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上三緒駅 JR九州後藤寺線

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明治35年に九州鉄道の駅として開業しました上三緒駅(かみみおえき)は、福岡県飯塚市上三緒にあります。九州旅客鉄道(JR九州)後藤寺線の駅である当駅は当初は、下鴨生方面ではなく、下鴨生方右に延びる稲築町山野までの路線として開通しました。

昭和20(1945)年に旅客営業廃止、昭和39(1964)年に貨物も廃止、廃線となりました。駅はかつて貨物支線が分岐するなど石炭輸送で賑わいましたが、周辺他駅同様、貨物設備はほとんど撤去され、往時の面影は残っていません。駅の裏を少し歩けば雑貨屋とタクシーの営業所があります。

貨物支線(筑前山野方面)の分岐し交換設備も存在していたのですが、現在は単式ホーム1面1線でホーム脇に一見車掌車風の待合室に近い簡易駅舎が設置されているだけの無人駅です。線内中間駅では唯一の駅舎存在駅となっています。

ホームにベンチ等はありません。駅構内田川後藤寺寄りには、使われなくなったホームが残されています。加えて交換設備や側線跡も残っています。

旧国鉄様式の駅名標も健在ですが2番ホームに残っていた国鉄型木製駅名標は撤去されてしまったとのことです。
近距離きっぷの自動券売機が設置されている。待合室にはFRP製の椅子が少しですが設置されています。

1902年(明治35年)6月15日 - 初代九州鉄道が貨物駅として開設。
1907年(明治40年)7月1日 - 初代九州鉄道の国有化により帝国鉄道庁に移管。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により筑豊本線(貨物支線)となる。
1920年(大正9年)5月10日 - 旅客業務取扱開始し同時に筑豊本線から分離され漆生線所属駅となる。
1943年(昭和18年)7月1日 - 産業セメント鉄道が戦時買収されたのにともない、後藤寺線に改称。
1964年(昭和39年)2月25日 当駅分岐の貨物支線が廃止。
1982年(昭和57年)11月15日 - 貨物業務取扱廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。

電報略号 ミオ←ミヲ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 79人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1902年(明治35年)6月15日
備考 無人駅(自動券売機 有)

 

 

 


マリンテナー給水架台セットMT-1 (500L):自衛隊

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給水車からの緊急飲料水を災害地で受水する大型容器です。約150人分の水を確保することが可能です。(1人1日3Lを目安としております。)枠を組み立てる必要がなく水を入れるだけで立ち上がります。安定がよく、密閉されているので水がこぼれません。底部が正4角型のためデッドスペースを取りません。使用しない時は小さく格納できます。食品衛生法規格基準に適合しております 。マリンテナーを使用した緊急仮設給水設備です。6ヶ所の蛇口からスムーズに給水出来ます。架台の組立は軽量で簡単ですので、2人で組立が可能です。蛇口付給水器との接続はカムロック式です。総重量約74kgと軽く、運搬が容易です。総合格納袋に一式を収納し、コンパクトにすることが出来ます。

セット内容
●マリンテナーMT-1( 500L)
●保護シート
●総合格納袋
●MT-1専用架台
●蛇口付給水器

型式:MT-1
容量:500L
寸法:上部タテ×ヨコ800×800(m/m) 下部タテ×ヨコ1,200×1,200(m/m)
高さ:450(m/m)
重量:MT-1約8(kg)
総重量:約74kg

田井ノ浜臨時駅 JR四国)牟岐線

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田井ノ浜駅(たいのはまえき)は、徳島県海部郡美波町田井にある四国旅客鉄道(JR四国)牟岐線の駅。

海水浴に伴う臨時駅のため、駅番号は持たない。

駅の北側に、国道55号日和佐道路の由岐インターチェンジがある。

単式1面1線のホームを持つ地上駅。駅ホームは牟岐線線路の海岸側に設置されており、隣接する田井の浜海水浴場の砂浜にはホームから直接下りられる。ホーム脇には塔状(監視塔)の待合室が建てられている。塔の下には窓口、ここで切符を売っていたようです。


駅施設に連絡する公共道路は無いが、牟岐線線路を挟んでホームの反対側を当線に沿うように徳島県道25号日和佐小野線が通っている。

駅の南側に海水浴場があるため、夏季の海水浴シーズンのみ営業する。営業期間中には原則として日中の全ての普通列車が停車するほか、一部の特急列車も停車する。
当駅が開設される時期に、当駅両側の由岐駅及び木岐駅の駅名標がステッカー等で訂正されることはないが、牟岐線の各駅には、各駅から田井ノ浜駅までの時刻表・運賃を記した宣伝掲示が貼り出される。

故森口幸夫像 由岐町出身県議で県漁業界の代表者。陸軍愛国号の献納者。

1964年(昭和39年)7月11日 国鉄牟岐線の臨時駅として開業。
1987年(昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。
1997年(平成9年)7月1日 営業キロ設定。

