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8月19日(火)のつぶやき


余部橋梁

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余部橋梁は、兵庫県美方郡香美町香住区(旧・城崎郡香住町)余部、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線鎧駅 - 餘部駅間にある橋梁(単線鉄道橋)である。
余部橋梁は2代存在し、初代の旧橋梁は鋼製トレッスル橋で「余部鉄橋」の通称でも知られ、1912年(明治45年)3月1日に開通し、2010年(平成22年)7月16日夜に運用を終了した。2代目の現橋梁はエクストラドーズドPC橋で、2007年3月からの架け替え工事を経て、2010年8月12日に供用が始まった。
新・旧両時代ともに、橋梁下には長谷川と国道178号が通じている。
新旧架け替え工事中からライブカメラが設置されており、新旧両橋梁工事の様子や列車通過の状況、余部地区の季節感がわかるようになっている。
最寄駅である餘部駅の裏山には展望所が設けられており、同駅ホームより小高い位置で日本海を背景に余部橋梁が一望可能なスポットであり、撮影ポイントとしても定番化していた。展望所は橋梁の架け替え工事に伴って2008年(平成20年)4月11日以降一時閉鎖されていたが、橋梁切替時期から供用再開を望む声が多く寄せられ、香美町の定例議会で提案が2010年9月に可決され、補修工事後2010年11月3日に供用が再開された。

JR西日本による正式名称は旧橋梁・現橋梁ともに地名と同じ「余部」を使用した「余部橋梁」である。常用漢字に含まれない「梁」については、平仮名書き、漢字書きの双方が混在している。「余部橋りょう」の書き方は鉄道の現業機関において広く使われている表記で、鉄道建造物台帳に記載されており、旧橋梁の橋桁にも記載されていた。一方「余部橋梁」の書き方も、構造物設計事務所の作成する橋梁設計図面などで見られる。
第二次世界大戦前は正字体の「餘」を使用した「餘部橋梁」表記が一貫して用いられていた。
旧橋梁の別称・愛称は前述のように「余部鉄橋」で、これは古くから地元で使われており、使用される範囲も地元の観光パンフレットのほか、大半の地図でも記されるなど広範囲にわたって使用された。かつては「余部陸橋」や「余部高架橋」の表記・呼称も使用されていた。
新橋梁の別称・愛称は、正式名称に沿い便宜的に「新」を入れた形で「新余部橋梁」「余部新橋梁」「余部新橋」、あるいは一部の鉄道ファンにて「余部鉄橋」(余部の鉄道橋の略称と解釈)などが混在して使用されている。また、地元向けの愛称を地区住民を対象に募集中で、案が出そろうのを待って愛称を決める予定となっている。
隣接する駅「餘部駅」は地名の読みと同じ「あまるべ」であるが、表記は異なる文字「餘部」を使用している。理由として、同じ兵庫県内に姫新線の余部(よべ)駅があるため、それと区別するため漢字を変更し「餘部駅」にしたとされる。

余部橋梁の建設は、当時日本の国有鉄道網を管轄していた鉄道院が、日露戦争後に山陰本線の東側の区間を全通させるために、残されていた和田山 - 米子間を建設する際に実施された。和田山側から建設を進めた山陰東線と、米子側から建設を進めた山陰西線があり、余部橋梁を含む山陰西線香住 - 浜坂間の開通によって両者がつながり京都から米子、その先の出雲今市(現在の出雲市駅)までが開通することになった。

最後の区間となった香住 - 浜坂間は、山が海に迫る地形で海岸沿いに線路を通すことは不可能であった。この区間にどのように線路を建設するかは関係した技師の間でも論争があり、米子出張所長の石丸重美は現行の案を主張し、福知山出張所長の最上慶二と橋梁技術者の古川晴一は内陸に迂回する案を主張した。石丸の案は、内陸案ではその当時の土木技術では難しい長大トンネルが必要になることを避けて、かつ最短経路を選択したもので、一方最上らの案は建設に困難が予想され、さらに建設後も海からの潮風で保守作業が困難となることが予想される長大鉄橋を回避しようとするものであった。これに対して上層部の判断により、石丸の主張する案を採用することになった。

香住駅の標高は 7.0 m 、浜坂駅の標高は 7.3 m とほぼ同じ高さにあるが、その間で山を越えなければならない。長大トンネルを避けるためには、できるだけ山に登って標高の高いところに短いトンネルを掘って抜ける必要がある。この付近では河川の多くが南側から北の日本海へ向かって流れているので、これらの川筋に沿って山に登ることはできなかった。しかし桃観峠(とうかんとうげ)では、東側に西川が流れ出して余部で海に注ぎ、西側に久斗川が流れ出して浜坂で海に注いでいた。そこで、これらの川筋を利用して桃観峠のできるだけ高い位置に登って、峠の下の標高約 80 m の地点に桃観トンネル(全長1,992 m)を建設することが考えられた。
香住からは最急 12.5 ‰ の勾配で登っていき、標高 39.5 m の位置に鎧駅がある。そこからは短いトンネルを連続して通り、余部橋梁を通って餘部駅が標高 43.9 m の位置にある。そこからは 15.2 ‰ のきつい勾配を登っていって、標高約 80 m の地点で桃観トンネルに入る。桃観トンネル内から久谷駅までは 15.2 ‰ で下り、標高 51.9 m の久谷駅を過ぎると 13 ‰ の下り勾配になり、浜坂が近づいてくるところで平坦となる。このように香住と浜坂の両方から桃観峠を頂点として登っていく線形を採用したため、その途中の余部に長谷川が形成する 300 m あまりの長く深い谷間があったとしても回避するわけにはいかず、この谷間を越えてどうしても線路を通す必要性が生じた。方法として橋梁を建設する案と築堤を建設する案が検討され、橋梁の建設費が約32万円と見積もられたのに対して、築堤の建設費は約70万円と見積もられた上に築堤を建設すると余部の集落全体が埋没してしまうことになることから、最終的に橋梁建設案が選定された。

旧橋梁は1909年(明治42年)12月16日着工、1912年(明治45年)1月13日に完成し、同年3月1日に開通した。全長310.59 m(橋台面間長309.42 m)、下を流れる長谷川の河床からレール面までの高さ 41.45 m 、総工費331,536円。11基の橋脚、23連の橋桁を持つ鋼製トレッスル橋である。23連となるのは、各橋脚上に30フィート桁、各橋脚間に60フィート桁がそれぞれ架設されているためである。土木学会による技術評価では近代土木遺産のAランクに指定されていた。
その独特な構造と鮮やかな朱色がもたらす風景は、鉄道ファンのみならず、山陰地方を訪れる観光客にも人気があった。その一方、直近の地元住民は多くの落下物や騒音に悩まされてきた事例もあり、旧橋梁による負の一面も存在していた(後述)。
2010年(平成22年)7月16日午後9時50分頃「はまかぜ」5号の通過をもって営業運行を終了し、同日深夜に行なわれた同列車上り返却回送をもって車両運用をすべて終了した。翌7月17日から区間運休し、旧橋梁の解体撤去作業が開始され、新旧切替工事が8月11日まで行われ、2010年8月12日から新橋梁の供用が始まった。


