1面2線
乗降人員
-統計年度- 38,647人/日
-2017年-
開業年月日 1989年(平成元年)10月5日
備考 所在地は同社公式サイトに準拠(町域はおおむね田中下柳町に位置する)。

1951 Mercury coupe

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1951 Mercury coupe
エンジン:4184cc 馬力:112hp

マーキュリー(Mercury )はアメリカのフォード・モーター社が1938年から生産していた自動車のブランド名。最終的にはアメリカ合衆国、メキシコ、プエルトリコ、アメリカ領ヴァージン諸島、中東のみで展開されていたが、一般向けは2010年10月3日に最後の1台であるマリナーの生産が終了し、レンタカー向けも2011年1月4日に最後の1台となったグランドマーキーが生産ラインを離れ、70年以上にわたるブランドの歴史に幕を閉じた。


フォード・モーター社のラインナップにおいて、大衆車ブランドのフォードと高級車ブランドのリンカーンの中間に位置づけられた、中級~準高級カテゴリーの車種であった。ブランド名の由来はローマ神話に登場する商業神メルクリウスの英語名にちなんだものである。1930年代に至るまで、フォード・モーターには大衆車のラインナップを担う「フォード」、そして高級車のラインナップを担う「リンカーン」の2ブランドしか存在しなかった。しかしフォード・モーターのライバルのゼネラルモーターズ(GM)は、中級車だけをとっても「ビュイック」、「オールズモビル」、「ポンティアック」の3ブランドを擁しており、対GM戦略上、フォード・モーターも新たに中級車ブランドを立ち上げる必要に迫られていた。
無論フォード・モーターも中級車市場の伸びに手をこまねいていたわけではなく、GMが『廉価なキャデラック』というスタンスで製造・販売していた「ラサール」への対抗車種として「リンカーン・ゼファー」を投入するなどの対策は取っていたが、GMのビュイックが「40型」というモデルの投入によって全米4位にまで上りつめたという事態を受け、フォード・モーターも中級車市場対策に本腰を入れるべく新車種の投入を決断する。


フォード・ブランドの上級ブランドとしてスタートしたマーキュリーは次第にリンカーン・ブランドの弟分的性格を強めていき、第二次世界大戦中の民生用自動車製造中止の時期を経た1945年に、フォード・モーターの社内でマーキュリーとリンカーンの両部門が統合され、『リンカーン・マーキュリー部門』となった。
1950年代の好景気を元に販売台数を伸ばす中、1958年に新車種「エドセル」が独立ブランドのもとに発売され、『マーキュリー・エドセル・リンカーン部門』になったが、1960年のエドセルの発売中止に伴い、当時のフォード2世会長の指示のもと、再び『リンカーン・マーキュリー部門』に戻り、この体制がブランドの廃止まで続いた。マーキュリーはその長い歴史の中で、『フォード・ブランドの兄貴分』という性格と『リンカーンの弟分』という性格の間を揺れ動き続けていたが、やがてマーキュリーはフォード・ブランドとの明らかな違いを打ち出せなくなり、販売不振に悩むことになる。マーキュリーは1993年に48万台以上の売り上げを達成していたが、その後2000年代に入り売り上げの下落が続き、最盛期の半分を割る20万台にまで売り上げが落ち込んだ。1999年にはカナダ市場から撤退し、アメリカでも2007年末に最後のマーキュリー専売ディーラーが閉店してリンカーンとの併売ディーラーのみとなった。2010年時点でマーキュリーブランドのラインアップは4車種にまで減った。


このような状況からマーキュリーブランドの廃止がたびたび囁かれていたが、2008年7月にフォード・モーターは小型車に注力する新戦略を発表し、その中で北米地域ではフォード、リンカーン、マーキュリーの3ブランドを引き続き維持するとしていた[1]。また、フォード・フォーカスと同じグローバル・コンパクトカー・プラットフォームをベースとする新しい小型車を、2011年初めにマーキュリーブランドで発表する計画もあった[2]。しかし、2010年6月2日、フォードはマーキュリーブランドを閉鎖し、フォードブランドおよび今後拡大を図るリンカーンブランドに注力することを正式に発表した[3]。2010年10月3日に、一般向け最後の1台である「マリナー」をカンザスシティの工場で完成させた。アメリカ政府やアメリカ海軍、レンタカー会社向けに少数のマーキュリーモデルの製造が続いたがそれも短期間で、2011年1月4日午前7時46分、グランドマーキー・アルティメート・エディションの最後の1台がカナダ・セントトーマス工場を後にしたことで、ブランドの歴史に幕を閉じた。

枚方市駅 京阪電気鉄

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枚方市駅(ひらかたしえき)は、大阪府枚方市岡東町にある、京阪電気鉄道の駅。快速特急「洛楽」を除いた全種別が停車する。駅番号はKH21。

利用可能な鉄道路線
京阪電気鉄道
京阪本線
交野線 - 始発駅

駅構造
京阪唯一の島式3面6線ホームの高架駅で待避設備を有し、京阪の駅で最大規模を誇る。基本的に北側の2面4線が京阪本線用、南側の1面2線が交野線用である。

改札は大阪方の中央改札と、京都方の東改札の2ヶ所にある。中央改札には「けいはんインフォステーション」があり、明るく広々とした駅づくりが施され、外装も都会的デザインである。また、京阪百貨店を核とするショッピングモールである京阪枚方ステーションモールが駅構内に存在する。

2015年より、駅構内の耐震補強工事が実施された。2018年2月より2階のコンコース・京阪百貨店のリニューアル工事が開始され、2019年3月完成予定。このリニューアルは、京阪グループの中期経営計画における重要事業の一つに位置付けられる大規模なもので、無印良品ブランドを展開する良品計画の協力を得て行う。

のりば
番線 路線 方向 行先 備考
1・2 ■京阪本線 上り 中書島・三条・出町柳方面 
3・4 下り 守口市・京橋・淀屋橋・中之島線方面 
5 一部の始発列車
■交野線  交野市・私市方面  
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京阪本線ホームは外側2線(1番線と4番線)が主本線、内側2線(2番線と3番線)が待避線である。
1 - 5番線は8両編成、6番線は5両編成(設計上は7連)まで停車可能。京阪本線ホームは内側の2線(2番線及び3番線)が待避線となっている。折り返し用の引上線も1本ある。
交野線5番ホームは淀屋橋寄りの線路が京阪本線に繋がっており、交野線の列車だけでなく、平日朝の淀屋橋方面行き折り返し列車のライナー1本と通勤準急2本も使用する。駅構内には5番線から発車する本線の列車のみ表示されている案内が掲出されている。一方、6番ホームは行き止まりになっており、交野線内折返し列車のみが使用する。2011年5月27日までは、交野線はラッシュ時を除き6番線のみ使用だったが、翌28日の改正以後は5・6番線を交互に使用。2016年3月19日改正以降は、再び6番線のみを使用するようになった。
3番線は京橋方からの入線にも対応している。回送列車で入線し、折り返し営業となる列車の一部が使用している。
当駅に停車するラッシュ時の一部の特急と通勤快急・快速急行は、本来待避線である2・3番線を使用することがある。この場合、接続待ちの列車はそれぞれ1・4番線を使用する。
3番線に停車する朝ラッシュ時の一部の通勤準急、準急は、緩急接続なしで発車する列車が存在。
本線の京都側に折り返し用の引き上げ線があり、淀屋橋方面からの折り返し列車は原則として一旦引き上げ線に入ってから折り返しの運用に就く。この引き上げ線は、2番線・3番線にしか通じていない。よって、当駅発着列車は原則として2番線・3番線を使用するが、折り返さずに回送列車との間で種別変更する場合はこの限りでない。
当駅は夜間滞泊の設定があり3番線にて本線の下り最終の当駅止まりの列車が、6番線にて交野線の列車が行う。

ダイヤ
2016年3月18日までは、昼間時に出町柳駅発着の特急と普通・準急の緩急接続が行われていた。 2016年3月19日改正より、特急と準急の緩急接続・待避は、樟葉駅・香里園駅に見直された。2017年2月25日のダイヤ修正では、昼間時萱島止めだった普通3本のうち1本が当駅発着に延長され、毎時4本(20分ー10分に1本)のサイクルで、特急と当駅始発の普通が接続をとる。そのため、日中の京都方面の列車は全て1番のりばから発車する。 夕ラッシュ時・夜間は、従来通り特急と準急の緩急接続がみられる。

モニュメント
駅高架工事の完成を記念して駅構内にモニュメントが設置されたが、白髪一雄作「作品B」が2015年10月10日深夜に盗難に遭い、2017年7月20日現在・窃盗犯、盗品と知りながら購入した会社役員が逮捕され「作品B」も証拠品として警察に留め置かれている。

三塩英春作「枚方八景」
清水九兵衛作「ヒラカンザシ」
山口牧生作「依るかたち」
白髪一雄作「作品B」
その他
駅の高架化に併せて身体障害者対応エレベーターと多目的トイレが設置され、後にオストメイト対応装置も追加された。なお、トイレの洗浄水は牧野駅近くの「渚水みらいセンター(下水処理場)」からの処理水が使われている。

2001年9月21日に第2回近畿の駅百選に選定された。
本線から交野線への乗り換え案内は、以前は「交野市・私市方面」と呼称していたが、2003年夏以降は「交野線」と呼称している。
2003年にCD『出町柳から』が発売され、その「出町柳から」の2番の歌詞には「枚方市には平日朝ラッシュ時の淀屋橋行きのみ停車です」とあるが、これはそのCDが特急終日停車となる前に発売されたためである。一方でそのカップリング曲「朝靄の京橋で乗り換え」の歌詞に「枚方市にはこの秋からいいことがあると誰かが言ってます」とあるが、これは「枚方市駅の特急停車」のダイヤ改正予告であった(当時、樟葉駅の特急停車の計画はなかった)。
駅構内にはコンビニ(アンスリー)が3店舗、神戸屋パン屋、らぽっぽ、セカンドポシェ、ジューサーバー(以上が改札内に存在)、UNIQLO、吉野家、食遊館、京阪百貨店、京阪ザ・ストア、大阪府北大阪赤十字血液センター(京阪枚方市駅献血ルーム)などその他枚方ステーションモールとして、様々な喫茶、飲食店、美容などの施設が集中している。
中央改札出てすぐのところにエフエムひらかたのサテライトスタジオがある。(かつては東改札前にあった。)
2007年6月17日に列車運行管理システムが更新され、向谷実作曲の発車メロディが導入された。なお、交野線には専用の発車メロディが使用されている。

1910年(明治43年)の開業当時は、枚方宿の大阪側にある現・枚方公園駅が枚方駅を名乗り、当駅は枚方東口駅であった。その後、当駅が枚方市の中心駅となったことから、1949年(昭和24年)に改称された。この際、旧枚方駅との混同を避ける目的もあって枚方市駅となる。京阪電気鉄道が現在営業している「〜市駅」のなかで最も歴史が古い。なお、京阪における「〜市駅」の第一号は、会社分離前の新京阪線(現在の阪急京都本線)高槻市駅である。

1939年(昭和14年)3月1日午後2時45分、大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫第15番倉庫にて弾体から信管を取り外す作業中に爆発が発生。折からの強風に煽られ3時29分、砲弾・炸薬に引火誘爆した。半径2 km に弾丸や破片が飛び散る大爆発で消火活動も行えない状態が3日間も続き、降り注いだ砲弾の破片などで送電線・電車線・電気供給施設が損壊。同月4日午後8時に運転再開するも、駅の再開は6日までずれ込んだ。

太平洋戦争後には乗降客数の増加がみられ、1955年(昭和30年)に18383人/日であったのが、1959年(昭和34年)には29344人/日へと約60%増加した。その後1960 - 1970年代は香里団地を始めとする宅地開発により、乗降客数は急増していった。

また自動車の普及や列車本数の増加により、駅周辺の開かずの踏切問題が表面化したため、駅の高架化(連続立体交差事業)が計画された。駅の高架化事業は1978年(昭和53年)12月に着工、1988年(昭和63年)5月に上り線(京都行き)高架化。続いて1990年(平成2年)3月に下り線(大阪行き)が、1991年(平成3年)6月に交野線が単線高架化、1992年(平成4年)11月に複線高架化。以後も付帯工事を続け、1993年(平成5年)3月25日に高架化工事は竣工した。

1980年(昭和55年)2月20日夜、当駅と御殿山駅の間の通称「磯島曲線」で発生した京阪電車置石脱線事故では、復旧に翌21日の午後までかかり、復旧まで淀屋橋駅 - 当駅間で折り返し運転を行い、特急は21日始発より運休した。運休中は樟葉駅と当駅の間で、バスによる振替輸送が行われた。

1997年(平成9年)には朝ラッシュ時の下り特急が、また2003年(平成15年)には全ての特急列車が当駅に停車するようになり、利便性が向上した。さらに、2011年(平成23年)には快速特急(旧)が廃止されたことにより、洛楽の定期運転開始の2016年までは当駅は全ての定期営業列車が停車する駅となった。