電報略号 タイ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1964年(昭和39年)7月11日
備考 臨時駅

 

 

 

3月6日(木)のつぶやき

下鴨生駅 JR九州後藤寺線

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下鴨生駅(しもかもおえき)は、平成の大合併により2006年(平成18年)3月27日に誕生した嘉麻市内の唯一の駅です。福岡県嘉麻市鴨生にある、九州旅客鉄道(JR九州)後藤寺線の駅です。かつては漆生線が接続していました。1956年(昭和31年)12月20日に所在地名をとって駅名を「赤坂駅」から「下鴨生駅」に変更しているが、これは隣に漆生線の鴨生駅があったため、「下」を冠したものです。駅裏の土手上には庄内町赤坂地区で、下鴨生駅の旧駅名「赤坂駅」の由来となったところで団地が広がっています。

島式ホーム1面2線を有する地上駅。ホームへの移動は構内踏切で結ばれています。警報機はありますが遮断器はありません。上屋は設置されていません。広い駅前に既に駅舎はなく、駐車場があるのみです。

かつてはさまざまな線路(漆生線、赤坂炭鉱貨物支線など)が放射状に伸びる貨物のターミナル駅でした。後藤寺線内では唯一の交換可能駅で、1994年(平成6年)までは交換のための要員が配置され直営駅でした。交換自動化に伴い無人駅となり、2004年(平成16年)には独特の形状をした駅舎も取り壊され、旧駅舎に掲げてあった駅名板のみが設置されている。同駅は福岡県内のJR線で最後のタブレット交換駅でした。ホーム東端に小さな待合所が設置されており中にはFRP製の長椅子が1脚あります。近距離きっぷの自動券売機が設置されています。

2006年(平成18年)3月27日に福岡県山田市をはじめとする1市3町が合併して誕生した嘉麻市エリアには現行の後藤寺線のほか、かつては漆生線や上山田線も存在し駅数も多かったが、両線とも国鉄再建法の施行によって廃止されてしまい、現在残っているのは旧・嘉穂郡稲築町エリアにある当駅のみとなった。後藤寺線内では一番利用者数が多い駅ではあるものの駅舎無し、自動販売機無し、バス路線無し、駅待ちタクシー無し、更に駅周辺に商店無し、唯一存在するのがNTTの公衆電話ボックスといった当駅は、市の代表駅として日本最小規模です。


それに加えて嘉麻市民の多くは飯塚市にあるJR筑豊本線の飯塚駅や嘉穂郡桂川町にある同線の桂川駅を利用しており、しかも旧・嘉穂郡碓井町エリアにある嘉麻市役所(旧・碓井町役場)へは当駅から徒歩で1時間半程の距離がある。それが故にJTB発行の時刻表に載っている鉄道路線図には市の代表駅を表す「◎マーク」が表示されておらず、また現在のところJR九州・嘉麻市ともに当駅を活性化させる計画は全くない。


旧・山田市は合併により、同市と姉妹都市関係を結んでいた北海道歌志内市に次ぐ日本2番目のミニ市を返上したものの、逆に現エリアには市の代表駅としては日本最小規模の駅が誕生することとなりました。なお、当駅から一番近い官公庁である嘉麻市役所稲築庁舎(旧・稲築町役場)へも徒歩で40分程の距離がある。漆生線がまだ現役の頃、稲築町役場の最寄り駅は隣の鴨生駅だった。稲築は「いなつき」が正しい読みですが「いなちく」と読む地元民は多い。

1916年(大正5年)2月1日 - 筑豊本線の貨物支線(上三緒 - 漆生)上に赤坂駅(あかさかえき。貨物のみ扱い)として開設。
1920年(大正9年)5月10日 - 芳雄 - 漆生間・上三緒 - 筑前山野間で旅客輸送を開始、漆生線と名乗る。当駅も旅客扱いを開始。
1926年(大正15年)7月15日 - 九州産業鉄道(後の産業セメント鉄道)船尾 - 赤坂炭坑間が開業し、国鉄と九州産業鉄道との接続駅となる。
1943年(昭和18年)7月1日 - 産業セメント鉄道が戦時買収により国有化される。漆生線の新飯塚 - 赤坂間と上三緒 - 筑前山野間を後藤寺線に編入。当駅も漆生線から後藤寺線の駅となる。
1945年(昭和20年)6月10日 当駅 - 赤坂炭坑間の貨物支線を廃止し、当駅構内に併合。
1956年(昭和31年)12月20日 - 駅名を赤坂駅から下鴨生駅に変更。
1966年(昭和41年)3月10日 - 漆生線漆生 - 下山田間(実質は嘉穂信号場まで)が開業(漆生線全通)。
1974年(昭和49年)3月5日 - 貨物扱い廃止。
1986年(昭和61年)4月1日 - 漆生線廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR九州に継承。
1999年(平成11年)3月13日 - 後藤寺線ワンマン運転開始。