鉄橋には特に厳しい地形や環境であったことから、地道な保守作業や適切な維持管理が継続されたこと、鉄橋構成各部位の精度が高く建設当時から晩年に至るまで狂いが生じていなかったこと、財政的負担(後述)などの諸事情もあり、結果的に完成から98年という長期にわたる運用実績を残した。完成当時「東洋一」と謳われていた旧橋梁は、運用終了時までトレッスル橋として日本一の長さであった。
一部橋脚・橋桁は保存され、展望台に整備されて活用の予定である。解体撤去で発生した鋼材は、歴史ある貴重な研究材料として、関西地方を中心とした数校程度の大学や鉄道総合技術研究所に提供され、金属や錆などの研究用途や、地元からの「餘部駅に余部鉄橋の記念になるものが欲しい」との要望にJR西日本が応え、同駅のホームに元橋脚の一部鋼材を使用したベンチを設置するなどとして活用されている。

橋梁建設案の選定後に橋梁形式が検討され、両側を築堤にして間をトラス橋で結ぶ案、全体をトラス橋にする案、プレスド拱橋にする案、カンティレバー式橋梁にする案、拱橋にする案、トレッスル橋にする案などが比較されて、トレッスル橋が選定された。
トレッスル橋案選定後にも米子出張所の岡村信三郎技師が、海に近い余部に鋼製の橋を架けると後々腐食対策で保守経費がかさむことを懸念して、日本国外の橋梁を勉強したり、母校の京都大学土木工学科教授に相談した結果、鉄筋コンクリート製のアーチ橋を建設することを上申した。この案は60フィート間隔で橋脚を建設して、その上にアーチ橋を架設するものであった。概算工事費は京大教授により46 - 47万円と出たが、人件費・保守経費なども含めた総額で考えると最終的にはアーチ橋が一番安くなると試算されたことから、岡村はこの案を主張した。しかし、鉄道院建設部技術課長となっていた石丸重美からは「役人は新しいことをやるものではない」と諭され、岡村は納得できなかったが反対することもできず、さらに鉄筋コンクリート製の橋梁の建設経験が日本国内ではもとより、まだ世界的にも少ない時代であったことと、既に鋼製橋梁の材料を発注済であったことから、この案は却下された。


こうして、建設費が安くかつ早く建設することのできる鋼製トレッスル橋梁案を採用する計画を進めることになったが、当時の日本では高架橋式の経験に乏しく調査・検討の余地があるとして、最終的な判断は設計担当の古川晴一による日本国外出張の終了後となった。
後述のように、結果的に保守作業が頻繁に行われた要因から、鋼製トレッスル橋案を採用したことについて、後年の考察において意見が分かれている。批判的な意見の例として、交通地理学者の中川浩一は「信越本線の碓氷峠におけるアプト式鉄道の採用と並んで、後世に多額の保守経費を発生させた」と2000年代に見解を示し、同類の意見は川上幸義の『新日本鉄道史』などでも見られる。肯定的な意見の例として、網谷りょういちはその著書で当時のコンクリートの品質は低く、コンクリート橋で造っていたら現代まで残らなかっただろうと予想し、明治末期における路線および橋梁形式の選定としては大変適切であったとの見解を示している。

1986年(昭和61年)12月28日13時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中の客車列車(DD51形1187号機とお座敷列車「みやび」7両の計8両編成)が日本海からの最大風速約 33 m/s の突風にあおられ、客車の全車両が台車の一部を残して、橋梁中央部付近より転落した。転落した客車は橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場が全壊、民家が半壊した。回送列車であったため乗客はいなかったが、工場の従業員だった主婦5名と列車に乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った。なお、重量のある機関車が転落を免れたことと、民家が留守だったことで、機関士と民家の住民は無事だった。
この橋梁からの列車の転落は、橋の完成以来初めての惨事だった。国鉄の記録では、事故の時点で風による脱線は全国で16件あり、そのうち鉄橋からの転落は3件あったが、鉄橋からの転落で死傷者が発生したのは、1899年(明治32年)10月7日に日本鉄道(現在の東北本線)矢板駅 - 野崎駅間箒川橋梁からの客車の転落で20人が死亡45人が負傷して以来87年ぶりのことであった。


風速 25 m/s 以上を示す警報装置が事前に2回作動していたが、1回目の警報では指令室が香住駅に問い合わせたところ、風速 20 m/s 前後で異常なしと報告を受けたため、その時間帯に列車がなかったこともあり様子を見ることにした。2回目の警報が作動した際には、列車に停止を指示する特殊信号機を作動させてももう列車を止めるためには間に合わないという理由で、列車を停止させなかった。こうした理由により、突風の吹く鉄橋に列車が進入する結果となった。
事故後、のべ344人の作業員を投入して枕木220本とレール 175 m の取り替えを行い、事故の遺族からの運転再開容認を31日10時30分に取り付けて、15時9分に事故後の最初の列車が鉄橋を通過した。
1987年(昭和62年)2月9日に松本嘉司東京大学教授を委員長として「余部事故技術調査委員会」が発足し、国鉄分割民営化後の1988年(昭和63年)2月5日に調査報告書がまとめられた。調査では、橋に取り付けられていた2台の風速計のうち1台が故障しており、もう1台も精度が落ちていたことが判明している。また風速計による警報が出た後に、指令員の判断を介して列車に停止の指示をする仕組みであったことも問題であるとし、自動的に停止の指示を出せる仕組みにするべきであるとした。
一方、当時吹いていた風速 33 m/s では計算上客車が転覆することはなく、また橋の上のレールが風の向きとは逆に海側に曲がっていたことを指摘して、事故の本当の原因は客車に対する直接の風圧ではないとの主張もある。それによれば、昭和40年代の補強工事で縦横の剛性比の考慮を欠いたまま水平方向の部材のみを強化してバランスを崩し、また橋脚の基礎をコンクリートで巻き立てたために主塔の撓み量が減少して、風によるフラッター現象を起こしやすくなっていたとする。そして、当時の強風によりフラッター現象を起こしていた橋に列車が進入した結果、機関車が蛇行動を起こしてレールの歪みを生じ、両端の客車に比べて軽かった中央付近の客車が脱線して、両端の客車を引きずるように転落に至ったのが本当の事故原因であるとしている。この主張は他の書籍等でも紹介されることがあるが、指令員の責任を追及した刑事裁判でも、事故の調査報告書でも一切触れられていない。


