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湯野駅 /井原鉄道井原線

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湯野駅(ゆのえき)は、広島県福山市神辺町湯野にある、井原鉄道井原線の駅。周囲は新興の住宅地が広がり、郊外型店舗も立地するなど、かなり賑わっています。

駅前にはパークアンドライド用に8台分の駐車場が整備されていますが駅前のスペース自体は非常に手狭です。この付近の井原鉄道はかつての井笠鉄道神辺線(神高鉄道)の廃線敷を利用しており、かつての路盤が付近に残存しています。

 

神辺方面に向かって右側に単式ホーム1面1線を有する高架駅(停留所)で、高架下には和風の公衆トイレと待合室、駐輪場などが設置されています。

待合室には三面の壁に長椅子があります。直接ホームに上がる形の無人駅であり、自動券売機等は設置されていません。

ホーム待合所にはFRP製の椅子が設置されています。

1999年(平成11年)1月11日 - 井原線開業と同時に設置。

周辺の名所としては廉熟(れんじゅく)駅から南約900m。菅茶山が天明元年(1781)に開いた学問所で、最初は黄葉山(こうようざん)の名をとり「黄葉(こうよう)夕陽村舎(せきようそんしゃ)」と呼んでいました。公式には神辺学問所とよばれたが、一般には廉塾と称した。旧山陽道沿いにあり、建物は国の特別史跡(昭和28年・1953)3月31日になっています。講堂・寮舎・菅茶山の居宅があり、当時のままの姿を見ることができます。 菅茶山(かんちゃざん)紀念館:駅から北東約700m。菅茶山(1748−1827)は、江戸時代後期の福山藩の朱子学者で漢詩人。川北村(現:福山市神辺町川北)の生まれ。19歳のとき、京都に行き、はじめ医者を志したが、のち、朱子学を学んだ。天明年間初頭に郷里に帰り、「黄葉夕陽村舎」という塾を開いた。同塾は、後に福山藩に献上され、「神辺学問所」と呼ばれた。浦上玉堂をはじめ交友も広かった。菅茶山記念館では、菅茶山をはじめとした文人、また、神辺町ゆかりの画家たちの作品を収集、展示している。

電報略号 ユノ
駅構造 高架駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1999年(平成11年)1月11日
備考 無人駅


智頭駅/JR西日本因美線/智頭急行:智頭線

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智頭駅(ちずえき)の駅名は「ちず」だが、町名は「ちづ」です。京阪神と山陰東部を結ぶバイパスルート、智頭急行の分岐駅で、特急を含む全列車が停車し、中国山地の駅としては珍しく活気に溢れています。鳥取県八頭郡智頭町大字智頭字六地蔵ノにある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・智頭急行の駅です。

西日本旅客鉄道:因美線。西日本旅客鉄道については、当駅以北は米子支社鳥取鉄道部が管轄します(隣の土師駅から南は岡山支社が管轄いたします。なお、支社境界は智頭急行との共用踏切である中村第一踏切と、そこから土師方の中村第二踏切の間に置かれています)。

智頭急行:智頭線 ※終着駅であるが、すべての特急と一部の普通列車は、JR因美線鳥取方面へ直通運転。乗務員の所属する運輸部と運転指令室が併設された運行上の中枢駅で、全特急列車および一部の普通列車がJRに乗り入れとなります。

JR因美線は単式・島式2面3線、智頭急行智頭線は頭端式1面2線のホームを持つ地上駅。線内唯一の跨線橋で結ばれています。駅舎はJRと智頭急行で別々に設置されており、構内でつながっている。どちらも直営駅となっている(JRの駅は鳥取鉄道部管理)。
ホームは駅舎側からJRのホームが1 - 3番線、智頭急行のホームが2 - 1番線となっている。智頭線 - JR線の直通列車はすべてJRホームから発着する。以前は智頭線内のみの運行でJRホームから発車する列車もあったが、2009年(平成21年)3月14日改正の際に設定がなくなった。JR線1番のりばの南側に両線の乗り換え改札口があります。


智頭駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先 備考
JR線のりば
1 ■智頭線経由 上郡・大阪・京都・岡山方面 因美線からの直通、特急列車は全てこのホーム
■因美線 上り 鳥取・倉吉方面 当駅始発の普通列車
2 ■因美線 上り 鳥取・倉吉方面 智頭線・津山方面からの直通、特急列車は全てこのホーム
下り 津山方面
3 ■因美線 上り 鳥取・倉吉方面 当駅始発の普通列車
下り 津山方面


智頭急行のりば
1・2 ■智頭線 上郡方面 当駅始発の普通列車
JR1番のりば(因美線下り本線)は鳥取方面からのみ入線可能で、智頭線を含めた3方向すべてへ出発可能。JR2番のりば(因美線上り本線)は津山方面・上郡方面からの入線に対応し、出発は津山方面と鳥取方面の2方向のみに対応。JR3番のりば(因美線上下副本線)は智頭線を含めた3方向の入線・出発にいずれも対応。智頭1・2番のりばは頭端式で、上郡方面からの折り返し列車のみに対応する。智頭線の本線は智頭1番のりばである。
因美線と智頭急行線を直通する列車はすべて、上郡方面はJR1番のりば、鳥取方面がJR2番のりばを使用する。津山方面からの列車は2番のりば(鳥取方面へ直通する列車を含む)、鳥取方面からの折返し列車は1番のりばか3番のりばを使用することが多いが、例外も多い。 3番線の隣西側に待避線が1本存在する。 JRの車両の夜間滞泊の設定がある。