電報略号 モカ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
開業年月日 1916年(大正5年)2月1日
備考 無人駅(自動券売機 有)
* 1956年に赤坂駅から改称。

 

せと風の丘パーク(愛媛県)

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せと風の丘パーク(愛媛県)
愛媛県の佐田岬半島にある伊方町(旧瀬戸町エリア)は、年間平均風速8.3m(高さ40m地点における数値)の日本でも有数の風の強い地域である。

この強風を利用し、瀬戸ウインドヒル発電所が2003年10月1日に完成し、11基の三菱重工業株式会社製の巨大な風車が立ち並んでいる。グルグルと回っている羽は1枚の長さ29.5m・重さ4.3tで、風車1基に3枚が取り付けられています。

その巨大な風車群を観光できるスポットとして、せと風の丘パークも開業。佐田岬半島のほぼ中央に位置し、風車群の他にも、風光明媚な瀬戸内海や宇和海の風景を360度のパノラマで楽しむことができる。

海のグラデーションと自然が作り出したリアス式海岸、広く感じる空を堪能できる。絶景とともに伊方町に立ち並ぶ風車を望み、風力発電の仕組みを学べるスポット。 この強風を地元では「まじ」と呼び農業に悪影響を与える「悪魔の風」と揶揄されていた。

このマイナスのイメージしかなかった風を、プラスの発想へ変換を試み、風力発電を中心にした風のまち作りへとつなげた。行く行くは近隣の「伊方ウィンドファーム」などを含めて伊方町の風車の数は総計60になり、日本最大級の風力発電地帯の一つとなる予定。

伊予宮野下駅 JR四国予土線

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伊予宮野下駅(いよみやのしたえき)は、愛媛県宇和島市三間町宮野下にある四国旅客鉄道(JR四国)予土線の駅である。

駅番号はG44。隣の務田駅とは0.9kmしか離れていない。当駅は旧・三間町(現・宇和島市)の中心に位置し乗降が多い。愛媛県立三間高等学校の最寄り駅です。駅前には、JR四国直営の「簡易駐車場」があります。


2面2線ホームで、改装済の木造駅舎が残っています。

小ぶりの木造駅舎で入口に三角屋根が付いています。

待合室には木造長椅子が設置されています。簡易委託駅である。


のりば
ホーム 路線 方向 行先
駅舎側 ■予土線 上り 江川崎・窪川方面
反対側 ■予土線 下り 宇和島方面
若井方面は右にカーブしています。


長いホームは跨線橋で結ばれています。

1914年(大正3年)10月18日 - 宇和島鉄道の宮野下駅として開業。
1933年(昭和8年)8月1日 - 宇和島鉄道が国有化。宮野下駅から現在の駅名に改称(中野→二名と同日)。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR四国の駅となる。

電報略号 ノタ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1914年(大正3年)10月18日
備考 簡易委託駅

 

 

筑前庄内駅 JR九州後藤寺線

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筑前庄内駅は、福岡県飯塚市赤坂にある、九州旅客鉄道(JR九州)後藤寺線の駅である。庄内町が平成18(2006)年3月に飯塚市と合併する時点で同町にあった唯一の鉄道駅です。旧庄内町の中心部からは南に約3km離れていて寂しい立地ですが駅前の道路は田川方面に向かう国道の抜け道になっていて交通量はそこそこあるようです。周辺は住宅地となっていて賑わいは全く見られません。駅の約400m北側の赤坂橋バス停から西鉄バス筑豊が旧庄内町中心部(庄内支所)を経由して飯塚市に向かう路線バスを運行している。

かつては石炭の積み込み施設もあったが現在は道路の拡張に伴い駅舎も解体され単式ホーム1面1線のホームに待合室があるだけの地上駅。

ホームと駅前の大きな段差は石炭採掘による地盤沈下が原因と言われています。ホーム待合所には木製の長椅子。駅ホーム下、スロープの脇にはトイレがあります。簡易委託駅である。

1926年(大正15年)7月15日 - 九州産業鉄道(後の産業セメント鉄道)の駅として開業。
1943年(昭和18年)7月1日 - 産業セメント鉄道が戦時買収により国有化され、後藤寺線の駅となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。

電報略号 クセ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 35人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1926年(大正15年)7月15日
備考 簡易委託駅

 

 

 


浅川駅 JR四国牟岐線

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浅川駅(あさかわえき)は、徳島県海部郡海陽町浅川イチにある四国旅客鉄道(JR四国)牟岐線の駅。駅番号はM26。東日本旅客鉄道(JR東日本)、東京都八王子市高尾町の高尾駅も1961年までは駅名が「浅川駅」でした。