1988年(昭和63年)5月から運行基準を見直し、風速 20 m/s 以上で香住駅 - 浜坂駅間の列車運行を停止し、バス代行とするよう規制を強化することになった。1988年(昭和63年)10月23日には事故現場に慰霊碑が建立された。また事故後毎年12月28日には法要が営まれてきたが、2010年(平成22年)12月28日、25回忌の節目となったことと、新橋への切り替えが行われたことから、遺族会による最終の合同法要が行われた。また列車を停止させなかった責任を問われた福知山指令室の指令長および指令員計3名が、事故の7年後に禁固2年から2年6か月の執行猶予付き有罪判決を受けて確定している。


空の駅
新橋梁に切り替えたのち、旧余部橋梁を保存すべきかどうかについては議論のあるところであったが、検討の結果維持費や落下物の危険性などが少ない、餘部駅側の橋脚3本を残す方針が決定された。これが兵庫県が主体となって整備した展望施設「空の駅」である。全体が残された橋脚3本の他に、一部の橋脚を低層部だけ残す構造とされた。


展望施設は、「余部鉄橋の物語を継承する空間整備」を基本方針として設計された。腐食箇所などを調査の上で必要な補修を行い、レベル2の地震動にまで耐えうる設計とした。展望施設部分は幅3 m、奥行き68 mで、海側にベンチを設置し、また床板の2か所にガラス窓を設置して下を覗けるようにした。展望施設先端部のフェンスの向こうに、14 mだけ旧軌道をそのまま残した部分がある。展望施設へのアプローチは、餘部駅プラットホームの裏側に、旧橋梁時代のレールや枕木をそのまま残した構造とされている。橋脚の下部には付随する公園施設が整備されている。


設計はオリエンタルコンサルタンツが2011年2月から9月にかけて実施した。工事は2012年3月から2013年4月までかけて、総工費5億5000万円をかけて株本建設工業が施工した。展望施設は2013年5月3日に供用開始された

 

 

 

 

鳥ノ木駅 JR四国 予讃線

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鳥ノ木駅(とりのきえき)は、国鉄末期の昭和61年、臨時駅として設置された新しい駅です。愛媛県伊予市下吾川にある四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅です。

開業当時は周辺に鳥ノ木団地があるほかは水田が広がっていたが、近くを通る国道56号沿道の発展とともに宅地化が進んでいます。

単式1面1線の地上駅。駅舎は無く、片面ホームには上屋付き待合所だけがあります。以前は3両編成対応の駅だったが、平成9年、4両編成対応に改修し、同時に階段状のステップをスロープ状に改修しました。ホームは引きの写真が撮れないほど非常に狭い。駅前の自転車置場があります。


無人駅です。ホーム入口には簡易型の自動券売機が設置されています。

1986年(昭和61年)11月1日 - 開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR四国の駅となる。

電報略号 トキ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1986年(昭和61年)11月1日
備考 無人駅

 

 

 

F-104 航空自衛隊

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F-104 は、ロッキード社が開発した超音速ジェット戦闘機。愛称はスターファイターです。

F-100 スーパーセイバーに始まるセンチュリーシリーズの一員とされ、また、第2世代ジェット戦闘機に分類される、アメリカ合衆国初のマッハ2級のジェット戦闘機。初飛行は1954年2月。
細い胴体に短い矩形の主翼を持つ小型軽量の機体にゼネラル・エレクトリック社の強力なJ79型エンジンを一基搭載している。その卓越した高速性と形態はミサイル(当然無人である)を彷彿させ、日本やアメリカにおいては「最後の有人戦闘機」とも称されました。
アメリカ空軍では短い期間の運用に終わったが、冷戦下において日本やイタリア、中華民国(台湾)や西ドイツなどアメリカの同盟国や友好国を中心に、世界15ヵ国で供与・運用されました。1960年代に勃発したベトナム戦争のほか、第二、第三次印パ戦争等の実戦に投入されました。
高度な操縦・整備技術を要し、高価であった事もあり、南ベトナムや大韓民国、フィリピン、南アメリカ諸国をはじめとする発展途上国への供与はF-5A/Bへ譲られたが、ライセンス生産を含め2,578機が生産されました。初飛行後から半世紀を経た2004年、イタリア空軍に所属したF-104S退役を最後に全機退役となりました。

機体は高い縦横比、つまり、細長く、尖った機首に向かって先細りになる胴体内にレーダー、コックピット、機関砲、燃料、着陸装置、およびエンジンが余積なく搭載され、前面投影面積は小さく纏められました。小面積の主翼と相まって、誘導抵抗が非常に高くなる高迎角時を除いて、抗力を非常に低く抑えたものとして、充分な加速力、上昇力と潜在的最高速度を発揮することとなりました。その反面、持続旋回性能は不十分なものであり、F-104A/Bに対してM1.8/550ノットまではフラップの使用を可能にする変更により操作性を改善したものの、制御入力に敏感で操縦を困難なものとしました。
単座型の他、何種かの複座練習機型が生産されました。それらは一般に単座機と同様の内容ながら、追加コックピットのために、機関砲と内部燃料の一部を取り外すことになりました。首脚格納部は位置を変えられ、収納方向が後方に変更されました。複座型は垂直尾翼面積の僅かな拡大と機体重量に係わらず、サイドワインダーを使用した戦闘においては初期の単座機と同等の性能を発揮しました。

航空自衛隊は、G型を基に日本での要撃任務用途にあわせて火器管制装置などを改良したF-104J、および複座の練習機F-104DJを採用しました。日本にとっては、独自で機体選考を実施した最初のジェット戦闘機ともなった。航空自衛隊では栄光という愛称を持っています。三菱重工業がライセンス生産を担当し、細い胴体に極端に小さな主翼という形状から、空自の現場では「三菱鉛筆」の愛称もあります。F-15Jの配備に伴い、1986年に全機が退役しています。

J型1号機は1961年(昭和36年)6月30日に米国で初飛行、フライング・タイガー・ライン(貨物航空会社 フライング・タイガース)のCL-44により空輸された。3号機までは完成機として輸入され、国内で再組み立てされました。続いて17機が三菱重工業でノックダウン生産、160機がライセンス生産された。DJ型は20機全てが完成品輸入で、国内で再組み立てされました。
1963年から1966年にかけて、第201から第207までの7個飛行隊が新編されました。1964年(昭和37年)10月から第202飛行隊がアラート待機を開始、1965年(昭和40年)には所要飛行隊を維持することが難しいとして、J型30機のライセンス生産による追加調達が決定。1967年(昭和42年)度に計230機が配備されました。

