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九七式中戦車

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第9連隊所属の57mm砲搭載型。

九七式中戦車 チハは、1930年代中頃に開発され、1938年(昭和13年)に制式化された、大日本帝国陸軍の戦車(中戦車)。
1938年(昭和13年)から1944年(昭和19年)にかけて総計2,123両が生産され、九五式軽戦車 ハ号とともに第二次大戦における日本軍の戦車の主力として運用された。

各国陸軍が採用する戦車の多くがガソリンエンジンだった時代に、空冷ディーゼルエンジンを搭載していることが大きな特徴である。ディーゼルエンジンは燃料に揮発性の高いガソリンでなく軽油を使用するため、爆発的な火災発生の危険が少なく、また高いオクタン価のガソリンの入手に制限があるなど燃料事情が悪い当時としては、ガソリンを必要としないことは調達・補給の上で非常に有利であった。さらに空冷方式の採用については、想定戦場である満州において「水冷する方式は冷却水の補充や凍結による故障の心配があるので、空冷式を採用することができれば理想的である」と見做され、また、冷却よりもエンジン起動時の保温のほうがむしろ課題であったという経緯があった。しかし空冷ディーゼル方式でガソリンエンジンと同等の出力を得るには大型化せざるを得ず、車体全体に対する機関部の占有率がその分大きくなる欠点もあった。


車体前方右寄りに砲塔が設置され、主砲として九七式五糎七戦車砲(口径57mm)を、機関銃は九七式車載重機関銃(口径7.7mm)を砲塔後部と車体前方に搭載した。本車の出現当時の外国製戦車(初期のIII号戦車やBT-5など)と比較して装甲厚や主砲口径などは同程度であるが、もともと対戦車戦闘能力を主眼にした設計ではなく、その想定した敵は37mm級の対戦車砲や歩兵砲、機関銃を装備した歩兵及び陣地であり、その後の重装甲・重武装化した新型戦車には対応することが難しかった。主砲である九七式五糎七戦車砲は、八九式中戦車の九〇式五糎七戦車砲の改良型で、同砲と弾薬筒は共通である[3]。戦訓により不備とされた面の多くが改良されたが、榴弾威力及び装甲貫通力の面で威力向上は考慮されなかった。通常交戦距離で九四式三十七粍砲の射撃に耐えられることを基準とした装甲(最大25mm)は計画策定時は十分と看做されたものであったが、日中戦争(支那事変)における中国国民党軍が装備したPaK 35/36やソ連軍の19-K 45mm対戦車砲によって、容易に貫通撃破されてしまった。このように太平洋戦争(大東亜戦争)以前の敵対戦車砲・戦車との戦いで問題点が指摘されながら、防御力に関しては十分な改善は行われなかった。


とはいえ、日中戦争における中国国民党軍やゲリラは対戦車砲や戦車、野砲や山砲など強力な対戦車兵器の保有数が極めて少なく、これらの敵に対して本車など日本軍の戦車・装甲車は有効な兵器であった。また、太平洋戦争緒戦の各南方作戦では、マレー作戦を筆頭に自動車化歩兵・砲兵・工兵・航空部隊との協同戦である電撃戦が行われ、連合国軍が強力な装甲戦闘車両を数多く保有していなかったこともあり活躍している。
しかし、歩兵直協が本来の目的であるため対戦車戦では本車は不利であり、ビルマ攻略戦における局地戦で対峙したM3軽戦車との戦車戦では苦戦を強いられた。一方、1937年には既に主砲を対戦車攻撃能力に優れた物に換装する改良計画があり、一式四十七粍戦車砲(口径47mm)に換装した車両(俗称・通称「九七式中戦車改」「新砲塔チハ」)が開発された。この新砲塔車は1942年(昭和17年)4月、フィリピン攻略戦における追撃戦に実戦投入され、戦車第7連隊に編入された同車を装備する松岡隊がM3軽戦車3両撃破の戦果を残している。以降、九七式五糎七戦車砲搭載型に代わり一式四十七粍戦車砲搭載型の量産が進められ、M3軽戦車には対抗できるようになったものの、戦争中盤からアメリカ軍は75mm砲を装備したM4中戦車を投入したため、その後の対戦車戦では苦戦を強いられた。
歩兵戦車としては、登場時は列強の戦車と比べても標準的な性能であったが、資金難・生産力・輸送手段・運用課題等の問題に重ね、第二次大戦においては航空戦力の増備に重点が置かれたことなどから後継車両に恵まれず、本車が旧式化した後も使い続けざるを得なくなり、また想定していなかった対戦車戦にも用いられたことで苦戦を強いられた戦車である。本車の場合のみならず、アメリカ・イギリスと比較して資源が不足し技術力に劣り、自動車産業の発展に出遅れていた当時の日本では、自動車生産力の弱点が後の兵器開発に深く影響を及ぼす事になった。

全長 5.55 m
車体長 5.52 m
全幅 2.33 m
全高 2.23 m
重量 自重14.3t 全備重量15.0t(57mm砲搭載型)
自重14.8t 全備重量15.8t(47mm砲搭載型、新砲塔)
懸架方式 独立懸架および
シーソー式連動懸架
速度 38 km/h
行動距離 210 km
主砲 九七式五糎七戦車砲(口径57mm、18.4口径)
ないし
一式四十七粍戦車砲(口径47mm、48口径)
副武装 九七式車載重機関銃(口径7.7mm)×2
装甲 前面25 mm、側面25 mm〜20 mm
後面20mm、上面10mm、底面8mm。防盾50?。
エンジン 三菱SA一二二〇〇VD
空冷V型12気筒ディーゼル
150 hp/1,500 rpm
170 hp/2,000 rpm 
排気量21,720cc
乗員 4 名