駅周辺には、天然の良港と言われる浅川港があり小学校や郵便局を含む集落があります。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。ホームのみで駅舎はありません。結構な高さがある築堤上に位置し、国道55号からスロープを登ってホームへアクセスいたします。

スロープ下には自転車置き場とトイレが設置されています。ホーム上には待合所があり木製の長椅子が設置されています。

1973年(昭和48年)10月1日 - 鉄道建設公団の手によって開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。

電報略号 アサ
駅構造 地上駅


ホーム 1面1線
開業年月日 1973年(昭和48年)10月1日
備考 無人駅

道の駅 鯉が窪 千屋牛丼

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お米は新見産コシヒカリ、牛肉はブランド牛「千屋牛肉」、豆腐は地元の古川豆腐店、味噌は大野部味噌など安全安心、地元の旬の野菜や食材を使用した郷土料理を頂くことができます。当然ながら牛丼の食材は千屋牛肉。添えられたお味噌汁は大野部味噌です。

食堂・広間・イロリの間があり、最大50名様までの各種宴会が可能です。

道の駅 鯉が窪:TEL0867・94・9017 JU新見市哲西町矢田3585-1 EJ8時30分〜18時、お食事処10時〜17時 KY木(祝日の場合は前日)※5/2は営業 KU中国道東城ICよりR182経由で10分(新見ICよりR182経由で20分) PK33台(無料)

近くに鯉が窪湿原があります。標高550mに位置する鯉が窪湿原は、3.6haの広さの「ため池」の上流部に、0.9haの湿原が形成されています。 この地域の谷部には多くの湿原が存在しており、中でも「鯉が窪湿原」は、古くから珍しい植物が生育していることが知られており、多くの研究者が訪れていました。 日本が大陸と地続きだったころの生き残り植物をはじめ、200種を超える貴重な湿原の植物が自生し、春・夏・秋それぞれ可憐な花を咲かせ、訪れる人を楽しませてくれます。 湿原の周囲は2.4kmあり、約40分ほどで一周できます。昭和55年には国の天然記念物に指定されました。

 

阿蘇駅 JR九州豊肥本線

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阿蘇駅は、熊本県阿蘇市黒川にある、九州旅客鉄道(JR九州)豊肥本線の駅です。
阿蘇市の中心に位置する駅で、ななつ星in九州や特急列車を含め全列車が停車する。

阿蘇山観光の入口当駅ですが、周辺観光地への交通手段が車に移った現在、往時の賑わいはありません。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅である。大正7(1918)年建築の木造駅舎はSLあそBOYの運行に合わせて昭和63(1988)年ウエスタン調に改装されましたが2011年に駅前広場も含め黒を基調としたレトロ調に再改装されました。

バリアフリー対応ということか跨線橋は撤去され、構内踏切で互いのホームは連絡されています。国鉄末期〜JR初期は交換設備が撤去され1面1線で運用していた頃があった。


JR九州鉄道営業が駅業務を行う業務委託駅で、マルスは無いがPOS端末が設置されている。切符売場では簡易型の券売機が1台と委託の窓口が営業しています。

レトロ調に改札口をはじめ待合室、売店まで駅舎内がデザイン統一させています。駅レンタカー営業所がある。楽チャリ設置駅。かつては阿蘇駅弁が高菜を使った弁当を販売していた。現在も別種の駅弁が作られているが車内販売のみです。


2013年10月より運行を開始した団体専用列車・ななつ星in九州の停車駅である。またななつ星in九州の運行開始と同時に、同列車の利用客に朝食を提供するレストラン「火星」が2番ホーム上にオープンした。(ななつ星in九州利用客以外も、有効な乗車券または入場券を所持していれば利用可能)

のりば
1 ■豊肥本線 (上り) 水前寺・熊本方面
(下り) 宮地・大分・別府方面
2 ■豊肥本線 (下り) 宮地・豊後竹田方面(普通列車のみ)

また、駅構内には産交バス阿蘇営業所の事務所も併設されバスの待合施設や案内窓口・自動券売機なども設置されており、阿蘇市内より発着する路線バスの結節点としたバスターミナルとしての機能も持っている(車庫は駅舎とは別の場所にある)。
ここからは、阿蘇市内やその周辺ならびに小国町へ向かう一般路線バスをはじめ、大分行(やまびこ号)・別府行(九州横断バス)・阿蘇定期観光バス・阿蘇山登山バス・熊本行(やまびこ号または九州横断バス)など多くのバスが発着している。

1918年(大正7年)1月25日 - 坊中駅(ぼうちゅうえき)として鉄道院が開設。
1961年(昭和36年)3月20日 - 阿蘇駅に改称。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。

電報略号 アソ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 179人/日(降車客含まず)
-2005年-
開業年月日 1918年(大正7年)1月25日
備考 業務委託駅
* 1961年に坊中駅から改称。

 