JR駅構内:みどりの窓口、智頭急行線内で完結する乗車券及び特急券は発売できない(以前は手書きの船車券と指定のみ券で発売していたが、JR西日本各駅での旅行業廃止に伴い取り扱いを中止した)。そのため智頭急行の窓口が営業していない時間帯に、当駅から上郡駅までの各停車駅まで特急列車を利用したい場合は、JR窓口で乗車駅証明書の発行を受けてから入場し、特急列車の車内で車掌から乗車券・自由席特急券を購入することになる。

智頭急行:智頭急行運輸部、智頭急行の窓口では、智頭線の乗車券・定期券のほか、日ノ丸自動車(日ノ丸バス)の定期券・回数券、智頭町民すぎっ子バスの定期券を発売している。乗車券はちずきゅうという地紋が入ったもので、車内発券と同様のものである。

1923年(大正12年)6月5日 - 国有鉄道因美線の用瀬駅 - 当駅間延伸時に開業。当初は終着駅であった。
1928年(昭和3年)3月15日 - 因美南線開業に合わせ、因美線が因美北線に改称され、当駅もその所属となる。
1932年(昭和7年)7月1日 - 当駅から因美南線美作河井駅まで路線延伸。これをもって鳥取駅 - 津山駅間が全通したため、因美北線は現在の因美線の一部となり、当駅もその所属となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。
1994年(平成6年)12月3日 - 智頭急行智頭線開業により智頭急行の駅が新設され、乗換駅となる。

電報略号 チツ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線(JR)
1面2線(智頭急行)
開業年月日 1923年(大正12年)6月5日
乗入路線 2 路線
所属路線 ■因美線(JR西日本)
キロ程 31.9km(鳥取起点)
◄因幡社 (7.0km)(3.7km) 土師**►
所属路線 ■智頭急行智頭線
キロ程 56.1km(上郡起点)
◄恋山形 (6.1km)
備考 共同使用駅
両会社とも直営駅
JR駅舎にみどりの窓口有
* 駅舎・改札口は両者個別だが、改札内に連絡通路あり。
** この間に米子支社と岡山支社の境界あり(当駅から因幡社寄りは米子支社管内)

 

 

 

 

5月20日(月)のつぶやき

特急「しおかぜ」 8000系電車 /JR四国

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しおかぜは、四国旅客鉄道(JR四国)が岡山駅 - 伊予西条駅・松山駅・宇和島駅間を宇野線・本四備讃線・予讃線・内子線経由で運行している特別急行列車である。列車名は瀬戸内海の「海から吹く塩気を含んだ風」である潮風を平仮名表記にしたものです。「しおかぜ」の名称は、1965年から1968年まで、新大阪駅 - 広島駅間を運行する特急の名称として使用されました。また、房総地区の臨時列車にも漢字は異なるが「汐風」が存在していました。

特急「しおかぜ」は1972年に、それまで運転されていた急行「いよ」を格上げしたことにより、高松駅 - 宇和島駅間で運転を開始し、同じく運転を開始した「南風」とともに、四国初の特急列車が誕生した。1986年にエル特急に指定されています。
1988年4月に本四備讃線(瀬戸大橋線)が開通に伴って岡山駅発着に変更され、引き続き高松駅を発着する列車「いしづち」として運転されるようになりました。8000系電車:グリーン車を連結したL編成が充当。かつては早朝の1往復(1・2号)に「いしづち」用のS編成が充当されていたが、2011年3月のダイヤ改正でL編成に統一されました。「いしづち」は編成の下り寄りに1 - 3号車として連結されます。

山陽新幹線に接続して、岡山市と香川県の西讃・愛媛県の各都市を結ぶJR四国の主力列車。岡山駅 - 伊予西条駅間に上り1本、岡山駅 - 松山駅間で上り13本・下り14本、岡山駅 - 宇和島駅間で1往復運転されています。

 


1990年に2000系の量産車が予讃線に投入された頃から岡山駅 - 宇和島駅間を結ぶ直通列車は宇和島駅発が朝の上り3本、宇和島駅着が夜の下り2本のみとなり偏った状態だった。予讃線の電化完成当初は、岡山駅 - 宇和島駅間を結ぶ直通列車は宇和島駅発が朝の上りと宇和島駅着が夜の下り各1本のみ残されたが、松山駅で2000系同士の乗り換えが1日1回発生していること(=直通可能なのに分断していること)が問題視され、一時的に2往復とされた。2011年3月からは、再度宇和島駅発が朝の上りと宇和島駅着が夜の下り各1本のみに変更されました。
2004年12月、岡山駅または児島駅と内子駅方面を行き来する際に、松山駅で8000系電車の「しおかぜ」と2000系気動車の「宇和海」を乗り継いでも特急料金が通算される乗り継ぎ料金制度が設定されました。なお、目的地が岡山駅でなく高松駅の場合は同じJR四国管内完結のため、この特例は1990年11月から存在してました。
運行区間のほとんどが単線区間で列車の増発が困難であることから、伊予西条駅 - 岡山駅間の2号を除き、宇多津駅 - 松山駅(10号は宇多津駅 - 宇和島駅間、29号は多度津駅 - 松山駅間)で高松駅発着の「いしづち」を併結しています。ただし、多客期(大型連休・お盆・年末年始)は一部列車を除いて宇多津駅での増解結作業を行わず、全編成が岡山駅発着の「しおかぜ」として運転される。この場合、高松駅 - 宇多津駅・多度津駅間に接続列車として臨時「いしづち」が運転され、宇多津駅 - 多度津駅間の各停車駅で乗り換えとなる。また、団体客が乗車する場合も同様で、時刻表に載らない場合が多い。逆に、瀬戸大橋が強風で運転を見合わせる場合は、全列車全編成とも高松駅発着となります。
運用上の特徴として、8000系を使用する列車は「しおかぜ」編成が岡山駅側となります。このため、松山方面行きでは「いしづち」が先に宇多津駅(下り1本のみ多度津駅)に入り、「しおかぜ」が駅手前で信号待ちを行う。2000系を使用する列車は逆に「いしづち」編成が岡山駅側となるため、「しおかぜ」が先に入線し、「いしづち」が駅手前で信号待ちを行います。