新飯塚駅 JR九州筑豊本線・後藤寺線

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新飯塚駅は、福岡県飯塚市立岩にある、九州旅客鉄道(JR九州)の駅です。当駅の所属線である筑豊本線と、後藤寺線の2路線が乗り入れ、接続駅となっています。

後藤寺線は当駅が終点であるが、列車運行上は当駅に向かう列車が上り、当駅を出る列車が下りとして扱われます。また筑豊本線は愛称の「福北ゆたか線」の区間に含まれています。

当初は貨物専用駅として開設された当駅ですが、炭田の閉山後は市内の交通拠点として発展し、筑豊炭田衰退後は飯塚駅に代り飯塚市の中心駅となりました。以来この駅は飯塚の交通拠点として成長を遂げています。

飯塚市役所は当駅から約400m程度であるが、中心繁華街は西側の遠賀川の川向こうにあり当駅から1kmほど離れています。20世紀終盤から発展してきた住宅地「柏の森(かやのもり)」地区が近く、国道201号線も近くを通っています。
駅西側、東側にロータリーがあります。また駅西側より西鉄バス筑豊・JR九州バスが接続しています。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の合わせて2面3線を有する地上駅。開業当初からの木造駅本屋に代り2001年(平成13年)に完成した近代的な橋上駅舎は駅の西と東をつなぐ自由通路をかねており、西口と東口があります。

ガラスを多用したとても明るい雰囲気の自由通路です。旧来の駅舎は西口側にあった。エスカレータ、エレベータも設置され、バリアフリー対策は万全な駅です。


改札口には自動改札機とLED式の発車案内が設置されています。直営駅で、ウオークインタイプのみどりの窓口と旅行センターが設置されています。待合室にはFRP製の椅子が所狭しと並んでいます。

のりば
1 ■福北ゆたか線(上り) 直方・折尾・黒崎方面
2 ■福北ゆたか線(下り) 飯塚・桂川・博多方面
3 ■後藤寺線 田川後藤寺方面
ホームは一部かさ上げのなされていない部分もあります。

1902年(明治35年)6月15日 - 九州鉄道(初代)が山野分岐点 - 上三緒駅間(後藤寺線の前身)開通と同時に貨物業務専用取扱駅の芳雄駅(よしおえき)として開設。
1907年(明治40年)7月1日 - 九州鉄道(初代)が国有化され、帝国鉄道庁が所管。
1920年(大正9年)5月10日 - 旅客業務取扱開始。
1935年(昭和10年)2月1日 - 新飯塚駅に改称。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。
2001年(平成13年)8月 - 2代目駅本屋が完成し橋上駅舎化。
2009年(平成21年)3月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。

電報略号 シツ←シツカ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 3,846人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1902年(明治35年)6月15日
乗入路線
所属路線 ■筑豊本線(福北ゆたか線)
キロ程 37.6km(若松起点)
黒崎から32.0km
◄浦田 (1.4km)(1.8km) 飯塚►
所属路線 ■後藤寺線
キロ程 13.3km(田川後藤寺起点)
(3.1km) 上三緒►
備考 直営駅
みどりの窓口 有
* 1935年に芳雄駅から改称。

2月20日(木)のつぶやき

小竹駅 JR九州筑豊本線

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小竹駅は、福岡県鞍手郡小竹町大字勝野にある、九州旅客鉄道(JR九州)筑豊本線(福北ゆたか線)の駅である。筑豊本線は小竹町の中心部を通っているが、駅自体は中心部から直方方向へ600mほど外れた位置にあり駅前は閑散としています。かつて国鉄時代は幸袋線および新多への貨物支線が分岐していました。

駅は明治25年の開業。石炭輸送全盛時代は多数の側線が存在したが構内が大幅に整理され、筑豊本線電化の際、島式ホーム1面2線を有する構造となり、橋上駅舎に改築されました。土手下にある狭い駅でしたが、その土手を走る国道を入口に利用した橋上駅舎(平成13年)です。

同時にパークアンドライドの拠点として快速列車の停車駅に昇格しました。階段は新飯塚寄りです。ホームは十分幅がありFRPの椅子があります。新多支線との分岐部の跡は保線車両留置用の側線となっている。


九州交通企画が駅業務を行う業務委託駅。マルスは無いがPOS端末の設備を持つ。SUGOCAの利用が可能であるが、カード販売は行わずチャージのみ取り扱いを行う。現在そのチャージ機は取り外されている。待合室には長椅子とテーブルを設置。

1892年(明治25年)10月28日 - 筑豊興業鉄道(1894年筑豊鉄道に改称)が開設。
1894年(明治27年)12月28日 - 当駅 - 幸袋(幸袋炭坑)間(後の幸袋線)開通。
1897年(明治30年)10月1日 - 筑豊鉄道を九州鉄道(初代)が合併。


1902年(明治35年)6月2日 - 当駅 - 塩頭間貨物支線(後の筑豊本線)開通。
1907年(明治40年)7月1日 - 九州鉄道(初代)が国有化され、帝国鉄道庁所管。
1913年(大正2年)7月1日 - 当駅 - 新多間貨物支線(筑豊本線)開通。
1945年(昭和20年)6月10日 - 合理化により当駅 - 塩頭間貨物支線を廃止し、当駅の側線として併合。
1969年(昭和44年)7月1日 - 当駅 - 新多間貨物支線廃止。
1969年(昭和44年)12月8日 - 幸袋線廃止。
1982年(昭和57年)11月15日 - 貨物業務取扱廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。
2001年(平成13年)10月6日 - 駅舎改築。
2009年(平成21年)3月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。