海軍航空隊可部基地「国安牧場」

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広島にも海軍特攻基地はありました。標高は242メートル海軍航空隊可部基地「国安牧場」です。基地名も「牧場」と秘匿。敵に発見されにくい山間の飛行場から特攻機を進発させることを目的としての六二一特攻基地でした。

昭和20年初夏、本土決戦に備えて関東以西の産地55か所に海軍航空隊の特攻基地を計画し「牧場」を作れ!と秘密指令がでました。広島の根野村、苅田村の両村長に6月18日、9日係官が来村し「国安牧場」正式には海軍航空隊可部基地の建設を申し渡しがあった。600メーター滑走路と誘導灯、格納庫の建設。7月10日完成予定の突貫工事。根野国民学校を兵舎とする計画計画でした。


工事は手作業、運搬はモッコ又はトロッコ。動員された人員は延べ人数15万人。建設に伴う犠牲者は2,3人立ち退き17戸。高野県知事も激励に訪れ7月10には滑走路が完成。現在の54号線。格納庫は小又谷をはじめ周辺の山麓に横穴を掘って分散し偽装を施される。

格納庫:佐々井小又谷の林道沿いの山麓に2,3か所。上佐々井道路沿いに2,3か所。上佐々井狭迫及びその付近の山麓に2,3か所。弾薬庫は佐々井小又谷林道沿いの山麓に2,3か所。佐々井明顕寺に本部、京都峯山から90人の隊員(内特攻隊員25名)飛神隊から尾関部隊(93式中間練習機25機)。


誘導路は縦横につくられ。上根香川商店の屋上に対空監視所の設置。原爆投下日8月6日、吉田対空監視所からは下根の飛行場に爆弾が落ちたか?問い合わせがあった。夕方、原爆被災による避難者多数あり。8月15日終戦、この基地より特攻隊の出動はなかった。格納庫は住民により取り壊す。弾薬庫は連合軍により爆薬と共に爆破。立ち退き家屋は自費で復旧。

特攻機としての93式中練機は複葉機。日本軍の練習機は目立つようにオレンジ色に塗られたことから別名「赤とんぼ」と呼ばれていました。昭和初期まで、日本海軍では一〇式艦上偵察機や一四式水上偵察機などの旧式になった偵察機などを練習機として運用していたが、老朽化による稼働率の低下に加え、実用機の性能が向上したことによりこれらの機体では能力が不足するようになってきた。そこで海軍では1930年(昭和5年)に空技廠で新型の中間練習機の開発に着手し、1931年(昭和6年)に1号機を完成させた。九一式中間練習機と名づけられたこの機体は近代的な機体で高速だったが、安定性に問題があったため量産されずに終わった。
同年11月、この九一式中間練習機の改良型の開発と増加試作が川西航空機に指示された。川西では、空技廠と共同で改造に取り組み、1933年(昭和8年)12月に試作1号機が完成した。機体構造が鋼管または木製骨組に羽布張りで後退角の付いた上翼を持つ点は九一式中間練習機と同じだったが、主翼や尾翼の形状の変更、上翼の取り付け位置変更が行われ、実用性向上のため細かい改良がなされていた。審査の結果、安定性、操縦性、実用性とも申し分のない機体となったため、1934年(昭和9年)1月末に九三式中間練習機として制式採用されました。

制式採用後、川西で60機が作られたのを皮切りに、九州飛行機や日本飛行機、日立航空機、中島飛行機、三菱重工業などの海軍と関係を持った航空機製造会社のほぼ全てによって大量生産が行なわれた。これは軍が主力企業以外の民間工場にも航空機制作の習熟を行なわせる施策をとっていたための持ち回り当番とされている。九三式中間練習機は海軍のあらゆる練習航空隊に配備され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結まで用いられた。安定性・信頼性が非常に高く扱い易いながらも、同時に高等曲技飛行も可能なほどの操縦性を持ち合わせ、多くの練習生がこの機体から巣立っていった。水上機型(K5Y2)も相当数生産され、水上機の搭乗員養成に一役買った。一部の機体は民間でも使われ、訓練飛行や空中写真撮影などに広く用いられた。
第二次世界大戦の中期以降は、実用機の性能向上から本機は初歩練習機として使用されることも多くなってきた。931空所属機は対潜哨戒任務の空母艦載機として運用された。戦争末期には目立つことから機体上面は濃緑色に塗られ、さらに実用機不足と当機がアルコール燃料でも稼動可能なことから、機体全体を濃緑色で塗装した上に後席に増槽としてドラム缶を装着し、機体の限界に近い250kg爆弾を積み込んでの特攻に駆り出され、駆逐艦1隻(キャラハン)を撃沈している。
陸上機、水上機合計5,591機が生産され、この内半数近くは日本飛行機製であった。製造機数の多さと練習機という任務から、終戦時に残存していた機体数は海軍の機種の中では最も多かった。
戦後、インドネシア独立戦争にて九三式中間練習機はインドネシア共和国軍によって練習機等として広く使われた。だが、ほとんどはオランダ空軍による飛行場への爆撃により、1947年(昭和22年)年までにはほぼ破壊されてしまった。