 

いずえ駅 /井原鉄道井原線

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いずえ駅の駅名は、出部(いずえ)をひらがな書きにしたものです。漢字表記まま「出部」なら難読駅になったでしょう。主要道路から離れた路地裏的な立地で、周囲は商店などもありません。岡山県井原市下出部町にある、井原鉄道井原線の駅。パークアンドライド用に、駅前に12台分の駐車場と小さな駐輪場があります。

駅のホームは高架橋に1面(神辺方面に向かって左側)あり、高架下に公衆トイレと駐輪場があります。無人駅で、直接ホームに上がる形になっている。自動券売機等は設置されていません。

ホーム待合所にはFRP製の椅子が設置されています。総社方面、駅の南には山が迫っています。

駅近郊の観光名所としては経ヶ丸観音院(駅から車で10分)奈良時代、行基菩薩が法華経を納められたことから山の名を経ヶ丸と呼ぶようになり、そこに一堂を建立して、その御本尊に観世菩薩を祀られてから経ヶ丸観音と命名しました。近くから湧き出る泉は「経ヶ丸観音慈悲霊泉」と呼ばれ、病気治癒の御利益があります。 経ヶ丸グリーンパーク(駅から車で10分)標高281mの経ヶ丸山、四季折々の自然に恵まれた林間に、オートキャンプ場、フィールドアスレチック・多目的広場・わくわくドラゴンハウス・パターゴルフ場等、大人から子供まで遊べる施設が整っています。

1999年(平成11年)1月11日 - 井原線開業と同時に設置。

電報略号 イエ
駅構造 高架駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1999年(平成11年)1月11日
備考 無人駅

 

 

5月22日(水)のつぶやき

清流しまんと号(トラ45000) 予土線/JR四国

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国鉄・JRグループとしては最初のトロッコ列車で沿線風景を旅客誘致につなげる目的で、国鉄時代の1984年から、トロッコ列車「清流しまんと号」の運行が開始されています。

下り

列 車 名       発駅時刻    着駅時刻        記    事
清流しまんと1号  窪川15:01  宇和島17:44  座席指定券座席:指定券大人510円・小児250円

 

木材などの運搬に使われていた「トラ45000形式」の列車を改造し、窓ガラスのないパノラマカーに仕上げたトロッコ列車。雄大な四万十川沿いを1日1往復のんびりと走る。トロッコに連結される気動車はエンジン出力の大きいキハ54形になる場合が多い。

 

四国向けの温暖地型(キハ54 )
温暖地で使用する区分で、1987年に12両 (1 - 12) が製作されました。予讃本線の西部区間や土讃本線の四国山地越えなど、主要線区の急勾配区間がある四国島内の地域輸送に専用するため、短距離輸送に特化した収容力・運用コストを重視した仕様で製作。外部塗色は、当初はステンレス地に黄かん色のストライプを斜めに配した。JR移行後にコーポレートカラーの青色を基調とした塗色に変更されました。客室窓は二段式の大型ユニット窓。客用扉は 900mm 幅の折戸とし、戸袋を省略しています。下方まで拡大された大型窓が特徴で、バス用のドアエンジンを利用したほか、速度感知式のドアロック機構を装備し、出発・到着時に自動で施錠・解錠をおこなう仕様です。正面下部のスカートは省略。

客室の座席配置はロングシートとされ、キハ38形と同一のバケットシートに加え、肘掛の役割を兼ねた仕切板を座席間に3〜5人毎に配置して着席区分を明確化しています。トイレは設置されず、室内のデッキ仕切りもありません。冷房装置はバス用の機器を流用し、走行用エンジンの余裕出力を用いてコンプレッサーを走行用エンジンで駆動する機関直結式としています。

大野浦駅 山陽本線

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宮浜温泉への玄関駅でもある。大野浦駅(おおのうらえき)は、広島県廿日市市塩屋一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽本線の駅。近くには上田宗箇の墓、今川貞世歌碑、千人塚、妹背の滝前などがあります。かつては「広島シティ電車」の折返し電車がありましたが、今は全列車岩国直通となりました。


宮浜温泉は1964年(昭和39年)の開湯で、宮島を望む浜辺にあることから「宮浜」と名付けられた。以後は宮島観光の拠点、または広島の奥座敷として発展。瀬戸内海の沿岸に旅館が立地し、日本三景で知られる宮島を望む。カキやアナゴ、アサリなどが名物となっています。


大野駅前に所在する石碑、一里塚跡と今川貞世歌碑。今川貞世(今川貞世(号は了俊・りょうじゅん)は応安4年(1371)足利義満から九州探題に任ぜられ、その任地に下がるとき大野を通過したとき景色を詩に詠んだ。)は数多く歌を詠んでいるが、そのうち三首が歌碑としてある。「おおのうらをこれかととえばやまなしのかたえのもみじ 色に出でつつ」。


                                           写真は駅前の一里塚の跡

千人塚。慶応2年(1866)6月12日幕府軍が大竹村に向かって大野村を通過した時から8月8日幕府軍が敗れて大野村を総退却するまでの二ケ月間、ここで激戦が繰り返され、最も激しかった合戦は、6月19日の払暁戦で紀州新宮藩士 橋本角兵衛ほか6名が、戦死しています。これらの戦士の墓は、この戦いで戦死した無名戦士の墓と同じところ(大頭神社の入口)に葬りました。


