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Channel: 観光列車から! 日々利用の乗り物まで
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手結可動橋

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 手結港の入り口には、平成14年9月に手結港可動橋(正式には高知県手結港臨港道路可動橋)が完成しました。

 可動橋は長さ約32mで、開閉時間は約6分かかります。警報機がなり始めると遮断機が下り、その橋はゆっくり上がり始めます。
1日のうち約7時間だけ渡ることができます。橋の上を通行できるのはは早朝から夕方までの間、1時間〜1時間30分間橋は下がっています。夜の間は橋は立ち上がりっぱなしで通ることができません。うっかり通行できない時間帯にここへ来てしまうと迂回することになります。
可動橋の通行可能時間
● 6:30〜 8:00
● 9:00〜10:00
●11:00〜12:00
●13:00〜14:30
●15:00〜16:00
●17:00〜18:00
※予告なく変更することがあります。

 

可動橋は、一部または全体が移動することのできる橋の事です。架橋により水上交通が妨げられる場合、橋を移動することで船舶の交通を可能にする。かつては橋を渡る側が馬車など非力な物や、架橋技術の低さから橋桁を高い位置に設計することができず利用された方式である。
城門に付属する跳ね橋や、フェリーなどへの積載の際に用いる可動の桟橋も、広義には可動橋に含まれるが、通常は橋桁が動くことにより航路を確保している橋のことをいう。特に、海抜が低く水運の盛んなオランダには、多くの可動橋が存在し、動作回数も多い。
航路を確保する場合に道路側の交通が遮断されることや、可動部の保守に手間がかかること、架橋技術の進歩で桁下の空間が大きくとれるようになったことなどから新規の架橋は少ない。

跳開橋は橋桁が跳ね上がる橋(跳ね橋)。城郭の堀などに備えられているものなど古くからの典型的な可動橋のひとつであるが、当初は防御のために陸路を遮断するためのものであり、水運を確保することは主目的ではなかった。日本でも、堀をめぐらした都市・市街地などで防犯目的の跳ね橋を備えているところがあった。
近代的な水運確保目的の可動橋には、片開きのものと両開きのものと両方がある。東京都中央区隅田川の勝鬨橋、ロンドンのタワーブリッジが有名。また三重県四日市市千歳運河の末広橋梁は重要文化財に指定されている。


9月2日(火)のつぶやき

F-86D 航空自衛隊

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F-86はアメリカ合衆国のノースアメリカン社が開発したジェット戦闘機。愛称はセイバー(Sabre)である。

1947年10月に初飛行した後に生産国のアメリカ空軍をはじめ、1950年代以降に多くの西側諸国で正式採用された亜音速ジェット戦闘機である。第1世代ジェット戦闘機に分類される。
武装は当初機関砲のみであったが、後にミサイル(サイドワインダー)が開発されるとその有効性を実証し(ミサイル万能論)、派生型も含めて9,860機が製造された。アメリカ空軍が1950年代初頭より主力戦闘機として最も重きを置いて配備を急いだ傑作機であったが、朝鮮戦争後にその戦訓を取り入れたセンチュリーシリーズを始めとする新鋭機が短期間で開発されると、急速に陳腐化していった。だが、結果としてアメリカ国内で余剰となったF-86は日本やイタリア、フランスをはじめとする同盟国や友好国に、大量に供与されることになる。
1960年代に超音速戦闘機が多くの国で使われるようになった後も多くの国で使用され、1970年代には第三次印パ戦争に実戦参加した。その後も偵察機や練習機として多くの国で使用され、1993年2月にボリビア空軍機の退役により、全機が退役した。現在では個人所有機が民間機として使用されている。


日本においては、航空自衛隊の主力戦闘機としてF-86Fを435機、全天候型戦闘機としてF-86Dを122機配備した。航空自衛隊が運用したF-86Fは、主翼前縁に自動スラットを装備し、両翼端を12インチ延長した6-3ウイングと呼ばれる主翼を持つF-86F-40が主力だった。F-86Fのうち18機は偵察機RF-86Fに改造された。自衛隊での正式な愛称は旭光(きょっこう)。
ブルーインパルスの初代機体でもあり、東京オリンピックにて大空に五輪旗を描いたことでも有名で、長く活躍したことから「ハチロク」と呼ばれて親しまれた。

日本が初めて得た全天候戦闘機型のF-86Dは1958年(昭和33年)から供与が始まり、1958年8月1日に第101飛行隊を編成後、1962年までに第102、第103、第105飛行隊の計4個飛行隊が編成、計122機(内24機は部品取用)が配備された。配備された122機のほとんどが、F-102への機材変更で不要になった在日米軍の中古機体を供与されたものであった。
電子機器に使用された真空管は湿度の高い日本で故障を繰り返し、航空自衛隊へのF-104配備や部品の枯渇による稼働率低下もあって、F-86Dを配備していた部隊は徐々に姿を消していった。最後まで残った第101飛行隊も1967年(昭和42年)1月に解散し、F-86Dの運用は10年にも満たない短い期間に留まることとなった。ただ、本機の運用実績から、全天候戦闘機運用のノウハウを得る事ができたため、航空自衛隊にとっては極めて意義が高かったと言える。

1962年(昭和37年)から後継の主力戦闘機F-104Jが配備後は、F-86F飛行隊の解散が始まり、支援戦闘機として、要撃戦闘機としてのF-104Jの補完と、能力不足ながらロケット弾や爆弾を用いた対艦攻撃の任務についた。しかし、国産のF-1の配備が始まり、1977年(昭和52年)10月1日に第3飛行隊が、1980年(昭和55年)2月29日に第8飛行隊が、11月13日に第6飛行隊がF-1に機種転換をしたことにより、実戦部隊からは退いた。旧F-86F部隊のうち、支援戦闘機部隊となった第3・第6・第8飛行隊以外はすべて解隊された。
最後までF-86Fを運用していた入間基地の総隊司令部飛行隊では、1982年(昭和57年)3月15日に引退セレモニーを実施し、全機退役した。

 

岡山駅プラットホーム

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山陽新幹線が島式2面4線の3階の高架ホーム、在来線が4面10線の地平ホームを持つ。なお、2004年(平成16年)から行われた構内改修により西口側にあった津山線・吉備線の16・17番のりばは西口広場拡張のため撤去されるなど、ホームの形状とのりばが大幅に変更されています。


駅舎は新幹線口が表口になっている数少ない駅のひとつ。2006年(平成18年)10月に橋上化され、新幹線連絡も含め主だった機能は2階に設置されている。また、東西連絡道路ができたことにより西口駅舎が廃止、改札口も一部を除き2階と地下に集約されました。かつてあった高架下の長いコンコースも多くが商業施設になっています。
駅長が配置された直営駅であり、管理駅として山陽本線の西川原駅・北長瀬駅・庭瀬駅、吉備線の備前三門駅 - 備中高松駅間各駅、津山線の福渡駅 - 法界院駅間各駅を管轄しています。
以前は北長瀬駅・庭瀬駅は倉敷駅・中庄駅(地区駅)管理、吉備線各駅は備中鉄道部(廃止後は新見駅〔管理駅〕・総社駅〔地区駅〕)管理だったが、行政区域と原則一致させる方針から変更されました。