翼幅: 11.00 m
全長: 8.05 m
全高: 3.20 m
翼面積: 27.7 m²
全備重量:1,500 kg
エンジン: 日立「天風」空冷9気筒星型 340 Hp×1
最高速度: 210 km/h
上昇率: 3,000 m まで 13.5 min
最高到達高度: 5,700 m
航続距離: 1,020 km
乗員: 2 名
武装:
7.7mm旋回機関銃×2
33kg爆弾×2

3月14日(金)のつぶやき

宍喰駅 阿佐海岸鉄道阿佐東線

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宍喰駅(ししくいえき)は、徳島県海部郡海陽町宍喰浦字正梶にある、阿佐海岸鉄道阿佐東線の駅です。駅番号はAK29。


路線中唯一の有人駅で、阿佐海岸鉄道の本社、車庫所在地である。また、徳島県最南端の駅でもある。

駅の隣は海陽町立宍喰小学校で、その先の方に国道55号と太平洋があります。又、この駅にCTC制御所が、設置されている。

単式ホーム1面1線を有する高架駅。夕日と海のイメージデザインです。相対式2面2線構造ではあるが片側は使われていない。室戸・奈半利方面へ延伸できるような構造となっています。

鉄道敷設法による予定鉄道線路(改正鉄道敷設法別表)により鉄道を敷設する計画が定められていた(未成線)が、国鉄再建法によって事業が凍結されたのち、国鉄分割民営化に伴う法令施行に伴い鉄道敷設法が廃止され、法的な根拠をもった路線計画は消滅しました。

宍喰駅から甲浦までの区間列車も設置されています。

ホームには狭い待合室があります。甲浦駅側には車庫が見えます。

エレベーターの設備があります。

駅スタンプがある。切符売場には券売機が設置され、窓口は有人営業しています。

待合室兼観光案内所がありレンタサイクルも利用できます。

阿佐海岸鉄道では季節ごと色んな企画列車があります。なごみ列車の運行ではビューポイントで停車。列車内ではジャズが流れます。社内では珈琲やお菓子のもてなしがあります。あさてつ寄席では停車中の車内で高座を造り、徳島県出身の落語家桂七福さんの落語をお楽しめた。その他、過去にはサンタ列車、イルミネーション列車 、風鈴列車、天の川列車。

映画任侠ヘルパーのロケ撮影地(プラットホーム)でもあります。映画では「上大海駅」でした。


阿佐東線では記念日貸切列車があり何かの記念日に列車を貸し切って、車窓からの風景を独占できる。 通常よりもゆっくり走行したり、運行区間も相談に応じてくれる。また、ヘッドマークも応募者ご自身でデザインすることもできます。

 

1992年(平成4年)3月26日 - 開業。


2010年(平成22年)12月7日 - 町内の宍喰漁港で捕れた雄雌1匹ずつ計2匹のイセエビが「駅長」に就任。同年8月から「駅長」として展示されていたメダカに替わる就任となる。

電報略号 シシ
駅構造 高架駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1992年(平成4年)3月26日

 

 

 

 

 

市ノ川駅 JR九州豊肥本線

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市ノ川駅(いちのかわえき)は、熊本県阿蘇市的石にある、九州旅客鉄道(JR九州)豊肥本線の駅です。駅は食堂駐車場の裏にあります。周囲はあまり人家がありません。

明治時代、まだ豊肥本線が全線開通していなかった国鉄時代、鉄道大臣が当駅を訪れた際に、元祖たかなめし「あそ路」(現郷土料理の老舗)に訪れた。その際にたかなめしが鉄道大臣の勧めで阿蘇周辺の郷土料理となった。そのため一部では、「市ノ川駅=高菜めし」というイメージがある。

JR九州では、第2種および第4種について帯を使わずに赤矢印を用い、地元のシンボルイラストを配したデザインを制定しているが、他社に比べ比較的駅名標のデザインには固執しない傾向で、現在も国鉄設置および国鉄規程に準じた民営化以後設置の駅名標を使っている駅が少なくない。しかし、市ノ川駅の駅名標にはイラストが書かれていません。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。無人駅で駅舎は無く、上屋とベンチおよび汲み取り式トイレが設置されています。スチール屋根材を使用した待合室内にはFRP製の椅子が設置されています。ホームから阿蘇の外輪山が眺めることができます。

1960年(昭和35年)3月10日 - 日本国有鉄道が開設。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄の分割民営化により九州旅客鉄道が継承。

電報略号 イカ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 37人/日(降車客含まず)
-2005年-
開業年月日 1960年(昭和35年)3月10日
備考 無人駅