駅の構造ですが高低差と、ホーム・駅舎の位置の関係でちょっと変わった構造になっています。改札を出ると、上りの階段と下りの階段があります。右側、下りの階段は広島方面。左側、上りの階段は岩国方面のホームへ繋がっています。



単式・島式の複合型2面3線のホームを持つ地上駅。2・3番線が島式ホームです。駅舎は1番ホーム側にあり、島式ホームへは跨線橋で連絡しています。ICOCA利用可能駅。西広島駅が管理し、ジェイアール西日本広島メンテックが駅業務を受託する業務委託駅です。


大野浦駅プラットホーム

1■山陽本線上り宮島口・広島方面

2■山陽本線上り宮島口・広島方面当駅始発のみ

3■山陽本線下り岩国・柳井方面


上り本線は1番のりば、下り本線は3番のりば。2番のりばは上下共用の待避線(中線)である。

広島方面から来ると、当駅は五日市駅の次に折り返し設備のある駅である。かつては国鉄のフリークエンス化対策で広島駅 - 当駅間で折り返し運転を行う列車が多く設定されていた(その後岩国駅まで延長)。なお2009年(平成21年)8月時点では下り定期列車が1日1本、2番のりばに入線するのみであった。


大野浦駅 - 五日市駅間で列車事故等が発生した際は、岩国方面からの列車が2番のりばで折り返し運転を行う。

宮島水中花火大会に伴い、宮島口駅止まりの臨時列車が設定される際、当駅まで回送され2番のりばで折り返し運転を行う。


広島車両所を出たDLの試運転が2番のりばに入線することもある。

2010年(平成22年)3月13日のダイヤ改正より、平日のみ夕方の通勤時間帯に岩国駅発着列車の運転区間を短縮する形で、当駅折り返し運転を行う定期列車が設定された。同時に下り定期列車の発着は3番のりばに統一されたが、現在も臨時列車がある場合は下り列車でも2番のりばを使用するケースがある。南側に行くには出口がないので離れた踏み切りを利用しなくてはいけません。


1917年(大正6年)7月13日 - 国有鉄道山陽本線の宮島駅(現・宮島口駅) - 玖波駅間に大野浦信号場として設置。

1919年(大正8年)3月16日 - 駅に昇格、大野浦駅として開業。旅客営業のみ。

1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。

2005年(平成17年)4月1日 - 駅業務をジェイアール西日本広島メンテックに委託。


2007年(平成19年)

6月18日 - ICOCA対応簡易型自動改札機導入。

9月1日 - ICカード乗車券『ICOCA』使用開始。

2010年(平成22年)3月13日 - 老朽化を理由に、字幕式の発車案内を撤去。


電報略号ノラ

駅構造地上駅

ホーム2面3線


乗車人員

-統計年度-1,654人/日(降車客含まず)

-2009年-

開業年月日1919年(大正8年)3月16日

備考業務委託駅

みどりの窓口 有




焼酎二階堂のTVCMロケ地(2008年「消えた足跡」編)金辺峠

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福岡県北九州市小倉南区呼野と田川郡香春町採銅所を結ぶ峠です。

金辺峠は江戸時代以前から交通の要所でした。峠には日田彦山線の金辺トンネル、国道322号(香春街道)に新金辺トンネルと第二金辺トンネル、その旧道には金辺トンネルがあり、計4本のトンネルが峠を南北に貫く。なお国道322号の第二金辺トンネルは上り車線(北九州方面)、新金辺トンネルは下り車線(田川方面)専用となっています、


日田彦山線の金辺トンネル(1.4km)は20年に及ぶ難工事でした。1897年にトンネルの建設工事が始まったが、落盤事故などで犠牲者が出しました。そして小倉鉄道(現在の日田彦山線)の路線となり1915年に完成。1917年には香春街道に初代の金辺トンネルが完成し、戦後の1967年には新金辺トンネル(590m)が開通し、旧道はあまり使用されなくなりました。1970年に国道322号に昇格し、その後も交通量は増え続けたため、1989年には新金辺トンネルの隣に、歩道が設けられた第二金辺トンネル(850m)が完成し、現在に至っています。新金辺トンネルには歩道が無く、歩行者や自転車は第二金辺トンネルを通る必要があります。


現在、不当投棄防止の為、旧道の金辺トンネルは通行不可です。またトンネル内は水浸しの状態です。香春側の旧道は金辺トンネルの手前までは舗装されているが、北九州側はトンネル付近では未舗装で悪路となっています。

なお、旧道の北九州側には採石場が所在しているため、現在でも旧道は使用されています。峠はフェンスがあり人以外は越えることが出来ない。

島村志津摩は、天保四年(1833年)小倉に生まれ、10歳で千二百石の家を相続、20歳で家老となる。財政逼迫の時期で、産業進行策を次々に打ち出すが、大した利益も上げられず安政6年(1859年)家老の職を解かれました。

慶応2年(1866年)長州軍が田野浦に上陸、島村の隊も戦うが、志津摩は体調を崩し長浜に居た。小倉藩は、8月1日城を焼き香春に退くが、島村は金辺峠に陣を張ってゲリラ戦を展開した。慶応3年、企救郡を長州が管理することを条件に講和が成立し、島村は香春藩の家老(後に執政)となった。明治2年、藩庁が豊津に移るとともに執政を辞退、明治9年京都郡二崎(苅田町)で逝去、44歳でした。金辺峠を最後の砦と死守し、田川郡を戦禍から守ったこと等から、死後の明治19年に志津摩の人徳を慕って碑が峠に建立されました。

峠には、以前清水が湧いていましたが、現在は土砂で埋まってしまい水を汲むことは出来なくなっています。

虹ノ松原駅 /九州旅客鉄道(JR九州)筑肥線

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虹ノ松原駅は、大正13年開業した日本三大松原の一つである虹ノ松原の玄関口ですが、観光客の利用はあまり多くないようです。