新幹線
東海道・山陽新幹線で運行される東海旅客鉄道(JR東海)所有の300系J編成と700系C編成は山陽新幹線での定期運用が当駅始発・終着の「ひかり」に限られるため、原則的に当駅以西に入ることはない(臨時列車でのみ入る)。逆に100系P編成は新大阪駅への乗り入れができないため、当駅以東には入りません。

岡山駅新幹線プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
21・22 山陽新幹線 下り 広島・鹿児島中央方面
23・24 山陽新幹線 上り 新大阪・東京方面
東京発当駅止まりの「ひかり」は21番のりばに到着する。また、当駅始発東京行きの「ひかり」は24番のりばから発車します。
広島・博多方面へ(から)の当駅発着の「こだま」は、駅の西側に博多総合車両所岡山支所がある関係上、岡山支所から駅に逆線入線もしくは駅から岡山支所に向けて逆線発車します。
以前は新幹線が1〜4番線を利用して、在来線は5番線から数字が割り振られていた。また、0番線が存在していた時期もある。

在来線
当駅をまたがって運転する普通列車はすべて当駅で列車番号が変わります。 
岡山駅在来線プラットホーム
ホーム 路線(方向) 行先 備考
1・2 ■山陽本線(下り) 倉敷・福山・広島方面 快速「サンライナー」含む
■伯備線 倉敷・備中高梁・新見・米子方面 特急「やくも」含む、寝台特急は8番のりば
3・4 ■山陽本線(上り) 和気・姫路・鳥取方面 特急「スーパーいなば」含む


■赤穂線 西大寺・播州赤穂方面
5 ■瀬戸大橋線・宇野線 茶屋町・児島・四国・宇野方面 一部の快速・普通のみ
6・8 ■瀬戸大橋線・宇野線 茶屋町・児島・四国・宇野方面 主に四国方面の特急・快速列車
7 ■瀬戸大橋線・宇野線 茶屋町・児島・四国・宇野方面 普通列車と一部臨時快速列車のみ


9 ■津山線 福渡・津山方面
10 ■吉備線 備中高松・総社方面
以前はホームで直接折り返していたが、現在は引き上げる形です。


営業列車での設定はないが、3番のりばからは倉敷方面・津山方面への発車も可能。5・8番のりばからは山陽本線両方向への発車も可能で、岡山駅改修工事中は実際に5番のりばから山陽本線・赤穂線の定期営業列車が発車していた(8番のりばは津山方面への発車も可能)。9・10番のりばは津山方面・総社方面の両方向の発着に対応しています。
寝台特急「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」は、上り(東京方面)は4番のりば、下り(高松方面・出雲市方面)は8番のりばに停車し、分割・併合を行う。
当駅では茶屋町方面への列車のうち、児島方面発着列車を「瀬戸大橋線」、宇野発着列車を「宇野線」と案内している。
山陽本線の貨物列車は、下りは1番のりば、上りは4番のりばを通過します。また瀬戸大橋線直通の貨物列車は、上り下り共に8番のりばに数分停車し、運転時刻調整および乗務員交代を行う。
1 - 4番のりばの発車標では、普通列車の場合、種別部分には「普通」表記の代わりに「山陽線」「赤穂線」「伯備線」というように線区を表記し、誤乗防止を図っています。
各のりばの案内板には、路線名と方面に合わせて、それぞれののりばに入線する列車の名前を表示している。特急は赤色、快速は橙色で分けてある。
1・2番のりば:サンライナー、やくも(実際は2番のりばのみ使用)
3・4番のりば:スーパーいなば


5 - 8番のりば:しおかぜ、南風、うずしお、マリンライナー
かつては寝台特急サンライズゆめ、夜行快速ムーンライト九州・ムーンライト松山・ムーンライト高知・ムーンライト山陽が停車していた。
2009年(平成21年)以前は当駅始発で速達運転を行うデータイム快速「シティライナー」が設定されていたが、2010年(平成22年)3月13日ダイヤ改正により消滅し、当駅発着列車も本数を削減され糸崎駅発着が中心となった(快速列車の発着についても早朝、福山駅から発車する「通勤ライナー」に役割を譲った)。

入線メロディ
入線メロディは在来線ホームのみ存在する。また入線メロディが流れ終わった後、JR西日本の標準メロディが列車が停車するまで流れ続けます。
ホーム 路線 入線メロディ
1 山陽本線(下り)・伯備線 いい日旅立ち+JR西日本標準メロディ
2 山陽本線(下り)・伯備線 汽車+JR西日本標準メロディ
3・4 山陽本線(上り)・赤穂線 線路は続くよどこまでも+JR西日本標準メロディ
5-8 瀬戸大橋線・宇野線 瀬戸の花嫁+JR西日本標準メロディ


9・10 津山線・吉備線 桃太郎+JR西日本標準メロディ
9・10番のりば(旧:14・15番のりば)は、2006年(平成18年)7月の改番時以前まで「線路は続くよどこまでも」が使われており、2番のりば(当時:7番のりば。切り欠きの旧6番のりば含む)で「いい日旅立ち」、現在の3・4番のりば(当時:8・10番のりば。切り欠きの旧9番のりば含む)で「汽車」が使われていた。

 

9月3日(水)のつぶやき

9月4日(木)のつぶやき

栗東駅 JR西日本)東海道本線

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栗東駅は、滋賀県栗東市綣(へそ)二丁目にある新生栗東市の代表駅です。ただし市役所は草津線の手原駅が最寄駅になります。西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の駅である。「琵琶湖線」の愛称区間に含まれている。日中時間帯は1時間あたり4本が停車する。

1991年の開業時は他の駅と比べて著しく少なかったが、大型マンションの建設や住宅開発が相次ぎ、乗客数は雪だるま式に増加した。

また、駅周辺には工場が多くあるため、工場の従業員も多く利用する。駅の東側は区画整理されており、マンションや商業施設が建っている。

相対式ホーム2面2線を持つ地上駅でミラーグラスが特徴の橋上駅舎を有する。改札口は1ヶ所のみである。分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類される。駅前広場は広くスマートに整備されています。


ジェイアール西日本交通サービスによる業務委託駅であり、草津駅が当駅を管理している。ICOCA利用可能駅であり、ICOCAの相互利用対象カードも使用可能。きっぷ売り場には券売機が2台と継続定期券の発売機が設置されています。自由通路は天井が高く、ゴージャスな雰囲気です。特に大きく傾斜した屋根を持つため、窓口付近はかなり天井が高くなっています。キオスクも営業しています。この自由通路は裏手にある小学校の通学路にもなっています。


栗東駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■琵琶湖線 上り 米原・長浜・大垣方面
2 ■琵琶湖線 下り 草津・京都・大阪方面
ホームは上屋が完備されています。

1991年(平成3年)3月16日 - 東海道本線(琵琶湖線)守山駅 - 草津駅間に新設開業。
1992年(平成4年)11月 - みどりの窓口営業開始。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。

電報略号 リト
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 12,259人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1991年(平成3年)3月16日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有

 