F-104J は要撃機という日本の要求にあわせてM-2爆撃コンピュータを取り外しており、NASARR F15Jも、F-104Gの搭載したF15Aと異なり対地攻撃の機能を持たない。空中給油については、C型以降は給油口が一点加圧式であるため、空中給油プローブを取り付ければ可能だが航空自衛隊は装備していない。なお、給油口の位置自体は左エアインテイク前方で自衛隊機もその他の空軍機も同じです。諸外国のF-104もプローブは着脱が可能で、装着したときの最大速度はマッハ1.75に制限されました。武装はM61 バルカン 20mm ガトリング砲とAIM-9B/Eサイドワインダー空対空ミサイル、2.75in FFARロケット弾を装備できる。ロケット弾の装備は、当時のサイドワインダーでは全天候戦闘を行う事ができなかったからである。バルカン砲は当初装備の予定はなく、C-1契約の180機は未装備で引き渡されている。後にバルカン砲が搭載されたが、F-104J計210機のうち、装備した機体は160機前後に留まりました。未装備機の機体の銃口はふさがれ、空きスペースには予備の燃料タンクを有していました。

全長:16.7 m(ピトー管含まず)
全幅:6.69 m
全高:4.11 m
最高速度:Mach 2.2
発動機:GE製 J79-GE-7 ×1基
推力:A/B 7170 kgf
最大離陸重量:12,490 kg
固定武装:M61 バルカン 20mm ガトリング砲1門
搭載兵装:AIM-9サイドワインダー空対空ミサイル×4発、ロケット弾ポッド、無誘導爆弾など
生産数:(F-104A:153機 F-104B:26機 F-104C:77機 F-104D:21機)

三島由紀夫は 1967年12月5日に航空自衛隊百里基地でF-104に体験搭乗し、その際の経験を元にして1968年2月に「F104」と題した短編を著しています。

安土駅 JR西日本 東海道本線

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安土駅は、織田信長が城を築いたことで知られる滋賀県近江八幡市安土町上豊浦にあります。西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の観光駅です。「琵琶湖線」の愛称区間に含まれている。

駅から直線距離で1.4km程に安土城跡があります。京阪神の通勤圏からは外れており、いわゆる琵琶湖線内では利用客は一番少ない。駅の活気や賑わいはありません。

また、駅前は公園のように整備されており、織田信長の銅像が立っています。

そのとなりには観光案内所兼物産販売所があります。

日中時間帯は1時間あたり2本が停車する。朝6時台には当駅始発の設定がある。2002年(平成14年)3月22日までは夕方や夜に当駅止まりの列車が運行されていた。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを持つ地上駅である。古い木造駅舎は単式の1番のりば側にあり、島式の2・3番のりばへは古い跨線橋で連絡しています。

駅舎には簡易な形ながらも、車寄せがあります。


1番のりばが上り本線、3番のりばが下り本線となっており、通常の発着にはこの2線が使われる。
2番のりばは両方向共通の待避・折り返し線(中線)である。当駅始発の京都方面行き列車(野洲駅 → 当駅間は回送)に使われている。

2011年(平成23年)3月12日のダイヤ改正から朝の米原行き普通が新快速の通過待ちをするようになった。ダイヤが乱れた時には当駅で運転を取りやめることもあり、事故発生時は当駅以東で運転見合わせになる場合もある。駅には券売機が1台、みどりの窓口も設置されています。待合室に椅子やパンフが所狭しとありますが駅周辺にスーパーコンビニが無い分、キオスクが充実していました。


安土駅プラットホーム
ホーム  路線    方向   行先              備考
1    ■琵琶湖線  上り  米原・長浜・大垣方面  待避列車は2番のりば
2・3  ■琵琶湖線  下り  草津・京都・大阪方面  2番のりばは当駅始発のみ

当駅は有人駅である。利用客が少ないが折り返し運転の取り扱いを行うため、業務委託駅ではなくJR西日本の駅員が配置される直営駅である。

ただし駅長は配置されておらず、近江八幡駅(管理駅である彦根駅傘下の地区駅)の管理下に置かれている。
ICOCA利用可能駅であり、ICOCAの相互利用カードも利用可能。

駅裏には城郭資料館があります。

1914年(大正3年)4月25日 - 国有鉄道東海道本線の駅として開業。旅客・貨物双方を取り扱う一般駅であった。
1972年(昭和47年)3月15日 - 車扱貨物の取り扱いを廃止し、貨物営業を終了。同時に荷物の取り扱いも廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)が継承。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。

電報略号 アツ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 2,064人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1914年(大正3年)4月25日
備考 直営駅
みどりの窓口 有

 

 

守山駅 JR西日本 東海道本線

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守山駅は、滋賀県守山市梅田町にある守山市の代表駅です。京阪のベッドタウンとして人口が急増している地域です。西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)東海道本線の駅である。「琵琶湖線」の愛称区間に含まれている。日中時間帯は1時間あたり7本が停車する。朝時間帯は本数が多くなる。1945年(昭和20年)7月30日午後4時、アメリカの艦載機F4Fによる機銃掃射があり、太平洋戦争での県内最大被害を受けた

相対式ホーム2面2線を有する地上駅で橋上駅舎を持つ。上りホームには、ハートイン(コンビニ)の店内を通って出入りできる、自動改札機のみの改札口があります。みどりの窓口があり、きっぷ売り場には券売機が3台と指定席券売機が設置されています。
JR西日本直営駅(草津駅の被管理駅)。ICOCA利用可能駅であり、ICOCAの相互利用対象カードも使用可能。


守山駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■琵琶湖線 上り 米原・長浜・大垣方面
2 ■琵琶湖線 下り 草津・京都・大阪方面

以前は2面3線と1線(ホームのない上り待避線、上下線間にあるため中線と思われがちだが、実際には上り線)で、島式の下りホームを持っていた。2003年(平成15年)まで貨物列車が発着し、駅の東側と北側には側線が多数あった。貨物扱い廃止ののちに配線が整理され、一部保守用線路が残る以外の本線にあるポイントは撤去され、2006年(平成18年)7月には相対式2面2線の停留所となった。その上り待避線および3番線は、2007年(平成19年)1月頃に撤去され、現在は下り旧3番のりばに一部保守用車両留置の線路があるのみになっている。また2009年(平成21年)1月からは駅東側の側線群が撤去され、空き地のバラストを除去して舗装され、コイン駐車場に整備されている。同時に旧3番線への柵設置も行われた。

2003年(平成15年)まで専用線発着の車扱貨物を取り扱い、貨物列車の設定があった。専用線が駅南側にある上原成商事守山油槽所のタンク車用石油荷役設備へ続き石油輸送を行っていたため、コスモ石油四日市製油所のある四日市駅より石油輸送貨物列車が運行され、当駅でディーゼル機関車によって入れ替えを行った。
それ以前は、旭化成守山支社(滋賀工場)や富士車輌滋賀工場、その他現在駅南の団地群になっているところにかつて存在した煉瓦工場へも専用線が続いていた。また、1945年(昭和20年)以前には駅から野洲川河原への砂利運搬を目的としたトロッコ線路もあり、砂利の発送も行われた。

