Quantcast
Channel: 観光列車から! 日々利用の乗り物まで
Viewing all 3251 articles
Browse latest View live

庄内駅 JR九州)久大本線

$
0
0

庄内駅は、大分県由布市庄内町庄内原にある、九州旅客鉄道(JR九州)久大本線の駅です。


庄内の名を持つが、旧・庄内町の中心部には天神山駅のほうが比較的近く駅周辺は閑散としています。大分方面からの折り返し列車が午後に数本設定されています。

相対式ホーム2面2線をもち列車同士の行き違いが出来る地上駅です。

互いのホームは屋根無しの跨線橋で連絡しています。

駅舎は近年まで古くからの木造駅舎が使用されていたが改築され新築の木造駅舎です。

駅正面、駅名の看板はお面で飾られています。


簡易委託駅となっており、常備券を販売している。また、駅舎内の待合所で農産物を販売していることがある。

郷土芸能の「庄内神楽」がよく知られています。

1923年(大正12年)9月29日 - 鉄道省(国有鉄道)の駅として開業。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR九州の駅となる。

電報略号 ヨナ
駅構造 地上駅


ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 131人/日(降車客含まず)
-2011年-


開業年月日 1923年(大正12年)9月29日
備考 簡易委託駅


HS-23 測量船うずしお 20メートル型測量船 HS「はましお」型

$
0
0


「はましお」型は平成2年度でネームシップが建造された小型測量船です。離島、地方港湾などの測量や、沿岸防災情報図用調査を主任務とする測量船。
船内には、各種、測量・観測装置を搭載している。建造期間が長期に及んでいるので後期建造船は各部が改良されています。


1番船は後方視界確保のため、操舵室を半層高くしていたが、2番船以降は復原性向上のためフラットにされています。
小型測量船は、各海上保安本部海洋情報部(旧 水路部)に配属されている。
船名は、「浜潮」など、「潮」に因んで命名されている。

HS-23 うずしお
竣工:H07.12.20 造船所:横浜ヨット 管区:第五管区 配置:第五管区本部

●総トン数:27t/満載排水量:42t
●主要寸法:全長21.0m×幅4.5m×深さ2.4m
●エンジン:ディーゼル3基3軸(中央軸は観測時の低速航行用出力機) 出力:900PS
●速力:約15kt/観測時:約5kt
●船質:高張力鋼
●航続距離:200浬
●乗員:10名
●航行区域:沿海


●4番船以降は外観はほとんど変わらないが、推進システムを3機3軸(中央軸は観測時の低速航行用低出力機)から2機2軸とし、船底に固定式のサイドスキャン・ソナーを備える改型です。

国鉄415系電車 JR九州

$
0
0

国鉄415系電車 日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した交直流両用近郊形電車。
国鉄分割民営化後は東日本旅客鉄道(JR東日本)と九州旅客鉄道(JR九州)に継承されたほか、JR東日本が設計・製造した車両や西日本旅客鉄道(JR西日本)が113系を改造・編入した車両が存在します。

401系・421系は交直両用近郊形電車として1960年に、それぞれ50Hz・60Hz専用として登場した形式である。403系・423系はこれらの出力増強形としてそれぞれ1966年・1965年に50Hz・60Hz専用として登場した形式である。415系はこれらを50Hz・60Hz両用として1971年に登場した形式である。50Hzの401系・403系は電動車のみ異なり、制御車(クハ401)は共通とされ、60Hzの421系・423系も電動車のみ異なり、制御車(クハ421)は共通とされた。50Hzの401・403系と60Hzの421・423系の両系列の間では、制御車は415系が登場するまでクハ401、クハ421と分けられていた。一方、415系は制御車の形式をクハ411とした。基本設計については415系まで踏襲されている部分が多いが、運用線区の違いなどから行先票(サボ)受の位置が異なるなど外観等に多少の差異が見られる。

車体構造は153系を基本としている。すなわち全金属製セミモノコック構造で、車体幅を2.9mとし裾を絞った断面形状であり、車体長も同様に中間車で19.5mである。ただし近郊形として通勤使用を考慮し70系同様のデッキなし片側3ドアとした上、新たに101系と同じ1.3m幅の両開き扉を採用した。座席配置も70系のものを改良したセミクロスシートで、中間車の場合、扉間は扉近くの2人掛けロングシートに4人掛けボックスシ−トが4組挟まれ、車端部には3人掛けロングシートに4人掛けボックスシ−トが2組で、座席定員は76人(70系は車端部ロングシートのみで、座席定員は72人)、153系と比較して通路幅は540mmに対して860mmと広くとられ、座席は幅が狭く窓側の肘掛けが省略されている[1]。便所は70系同様クハに設けられた。これらの構造は、以後長らく新性能近郊形電車の標準となった。

クハ401・421形の前面は、153系と同様に併結運転の便を図って貫通路を設けたデザインで、初期製造車はクハ153形0番台と同様に運転室のフロントガラスが大きい低運転台構造[2]だったが、401系は1962年製造分のクハ401-23から、421系は1961年11月製造のクハ421-17以降から、それぞれクハ153形500番台と同様、踏切事故対策である高運転台に変更され、以後長らく近郊形電車で使われ続けるデザインとなった。また、403系・423系用を含め屋上通風器など他の部分についても同時期のクハ111形に合せた改良が行われている。
台車は電動車用が101系と同一のDT21B形、付随車用がDT21B形をベースに台車枠形状などを付随車用に変更したTR64形とした。ブレーキ機構は価格的な面からディスクブレーキを使用せず踏面制輪子とした。なおクハ401-47・421-41以降はクハ111形と同様にディスクブレーキ付きのTR62形とし、ブレーキ容量増大を図った。


国鉄カルダン駆動方式の電車としては初の両開き3扉構造の近郊形である。交流電化区間と直流電化区間を直通運転する必要があることから、交流・直流の接続を車上切換方式による交直両用電車の実用第1号として開発された。1961年(昭和36年)6月の常磐線取手駅 - 勝田駅間の交流電化に備えて新製された系列が401系で、同時に既電化区間の関門トンネルを挟んだ山陽本線小郡駅(現・新山口駅) - 下関駅間の直流電化[3]および鹿児島本線門司港駅 - 久留米駅間の交流電化に伴い新製された系列が421系である。1966年(昭和41年)までの間に401系4両編成25本計100両と421系4両編成23本計92両が製造された。
1960年(昭和35年)に両系列ともに量産先行試作車から製造が開始された。401系の量産先行試作車4両編成2本の落成時にはまだ常磐線の交流電化と配置される予定の勝田電車区(現・勝田車両センター)が完成していなかったため、宇都宮機関区(現・宇都宮運転所)に暫定配置され、最初の試運転は東北本線で実施された。その後該当区間の電化設備が完成次第、営業開始に備えて運行試験が行われた。421系は60Hzで電化されていた北陸本線で試運転が行なわれた後、九州での試験運転を行なった。
また、関門トンネル通過時や海岸線沿いを走行した時に付着した海水による塩分や塵害による汚損などにより碍子の閃絡事故が相次いで発生したため、一部列車を客車や気動車で代走させる事もあった。
1962年(昭和37年)には鉄道友の会から第2回ローレル賞を受賞した。

411・415という中途半端な形式が採用され、クハ411形が300番台として301番から製造されたのは415系登場時に、401系・403系の411系・413系[17]への形式変更、およびクハ401形・クハ421形のクハ411形0番台(1 - 90)・100番台(101 - 206)への改番が計画されていたからだが、実現には至らなかった。