年表
1910年(明治43年)4月15日 - 京阪本線開業と同時に枚方東口駅として設置。
1916年(大正5年)4月1日 - 急行停車駅となる。
1917年(大正6年)
9月 - 上家改築、操車移転。
10月1日 - 大正大水害で当駅から京都側が不通に、14日に淀駅まで開通。
1929年(昭和4年)
7月10日 - 信貴生駒電鉄枚方線(現在の京阪交野線)開業。
8月27日 - 駅を移設。
1939年(昭和14年)
3月1日 - 陸軍火薬庫の爆発事故により香里園駅 - 樟葉駅間が不通、3月6日駅の使用が再開。
5月1日 - 路線譲渡により信貴電枚方線の駅は交野電気鉄道の駅となる。
1943年(昭和18年)10月1日 - 会社合併により京阪本線の駅は京阪神急行電鉄の駅となる。
1945年(昭和20年)5月1日 - 会社合併により交野電気鉄道の駅が京阪神急行電鉄の駅に統合される。
1949年(昭和24年)
10月1日 - 枚方市駅に改称。
12月1日 - 会社分離により京阪電気鉄道の駅となる。
1959年(昭和34年)
4月25日 - 京阪線下りホームと交野線ホーム間陸橋竣工。
10月5日 - 上下ホーム間の跨線橋竣工。
1963年(昭和38年)5月9日 - 北口新設、使用開始。
1965年(昭和40年)6月15日 - 南口に京阪枚方案内所を開設。
1969年(昭和44年)3月 - 踏切集中制御装置の中央装置を設置。
1972年(昭和47年)3月5日 - 上り線2番線を主本線、1番線を副本線に変更。
1975年(昭和50年)3月20日 - 東口改札口新設、使用開始。
1978年(昭和53年)12月 - 枚方市駅と、その周辺の高架化事業着工。
1980年(昭和55年)
2月20日 - 当駅〜御殿山駅間の「磯島曲線」で京阪電車置石脱線事故が発生。
4月20日 - 交野線枚方市駅 - 宮之阪駅間の一部、高架工事に伴い仮線に移設。
1981年(昭和56年)4月5日 - 駅構内の交野線線路を移設、使用開始。
1988年(昭和63年)5月28日 - 京阪本線上り線が高架駅となる。現駅舎部分の使用を開始。なお枚方公園駅 - 枚方市駅間の地上線は折返し列車及び交野線への回送用として複線のまま残される。
1990年(平成2年)
3月24日 - 京阪本線下り線が高架駅となる。なお枚方公園駅 - 枚方市駅間の地上線は交野線との連絡線として単線で残される。
7月 - 京阪線の上下各ホームの待合室冷房設置。
1991年(平成3年)6月1日 - 交野線単線高架化により交野線ホームが高架仮ホームになる。駅周辺の踏切完全除去。
1992年(平成4年)11月28日 - 交野線複線高架化。
1993年(平成5年)
3月25日 - 京阪本線・交野線連続立体交差事業による高架工事が完成。
9月5日 - 中央改札口の改良工事竣工。
1994年(平成6年)
6月10日 - 枚方市駅高架下に「京阪サービスコア」がオープン。
10月1日 - 『京阪ステーションモール』グランドオープン。「京阪ザ・ストア枚方店」「京阪百貨店枚方店」営業開始。
1995年(平成7年)4月28日 - ステーションモールに「エル枚方食遊館」営業開。
1996年(平成8年)12月9日 - 第3回「大阪・心ふれあうまちづくり賞」の『大阪府知事賞』を受賞。
1997年(平成9年)3月22日 - 平日朝ラッシュ時の淀屋橋駅行きに限り特急が停車するようになる(出町柳駅行きは引き続き全列車通過)。
1998年(平成10年)3月16日 - ホーム異常通報装置設置。
2001年(平成13年)9月21日 - 第2回近畿の駅百選に選定される。
2003年(平成15年)9月6日 - 特急終日停車駅となる。平日昼間時以外に新たに設定されたK特急については、旧来の特急同様に朝ラッシュの淀屋橋行きに限り停車することになる(ただし、2008年10月改正により淀屋橋行きのK特急は特急に格下げされ消滅)。
2004年(平成16年)4月13日 - 駅構内に京都銀行のATM設置、運用開始。
2006年(平成18年)1月30日 - AED (自動体外式除細動器)を設置(関西医科大学附属香里病院から寄贈)。
2007年(平成19年)9月22日 - 交野線ワンマン運転開始。
2010年(平成22年)4月27日 - 駅前の商業施設「ビオルネ」と駅を結ぶ連絡通路・歩道橋が完成。
2012年(平成24年)4月 - 中央改札口横のトイレのリニューアル工事竣工。
2015年(平成27年)11月16日 - 3番ホーム5番ホーム下に足下灯を設置、使用開始。
2016年(平成28年)
3月15日 - 事故情報などをリアルタイムに知らせる「旅客案内ディスプレー」を設置。
3月19日 - この日のダイヤ改正でこれまで本線で日中に運行していた中之島駅 - 出町柳駅間の普通列車が当駅折り返しとなった。日中の急行も廃止されたため、当駅より京都方面は日中は準急と特急のみの運用となった。
8月 - 関西の駅で初めて駅構内に宅配便受け取りロッカーを設置。
2018年(平成30年)12月15日 - 駅ナカ商業施設「ひらかたもより市」が中央改札内にオープン。

枚方市駅
ひらかたし
Hirakatashi
所在地 大阪府枚方市岡東町19-14
北緯34度48分58.05秒 東経135度38分54.31秒
駅番号 KH  21
所属事業者 京阪電気鉄道
電報略号 枚市(駅名略称方式)
駅構造 高架駅
ホーム 3面6線
乗車人員
-統計年度- 46,666人/日(降車客含まず)
-2017年-
乗降人員
-統計年度- 93,789人/日
-2017年-
開業年月日 1910年(明治43年)4月15日
乗入路線 2 路線
所属路線 ■京阪本線
キロ程 21.8km(淀屋橋起点)
◄KH20 枚方公園 (1.0km)(1.7km) 御殿山 KH22►
所属路線 ■交野線
キロ程 0.0km(枚方市起点)
(1.0km) 宮之阪 KH61►
備考 * 1949年に枚方東口駅から改称

長崎電気軌道1800形電車 

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長崎電気軌道1800形電車(ながさきでんききどう1800がたでんしゃ)は、2000年(平成12年)に登場した長崎電気軌道の路面電車車両である。

朝ラッシュ時に運用されていた非冷房車の置き換えを目的として[5]、アルナ工機にて2000年(平成12年)に2両(1801 - 1802)、2002年(平成14年)に1両(1803)の3両が製造された。
1982年(昭和57年)登場の1200形以来続く、車体のみを新造し主要機器を廃車発生品や予備品などから流用する機器更新車であるものの、車体構造や塗装はそれまでの形式から一新され、制御機器も同社の抵抗制御として初めて間接制御が採用されるなど、従来車とは相違点が多くなっている。

車体
車体構造は、1980年(昭和55年)の2000形から1999年(平成11年)の1700形まで続いた軽快電車スタイルから一新されている。
車両限界の見直し・拡大により、1700形と比較して車体幅は50mm、車体長も440mm延長され、同社初の12メートル級車両となった。窓配置は1700形と同様(D2D2)であるものの、側面・扉の窓寸法は拡大されている。車体塗装もホワイトをベースにワインレッドの濃淡の組み合わせで、在来車から一新された。側面は屋根上の機器を隠すように鋼体が上部に延長され、足回りも床下機器に保守性を考慮し開閉式としたカバーが設けられている。
行先表示器は経由する主要電停名を表示可能な大型のものが中扉左側の窓上部に設置されている。中扉(乗車口)は2000形以来となる両開き2枚折戸(開口幅1,300mm)となり、ステップと車内の段差も従来車より低減されている。

正面デザインは行先表示器と前面窓を一体化した、広島電鉄の5000形に類似した形状となった。
正面窓ガラスは垂直方向に曲線を描いた曲面ガラスで、行先表示器はガラスの内側に設置されている。前照灯・尾灯は、1700形までの丸型から角型となった。なお、前述の通り従来車から車体幅が拡大されたことから、夜間における車外からの車体幅確認を容易にするため、1500形・1700形では内側に配置されていた前照灯が、本形式では外側に配置されている。排障器はスカートタイプとなっている。
客室内は、座席幅の拡大や握り棒・降車ボタンの増設、フリーストップ式カーテンの採用等マイナーチェンジが図られている。

主要機器
台車(FS-51型)および主電動機(東洋電機TDK-524-2C型)は、西鉄北九州線600形の廃車発生品を流用していることから、基本性能は同じく600形の機器流用である1500形に準じている。

制御装置は、運転操作の簡易さや加速時の衝撃低減の観点から、新造品の間接自動制御(東洋電機ES653-A-M型)のものが搭載され、同社の抵抗制御車としては初の間接制御車となった。運転台の主幹制御器はデッドマン装置付きの左手操作式・ワンハンドルタイプ(東洋電機ES9215-A-M型。力行3ノッチ、電気制動1ノッチ)を搭載するが、ブレーキは在来車と同様のもの(SM-3型)が引き続き搭載されている。


2000年12月20日より営業運転を開始した。
2002年登場の1803号は、製造当初より制動系統の二重化、抵抗器の屋根上搭載(1801・1802号では床下に設置)といったマイナーチェンジが行われ、1801・1802号においても同様の改造が施行された。
2018年(平成30年)4月現在、3両(1801-1803)が在籍する。
2018年現在、全車がカラー電車Cタイプとして全面広告の対象となっている。


長崎電気軌道1800形電車
基本情報
製造所 アルナ工機
主要諸元
軌間 1,435 mm(標準軌)
電気方式 直流600 V(架空電車線方式)
車両定員 55人(座席28人)
車両重量 15.8 t
最大寸法
(長・幅・高) 12,140 × 2,300 × 3,740 mm
車体 普通鋼(全金属製)
台車 住友金属工業 FS-51
主電動機 直流直巻電動機 東洋電機製造
TDK-524-2C
主電動機出力 45 kW(一時間定格)
搭載数 2基 / 両[1]
駆動方式 吊り掛け駆動
歯車比 59:14
制御装置 
間接制御
東洋電機製造
ES653-A-M
制動装置 直通ブレーキ SM-3、電気
備考 製造両数:3両

ケーブル八幡宮山上駅 京阪電気鉄道鋼索線

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ケーブル八幡宮山上駅(ケーブルはちまんぐうさんじょうえき)は、京都府八幡市八幡平ノ山にある、京阪電気鉄道鋼索線(石清水八幡宮参道ケーブル)の駅。駅番号はKH81。2019年9月までの旧称は男山山上駅。

約3分で京阪本線(石清水八幡宮駅)と接続のあるケーブル八幡宮口駅に着く。但しそこで乗り換えるためには一度改札を出る必要がある。

駅構造
櫛形2面1線のホームを持つが、通常は西側の1面1線しか使用されない。2階建ての駅舎です。改札口は無人化されており(運転扱いのため係員はいる)、当駅から乗車する場合はケーブル八幡宮口駅での出場時に運賃を精算することになる。

駅周辺
石清水八幡宮
京都国学院

1926年(大正15年)6月22日 男山索道の男山駅として開業。
1928年(昭和3年)5月28日 社名変更により男山鉄道の駅となる。
1944年(昭和19年)2月11日 資材供出のため廃止。
1955年(昭和30年)12月3日 京阪電気鉄道鋼索線の八幡宮駅として改めて開業。
1957年(昭和32年)1月1日 男山山上駅(おとこやまさんじょうえき)に改称。
2019年(令和元年)10月1日 ケーブル八幡宮山上駅に改称。


ケーブル八幡宮山上駅*
ケーブルはちまんぐうさんじょう
Cable-hachimangu-sanjo
◄KH80 ケーブル八幡宮口 (0.4km)
所在地 京都府八幡市八幡平ノ山85-1
北緯34度52分51.51秒 東経135度41分59.36秒
駅番号 KH  81
所属事業者 京阪電気鉄道
所属路線 ■鋼索線(石清水八幡宮参道ケーブル)
キロ程 0.4km(ケーブル八幡宮口起点)
駅構造 地上駅
ホーム 櫛形 2面1線
開業年月日 1955年(昭和30年)12月3日**
備考 *1957年に八幡宮駅から改称
**前身として1926年から1944年まで男山駅があった


フラワータウン駅 神戸電鉄公園都市線

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フラワータウン駅(フラワータウンえき)は、兵庫県三田市弥生が丘一丁目にある神戸電鉄公園都市線の駅。駅番号はKB31。標高188m。線内最大の利用者数がある駅です。
乗務員が使用している時刻表の駅名欄は文字数の関係で『フラワー』と表記されている。

駅構造
島式1面2線のホームを持つ駅。駅舎は駅ビルを併設した橋上駅舎です。ホーム有効長は5両、ただし、通常は3両編成の運用のみである。緊急時の代替や、ウッディタウンサティ(現在のイオンウッディタウン店)開業など多客時に4両編成が入線したこともある。

駅ビルは7階建てで改札口が1階に見えるが、実際はホームが1階で改札口は2階の扱いになっている。 隣接するフローラ88ショッピングセンター(イオン三田店)2階と駅ビルの3階が連絡通路で接続されているが、その連絡通路の先には近隣のスーパー1階やホテル2階と段差なく行き来できる。

構内売店が設置されていた頃もあったが、2015年2月現在は撤退している。

ホームへのエレベーターが一つ設置されている。

切符売場の券売機は3台設置されています。改札口の改札機は4台。

神戸電鉄の方向幕には、当駅が中間駅になった現在でも『フラワータウン』の表示が残っている。

のりば
1 ■公園都市線(上り) ウッディタウン中央方面
ホームにはLED式の発車案内が設置されています。

2 ■公園都市線(下り) 横山・三田方面

1991年(平成3年)10月28日 - 横山 - 当駅間開通と同時に開業。
1996年(平成8年)3月28日 - 当駅 - ウッディタウン中央間が延伸開業、中間駅となる。

駅周辺
駅周辺は商業地、他は住宅地である。神戸三田国際公園都市の一角を担う。

兵庫県道720号テクノパーク三田線
三田フラワータウン駅前郵便局
フローラ88ショッピングセンター(イオン三田店)
兵庫県立人と自然の博物館
スーパーマーケットNISHIYAMA
三田サミットホテル

駅前広場は広く、各方面へのバス路線が乗り入れています。
フラワータウンセンター停留所
阪神高速経由神戸空港・三ノ宮行き(三田特急線)
学園7丁目行き(三田特急線)
つつじが丘北口行き(三田特急線)
関西記念墓園行き(三田特急線)
中国自動車道経由美奈木台行き
関西学院キャンパス行き
三田駅行き
新三田駅行き
大阪駅(ハービスOSAKA)・新大阪駅行き
プリンセスロード号 渋谷マークシティ・バスタ新宿行き。

フラワータウン駅
フラワータウン
◄KB27 横山 (2.3km)(2.2km) 南ウッディタウン KB32►
所在地 兵庫県三田市弥生が丘1丁目11
北緯34度53分7.86秒
東経135度12分8.37秒
駅番号 ○KB31
所属事業者 神戸電鉄
所属路線 公園都市線
キロ程 2.3km(横山起点)
三田から4.3km
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 2,864人/日(降車客含まず)
-2017年-
開業年月日 1991年(平成3年)10月28日
備考 無人駅(駅員が居る時間もある