1912年(明治45年)4月16日 - 国有鉄道東海道本線の野洲駅 - 草津駅間に新設開業。客貨取扱を開始。
1973年(昭和48年)4月 - 駅舎改築(2代目)。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道・日本貨物鉄道の駅となる。
2003年(平成15年)
10月1日 - 貨物列車の設定廃止。
11月1日 - ICカードICOCA供用開始。

キロ程 487.0km(東京起点)
米原から41.1km
電報略号 モリ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 15,340人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1912年(明治45年)4月16日
備考 直営駅
みどりの窓口 有
* 貨物列車の発着はなく、休止状態。

8月24日(日)のつぶやき

近江八幡駅 JR西日本東海道本線/近江鉄道

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近江八幡駅は近江商人発祥の地であり湖東地区の中心都市でもある滋賀県近江八幡市鷹飼町にある駅です。西日本旅客鉄道(JR西日本)・近江鉄道の駅です。
JR西日本の東海道本線と、近江鉄道の八日市線が乗り入れており、八日市線は当駅が終点となっています。東海道本線は「琵琶湖線」の路線愛称設定区間に含まれており、IC乗車カード「ICOCA」の利用エリア内です。日中時間帯は1時間あたり4本が停車いたします。大阪駅から当駅への終電は23時13分発の快速か23時20分発新快速(野洲駅乗り換え)です。

当駅は、草津駅より北の琵琶湖線各駅の中では最も乗車人員が多い駅ですが、車両基地が野洲駅北方に存在することもあり、停車本数が少なく、終電も早い駅です。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを有する地上駅で、商家を模したデザインの橋上駅舎、昭和56(1981)年8月改築を有しています。駅前広場は整備され、バス路線も多数乗り入れています。単式ホームが1番のりば、島式ホームが2・3番のりば(3番のりばが近江鉄道の駅寄り)です。駅のきっぷ売り場には券売機が4台。オープンカウンター式のみどりの窓口と指定席券売機も設置されています

かつて東海道本線を走っていた「比叡」や「たかやま」などの急行列車停車駅であったが、現在は長距離優等列車は停車しない。アーバンネットワーク内相互発着の特急「びわこエクスプレス」と「はるか」が停車する。直営駅(彦根駅の被管理駅)です。

JR近江八幡駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先 備考
1 ■琵琶湖線 上り 米原・長浜・大垣方面
2・3 ■琵琶湖線 下り 草津・京都・大阪方面 3番のりばは待避用

ホームにはレール廃材を利用した長いホーム上屋があります。

下りは緩急接続が可能で、3番のりば(4番線)は普通列車の新快速や特急列車の待避に使用される。ホームのない上り待避線(2番線)は貨物列車や臨時列車の待避に使われている。国鉄時代は近江鉄道と線路がつながっており、武佐行き(東洋カーボン側線)などの車扱貨物の授受があった。

1889年(明治22年)7月1日 - 官設鉄道(現在の東海道本線)の八幡駅として開業(関ヶ原駅 - 馬場(現在の膳所駅)間の開通と同時)。客貨取扱を開始。
1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称制定。東海道線(1909年より東海道本線)の所属となる。
1913年(大正2年)12月29日 - 湖南鉄道線(現在の近江鉄道八日市線)の新八幡駅が開業。
1919年(大正8年)3月11日 - 近江八幡駅に改称。
1927年(昭和2年)5月15日 - 会社合併により湖南鉄道の駅は琵琶湖鉄道汽船の駅となる。
1929年(昭和4年)4月1日 - 路線譲渡により琵琶湖鉄道汽船の駅は八日市鉄道の駅となる。
1944年(昭和19年)3月1日 - 会社合併により八日市鉄道の駅は近江鉄道八日市線の駅となる。
1981年(昭和56年)8月 - 駅舎を改築(2代目)、橋上駅舎化。
1984年(昭和59年)2月1日 - 貨物取扱が廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により国鉄駅は西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2003年(平成15年)11月1日 - JR西日本でICカード「ICOCA」供用開始。

電報略号 マン
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 17,135人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1889年(明治22年)7月1日
備考 直営駅
みどりの窓口 有
* 1919年に八幡駅から改称。

 

 


8月25日(月)のつぶやき

国鉄C58形蒸気機関車

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国鉄C58形蒸気機関車(こくてつC58がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省(1943年11月1日から1945年5月19日までは運輸通信省、それ以降製造終了まで運輸省)が導入した蒸気機関車である。
ローカル線用の客貨兼用過熱式テンダー式蒸気機関車で、8620形の速度と9600形の牽引力を兼ね備えた共通の後継機として設計され、1938年(昭和13年)から1947年(昭和22年)にかけて、431両(国鉄向け427両(樺太庁鉄道向け14両含む)、天塩鉄道・三井芦別鉄道向け各2両)が製造された。愛称はシゴハチである。

国鉄のテンダー式蒸気機関車では唯一の2-6-2(1C1。プレーリー)型車軸配置を採用している。設計主任は細川泉一郎で、島秀雄は課長の立場で担当している。形態的には、煙室上部の煙突の前に装備された給水暖め装置など、D51形量産型に似ている。
国鉄の蒸気機関車としては、初めて密閉型の運転室が採用され、床部後方に延長して炭水車に接する部分に扉を設けている。一番動揺の激しい炭水車との接続部が床になったことで、機関助士の労働環境は大きく改善されたが、温暖な九州では扉を外して使用したものもあった。
太平洋戦争の戦況悪化により、戦前・戦中の製造は1943年(昭和18年)発注分で中止され、D51形などのような木製デフレクター(除煙板)やカマボコ型のドームを装備したいわゆる戦時型は製造されず、戦後は1946年(昭和21年)から製造が再開された。
戦後製造分(C58 383以降)は、ボイラー径の拡大(1,364mm → 1,396mm)、炭水車を6-17型(石炭6t・水17t)から10-20型(石炭10t・水20t)型に拡大、無台枠の船底型に変更、台車の変更(軸ばね形プレート式 → まくらばね形鋳鋼製)とするなどの設計変更が行われている。