電報略号 コケ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 1面2線
開業年月日 1892年(明治25年)10月28日
備考 業務委託駅

三崎町 (愛媛県)のサザエ弁当とジャコ天とじゃこカツ、イカ天

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佐田岬突端の町、三崎町 (愛媛県)のサザエ弁当とジャコ天とじゃこカツ、イカ天です。本当は対岸、佐賀関のむこうをはった「岬アジ」(はなあじ)、「岬サバ」を食したかったのですが見当たりませんでした。

サザエ弁当(350円)は十分なサザエの具材たっぷりでした。

ジャコ天(90円)も揚げてで美味。

じゃこカツ(100円)は歯ごたえアリ。

イカ天(100円)はほんのり甘さがありました。

大久保駅 JR西日本 山陽本線

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大久保駅は、大規模なショッピングモールと高層住宅が隣接した兵庫県明石市大久保町大久保町にある駅です。JRだけで全国に3箇所ある「大久保」駅の一つで西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽本線の駅です。「JR神戸線」の愛称区間に含まれています。
当駅からの切符を買うと、「(陽)大久保」と印字される。これは中央本線の「大久保駅」や奥羽本線の「大久保駅」と区別するためです。「陽」は山陽本線の「陽」です。

12両編成対応の島式ホーム2面4線を持ち黒いガラスの張り出し部分がお洒落な雰囲気がある橋上駅です。開業当初は地上駅だったが、1996年8月8日に橋上駅舎に改築された。橋上駅舎化に合わせてホームと改札口の間および改札口と南北駅前広場間にエレベーターおよびエスカレータが設置されました。南口はイオン明石ショッピングセンター1番街VIERA大久保に直結している。また、VIERA大久保を通ることにより、イオン明石ショッピングセンター1番街VIVREに行くことができます。
アーバンネットワークエリアに属しており、ICOCAおよび提携ICカードが利用できます。直営駅(西明石駅の被管理駅)です。オープンカウンター式のみどりの窓口、定期券発売機と指定席券売機も併設されています。


1番のりばが上り待避線、2番のりばが上り本線、3番のりばが中線、4番のりばが下り本線となっており、通常の停車には2番のりばと4番のりばが使われます。また、4番のりばの南側には、ホームのない下り待避線(5番線)が1本ある。以前は2面3線構造に下り待避線を加えた構造で、現在の1番のりばが存在しなかった。当時の1番・3番のりばに列車が停車し、待避線は2番のりばでした。

大久保駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先 備考
1・2 ■JR神戸線 上り 三ノ宮・大阪方面 当駅始発は3番のりば
3・4 ■JR神戸線 下り 加古川・姫路方面


三ノ宮・大阪方面への上りで朝7・8時台に新快速を待避する列車は1番のりばを使用する。加古川・姫路方面での下りで8時台に新快速を待避する列車は3番のりば(外側線走行列車で、朝の1本は芦屋 → 西明石間で内側・電車線を走行する。2013年3月16日ダイヤ改正までは夕方にも設定されており、須磨駅・垂水駅・舞子駅を通過する2本の列車が該当であった)を使用する。
 

駅南側にはイオンリテールが経営するショッピングセンターの「イオン明石ショッピングセンター」(旧・マイカル明石)が広がっています。工場跡地を再開発したもので、明石市内外から来る買い物客によって賑わっています。また神戸製鋼不動産カンパニーによって大規模分譲集合住宅の「大久保オーズタウン」が建設された。これらの開発で当駅周辺は明石市有数のショッピングゾーンになりました。
駅北側には国道2号が通り、道路をはさんで富士通や三菱マテリアル明石製作所などの工場が立ち並ぶ。人口集積によって飲食店や食料品店なども増加しており、かつての田園風景の中に工場が立ち並ぶ片田舎の町の光景が、高層マンションやそれらの周辺で新たに整備された公園なども多数あるニュータウン的な様相へと劇的に変貌をとげました。


駅南側には、先述の「大久保オーズタウン」や、他にも「オーズガーデン」「オーズガーデンイースト」なども出来ている。また、大久保南小学校もあり、明石市内有数の児童数が多いことでも知られています。 さらに、イオン明石ショッピングセンターの北側には、大久保駅と直結する商業施設、「VIERA大久保」も完成しました。

1888年(明治21年)12月23日 - 山陽鉄道 明石駅 - 姫路駅間の開通と同時に開業。旅客・貨物の取扱を開始。
1902年(明治35年)12月13日 - 公衆電報取扱開始。(官報1902年12月13日号より)
1906年(明治39年)12月1日 - 山陽鉄道の国有化により、国有鉄道(国鉄)の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。山陽本線の所属となる。
1972年(昭和47年)10月1日 - 貨物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1996年(平成8年) - 現在の橋上駅舎に改築、2面3線を4線に拡張。
1998年(平成10年)10月3日 - 当駅発着列車の運転を開始。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。

電報略号 オク
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 18,165人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1888年(明治21年)12月23日
備考 直営駅
みどりの窓口 有

 

2月23日(日)のつぶやき

魚住駅 JR西日本山陽本線

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魚住駅(うおずみえき)は戦後に設置された比較的新しい駅です。兵庫県明石市魚住町中尾にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽本線の駅です。周囲は住宅が建ち並び、朝夕は多数の通勤、通学客で賑わっている駅です。「JR神戸線」の愛称区間に含まれています。

日中時間帯は1時間あたり4本が停車。朝ラッシュ時の大阪方面は「普通」(舞子駅・垂水駅・須磨駅は通過)と「各駅停車」がそれぞれ停車いたします。南に750m程度離れて山陽魚住駅(山陽電気鉄道本線)があります。JR魚住駅の開設以前は、この駅が「魚住駅」を名乗っていました。