佐賀県唐津市鏡虹町にある、九州旅客鉄道(JR九州)筑肥線の駅です。以前はここから右手に旧東唐津駅への線路が延びていました。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。旧駅舎を縮小したと思われる簡易駅舎があります。外壁に石の腰壁を用い、車寄せや軒の支柱に丸太を用いてとても意欲的で観光地の駅らしい。


簡易委託駅。駅舎の左側にスロープが設けられ、駅舎脇にはトイレが新築されています。簡易型の自動券売機が設置されています。

ホーム側の駅名標の表記は虹「の」松原です。

ホーム上の待合室にはFRPの椅子が設置されて喫煙コーナーも併設されています。

1924年(大正13年)7月7日 - 北九州鉄道の虹の松原駅として開業。当時は西の終点だった。
1925年(大正14年)6月15日 - (旧)東唐津へ延伸、途中駅となる。
1937年(昭和12年)10月1日 - 北九州鉄道が国有化。虹ノ松原駅に改称される。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR九州の駅となる。
2010年(平成22年)3月13日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。

電報略号 ニラ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 157人/日(降車客含まず)
-2005年-
開業年月日 1924年(大正13年)7月7日
備考 簡易委託駅
* 1937年に虹の松原駅から改称。

 

 

5月25日(土)のつぶやき

松山駅 JR四国 予讃線

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昭和2年開業の松山駅は、愛媛県松山市南江戸一丁目にある、四国旅客鉄道(JR四国)予讃線・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅です。駅名標のコメントは「坊っちゃん、マドンナと道後温泉の駅」。四国一の人口を誇る都市で愛媛県の代表駅(県庁所在地駅)です。JR松山駅の2010年度の1日平均の乗車人員は7,238人で、JR四国の駅では高松駅、徳島駅に次いで3位です。

人口50万人を抱える四国最大の県庁所在地の代表駅としては利用者は少ない。これは当駅が松山市街地の西端に位置することや、長距離客の利用が中心で短距離の利用は伊予鉄道の方が利便性が良いこと、松山市駅が市の実質的な中心駅としての機能を担っていることなどが挙げられます。駅前には伊予鉄道とJR四国バスのバスのりばが設置されています。

1927年に高松方面から延びてきた予讃線の駅として開業しましたが、松山市内には既に1888年に開業していた伊予鉄道の松山駅が存在していました。国有鉄道を当時運営していた鉄道省では伊予鉄道に駅名改称を要求し、伊予鉄道は国鉄駅の名前を「伊予松山駅」とすればよいと反発しました。鉄道省は伊予鉄の運輸課長を東京の本省に呼び出して圧力を掛けるなどし、結局伊予鉄側が折れて伊予鉄の駅を松山市駅に改称して松山駅の名前を国鉄に譲った。しかし国鉄の駅は市街地から離れていて、その後も松山における中心駅としての地位は松山市駅が占め続け、国鉄の駅は長距離客のみ使用するものという雰囲気が形成され、現在に至っています。

現在、松山駅では高架化事業が進んでいます。2008年に都市計画決定および事業計画決定が為され、同年より先行買収に着手しました。並行して埋蔵文化財の調査も行われています。

松山駅は県都松山市の玄関口のひとつですが、昭和28年に建築され老朽化した駅舎が現役です。2000年に駅本屋をレトロ調に改装したものの、駅舎の西方に運転所が併設されている関係で西口が設置できないなど、旧態依然とした構造ゆえに依然として利用者に不便を強いています。加えて、予讃線により当駅付近の中心市街地・主要道路が南北に分断されており、朝夕のラッシュ時には踏切により交通が遮断されるなど、都市生活にも支障を来しており、高架化による改良が決定されました。


また、松山駅は松山市街の中心(大街道や松山市駅など)からはずれた中心市街地西端に位置しています。これは、全国的に同様の事例がいくつかあったように、国鉄線開業が昭和に入ってからと遅かったため松山市が市街中心部への鉄道引き込みを拒否した為です。結果、当時の温泉郡南江戸村(現松山市南江戸1丁目)の田園地帯に駅を設置され、現在に至っています。今でも周辺部に市街化調整区域が残っており、ビルの横に田んぼというアンバランスな様相を呈しています。道路も狭隘で、市街地として抜本的な改良が待たれる。そのため、土地区画整理事業を行うことも決定されました。これは高架化とあわせて市街地としての再生も目指すものです。

駅舎に接した単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の合計2面3線のホームを持つ駅。コンクリート2階建て駅舎の地上駅です。駅の正面入口には隷書体に旧字体を使用しレトロ調の大きな三角屋根が目を引きます。駅構内には松山運転所(車両基地)が置かれている。レトロ調に改装されたみどりの窓口や自動券売機はありますが自動改札機はありません。改札も木で化粧されています。コンコースは2階部分までを吹き抜けになっています。


2011年4月19日より、列車接近メロディが「瀬戸の花嫁」から「この街で」に変更されています。これは松山市とのパートナーシップ協定の一環であり、当日には協定締結式がホームにて行われました。なおこのメロディが採用されたのは松山市「ことばのちから」イベントで生まれた歌であることからです。

松山駅では、1番のりば北側に岡山・高松発着の「しおかぜ」・「いしづち」、南側に宇和島発着の「宇和海」が向かい合わせに止まる珍しい形態を取ることが多い(その証拠に右上の写真にあるように1番ホームの長さが2・3番ホームの長さより長い)。しかし、下り基準で「しおかぜ」編成の前側と「宇和海」の後ろ側は自由席がメインで、指定席・グリーン車を利用しての「しおかぜ」「宇和海」相互の乗り換えには時間と距離を要する。また、電車を使用する「しおかぜ」「いしづち」はここで折り返すため、車内清掃終了後すぐに発車となる(到着後10分程度で発車する)。