4月11日(金)のつぶやき

米原駅 東海道本線

$
0
0

米原駅の駅名よみは「まいばら」ですが地名よみは「まいはら」です。滋賀県米原市米原にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)・近江鉄道の駅です。かつて駅東側に米原郵便局があった。滋賀県内の郵便の窓口であったほか、近江鉄道線を経由する郵便路線の始発でもあった(そのため近江鉄道には郵便車があった)。現在は米原郵便局は湖岸側に移設され、また旧ホームから郵便局への通路も取り壊され当時を偲ぶものはない。

JR東海に所属する東海道新幹線と、JR西日本およびJR東海に所属する東海道本線、JR西日本に所属する北陸本線、近江鉄道の本線が乗り入れています。北陸本線と近江鉄道本線は当駅が起点となっています。なお、東海道本線と北陸本線はJR貨物の第二種鉄道事業路線にもなっています。滋賀県内で唯一の新幹線停車駅です。


JR在来線における当駅の所属線は東海道本線となっています。東海道新幹線・東海道本線・北陸本線は、1987年3月まではすべて日本国有鉄道(国鉄)の路線であったが、同年4月の国鉄分割民営化によってJR東海とJR西日本に分割されました。当駅がJR西日本とJR東海の会社境界駅となり、東海道本線は当駅より大垣・名古屋方面がJR東海、草津・京都方面がJR西日本の管轄となった。JR西日本とJR東海の共同使用駅であり、在来線構内はJR西日本、新幹線構内はJR東海の管轄である。このため名古屋以遠に乗り入れる列車に対しても「名古屋方面浜松行き」といったJR西日本方式のアナウンスがなされており、発車標についても同様である。またJR西日本の東海道本線の当駅 - 京都駅間と北陸本線の当駅 - 長浜駅間には合わせて「琵琶湖線」の愛称が設定され、一体化した運転系統となっている。なお当駅では北陸本線に対しては案内上「琵琶湖線」を使用していない。

在来線・新幹線とも地上駅です。現在の駅舎は2009年3月21日より供用開始となったコンクリート橋上駅舎です。米原市管理の東西自由通路が駅の東西を結び、自由通路から在来線改札口(JR西日本)・新幹線改札口(JR東海)を利用できる。また改札内には新幹線・在来線の乗り換え改札がある。

在来線のりば
島式ホーム3面6線を使用する。1番線・4番線にはホームがなく、島式ホームはそれぞれ、2・3番線(東海道線・琵琶湖線下り発着)、5・6番線(北陸線)、7・8番線(琵琶湖線・東海道線上り発着と一部の北陸線列車)となっています。
北陸線の列車は2 - 8番線のいずれからも発着でき、折り返しが可能。一方、東海道線の列車は上り下りどちらの場合も一旦北側の電留・客操線に引き上げないと折り返しができない。また橋上駅となった後も、これまで通り7・8番線ホームには階段およびエスカレーターが片方向1ヶ所しかない。
国鉄時代は名古屋鉄道管理局管轄の駅であったが、分割民営化直前に在来線部分が大阪鉄道管理局に移管された。もともと米原駅が名古屋・大阪・金沢の各鉄道管理局に接しており、大阪と金沢がJR西日本になったため、それに合わされたものである。国鉄時代の名古屋・大阪局境は、米原駅 - 彦根駅間(旧仏生山トンネルの付け替え区間)にあった。境界駅では下り場内信号機を会社境界とすることが原則であるが、これでは米原機関区の設備区分が複雑になるため、分割時に設定された会社境界は駅東方(醒ヶ井方)の、東海道本線の上り線と下り線とが合流するカーブ付近の下り第1閉塞信号機(東京起点443k995m)である。このため、そのすぐ西にある踏切(善光寺踏切)は米原駅より東方に位置するが、JR西日本の管理下にあり、通行者向けの看板もJR西日本仕様のものが使われている。


2009年7月1日から、在来線を管轄するJR西日本は京阪神近郊エリアの在来線駅のホーム上の喫煙コーナーを廃止した関係で、当駅も同日以降、在来線ホームは全面禁煙となっている。ただし、JR東海が管轄する新幹線ホームにおいては、喫煙所は存置されている。
なお当駅は駅長が配置された直営駅であり、管理駅として北陸本線の坂田駅 - 近江塩津駅間の各駅を管理しています。

JR米原駅 在来線プラットホーム
ホーム 路線 行先 備考
2・3 ■琵琶湖線 草津・京都・大阪方面
5・6 ■北陸線 敦賀・福井・金沢方面 一部7番のりば
7・8 ■東海道線 大垣・岐阜・名古屋方面


路線名は旅客案内上の表記で記載している。前述した通り「琵琶湖線」の愛称は東海道本線京都方面のみ用いられている。
ラッシュ時の北陸本線方面の新快速・普通の一部が7番のりばから発車する。
夜間滞泊設定列車が多い。
JRの駅では株式会社井筒屋(北九州市にある百貨店の井筒屋とは無関係、5・6番のりばの立ち食いそば屋も運営)が販売しています。

新幹線のりば
東海道新幹線は島式ホーム1面2線と単式ホーム1面1線、合計2面3線のホームを使用する。11番線が下り(新大阪・博多方面)、12番線が上り(名古屋・東京方面)で、13番線は通常使われていない。


JR米原駅 新幹線プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
11 東海道新幹線 下り 新大阪・博多方面
12 東海道新幹線 上り 名古屋・東京方面
13 (予備ホーム)

夏季と冬季、米原駅以北の新快速および普通のドアは冷暖房保温及び虫侵入防止を目的に半自動扱いとなります。ドア横のボタンを押してドアを開閉する(JR西日本車両のみでJR東海車両はない)。
ホーム有効長の制限により、米原駅以北長浜駅までは8両、虎姫駅以北は4両のみ入線可能です。そのため多くの列車で増解結作業が行われています。下り列車は第二場内信号機に併設された誘導信号機でホームに進入するため、坂田駅 - 米原駅間の所要時分が増結のない列車に比べて長く設定されています。
駅掲示の在来線時刻表はJR東海の管轄となる大垣方面も含めてJR西日本仕様です。JR東海公式サイト上ではJR東海版時刻表が閲覧可能。また以前はJR東海フォーマットの各方面の在来線時刻表が新幹線・在来線乗換口のJR東海管理部分に設置されていたが、現在掲示はありません。
橋上化完成で、それまで改札内のみだったJR東海の窓口が、改札外にも設けられ、併せて新幹線にも直接入場できるようになりました。
かつて「町」(滋賀県坂田郡米原町)にある新幹線の駅として小郡駅(現・新山口駅)とともに有名でした。2005年に市制施行により「町」ではなくなったが、その際に知名度の高い駅名に合わせ従来の米原(まいはら)町を米原(まいばら)市と読み替えています。このため、駅周辺の住所は「米原市米原(まいばらしまいはら)」となっており、旧町名の読み方が残っています。
各種ICカード乗車券は琵琶湖線(京都・大阪方面)または北陸本線(近江塩津まで)がサービスエリアである(近江塩津から湖西線近江今津方面への利用は可能)。当駅から東に4駅目の関ヶ原駅以東はJR東海のICカード乗車券であるTOICAの利用可能エリアであるが、ICOCAとTOICAのそれぞれのエリアをまたぐ利用は不可能。例えば、ICOCAエリアである当駅でICカード乗車券で入場し、そのICカード乗車券でTOICAエリアである大垣駅などで降車することは不可能である。ただしエリアをまたぐ方法として、ICカード対応自動券売機であらかじめカードでの切符を購入しておけばエリアをまたいで利用可能である。当駅には最近までICカード対応の自動券売機がなく、「ICカードによりあらかじめ切符を買う」ことができなかったが、2011年2月にICカード対応自動券売機が設置され、ICカードを自動券売機に挿入することにより切符を購入することが可能となりました。
米原駅北方の岩脇(いおぎ)山に太平洋戦争末期に掘削された蒸気機関車の避難壕跡が残る。
米原機関区にあった大神宮は、米原市米原の湯谷神社へ遷宮されています。