叡山電鉄800系電車 

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叡山電鉄800系電車(えいざんでんてつ800けいでんしゃ)は、1990年(平成2年)から1995年(平成7年)にかけて京阪電鉄鴨東線開業により急増した旅客に対応する輸送力増強と旧型車両の置き換えのため、武庫川車両工業で2両編成5本、計10両が製造された叡山電鉄の電車である。叡山電鉄で初めて片運転台構造と2両永久連結を採用、全車が制御電動車である。本稿では叡山本線上で南側を出町柳寄り、北側を鞍馬寄りと表現する。


1989年(平成元年)10月の京阪電鉄鴨東線開業により、他の鉄道路線との接続がない状態を脱した叡山電鉄の利用客は2倍に増加し、1991年(平成3年)9月に鞍馬線岩倉駅 - 二軒茶屋駅間が複線化された。増加した線路容量に対応する輸送力増強のため、800系電車が製造された。路線の制約から車両の大型化や増結が容易にはできない中、叡山電鉄初の片運転台、2両永久連結構造とすることで客室面積を増加させている。車体は700系を基本に、片側3扉、片運転台となった。全車が制御電動車である。

クリーム色をベースに、編成ごとに異なる2色の帯をフィルムで貼り付ける塗装が採用されたが、最終製造の2両は「エコモーション・トレイン」と称する特別塗装となった。最初の2編成は機器が2両に分けて搭載される2両1ユニット方式のデオ800形、後の3編成は京阪電鉄500形電車の700形への改造工事で不要となった部品を流用して製造され、各車両がそれぞれ独立した機器をもつデオ810形となった。デオ810形の代替としてデナ21形6両が廃車され、デナ21形は形式消滅した[。2004年(平成16年)1月から鞍馬線の2両編成の列車がワンマン運転となり、800系でもワンマン運転が行われている。

形式
800系電車は、機器構成の違いによりデオ800形とデオ810形の2形式にわかれる。「デ」は電動車を「オ」は大型車を指す略号であり、形式名の前のカタカナ2文字はこれらを組み合わせたものである。

デオ800形
2両の電動車に機器を分散して搭載したいわゆる2両1ユニット方式を採用し、出町柳寄りの車両に800番台、鞍馬寄りの車両に850番台の番号が付与された。1990年(平成2年)10月に801 - 851号車の編成が、1992年(平成4年)10月に802 - 852号車の編成が製造された。出町柳寄りの車両に菱形パンタグラフ2基と主制御器が搭載され、鞍馬寄り車両の床下に冷房などの電源用の電動発電機が搭載されている。801 - 851号車の帯色は山並みをイメージした緑と800系共通のコバルトブルー、802 - 852号車の帯色は鞍馬の雲珠桜をイメージしたピンクとコバルトブルーである。
デオ810形
京阪大津線用500形の700形への改造工事で発生した主制御器、主電動機を流用している。全車両810番台の番号となり、出町柳寄りが奇数番号、鞍馬寄りが偶数番号である。1993年(平成5年)4月に811 - 812号車の編成、1994年(平成6年)3月に813 - 814号車の編成、1995年(平成7年)4月に815 - 816号車の編成が製造された。

811 - 812号車は、武庫川車両で予定されていた野上電気鉄道向け新型車両(80形)の製造が同社の事情からキャンセルされた(後に路線も廃止)ため、工程が速まったとされている。811 - 812号車の帯色は柳をイメージした黄緑とコバルトブルー、813 - 814号車の帯色は貴船・鞍馬の山藤をイメージした紫とコバルトブルーとされ、815 - 816号車は鞍馬の自然をイメージした淡青色に植物をあしらったアメリカ人デザイナー、アレックス・ボーイズによる「エコモーション・トレイン」となった。「エコモーション・トレイン」の運行初日となった1995年(平成7年)4月29日にはアレックス・ボーイズも出席して出発式が行われている。デオ810形の車体帯は、製造時から2色の間が開いたものとされている。

それぞれの車両に主制御器・パンタグラフ・冷房などの電源用の静止形インバータが搭載されている。静止形インバータが各車両の鞍馬寄り屋根上に、下枠交差形のパンタグラフが各車両の出町柳寄りに搭載されている。車輪径がデオ800形の860 mmから760 mmに変更されたこともあり、床面高さがデオ800形の1,147 mmに対し、1,100 mmとなった。


外観
車体は700系電車のものを基本としたが、正面窓ガラスが上下に拡大されて左右非対称となり、700系で正面窓上にあった前照灯が角型となって窓の下に降りて尾灯と一体のケースに納められた。片側2扉だった700系に対して3扉となり、戸袋には窓が設けられた。叡山電鉄の車両で初めて側面に行先表示器が設けられ、車体外部のナンバープレートが伝統の楕円形ではなくなった。801 - 851号車では正面の行先表示装置は向かって左側に設けられたが、それ以外の編成では右側に設けられている。妻面の戸当側に窓がない、アルミサッシが他編成の黒色に対し無塗装であるなど801 - 851号車の細部は他編成と異なる。最終製造の815 - 816号車以外はクリーム色を基調とした塗装とされ、カラーフィルムで窓下に帯が巻かれたが、帯の色は編成によって異なり、デオ810形では2色の帯に間隔があいている。


内装
客室・運転台
座席はすべてロングシートで、座席の色は紺、天井が薄いグレー、壁は薄いベージュ、床はオレンジとなった。叡山電鉄初の片運転台車両となり、運転台の面積分客室が拡大されている。813号車、815号車には車椅子スペースが設けられ、座席定員が2名減少している。電気指令ブレーキを採用したが、運転台の基本的なレイアウトは700系と同一とされ、乗務員室扉も700系同様引戸となった。


台車・主制御器・主電動機 ・制動装置
デオ800形801号車、802号車に1つの主制御器で2両分8個の主電動機を制御する東洋電機製造製電動カム軸式ACDF-M353-77Eが、デオ800形各車に東洋製TDK-8750-A主電動機(出力53 kW)が搭載された。デオ810形各車には京阪500形から流用された1つの主制御器で1両分4個の主電動機を制御する東洋製電動カム軸式ACDF-M460-777Aと同じく京阪500形から流用の東洋製TDK-8560-A(出力60 kW)主電動機を装備する[11][18][20]。デオ800形の台車は住友金属工業製FS-544、デオ810形の台車は同じく住友金属製FS-556で、それぞれ車輪径が860 mm、760 mmとなっている。叡山電鉄で初めて電気指令式ブレーキ(日本エヤーブレーキ製HRD-1)が採用された。

冷房装置・補助電源装置
冷房装置は車両中央部屋根上に容量15.1 kW(13,000 kcal/h)の東芝製RPU3044 2基が搭載された。デオ800形の補助電源装置は京阪から購入した容量70 kVAのTDK3720ブラシレス電動発電機が採用され、鞍馬寄りの車両の床下に搭載された[15]。デオ810形には各車の鞍馬寄り屋根上に容量 30 kVAの静止形インバータが搭載されている。

パンタグラフ・空気圧縮機
デオ800形の出町柳寄りの車両(800番台)に菱形パンタグラフ2基が、デオ810形各車の出町柳寄りに下枠交差形のパンタグラフが搭載された。デオ800形では850番台の車両に容量1,590 リットル/分のHB-1500B電動空気圧縮機が搭載され、デオ810形では各車両に電動機出力4.2 kWのDH-25が搭載された。デオ800形のパンタグラフ、空気圧縮機は京阪から購入したものである。

改造工事
800系電車には製造後各種の改造工事が行われている。
815 - 816号車の編成の塗装変更
815 - 816号車の登場時は「エコモーション・トレイン」塗装だったが、2003年(平成15年)7月に近畿車輛デザインによる四季の森をバックに動物を描いた「ギャラリートレイン・こもれび」に変更されている。
帯デザイン変更
2013年(平成25年)に801 - 851号車の、2015年(平成27年)に802 - 852号車の帯デザインがデオ810形と同様に2色の間に間隔があるものに変更され、併せて社名ロゴも変更されている。
ICカード対応
2016年(平成28年)3月16日から叡山電鉄でICカード式乗車券の利用が可能となったことにあわせ、運賃収受器と運賃表示器が対応したものに変更されるとともに、整理券発行機が撤去されている。
スカート設置
全編成に2017年(平成29年)から2019年(平成31年)にかけてスカートが設置されている。
801 - 851 2018年2月
802 - 852 2019年2月
811 - 812 2018年9月
813 - 814 2017年2月

運用
1989年(平成元年)10月に京阪鴨東線開業が開業し、1978年(昭和53年)4月の京都市電東山線の廃止以来、他の鉄道路線との接続がない状態を脱した叡山電鉄の利用客は2倍に増加した。増加した旅客に対応するため1991年(平成3年)9月に戦時中に単線化されていた鞍馬線岩倉駅 - 二軒茶屋駅間の複線を復活、同年10月に叡山電鉄初の2両永久連結の当系列が投入された。当系列は登場当時から叡山本線出町柳 - 宝ヶ池、鞍馬線宝ヶ池 - 鞍馬間で運用され、製造当初のみ叡山本線宝ヶ池 - 八瀬比叡山口間に乗り入れていた。2004年(平成16年)1月から、鞍馬線の2両運転の列車も原則としてワンマン運転となった。

叡山電鉄800系電車
基本情報
運用者 叡山電鉄
製造所 武庫川車両工業
製造初年 1990年
製造数 10両
主要諸元
編成 2両
軌間 1,435mm
電気方式 直流600V
(架空電車線方式)
車両定員 108人
座席定員45人
全長 15,700 mm
車体長 15,220 mm
全幅 2,690 mm
車体幅 2,600 mm
台車中心間距離 10,200 mm
主電動機 直流直巻電動機
搭載数 4基 / 両
駆動方式 平行カルダン 
制御装置 抵抗制御
制動装置 電気指令式ブレーキ(HRD-1) 
保安装置 ATS

住吉停留場 (長崎駅前方面は本線、赤迫方面は赤迫支線)

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住吉停留場(すみよしていりゅうじょう、住吉電停)は、長崎県長崎市住吉町にある長崎電気軌道の路面電車停留場。駅番号は12。1号系統、2号系統、3号系統が停車する。路線は当停留場を境に長崎駅前方面は本線、赤迫方面は赤迫支線と分かれるが、列車は全て両線を直通する。

住吉停留場は併用軌道区間にあり、ホームは道路上に設けられる。ホームは低床式で2面あり、2本の線路を挟んで向かい合わせに配される相対式ホーム。赤迫寄りから見て右に赤迫方面行きのホーム、左に長崎駅前方面行きのホームがある。

2007年(平成19年)1月には上屋がテント式から景観に配慮したシェルター式に取り換えられた。

住吉停留場は1950年(昭和25年)の開業。延伸によって新しく開業した路線の終点であった。その後1960年(昭和35年)に路線はさらに延伸し赤迫停留場が開業、終点の座を赤迫へと譲った。


ほとんどが長崎駅前方面へ(から)の利用者で、赤迫方面へ(から)の利用者はほとんどいない。沿線にある商店街の買い物客の利用も多い。長崎駅前まではJRが並走するが長崎市中心部へのアクセスで有利なことから近くにある西浦上駅より上回っている。

 


長崎市北部では最大の繁華街が広がり、隣の昭和町通停留場にかけては道路の両側に商店街のアーケードが架けられている。かつては人家もまばらだったが、電車の開通により発展した地域である。
停留場のやや長崎駅寄りには長崎バス・県営バスの「住吉」バス停留所がある。当停留場は長崎市近郊を走る路線バスと路面電車の乗り換え地点にもなっている。
住吉神社
JR九州長崎本線(長与支線)西浦上駅
中園アーケード


1950年(昭和25年)9月16日 - 大橋停留場から当停留場までの開通に伴い開業。
1960年(昭和35年)5月8日 - 赤迫までの区間(赤迫支線)が開通。停留場を移設。


住吉停留場
すみよし
Sumiyoshi
◄11 赤迫 (0.3km)(0.2km) 昭和町通 13A►
所在地 長崎県長崎市住吉町7番1号先
北緯32度47分31.75秒 東経129度51分35.31秒
駅番号 12
所属事業者 長崎電気軌道
所属路線 本線(長崎駅前方面)
赤迫支線(赤迫方面)
(■1号系統・□2号系統・■3号系統)
キロ程 0.3km(赤迫起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗降人員
-統計年度- 3,400人/日
-2015年-
開業年月日 1950年(昭和25年)9月16日
乗換 西浦上駅(長崎本線)

三条駅 京阪電気鉄道

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三条駅(さんじょうえき)は、京都府京都市東山区にある、京阪電気鉄道の駅。駅番号はKH40。京都市営地下鉄東西線の三条京阪駅と連絡しており、また周辺地域は「三条京阪」と呼ばれる。

駅名
地下鉄開業以前から、バス停の名称や地域名として「三条京阪」と呼ばれている。PHP研究所によれば、これの由来は「三条通の京阪前」に由来するとのことで、京阪の三条駅から転じたものではない。
「三条京阪」は周辺の地名ではなく、京都と大阪とを結ぶ京阪本線、および京都と大津とを結んでいた京津線との乗換駅であり、京阪の京都市内のターミナル駅でもある三条駅前のことを、三条通京阪前と呼んでいた事に由来する。なお、京阪の駅名は三条駅となっており「京阪」を冠しない(ただし、定期券、駅ビルの看板は「京阪三条」となっている)。

待避設備を備えた島式2面4線のホームを持つ地下駅で、京都市の中心部にある七条駅 - 出町柳駅間では最も規模が大きい。改札・コンコースは地下1階、ホームは地下2階にある。改札口は北改札と中央改札の2か所。地下1階の改札内には京菓子などの土産店、イスとテーブルが置かれた飲食物の自動販売機コーナーがある。

身障者対応エレベーターは中央口南側2基設置され、コンコース地上間は南北2つの駅ビルの中に設置されている。このほか、地下鉄東西線・三条京阪駅のエレベーターも使用可能である。北改札口内のトイレには階段があるが、車イス使用可能な多目的トイレは中央口改札内に設置されている。また、地下鉄東西線の三条京阪駅とは、地下1階(コンコース階)の改札外の連絡通路で結ばれている。