「広島市民球場」MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島

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MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島は、広島県広島市南区南蟹屋にある野球場である。日本プロ野球・セントラル・リーグの広島東洋カープが本拠地球場(専用球場)として使用しています。正式名称は「広島市民球場」

老朽化した初代の広島市民球場(2009年4月から2010年8月末までは「旧広島市民球場」、広島市中区基町)に代わる施設として、広島市が主体となって建設し2009年春に竣工。施設は広島市が所有しており、株式会社広島東洋カープが指定管理者として運営管理を行っています。
正式名称は初代のものを引き継いだ「広島市民球場」であるが、2009年4月から5年間の契約でマツダが愛称に対する施設命名権を取得しており、「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島」(略称「マツダスタジアム」)と主に呼称されています。命名権契約は、2013年8月に、5年間の契約延長と愛称の継続が決定しています。なお初代が本利用されていた2009年3月31日までは、広島市条例などにおける暫定的な名称を「新広島市民球場」としてました。

フィールドの数値では左翼側が広いが、左翼ポール付近の外野フェンスは日本では珍しい直線となっているため、ポール際を除いて左翼側より膨らみがある右翼側のほうがホームベースからの距離が長い。
外野フェンスについては、広島球団の緒方孝市をはじめとする選手達からの要望を取り入れた結果、全体の高さに大きな変化はないものの、クッション部分の高さを従来の1m35cmから1m80cmに高めたほか、クッション自体も高性能な衝撃吸収能力を持つ製品(厚さ125 mm)が採用されている。2010年に広島の赤松真人と天谷宗一郎が相次いで成功させた、ホームラン性の打球を外野フェンスによじ登ってキャッチしたプレーは、このクッションの厚みと硬度のおかげとも言われています。


内野1階席・内野2階席、全ての座席でカップホルダーを備える。
左翼側フェンスは、ホームランとして判定するラインをスタンドの2層目(3.6 m)、もしくは3層目(7.5 m)にするかで検討された結果、2層目とすることで決着した。1層目の砂かぶり席、ライト側にあるのぞき穴チューブ席の前面にはグラウンドと仕切るための金網が設置されています。
公認野球規則を満たす国内の球場の多くが、フィールド面積13,000〜14,000 m²となるのに対し、新市民球場はプレーの臨場感や迫力を重視し、ファウルグラウンド部分を可能な限り縮小したため、改装後の宮城球場(同:12,800 m²)とほぼ同じく、従来よりやや小さなフィールド面積となる。プロ野球の本拠地の中では西武ドーム(同:12,631.29 m²)に次いで2番目にフィールド面積が小さい。
内野土には従来の黒土と砂からなる混合土に、天然芝との色彩の調和を考慮し、アンツーカーをブレンドしたものを使用しています。外野土にはアンツーカーを使用。『報道ステーション』での栗山英樹(現・北海道日本ハムファイターズ監督)のコメントによれば、内野が天然芝のためゴロが転がりにくく、イレギュラーバウンドが多く、ダブルプレーが取りにくいという。
メジャーリーグの多くのスタジアムと同様にホームベースは南西方向にある。そのためデーゲーム時において、外野手は飛球を追う際に太陽光に対する注意が必要とされる。
内外野スタンドにある全ての観客席が旧市民球場のものからサイズアップしており、かつカップホルダーを備える。

常設グッズショップの開設:本球場の建物内には、試合の有無に関わらず開店するグッズショップが設けられている。旧市民球場では試合開催日に球場外・正面玄関付近でグッズのワゴンセールを行っていたが、付近は混雑するためお客は身動きが取れず、商品をじっくりと手にとって選べるとは言い難い状況だった。また試合開催日以外では、一塁側内野スタンド裏側に設置された商品販売部での購入も可能であったが、スペースの都合上、入口が分かりにくい場所にある上、売り場面積も充分ではなかった。グッズ・チケット販売や球団の歴史資料を展示する常設施設としては、広島市内に球団所有の施設である「カルピオ」もあるが、場所が球場から離れている上、日曜日・休日は試合開催日以外は閉店していた。


これらの反省点を踏まえて本球場の正面ロビー付近に設置されたグッズショップは、2階建てで売り場の総面積424 m²(1階:276 m²、2階:148 m²)、内装はレンガ造りで、壁には巨大なグローブやボールが飾られるなど遊び心あふれる造りになっており、広島球団が取り扱うグッズは全種類が用意されている。 グッズショップは球場のこけら落としなる2009年地元開幕の対中日戦(4月10日)よりも1週間早い4月3日にオープンしたが、試合開催日以外にも多くのファンが訪れるようになり、2009年(開場初年度)の広島球団のグッズ販売高は、広島市民球場(初代)ファイナルイヤーで盛り上がった2008年(9億8700万円)を10億円余り上回る20億円に達した。
こうして球場正面に設置されたグッズショップだったが、試合開催日はカープファンが多く集うライトスタンドからはやや距離があるため、彼らが足を運びにくいという難点があった。そのため2013年3月、ライトスタンド傍にオープンしたルネサンス棟を利用し、新たなグッズショップが増設されており、こちらは試合開催日のみオープンすることになっています。

交通機関

JR・広島電鉄:広島駅南口から、JR山陽本線の線路敷地に沿って徒歩約10分
JR山陽本線の天神川駅からも徒歩連絡が可能(約20分)であり、2009年夏までに球場までの歩道改修工事が行われるが、一般には広島駅からのアクセスがメインとなる。広島電鉄本線の的場町電停・猿猴橋町電停、広島電鉄皆実線の段原一丁目電停からも10分程度で徒歩連絡が可能であるが、試合終了後の帰路は始発駅となる広島駅電停から多数の乗車が予想されるため、当駅での乗車は難しい可能性がある。広島駅から路線バスに乗り換えることも可能です。

路線バス:広電バス・広島バス・芸陽バス「マツダスタジアム前」バス停から徒歩3分(2009年3月28日をもって、広島電鉄と芸陽バスの「大州一丁目」バス停と広島バスの「南蟹屋」バス停が球場前に移転統合し、名称変更されました)

シャトルバス:試合終了後から、広島電鉄が球場西側の「広島市西蟹屋プロムナード」隣を発着場に、シャトルバスを30分間随時運行する。ただし、試合時間が4時間を超える場合は開始4時間後から運行開始。段原蟹屋線から平和大通りを経由、新天地・八丁堀・本通りの3ヶ所に停車(球場から本通りまで約20分)


十川駅 JR四国 予土線

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十川駅(とおかわえき)は、昭和49年に開業。高知県高岡郡四万十町十川にある四国旅客鉄道(JR四国)予土線の駅。

漢字が同じ駅が青森県の津軽鉄道線にありますが読み方は「とがわ」です。

旧十和村の中心に位置し、駅周辺には人家が密集しています。駅ナンバリングはG32。
夏場は観光客の利用者もあるが、町内の北琴平町・大正にある高校に通う学生が主な利用者です。

島式ホーム1面2線の地上駅。山の斜面に設けられた駅で駅舎はなく、地下道の入口上に看板が掲げられています。入口横には観光案内所が設置され中は待合所の様になっていますが閉鎖中。