相対式ホーム2面2線の地上駅で橋上駅舎を有する。平成21年3月の橋上駅化により、自動改札機と精算機が新型のものに更新され、当駅の橋上駅化をもって、西明石駅 - 宝殿駅間の駅は、高架駅の加古川駅を除いて全て橋上駅となりました。


分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類される(西明石駅 - 加古川駅間の駅で、待避線がないのは当駅のみ)。ジェイアール西日本交通サービスによる業務委託駅であり、西明石駅が当駅を管理している。アーバンネットワークエリアに属しており、ICOCAとその相互利用対象ICカードの利用可能駅である。自由通路には様々な駅ナカ店舗があります。


魚住駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■JR神戸線 上り 三ノ宮・大阪方面
2 ■JR神戸線 下り 加古川・姫路方面


1961年(昭和36年)10月1日 - 日本国有鉄道(国鉄)山陽本線の大久保駅 - 土山駅間に新設開業。旅客営業のみ。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR西日本の駅となる。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。
2008年(平成20年)12月1日 - ジェイアール西日本交通サービスによる業務委託駅となる。
2009年(平成21年)3月14日 - 駅舎橋上化

電報略号 ウオ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 10,950人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1961年(昭和36年)10月1日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有


山科駅 東海道本線/湖西線 JR西日本

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山科駅は、逢坂山トンネルを越えた京都府の入口にあたる京都府京都市山科区安朱北屋敷町および安朱南屋敷町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・京都市営地下鉄の駅です。JR西日本の駅には東海道本線と湖西線が乗り入れており、東海道本線を所属線としています。湖西線は路線としては当駅が起点であり0キロポストもあるが、運転系統上は全列車が東海道本線経由で京都駅あるいはそれ以西へ乗り入れています。アーバンネットワークエリアに属しており、東海道本線は「琵琶湖線」の路線愛称設定区間に含まれている。また特定都区市内制度における「京都市内」エリアに属しており、後者は東海道本線では最も東の駅です。日中時間帯は1時間あたり11本(土曜・休日は12本)が停車いたします。

新快速1本と普通3本(土曜・休日は4本)は湖西線に入る。朝晩は本数が多くなる。新快速は1986年10月31日まで当駅を通過していました。京都市交通局の駅には京都市営地下鉄東西線が乗り入れており駅番号は「T07」となっています。JRの駅はICOCA、地下鉄の駅はPiTaPa(スルッとKANSAI協議会)およびスルッとKANSAI対応カード・トラフィカ京カードの利用エリアに含まれており、それぞれ相互利用可能なカードにも対応しています。


南北を両駅に挟まれる位置には、京阪電気鉄道(京阪)京津線(大津線)の京阪山科駅が所在しています。

ベッドタウンとして都市化の進んだ山科区内唯一のJR駅で、京都・大阪方面への通勤通学客が多く、また滋賀県内の湖西線各駅・琵琶湖線各駅間の乗換客(特に高校生)も多い。草津延長運転開始時は通過していた新快速は、その後の利用客の増加や湖西線から琵琶湖線への乗換利便性向上のためのちに停車するようになりました。さらに通勤客対応の特急「はるか」・「びわこエクスプレス」も停車するようになりました。
一方地下鉄駅は、山科区内からの京都市中心部への通勤通学客のほか、JRから地下鉄経由の京都市中心部へ、あるいは地下鉄醍醐方面からのJRへの乗換利用客が多い。
JR西日本などは、2007年から、市内のバスの渋滞を回避できるとして行楽客の京都市内移動に鉄道利用を促すPRを行っており、南禅寺や平安神宮など東山エリアへの観光地へは山科駅から地下鉄東西線利用を勧めています。片道201Kmを越える切符の場合「京都市内着」として当駅がそのまま利用でき追加料金を要しないが、近距離、特に大阪・神戸方面から来る場合は電車特定区間や特定区間運賃の対象から外れるため、京都駅で下車する場合に比して運賃がかなり高くなっています。

ホームは築堤上にあり、地平の改札からは築堤下通路から階段を上がる構造です。12両対応の島式2面4線のホームで、旅客案内上は1番のりばから4番のりばまでの番号が振られています。さらに外側にはホームのない通過線があり、運転取扱上は、1番のりばが2番線、4番のりばが5番線、さらに外側に6番線があります。各ホームにはキヨスク・自動販売機が、3・4番のりばには待合室がある。駅構内にはキオスク、周辺にはハートイン・麺家があります。
バリアフリー化工事によりエスカレーターは階段横に設置されたが、エレベーターは改札横から一旦ホームをまたぐ跨線橋(バリアフリー工事で新設されたもの)まで上がりさらに各ホームに降りる構造となり、大きな移動を必要とします。この跨線橋新設のため、下り向きには中継信号機が新たに設置されました。改札は1か所、南面しています。そのすぐ前に、地下鉄山科駅にいたる階段の入り口と、京阪京津線の京阪山科駅があります。
琵琶湖線の新快速・普通は、通常は内側線走行のため、2・3番のりば(3・4番線)を使用する。当駅に停車するすべての特急と、ラッシュ時に外側線を走行する草津線直通列車および一部の新快速が1・4番のりば(2・5番線)に停車いたします。
湖西線の列車については、京都方面行きは1番のりば(2番線)にしか入線できないため、すべて1番のりばに停車する。堅田方面行きはラッシュ時に京都駅から当駅まで外側線を走行する一部列車のみが4番のりばに停車し、通常は3番のりばに停車します。
直営駅で、京都駅(管理駅)の管理下にあるが、地区駅として駅長が配置されている。ただし、傘下に置いている駅がなく地区駅単独で存在という形態となっています。