駅ホームのカラーリングは東海道五十三次の終点・大阪ビジネス街とを結ぶ古都の玄関口・そのにぎわい、華やかさにふさわしい染めの伝統色「うすあけ(ピンク)色」が採用された。七条駅 - 出町柳駅の「京都地下駅の色彩計画」が、平成4年2月15日 - 第7回『公共の色彩賞-環境色彩10選』(主催「公共の色彩を考える会」(財)日本色彩研究所)に選ばれ、表彰状のレプリカがコンコースに設置されている。

のりば
番線 路線 方向 行先
1・2 ■鴨東線 上り 出町柳行き
3・4 ■京阪本線 下り 中書島・枚方市・淀屋橋・中之島線方面
鴨東線開業後は、奇数番線(1番線と3番線)を主本線、偶数番線(2番線と4番線)を待避線にする配線となった。なお、現在もすべてのホームが四条方からの進入・出発に対応している。
出町柳方に引き上げ線が1本設置されている。定期列車では平日朝の当駅止まりの普通2本と準急1本と一部の回送列車が使用するほか、京都競馬場での競馬開催時や正月ダイヤなどで運行される当駅止まりの臨時列車でも使用される。
2016年3月19日のダイヤ改正で、上り(出町柳行き)の一部列車で緩急接続が逆(快速特急「洛楽」・特急・快速急行が2番線、普通・準急が1番線)になっていたが、2018年9月15日のダイヤ改正で上り急行以上の種別は全て1番線を発車するようになった。
全ホーム8両編成の停車が可能。発車メロディが導入されている。


モニュメント
駅のコンコース階には「鴨川ピラー」(富樫実作、三条北ビル前)」・「朱甲面」(清水九兵衛作)・「牡丹」(山口華揚作)などのモニュメントが設置されていた。このうち「時代祭行列絵図」(西協友一作、中央改札口付近)は、京阪特急(8000系電車)2階建車両の側面デザインにも採用されていた。なお、当駅は時代祭行列コースの最寄り駅の一つとなっている。

けいはんインフォステーション
コンコースに設置された駅事務室を兼ねた総合案内所。地下1階の中央改札口近くに位置する。京阪電車と京阪バスの案内。京阪バスの場合は京阪バス三条案内所でも対応している。


列車運行管理システム、ADEC(自立分散式運行管理システム)の19駅ある各信号取り扱い駅の1つで駅制御装置が配置され信号機やポイントの制御から駅の案内放送や行き先表示まで自動化されている。災害対策として防災管理盤により駅設備は常時監視されている。万が一の火災発生時には防火防煙シャッターの制御・排煙機の運転、避難路確保のための自動改札機の開放、火災発生表示機の点灯・運転指令所への通報が自動またはワンスイッチでおこなえる。地下駅の構内でも警察無線や消防無線が使えるように無線通信補助設備や防災電話などが完備されている。また水害対策として川端通西側の出入り口には床板が起き上がる止水板が設置されている。このほか地下施設には三条受電変電所が設置されていて関西電力荒神口変電所より送電された交流60Hz77KVの電気を直流1,500Vに変換して電車線に送電するだけでなく10,000KVAの変圧器2基で交流6,600Vに変圧して当駅だけでなく周辺の地下駅施設・信号機などに送電している。また停電時に備え1000KVAのガスタービン発電機が2基設置されている。さらに2015年、駅構内の照明設備がLEDに更新された。これは一般社団法人「低炭素社会創出促進協会」からの補助金の交付を受けての事業で併せて出町柳-七条間の地下線の照明、清水五条駅・七条駅もLED照明化されたことにより年間100万kwhの電力量削減をみこんでいる。1949年までは京津電気軌道の三条大橋駅も隣接していた。京津電軌は京阪と合併し、1949年には三条駅として統合されている。1987年には京津線は京津三条駅として分離したが、京都市営地下鉄東西線の開通により京津線の三条 - 御陵間が廃線となり、京津三条駅も廃止されている。京都市電の駅こそなかったが、京都市街地の重要なターミナル駅の一つである。かつては、京阪電気鉄道の京都におけるターミナル駅であることを強調するため、「京都三条駅」「三条京都駅」と呼称していたこともあった。2017年頃から大阪府内の駅の発車標などにて「[京都] 三条」の表記を再開している(正確には「京都」の部分が四角囲み)。1951年(昭和26年)の地図では、駅名が「けいはんさんじょう」と表記されるなどした例もみられる。

当初は京津電気軌道(後の京阪京津線。廃止)の三条大橋駅として開業し、そこに琵琶湖疏水と鴨川に挟まれた堤防上を北上してきた京阪本線の終点として三条駅が開業、その後の京阪による京津電軌の吸収合併で両者が統合されるという経緯を辿った。なお、京阪本線五条 - 三条間は元来京都市電気局の軌道法に基づく特許線であり、京阪本線はその特許を借用して路線を開業したことから、特許借用期限切れの前後には特許返還を求める市会の一部勢力への対抗措置として京津線との一体性を強調する運輸施策が行われるなど、京阪本線五条 - 三条間存続のために様々な方策が採られた。地上時代には京阪本線が鴨川と琵琶湖疏水に挟まれた立地、しかも用地の所有権が軌道特許を保有する京都市側にあったがゆえに地形の自由な改変が出来なかったことなどから、特に京阪本線ホームの設置には様々な制約が存在した。そのため、疏水上に橋梁構造の基礎部を架設してその上に駅舎を設置し、さらに4番線ホームを鴨川に張り出して設置するなど、様々な制約の下で可能な限りの面積を確保した、特異な配置となっていた。のちに1番線ホームが設置された琵琶湖疏水を渡る線路がもともとの本線で、2-4番線は側線であった。また、60型「びわこ」号が走行した京阪本線と京津線の連絡線は1923年(大正12年)にはすでに完成していた。連絡線は京阪本線の優等列車速度向上で直通列車が廃止された後も残されていたが、1969年に撤去された。しかし、その痕跡は京津三条廃止まで長く残された。当駅は長年にわたって京阪本線系統の終点および大津方面へ連絡する京津線の起点であることから両線の乗り換え駅として、また隣接する三条京阪バスターミナルから洛北方面への乗り換え駅として、京都市内の交通網において重要な役割を果たしてきた。だが、年間乗降客数では京都市内有数の繁華街である祇園や四条河原町に挟まれた立地の祇園四条駅が常に上回っており、鴨東線開業以降は新たな終点となった出町柳と大差ない乗降客数で推移している。

利用可能な鉄道路線
京阪電気鉄道
京阪本線 - 枚方市・京橋・淀屋橋・中之島線方面
鴨東線 - 出町柳方面
京阪本線の終点かつ鴨東線の起点となり、実際に当駅で折り返す運用が少数残っているものの、基本的に両線は当駅を介して一体のダイヤが組まれているため、事実上折り返し可能な途中駅として取り扱われている。
京津線 - 琵琶湖(びわ湖浜大津・坂本比叡山口・石山寺)方面
長らく京阪本線とは改札内で直接乗り換えることが出来たが、1987年(昭和62年)に京阪本線が地下化し、改札外乗り換えで京津線のみしばらく地上に残っていたが1997年(平成9年)には地下鉄東西線に三条 - 御陵間の区間を譲り、京津線の三条 - 御陵間は地下鉄東西線として事実上地下化し、以降京津線は地下鉄東西線経由(地下鉄 三条京阪駅)で三条に乗り入れることとなった。
なお、ほか路線の駅とは地下通路で連絡している。
京阪大津線の各駅から京阪本線系統の各駅へ切符で行く場合は、三条京阪駅まで購入し、乗り換え駅である当駅から再び切符を購入しなければならない。また、車内においての放送で三条駅からの乗り換え案内の際、「地下鉄東西線と京津線 琵琶湖方面はお乗り換えです」との案内も行っている。

京津電気軌道(後の京津線)が三条大橋東詰の場所に三条大橋駅(後の三条駅)を開業したのが始まり。
1987年の京阪線ホーム地下化に際し、地上駅のまま取り残された京津線の三条駅(以下、京津三条駅)との旅客の接続にあたっては上下移動を伴っていたことから、接続時間にある程度の余裕を持たせるよう微調整が行われた。これは基本的に、日中を中心に大阪方面からやって来た京阪線特急が四宮駅折り返しの京津線普通と、京阪線急行が浜大津駅発着の京津線準急と接続するダイヤが組まれていたが、正確には「京阪線特急と京津線準急との連絡時分調整」を目的としたものであった[43]。浜大津方面からの京津線電車は当駅到着前に、地下にある京阪線の駅へは改札外乗り換えとなる旨を案内していた。平日夕ラッシュ時に京津線も10分間隔になると、大阪方面から到着した京阪線特急から浜大津行き準急へ約5 - 6分の待ち時間で連絡できる時間帯もあり、淀屋橋駅から浜大津駅の間は1時間14分、さらに石山坂本線に乗り継いで坂本駅までは1時間32分、石山寺駅までは1時間35分でそれぞれ到達できた。なお京阪線の各駅、および鴨東線開業後は叡山電鉄各駅から大津線への(連絡)乗車券も発売していた。

地下化から鴨東線開業までは1番線が急行、2番線が普通(淀屋橋行き)、3番線が普通(宇治行き)、4番線が特急と平日夕ラッシュ時の普通(淀屋橋行き)が使用していた。京津三条駅には定期券の発売所がなく、購入は地下のコンコースにある売場まで行く必要があった。なお、この売場では現在も京津線や地下鉄東西線に乗車できる一部の企画乗車券(「湖都古都・おおつ1dayきっぷ」「京都地下鉄・京阪大津線1dayチケット」)を取り扱っている。ほかに嵐電にも乗車可能な、「京都嵐山・びわ湖大津1dayチケット」も発売されている。

1985年4月22日ダイヤ改正から平日朝夕に限り、淀屋橋駅 - 樟葉駅間の急行で8両運転が開始されたが、当駅を含む八幡市駅以東の急行停車駅は地下線開業までホームの8両対応改築が見送られていた。なお、地下線開業と同時に既設の駅もホームの改築が行われ、1987年6月1日より京阪線全線での急行8両運転が実現している。
1912年(大正元年)
8月15日 - 京津電気軌道(現在の京津線)の三条大橋駅が開業。場所は三条通上にあった。
12月13日 - 三条大橋 - 三条間に特許が下りる。
1915年(大正4年)10月27日 - 京阪電気鉄道の三条駅開業。
1917年(大正6年)5月29日 - 三条大橋 ‐ 三条間が単線開業。
1922年(大正11年)12月28日 - 京阪電気鉄道・三条駅の拡張工事完了。
1923年(大正12年)2月20日 - 京津電気軌道の三条大橋 - 三条間が複線開業し、三条駅東側に移転(のちの京津三条駅)。
1925年(大正14年)2月1日 - 京津電気軌道が京阪電気鉄道に合併され、同社京津線となる。
1934年(昭和9年)9月21日 - 室戸台風で停電、運休。24日京阪線運行再開、27日京津線運行再開。
1935年(昭和10年)
6月29日 - 鴨川水害、京阪線ホームが破損・隣接する三条大橋も倒壊流失。
7月2日 - 京津線仮復旧、運行再開。
7月3日 - 京阪本線仮復旧、運行再開。
1939年(昭和14年)‐ 京阪線3連化に伴い、琵琶湖疏水を渡る本線を単線化し、1番線を設置。
1943年(昭和18年)10月1日 - 会社合併により京阪神急行電鉄(阪急電鉄)の駅となる。
1949年(昭和24年)
10月31日 - 午前9時15分停車中の車内でアセチレンガス発生器が爆発、土木課社員1名即死・乗客1名軽傷。
11月1日 - 京津線の三条大橋駅を京阪本線三条駅と統合。
11月30日 - 三条総合駅竣工。
12月1日 - 会社分離により再び京阪電気鉄道の駅となる。
1951年(昭和26年) - 駅中店舗がオープン。
1955年(昭和30年)10月17日 - バスセンター拡張工事竣工。
1958年(昭和33年)7月15日 - 南口バスセンター改良工事竣工。
1960年(昭和35年)8月30日 - 台風16号による鴨川の増水で川の上に張り出したホームの一部が落下。
1961年(昭和36年)3月1日 - 駅改札内に「のれん街」開業。
1963年(昭和38年)
4月8日 - 駅構内に「味のれん」開業。
4月15日 - 旧字体の「三條」を新字体の「三条」に表記変更。
8月20日 - ホーム屋根、その他改造工事竣工。
1966年(昭和41年)4月1日 - 三条変電所が竣工、使用開始。京阪初の無人変電所。
1968年(昭和43年)7月7日 - 4番線竣工。
1969年(昭和44年)11月6日 - 京阪本線と京津線をつなぐ連絡線を撤去。
1981年(昭和56年)9月7日 - 1番線使用停止。
1983年(昭和58年)1月 - 京阪本線地下化工事の進展に伴い高山彦九郎像を移設して、そこに仮駅舎を設置使用開始。
1987年(昭和62年)
4月1日 - 京津線の三条駅を京津三条駅に改称。
5月24日 - 京阪本線三条駅地下化。京津線と分断。
7月15日 - 未明に発生した集中豪雨により浸水事故、終日運休。
1988年(昭和63年)9月1日 - 地下駅が終日全面禁煙化される。
1989年(平成元年)
3月29日 - 地下化工事で移設されていた高山彦九郎像が工事前の三条駅前に戻される。
10月5日 - 京阪鴨東線(三条 - 出町柳間)開業。京阪本線と京阪鴨東線との相互直通運転開始。事実上途中駅となる。
1994年(平成6年)3月21日 - 京阪線の駅事務所にて、ファクシミリサービス開始。
1997年(平成9年)
10月12日 - 京津線京津三条 - 御陵間廃止により京津三条駅廃止。京都市営地下鉄東西線に三条京阪駅が開業し、連絡駅となる。
12月19日 - 京阪駅に車イス用渡し板を配備。
1998年(平成10年)8月9日 - B1Fコンコースに京阪交通社の運営する「ぷらCafe」営業開始。
2003年(平成15年)
7月14日 - 京津三条駅跡地に新たに建てられた複合商業施設「KYOUEN」がオープン。
8月 - B1Fコンコースにインフォーステーションを新設。
2004年(平成16年)
1月24日 - コンコースにATM設置使用開始。
5月31日 - 京津線の京津三条駅跡地が整備され、駅前広場の使用が開始。
2007年(平成19年)
6月22日 - 機械式駐輪場「エコステーション21 三条KYOUEN」運用開始。
7月9日 - 自動定期券発行機の導入により定期券うりばを廃止。
11月23日 - B1Fコンコースにコンビニ「アンスリー」とベーカリーショップ「志津屋」がオープン。
2009年(平成21年)10月31日 - 「のれん街」リニューアルオープン。
2010年(平成22年)
4月14日-6月30日 - 地下コンコースで『京阪電車開業100周年記念パネル展』を開催。
6月 - 無人レンタサイクルステーション「まちかどミナポート京阪三条ステーション」運用開始。
7月5日 - 機械式駐輪場「エコステーション21 京阪三条東」運用開始。
7月22日 - バイク専用駐輪場「三条KYOUENバイク駐輪場」運用開始。
2014年(平成26年)6月26日 - 京阪駅ホームに異常通報装置設置使用開始。
2015年(平成27年)
日時不明 - 駅ホーム・地下コンコースの照明がすべてLED照明に更新される。
7月1日 - 京都市が駅前を「放置自転車の撤去強化区域」に指定。
11月16日 - インフォメーションセンターに定期券販売所を設置。
2016年(平成28年)
3月15日 - 事故情報などをリアルタイムに知らせる「旅客案内ディスプレー」を設置。
3月19日 - ダイヤ改正で日中の普通電車の運用が無くなり、準急・特急のみ停車する時間帯が生まれた。
5月29日 - 「KYOUEN」が全店閉店。
2017年(平成29年)
6月30日 - 定期券売り場の営業を終了。
9月14日 - コンコースに外貨自動両替機を設置、運用開始。