スーパーいなば /キハ187

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スーパーいなばは、西日本旅客鉄道(JR西日本)が岡山駅 - 鳥取駅間を山陽本線・智頭急行智頭線・因美線経由で運行する特急列車です。列車名は鳥取県東部の旧国名である因幡国が由来となっていることと、大阪方面から智頭急行智頭線を経由して運転している特急「スーパーはくと」の由来である日本神話の「因幡の白兎」(いなばのしろうさぎ)と関連づけています。


1997年11月に智頭急行智頭線の開業により運転を開始した。急行「砂丘」が津山線・因美線経由で岡山県と鳥取県東部を結ぶ列車として役割を担っていたが、「いなば」の運転開始によりその役割を担うようになりました。2003年10月にキハ187系が投入されたことにより、列車名が「スーパーいなば」に変更されました。岡山駅 - 鳥取駅間については走行距離が津山線経由の「砂丘」は132.1kmであるのに対し、智頭急行経由の「いなば」は141.8kmと約10km長くなっているが、最高速度は「いなば」が速いので、逆に所要時間は約30分短縮されています。

全列車が岡山駅 - 鳥取駅間で、6往復が運転されている。同区間の所要時間は約1時間50分である。1998年3月14日から2001年3月3日までは、1往復が鳥取駅 - 倉吉駅間で臨時列車として延長運転を行っていました。運転開始当初から車内販売はなく、飲料の自動販売機も設置されていなません。寝台特急「出雲」廃止により、1号・12号は岡山駅で「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」と接続を行い、鳥取県東部と首都圏の利便性を図る役割もあります。列車番号は区間により異なり、岡山駅 - 上郡駅間は、下りは号数+2071の偶数、上りは号数+2069の奇数、上郡駅 - 鳥取駅間は、下りは号数+70の奇数、上りは号数+70の偶数となり、山陽本線内は列車番号の上下が逆転します。

JR西日本の後藤総合車両所に所属するキハ187系のうち、最高速度が130km/hでATS-Pが搭載されている500番台が充当されています。これは智頭急行線がATS-Pを整備しているためです。キハ187系には、ほかに「スーパーまつかぜ」「スーパーおき」で運用されている0番台・10番台があるが、最高速度が120km/hでATS-Pが搭載されていないため、「スーパーいなば」には運用されない。

ただし、中間車としての使用は可能で、多客期に実際に増結車として中間に組み込むことがありました。通常は2両編成でグリーン車は連結されていない。多客期は1両単位で増結されているが、専用車両は8両しかないため、2両編成3本と予備1本で運用され、最大4両編成での運用。ただ、過去に6両編成で運用されたことがあり、その時は、0番台・10番台を中間に組み込んでいました。

1997年(平成9年)11月29日:岡山駅 - 鳥取駅間で「いなば」3往復が運転開始。
2003年(平成15年)10月1日:ダイヤ改正により次のように変更。
キハ187系が投入され、列車名が「スーパーいなば」に変更。最高速度が従来の120km/hから130km/hに向上する。
2往復増発され、「スーパーいなば」は5往復になる。


2006年(平成18年)3月18日:寝台特急「出雲」廃止に伴い、鳥取県東部と首都圏の利便性を図るため、岡山駅 - 鳥取駅間で、毎日運転の臨時列車として上郡駅で「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」と接続する91・92号(「サンライズリレー号」)が1往復増発。なお、東京駅発3月17日の下り「出雲」は運行されたため、上り(92号)が3月18日から、下り(91号)が3月19日から運転された。
2007年(平成19年)3月18日:喫煙コーナーの使用が停止され、全車禁煙になる。
2009年(平成21年)8月10日 - 28日:台風9号接近に伴う豪雨で智頭急行智頭線の線路に土砂が流れ込み、運休になる。
2010年(平成22年)3月13日:従来「サンライズリレー号」として運行されていた91・92号が定期列車化。1号・12号となり、「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」との接続が岡山駅に変更。

 

 

船尾駅 JR九州後藤寺線

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船尾駅は、福岡県田川市大字弓削田にある、九州旅客鉄道(JR九州)後藤寺線の駅です。付近はほぼセメント工場以外何もなく、ひっきりなしに出入りするミキサー車だけが目につきます。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。ホーム待合所があり中にはFRP製の椅子が設置されています。ホームに設置された待合所背面に駅名看板が設置されています。ホームへのスロープがあります。かつては石灰石の積み出し駅として多数の機関車が駅構内で使われており活況であったが今はただ広い構内が残るのみです。無人駅。
以前は、二階建てのひなびた雰囲気のキオスクすら開店していた駅舎に、周辺のセメント工場からのちりが積もって構内が真っ白になった異様なさまが鉄道ファンによく知られていた存在でした。その駅舎も平成17(2005)年3月ごろ解体され現在は小ぢんまりとした待合室がぽつんと佇むのみです。なお、付近のセメント工場も麻生ラファージュセメント一社のみが残っており新飯塚本面にはその関連会社への「麻生専用踏切」があります。