駅下には自転車置き場がありホーム地下道の左横にはトイレがあります。ホームは四万十川北岸の高台にあり、入口から階段を上るとホーム若井駅寄りに至る。無人駅となっています。

のりば
ホーム 路線 方向 行先
入口側 ■予土線 下り 江川崎・宇和島方面
反対側 ■予土線 上り 窪川方面
交換可能駅。

ホームには上屋あり長椅子が山側に設置されています。


1974年(昭和49年)3月1日 - 日本国有鉄道の駅として開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により四国旅客鉄道に承継。

電報略号 トカ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
開業年月日 1974年(昭和49年)3月1日
備考 無人駅

 

自衛隊車両 クイックデリバリー「100」(1t積)

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1.25t系(1985年-2000年) 

1985年(昭和60年)12月 フルモデルチェンジ。スタイルは初代のイメージを残している。
1987年(昭和62年)10月 4WD車を追加。
1991年(平成3年) マイナーチェンジ。サイドパネルの凸凹が省略され、外観がスマートになった。
1995年(平成7年) マイナーチェンジ。搭載エンジンを2.4リッターの「2L型」から2.8リッターの「3L型」に変更し、平成6年排出ガス規制適合。
2000年(平成12年) 生産終了。

クイックデリバリー(Quick Delivery )は1982年(2t級は1986年)から2011年までに生産された、トヨタ自動車のウォークスルータイプ配送車(デリバリーバン)です。

もともとは、ヤマト運輸(現・ヤマトホールディングス)の「車内での作業時でも腰をかがめる必要のない天井が高い車がほしい」という依頼を受けて開発された。ウォークスルーバンとは、運転席から左側ドアや荷室に、車内を容易に移動できるクルマである。その車体構造を生かし、移動販売車や簡易キャンパーなどにも使われる。
ダイナ、トヨエース、ハイエーストラックのジャストローシャーシの上に背の高い箱型車体を架装したもので、組み立てはフレーム付き車両を得意とするアラコ(現・トヨタ車体)が担当。当初は「ダイナ・クイックデリバリー」「トヨエース・クイックデリバリー」(積載量2t級)、「ハイエース・クイックデリバリー」(積載量1t級)のように、積載量および販売店で車名が分けられていた。後に車名が「200」(2t積)「100」(1t積)にそれぞれ変更されている。ヤマト運輸では両方が使われており、積雪寒冷地では4WD車も導入されている。
2t積・1t積ともに車体はほぼ共通であるが、サスペンションスプリング、ブレーキをはじめ、デフ、ホーシング、プロペラシャフトなどのドライブトレインは2t積の「U系」と1t積の「Y系」では対許容荷重や容量が異なる。
エンジンはダイナ、トヨエース、200がトヨタ・ダイハツ共同開発の、トラック用のヘビーデューティーな「B系」ディーゼルエンジンを、ハイエース、100は乗用・ピックアップトラック用のライトデューティーな「L系」ディーゼルエンジンを積む。2006年(平成18年)10月以降、QD200のエンジンは、ハイブリッドシステムが追加された日野製のN04C-TNへ変更されている。
トランスミッションはどちらにも5MTと4ATがあり、ともにコラムシフトであるが、やはり最大トルク許容量で分かれている。
少量生産ゆえ、メーカー希望小売価格は消費税込みで550万円を超える。開発依頼元のヤマト運輸ですら、最近はクイックデリバリーよりも圧倒的に安上がりなごく普通のダイナ・トヨエースを好んで導入している模様である。2011年(平成23年)には、生産・販売が中止された。

 

善通寺駅 JR四国)土讃線

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善通寺駅(ぜんつうじえき)は、香川県善通寺市文京町一丁目にある、四国旅客鉄道(JR四国)土讃線の駅である。駅番号はD14。

駅表示パネルのコメントは弘法大師ゆかり七十五番札所善通寺の最寄り駅です。

善通寺市の中心駅で、全特急列車が停車する。


1889年(明治22年)開業時からの木造駅舎に1922年(大正11年)の陸軍大演習の際に車寄せ部分などを増築した。

屋根は開業当初は切妻造だったが、1991年の改修で寄棟造になった。

日本最古の現役駅舎とされている武豊線亀崎駅の駅舎より古い可能性がある。

明治22年3月30日と記された建物財産標が存在する。国の登録有形文化財に登録されている。

明治20年代の建物財産票を持つ現存する駅舎は、他に明治27年の播但線香呂駅、奥羽本線川部駅・津軽新城駅、明治29年の奈良線木幡駅などごく少数である。

2面3線のホームを持つ地上駅。開業以来の大きな木造駅舎です。1番線が上下本線となる一線スルー(制限速度120km/h)になっている。

2番線は下り副本線で行違いがある場合に使用。上下副本線である3番線は原則として特急待避時のみの使用。

直営駅(多度津駅助役善通寺在勤配置)切符売場に券売機は2台設置、みどりの窓口があります。

広い待合室には長椅子が3脚設置され、コンビニ型のキオスクも営業しています。

また観光客のためにコインロッカーがあります。


ホーム 路線 方向 行先 備考
1 ■土讃線 上り 多度津・高松・岡山方面 通常はこのホーム
下り 琴平・阿波池田・高知方面


2 ■土讃線 下り 琴平・阿波池田・高知方面 行き違いをするとき
3 ■土讃線 上り 多度津・高松・岡山方面 特急の待避をするとき
下り 琴平・阿波池田・高知方面


ホームは跨線橋で結ばれる、立派な木造上屋があります。
3番線の向うには留置線が1線あり、駐車場化された廃ホームがあります。


1889年(明治22年)
5月23日:讃岐鉄道の吉田駅(よしだえき)として開業。
6月15日:善通寺駅に駅名を変更。


1904年(明治37年)12月1日:讃岐鉄道が山陽鉄道に買収され、同社の駅となる。


1906年(明治39年)12月1日:山陽鉄道が国有化され、官有鉄道(後に国鉄)の駅となる。


1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR四国の駅となる。

電報略号 セン
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線


乗車人員
-統計年度- 1,433人/日(降車客含まず)
-2011年-


開業年月日 1889年(明治22年)5月23日
備考 みどりの窓口 有
* 開業1ヶ月後に吉田駅から改称。

南草津駅 JR西日本 東海道本線

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南草津駅は、滋賀県草津市野路一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の駅です。「琵琶湖線」の愛称区間に含まれています。駅の利用乗客は滋賀県内では草津駅に次いで2番目です。日中時間帯は1時間あたり新快速が3本、普通(高槻駅 - 大阪駅間は快速)が4本の合計7本が停車する。朝夕時間帯は本数が多くなる。開業時はまだ周囲は休耕田が広がっていただけであったが、まず東側の区画整理が完成し、遺跡調査のため整地が遅れた西側も2007年に区画整理がほぼ終わり、駅前広場の整備とともに駅周辺には高層住宅が建ち並ぶようになった。また、立命館大学びわこ・くさつキャンパス (BKC) の開校とその後の拡大や、周辺に存在する工場の拡張などにより乗降客数は増加しています。