三条駅
さんじょう
Sanjo
◄KH39 *祇園四条 (0.7km)(1.0km) 神宮丸太町* KH41►
所在地 京都市東山区三条大橋東詰
北緯35度0分32.81秒 東経135度46分20.19秒
駅番号 KH  40
所属事業者 京阪電気鉄道
所属路線 ■京阪本線・鴨東線**
キロ程 京阪本線 - 49.3km(淀屋橋起点)
鴨東線 - 0.0km(三条起点)
電報略号 三(駅名略称方式)
駅構造 地下駅
ホーム 2面4線
乗降人員
-統計年度- 35,225人/日
-2017年-
開業年月日 1912年(大正元年)8月15日***
乗換 地下鉄東西線(三条京阪駅)
京津線(浜大津方面)
備考 * 祇園四条方 - 京阪本線
* 神宮丸太町方 - 鴨東線
** 両線は直通運転
***京阪線の開業は1915年(大正4年)10月27日
1997年の地下鉄東西線開業に伴う路線廃止までは京阪京津線も発着していた(ただし、京阪本線が地下化された1987年以降は「京津三条駅」として改札外連絡)

日野・リエッセ PB-RX6JFAA 長崎県営バス

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日野・リエッセ PB-RX6JFAA(長崎県営バス)

リエッセ (Liesse) とは、かつてジェイ・バスが製造し、日野自動車へ供給されていたマイクロバス・小型路線バス。

1996年5月より、トヨタ自動車との相互OEMを開始。トヨタから日野へトヨタ・コースターをリエッセIIとしてOEM供給し、2003年まで、日野からトヨタへリエッセRX系をコースターRとしてOEM供給していた。2003年より、いすゞ自動車へジャーニーJとしてOEM供給していたが、2004年8月のモデルチェンジ以降は日野・いすゞの統合モデルとなり、ジェイ・バスから両社へ供給される形に変更された。
PB-RX6JFAA
2004年8月24日、エンジンをJ05D-TC型(排気量4.7L、出力132kW/180PS)に変更して平成15年排出ガス規制に適合、国土交通省「超低PM排出ディーぜル車」85%低減レベルの認定を受けた。灯火器保安基準適合のためフォグランプがヘッドライト内蔵からバンパーへと移設された。幼児専用車が廃止。エンジンの出力アップにともない、MT車のファイナルギアレシオ(最終減速比)が3.900から4.100に変更されている。

長崎県営バスの長崎営業所に所属している、7C56号車です。
2005年に長崎バスに導入され、2011年に長崎県営バスに移籍されました。


片淵~長崎線で運用されています。

車両詳細
登録番号…………長崎200か370
車両番号…………7C56
所属事業者………長崎県営バス
所属営業所………長崎営業所
シャシー……………日野
ボディ……………J-BUS(東京特殊車体改造)
車種………………日野リエッセ
車両型式…………PB-RX6JFAA
年式………………2005年
ステップ数………ツーステップ(車椅子リフト付き)
運用路線…中央橋・夢彩都経由 長崎駅前行
備考………………小型車

五社駅 神戸電鉄三田線

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五社駅(ごしゃえき)は、兵庫県神戸市北区有野町有野字バンヤにある、神戸電鉄三田線の駅。駅番号はKB21。標高259m。

複線の始終端となる駅を除く単線区間の駅として、神戸電鉄線で通過列車の設定のある唯一の駅である。

当駅以北から、三田へ出てJR宝塚線に乗り換え、大阪方面へと向かう通勤・通学客が少しずつ多くなっていく。

駅構造
単式1面1線のホームを持つ地平駅。駅舎はホーム新開地寄りにあり、かつて改札窓口があった場所に構内売店を設けたが、2010年10月に閉店。切符売場に券売機は2台、改札口の改札機は2台です。ホームは三田寄り3両分が板張りであったが後にコンクリート化された。ホーム上屋は湊川方の一部にのみ設置されています。駅入口に駅前広場はなく、車止め先のスロープで駅舎にアクセスします。

沿線光ネットワークに接続された駅務遠隔システムが導入されており、売店スタッフが一部駅業務を担当していた。

田尾寺ー岡場、有馬口ー新開地は複線化されているが岡場ー当駅ー有馬口の区間が未だに複線化されておらず単線のままである。岡場方面にはすでに複線化の用地が確保されているが神戸電鉄の経営状態の悪さや有馬口方面の地形上の制約からこの区間の複線化は厳しくなっている。

駅周辺
駅は有野川に沿ったところにあり、周りは自然に囲まれている。すぐ北東に進むと有野台があり、北西に進むと藤原台がある。どちらもとても規模が大きい住宅地である。駅前は阪神高速の高架橋が覆っている。

兵庫県道15号神戸三田線(有馬街道)
有馬街道沿いにはコンビニや飲食店もある。
神戸有野平井郵便局
西山スーパー
阪神高速7号北神戸線五社出入口

路線バス
阪急バス
3系統:(有野台会館前・東有野台経由)岡場駅行
4系統:(切畑公園前経由)岡場駅行
5系統:(有野台会館前経由)岡場駅行
6系統:(有野台方面循環)五社駅行


1928年(昭和3年)12月18日 - 神戸有馬電気鉄道の三田線開通と同時に開業。
1947年(昭和22年)1月9日 - 三木電気鉄道との合併により、神有三木電気鉄道(現在の神戸電鉄)の駅となる。

五社駅 ごしゃ
GOSHA
◄KB15 有馬口 (1.4km)(1.9km) 岡場 KB22►
神戸市北区有野町有野字バンヤ822-2
北緯34度48分21.95秒 東経135度12分58.41秒座標: 北緯34度48分21.95秒 東経135度12分58.41秒
駅番号 ○KB21
所属事業者 神戸電鉄
所属路線 三田線
キロ程 1.4km(有馬口起点)
湊川から21.4km
新開地から21.8km
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 1,052人/日(降車客含まず)
-2017年-
開業年月日 1928年(昭和3年)12月18日
備考 無人駅

祇園四条駅 京阪電気鉄道京阪本線

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祇園四条駅(ぎおんしじょうえき)は、京都府京都市東山区にある、京阪電気鉄道京阪本線の駅。地元の人は、当駅を含めた周辺地区を四条京阪と呼ぶことが多い。駅番号はKH39。旧称四条駅。

駅構造
島式1面2線のホームを持つ地下駅である。四条大橋東詰、川端通と四条通との交差点の直下に位置する。地下1階のコンコースは川端通沿い南北と四条通東側へ張り出した凸形をしていて四条通側に駅事務所が設けられている。改札口は北改札と南改札の2か所、ホームは地下2階にある。2015年8月当時コンコースのリニューアル工事中で、9月7日より北改札口の閉鎖と南改札口に新設されたエレベーターの使用が開始された。2017年9月現在、南座の建物内を通る⑥出入り口が閉鎖されているが、コンコース階の改札外の自動券売機・定期券売り場の間にATMコーナーが設置されている。テナントとしてコンビニ「アンスリー」も入っている。また駅事務所の向かいに仮設のみやげ物販売をしていたが、現在はスターバックス・観光案内所が設置されている。

身障者対応エレベーターは、ホーム階とコンコースの間は南改札口内に、コンコースと地上との間はコンコースの駅事務所の東側と川端四条交差点東入る北側のバス停前(南座正面玄関の向かい)を結んでいる。オストメイトに対応した車椅子対応のトイレ、子ども用トイレは南改札口の奥にある。

エスカレーターは南改札内に上り下り各1基、コンコース地上間は2基の登りエスカレーターで四条大橋交差点の北西角に出られる。

駅ホームのカラーリングは、町衆の富とエネルギーを象徴させたウコン色(黄色)が採用されている。

のりば
番線 路線 方向 行先
1 ■京阪本線 上り 三条・出町柳方面
2 下り 中書島・枚方市・淀屋橋・中之島線方面
※両ホームとも有効長は8両。自動放送における編成長案内は、かつては2番線のみ挿入されていたが、2008年10月ダイヤ改正時点では1番線でも行われている。

モニュメント
駅の地下化時にコンコースフロアーの壁面に幅1.8m高さ2.8mの「祇園祭山鉾巡行絵図」が設置されている、これは8800形2階建て特急車の壁面の時代祭行列図の作者「西協友一」の作品。


列車運行管理システム ADEC(自立分散式運行管理システム)の駅制御装置が配置された駅ではないが、近隣のADEC制御装置駅からの制御で案内放送や行き先表示などが自動化されている。

災害対策 水害対策として既存の建物(南座)を利用した出入り口を除き、出入り口には金属製の床板が起き上がる止水板が設置されている。駅構内は防災管理盤によりモニターリングされ、万が一の火災発生時には防火防煙シャッターの制御・排煙機の運転、避難路確保の為の自動改札機の開放、火災発生表示機の点灯・運転指令所への通報が自動またはワンスイッチでおこなえる。また地下駅の構内でも警察無線や消防無線が使えるように無線通信補助設備や防災電話などが完備されている。

接続する鉄道路線
阪急電鉄
京都本線(京都河原町駅)
乗り換えは一度地上に出て四条大橋を渡り、再び阪急の地下駅に向かう必要がある(徒歩約5分)。阪神本線の福島駅と接続する中之島線の中之島駅とともに、相互の乗り換えアナウンスはないが、乗り換え利用者も多く、京都河原町駅ともに、連絡通路に相手方の駅の発車時刻表を掲出している。

駅東側は祇園の繁華街である。四条大橋の交差点に面して南座があり、その交差点の向かいには昭和初期の名建築「菊水ビル」(レストラン菊水)、北側の市営鴨東駐車場を挟んで井筒八ッ橋本舗の本店「北座ビル」がある。四条通を東へ進むと八坂神社の石段に突きあたる。さらに東には円山公園、知恩院がある。

南側の出口を出て団栗通を東へ進むと、建仁寺、弥栄会館(ギオンコーナー)、祇園甲部歌舞練場、ウインズ京都(場外馬券場)に至る。団栗通の南側は、東山女子技芸学校がある宮川町の花街となる。

祇園会館
安井金比羅宮
長楽寺
高台寺
高台院の墓
京都霊山護国神社
霊山墓地
幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」
清水寺(徒歩で約25分かかる)
駅のすぐ西を鴨川が流れており、駅出口の前に四条大橋がかかる。橋を渡ると対岸南側には、昭和初期の名建築「東華菜館ビル」(ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計)がある。その交差点の向かいには先斗町の花街があり、さらに西へ行くと木屋町、高瀬川を渡り、四条河原町へと続く。

高島屋
河原町OPA
京都マルイ
藤井大丸
バス路線
四条大橋東詰(四条通と川端通との交差点)の界隈に京都市営バス(京都市交通局)、京都バス、京阪バス、大阪バス、京都観光バスの5事業者が、川端通沿い(フレスコ祇園店向かい)にWILLER GROUPがそれぞれ停留所を配置している。停留所名は、京都市営バスと京都バスは「四条京阪前」、京阪バスは「四条京阪(祇園四条駅)」、WILLER GROUPと大阪バス、京都観光バスが「祇園四条駅」となっている。

1915年・京阪線の三条駅への延伸に伴い開業、京都市電四条線が先に開通していたために平面交差が設けられた。当初は上下線とも四条通の北側に相対式のホームを設けていた(びわこ号が写った戦前の写真を参照。写真の右側が北)。のちに、上りホームを四条通南側に移設し、三条行・天満橋(淀屋橋)行共に四条通の手前で停車する千鳥配置に変更された。さらにその後、後述する地下化工事の進捗に伴い、今度は下りホームを四条通南側に移設して再び相対式ホームとなり、その状態で地下化工事の完成を迎えた。

1935年の「鴨川水害」では鉄筋コンクリート製アーチ橋の四条大橋に、上流より流された木製の三条大橋などの残骸が引っかかり鴨川を堰き止め、あふれた水が四条駅や周辺に大きな被害を与えた。この後に鴨川の洪水対策として川底を掘り下げ、四条大橋は1942年(昭和17年)に橋脚タイプの現在の橋に架け替えられた。併せて「京阪線を地下化して鴨川を拡幅する」との計画が作成されたが、折からの日中戦争からの戦時体制で計画は縮小され、鴨川の川底の掘り下げと堰の設置が1947年まで続けられた。

鴨川べりの京阪線の地下化は頓挫したかに思われたが、1960年代末からのモータリゼーションに伴い京阪線の踏切が東西交通の妨げになることや、東大路通・河原町通の混雑緩和となる川端通の建設計画と鴨東線の地下鉄道による新設計画が持ちあがり、京阪線の地下化が1975年10月に都市計画決定された。この計画は1977年6月に事業認可されて1979年3月に着工し、1987年5月に地下化が完了した。同年7月には付帯工事区間で集中豪雨により四条駅北側の白川から地下線に大量の水が流れ込み1日運休する被害が発生している。翌年5月にすべての付帯工事も完成し、地上線路跡に川端通が開通した。