JR山科駅プラットホーム
ホーム 線路   路線         行先         備考
1 下り外側  ■JR京都線   京都・大阪方面    特急と湖西線列車は全てこのホーム
2 下り内側  ■JR京都線   京都・大阪方面    琵琶湖線からの普通・新快速の大半
3 上り内側  ■琵琶湖線   草津・米原方面    通常はこのホームに発着
        ■湖西線     堅田・近江今津方面
4 上り外側  ■琵琶湖線   草津・米原方面    すべての特急と一部列車
        ■湖西線 堅田・近江今津方面     ラッシュ時の一部列車

当駅は「琵琶湖線」とされる区間の途中駅にあたるが、構内の案内では東海道本線上り米原方面のみ「琵琶湖線」の表記が用いられ、同下り京都・大阪方面は「JR京都線」(本来は京都駅以西がJR京都線)の表記となっている。これは、当駅 - 京都駅間では、琵琶湖線系統と湖西線系統が混在することから、便宜上直通先の名称を使うことで、同じ方向に向かう2つの系統を一まとめにしているためです。下り外側からは1・2番線に、湖西線からは2番線に、下り内側からは3番線のみ進入が可能。2番線からは外側内側両方へ出発できるが、1番線は外側のみ、3番線は内側のみしか出発できない。上り外側からは5・6番線に、内側からは4番線にしか進入できない。4番線からは上り内外側に、5番線・6番線からは上り外側のみ出発。なお。湖西線へは4-6番線全てから出発が可能。

駅南側は、真南に向かう京都外環状線沿いに、山科区の中心をなす商業・業務地区です。駅前には駅周辺再開発で誕生した商業施設「ラクト山科」(大丸などが入居)があります。
駅のすぐ南を東西方向に走る細い道が旧三条通(旧東海道)であり、その一本南を新しい三条通(旧国道1号、現府道四ノ宮四ツ塚線)が通る。山科区唯一のJR駅であるため自転車利用者も多く、京都市の自転車駐車場(地下)だけで2,000台近く駐輪が可能です。
駅北側は低層の住宅地であり、その北の山麓に沿って琵琶湖疏水が流れる。さらに北には毘沙門堂門跡があります。
京阪山科駅を挟んで南にはロータリーが設置され、京阪バスほかの路線バスおよびタクシー乗り場がある。また、改札口東側に線路下を通る南北方向の歩行者用通路があります。

1921年(大正10年)8月1日 - 東海道本線の馬場駅(現在の膳所駅) - 京都駅間が新ルートに改められた際に山科駅が開業。客貨取扱を開始。
新逢坂山トンネル・東山トンネルの開通によって現在の大津駅 - 京都駅間のルートが完成し、それに伴い開設。それまでは、馬場駅 - 大谷駅 -(旧)山科駅 - 稲荷駅 - 京都駅間のルートが東海道本線であった。旧線は新線開業と同時に廃止となった(稲荷駅 - 京都駅間は奈良線に転用)。
なお旧線に存在した(旧)山科駅は、京都駅 - 大津駅間鉄道のうち、京都駅 - 大谷駅間が開業した1879年(明治12年)8月18日に開設された。現行の駅のかなり南方にあり、現在は名神高速道路が通っている(地下鉄東西線小野駅付近)。徳富蘆花の『不如帰』や、萩原朔太郎の『夜汽車』でも描かれた。


1971年(昭和46年)10月1日 - 貨物取扱が廃止。
1974年(昭和49年)7月20日 - 湖西線開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。
1995年(平成7年)10月5日 - 地下鉄東西線の山科駅工事開始。
1997年(平成9年)10月12日 - 地下鉄東西線の駅が開業。
地下鉄の駅はJR・京阪京津線との連絡のために設けられることが決定された。しかし実際には、京阪京津線との接続駅の役割は、隣の御陵駅が担う形になった。
また、その頃、都市再開発が行われた。再開発以前は、京阪線とJR線の間に京阪バス乗り場があった。現在は京阪線より南に路線バスおよびタクシー乗り場がある。同バスターミナルには、京阪バス(山科・醍醐・六地蔵方面)と、高速バス(金沢・東京方面)が発着する。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」供用開始。

電報略号 ヤシ
駅構造 地上駅(盛土上)
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 31,672人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1921年(大正10年)8月1日

 

 

大久野島 中部砲台跡/芸予要塞

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大久野島の中心、山頂付近に大鉄塔がありその近くに中部砲台跡があります。二十八珊榴弾砲が4門〜6門据え付けられ海峡を守っていました。

二十八珊榴弾砲は1884年(明治17年)に大阪砲兵工廠がイタリア式28cm榴弾砲を参考に試製したものであり、1886年(明治19年)に大阪府信太山にて射撃試験を行ったところ非常に優秀な性能を誇ったため、1887年(明治20年)の海岸砲制式審査を経て、1892年(明治25年)に制式制定され量産されました。

主に日露戦争に実戦投入された本砲はその火力を発揮し、日露戦争勝利の大きな立役者として活躍した砲です。

大口径砲かつ19世紀末の火砲であるため、砲弾の装填は砲身を水平にしてクレーンで吊り上げた砲弾を人力で押し込んでから装薬を入れる後装式であり、発射速度は高くない砲です。

日露戦争が始まると大口径・高性能の砲であったため前線に近い鎮海湾や対馬などへ移設することになり大久野島も6門全てが移設となりました。さらに陸軍技術審査部は二十八糎榴弾砲を攻城砲として使用する案を掲示し大久野島の2門は急遽旅順へ送られ、旅順攻略戦や旅順艦隊攻撃に使用されました。