南草津駅の建設された野路地区は東海道に沿う街村や周囲の集落以外田畑の広がる地であった。その広い田畑を利用して草津市が南部新都心構想を起草し、南草津駅周辺50haについて、組合施行の土地区画整理事業により都市基盤整備の推進、大学誘致なども含めた新しい街づくりを進めた。
駅計画時は、上述の通り地名を取って仮称「野路駅」と呼ばれていた。駅名決定にあたり新駅名称を一般公募した結果、976通62種類の中から1992年4月30日の期成同盟理事会にて「野路立命館」と地元要望案を決定した。その後地元自治会が「野路」とする嘆願書が草津市に提出されるなどいくつかの案を巡り紛糾したが、最終的に地元・草津市がまとまりJRの了解により1994年6月28日に「南草津」が正式決定となった。また、駅開業は当初大学開学と同時を予定していたが、駅前整備などの工事の遅れのため当年9月の関西空港開港に伴うダイヤ改正に合わせての開業となった。

駅の発展に合わせて新快速停車の声も地元から高まり、2007年11月19日には草津市・草津商工会議所・学校法人立命館・松下電器産業松下ホームアプライアンス社(現在のパナソニックホームアプライアンス社)の4者連名で、南草津駅での新快速電車の停車ならびに京都駅 - 西明石駅間で運転されている普通を草津駅へ延伸するようJR西日本に対し請願している。ただし当時JRは「南草津駅の利用状況からこの地域が重要な拠点として認識しているが、収益性や米原・長浜への速達性の確保の観点、さらには、南草津駅より乗降客数が多くても新快速が停車しない駅もあるなど、現状では大変厳しい」と草津市に回答した。


その後、2008年3月には新快速停車を公約に掲げた橋川渉が市長に当選し、2009年12月2日には、2011年春のダイヤ改正での南草津駅への新快速停車を目標に「南草津駅新快速停車促進期成同盟会」が設立され、草津市・市自治連合会・草津商工会議所・立命館大学・パナソニックホームアプライアンス社など7団体が中心メンバーとなった。同会は設立とともに45,000名を目標に署名活動を始め、最終的には目標を大きく超える61,162名の署名が集まった。署名は要望書とともに2010年2月18日にJR西日本に提出された。
地元の要望を踏まえてJR西日本が検討した結果、南草津駅に新快速を停車させることで駅の利便性が高まって利用者のさらなる増加が期待でき、車両のやりくりにもめどがついたとして、2011年3月12日からのダイヤ改正で新快速が終日停車することが発表された

島式ホーム2面4線を有する地上駅。12両編成に対応している。橋上駅舎を有し、東西に駅前広場を持つ。築堤上に駅を作ったため、駅前広場から橋上駅舎の改札までが高い。そのこともあり、開業時点でエレベータ3基(その後西口増設)・エスカレータ5基を備え、駅前広場と改札、改札とホーム間それぞれがバリアフリーに対応している。


自動改札機は車椅子対応改札機1レーンを含め、7レーンある(そのうちICOCA専用改札機は3レーン)。きっぷ売り場には券売機は3台と指定席券売機も設置されています。直営駅(草津駅の被管理駅)で、ICOCA・ICOCA相互利用カードが使用可能です。


南草津駅プラットホーム
ホーム 路線 方向(線路) 行先 備考
1 ■琵琶湖線 下り(外側線) 京都・大阪方面 一部列車
2 ■琵琶湖線 下り(内側線) 京都・大阪方面
3 ■琵琶湖線 上り(内側線) 草津・米原方面
4 ■琵琶湖線 上り(外側線) 草津・米原方面 一部列車

草津線直通列車(下りは一部を除く)と一部の新快速が外側線(1・4番のりば)を使用し、その他の列車は内側線(2・3番のりば)を使用している。

1980年(昭和55年) - 南部副都心構想発表(第2次草津市総合計画)。
1986年(昭和61年) - 草津市南部新駅設置期成同盟会結成。
1990年(平成2年) - 第3次草津市総合計画発表。
この計画に立命館大学の誘致が盛り込まれる。立命館大学(職員含めて15,000人)へのメインアクセスを野路新駅とし、早期に駅を整備していく必要性を説いている。
1992年(平成4年)7月 - 草津市野路東部土地区画整理組合の設立(平成14年3月換地完了に伴い組合解散)。
1994年(平成6年)
4月 - 立命館大学BKC開学。
9月4日 - 駅開業。東海道本線(琵琶湖線)草津駅 - 瀬田駅間に新設される形である。
1999年(平成11年)10月 - 草津市野路西部土地区画整理組合設立(平成22年度事業終了予定)。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始[27]。
2007年(平成19年)5月24日 - 西口と東口を結ぶ地下市道が完成。
2011年(平成23年)3月12日 - ダイヤ改正で新快速が終日停車するようになる。

電報略号 ミク
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 24,694人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1994年(平成6年)9月4日
備考 直営駅
みどりの窓口 有

 

 

 

9月9日(火)のつぶやき

手結可動橋

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 手結港の入り口には、平成14年9月に手結港可動橋(正式には高知県手結港臨港道路可動橋)が完成しました。

 可動橋は長さ約32mで、開閉時間は約6分かかります。警報機がなり始めると遮断機が下り、その橋はゆっくり上がり始めます。
1日のうち約7時間だけ渡ることができます。橋の上を通行できるのはは早朝から夕方までの間、1時間〜1時間30分間橋は下がっています。夜の間は橋は立ち上がりっぱなしで通ることができません。うっかり通行できない時間帯にここへ来てしまうと迂回することになります。
可動橋の通行可能時間
● 6:30〜 8:00
● 9:00〜10:00
●11:00〜12:00
●13:00〜14:30
●15:00〜16:00
●17:00〜18:00
※予告なく変更することがあります。

 

可動橋は、一部または全体が移動することのできる橋の事です。架橋により水上交通が妨げられる場合、橋を移動することで船舶の交通を可能にする。かつては橋を渡る側が馬車など非力な物や、架橋技術の低さから橋桁を高い位置に設計することができず利用された方式である。
城門に付属する跳ね橋や、フェリーなどへの積載の際に用いる可動の桟橋も、広義には可動橋に含まれるが、通常は橋桁が動くことにより航路を確保している橋のことをいう。特に、海抜が低く水運の盛んなオランダには、多くの可動橋が存在し、動作回数も多い。
航路を確保する場合に道路側の交通が遮断されることや、可動部の保守に手間がかかること、架橋技術の進歩で桁下の空間が大きくとれるようになったことなどから新規の架橋は少ない。

跳開橋は橋桁が跳ね上がる橋(跳ね橋)。城郭の堀などに備えられているものなど古くからの典型的な可動橋のひとつであるが、当初は防御のために陸路を遮断するためのものであり、水運を確保することは主目的ではなかった。日本でも、堀をめぐらした都市・市街地などで防犯目的の跳ね橋を備えているところがあった。
近代的な水運確保目的の可動橋には、片開きのものと両開きのものと両方がある。東京都中央区隅田川の勝鬨橋、ロンドンのタワーブリッジが有名。また三重県四日市市千歳運河の末広橋梁は重要文化財に指定されている。