本形式は、汽車製造と川崎車輛の2社で製造された。不評だったC50形の代機とされたことと、9600形が大量(251両)に供出されたこともあって、増備は急ピッチで進められた。鉄道省向けのほかに樺太庁鉄道向けや民鉄向けにも製造されている。
製造年次ごとの番号と両数は次の通りである。
1938年:C58 1 - 50, 78 - 103, 105(77両)
1939年:C58 51 - 77, 104, 106 - 198(121両)
1940年:C58 199 - 259(61両)
1941年:C58 260 - 309(50両)
1942年:C58 310 - 329(20両)
1943年:C58 330 - 351(22両)
1944年:C58 352 - 368(17両)
1946年:C58 383 - 407(25両)
1947年:C58 408 - 427(17両)
製造所別の番号と両数は次の通りである。
汽車製造(219両)
C58 1 - 10(製造番号1578 - 1587)
C58 78 - 196(製造番号1623 - 1642, 1648 - 1655, 1664 - 1671, 1694 - 1701, 1727, 1728, 1739 - 1760, 1772 - 1786, 1795 - 1809, 1820 - 1834, 1845 - 1850)
C58 275 - 289(製造番号2060 - 2074)
C58 310 - 329(製造番号2171, 2168, 2162 - 2167, 2169 - 2181)
C58 340 - 349(製造番号2332 - 2341)
C58 383 - 427(製造番号2519 - 2563)
川崎車輛(194両)
C58 11 - 77(製造番号1974 - 2003, 2022 - 2031, 2037 - 2041, 2062 - 2068, 2074 - 2088)
C58 197 - 274(製造番号2225 - 2234, 2245 - 2251, 2257 - 2262, 2277 - 2283, 2304 - 2310, 2316 - 2324, 2394 - 2410, 2480 - 2485, 2504 - 2512)
C58 290 - 309(製造番号2567 - 2576, 2594 - 2603)
C58 330 - 339(製造番号2781 - 2785, 2803 - 2807)
C58 350 - 368(製造番号2923 - 2932, 2938 - 2946)

戦前から各地のローカル線や都市部の入換用として使用された。特に千葉、和歌山、四国全域では主力であった。
陸軍から250両の拠出命令を受け、実際に第一陣として太平洋戦争中の1944年には、50両 (C58 37 - 46, 49 - 58, 64 - 73, 89 - 96, 130 - 141) が軍に供出されることになり、6月から11月にかけて省の工機部(工場)で1m軌間に改軌され、実際に25両 (C58 37, 38, 40, 42 - 45, 53 - 55, 67, 68, 73, 91, 93 - 96, 130, 131, 133, 134, 136, 138) が南方に送られた。使用地はマライといわれるが、定かではない。この時期には、日本軍は既に制海権を失っており、そのほとんどが輸送中に沈没したようである。戦後、タイ国有鉄道において、4両 (C58 52, 54, 130, 136) が761 - 764として使用されているのが確認されている。当地では、軸重が大きすぎ、構内入換用以外の使途がなかったようである。未発送となった25両は復元され国鉄に復帰した。
戦後の新造が落ち着いた1948年7月1日には、本形式は388両が在籍した。鉄道局別の配置は、札幌36両、仙台75両、東京60両、名古屋43両、大阪72両、広島51両、四国32両、門司19両であった。

8月26日(火)のつぶやき

篠原駅 JR西日本 東海道本線

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篠原駅は信号場として大正7年に開設後の大正10年に駅として開業いたしました。駅周辺は田園地帯である滋賀県近江八幡市上野町。西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の駅です。「琵琶湖線」の愛称区間に含まれている。

普通列車しか停車せず、日中時間帯は1時間あたり2本の便数です。当初は西方の野洲郡篠原村(現在の野洲市)よりに出来る予定だったが、その場所が勾配になっていたため現在位置に出来た。開業当初は信号所だが後に昇格して旅客駅となる。

相対式ホーム2面2線を持つ地上駅で、絶対信号機を持たない停留所である。平屋の木造モルタル駅舎は米原方面行ホーム側にあり、京都方面行ホームへは古い跨線橋で連絡しています。以前はホームがない中線が上下線に挟まれた形で存在していたが、国鉄末期に使用停止となり、その後撤去された(一部は保線車両の駐機場所として残っている)。これにより当駅は分類上では停留所となった。改札口には


LED式発車案内。ジェイアール西日本交通サービスによる業務委託駅であり、彦根駅の管理に置かれています。きっぷ売り場には券売機は2台。みどりの窓口もあります。西側にある駅舎に加え、東側にも駅舎を作る(橋上駅化)の計画が地元で上がっていて、具体化はしていなかったが、近い将来出来る予定になっています。キオスクの撤退跡は自動販売機コーナーへと模様替えされています。トイレは上りホーム側にあり、男女別の汲み取り式。
ICOCA利用可能駅。ICOCAの相互利用対象カードも使用可能。


篠原駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■琵琶湖線 上り 米原・長浜・大垣方面
2 ■琵琶湖線 下り 草津・京都・大阪方面

両ホームを結ぶ跨線橋も、木製(窓枠も木製)の古めかしいものままです。

1918年(大正7年)6月1日 - 篠原信号所開設。
1921年(大正10年)4月20日 - 篠原信号所を駅に格上げ、篠原駅開業。客貨取扱を開始。
1962年(昭和37年)2月1日 - 貨物取扱が廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。

電報略号 シノ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 2,212人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1921年(大正10年)4月20日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有

 

 

8月27日(水)のつぶやき

はるさめ (護衛艦・2代)海上自衛隊

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はるさめ DD-102は、海上自衛隊の護衛艦。むらさめ型護衛艦の2番艦。旧海軍春雨型駆逐艦「春雨」、白露型駆逐艦「春雨」、むらさめ型護衛艦 (初代)「はるさめ」に続き日本の艦艇としては4代目。

「はるさめ」は、中期防衛力整備計画に基づく平成4年度計画4,400トン型護衛艦2231号艦として、三井造船玉野事業所で1994年8月11日に起工し、1995年10月16日に進水、1997年3月24日に就役し、第1護衛隊群に新編された第1護衛隊に「むらさめ」とともに配属され、横須賀に配備された。
1998年と2000年に環太平洋合同演習 (RIMPAC) に参加した。
2002年11月25日にテロ対策特別措置法に基づき補給艦「ときわ」とともにインド洋に派遣され、任務を終え2003年5月20日に帰国した。
2008年3月26日、護衛隊改編により第2護衛隊群第6護衛隊に編入された。
2009年7月6日に第2次派遣海賊対処水上部隊として横須賀を出港し、「DD-154 あまぎり」と共に7月29日から護衛を開始した。この間には、攻撃を受けたパナマ船籍の船舶へのSH-60Kの発進や護衛活動中に本艦の近くに現れた不審船にLRADとSH-60Kによる対応を実施。7月28日から11月2日まで合計34回、248隻の船舶を護衛して、同年11月29日に帰港した。
2011年3月11日に発生した東日本大震災を受け、横須賀を出港、同年5月31日まで災害派遣を行った。
2012年1月21日に第11次派遣海賊対処行動水上部隊として「DD-101 むらさめ」と共にソマリア沖・アデン湾に向けて横須賀から出航し、合計188隻を護衛して帰国途上の同年6月16日には僚艦「むらさめ」インド西方海域にてインド海軍の哨戒艦「シャラダ」と高速戦闘艇「カルペニ」が参加する共同訓練を実施する、同年7月5日に横須賀に帰港した。
2013年3月7日、編成替えにより第2護衛隊群第2護衛隊に編入され、定係港も佐世保に移った。