配置された砲は実戦に使用されたが、大久野島が含まれる芸予要塞(瀬戸内海の忠海海峡と来島海峡の守備要塞)そのものはついに実戦を経験することはありませんでした。

1897年(明治30年)3月に建設が開始された現存する砲台としては非常に保存状態が良く貴重は砲台跡の一つです。大量のセメントが使われた様子、石づくりの台座、掩蔽部(身を隠したり、資材を置くところ)もしっかり残っています。

砲台の横脇には中部砲台跡は北部砲台とは違いレンガ構造の遺構があり兵舎として連弾薬庫として使用されていたとのこと。これらの施設は後に毒ガスの原料・製品倉庫としても使われた。

案内板にはここの赤煉瓦はロシアからの輸入品と言われていると書かれていました。

 

大杉駅 JR四国 土讃線

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大杉駅は、大豊町の代表駅です。高知県長岡郡大豊町中村大王にある四国旅客鉄道(JR四国)土讃線の駅。駅番号はD32。
駅名は駅の南方にあり、天然記念物に指定されている杉の大杉'から命名された。(駅から南約1km、タクシーで5分)

特急「南風」、「しまんと」の半数が停車する主要駅です。編成の長い特急列車はドアカットが行われます。

杉の大スギは、高知県長岡郡大豊町杉の八坂神社境内に生育しているスギの巨木です。推定の樹齢は3000年以上といわれ、1924年には国の天然記念物、1952年には国の特別天然記念物に指定されました。根元で「北大スギ」と「南大スギ」の2本の株に分かれており、神社にみられる木としては、日本最大のものとされ、古来から信仰の対象となっていました。大豊町(旧大杉村)出身の軍人「マレーの虎」山下奉文は、この木に因んで「巨杉」(きょさん)という雅号を使用していた。

著名人の参拝記録が多く、幕末には山内容堂や坂本龍馬、第2次世界大戦後には美空ひばりなどがこの木を訪れています。特にひばりとこのスギにまつわる逸話は名高く、その縁によって遺影碑と歌碑が彼女の没後に建立されました。

ホームは島式1面2線である。下り列車(高知方面行き)のみ追い越し可能な構造となっている。三角形を二つ合わせたユニークな形状の駅舎は夫婦杉をイメージしています。地上木造駅舎です。業務委託駅。わたしの旅スタンプが設置されている。隣には国鉄時代からと思われる詰所のような施設があります。


杉材を使用した名物駅舎があったが、2004年1月2日に焼失したため、大豊町立大杉中学校の生徒たちが駅舎の再建に関わって、2005年3月12日に大豊町つどいの広場「とまレール大杉」として再建併設されました。地元の杉材を利用しており「第4回高知県木の文化賞」を受賞しました。

駅前には高知県交通の「大杉駅」停留所があります。

のりば
1 ■土讃線 (上り) 大歩危・阿波池田・岡山・高松方面
2 ■土讃線 (下り) 土佐山田・後免・高知・中村方面


ホームには上屋はありませんが、中央に待合室が設置されています。

ホームへは構内踏切で連絡します。


構内には錆びた留置線と廃ホームがあります。

1932年(昭和7年)12月20日 - 開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。
年月日不明 - 窓口業務を業務委託化。

 
2004年(平成16年)
1月2日 - 駅舎焼失。
1月 - プレハブ仮駅舎で営業。
12月1日 - 新駅舎起工。
2005年(平成17年)
3月12日 - 新駅舎落成。
4月1日 - 窓口業務を簡易委託化。

電報略号 オキ←ヲキ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
開業年月日 1932年(昭和7年)12月20日
備考 業務委託駅

 

 

 

辺川駅 JR四国牟岐線

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辺川駅(へがわえき)は、徳島県海部郡牟岐町大字橘にある、四国旅客鉄道(JR四国)牟岐線の駅です。

海岸から少し離れた内陸部で、周囲は田圃が多い。しかし、駅前やその周辺に2・3軒ずつ民家が点在するので、いわゆる「秘境駅」という印象は薄い。未舗装ながら駅前広場を持つ。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。駅舎はなく、ブロック積みの待合所がホーム上にある。待合所にはFRP製の椅子が並んで設置されています。ホームはかなりきついカーブを描いている。


開業当初は有人駅だったが周辺の過疎化から利用客が減り、1970年(昭和45年)に無人化された。国鉄時代は廃屋のような駅舎が残っていたが、取り壊された。入口横にはトイレが設置されています。2009年度にはバリアフリー化工事として、下り方2両分の長さのホーム嵩上げと駅出入口部分に車椅子用スロープの設置が行われた。

1942年(昭和17年)7月1日 - 開業。当初は計画になかったが、地元の猛烈な陳情により設置が決まった。橘の集落に駅はできたが、すでに牟岐線内に阿波橘駅があり、仕方なく隣の集落名を使用した。
1970年(昭和45年)4月1日 - 無人化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。

電報略号 ヘカ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1942年(昭和17年)7月1日
備考 無人駅

 

2月27日(木)のつぶやき

つしま(MSO-302)やえやま型掃海艦2番艦 海上自衛隊

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つしま(MSO-302)は、海上自衛隊の掃海艦。やえやま型掃海艦の2番艦。艦名は対馬に由来する。

やえやま型掃海艦は潜水艦隊のための航路啓開を主任務としており、従来の掃海艇では対処不可能な深深度に敷設された機雷への対処能力が付与されている。従来の海上自衛隊掃海艇と同様、磁気反応型機雷を避けるため木造であり、アメリカ海軍のアヴェンジャー級とともに、世界最大級の木造船舶となっている。