1889年、現在の東海道本線に当たる関ヶ原駅 - 馬場駅(現在の膳所駅)間と、北陸本線の長浜駅 - 米原駅間が開業したことに伴い、両線の接続駅として設置されました。それまでは関ヶ原駅 - 長浜駅間に鉄道が存在し、大津から長浜の間を結ぶ太湖汽船の鉄道連絡船もあわせて長浜駅がその役割を担ってきたが、その役目を引き継いだ形になる。
かつては、東海道本線における急勾配区間の一つであった大垣駅 - 関ヶ原駅間を越えるための補助機関車を留置する基地、それに北陸本線の起点として機関区が設けられ、多数の蒸気機関車が在籍していました。
東海道線本線稲沢駅 - 当駅間電化の際には、新たに電気機関車も当駅に配置され、ここで電気機関車と蒸気機関車の付け替えが行われた。さらに北陸線が交流電化された際は、当駅 - 田村駅間で蒸気機関車による列車継走が行われ(その後ディーゼル機関車に移行)、EF81による直通運転が始まるまで、交直接続のつなぎとして大きな役割を担った駅です。
また、北陸線列車の始発駅として大きな役割もあった。客車区が置かれ北陸線の普通列車に運用されていたほか、郵便や荷物の積み替えも多かった。1955年には貨物操車場が駅南側に移転拡張され、東海道線と北陸線の貨車の授受作業とともに貨物列車の仕立ても行われていた。
駅の開業時は東海道線と北陸線の3面5線の規模で、駅舎と各ホームは地下道で結ばれていた。
1955年、稲沢駅 - 米原駅の電化開業に合わせ操車場の移設を含む大幅な改良工事が行われ、上り線は大きく湖側に離れ、上下線間に操車場を抱き込む形になった。このとき上り線の2面4線のホームが新たに設けられ、北陸線と東海道線上りは駅の北側で立体交差することになった。下り側1 - 5番線と上り側7 - 10番線の間には操車場への通路線が複数入り、長い跨線橋が新設され、下り側ホーム群と上り側ホーム群を繋いでいた(6番線は欠番)。機関区も電気機関車対応の施設が新設され、EF58やのちにはEF65型機関車などが配置されていました。
1964年には、新幹線が開業した。在来線上りホームに隣り合う湖岸側に駅舎(西口)が設けられ、駅は西側に大きく広がることとなる。ただし、新幹線に出入りできる直接の改札はなく、一旦在来線構内を通って新幹線改札に進むものであった。この形は国鉄分割時にもそのまま引き継がれ、東西の駅舎はJR西日本が、構内の新幹線部分をJR東海が管理することになりました。
JR化後客車列車の減少とともに機関区・客車区は廃止され、跡地は電留線になっています。
1998年には操車場の縮小整理と基盤整備に合わせて下りホームが上り側に移設され、新たに1面2線のホームを設けるとともに、東口駅舎も移設新築された。旧の下りホーム3面5線と東口駅舎は解体され、跡地は新しい駅前広場として整理されています。
さらに2009年には橋上化が完成し、東西自由通路上に在来線(JR西日本)と新幹線(JR東海)の駅舎が並ぶ形となりました。

1889年(明治22年)7月1日 - 官設鉄道・関ヶ原駅 - 当駅 - 馬場駅間・当駅 - 長浜駅間の開通と同時に開業。一般駅。
1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称制定。東海道線(1909年に東海道本線に改称)の所属となる。
1902年(明治35年)11月1日 - 当駅から長浜方面への東海道線支線が北陸線(1909年に北陸本線に改称)に編入。
1931年(昭和6年)7月4日 - 近江鉄道の駅が開業。
1954年(昭和29年)2月 - 構内改良工事着手。
1955年(昭和30年)4月 - 操車場の使用を開始。
1955年(昭和30年)7月25日 - 稲沢駅 - 当駅間電化完成。
1956年(昭和31年)11月19日 - 当駅 - 京都駅間が電化され、東海道本線全線電化。
1957年(昭和32年)10月1日 - 田村駅 - 敦賀駅間電化、E10形蒸気機関車による北陸本線列車継走が始まる。
1962年(昭和37年)12月28日 - 当駅 - 田村駅間電化、ED30形交直流機関車による北陸本線列車継走が始まる。
1964年(昭和39年)


10月1日 - 東海道新幹線開業。
当初は、当駅より人口の多い彦根駅に開設する計画だった。しかし予算面で断念したことや、また北陸線からの乗客には当駅停車の方が便利であり、「ひかり」停車の要望が敦賀・福井・金沢方面から出されたことも有る。当時の東海道新幹線では珍しい(「市」ではなく)「町」にある駅として誕生した。
拡張後1998年までの在来線は1番ホーム(下り本線)、2・3ホーム(東海道下り1番・2番線)、4・5番ホーム(北陸線上り本線・上り1番線)、7・8ホーム(北陸線下り1番線・本線)、9・10ホーム(東海道上り1番線・本線)であった。北陸線の米原折り返しは主に4・5・7番線を使用し、北陸発大阪行きは3・4番線、名古屋発北陸行きは2・3番線を主に使用していた。
12月25日 - 北陸線電車特急「雷鳥」「しらさぎ」運転開始。
交流区間を走行する初めての電車特急として誕生。ただし、その使用車両である481系電車の落成が遅れ、当初新幹線開業に合わせ運転開始予定が12月までずれ込んだもの。
1972年(昭和47年)
3月1日 - 貨物の取扱いを廃止。


10月2日 - 「ひかり」3往復が米原に新規停車となる。
1975年(昭和50年)3月10日 - 関西 - 北陸間の特急列車が湖西線廻りに変更され、米原駅からの北陸特急は名古屋駅発着のしらさぎとこの日新設の米原駅始発の加越(2003年10月しらさぎに統合)となる。特急列車の米原駅始終着は初めて。
1986年(昭和61年)11月1日 - 荷物取扱いを廃止。
1987年(昭和62年)
3月1日 - 国鉄分割民営化を控え、名古屋鉄道管理局から大阪鉄道管理局に移管される。
3月31日 - 貨物の取扱いを再開。ただし、以降の貨物取扱の実績はなかった。
4月1日 - 国鉄分割民営化により、在来線はJR西日本、新幹線はJR東海、貨物営業はJR貨物が承継。
1989年(平成元年)3月11日 - 大阪・京都方面からの新快速の乗り入れを本格的に開始。
1991年(平成3年)9月14日 - 北陸本線田村駅 - 長浜駅間直流化。これにより当駅発着の一部の新快速を長浜駅へ延長。
1998年(平成10年)
3月17日 - 新幹線乗換改札口に自動改札機を導入。
9月1日 - 東口新駅舎使用開始。
これに先立つ改築で、旧7・8番ホーム横に新1 - 4番線を敷設、2・3番線の間にホームを設置、新下りホームとなる。旧1番 - 5番ホームを廃止。旧7 - 10番ホームを5 - 8番に改称。
2003年(平成15年)11月1日 - JR西日本でICカードICOCA供用開始。
2007年(平成19年)6月8日 - 近江鉄道の駅舎・ホーム移転。
2009年(平成21年)
3月21日 - 自由通路・在来線橋上駅舎供用開始。
橋上化にあたり、まず2008年(平成20年)2月9日に改札内に限り自由通路暫定供用開始。さらに2009年3月7日には新幹線改札の移動、JR西日本5・6・7・8番のりばの彦根寄りの階段の使用を開始し、新幹線の旧改札口と自由通路設置に伴い仮設された7・8番ホーム階段を廃止。なお、工事中の2008年12月10日にはホーム上工事囲いのフェンスが貨物列車通過の風圧で飛散し、ホーム上の乗客2名とホーム誘導員1名が怪我をする事故が起きている。
6月1日 - 新幹線橋上駅舎・改札口供用開始。これにより東西自由通路から直接新幹線改札を通ることができるようになった。
7月1日 - 在来線ホームが全面禁煙となる。