地下化後25年以上たったことから、2015年より大規模な改修工事が開始され、北改札口を閉鎖。そこに有ったエレベーターを廃止して南改札口内にエレベーターを新設、トイレも大規模な改修がなされた。コンコース内にはスターバックスコーヒー・司津屋を誘致、観光案内所を新設・外貨両替機も設置するなど、京都の玄関口となるようにリニューアルされた。

沿革
1915年(大正4年)10月27日 - (旧)京阪電気鉄道の京阪本線五条(現・清水五条) - 三条間延伸により四條駅として開業。
1916年(大正5年)4月1日 - 最急行(同年6月1日廃止)および急行の停車駅となる。
1928年(昭和3年)11月3日 - 上下線のホーム改築。
1935年(昭和10年)6月29日 - 「鴨川大水害」で駅舎ホームが破損するなど大きな被害を受ける。
1943年(昭和18年)10月1日 - 阪神急行電鉄との合併により、京阪神急行電鉄(阪急電鉄)の駅となる。
1946年(昭和21年)1月3日 - 駅構内で電車の追突事故(重傷者4人軽症者20人)
1949年(昭和24年)12月1日 - 会社譲渡により、京阪電気鉄道の駅となる。
1950年(昭和25年)9月1日 - 特急運転開始に伴い、特急停車駅となる。
1962年(昭和37年)8月5日 - 上下線のホーム延伸、大阪行き改札口改良・2階に食堂新。
1963年(昭和38年)
4月15日 - 旧字体の「四條」を新字体の「四条」に表記変更。
7月16日 - 琵琶湖疏水の上に大阪行き駅舎新築し使用開始。
1972年(昭和47年)
1月23日 - 京都市電四条線(祇園 - 四条大宮)の廃止に伴い、平面交差がなくなる。
7月10日 - 定期券発行機を設置使用開始。
1982年(昭和57年)11月 - 地下化工事に伴い、淀屋橋行きホームを四条通り北側から南側へ移設。「四条通り踏切」に遮断機を設置。
1987年(昭和62年)
5月24日 - 駅地下化。併せて朝夕の通勤時間帯に禁煙タイムを実施。
7月15日 - 浸水事故で終日閉鎖・列車運行は七条 - 淀屋橋間で折り返し。
1988年(昭和63年)
5月10日 - 地下化工事竣工。
9月1日 - 「終日禁煙」を実施。
1992年(平成4年)10月21日 - 京阪初の乗り越し精算機を設置。
1996年(平成8年)
3月11日 - ホームに異常通報装置を16か所に設置。
6月25日 - コンコースに京阪交通社が運営するコーヒーショップ「プラCafe」が営業開始。
2008年(平成20年)10月19日 - 駅名を「四条」から「祇園四条」に改称。
2015年(平成27年)
9月7日 - 駅改良工事に伴い、北改札口閉鎖・エレベーター南改札側に新設。
11月13日 - 駅改良工事に伴い、定期券売り場を閉鎖。
2016年(平成28年)
2月3日 - 男子トイレの改修工事竣工、使用開始。
3月19日 - ダイヤ改正で日中の普通電車の運用が無くなり、準急・特急のみ停車する時間帯が生まれた。
4月8日 - 女子トイレの改修工事竣工、使用開始。
4月28日 - 観光案内所「京阪ツーリストインフォメーションセンター祇園四条」を開設。
6月1日 - 多目的トイレ・キッズ用トイレの使用開始。
2017年(平成29年)
1月16日 - 南座の耐震補強改修に伴い6番出入り口閉鎖。
9月14日 - コンコースに外貨自動両替機を設置、運用開始

祇園四条駅*
ぎおんしじょう
Gion-shijo
◄KH38 清水五条 (0.9km)(0.7km) 三条 KH40►
所在地 京都市東山区四条大橋東詰
北緯35度0分13.72秒 東経135度46分19.11秒座標: 北緯35度0分13.72秒 東経135度46分19.11秒
駅番号 KH  39
所属事業者 京阪電気鉄道
所属路線 ■京阪本線
キロ程 48.6km(淀屋橋起点)
電報略号 四(駅名略称方式)
駅構造 地下駅
ホーム 1面2線
乗降人員
-統計年度- 49,485人/日
-2017年-
開業年月日 1915年(大正4年)10月27日
乗換 京都河原町駅(阪急京都線)
備考 * 2008年(平成20年)に四条駅から改称
** 通常、乗り換え駅としては案内されていない。


MKR15 TRUCK WRECKER 10X10 (米軍)

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MKR15 TRUCK WRECKER 10X10 (米軍)

LVSRではFPU、RBUの分割構造は無くなり、10×10輪駆動トラックとなっている。従来のLVSと同様、カーゴ型・回収車型・トラクター型が開発されている。

MKR15 TRUCK WRECKER, 10X10
MK15の後継に相当する軍用回収車/レッカー車仕様で、回収用ウィンチ、クレーンを装備している。2011年より実戦配備

LVSR MKR15レッカー。OshkoshDefense®LVSRレッカーは、車両に到達するための極端な機動性と多様性どんな地形でも、そしてそれらを取得する力さえ、泥、砂、水、雪に覆われている場合。戦闘で実証された高度な技術で設計TAK-4のように®独立サスペンションシステムとCommandZone™統合制御および診断システム、LVSRレッカー車は、ほとんどの危険な地形、およびその600馬力エンジンには、必要なものを何でも回復する力があります。
フラットな牽引やリフトが可能なミッションに対応


HMMWVシリーズ、FMTVシリーズ、5トンM809の牽引およびM939シリーズ、LVSシリーズ、MTVRシリーズ、MRAPシリーズLVSRシリーズの車両。
LVSRは中戦術車両を補完します
交換(MTVR)艦隊、ロジスティックタンデムを作成
それは力の継続的な機動性を保証します。
部品の共通性と同様のメンテナンスにより、サービスとサポートが合理化され、ダウンタイムが削減され、効率が向上します。
最も困難なミッションで最も困難なミッションのために環境では、LVSRレッカー車は高性能です。


•けん引が110,000ポンド可能
(49895 kg)車両
•96,000ポンドを持ち上げて牽引できる
(43545 kg)車両
•78,000ポンドのリアマウントウインチ
(35380 kg)組み合わせたストレートプル定格
キャブ席:2名(オプション3名)
車軸構成:10x10
縁石重量:67,600ポンド。 (30,663 kg)
車両総重量定格(GVWR):
101,000ポンド(45813 kg)
長さ:11633 mm(458インチ)
幅:2489 mm(98インチ)
高さ:3099 mm(122インチ)
削減可能な高さ:1021インチ(2591 mm)
トラック:2057 mm(81インチ)
ホイールベース:5436 mm(214インチ)
最高速度:65 mph(105 km / h)
タイヤ:16.00 R20 XZL Michelinチューブレス
タイヤの数:10 + 1スペア
中央タイヤインフレーションシステム(CTIS):標準
燃料容量:166ガロン。 (629 L)
航続距離:300マイル。 (483 km)
フォーディング:1524 mm(60インチ)、キットなし
•が付いている前部取付けられた自己回復ウィンチ
20,000ポンド(9072 kg)のストレートプル定格
•最大53,000ポンド(24040 kg)の牽引が可能
後部のピントルからの選択されたトレーラーの総トレーラー重量の
•中央に取り付けられた資材処理クレーン
•10,000ポンド(4536 kg)の貨物デッキ
一体型タイダウンとISOロック
航空輸送:C-5AおよびC-17
エンジン:Caterpillar®C15、600 hp 15.2 L
トランスミッション:Allison®4700 SP / 7-スピードオートマチック
トランスファーケース:Oshkosh®35000シリーズ/シングルスピード
サスペンション:Oshkosh®TAK-4®独立したすべてのホイール
ステアリング:4軸ステアリング:1、2、4、5
フラット牽引車:110,000ポンド(49895 kg)車両
リフトおよび牽引:96,000ポンド(43545 kg)車両
クレーン:アイオワモールディングツール(株)
関節式クレーンのリフト容量:18,000ポンド。 (8165 kg)
11フィート(3 m)•10,000ポンド(4536 kg)最大
20フィート(6 m)のリーチ
回復ウィンチ:39,000ポンドで2つ。 (17,690 kg)
自己回復ウィンチ:20,000ポンド。 (9072 kg)
油圧スペード:78,000ポンド(35380 kg)プルイン
60 RCI土壌
カーゴデッキ:8フィート(2.5 m)のバルクカーゴタイダウン

清水五条駅 京阪電気鉄道京阪本線

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清水五条駅(きよみずごじょうえき)は、京都府京都市東山区にある京阪電気鉄道京阪本線の駅。旧称五条駅。駅番号はKH38。

駅構造
島式1面2線のホームを持つ地下駅である。五条大橋東詰、川端通と五条通の交差点の直下に位置する。地上への出入り口は交差点の四隅(東北・東南・南西・北西)と、川端通り北へ東側の5ヶ所存在する。地下1階が改札及びコンコース、地下2階がホームとなっている。改札口は1ヶ所のみで、コンコースとホームの間にはエレベーターと上下2基のエスカレーターが設置され、コンコースと地上の間には上りエスカレーターとエレベーターが設置されている。トイレは地下化時に車イス対応しオムツ交換台などを備えた多目的トイレが設置され、その後オスメイト対応設備も取り付けられた。駅ホームのカラーリングは青磁色(緑)、五条坂に代表される陶芸の町を表している。

のりば
番線 路線 方向 行先
1 ■京阪本線 上り 三条・出町柳方面
2 下り 中書島・枚方市・淀屋橋・中之島線方面
上下線のホームとも有効長は8両。10両連結にも対応できるように準備工事が施されている。自動放送における編成長案内は、2007年の列車運行管理システム更新時に2番線のみ挿入され、2008年中に1番線でも実施されるようになった。

モニュメント
駅の地下化時にコンコースフロアーの壁面に幅2.6m高さ2.6mの壁画「清水寺絵図」が設置された、これは8000系8800形2階建て特急車の側面(塗装変更以前)や三条駅のコンコースに画かれている時代祭行列図の作者西協友一の作品。

災害対策
地上から地下への出入り口にはエレベーターをのぞき、水害発生時地下構内への水の浸入を食い止める金属製の床板が起き上がる止水板が設置されている。
駅構内はITVによりモニターリングされ駅事務所の防災管理盤に表示される。万が一の火災発生時には防火防煙シャッターの制御・排煙機の運転、避難路確保の為の自動改札機の開放、火災発生表示機の点灯・運転指令所への通報が自動またはワンスイッチでおこなえる。また地下駅の構内でも警察無線や消防無線が使えるように無線通信補助設備や防災電話などが完備されている。

ダイヤ
急行以下の車種が停車するが、午前中と深夜を除き急行が京都府側で運転されなくなったため、実質各駅停車しか停車しない。日中は1時間あたり準急(萱島駅〜出町柳駅間は各駅に停車)が6本停車する。
接続等
当駅も神宮丸太町駅と同様に、地下線区間内で通過列車の設定があり、上りは三条駅で、下りは丹波橋駅でそれぞれ特急または快速急行と連絡している。

駅周辺
清水寺(徒歩で約22~23分かかる。繁忙期に京阪バスによるシャトルバスの運行あり)
大谷本廟
六波羅蜜寺
地主神社(清水寺の境内に有り)
若宮八幡宮社(境内に「清水焼発祥の地」の石碑あり)
六道珍皇寺
河井寛次郎記念館
東山区総合庁舎
東山区役所・東山青少年活動センター・東山地域体育館
東山老人福祉センター・東山図書館
東山郵便局
川端通
五条大橋(鴨川)
五条通(国道1号・国道8号重複)
五条坂
五条楽園
五条楽園歌舞練場
あじき路地
東山開睛館
京都国際フランス学園
行事
五条大橋東詰から東大路通にかけての区間で、毎年8月8日 - 10日に「陶器まつり」が開催される。
1920年、「六道珍皇寺」にお精霊さんを迎えに行く人々(通称「六道参り」)や大谷本廟(西大谷)へお盆の墓参りに行く人々に向けて、五条坂に店を構える陶器屋や窯元が各々の店舗・工房の前で、登り窯で出た「二番品」を並べ売ったのが起源とされる。
違法駐輪対策
駅周辺のうち、国道1号に違法駐輪された自転車については道路管理者(国土交通省)による対策がなされてきたが、7日間程度放置された車両のみを撤去対象としていたため、対策が追いついていない実情があった。このため、2010年9月からは放置期間に関わらず対策を行なう(即時撤去)こととなった。なお、一連の対策については京都市内の他の地点(国道と近接して立地する駅の周辺)でも行なわれ、費用は国費でまかなわれる。

バス路線
京都市営バス・京阪バス・三重交通・大阪バス・京都観光バスのバス停が、五条大橋東詰(五条通と川端通との交差点)東側の五条通沿いに設置されている

1910年に京阪線の終着駅として開業、五条通の南側の琵琶湖疏水の上に駅舎が造られた。1915年に三条駅まで延伸開業、翌1916年から急行停車駅となったものの、太平洋戦争最中の1944年に急行停車は取りやめとなり、戦後の混乱期には駅の営業自体が休止されるなど、七条~三条間で唯一特急・急行が通過する時代が長く続いた。この当時、四条・七条と違って当駅は京都市電と交差していなかった。
また、この当時は鴨川は現在より川底が浅く1934年9月の室戸台風・翌1935年6月の鴨川大洪水では鴨川が氾濫して駅周辺も含め多大な被害を受けたことから、川底の掘り下げ工事が行われた。この工事は太平洋戦争中も継続され、戦後に完成した。
駅施設は、太平洋戦争末期(1945年7月)に防火帯とするために強制疎開し更地となった五条通南側の空地と鴨川の間(琵琶湖疏水の上)にあったが、1955年頃に事業化された五条通の拡幅にともない、その障害となる駅施設を五条通の北側に移設のうえ、1959年・現在の五条大橋が竣工した。
その後、1967年(昭和42年)に大谷本廟の南側から山科を経由して逢坂山の手前で三条通へ接続する五条バイパスが供用されるとともに、国道1号が京阪京津線の走る三条通から五条通に変更され幹線道路の役割を担うようになったこともあり、朝夕の混雑時を中心に踏み切りで慢性的な渋滞が発生するようになった。