1■予讃線(上り)今治・伊予西条・新居浜・高松・岡山方面 (特急「しおかぜ」・「いしづち」を含む)
      (下り)伊予市・伊予大洲・八幡浜・宇和島方面 (特急の大半を含む)
2■予讃線(上り)今治・伊予西条・新居浜方面 (特急「ミッドナイトEXP松山」を含む)
      (下り)伊予市・伊予大洲・八幡浜・宇和島方面 (特急の一部を含む)
3■予讃線(上り)今治・伊予西条方面
      (下り)伊予市・伊予大洲・八幡浜・宇和島方面 (特急の一部を含む)
主として、特急は1番のりば、普通は2・3番のりばを使用するが、例外もある。
構内裏手には松山運転所の広大なヤードがあります。

貨物駅:
JR貨物の施設は、駅舎の南側に位置する。本線を挟んだ西側は松山運転所が広がる。コンテナホーム2面、荷役線3本が設置されている。駅の着発線と荷役線は市坪駅方面に伸びる引き上げ線を介して接続している。また、駅構内には営業窓口のJR貨物松山営業所も置かれている。
コンテナ貨物
12ftコンテナ、20ft大型コンテナを取り扱う。
産業廃棄物・特別管理産業廃棄物の取扱許可を得ている。
貨物列車
貨物列車は、1日1往復高松貨物ターミナル駅方面との間に高速貨物列車が運行されているのみ。なお、当駅終着の下り列車は高松貨物ターミナル駅始発だが、当駅始発の上り列車は大阪貨物ターミナル駅を経由し金沢貨物ターミナル駅まで直通する。

1927年(昭和2年)4月3日 - 国有鉄道の駅として、讃予線(現在の予讃線)伊予北条駅 - 松山間開通と同時に開業。
1930年(昭和5年)2月27日 - 伊予市駅まで讃予線が開通。
1934年(昭和9年)3月24日 - 予土線(自動車線。現在の松山高知急行線)松山・久万間開業により、自動車線の一般運輸営業を取扱う。


1965年(昭和40年)3月18日 - 北四国急行線(自動車線)高松・松山間運行開始。ただし、当駅発着は国鉄便のみであった。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR四国・JR貨物の駅となる。
1990年(平成2年)11月21日 - 伊予北条 - 伊予市間電化。
2006年(平成18年)3月1日 - 駅番号表示を開始。

電報略号 マツ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 7,238人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1927年(昭和2年)4月3日
備考 みどりの窓口 有

鳥取駅 /JR山陰本線/JR因美線(智頭急行:若桜鉄道)

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鳥取駅は、山陰地方の東の玄関であり、鳥取県の県庁所在地でもある鳥取市の代表駅であることから、特急列車をはじめ多くの列車の始発駅となっています。


鳥取県鳥取市東品治町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅。山陰本線を所属線としており、当駅が起点となる因美線を加えた2路線が乗り入れています。非電化区間としては珍しく、30年の歴史を誇る高架駅舎です。昭和53(1978)年11月に高架化されました。

鳥取駅において旅客流動が山陰圏都市間輸送や陰陽連絡輸送などに分かれることから、「スーパーはくと」(一部は鳥取始終着)以外の特急・快速列車は当駅が始終着となっています。
山陰本線・因美線直通(智頭急行線経由)
特急「スーパーはくと」(京都駅 - 上郡駅 - 智頭駅 - 当駅 - 倉吉駅)


山陰本線米子方面
特急「スーパーおき」(当駅 - 米子駅 - 益田駅 - 新山口駅)
特急「スーパーまつかぜ」(当駅 - 米子駅 - 益田駅)
快速「とっとりライナー」(当駅 - 米子駅 - 出雲市駅)
土休日の「とっとりライナー」1本は因美線智頭駅始発となるが、因美線内は普通列車として運転される。


山陰本線浜坂方面
特急「はまかぜ」(大阪駅 - 姫路駅 - 和田山駅 - 当駅)
因美線(智頭急行線経由)
特急「スーパーいなば」(岡山駅 - 上郡駅 - 智頭駅 - 当駅)

島式ホーム2面4線を持つ高架駅です。直営駅であり、構内には山陰本線の東浜駅 - 赤碕駅間各駅と因美線の智頭駅以北の各駅を管轄する鳥取鉄道部が置かれています。
配線上では1番のりばを上り本線、3番のりばを下り本線としているため、昭和時代の「長距離普通列車」の時代には、1・2番のりばは上り、3番のりばは下り、4番のりばは因美線というおおまかな区分があったが、2008年3月15日改正現在は「スーパーはくと」を除きほぼ全ての列車が当駅始発・終着のダイヤになっているため、4番のりばに浜坂方面がないほかは区別なく使用されています。(「スーパーはくと」は当駅を跨いで運転することを前提としているため、京都行きは1・2番のりば、倉吉行きは3・4番のりばに発着している。)ホームは長距離列車が発着できるようになっているが、2006年(平成18年)3月18日のダイヤ改正で山陰と東京を結んでいた寝台特急「出雲」が廃止になったため、現在は一つのホームを端から端まで使う列車がありません。すべての列車はエスカレータを中心にして停車しています。
2・3番のりばの間には、客扱いをしない列車(後藤総合車両所への出入庫回送列車などが使用)の着発線、4番のりばの横には側線があります。
ホームはいずれも駅の3階にあり、鳥取駅を含めて前後の区間はスラブ軌道がメインの高架となっています。