電報略号 マイ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面3線(新幹線)
3面6線(在来線)
乗車人員
-統計年度- (在来線)4,503人/日
(新幹線)5,679人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1889年(明治22年)7月1日
乗入路線 3 路線
所属路線 ■東海道新幹線
キロ程 445.9km(東京起点)
◄岐阜羽島 (49.6km)(67.7km) 京都►
所属路線 ■■東海道本線**
キロ程 445.9km(東京起点)
◄*醒ヶ井 (6.1km)(6.0km) 彦根*►
所属路線 ■北陸本線**
キロ程 0.0km(米原起点)
(2.4km) 坂田►
備考 JR西日本:直営駅(管理駅)
JR東海:駅長配置駅(管理駅)
みどりの窓口 有
新幹線駅はJR東海、在来線駅はJR西日本管理
* 醒ヶ井方 - JR東海
* 彦根方 - JR西日本
** 北陸本線 - 東海道本線彦根方は「琵琶湖線」の愛称有り。

 

近江キャラ電「いしだみつにゃん&しまさこにゃん号」

$
0
0

800系(809F編成 2両) モハ809−モハ1809

西武401系を1990年(平成2年)から1997年(平成9年)にかけて譲り受け、自社彦根工場にて改造の上で登場したもので、近江八幡・貴生川寄りからモハ800形(820形)-モハ1800形(1820形)の順に編成されている。・ワンマン運転対応工事施工(車外バックミラー・料金表・運賃箱設置等) ・空気制動の電気指令ブレーキ化 ・連結面寄り裾角の切り欠き ・電気連結器の撤去 ・モハ800形の連結面寄りのパンタグラフ撤去
主要機器に関しては上述制動装置の改造以外はほぼ西武在籍当時のまま使用されている。車体塗装は西武時代と変わらず黄色一色とされており、本系列全編成の標準塗装となっている。また現在、従来ステンレス地むき出しで無塗装とされていた客用扉の黄色塗装化およびシートモケットの更新、つり革の交換が順次施工されている。15編成計30両を数えた元401系譲受車のうち大半が本系列に改造され、2011年(平成23年)1月現在13編成26両が在籍している。

2003年(平成15年)登場。種車は元435Fである。802F・808Fと同一形態の後期型車体で、各種仕様も809Fに準じるが、運賃箱が廃車となったLE10形12からの発生品であったことが異なる。
本編成は2009年(平成21年)4月より近江キャラ電「いしだみつにゃん&しまさこにゃん号」として運行を開始し、802F同様のオレンジ塗装をベースにキャラクターのラッピングが施された他、車内座席モケットもスカイブルー地にキャラクターの画像がプリントされた専用のものと交換されている。また、同時に運賃箱が807F以降で採用された新型のものに交換された。

しまさこにゃんは、ひこね「街の駅」戦国丸(花しょうぶ通り商店街、滋賀県彦根市河原町)のマスコットキャラクター。通称「さこにゃん」。
コミュニティFM局のエフエムひこねでパーソナリティを務める山本ひまりが、「国宝・彦根城築城400年祭」のキャラクターであるひこにゃんを引き立てるために、島左近由来のキャラクターとしてイラストを描いたのがはじまり。後に島左近の主君である石田三成をモデルにしたいしだみつにゃんも作られた。「敵キャラとして作られた」と言われているのは誤解、との作者のコメントがある。2008年10月25日 - 26日に開催された「ゆるキャラまつりin彦根 〜キグるミサミット2008」では、ひこにゃんと並んでホスト役となった。

かつての主君である石田三成こといしだみつにゃんとは、2008年4月6日に佐和山山頂で行われたイベント内で400年ぶりの再会を果たした。現在いしだみつにゃんとはひこね「街の駅」戦国丸で一緒に暮らしており、地元イベントや、戦国関連の催しなどに二人揃って参加している。またふたりの生活は同組合ブログ内にて写真つきで不定期報告されている。ひょうきんで元気いっぱいのしまさこにゃんにいしだみつにゃんが辟易するといった内容のショートストーリー仕立ての日記が多いが、基本的にはとても仲の良い主従として表現されている。

4月13日(日)のつぶやき

近江鉄道:米原駅

$
0
0

近江鉄道の米原駅は、駅周辺の整備工事に伴い2007年6月8日始発よりJR東口駅舎に隣接する場所に移転し、線路も駅手前の約1600m部分についてJR東海道本線下り本線沿いに移設されたが、営業キロの変更は行われていません。ホームは頭端式ホーム1面2線で、駅舎は仮設のものが設置され、移設工事のため6月1日 - 7日の間は米原駅 - フジテック前駅間がバス代行となりました。駅舎は2012年4月5日に新築移転し、米原市管理の東西自由通路東口(旧JR東口駅舎)と直結した。

なお、1998年のJR駅縮小前はJRの駅と隣り合っており、JR東口改札から階段を上がり旧1番ホーム経由で入るようになっていました。JR東口の移設後は完全に分離され、駅前広場を挟んで向かい合う形となっていました。駅舎は以前のままの二階建てで入り口が二階部分にあったため、駅前とは階段でつながっていました。
駅係員配置は7:00 - 18:00となっている。


近江鉄道米原駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1・2 ■本線 多賀大社前・八日市・近江八幡・貴生川方面

駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
開業年月日 1931年(昭和6年)3月15日

近江鉄道株式会社(鉄道事業 )の3つの路線は全線で電気運転となっています。電車はワンマン運転で、単行(1両)あるいは2両編成で運行しています。
かつては電力費節減を目的にレールバス(気動車)も使用していたが、コスト節減効果が思った程大きくなく、通勤通学時間帯の混雑対処困難や、あまりの軽量で踏切が正常に作動しないなど、小型車ゆえの弊害の方が目立ったため、導入から10年で使用を断念しました。
かつて東海道新幹線の建設に際し、自社路線との並行区間で鈴鹿山脈の眺望が遮られるという名目で国鉄に交渉し、補償金を得たという逸話が伝えられているが、真相は新幹線によって交差する道路の安全確認が困難となり、踏切改良、警報器設置などの「防護補強工事費」および新幹線の「併設による旅客収入減」等への補償を求めたというのが実際で、協議の末、実際に当時で1億円が支払われています。この時、影響の一つとして眺望も付記したことを新聞に「景観料」と面白く書き立てられて風評が広がったと、2000年に林常彦近江鉄道取締役(当時)は鉄道雑誌『鉄道ピクトリアル』で話しています。


主要駅である近江八幡駅や八日市駅でも1日の乗車人員は2008年度でそれぞれ2371人、2050人と3000人にも満たない。そのため赤字がでており、東近江市をはじめ沿線自治体が全額負担している。
2013年3月16日のダイヤ改正から、全路線が4つの区間に分けられ、それぞれの区間に愛称とラインカラーが設定された。本線(ほんせん)は、滋賀県米原市の米原駅から滋賀県甲賀市の貴生川駅までを結ぶ、近江鉄道の鉄道路線である。「近江線」「近江本線」などと呼ばれることがある。また、本線を始め近江鉄道各線は地元住民から「近江ガチャコン」「ガチャコン」と呼ばれることがある。本線の米原・高宮間および多賀線は「彦根・多賀大社線」でラインカラーは赤、本線の高宮・八日市間は「湖東近江路線」でラインカラーは青、八日市線は「万葉あかね線」でラインカラーは緑、本線の八日市・貴生川間は「水口・蒲生野線」でラインカラーは黄でです。なお、2008年11月、愛知川橋梁が国の登録有形文化財に登録されています。