1922年(大正11年)2月5日 - 九州産業鉄道(後の産業セメント鉄道)当駅 - 起行駅間の開業により、貨物駅として開設。
1926年(大正15年)7月15日 - 当駅 - 赤坂炭坑間延伸開業。旅客扱いを開始(一般駅となる)。
1943年(昭和18年)7月1日 - 産業セメント鉄道が戦時買収により国有化され、後藤寺線の駅となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。

電報略号 フナ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1922年(大正11年)2月5日
備考 無人駅

航空機用8t 牽引車 第311検査隊  航空自衛隊

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製作 豊田自動織機製作所
備考 航空機牽引用のトーイングトラクター。
所属  第31整備補給隊 第311検査隊

飛行機の期待を動かす車を「トーイングトラクター」「トーイングカー」と呼ぶ場合もあれば、民間飛行場で見かけるコンテナをムカデのように繋げたものを引っ張って運ぶ車を「トーイングトラクター」と呼ぶ場合もあります。

さらに「タグカー」と呼ぶことあります。機体を動かす車のことを「トーイングトラクター」「トーイングカー」「タグ」「ペートラ」と呼ぶようですね。

機体を動かす車の総称は「牽引車」となっています。


3月19日(水)のつぶやき

香春駅 JR九州 日田彦山線

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大正4年開業の香春駅は、福岡県田川郡香春町大字香春にある、九州旅客鉄道(JR九州)日田彦山線の駅です。かつては添田線が昭和61年まで接続していました。駅は香春町の南西部の中心市街地に位置します。

駅の約150m北西を国道322号が、約400m北西を国道201号が日田彦山線に並行する形で通り、国道201号の隣を金辺川が流れています。駅前から望まれる香春岳は五木寛之、青春の門のシンボルです。

「香春」駅という名称は、明治18年に開業した平成筑豊鉄道(当時豊州鉄道)の勾金駅が最初に使用していました。朝に田川後藤寺方面から当駅折り返しの列車が設定されています。

単式ホーム2面2線を有する地上駅。駅舎の外観は洋館風、入口の柱は石灰石産地らしく大理石が使用されています。駅名板も洋館風です。

現在の駅舎は焼失したため建て替えられたものです。かつては2面3線であったが、中線と旧2番線が撤去されています。2番線、中線の撤去跡には花壇が整備されています。

構内踏切でホームとは結ばれ警報機はありますが遮断機はありません。
九州交通企画が駅業務を行う業務委託駅で、マルスは無いがPOS端末が設置されています。待合室の。三方の壁沿いにはFRP製の椅子が設置されています。下りホームには大きめですが短めの上屋が設置されています。

日本セメント専用線 :香春駅では、開業時から国鉄分割民営化前の1986年(昭和61年)まで貨物営業を行っていた。また、駅には日本セメント(現・太平洋セメント)の専用線が接続していた。
1935年(昭和10年)6月、駅の西に浅野セメント(後の日本セメント)の香春工場が建設され、操業を開始した。専用線の敷設時期は不明だが、1951年(昭和26年)8月に、バラ積みセメントの専用貨車を用いたセメント輸送が日本セメント門司工場(葛葉駅隣接)との間で開始された。さらに、1955年(昭和30年)11月には東小倉駅との間でもセメント輸送が開始された。専用線では、D51形蒸気機関車やDD51形ディーゼル機関車が乗り入れてホキ3500形貨車などの貨車を牽引していた。


駅の貨物取扱量は1979年(昭和54年)をピークに徐々に減少。1986年10月3日限りで日本セメント専用線からの貨物輸送は廃止された。なお、香春工場は2004年(平成16年)に閉鎖されている。

1915年(大正4年)4月1日 - 小倉鉄道の上香春駅(かみかわらえき)として開業、旅客・貨物営業を開始。
1943年(昭和18年)5月1日 - 小倉鉄道が戦時買収により国有化、旧・小倉鉄道線は添田線(初代)に改称。同時に、香春駅に改称。
1956年(昭和31年)3月15日 - 添田線(初代)が日田線に改称。
1957年(昭和32年)10月1日 - 当駅 - 伊田間を結ぶ日田線の短絡線が開業。


1960年(昭和36年)4月1日 - 当駅 - 大任 - 添田間を添田線(2代目)として分離、城野 - 後藤寺 - 夜明間が日田彦山線となる。
1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取り扱いを廃止。
1985年(昭和60年)4月1日 - 添田線廃止。
1986年(昭和61年)11月1日 - 車扱貨物の取り扱いを廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR九州が継承。

 

電報略号 カハ←カワラ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1915年(大正4年)4月1日
備考 業務委託駅
* 1943年に上香春駅から改称。


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