京阪線(東福寺 - 三条間)の連続立体交差事業が1975年(昭和50年)10月24日に都市計画決定、1977年(昭和52年)6月10日に都市計画事業認可、1979年(昭和54年)3月20日に地下化工事の起工式を行い、1987年(昭和62年)5月に地下化された。その後、付帯工事が継続して行なわれていたが、同年7月の集中豪雨により白川の水が逆流し、仮設堤防を破壊して埋め戻し工事区画から三条駅へ浸水、さらに地下区間の最深部にある五条駅に流れホーム階が約1m浸水した。なお、付帯工事は1988年5月までに終了し、地上の廃線跡には都市計画道路「川端通」が建設・供用された。

地下化時点の駅施設とその後の経過
改札内には身体障害者対応の多目的トイレのほか、ホームとコンコース間には上下のエスカレーターおよびエレベーターも設置されたが、コンコースと地上の間については建設当初は上りエスカレーターのみが設置されていた。コンコースと地上の間にエレベーターの設置工事は2009年に着工、2010年3月20日より使用開始された。その後コンコースとプラットホーム階を結ぶのエレベーターの更新工事が行われ2018年にはエスカレーターの更新工事が予定されている。
また改札の内側に売店が設置されていたが、その後閉店。シャッターが下ろされたままであったが、2008年頃にテーブルと椅子および自動販売機が置かれたミニギャラリーが造られ、駅周辺の観光地の写真が解説文とともに掲出されている。
このほか清水寺の最寄駅でインバウンド観光客が多いことから2017年12月22日に12か国の通貨に対応した自動両替機が設置された。

沿革
1910年(明治43年)4月15日 - 京阪本線の京都側の終着駅である五條駅として開業。
1915年(大正4年)10月27日 - 京阪本線が三条駅まで延伸し、途中駅となる。
1916年(大正5年)4月1日 - 急行停車駅となる。
1935年(昭和10年)6月29日 - 鴨川大水害・駅ホームの倒壊、隣接する五条大橋も流失。
1943年(昭和18年)10月1日 - 会社合併により京阪神急行電鉄の駅となる。
1944年(昭和19年)2月 - 急行停車を廃止。
1945年(昭和20年)9月15日 - 駅休止。
1946年(昭和21年)5月3日 - 駅の営業再開。
1948年(昭和23年)7月14日 - 駅構内で出発した下り急行電車に後続電車が追突、乗客36名軽傷。
1949年(昭和24年)12月1日 - 会社分離により京阪電気鉄道の駅となる。
1956年(昭和31年)
2月10日 - 五条大橋の架け替え(拡幅)工事に伴い、三条行きホームが五条通南側から北側へ移設。
2月27日 - 五条大橋の架け替え(拡幅)工事に伴い、天満橋行きホームが五条通南側から北側へ移設。
1963年(昭和38年)4月15日 - 旧字体の「五條」を新字体の「五条」に表記変更。
1979年(昭和54年)3月20日 - 地下化工事着手。
1982年(昭和57年)10月23日 - 地下化工事に伴い淀屋橋行きホームを五条通り北側から南側へ移設。
1983年(昭和58年)12月26日 - 駅移設に伴い五条通を横断する仮設地下道を設置。
1987年(昭和62年)
5月24日 - 地下駅化。
7月15日 - 浸水被害が発生し、線路からホームの高さまで浸水する。同日は終日運休し、翌日始発より運転を再開。
1988年(昭和63年)
5月10日 - 京阪線の地下化工事竣工、川端通が開通。
9月1日 - 駅構内の終日禁煙を実施。
1989年(平成元年)9月27日 - 鴨東線運行準備のダイヤ改正にともない、45年ぶりに急行停車駅となる。
不明 - 売店が閉店し、跡地にミニギャラリーを設置。
2008年(平成20年)10月19日 - 駅名を「五条」から「清水五条」に改称。
2009年(平成21年)
1月 - 車椅子対応トイレに簡易オストメイト対応設備を設置。
8月24日〜10月14日 - 車椅子対応エレベーター設置工事に着手(これにともない、交差点北東側の4号階段が一時的に閉鎖される)。
12月 - ホームに異常通報装置を設置。
2014年(平成26年)10月15日 - ホーム階と改札階を結ぶエレベーターの更新工事で使用停止、同月29日より使用再開。
2015年(平成27年)春 - 駅ホーム・地下コンコースの照明がすべてLED照明に更新される。
2016年(平成28年)
3月19日 - ダイヤ改正で日中の普通電車の運用が無くなり、準急のみ停車する時間帯が生まれた。
10月31日 - コンコースに旅客案内ディスプレーを設置。
2017年(平成29年)
3月8日 - 駅構内トイレのリニューアル工事完成、使用開始。
12月22日 -  駅構内に外貨自動両替機を設置

清水五条駅*
きよみずごじょう
Kiyomizu-gojo
◄KH37 七条 (0.7km)(0.9km) 祇園四条 KH39►
所在地 京都市東山区五条大橋東詰
北緯34度59分45.99秒 東経135度46分6.7秒
駅番号 KH  38
所属事業者 京阪電気鉄道
所属路線 ■京阪本線
キロ程 47.7km(淀屋橋起点)
電報略号 五(駅名略称方式)
駅構造 地下駅
ホーム 1面2線
乗降人員
-統計年度- 8,677人/日
-2017年-
開業年月日 1910年(明治43年)4月15日
備考 * 2008年に五条駅から改称

オハ61 1030(国鉄60系客車)

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九州旅客鉄道小倉総合車両センター。D51 542と並べられている。当初は塗色を変更し記念資料館として使用されていたが、現在はぶどう色に戻され車内は公開されていない。台車以外の床下機器は撤去されている。
国鉄60系客車(こくてつ60けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が1949年(昭和24年)から木造客車を改造して鋼製客車とした客車の形式群である。このグループを総称する形で鋼体化改造車(こうたいかかいぞうしゃ)とも呼ばれる。

太平洋戦争後の1947年(昭和22年)2月25日、八高線東飯能 - 高麗川間で客車列車が脱線転覆し、184人が死亡する事故が発生した。この事故は現代に至るまで、日本の鉄道史上における死者数第2位の大事故として記録されている。事故列車は木造客車で編成されており、構造脆弱な木造車体が転覆によって大破したことが、死者数を増大させたと考えられた。
鉄道省(国鉄の前身)が新規製造の客車を鋼製客車に切り替えたのは1927年(昭和2年)であり、八高線事故時点では既に20年以上が経過していた。しかし、この時点でもまだ国鉄保有客車数10,800両の約6割が木造客車であり、ローカル線の普通列車では木造客車が当たり前、それも古い雑形客車さえ珍しくない状況であった[。
これらの木造客車の多くは明治時代末期から大正時代末期にかけて製造されたもので、製造後最低でも20年から40年程度が経過し、全体に老朽化が進行していた。また、戦時中・戦後の酷使や資材難によって内外の荒廃は進み、木造客車の根本的な整備には鋼製客車と比較して莫大な費用がかかると試算された。そして、八高線での事故を契機として早期に木造客車を全廃し、鋼製客車に置き換えることが強く望まれるようになった。
だが当時は戦後の混乱期でインフレーションが進行しており、短期間のうちに鋼製客車を大量に新製して木造客車を全て取り替えることはコスト的に困難とされた。また当時の鉄道運営を管轄していた進駐軍は、車両新造許可には消極的で、度重なる車両増備の要望にも容易に応じなかった。
これらの課題の対策として、木造車の改造名目で安価に鋼製客車を製造する「鋼体化」と呼ばれる手法が取り上げられた。木造客車を構成する部材のうち、もともと鋼鉄製で流用の効く部材の台枠や台車、連結器などを再利用し、鋼製の車体のみを新製するものである。
国鉄では戦前の鉄道省時代に同様な手法で、車体の老朽化した木造電車を鋼製車体に改造する工事を大量に行った実績があり、また少数ではあったが木造客車の鋼製化工事の施工例もあった。木造電車は客車よりもドア数(開口部)が多く車体強度が劣り、加減速も頻繁で老朽化が早かったのが、戦前からの早期改造着手の原因である。

戦前の木造電車改造は「鋼製化改造」と呼ばれたが、戦後の木造客車改造についてはそれと区別する目的で「鋼体化改造」と呼ばれた。その内容は1949年度から1954年度までの6年間で、約3,300両の木造ボギー客車を鋼製車体に改造するという、日本の鉄道史上例のない規模の壮大な計画であった。これにより、安全性の向上、老朽車置き換えと補修費用の節減、総合的な輸送力の増強を同時に実現しようとしたのである。

木造車鋼体化計画の許可を得るため、国鉄では進駐軍で国鉄の運営を管轄していたCTS(Civil Transportation Section=民間輸送局)の担当者をラッシュアワーの総武本線両国駅に案内し、窓や羽目板の破損した老朽木造車に、すし詰めとなった乗客が窓から乗降している危険な現状を実見させた。更に、過去の事故における木造車と鋼製車の被災状況記録なども比較提示し、木造車の老朽化対策が喫緊の課題であることを懸命にアピールしたという。この結果、国鉄は1949年(昭和24年)から鋼体化改造に着手できることになった。
鋼体化改造の場合、客車の製造費用を従来の半分程度に抑えることができるとともに、安全対策を主眼とした既存車両改造名目のため、車両新造に関わる制約を受けずに済んだ。
これらの鋼体化客車は他の制式鋼製客車などとの区別のために60番台の形式を付されており、このことから後年になって便宜上、60系客車と呼ばれるようになった。

構造上の特徴
オハユニ61の客室端座席。窓の日除けは鎧戸、客室端部肘掛けは通路幅確保の都合で省略、各座席に背ずりクッションは無く、端部ではニス塗りの壁板をそのまま背ずりとする徹底窮乏仕様。座席間ピッチも通常型客車より狭い。壁面に便所使用知らせ灯が付いているが、この壁面の先に便所と洗面所、更に郵便室が続いている
普通列車用木造車の置き換えが主目的であることから、そのほとんどは三等車もしくは荷物車・合造車として製造された。

台枠
最大の流用部材である台枠には、1919年(大正8年)から1927年にかけて製造された2,800 mm幅の広幅車体を備える「鉄道省大形客車」のUF12・15などが、主に再利用されている。
これらの木造2軸ボギー客車は車体長が17 mであったが、1929年(昭和4年)以降国鉄客車の車体長は20 m級が標準となっていたことから、鋼体化改造車も20 mの車体長とする必要があった。そこで補充車と称して、1910年(明治43年)から1919年(大正8年)ごろにかけて製造された2,500 - 2,600 mm幅の車体を備える「鉄道院基本形客車」の木造車体を解体し、残った幅狭台枠(UF11など)を4等分に切断、台枠延長用部材に加工した。こうして得られた部材を、前述の「大形客車」4両の台枠の切断面にそれぞれ挿入して継ぎ足した。更に車端部は鋼製客車並みの構造に改装、台車心皿位置を木造2軸ボギー車よりも若干車体中央寄りに変更してオーバーハングを拡大し、鋼製車用の20 m級台枠に延長改造したのである。台枠の幅こそ新旧で差はあったが、主たる部材の溝形鋼材(チャンネル材)は中形客車・大形客車とも8インチ級の同一断面で互換性があったため、挿入部材への流用が可能となった。
この結果、17m級の大形客車4両と基本形客車1両の計5両から、20m級の鋼体化改造車4両ができることになった。実際に鋼体化客車の床下から台枠を観察すると、延長改造時の切断・接合の痕跡を確認できる。
しかし、書類上はともかく実際には種車に関わる事情は複雑で、極力輸送力に影響を与えないように工事を進める必要があった。そのため、車種を問わず状態不良で休車となっている車両から優先的に工事を実施した結果、実際の種車と車籍が一致しないケースが少なからず生じた。また、17 m級大形客車用台枠に長形台枠 (UF12) と魚腹形台枠 (UF15またはUF16) の両方が混在していたことや、工事を担当した各国鉄工が用いた工法の相違などから、台枠は同一形式であっても同一形状であるとは限らなかった。更に一部では、もともと20 m級のサイズがあった28400系木造3軸ボギー客車(大形3AB車:優等列車用)などの台枠(UF41・42など)を改造して流用したケースも見られた。
木造車の台枠はねじ式連結器が標準の時代に製造されたものがほとんどであるため、鋼体化の後も、台枠端部にはねじ式連結器時代のバッファー取り付け穴の痕跡が残っていた。
その他の流用部品
オハユニ61の座席脚台。これまた木造車の流用品と見られる。座席の背もたれはモケットもクッションもない板張り
木造車からは台枠だけではなく、TR11形台車や自動連結器、自動空気ブレーキ機器などの主要機器もオーバーホール・調整のうえ再利用された。
暖房すらなかった70系戦災復旧客車とは異なり、まともな旅客サービスが可能なよう蒸気暖房装置が装備されたが、これも鋼製車で標準の低圧式でなく、種車の木造車から配管を流用した旧式な高圧式で、これは特別二等車のスロ60形も同様であった。鋼体化初年度は、暖房管の長さも17 m木造車時代そのままで、20 m化された結果、車端部には暖房がないという体たらくであったが、さすがに1950(昭和25)年度以降は車体全長に延長された。
更には、取り壊される車体部分からも、座席の土台となる金属製の枠や、荷棚の金具など、再利用可能な部品が極力流用された。
最低限の接客設備
専ら普通列車での運用が前提であったことから、接客設備等は木造車並みの部分も多く、安全対策のために車体構体を鋼製に改造しただけで、同時期の完全新製車(スハ43など)と比べると、乗り心地や居住性の面では劣った。
車内はベニヤ板内装のニス塗り及びペンキ塗り、窓の日よけは既に客車・電車用として巻き上げカーテン(ロールスクリーン)が出現していた時代にもかかわらず、二重窓となる北海道向け車以外では旧式な木製の鎧戸が用いられた[注 35]。しかも戦前形の車両のような2段分割鎧戸でなく、1段式、明り取りの隙間を最下部に残す構造として、工数を軽減していた。なお、初期のオハ60・オハフ60は木造車並みの狭幅窓(700 mm)であったが、木造客車は落とし込み式の下降窓であるのに対し、鋼製客車は上昇式の窓構造であり、一部の私鉄鋼体化電車に見られた窓ガラス・窓枠に至るまでの再利用はなされていない。
座席は木造車並みの木製背ずりで、スハ32形以降の20 m 級制式三等客車が定員88人であるのに対し、鋼体化車では快適性・居住性よりも輸送力を重視したため、木造車並みの狭いピッチ (1,335 mm 間隔) とされ、ボックスが左右1組ずつ増えて定員96人(緩急車では制式定員80人のところ88人)となった。当初は専らローカル線の短距離運用向けと想定されていたため、極限まで定員を増やす目的で洗面所を省いて便所のみ設置とすることも考えられていたが(それだけでも4人定員が増える)、車体の新しい車両は長距離運用にも充当したいという意見もあって、洗面所スペースが一般客車同様に設置された。
また、鋼体化改造車の標準台車として用いられたTR11は、明治時代に鉄道作業局で設計された台車に由来する旧式の釣り合い梁(イコライザー)式台車であり、軽量な17 m 級木造車での使用を前提とする設計であった。それゆえ、大形化された20 m 級鋼製車体とのマッチングが悪く、高速走行時の動揺が酷かった。
しかし1960年代までは、客車そのものが極端に不足していた当時の事情から、結局、本来オハ35系またはスハ43系を充当すべき急行列車にも、これらの代わりに60系が連結されているケースも少なくなく、遜色急行等と揶揄された。特に、予備車や普通列車用車両まで動員せねばならなかった臨時急行列車や団体専用列車には、このような例が頻々と見られた。