路線距離(営業キロ):47.7km
軌間:1067mm
駅数:25駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線電化(直流1500V)
閉塞方式:自動閉塞式

 


浅海駅 / 予讃線

$
0
0

浅海駅の駅名は、「あさうみ」ではなく「あさなみ」と読みます。愛媛県松山市浅海本谷にある四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅です。国道196号、海沿いの集落にある駅です。かつてはミカンの輸送で賑わった駅です。

1番線が上下本線(制限速度100km/h)、2番線が上下副本線で、相対式ホーム2面2線のホームを持つ地上駅。

きれいに改装された木造駅舎で三角屋根が目立つ三角を基調としたデザインの駅です。

改札窓口は閉鎖、広々とした待合室には長椅子が設置されています。

海は、跨線橋上からのみ見える距離に広がっています。柑橘類用の集荷ようでしょうか農協倉庫があります。

3番線は保線用に使用されています。

引き込み線の跡らしきものもあります。

 

1926年(大正14年)3月28日 開業。
1987年(昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化により、四国旅客鉄道の駅となる。

電報略号 アミ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1925年(大正14年)6月21日
備考 無人駅

D52形蒸気機関車

$
0
0

D52形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄、製造時は鉄道省→運輸通信省)の貨物用テンダー式蒸気機関車です。D52 1 日本貨物鉄道(JR貨物)広島車両所(準鉄道記念物)

第二次世界大戦中、日本国内の貨物輸送は、貨物船の軍への供出や、米軍による機雷封鎖などの事情により、内航運輸の輸送力が不足し、鉄道貨物需要が逼迫した情勢となった。D52形蒸気機関車は、そうした中で、1200tの貨物列車を牽引でき、東海道・山陽本線・函館・室蘭本線で運用するためにD51形を改良して誕生した機関車である。ボイラーを可能な限り大型化し、粘着重量を高めるとともに出力を上げた。軸配置はD51形と同一だが、ボイラー大型化の効果により最大動輪周出力は1,660馬力と、日本の蒸気機関車の中では最高の出力を持つ。
しかし、戦時中のため物資が極端に不足しており、戦争完遂まで数年だけ持てば良い、または走ればよいという戦時設計の発想から、銅系材料が節約され、木材など代用材が多数使われるなど、造りとしては非常に質の悪いものであった。そのため本来の力を出せない車両が多かった。また、ボイラー用材の幅広鋼材が不足したため、各缶胴の長さを変え、用材の寸法取りを合理化した。ボイラーの種類は3種(甲缶、乙缶、丙缶)あり、長さの差は煙室長で調整した。煙管長は5,000mmで統一されていたため、丙缶では燃焼室長が短くなっている。原設計は甲缶で、全て鋲接により組み立てられており、将来の増圧(18kg/cm²)を意図して2列鋲式であったが、乙缶・丙缶では1列鋲とし、長手継手を溶接とするなど、構造の簡略化が図られている。概ね、甲缶が国有鉄道工場、乙・丙缶が民間工場製と分かれている。
さらに、細部の設計変更は本省の承認を得ることなく、現場の工場長や監督官の一存に任せられた。そのため、ドームの角型化や サンドパイプの減少、工作の簡略化や装備の省略化が行われ、形態のバリエーションを生み出している。
本形式における特殊な装備の例としては、ディスク輪心がある。本形式では、二重壁の箱型としたボックス輪心が制式の設計であったが、円板を湾曲させて一枚板構造としたものである。終戦後に汽車製造で落成した380 - 384号機の5両がこれに該当する。
本形式の構造については、否定的な見方が多い中、それまで鋲止めだったボイラーの溶接による量産法の確立、ボイラー限界設計の実車における見極めによりその後のボイラーの安全基準や工作技術の向上に繋がったとする見方もある。また、鋳鋼製台枠の採用や、石炭の燃焼効率を高めるためボイラーに燃焼室を設けたり、重心の前方移動による牽引力増加(これにより、煙突がシリンダの排気口より前にせり出す構造は本機の外観上の特徴の一つとなっている)、船底型テンダーの採用による資材節減、工数低減による生産性向上等、とかく前例踏襲で技術革新に乏しかった国鉄における蒸気機関車開発において旧来の手法にとらわれない性能向上、生産手法の導入や現代でいうところのVE(バリューエンジニアリング)を実践する等、その後の技術向上に大きく貢献したとの見方もある。

民間メーカー5社と2か所の国鉄工場(工機部)で製造された。当初は全部で492両が製造される計画であったが、終戦により285両で製造は打ち切られた(最終出場は、1946年3月31日付の62号機。実際の落成日は4月16日)。そのため欠番が多数あり、最終番号は468号機である。


竣工した本形式は、東海道・山陽本線並びに北海道の函館・室蘭本線に配置され、後に東北本線にも進出した。本形式が全機出揃った1946年3月末時点の配置は札幌鉄道局(29両)、東京鉄道局(27両)、名古屋鉄道局(72両)、大阪鉄道局(81両)、広島鉄道局(76両)。

大戦中は一般貨物列車1100t、石炭集結列車1200t運転を実施するが途中停車・遅運転事故続発のため定数低下となり、この時期1200t列車を牽引していたのは結局EF12形電気機関車のみであった。
戦争中酷使され、しかも工作の良くなかった戦時設計車は、就役後にボイラー爆発事故を続けて3件も起こしたため、一旦全車の使用が停止され、ボイラーの検査が実施された。その結果、事故車および状態不良の55両は1950年(昭和25年)までに廃車され、後述の他形式への改造種車70両を除いた、残る160両のうち148両は、翌1951年以降、浜松工場、鷹取工場ならびに広島工場において、代用材を標準材に取り替え、ボイラーを順次新製された甲缶に交換するとともに、自動給炭機(メカニカルストーカー)設置などの装備改造を行うことによって、ようやく当初の設計どおりの性能を発揮できるようになった。形態的にも、ボイラー受台の中にあった排気膨張室兼用の給水加熱器の撤去と煙突前方の煙室上への新設、角型・カマボコ型ドームの丸型化、木製除煙板や炭水車炭庫側面の鋼板化等により、形態的にも戦前製作機と比べて遜色のないレベルとなった。一方、装備改造から漏れた12両(D52 12, 96, 126, 131, 146, 216, 222, 340, 417, 419, 456, 460)は、除煙板や歩み板、石炭庫側板等の木製部を鋼板製に取り換えた程度で、自動給炭機も装備されず、戦時型の面影を強く残していた。
この時期(1946年 - 1950年)に廃車となったものは、D52 5, 7, 8, 9, 27, 30, 47, 51, 59, 73, 78, 80, 83(事故), 84, 87, 88(戦災), 90(戦災), 91(戦災), 95, 97, 103, 107, 110, 111, 113, 114, 116, 120, 205, 206, 207, 208, 209(事故), 212, 215, 220, 221, 238, 346, 347, 350, 351, 359, 364, 371, 381, 394, 395, 409, 410, 411, 412, 413, 443, 465
軍事輸送の終了による貨物用機関車の余剰化と、旅行の制限がなくなったことによる旅客輸送量の激増にともなう旅客用機関車の不足のため、1948年から1949年にかけて本形式のボイラーを流用し、C59形相当で従軸を2軸とした足回りと組み合わせた旅客用機関車C62形が49両(うち1両は2両分のボイラーを組み合わせて1両分の良品を捻出したため、種車となったD52形は50両である。)製造された。
また、1950年から1951年にかけて従軸を2軸として軸重を軽くし、線路規格の低い線区(乙線)への入線にも対応したD62形に20両が改造されている。
1949年(昭和24年)5月に電化区間が浜松まで延長され、D52形が改修され、名鉄局管内で集中使用するようになってD51形が950tを牽引する区間でD52形が1100tを牽引、さらに夏季牽引定数が設定されここで蒸気機関車による東海道区間での1200t列車牽引が実現し、EF12形・EF13形・EF15形の牽引定数1200tに追いついて、稲沢操車場 - 新鶴見操車場間で1200t列車を通し運転することが実現した。
戦後しばらくして、函館・室蘭本線からはいったん撤退し、東海道・山陽本線をはじめ御殿場線、岩徳線、鹿児島本線(門司 - 鳥栖間)で運用された。また一部は瀬野八の後部補機として使用されていたが、そこの配置車には自動給炭機が装備されていないものもあった。