F-86D 航空自衛隊

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F-86はアメリカ合衆国のノースアメリカン社が開発したジェット戦闘機。愛称はセイバー(Sabre)である。

1947年10月に初飛行した後に生産国のアメリカ空軍をはじめ、1950年代以降に多くの西側諸国で正式採用された亜音速ジェット戦闘機である。第1世代ジェット戦闘機に分類される。
武装は当初機関砲のみであったが、後にミサイル(サイドワインダー)が開発されるとその有効性を実証し(ミサイル万能論)、派生型も含めて9,860機が製造された。アメリカ空軍が1950年代初頭より主力戦闘機として最も重きを置いて配備を急いだ傑作機であったが、朝鮮戦争後にその戦訓を取り入れたセンチュリーシリーズを始めとする新鋭機が短期間で開発されると、急速に陳腐化していった。だが、結果としてアメリカ国内で余剰となったF-86は日本やイタリア、フランスをはじめとする同盟国や友好国に、大量に供与されることになる。
1960年代に超音速戦闘機が多くの国で使われるようになった後も多くの国で使用され、1970年代には第三次印パ戦争に実戦参加した。その後も偵察機や練習機として多くの国で使用され、1993年2月にボリビア空軍機の退役により、全機が退役した。現在では個人所有機が民間機として使用されている。


日本においては、航空自衛隊の主力戦闘機としてF-86Fを435機、全天候型戦闘機としてF-86Dを122機配備した。航空自衛隊が運用したF-86Fは、主翼前縁に自動スラットを装備し、両翼端を12インチ延長した6-3ウイングと呼ばれる主翼を持つF-86F-40が主力だった。F-86Fのうち18機は偵察機RF-86Fに改造された。自衛隊での正式な愛称は旭光(きょっこう)。
ブルーインパルスの初代機体でもあり、東京オリンピックにて大空に五輪旗を描いたことでも有名で、長く活躍したことから「ハチロク」と呼ばれて親しまれた。

日本が初めて得た全天候戦闘機型のF-86Dは1958年(昭和33年)から供与が始まり、1958年8月1日に第101飛行隊を編成後、1962年までに第102、第103、第105飛行隊の計4個飛行隊が編成、計122機(内24機は部品取用)が配備された。配備された122機のほとんどが、F-102への機材変更で不要になった在日米軍の中古機体を供与されたものであった。
電子機器に使用された真空管は湿度の高い日本で故障を繰り返し、航空自衛隊へのF-104配備や部品の枯渇による稼働率低下もあって、F-86Dを配備していた部隊は徐々に姿を消していった。最後まで残った第101飛行隊も1967年(昭和42年)1月に解散し、F-86Dの運用は10年にも満たない短い期間に留まることとなった。ただ、本機の運用実績から、全天候戦闘機運用のノウハウを得る事ができたため、航空自衛隊にとっては極めて意義が高かったと言える。

1962年(昭和37年)から後継の主力戦闘機F-104Jが配備後は、F-86F飛行隊の解散が始まり、支援戦闘機として、要撃戦闘機としてのF-104Jの補完と、能力不足ながらロケット弾や爆弾を用いた対艦攻撃の任務についた。しかし、国産のF-1の配備が始まり、1977年(昭和52年)10月1日に第3飛行隊が、1980年(昭和55年)2月29日に第8飛行隊が、11月13日に第6飛行隊がF-1に機種転換をしたことにより、実戦部隊からは退いた。旧F-86F部隊のうち、支援戦闘機部隊となった第3・第6・第8飛行隊以外はすべて解隊された。
最後までF-86Fを運用していた入間基地の総隊司令部飛行隊では、1982年(昭和57年)3月15日に引退セレモニーを実施し、全機退役した。

 


瀬田駅 JR西日本 東海道本線

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瀬田駅は、1969年に開業したベッドタウンの駅です。日本三名橋の一つ瀬田の唐橋が近い滋賀県大津市大萱一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の駅である。龍谷大学瀬田学舎が近くにあり朝夕を中心に多数の通勤通学客で賑わいます。「琵琶湖線」の愛称区間に含まれている。日中時間帯は1時間あたり4本が停車する。朝時間帯は本数が多くなる。利用者は琵琶湖線内の新快速が通過する駅では最多。また停車駅である守山、野洲、能登川、彦根、米原よりも多い。

現在の瀬田駅の区間の東海道本線が開通したのは1889年(明治22年)の東海道本線全通時であるが、当時は馬場駅(現在の膳所駅)から草津駅の間に停車場(駅)は無かった。1900年(明治33年)7月、栗太郡瀬田村(当時)は逓信大臣に対し、この馬場駅 - 草津駅間の停車場として南大萱(現在の瀬田駅とほぼ同位置)への停車場設置を請願した。しかしこの停車場設置の請願は採用されず、馬場駅 - 神戸駅間の複線化が完成した翌年の1903年(明治36年)に石山駅が先に開業する事となった。結局瀬田駅設置へと話が進むのは、それから半世紀近く後の事となる。


瀬田駅設置へ向かうきっかけになったのは、東海道新幹線の建設であった。東海道新幹線は瀬田町(当時)を通過するルートとなっており、1960年(昭和35年)に地元に対して立ち入り測量の了解を求めた。これに対して地元は、当時の平均国鉄駅間距離が4kmに対し石山駅 - 草津駅間が7.7kmである事などから、測量協力の代償として瀬田駅開設を強く主張した。この請願に加え、当時の東海道本線では輸送量の逼迫などから1966年(昭和41年)から瀬田川橋梁工事をはじめとした京都駅 - 草津駅間の複々線化工事が行われていた事から、この工事と関連して行う形で地元念願の瀬田駅新設が決定された。当初の開業予定は1970年(昭和45年)3月だったが、地元の熱意で1969年(昭和44年)8月に繰り上げて開業する事となった。この瀬田駅は請願駅の為、工事費1億1800万円は地元の瀬田町(1967年の合併により大津市)が引き受ける事となり、企業からの寄付や滋賀県の補助・大津市の市債によって賄われた。ちなみに、東隣の南草津駅は1994年(平成6年)に開業した。

島式ホーム2面4線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。ホーム有効長は12両編成になっている。分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類されます。きっぷ売り場には券売機は3台と指定席券売機が設置されています。自由通路がありコンビニ型のキオスクが営業しています。駅前には小さなロータリーと小さな公園があります。直営駅(大津駅の被管理駅)かつICOCA利用可能駅。

瀬田駅プラットホーム
ホーム 路線 方向(線路) 行先 備考
1 ■琵琶湖線 下り(外側線) 京都・大阪方面 一部の列車のみ
2 ■琵琶湖線 下り(内側線) 京都・大阪方面
3 ■琵琶湖線 上り(内側線) 草津・米原方面
4 ■琵琶湖線 上り(外側線) 草津・貴生川方面 草津線直通のみ

外側線に停車する列車は草津線直通列車(京都方面は一部除く)のみである。内側線・外側線ともに通過列車(新快速・特急など)が存在する。
以前は草津線直通の普通列車は当駅だけを通過していたことがある。