むらさめ型護衛艦は、海上自衛隊が使用する汎用護衛艦。はつゆき型(52〜57DD)の老朽化に伴い、1991年度予算で初めて導入された。
なお、次型のたかなみ型(10〜13DD)は本型の発展強化型である。本級とたかなみ型は、質・量双方の面において現在の海上自衛隊汎用護衛艦の主力となっている。

本型は、海上自衛隊の第3世代汎用護衛艦である。船体はステルス性を考慮して設計されており、また新型装備に対応して大型化しているため、機関も強化されている。レーダーやソナー、コンピューター、さらにミサイル兵器も全面的に刷新された。
本型の前に建造されたあさぎり型(58〜61DD)は、あらゆる面で、汎用護衛艦の初代であるはつゆき型の改良型に過ぎなかった。このため、いくつかの点で、設計面の不備が指摘されていたほか、これ以上の装備の進歩には追随しきれないことは明らかであった。このことから、まったく新しい設計に基づく、新世代の汎用護衛艦として建造されたのが本型である。
本型は、兵装面ではあさぎり型を基本的に踏襲しているが、ミサイル兵装は全面的に垂直発射化されており、即応性と抗堪性が向上している。また、電子装備も強化されており、対空レーダーとしては、あさぎり型の後期建造型より採用されたOPS-24 3次元レーダーが使用されているのをはじめとして、戦闘システムも全面的に刷新されており、特に対潜戦闘システムについては、新鋭艦のこんごう型(63/2/3/5DDG)と比較しても遜色ない。短SAMシステムの機能向上も始まっている。

船体はこれまでの汎用護衛艦としてはかなり大きく基準排水量は約4,550トン(平成10年度以降に基準排水量の公表値が4,400トンから4,550トンに変更された)で、むらさめ型の前に建造されていたあさぎり型に比べると基準排水量で約1,000トン上回り、海上自衛隊が保有するミサイル護衛艦(DDG)であるはたかぜ型(56/58DDG)とほぼ同サイズである。
各種兵装などの内容はある程度の改良があるものの基本的にはあさぎり型と変わっていないため、あさぎり型に比べると艦内は余裕のあるつくりとなっている。さらに省力化により乗員はあさぎり型より55人少ない165人となっているため、ベッドはこれまで3段だったのが2段に、部屋は12人程度で一部屋程度と細かく分けられるなど、居住性が向上している。

むらさめ型はガスタービンエンジン4基を装備し、このうち巡航時には2基を使用、高速航行時にはそれに加え残りの2基を使用するCOGAG方式を採っている。
装備するガスタービンエンジンは巡航用がロールス・ロイス社製のSM1C(1基あたり13,500馬力)、高速用がゼネラル・エレクトリック社製のLM2500(1基あたり16,500馬力)となっているが、このようにメーカーの異なるガスタービンエンジンを採用することは世界的にも珍しい[1]。
機関配置は、あさぎり型で採用されたシフト配置を踏襲しており、前後に2つの機械室が設けられている。前方の第1機械室には1号ガスタービン(LM2500)と2号ガスタービン(SM1C)が設置されており、減速機を介して左推進軸を駆動する。同様に、後方の第2機械室には3号ガスタービン(LM2500)と4号ガスタービン(SM1C)が設置されて、右推進軸を駆動する。また省力化のため、機械室の無人化(Mゼロ化)が行なわれている。

むらさめ型は海自のDDとして初めてステルスを考慮した艦となっている。具体的には艦橋側面に傾斜をかけてあるほか、全体的に平面的な構造をしている。しかしレーダーなどを装備するマストは強度面での不安があったため、アメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦のような傾斜角柱、角錐型マストは採用していない。
本型が採用しているのは、同時期に建造された諸外国の艦とは異なり、従来までと同じ骨組みが剥き出しのラティスマストである。ただし、マストには電波吸収材が装着されている他、その形態自体についても工夫が凝らされており、実際にはレーダー反射断面積(Radar cross section, RCS)はかなり低いとも言われる。あさぎり型、はつゆき型では、飛行甲板は艦の中央部、01甲板に配置されていたが、本型では上甲板レベルとなり、係留装置などとの干渉をさけるため、艦尾甲板の舷側部はなだらかに傾斜しており、これを初代むらさめ型(32/33DD)を始めとする初期の海上自衛隊護衛艦の設計上の特徴であったオランダ坂に喩えて、ミニ・オランダ坂とも称する。

従来の汎用護衛艦がESM装置としてNOLRシリーズ、ECM装置としてOLTシリーズを別々に有するのに対して、本型は、統合電子戦システムとしてNOLQ-3を搭載する。これは、ESM用にOPN-7B(VHF/DF帯用)とOPN-11(HF/VHF用)、ECM用にOLT-5を統合しており、アメリカ海軍のSLQ-32(V)2にほぼ匹敵するもので、極めて優れた性能を有する。
また、対ミサイルのソフト・キル用として、ミサイル警報装置、Mk.137 チャフ発射機および曳航式デコイを備えており、これらはNOLQ-3と連動している。

 

艦歴
発注 1992年
起工 1994年8月11日
進水 1995年10月16日
就役 1997年3月24日
建造  三井造船 玉野事業所

排水量 基準 4,550トン
満載 6,100トン
全長 151m
全幅 17.4m
吃水 5.2m
機関 IHILM2500ガスタービン 2基
川崎スペイSM1C 2基
2軸推進、60,000PS
最大速 30ノット
乗員 165名
兵装 76mm62口径単装速射砲 1門
Mk15ファランクスCIWS 2基
90式艦対艦誘導弾 (SSM-1B)4連装発射筒 2基
Mk41 VLS 16セル
Mk48 VLS 16セル
68式3連装短魚雷発射管 2基
電子装置 OPS-24B対空レーダー
OPS-28D水上レーダー
OPS-20航海レーダー
81式射撃指揮装置2型-31  2基
OQS-5ソナー
OQR-2曳航ソナー
NOLQ-3 ECM
OLT-3 ECM
Mk137チャフ発射機 4基
SLQ-25曳航パッシブアレー
搭載機 SH-60J / K哨戒ヘリコプター 1/2機

8月28日(木)のつぶやき


伊予北条駅 / JR四国 予讃線

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伊予北条駅は愛媛県松山市北条辻、古い商店や民家が並ぶ市街地の中にある、四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅です。高校も駅至近にあり1日平均の乗車人員は愛媛県のJR駅で4番目に多く、JR四国全体では13位です。