最終的には再度北海道地区の函館・室蘭本線への充当を目的として、山陽本線の電化に伴い余剰機となった姫路第一機関区所属の8両(56, 136, 138, 202, 204, 235, 404, 468)と岡山機関区所属の5両(140, 201, 217, 400, 414)計13両が昭和35年度に、昭和43年度に吹田第一の142、糸崎の28の延べ15両が五稜郭機関区に配置され、函館・室蘭本線で1972年(昭和47年)まで使われた。本機の最終使用は1972年12月で、稼動状態で最後まで残ったのはD52 202号機1両である。国鉄最強の称号で名高い本形式であり、SLブームの中での引退であったものの、軸重の重さゆえ運行できる路線が限定されたこと、貨物機であったことから一般のなじみが薄かったため、その引退はひっそりとしたものであった。

 

 

大浦駅 / JR四国 予讃線

$
0
0

大浦駅(おおうらえき)は、平成2年JR化後に輸送力増強のため、信号場として設置され、4ヶ月後に昇格した新しい駅です。駅は高台の集落、愛媛県松山市大浦にあります。四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅です。

一線スルー(本線側制限速度120km/h)で通過線側にホームのない1面2線と、この付近では珍しい構造をしている(関川駅も同様の構造)。

とってつけたような駅入り口。駅舎はなく、ホーム入口に小さな看板が掲げられています。無人駅で自動券売機もありません。

ホーム中程の待合スペースには簡素な長椅子が設置されています。ホーム幅が狭い。

有効長が4両分なので、特急列車相互の交換は不可能。通過線側にホームがないので普通列車相互の交換も不可能である。

高台に位置する駅ですが海は集落越しになり、あまりよく見えません。1面1線+通過線という配線なので、2線とも両方向に信号があります。

 

1990年(平成2年)11月21日 大浦信号場として開設。
1991年(平成3年)3月16日 駅に昇格し大浦駅として開業。

電報略号 オラ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
開業年月日 1991年(平成3年)3月16日
備考 無人駅

 

F-1 航空自衛隊

$
0
0

F-1は日本の航空自衛隊で使用された支援戦闘機である。量産1号機の初飛行は1977年(昭和52年)で、同年より部隊配備を開始されました。

三菱重工業が製造したT-2高等練習機を基に、第二次世界大戦終結後に日本が初めて独自開発した超音速飛行が可能な戦闘機である。愛称は特にない。
日本という四方を海に囲まれた島国の防衛のため、開発当初から対艦ミサイルとの組み合わせによる対艦攻撃を想定し、国産の空対艦ミサイル「ASM-1」の搭載能力を有していた。原型試作機である「FS-T2改(T-2特別仕様機)」が1975年6月3日、量産型1号機が1977年6月16日にそれぞれ初飛行を行った。航空自衛隊では支援戦闘機としているが、その性能や運用目的から攻撃機、もしくは戦闘爆撃(攻撃)機と分類される場合もある。
総計77機が製造され、三沢基地の第3航空団第3飛行隊と第8飛行隊、築城基地の第8航空団第6飛行隊に編成されている支援戦闘機部隊に配備がなされた。F-1の有する空対艦ミサイルによる対艦攻撃という運用方法は特筆すべきものがある一方で、機動性の低さから空中戦(要撃任務)での不安も抱えていた。
2006年(平成18年)に築城基地の第6飛行隊に配備されていたF-1がF-2の配備により退役し、航空自衛隊で配備・運用されていた全機が正式に退役した。

機体は、後部座席を取り外して電子機器を搭載した点以外T-2からの大きな変化は無く、特性はT-2のものをほぼそのまま受け継いでいる。主翼は非常に小さく、また厚みも薄い超音速飛行に重点を置いた形状。水平尾翼は下方向に15度の角がついている全遊動式で、前縁はエンジン排気やミサイル火炎からの耐熱のためチタニウム合金が用いられている。
機体後部下にはT-2同様ベントラルフィンが付く。車輪はコストダウンのため、F-104J/DJと同じものを使用している。ただし、コックピット風防は低空侵攻任務が多くなることからバードストライク(鳥の衝突)対策として運用途中から一体強化型に変更されている。T-2もブルーインパルス専用機などは同種のワンピースタイプを装備していた。
塗装は、上空から発見されにくくするために機体上面と側面は緑の濃淡と茶の迷彩、下面は地上から発見されにくい空と交じり合う明るい灰色という配色である。なおT-2との識別点は機体塗装の他、後席の有無、垂直尾翼上端の変化(F-1ではJ/APR-3レーダー警戒装置を収めるフェアリングが付く)等である。


T-2/F-1の横操縦には、MU-2以来の三菱重工製航空機に用いられている全スポイラー方式が用いられており、補助翼を廃してスポイラーを用いることで、低速から高速、大迎え角まで良好な舵の利きを確保している。その反面、高速時の旋回に難があり、翼端流の発生により旋回をすると速度が低下してしまう。またT-2の主翼は優れた超音速性能を狙って小さく、断面も非常に薄いものとなっており、翼の面積拡大を行わない方針であるため、F-1では主翼内に燃料タンクを設置していないので[5]、ドロップ式の増槽 220ガロン(833リッター)のものを胴体下に1個、左右両翼下に各1個の最大3個の機外搭載によって対応した。
またF-1(T-2)は、英仏共同開発のジャギュア攻撃機との形状の類似が指摘されるし、またエンジンも元を正せばジャギュアと同じアドーアである。もっとも外形こそは類似しているが、主翼はジャギュアの削り出し一体構造に対して、より軽量かつ剛性の高い厚板テーパー外板の多桁構造を用いるなど、内部構造は大きく異なる。

乗員: 1名
全長: 17.85m(ピトー管含む)
全幅: 7.88m(翼端ランチャー含まず)
全高: 4.45m
主翼面積: 21.17m²
主翼前縁後退角: 42.29度
下反角: 9度
基本運用重量: 6,550kg
最大離陸重量: 13,700kg(30,140ポンド)
燃料搭載量
胴体タンク: 1,010ガロン(約3,823リットル)
増槽: 220ガロン(約833リットル)×3
エンジン: IHI TF40-IHI-801A ×2基
推力: アフターバーナー使用時 32.5kN(3.31t) / 非使用時(ミリタリー) 22.8kN(2.32t、4,710ポンド=2.1tという情報もある)
最大速度: M1.6
失速速度: 117ノット(フラップと脚を下げた状態)
航続距離: 機内燃料のみで150海里、3個の増槽を加えたフェリーで約1,400海里
戦闘行動半径
要撃戦闘時(AAM×2、機内燃料のみ): 150海里
対地攻撃時(500ポンド爆弾×8、増槽×2): 190海里
対艦攻撃時(Hi-Lo-Hi飛行、ASM×2、増槽×1): 300海里
荷重制限: +7.33〜-3G
実用上昇限度: 約5万フィート(15,240m)
固定武装: M61A1 ガトリング式機関砲×1門(750発)
兵装類最大搭載重量: 2720kg