優等列車向け車両
オハニ63に関しては、製造当初から急行列車や特別急行列車に使用することを考慮されていたため、当時標準の急行列車用新製車であるスハ43系に合わせた客室構造になっていた。背ずりはモケット張りで頭もたれを備え、座席間隔も標準サイズのゆとりが確保された。]

さらに、リクライニングシート装備の特別二等車2系列(スロ50、スロ60)も鋼体化名義で製造されているが、これらは実質台枠のみ木造車流用で、台車は乗り心地の良い、鋳鋼製で軸バネをウィングバネとした新設計のもの (TR40・47) を新造している。スロ60形は資材手当の関係上鋼体化客車となった他、スロ61→スロ50形は新製車の予算で作られた経緯がある。
製造とその過程
1949年(昭和24年)から1956年(昭和31年)の間に、全国の国鉄工場および主要な民間車両メーカーのほとんど、さらに戦後、鉄道車輛業界に新規参入したメーカーまで、文字通り総動員して製作された。
国鉄工場 旭川・苗穂・五稜郭・土崎・盛岡・新津・大宮・大井・長野・名古屋・松任・高砂・後藤・多度津・幡生・小倉
民間車両メーカー 愛知富士産業・飯野産業・宇都宮車両・川崎車両・汽車製造東京支店・近畿車輛・帝國車輛工業・東急車輛製造・新潟鐵工所・日本車輌製造東京支店・日本車輌製造本店・日立製作所・富士産業・富士重工業・富士車輌・輸送機工業
同時に鋼製客車の新製も進められ、台枠流用の対象から外れた基本・中形客車の約半数と、雑形客車[注 48]の淘汰による不足分を補った。1949年(昭和24年)に登場したオハ60系は小さな窓が並ぶタイプ(2ボックスに対し700 mm幅の窓が3枚)であったが、翌1950年(昭和25年)からはオハ35系と同様、窓を1ボックス毎の大窓(1,000 mm幅)としたオハ61系に移行した。さらにこれの側窓を2重窓化した北海道向けのオハ62系も製造された。

このグループは年度ごとの設計変更が少なく、形態の変化があまりない。それまでの客車と比較して外観上のバラエティーには乏しいが,たとえば苗穂工場施工車の妻構に補強用のリブが取り付けられるなど、各担当メーカー・工場ごとに細部に相違が存在した。

当時、木造車鋼体化の推進に重点が置かれ、木造車そのものの延命工事が控えられたことで、鋼体化優先順位を後回しにされた木造客車の老朽はより一層深刻化した。1951年(昭和26年)5月には総武本線四街道駅にて、木造客車の側溝が乗車率300 %に及ぶ乗客の圧力で外側に脹れ出して破損、運転不能となる、現在ではあり得ない事故まで発生している。このため、国鉄では使用に耐えられない木造客車を緊急廃車にしたが、影響で木造合造車の多かった郵便車が不足し、穴埋めにオハユニ61形が大増備されるという一幕もあった。
戦後に残存していた木造車の多くは三等座席車、荷物車、ないしそれらの合造車であった。だが木造の荷物車・合造車には鉄道院基本型客車を格下げ改造した個体も多く含まれ、鋼体化種車にできないものが多かったこと、魚腹台枠車の鋼体化方針が17mのままか20m延長か決まらず、20m延長での工事着手が1953年以降にずれ込んだことなどで、工事当初の改造種車は大型木造客車の三等座席車に集中した。結果、普通列車用の旅客車が不足、また老朽のひどい木造車の早期廃車を強いられたことで荷物・郵便等の合造車も不足し、一方で純新車の増備は進駐軍側の厳しい監督と国鉄の予算不足で自由にならなかった。最も需要の大きい三等車・荷物車が恒常的に払底し、鋼体化事業取り組みの期間、国鉄全体の深刻な輸送力不足の原因となった。国鉄の三等客車(ハ、ハフ)は1948年度に8,269両あったが、鋼体化着手の1949年度には7,914両、1950年度7,631両、1951年度7,437両と目に見えて減少しており、使用に耐えない老朽車の廃車進行、年々の旅客・荷物輸送需要増大に、鋼体化改造と新車増備とが追いついていなかったことがわかる。

鋼体化改装進行途上の1952年(昭和27年)6月の部内会議では、国鉄車両局から鋼体化客車の内装・材質について、安全に支障のない範囲での工数削減や仕上げ簡易化、実用に支障ない範囲でのメーカー手持ち部品の使用、材質のランクダウン許容(標準より軟質のラワン材の部分使用を認める)などの仕様変更が提示されている。これは、コスト問題などで木造車鋼体化が計画より遅れ、客車需給が窮迫していた当時の輸送状況や、既に鋼体化工事に参加していた民間メーカー以外にも新規参入するメーカーが生じたことが背景にあった。このあたりにも、多少仕上がりの質を落としても、鋼体化全体の促進を優先し、鋼体化改造を急がせた当時の事情がうかがわれよう。
国鉄の客車鋼体化改造は、これらの紆余曲折を経て、1955年度(1956年)までに計画を若干超過しながらも完了、国鉄では営業運行に使用される木造車全廃を達成した。ただしその後も、救援車など旅客用途以外の事業用車については、1965年ごろまで少なからず木造客車が残っており、電車では伊那電気鉄道買収車改造の木造付随救援車・サエ9320が1979年まで残存した。
なお、1,067mm軌間の私鉄については1970年代前半まで加悦鉄道や大分交通など一部の事業者で木造車が営業運転に使用されており、762mm軌間の尾小屋鉄道では外板に鋼板を打ち付けてあったが、木造車が1977年(昭和52年)の廃線まで現役で使用されていた。1,067mm軌間の別府鉄道土山線では1984年の廃止時点まで、木造2軸客車のハフ7(元神中鉄道ハフ20形)を営業運行に使用、名古屋鉄道では木造ボギー電車モ520形に外板鋼板打ち付け工事を施しつつ、1988年まで営業運行に供用していた。保存用を除くとこれらが日本における木造車による旅客営業の最後となる。

救命ボート

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救命ボート(きゅうめいボート)とは、船舶における海難・水難事故(沈没も含む)時における脱出用や、水害時の被災者の救出、タグボートと同じ扱いで船を引っぱる際に使用する小型ボートのこと。転じて、船舶の体を成していなくても非常脱出・船舶補助用の機器・装置をこう呼ぶ場合がある。


概要
船舶に搭載するものでは、古くはカッターボートが用いられてきたが、素材の改良に伴いゴムボートも普及している。旅客機などの航空機では、洋上への不時着に備えてコンパクトに収納された、自動的に膨らむゴムボートが標準的に積まれている。

軍艦や一部の商船では銅板で作った浮体をぴったり並べて楕円形を作り、キャンバスで包んで床を張った救命いかだ(カーリーフロート)も盛んに用いられた。大型船舶に常備されるほか、水辺の監視所や水防倉庫・防災倉庫などにも配置される。水防倉庫や防災倉庫などに収納されているものの中には、アルミなどによる折り畳み式のものもみられる。北方洋で操業する漁船に積まれているものなどでは、大波に晒された悪天候下でも転覆しないようFRP樹脂製の密閉カプセル型のものもあり、被災者の生存率を高めるための様々な工夫が凝らされている。

船舶や航空機に積まれている脱出用の救命ボートや救命いかだの場合は、脱出後の漂流(サバイバル)に備えて様々な物が備え付けられている。(これらは船舶救命設備規則「第十四条第三項」の一覧にて定められている。) 代表的なものに非常食や通信機・飲料水ないし蒸留器、釣具や医療キット・発煙浮信号(救命浮標・救命浮環、(en:Lifebuoy)とセットで使い、遭難者に浮環の場所を知らせる)、捜索隊に存在を知らせる海面染色剤などがある。
陸上に常備しておくものとして、津波救命艇もある。

船舶に常備される救命ボート
救命ボートを軽視して乗船人数分の半分程度しか用意していなかったために大勢の犠牲者が出たタイタニック号の沈没事故を教訓に、現在の船舶では、本船乗員乗客数以上の救命ボート定員確保が義務付けられている。木製や金属製のボートの他、着水時に自動的に膨らむゴム、ナイロン製の救命いかだ(通常時はカプセルに詰められている)などが配備されている。これらは海で目立つよう白色、オレンジ色に着色されている。

動力は人力によるものや簡易の帆を持つものもあるが、その一方で電動機による船外機を持つものも見られる。より大型のものや水害時用のものでは、ガソリンエンジンによる大型の船外機が用いられる。ただし漂流物が多い場合はスクリューを損傷する恐れがあるため、やはり人力によるオールに頼らざるをえない。

有馬温泉駅 神戸電鉄有馬線

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有馬温泉駅(ありまおんせんえき)は、兵庫県神戸市北区有馬町字ウツギ谷にある、神戸電鉄有馬線の駅で同線の終点である。駅番号はKB16。神戸電鉄では最も高い位置にあり(標高357m)、かつ最東端の駅である。駅周辺は旅館、ホテルなどの温泉街が広がっています。

神戸電鉄の乗務員時刻表(スタフ)に表記されている駅略号はA(Arimaonsen)である。


駅構造
標高は357mで、これは神戸電鉄線内で最も高い。ミラーガラスを多用した近代的な駅舎です。頭端式2面2線のホームを持つ地平駅でホーム有効長は4両。駅舎は車止め側にあり、小規模な駅ビルとなっている。当駅は開業以来のアール・ヌーヴォー調の洋風駅舎で永年親しまれてきたが、1989年に改築された。

かつては2番線の横に貨物用引き込み線があったが、現在は駐車場になっている。

切符売場の券売機は3台。有人窓口も設置されています。改札口の改札機は3台。頭上にはLED式の発車案内が設置されています。待合室にはFRP製の椅子が設置されています。

のりば
1・2 ■有馬線 有馬口・谷上・鈴蘭台・新開地方面
※ 日中は1番線と2番線を交互に使用する。

3両編成2本による夜間停泊運用がある。

運行形態
新開地方面からのほとんどの列車が三田線に直通し、新開地 - 有馬温泉間の列車は朝夕のみである(土休祝日は夜18時台に当駅発鈴蘭台止まりが1本設定されている)。したがって発着列車は有馬口 - 有馬温泉間の区間列車が大部分を占める。

2013年5月28日に発生した有馬口駅での脱線事故により有馬口駅の配線変更を行い、当面の間、新開地・鈴蘭台発着の運行が不能となるためすべての列車が有馬口と有馬温泉の間での折り返し運行となっていたが、2014年6月28日のダイヤ改正より、新開地 - 有馬温泉間の直通運転再開。

駅周辺
タクシー乗り場(神鉄タクシー)
有馬温泉街
温泉寺
金の湯、銀の湯(外湯)
有馬玩具博物館
有馬四十八滝
有馬郵便局
神戸市立有馬小学校

バス路線
阪急バス(有馬駅前バス停)
1・75系統:有馬温泉行
1系統:(東有野台・岡場駅経由)済生会病院前行
75・95系統:(下山口・丸山下経由)JR西宮名塩・宝塚行
76系統:(すみれ台・下山口・丸山下・JR西宮名塩経由)宝塚行
80系統:(下山口経由)山口営業所前行
80系統:(太閤橋経由)阪神芦屋行
95系統:(有馬温泉・舟坂・蓬莱峡経由)宝塚行
神姫バス(有馬温泉駅バス停)
69系統:有馬温泉行
69系統:(岡場駅・フルーツパーク経由)神戸三田プレミアム・アウトレット行

その他
第1回近畿の駅百選に選定されている。

 

1928年(昭和3年)11月28日 - 神戸有馬電気鉄道の終着駅である電鉄有馬駅として開業。
1929年(昭和4年)5月以前 - 有馬温泉駅に改称。
1947年(昭和22年)1月9日 - 三木電気鉄道との合併により、神有三木電気鉄道(現在の神戸電鉄)の駅となる。
1989年(平成元年)10月31日 - 現在の駅舎が竣工。


有馬温泉駅*
ありまおんせん
ARIMA-ONSEN
◄KB15 有馬口 (2.5km)
所在地 神戸市北区有馬町字ウツギ谷266-2
北緯34度47分57.56秒 東経135度14分45.49秒
駅番号 ○KB16
所属事業者 神戸電鉄
所属路線 有馬線
キロ程 22.5km(湊川起点)
新開地から22.9km
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 1,616人/日(降車客含まず)
-2017年-
開業年月日 1928年(昭和3年)11月28日
備考 * 開業当初は電鉄有馬駅

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