改札口から各ホームに、エレベーターが1基ずつ設置されている。(以前よりエレベーターは設置されていたが改札外にあったため、利用の際は係員に申し出る必要があった)
また以前、改札外に設置されていた待合室は、駅利用者以外の利用増加により撤去され、現在は改札内に待合室が設置されています。
駅ビル西側には商業施設「シャミネ」や、日本旅行Tis鳥取支店などが入っている。


鳥取駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先 備考
1・2 ■山陰本線 下り 倉吉・米子方面
上り 浜坂・豊岡方面 「はまかぜ」は1番のりば
■因美線 - 若桜・智頭・岡山・三ノ宮・大阪・京都方面 京都行き「スーパーはくと」は1番のりば


3 ■山陰本線 下り 倉吉・米子方面
上り 浜坂方面 普通列車のみ
■因美線 - 若桜・智頭・岡山方面
4 ■山陰本線 下り 倉吉・米子方面
■因美線 - 若桜・智頭・岡山方面

2010年3月現在、「スーパーおき/まつかぜ」の乗車位置目標は全ホームに、「スーパーいなば」の乗車位置目標は1・3・4番のりばに、「はまかぜ」の乗車位置目標は1番のりばのみに設置されています。京都行きの「スーパーはくと」については不定期に指定席車の増結があることから、固定の乗車位置目標ではなく小型モニターで乗車位置を案内いたします。このモニターがあるのは1番のりばのみであるため、同列車は原則1番のりば発着となる。倉吉行きの「スーパーはくと」の乗車位置目標は自由席車分のみ3・4番のりばに設置されています。
2010年10月ごろから駅自動放送が更新され、同支社の米子駅や北越急行ほくほく線のまつだい駅で使用されているものと同じ接近メロディーが流れるようになりました。

ホーム上のそば屋「砂丘そば」は駅弁屋が経営している様子です。

改札とホーム間には中二階のようなスペースがあり、若干の待合機能があります。

分岐する因美線からはJRの他、智頭急行と若桜鉄道の列車も乗り入れてきます。

駅の正面口(北口)からは鳥取市のメインストリートである本通り(国道53号・国道373号)が伸び、若桜街道(同)につながって市役所、県民文化会館の側を過ぎて久松山近くの県庁へと伸びる。鳥取大丸などの商業店舗が集中している。駅の南側も80年代後半より整備され、イオン(旧ジャスコ)などが出店している。全国的に進む郊外型の大型店舗(ロードサイド店舗)の出店は鳥取市も例外ではなく、本通りや若桜街道の客足は確実に大型店舗に向かっておりかつてほどのにぎわいはなくなりつつある。現在、鳥取市内で唯一の映画館である鳥取シネマは駅から徒歩圏内にある。

1907年(明治40年)4月28日 - 官設鉄道の路線(現在の山陰本線)が青谷駅から延伸した際の終着として、千代川左岸の鳥取市古海に鳥取仮停車場開業。
1908年(明治41年)4月5日 - 千代川を渡る鉄橋の開通により、その対岸に鳥取駅が開業。客貨取扱を開始。鳥取仮停車場は同時に廃止。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。山陰本線の所属となる。
1910年(明治43年)6月10日 - 山陰本線が当駅から岩美駅まで延伸、途中駅となる。
1919年(大正8年)12月20日 - 因美軽便線(現在の因美線)が用瀬駅まで開業、乗換駅となる。


1922年(大正11年)9月2日 - 軽便線制度廃止に伴い、因美軽便線が因美線に改称。
1928年(昭和3年)3月15日 - 因美南線の部分開業に伴い、因美線が因美北線に改称。
1932年(昭和7年)7月1日 - 鳥取 - 津山間の全通に伴い、因美北線が改めて因美線の一部となる。
1974年(昭和49年)12月12日 - 駅高架化工事着工により、貨物取扱業務を湖山駅へ移管。
1978年(昭和53年)11月8日 - 高架駅化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。

電報略号 トリ
駅構造 高架駅
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 5,671人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1908年(明治41年)4月5日
乗入路線 2 路線
所属路線 ■山陰本線
キロ程 230.3km(京都起点)
◄*福部 (11.2km)(4.2km) 湖山►
所属路線 ■因美線
キロ程 0.0km(鳥取起点)
(4.3km) 津ノ井►
備考 直営駅
みどりの窓口 有
* この間に滝山信号場有(5.3km先)

 

 

 

 

幸田駅 東海道本線

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幸田駅は、幸田町の中心部に位置する駅で、普通列車・区間快速のほか、一部の特別快速・新快速・快速が停車します。留置線に貨物列車が停車していることもある。東海交通事業が業務を受託する業務委託駅で、岡崎駅が幸田駅を管理しています。


駅名の読みは「こうだ」ですが、地名の読みは「こうた」です。これは地名の読みも「こうだ」だった時の名残です(幸田町は1954年に旧豊坂村と合併した際に読みを「こうた」に改めました)。所在地は愛知県額田郡幸田町大字芦谷字幸田。東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅です。

 

駅舎が置かれている東側は、幸田町の中心市街地であり、駅前から南にかけて商店街が広がっています。しかし、近年ではスーパーの閉鎖や建物の老朽化などが進んで求心力が低下しており、町は区画整理事業を行っています。一方で、駅西側には駐車場がありますが、田園風景が広がっています。

1900年、相見村(現在の幸田町中部)の志賀藤助村長が同志らと村内に駅設置を企画し、設置期成同盟会を作りました。同盟会は村内各地区ごとに募金を募り、隣村にも協力を依頼しまし。相見村の動きを受けて、深溝村(現在の幸田町南部)でも期成同盟会が発足しています。1902年、蒲郡駅〜岡崎駅間の複線化により、相見村の山本鍬之助村長と、地元選出の県会議員・足立信次郎の要請で新駅設置は実現段階に入り、1906年に相見村・坂崎村・深溝村の3村が合併して広田村が発足。これを機に、駅設置場所を芦谷信号所北350mとし、1906年6月1日に起工し1908年4月1日に幸田駅として開業しました。当時の自治体名は広田村でしたが、既に福島県に広田駅が開業していたため、「幸田駅」として開業しました。