1970年代初期、優勢なアメリカ海軍原子力潜水艦に対抗して、ソビエト連邦軍は機雷の高性能化・深深度化を進めており、アンテナ機雷や短係止上昇式機雷のなかには水深2,000メートルまで敷設可能なものも出現してきた。このような深深度に敷設された機雷には、従来の掃海艇では対処困難であり、海中を航行する潜水艦にとって大きな脅威となった。
海上自衛隊においては、特に豊後水道・浦賀水道の2つのチョークポイントに機雷を設置された場合、それぞれ呉基地の第1潜水隊群、横須賀基地の第2潜水隊群の活動が大きく掣肘されることから、深深度の対潜機雷への対処能力の整備は非常に切迫したものとなった。このことから、61中期防においては、中深度域での機雷対処能力を備えた掃海艇(MSC)と、深深度機雷に対処するための1,000トン型掃海艦を整備することとされた。前者として整備されたのがうわじま型(63MSC)であり、後者として整備されたのが本型である。

本型の設計は、同様の目的でアメリカ海軍が1980年代に建造したアヴェンジャー級掃海艦に類似している。船首楼を全長の3/4以上に延伸して船首楼甲板を強度甲板とすることで、縦強度の保持および部材寸法の上昇を抑えている。また艦の大型化に伴う剪断応力の増加および板厚増に対処するため、外板構造は、内層板を互いに直交する斜め張りとしてこれに外層の縦張り板を張るという三層両矢羽根構造とされている。従来の掃海艇と同じ二重矢羽根構造を採用していた場合は内層板厚は47mmになったと考えられていたが、これによって20mmに抑えられている。使用樹種は下記の通りで、63MSCと同様である。
ベイマツ - キール・スケグ、船底縦通材、チャイン材、フレーム、外板・甲板
ケヤキ - キール摩材
タモ - 合板
主機関としては、63MSCの搭載機と同系列だがより大出力(1200PS/1000rpm)の三菱重工業製4サイクル非磁性ディーゼルエンジンである6NMU-TKIを、二重防振装置を介して搭載した。また初めてバウ・スラスターを装備すると共に、GPSを利用した精密航法装置・自動操艦装置を搭載し、艦位保持機能の向上を図っている。

センサ:機雷探知機としては、アヴェンジャー級と同じく、ハル・ソナーと可変深度ソナーを兼用するAN/SQQ-32を搭載した。これはアメリカのレイセオン社とフランスのトムソン・シントラ社により開発されたもので、機雷探知機能はレイセオン社の技術に基づいて35キロヘルツの周波数を使用しており、5本の垂直ビームによって全周にわたって海面から海底までを捜索できる。一方、機雷類別機能はトムソン・シントラ社の技術に基づいて445-650キロヘルツの周波数を使用しており、0.13度の分解能を誇っている。一方、対水上捜索レーダーとしては、63MSCと同系列のXバンドのOPS-39-Yが搭載される。

機雷掃討:63MSCで搭載された中深度対応の機雷処分具S-7 1形をもとに深深度に対応して発展させた機雷処分具S-7 2形を搭載する。これは有線式の遠隔操作無人探査機(ROV)で、円筒形の機体の後方には可動式のスラスターが、前方には上下動用のスラスターがトンネルを設けて設置されている。先端には精密走査用のイメージング・ソナー(超音波水中映像装置)、低光量ビデオカメラおよびサーチライトが装備されている。機雷処分用として、胴体下に処分爆雷1発を搭載しており、海底の機雷に向けて投下して破壊する。また2形では、1形にはなかった係維索切断用のカッターも備えている。

機雷掃海:係維掃海具として深深度機雷に対処できる新型機として89式係維掃海具S-8を搭載する。これはカッターのついた掃海索を深度数百メートルに下ろして、これを曳航しながら機雷の係維索を切断していくものであり、従来の係維掃海具よりも長大な掃海索を備えることから、両舷の掃海範囲の幅を一定に保つための展開器や深度を一定に保つ沈降装置も新規開発となった。感応掃海具:感応機雷に対する掃海具は63MSCと共通で、71式音響掃海具S-2改1と85式磁気掃海具S-6を搭載する。

やえやま型掃海艦は全艦とも横須賀基地の第51掃海隊に配備されている。

「つしま」は、中期防衛力整備計画に基づく平成元年度計画掃海艦302号艦として、日本鋼管鶴見造船所で建造され、1990年7月20日起工、1991年9月20日進水、1993年3月23日に就役の後に第2掃海隊群第51掃海隊に配属された。
2000年3月13日に掃海隊群第51掃海隊に配属された。
2011年9月8日、「MST-463 うらが」と共に横須賀を出港し、海自艦艇としては初めてベトナム・ダナン港に寄港し、インド洋アンダマン諸島のポートブレアに寄港、10月14日にバーレーン・ミナサルマンに寄港、同月15日から30日までバーレーン沖ペルシャ湾にてアメリカ合衆国とイギリス共催による多国間掃海訓練」に日本として初参加し、12月1日に帰国する。

兵装:機雷処分用として、前甲板にJM-61-M20mm多銃身機銃 1基を装備する。

建造者 日本鋼管 鶴見造船所
運用者 Flag of Japan.svg海上自衛隊
計画 平成元年度計画
発注 1989年
起工 1990年7月20日
進水 1991年9月20日
就役 1993年3月23日