 

 

八幡浜駅 / JR四国 予讃線

$
0
0

八幡浜駅は愛媛県八幡浜市江戸岡一丁目にある、四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅。九州(別府行き)へのフェリーも発着する南予の中心都市の一つ八幡浜市の代表駅ですが、中心部から東外れに位置するため、駅前にはそれほどの賑わいはありません。



駅名標のコメントは、「みかんの香る四国最西端の駅」。九州方面の船便や佐田岬半島方面のバスの乗換駅でもあります。



単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを持つ地上駅。古いままの重厚な大きなデザインで車寄せがある木造の駅舎が残っています。

駅舎コンコースの屋根を高くして明かり取りにしているデザインで構内は大変明るくなっています。駅前広場にはロータリーもあり、きれいに整備されています。

駅舎側から単式ホーム(1番線)、島式ホーム(2番線・3番線)となっており、特急列車は全て、松山方面が1番線から、宇和島方面が2番線から発着する。

3番線は特急列車の待避および当駅始発の列車が主に使用する。1番ホーム側から「別府連絡」の文字表記版があります。



直営駅でみどりの窓口、自動券売機設置駅。また、窓口横には旅行センター「八幡浜駅ワーププラザ」がある。ビッグキヨスクがかつてはあった(改札出て左手(パン屋「リトルマーメイド」の跡地)、2004年閉店)。待合室には長椅子が多数設置されています。



通票閉塞時代に、この駅を通過する列車が存在したので、タブレット授受器が1、2番線にあった。



のりば
1       ■予讃線    (上り)    伊予大洲・松山・高松・岡山方面 (特急を含む)


2       ■予讃線    (下り)    卯之町・宇和島方面       (特急を含む)


3       ■予讃線    (上り)    伊予大洲・松山方面       (一部の普通のみ)
(下り)    卯之町・宇和島方面       (一部の普通のみ)



1939年(昭和14年)2月6日:国鉄の駅として開業。
1984年(昭和59年)2月1日:貨物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)
3月31日:貨物の取扱を再開。但し蜜柑の出荷時期に限定した取扱で、臨時貨物列車のみの設定とされた。
4月1日:国鉄分割民営化により、四国旅客鉄道・日本貨物鉄道の駅となる。
2006年(平成18年)4月1日:JR貨物の駅(貨物の取扱)が廃止。定期貨物列車の設定には至らないまま廃止された。

電報略号 ヤハ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 993人/日(降車客含まず)
-2009年-
開業年月日 1939年(昭和14年)2月6日
備考 みどりの窓口 有



伊予平野駅 / JR四国 予讃線

$
0
0

伊予平野駅は大洲市西端の愛媛県大洲市平野町野田にある駅です。所属は四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅です。

相対式2面2線の地上駅。Y字分岐で進入速度は50km/h。留置線を1線有する。無人駅。国鉄時代は木造駅舎でしたが今の駅舎はブロック造りの簡易な駅舎で窓が全くありません。現駅舎になってからは最初から無人駅様子で窓口あとやスペースはありません。駅舎内の待合室にはプラスチックと木製の長椅子が設置されています。駅前には広場があり屋根付きの自転車置き場が設置されています。ホームは構内踏切で結ばれています。ホームはかさ上げ工事がなされてなく車両とホームの段差が気になりました。

1936年(昭和11年)9月19日 - 開業。
1986年(昭和61年)3月3日 - 無人駅化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、四国旅客鉄道の駅となる。


キロ程 253.5km(高松起点)
電報略号 ヒノ
駅構造 地上駅
ホーム 相対式2面2線
開業年月日 1936年(昭和11年)9月19日
備考 無人駅

伊予大洲駅 JR四国 予讃線

$
0
0

伊予大洲駅は、城下町で伊予の小京都と呼ばれ、鵜飼で有名な愛媛県大洲市中村にある大洲市の玄関駅です。四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅です。

開業は大正7年。駅前は鉄道開通後に開けた新しい町で、肱川の対岸には、道の狭い旧市街が広がっています。駅名標のコメントは「おはなはんと鵜飼いの駅」。

単式ホームと島式ホーム2面3線の地上駅となっています。三角屋根のある駅舎は大きめの木造駅舎です。駅構内の外れには、旧貨物用ホームの屋根をそのまま流用した自転車置場と駐車場があります。


通票閉塞時代に、この駅を通過する列車が存在したので、タブレット授受器が1、2番線にありました。特急列車はすべて宇和島方面が改札口前の1番線から、松山方面が島式ホームの2番線から発着。3番線は主として特急列車の待避、および当駅始発の普通列車が使用します。


直営駅。みどりの窓口(朝〜夕方までの営業、早朝・夜間は無人)、自動券売機設置駅。窓口横には旅行センター「伊予大洲駅ワーププラザ」があります。

白壁の町家風のキオスクが営業があります。また雰囲気のある長椅子が多数設置されていて駅舎内は大変まとまった趣きありました。

改札口にはその都度駅員さんが札を掛け直す懐かしい手動式の今時発車案内があります。
予讃線伊予長浜方面(旧線)と内子方面(新線・内子線)の営業上の分岐駅であるが、施設上の分岐点は伊予若宮信号場である。ホームは跨線橋で結ばれています。特急列車の追い越し、旧線新線の乗り換え等で、長時間停車する列車もあります。

のりば
駅舎側から、
1 ■予讃線 (下り) 八幡浜・宇和島方面 (特急を含む)


2 ■内子線・予讃線(新線) (上り) 内子・伊予市・松山・高松・岡山方面 (特急を含む)
■予讃線(旧線) (上り) 伊予長浜・伊予市・松山方面
3 ■予讃線 (下り) 八幡浜・宇和島方面 (一部の普通のみ)
(上り) 内子・伊予市・松山方面 (一部の普通のみ)
■予讃線(旧線) (上り) 伊予長浜・伊予市・松山方面 (一部の普通のみ)


1918年(大正7年)2月14日 - 大洲駅として開業。
1933年(昭和8年)10月1日 - 現在の駅名伊予大洲駅に改称。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、四国旅客鉄道の駅となる。
1994年(平成6年) - みどりの窓口を設置。

電報略号 オス←ヲス
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 1,062人/日(降車客含まず)
-2009年-
開業年月日 1918年(大正7年)2月14日
乗入路線 2 路線
所属路線 ■予讃線(旧線)
駅番号 ○S18
キロ程 249.5km(高松起点)
◄S17 五郎 (3.8km)(2.1km) 西大洲 U15►
所属路線 ■予讃線(新線)
駅番号 ○U14
キロ程 5.9km(新谷起点)
◄U13 新谷 (5.9km)(2.1km) 西大洲 U15►
備考 みどりの窓口 有


4月20日(日)のつぶやき

4月21日(月)のつぶやき

西大洲駅 /JR四国 予讃線

$
0
0

西大洲駅は市街地の西外れ、愛媛県大洲市阿蔵にある駅です。所属は四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅です。駅の周囲に人家は少なく利用客は少数です。駅周辺にはスーパーと大洲市立久米小学校があります。

片面ホーム1面1線の地上駅。ホームの宇和島寄りに出入口がある。駅舎はなく、待合所があるのみの無人駅です。駅前にスペースはありません。

駅北側は土手になっています。待合スペースにはFRPの椅子がわずかですが設置されています。駅入口はスロープのみで階段はありません。駅名標を両面仕様にして使っています。

1961年(昭和36年)10月20日 - 開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、四国旅客鉄道の駅となる。

電報略号 ニス
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1961年(昭和36年)10月20日
備考 無人駅