平日の朝は、バスを利用する学生のために駅前のロータリーに長蛇の列ができ、朝通学ラッシュ時間帯や雨の日を中心に混雑が深刻であったことから、8:36 - 9:15間の龍谷大学への直行便は駅から徒歩約5分の京都中央信用金庫瀬田支店横に専用乗り場が新設された。
乗車券には、熊本県の「瀬田」(JR九州豊肥本線)駅との混同を避けるため、「(東)瀬田」と表示される。


1969年(昭和44年)8月12日 - 東海道本線の複々線化と同時に日本国有鉄道(国鉄)の駅として、草津駅 - 石山駅間に新設開業。旅客営業のみ。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始

電報略号 セタ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 17,052人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1969年(昭和44年)8月12日
備考 直営駅
みどりの窓口 有

 

485系電車 クハ481-26

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485系電車は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した交流直流両用特急形電車である。

1950年代半ば以降、国鉄は地方線区の電化では地上設備の低廉性などから交流電化を推進し、各地に直流電化方式との接続点となるデッドセクションが生じた。さらに特急列車の運転区間が地方線区に拡大され上述の異電源方式区間への直通運転要求に応えるために製造されたのが本系列である。
1964年(昭和39年)から関西⇔北陸・九州用に直流/交流60Hz対応の481系電車が、翌1965年から関東⇔東北用に直流/交流50Hz対応の483系電車が製造された。1968年からは交流の周波数が50・60Hz両対応となった485系電車が製造され本系列の統一形式名となった。
1971年には派生系列として信越本線横川 - 軽井沢間(碓氷峠)でEF63形補助機関車との協調運転に対応した489系電車の製造も開始された。
本系列は1979年まで製造が行われ、四国を除く日本各地の特急列車に投入された。当初は主に東京・大阪・名古屋などの大都市圏と交流電化された東北・北陸・九州方面直通特急で、山陽・東北・上越の各新幹線開業後は新幹線連絡特急などで運用された。
国鉄分割民営化時には東日本旅客鉄道(JR東日本)・西日本旅客鉄道(JR西日本)・九州旅客鉄道(JR九州)に継承され、1990年代以降では団体専用列車用ジョイフルトレインへの改造も施工された。一方で老朽化と後継系列の登場により廃車も進行し、2011年4月現在で他系列への改造車を除くと定期運用を持つのはJR東日本のみであり、定期運用が終了したJR西日本・JR九州では保留車もしくは波動運用対応車のみが車籍を有する。

外観は151・161系→181系の流れを踏襲しており、先頭部は同様のボンネット型を採用した。ただし1972年以降製造の後期形クハ481形は、ほぼ同時期に登場した183系電車と同様のデザインに変更されたため定員が8人増加した。
床下機器の寸法に合わせ、床面の高さを近郊形・急行形の車両よりも10mm高い1,230mmとし、屋根高さも151系に比べて120mm高くされたが、使用される路線のプラットホームの高さに合せるべく扉にはステップを設置するとともに、東北・北陸などの寒冷地区投入を考慮した耐雪耐寒構造で製造された。
サービス面では側面行先表示に当初は従来通りサボを使用したが、初期車では自動巻取式方向幕搭載準備工事が国鉄車両としては初めて施工された。方向幕使用開始時は18コマ対応、後期形以降は40コマ対応の装置が搭載され、後に40コマ対応へ統一された。
冷房装置は、前期形ではAU12形分散式冷房装置1基ないし2基をキノコ形ケースに収め先頭車は5基、中間車は6基を屋根上に搭載する。ただしモハ480形・モハ482形・モハ484形・モハ488形は、パンタグラフや交流機器などの艤装スペースとの関係からAU12形は3基搭載に制限され冷房能力が不足するため車内機器室に床置形のAU41形を3基搭載する。しかし後期形以降では大幅に変更された。

制御方式は、直流電化区間では架線電源をそのまま使用し、交流電化区間では変圧器で降圧後に整流器で直流にする401系・421系電車からの一貫した手堅い間接式の機器構成を踏襲したMM'ユニット方式による抵抗制御を採用。M車には山岳区間での使用も考慮して抑速ブレーキを搭載した自動ノッチ戻し機構付きのCS15系制御装置を、M'車には交流区間で直流電源を供給する主変圧器・主整流器などの機器を搭載する。
主電動機は定格出力120kWのMT54系直流直巻電動機を特急形電車としては初めて搭載。歯車比22:77(1:3.50)によりMT比1:1でも20‰程度の勾配が登坂可能で経済性が向上し、最高運転速度も120km/hとされた。

台車は揺枕吊を廃止したインダイレクトマウント式空気バネ台車DT32A形を電動車に、TR69A型を付随車に採用。後期形では同系台車の改良型にマイナーチェンジも行われた。
パンタグラフは直流区間での離線対策から2基搭載をしていたが、国鉄末期以降は架線の損耗を減らすため原則として第2パンタグラフの使用を中止もしくは撤去した。ただしJR東日本の一部車両では架線霜取のため、130km/h運転を行う湖西線では引き続き離線対策のため2基使用を行う。

横軽区間用協調機器を搭載する489系を除き主変圧器の対応周波数に関係しない制御・付随車は481形が483系・485系でも引続き増備された。またサロ481形九州配置車は1980年に食堂車の連結が中止されたため1979年以降に洋式トイレ・洗面所を車販準備室に変更する改造を施工したほか、サシ481形は食堂営業廃止による不連結や他形式への改造により1989年に廃形式となった。

481系
交流60Hz対応車で新製時には向日町運転所(後の京都総合運転所→現・吹田総合車両所京都支所)へ集中配置された。
北陸本線金沢 - 富山操車場(現・富山貨物)間交流電化完成により1964年10月1日のダイヤ改正で新設された「雷鳥」「しらさぎ」に充当を目的にモハ481形・480形電動車ユニット11組22両と制御・付随車19両の計41両が新製されたが、車両落成が同年10月末と遅れた影響などにより運転開始は12月25日に延期された。
翌1965年には151系で運転されていた九州特急「つばめ」「はと」の下関以西電気機関車牽引ならびに山陽本線上り広島 - 八本松間補助機関車連結解消目的の置換えで増備された。

クハ481-19 - 28
クハ481形 クリームスカート車
東北地区用タイフォン移設工事施工済
50Hz対応を示す点からスカートがクリーム色に変更された。
1982年の東北新幹線開業による運用減により、19・20・22・24が南福岡電車区(現・南福岡車両区)へ転出したが、その後の検査等で入場時に下部ライトケース上の赤い「ひげ(眉)」が省略された。しかし、仙台所ならびに勝田区へ再転出した1985年以降に「ひげ」を復元した。またこの運用減では21・23・27・28が向日町所へ転出しているが、このグループは1986年に上沼垂へ再転出をした。
1985年に仙台所残存の25・26と1982年の九州転出車が、勝田区に転入。このため上述の上沼垂転出車も含め分割民営化時にはJR東日本に承継された。2000年までに訓練車編成に組成された24・26を除き廃車されたが、この2両も2007年までに廃車。
26が鉄道博物館で静態保存されているが、同車はボンネット外気取入グリルが2箇所の変則車である。

 