艦種 掃海艦
艦級 やえやま型
排水量 基準 1,000トン
満載 1,150トン
全長 67.0m
全幅 11.8m
吃水 3.1m
機関 2軸推進
* 三菱6NMU-TK-1Cディーゼル × 2基
機関出力 2,400PS
速力 最大速 14ノット
乗員 63名
兵装 JM-61-M20mm多銃身機銃 × 1基
レーダー OPS-39水上
ソナー * QQ-32
* AQS-14サイドスキャンソナー
その他 * S-8深々度掃海具一式
* 85式磁気掃海具
* 71式音響掃海具
* S-7機雷処分具2型
所属 掃海隊群第51掃海隊(横須賀基地)

2月28日(金)のつぶやき


土佐大津駅 JR四国 土讃線

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土佐大津駅(とさおおつえき)は高知市の東端、高知県高知市大津甲にある駅です。ここは紀貫之が京都に帰還する際に出発した地としても知られています。

大きな木があり入口を覆い被さっています。駅前は狭い上に駐輪自転車が多い駅です。四国旅客鉄道(JR四国)土讃線の駅。駅番号はD41。

コンクリート造りの簡易駅舎と相対式2面2線ホームを持つ地上駅(無人駅)。駅舎は軽量鉄骨造です。ホーム間は跨線橋で結ばれていますが構内踏切の跡もあります。

駅舎を出て左側に男女兼用の汲取り式トイレがあります。待合室には木造長椅子とゴミ箱、簡易型の券売機が設置されています。
駅舎側の1番線を本線とした一線スルー配線のため、行き違いがない限りは上下線とも1番線に発着いたします。

のりば
1・2 ■土讃線 (下り) 高知・伊野・須崎・窪川方面
         (上り) 土佐山田・阿波池田・安芸・奈半利方面


ホーム待合所は鉄骨造で木造造りつけの長椅子が設置されています。


1925年(大正14年)12月5日 - 開業。
1969年(昭和44年)10月1日 - 配達の取扱を廃止。
1970年(昭和45年)10月1日 - 無人駅化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。

キロ程 119.4km(多度津起点)
電報略号 オホ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線


開業年月日 1925年(大正14年)12月5日
備考 無人駅



 

3月1日(土)のつぶやき

痛バイク Rewrite /ヤマハ・マジェスティ

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マジェスティ(MAJESTY)とは、ヤマハ発動機が製造しているスクータータイプのバイクであり、シリーズ車種として排気量別に数車種が販売されています。

マジェスティ250は1995年に発売された。それまで販売されていたスクーターとは違い、大柄の車体に大容量メットインスペースを確保したモデルであり、発売と共にヒット車となりました。
1999年にモデルチェンジされた車両はスタイルの評価も高く、その年の自動二輪車における年間最多販売となる大ヒット車となった。


2001年式 マジェスティ (台湾)
また、この頃からユーザーが自分の好みに合わせて外装を取り替えるカスタムを行うようになったことから、メーカー自ら一般車両の外装を変更したカスタム仕様のマジェスティCが発売され、2007年の排出ガス規制適用まで生産され続けられた。
2007年5月31日にフルモデルチェンジが行われ、 車体スタイルはヘッドライトを縦目二対にするなど大幅に手が加えられた。エンジンも自動車排出ガス規制に対応するため、フューエルインジェクション装備のSOHC水冷エンジンを低回転域のトルクを重視したセッティングに改めて搭載したが、新たに装備した電子制御式変速装置(YCC-AT)との組み合わせで走行感の向上を図っています。
2012年2月28日のマイナーチェンジではフロント周りが大きく変更され、カウルのデザインがYZF-R1のイメージとなり、メーターおよびライトなどの灯火類も変更されています。

『Rewrite』(リライト)は、ビジュアルアーツのゲームブランド・Keyから2011年6月24日に発売された、9作目の恋愛アドベンチャーゲーム。『電撃G's magazine』、『月刊コミック電撃大王』、『まんが4コマぱれっと』で漫画版が連載中です。

原画は全て樋上いたるが担当。名前の由来は、関西地方にある駅名および地名が元となっている。いたる曰く「まだ1人で企画書を作っていた時に、名前が無いとわかりにくいので、仮に付けた名がそのまま残っている」という。物語の舞台は、街中のさまざまな場所に緑があふれている緑化都市「風祭市」です。自身の身体の仕組みなどを書き換えることができる。それにより、究極的には強大な力を持つ魔物になることもある。咲夜、瑚太郎がそれに当たり、咲夜は魔物となった。

3月2日(日)のつぶやき

由岐駅 JR四国)牟岐線

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由岐駅(ゆきえき)は、徳島県海部郡美波町西の地東地にある四国旅客鉄道(JR四国)牟岐線(阿波室戸シーサイドライン)の駅です。駅番号はM18。駅集落は国道55号線から大きく外れた県道沿いにあって、道路事情はよくない。
交換可能駅で特急列車を含む全列車が停車する。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅。「ぽっぽマリン」と名付けられた物産館の左端に間借りした木造駅舎です。

現在の駅舎は、旧由岐町の町営施設と合体し、駅舎内には「ぽっぽマリン」「郷土資料展示室」のほか、特産品販売所や観光案内ステーションなどがあります。

1階部分にミニ水族館があって一部が吹き抜けとなっており、2階にホールや学習ルームなどがあります。

駅窓口業務は、2010年9月1日に廃止された。

待合室には木造の長椅子が数多く設置されています。

2009年度にバリアフリー化工事が行われ、スロープの新設、およびホームの嵩上げが実施されています。

ホームは4両分の内、嵩上げされているのは下り方の3両分のみとなっています。

上り方に、元の貨物扱線を転用した保線用の留置線と詰所があります。

1939年(昭和14年)12月14日 - 開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。
2010年(平成22年)9月1日 - 無人化。


電報略号 ユキ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線


乗車人員
-統計年度- 121人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1939年(昭和14年)12月14日
備考 無人駅

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