T-1初鷹 中等練習機 航空自衛隊

$
0
0

T-1は、航空自衛隊の中等練習機。愛称は初鷹(はつたか)。プロペラ機による初等訓練を終えたパイロットが引き続いてジェット機による中等訓練を行うために製作された。第二次世界大戦後初の実用国産飛行機であると同時に、初の国産ジェット練習機でもある。2006年(平成18年)3月に全機が退役した。

内藤子生技師を主務として設計と実機製作に取り掛かったT1F1だが、富士重工業が旧中島飛行機であるとはいえ、航空再開から4年、富士重工設立から3年しか経っておらず、また、第二次世界大戦中に同じく中島飛行機が海軍の発注を受けて開発し量産を進めていた「橘花」を除けば、ジェット機開発の経験など無かった。
試作のための研究と試験には、国内メーカーと国公立の研究所の協力体制がとられ、ライセンス生産をしていたF-86FとT-33Aのノウハウが大きな助けとなった。また、国内の航空研究設備の多くが戦後解散し、機材も分解してしまったため、アメリカ・コーネル大学の風洞設備を借りて遷音速時の空力特性研究を行うなど、研究開発は苦難に満ちたものだった。同時に、米軍のレシプロ練習機T-28Bと英軍の練習機 DH-T55 バンパイアを一機ずつ購入し、操縦特性や構造、装備品、バンパイアで並列複座の得失について徹底的に検証した。
搭載するエンジンは、国内5社共同出資で設立した日本ジェットエンジン社(NJE)が開発中である推力1,200kgの「XJ3」の予定であったが、製作が遅れていることが明らかになり、防衛庁の求める納期に間に合わなくなってしまった。このため富士は、試作1号機に英国ブリストル社製・オーフュースMk.805エンジン(推力1,815kg)を搭載してT1F2とし、試作1号機(82-5801)は1958年(昭和33年)1月16日に初飛行(テストパイロットの高岡1等空佐は終戦直前に「橘花」の初飛行も勤めた)。これを3月25日に防衛庁に納入し、3月13日に初飛行した2号機(82-5802)以降、6号機までが防衛庁での試験に供された。この試験でいくつかの不具合が改良され、T-1Aと名づけられた機体は、1962年(昭和37年)6月までに量産機と試作機あわせて46機が配備された。
1960年(昭和35年)にはNJEの国産ターボジェットエンジン「J3」が完成したので、T1F2の試作1号機(05-5801:元02-5801)のエンジンをJ3に転換して5月17日に初飛行した。J3はNJEから石川島播磨重工業による量産体制に移り、T1F1試作2号機はT-1Aの10号機(05-5810)をJ3に転換したものとなった。これが1962年(昭和37年)まで試験に供され、T-1Aに代わって量産体制に移った。純国産機であるT1F1量産型は、1963年(昭和38年)7月12日の完納式までに20機が納入され、T-1Bとなった。
なお、1962年からF-104J/DJ戦闘機の導入によって教育体制が変わり、米軍の無償供与とライセンス生産効率化によって大量配備され、278機(212機が国産)もの大所帯となったT-33Aが中等練習機に格下げされたため、T-1は総勢66機の導入にとどまった。

主翼は低翼配置で25パーセント翼弦、26度46分の後退翼となっており、中島飛行機時代の艦上偵察機「彩雲」などに使用された中島Kシリーズ層流翼型の発達型である。厚い主翼には十分なタンクスペースが確保されている。新しい後退翼理論を取り入れた水平尾翼は34度15分、垂直尾翼は33度18分の後退角がついており、音速に近づいて衝撃波が発生しても尾翼の効きが残る。やや前方に出たドーサルフィンを持つ垂直尾翼と上反角を持つ水平尾翼の組み合わせにより、良好なスピンリカバリーをもたらしている。
空気流入効率と全面抵抗減少を狙ってエアインテイク(空気取り入れ口)は機首にある。軽量化のために細くした胴体は装備品の搭載にしわ寄せが来てしまい、また体の大きなパイロットには窮屈になってしまった。しかし抵抗が小さいため加速力と上昇力ではT-33A練習機を上回り、操縦性や離着陸特性も数段勝っている。
電子機器は価格を抑えるためにF-86F戦闘機およびT-33Aと同じ既製品を使用している。またキャノピーと射出座席、降着装置はT-33Aと同じ、増槽はF-86Fと同じ120ガロンのものを流用した。A型のオーフュースエンジンは出力が大きく、性能も良いが、その分J3よりも多くの燃料を消費したため、T-1Aは常時増槽を装着して飛行することとなり、これがT-1AとT-1Bの外見上の大きな識別点となった。B型は当初、長距離飛行の場合を除いて増槽は設置しなかったが、後にA型同様、通常装備となった。
射出座席は当初マーチンベーカー製であったが、後にT-33共々安全性を高めた国産型に転換された。この国産射出座席開発に際しては、1966年(昭和41年)から岐阜基地で行われた射出実験の成果が投入されている。実験は岐阜基地の滑走路南で実施。鉄道用レール(新幹線のロングレール採用)とトロッコによるロケットスレッドが用意され、T-1Aの試作4号機(#804)の胴体前部をトロッコに括り付け、F-86の武装であるロケット弾44発(弾頭なし)を推進剤にして、地上滑走を再現した。機体の射出座席には平均的な日本人男性のダミー人形2体(衝撃計測機器付き)が乗せられ、トロッコの低速走行中に空中へ射出、パラシュートで地上へ帰還する試験を7度行った。試験で実用化された射出座席への改修により、ゼロ高度・低速度(地上滑走中)での安全な脱出が可能となった。なお、改修費用は1機あたり500万円(当時)であった。また、#804は試験終了後に復元された。
T-1B型は、1965年(昭和40年)に推力を1400kgに増強したJ3-IHI-7が完成したため、B型全機がこのエンジン(後にはJ3-IHI-7B)に転換し、正式名はT-1B-10となっている。しかし、T-1B全機が改修対象だったため、特に区別する必要も無く、この名称は一般には浸透しなかったようである。
この機体は練習機であるため武装はないが、射撃訓練用に機首右下に12.7 mm機銃1門を装備できた。また有事の際には翼下にサイドワインダー空対空ミサイルや爆弾やガンポッドなどを搭載できるようになっていた。

乗員 - 2 名
全長 - 12.12 m
全幅 - 10.49 m
全高 - 4.08 m
翼面積 - 22.22?
空虚重量 - 2,858 kg
エンジン
T-1A:ブリストル オーフュース ターボジェット ×1基
T-1B:IHI J3-IHI-7B ターボジェット 1基
出力
T-1A:1,815 kg
T-1B:1,400 kg
最大速度 - M08.0または503kt/4.572m
巡航速度 - M05.5または340kt/6.096m
失速速度 - 84kt/着陸時、海面上昇率1.981m/?
実用上昇限度 - 13.564m
航続距離 - 850 km
離陸/着陸距離 - 離陸853m/着陸1.052m
武装
固定武装無し(12.7 mm機銃1門の装備可)
翼下に対地ロケット弾×4または空対空ミサイル×2装備可

 

 

春賀駅 JR四国 予讃線

$
0
0

春賀駅は戦後に開設された駅です。愛媛県大洲市春賀、田園の中にある四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅です。駅周辺には僅かですが集落があります。

単式ホーム1面1線をもつ地上駅である。 ホーム待合室だけの棒線駅。駅舎はなく、風よけに半透明のプラスチック板が使用されています。

自動券売機も設置されていない。ホーム下の空間を利用して自転車置き場が設けられています。バリアフリー化としてスロープがあります。駅舎があった形跡はありません。

1961年(昭和36年)10月20日 - 開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR四国の駅となる。

電報略号 ハル
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1961年(昭和36年)10月20日
備考 無人駅

Viewing all 3251 articles
Browse latest View live