駅名標のコメントは「野生シカの生息する鹿島の駅」。駅裏にスーパーやホームセンターがあります。
特急「しおかぜ」「いしづち」が昼間を除き停車する。2005年1月1日に松山市と合併するまでは、北条市の代表駅でした。

ここから伊予市駅までは、予讃線の中でも比較的早く電化している。松山市駅までは伊予鉄バスと、伊予市駅までは伊予鉄道郡中港線と競合するため、始発列車が多く、日中の普通電車は日中平均30分ヘッドとなる。区間列車も多い。

単式・島式の複合型2面3線の地上駅。入口部分に三角屋根を組み合わせた木造駅舎です。きっぷ売り場には券売機は2台、みどりの窓口も営業しています。待合室には長椅子、系列のコンビニが営業しています。
1番線は一線スルーの上下本線(制限速度100km/h)、2・3番線は上下副本線。

のりば
1 ■予讃線 今治・伊予西条・観音寺・多度津・丸亀・高松・岡山方面(特急を含む)
  松山・伊予市・八幡浜・宇和島方面(特急を含む)

2 ■予讃線 今治・伊予西条・観音寺・多度津方面 (ミッドナイトEXP松山のみ)
  松山・伊予市・八幡浜・宇和島方面(一部特急を含む)


3 ■予讃線 今治・伊予西条・観音寺・多度津方面
  松山・伊予市方面
2・3番、島式ホームには大きめの待合室が設置されています。


1926年(大正15年)3月28日 - 開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR四国の駅となる。

電報略号 イホ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線


乗車人員
-統計年度- 1,414人/日(降車客含まず)
-2009年-
開業年月日 1926年(大正15年)3月28日
備考 みどりの窓口 有

 

8月29日(金)のつぶやき

犬山遊園駅 名鉄犬山線

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犬山遊園駅(いぬやまゆうえんえき)は、愛知県犬山市犬山字瑞泉寺にある、名鉄犬山線の駅である。日本モンキーパーク、成田山名古屋別院大聖寺への玄関駅で全ての列車が停車する。

当駅は木曽川の犬山市側の河岸にある。明治末期 - 昭和初期から観光スポットとして注目を浴びた。そのため、民宿や旅館などがいくつかある。
全列車の停車駅であるが、犬山線の駅では犬山口駅の次に利用者が少ない。ただし、名古屋方面から岐阜方面へ乗り継ぐ場合、犬山駅や新鵜沼駅では階段の上り下りが必要な場合が多いのに対して、当駅であれば同一ホームでの乗り継ぎが可能であるため、改札を通らずに当駅を乗換駅として利用する乗客が一定数いる。

相対式2面2線の地上駅である。駅西口、洋風の小洒落た駅舎です。駅員は東口駅舎にいる。駅員は配置され営業時間は7:00 - 18:00。上下ホーム間は地下道でつながっている。ホームの北半分は半径290mのカーブ上に位置する。通常使用されることはないが、犬山橋が不通となった時に備えて1番線から犬山駅方に折り返し可能な渡り線が設置されていて、昭和40年代(1960年代 - 1970年代)には当時国道41号線としても利用されていた犬山橋を通行しない形での、当駅止まりの特急が運行されていた。また、2000年代前半までは行楽シーズンや日本ライン夏まつり納涼花火大会、大晦日の臨時列車で当駅発着となり、当駅最寄りの成田山と地下鉄鶴舞線経由の大須観音とを結ぶ電車もあった。現在は花火大会の臨時列車に限り北隣の新鵜沼駅発着で運行されている。

のりば
ホーム 路線 方向 行先
1 ■犬山線 下り 新鵜沼・各務原線直通三柿野・新那加・名鉄岐阜方面
2 ■犬山線 上り 犬山駅・名鉄名古屋・豊橋・中部国際空港・河和・新可児方面
かつて存在していたモンキーパークモノレール線(動物園方面)にはのりば番号が明記されていなかった。また、駅名標も設置されていなかった。
1番線の新鵜沼(犬山橋)方に設置されている信号機は当駅の出発信号機ではなく、新鵜沼駅の第1場内信号機と表示されている。また、2番線のほぼ同じ箇所(ホーム手前)にある信号機も、場内信号機ではなく閉塞信号機である。

1926年(大正15年)5月2日 - 犬山橋駅として開業。
1944年(昭和19年) - 休止となる。
1947年(昭和22年)4月5日 - 営業再開。
1949年(昭和24年)12月1日 - 犬山遊園駅に改称。
1962年(昭和37年)3月21日 - モンキーパークモノレール線(当初はラインパークモノレール線)が開業し、乗換駅となる。
1999年(平成11年)12月4日 - これまで通過していた特急「北アルプス」(現在廃止)が停車するようになる。
2008年(平成20年)12月28日 - モンキーパークモノレール線が廃止され、乗換駅でなくなる。
2011年(平成23年)2月11日 - ICカード乗車券「manaca」供用開始。
2012年(平成24年)2月29日 - トランパス供用終了。

駅構造 地上駅
ホーム 相対式 2面2線
乗車人員
-統計年度- 706人/日(降車客含まず)
-2009年-
開業年月日 1926年(大正15年)5月25日
備考 * 1949年に犬山橋駅から改称。
特殊勤務駅(駅集中管理システム導入駅)

 

伊予出石駅 JR四国 予讃線

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伊予出石駅(いよいずしえき)は、愛媛県大洲市長浜町上老松にある四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅。平成17(2005)年1月に合併により所在地が喜多郡長浜町から大洲市になりました。

駅の近くでは肱川に大和川が合流している。このあたりでは肱川やこの大和川に沿って小さな集落が点在しています。


駅から南側に進むとすぐに肱川に突き当たるが、ここから対岸に大和橋が伸びています。大和橋を渡って大和川をさかのぼると200メートルほどで郷の集落があり、ここに小学校や簡易郵便局がある。駅から南東に5キロメートルほど行った大洲市・八幡浜市・旧長浜町三者の境の出石山には養老年間の開基という金山出石寺がありこの駅は出石山への登山口であるため伊予出石駅という名前になりました。

単式ホーム1面1線をもつ地上駅です。旧来からの駅舎はすでに撤去され、ホーム上に簡便な待合所が設置されているのみです。

旧駅舎にあった改札の柵のみ長く残ったままでしたが周辺整備で撤去されました。ホームの長浜方には、かつて使われていた切欠ホームが残っています。完全な無人駅で自動券売機などの設置は無く、乗車券を購入することは出来ません。ホーム幅は白線の内側には下がるのは難しいほど狭い。

電報略号 イス
駅構造 地上駅
ホーム 単式1面1線
開業年月日 1918年(大正7年)2月14日
備考 無人駅

 

 

8月31日(日)のつぶやき

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