石山駅  JR西日本 東海道本線

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石山駅は、「瀬田の唐橋」「石山寺」へのJRの最寄り駅になっています。滋賀県大津市粟津町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)東海道本線の駅です。

周囲には大規模工場が立地し大津市南部の住宅地への入口にあたる駅のため利用客が多い活気ある駅です。「琵琶湖線」の愛称区間に含まれている。日中時間帯は1時間あたり7本が停車する。朝晩は本数が多くなる。乗客は滋賀県内の駅では南草津駅に次いで多く、JR西日本全体の駅では33番目に多い。

島式ホーム2面4線に外側待避線を持つ地上駅で橋上駅舎(昭和45年3月改築)を有しています。橋上庭園があり、人工地盤の床はカラータイルで装飾されています。きっぷ売り場には券売機は4台設置されみどりの窓口があります。改札口の横にキヨスク、みどりの窓口の横にデイリーイン石山店があります。


直営駅(大津駅の被管理駅)。ICOCA利用可能駅であり、ICOCAの相互利用対象カードも利用可能。

石山駅プラットホーム
ホーム 路線   方向(線路)  行先            備考
 1 ■琵琶湖線 下り(外側線) 京都・大阪方面 全ての特急と一部列車
 2 ■琵琶湖線 下り(内側線) 京都・大阪方面
 3 ■琵琶湖線 上り(内側線) 草津・米原方面
 4 ■琵琶湖線 上り(外側線) 草津・米原方面 全ての特急と一部列車

新快速・普通とも主に内側線ホーム(2・3番のりば)に停車する。外側線ホーム(1・4番のりば)は「はるか」・「びわこエクスプレス」と朝ラッシュ時の新快速・草津線直通電車(下りは一部除く)が停車する。1番線は下りの待避線、6番線は上りの待避線でいずれもホームなし。回送・貨物列車の待避に使用されています。外側線からの待避線の分岐がある都合上、場内信号・出発信号を持つ。ただし、上下線間の渡り線はなく、内・外側線の転線もできない。
各のりばに出発反応標識が設置されています。ホームがカーブしていることもあって終日ホーム係員が常駐し旅客整理及び客扱終了合図を行っています。

2007年まで専用線発着の車扱貨物を取り扱っており、貨物列車の設定があったが、現在は臨時車扱貨物のみを取り扱っており、そのため貨物列車の発着は無い。
駅北側にある日本電気硝子大津事業所へ関西日本電気が保有する専用線が上り線側から分岐し、石油輸送を行っていました。そのため塩浜駅〜当駅間に石油輸送貨物列車が運行されていました。
駅南側にある東レ滋賀事業場へ専用線が下り線側から分岐し、石油輸送を行っていた。災害時など公共性の面があり権利だけは残っている。但し線路は2009年7月頃に全て撤去されており、国道1号との平面交差の踏切のレールも外され溝は埋められ、踏切信号も撤去されたが、専用線の路盤と踏切警報機のみ残存している。交通科学博物館で静態保存されている1801号機(鉄道記念物)は、1964年に国鉄に寄贈されるまではこの専用線での入換作業で使用されていました。


1930年(昭和5年)4月25日 、東京発下関行き急行第5列車(14両編成、牽引機C53 30(国鉄C53形蒸気機関車)、乗客約650名)が石山駅に差し掛かり下り本線から中線へのポイントを通過した時脱線転覆し、13名が重軽傷を負った。石山駅はカーブになっており、普段は通らない中線への渡り線も急角度で、そこに遅れを取り戻すため高速で進入した事が原因とされた。木造客車ならば1926年(大正15年)9月23日の山陽本線特急列車脱線事故のように粉砕していた所だが、半鋼製客車だったため被害は少なく済んだ。機関士は100円の罰金刑を受けた。
この事故を受けて、山陽本線河内駅構内の配線と速度制限の調査が行われ、誤ったポイント付け替え工事がされた事が、9ヶ月後の山陽線急行列車脱線事故の原因となったという。

1903年(明治36年)4月1日 - 官設鉄道東海道線(1909年より東海道本線)の草津駅 - 馬場駅(現在の膳所駅)間に新設開業。旅客取扱のみ。
1908年(明治41年)3月15日 - 貨物取扱開始。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。
2005年(平成17年)
2月5日 - コンコース、エレベーター、エスカレーター使用開始。
4月1日 - 京阪石山駅が隣接する位置に移転。
2007年(平成19年)3月18日 - 貨物列車の設定廃止。

電報略号 イシ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 24,475人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1903年(明治36年)4月1日
乗換 京阪石山駅(京阪石山坂本線)
備考 直営駅
みどりの窓口 有

 

宇須々木の旧海軍基地/宿毛海軍航空隊 (1)

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大艦隊の停泊が可能な宿毛湾には、大正10年(1922)に戦艦「長門」を旗艦とする艦隊が寄港して以降、昭和17年(1942)まで、次々と艦隊が姿を見せており、宇須々木が訓練、休養を支える基地として活用された。


 宿毛湾沖は、ワシントン軍縮会議により廃艦となった戦艦「土佐」を沈下させたり、戦艦「大和」が沖の島ー鵜来島間を公式航行試験を行ったことでも知られている。


 この宇須々木に、常駐の基地が設置されたのは昭和8年ごろで、兵舎が2棟でき、航空隊が配置された時期もあったが、太平洋戦争が激化する中で、昭和20年3月、第21突撃隊の特攻基地本部となった。第21突撃隊は越浦(土佐清水市)、泊浦、柏島(大月町)などにも派遣隊を置き、特攻用の「震洋」が配置された。さらに戦況の推移にともない、豊後水道全域を指揮する、第8特攻隊の司令部も大分県佐伯(佐伯市)から移転した。

終戦時宇須々木は、須崎(須崎市)の第23突撃隊、佐伯の第24突撃隊も指揮下におく重要な基地だった。当時は兵舎、桟橋、無線塔、病院など多くの施設があったが、現在も弾薬庫、貯油庫、飛行艇揚陸スロープ、飛行艇の係留場、誘導灯、防空壕などの遺構が残り、戦争を今に伝えている。現在の宇須々木公民館は兵舎後に位置する。(看板引用)

宿毛海軍航空隊(すくもかいぐんこうくうたい)および昭和19年1月1日に改称した第四五三海軍航空隊(だい453かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。水上機の搭乗員の教育を推進するため、生徒・学生・練習生への実機練習を推進した。

(水上機スロープ)

ミッドウェー海戦の大敗によって不足した航空母艦飛行機隊を補完する水上機の増強を図るため、高知県幡多郡宿毛町に水上機基地を設置し、練習航空隊を設置した。長らく連合艦隊の演習水域として使用された宿毛湾は、海軍軍人の出入りも多く、頻繁に連合艦隊の艦艇も停泊する絶好の立地条件であった。

そのため、練習連合航空隊に属することが多い練習航空隊では例外的に、連合艦隊の中心部隊である第一艦隊の隷下に置かれた。実戦部隊に転換されると、昭和18年に落成した鹿児島県揖宿郡指宿町の指宿水上機基地に主力を移した。

9月13日(土)のつぶやき

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