翌年に、村名も幸田村に改称しています。
戦後、駅の利用者増加により町は国鉄に駅の改修を要望するが、国鉄は財政難から難色を示したため町が1952年に跨線橋を設置、1953年には開業時のままで老朽化していた駅舎を改築し、国鉄に寄付しました。同年には、国鉄がホームに待合室と上屋を設置。1970年、下り待避線が設置されました。また、予てからあった西口設置の要望に対し、1974年に駅の西側を結ぶ地下道を設置しました。1982年からは駅業務を民間に委託しています。


島式ホーム1面2線を持つ地上駅。下り線側に2本、上り線側に1本留置線がある。
駅舎は構内東側にあり、ホームとは跨線橋で連絡しています。駅舎にはみどりの窓口や自動券売機、自動改札機(TOICA対応)が設置されています。改札外に待合室があり、東海キヨスクが設置されています。ホームにも待合室が設置されている。2008年3月、跨線橋にエレベーター2基の設置が完了しました。駅舎北側より線路西側へ出る地下通路(自由通路方式)があります。ただし、歩行者と自転車専用で自動車等の車輌は通行できません。


幸田駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■東海道本線 上り 豊橋・浜松方面
2 ■東海道本線 下り 岡崎・名古屋方面
かつては、駅北東にあった三菱レイヨン幸田工場への専用線が駅から分岐していた。専用線の廃線跡はほとんど残っていません。

 

1906年(明治39年)4月 - 国有鉄道東海道線(1909年に東海道本線に改称)の蒲郡 - 岡崎間に芦谷信号所として設置。
1908年(明治41年)9月11日 - 駅に昇格、幸田駅が開業。一般駅。
1971年(昭和46年)10月4日 - 貨物の取扱を廃止。
1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東海旅客鉄道の駅となる。
1996年(平成8年)10月5日 - 自動改札機設置。
1999年(平成11年)12月4日 -ダイヤ改正にて快速・新快速停車駅となる(基本的に三河三谷駅との交互停車)。
2008年(平成20年)3月 - エレベーターの設置完了。
2009年(平成21年)8月 - TOICA対応タッチパネル式自動券売機稼動開始。

電報略号 コタ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 4,282人/日(降車客含まず)
-2009年-
開業年月日 1908年(明治41年)9月11日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有

 

NARUTO−ナルトー列車 JR西日本

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美作(みまさか)エリアを走るNARUTO−ナルトー列車です。ナルトVSサスケがラッピングされた2両編成の列車!

平成26年3月末まで運行予定です。1両編成のNARUTO−ナルトー列車もあり2両編成の列車とは違うデザインのとの事。

美作国建国1300年キップ(特典付き)も発売されています。大人1300円子供500円 岡山県内の主な駅〜美作フリー区間までのJR往復きっぷ+美作フリー区間1日乗り放題 販売箇所:岡山・福山エリアの主なみどりの窓口

特典はNARUTO−ナルトーオリジナル缶バッチプレゼント!!津山駅前観光案内所、真庭観光案内所でNARUTO−ナルトーオリジナル缶バッチと引き換えできる「引換券」を一枚渡してくれる。季節毎にデザインが変わり全4種類。

春はサクラ。夏はカカシ。秋はサスケ。冬はナルト。4月3日の出発イベント(特典クリアファイル)は終了しましたが他にもイベントを準備中!?


美作国を体験・探訪してアルト・サスケ・サクラ・火影のシールを集め応募すると抽選で賞品がプレゼントされる。
体験イベントに参加して、四代目火影シールを集めよう!春・夏・秋・冬の34の体験イベントに参加すると、それぞれのイベントにつき1枚火影がもらえる。美作国を巡って、ナルト・サスケ・サクラのシールを集めよう!美作国の36ヵ所のシール設置場所に行くと、ナルト、サスケ、サクラの3種類のシール、いずれか1枚がもらえる。


岡山市内中心部に位置する「ももたろう観光センター」、「岡山城」、「出石しろまち工房」、「岡山後楽園」の4ヵ所を巡ると、各ポイントでここでしか手に入らないオリジナルカードがもらえる!集めたカードを台紙にセットすると、裏面にキーワードが出現!キーワードを答えて応募すると、抽選で合計160名様にプレゼントが当たるよ!※カードラリー台紙・カードは4ヵ所で手渡しで配布しています。平成25年4月26日(金)〜8月31日(土)

ナルト:体内に九尾の妖狐を封印された落ちこぼれ忍者・うずまきナルトが、里一番の忍である火影を目指し、数々の試練を乗り越え成長していく物語。仲間との友情、裏切りと復讐、師弟の絆が中心として描かれ、諸国の忍とド派手な戦いを繰り広げていくバトルアクション漫画。


本作の人気は連載当初から順調に伸び、『ONE PIECE』と並ぶ『週刊少年ジャンプ』の看板作品となっている。2002年から、ぴえろ製作のテレビアニメが放送開始。一部終了後に85話のアニメオリジナルストーリーを挟み、二部からは『NARUTO -ナルト- 疾風伝』というタイトルにリニューアルされている。


日本国内にも増して、海外では極めて人気が高く、2000年代を代表する『ドラゴンボール』の後継作品として認知されている。単行本は30ヵ国以上で翻訳出版され、累計3,000万部を記録(2009年時点)。アニメ放映は80ヵ国以上、ライセンス商品は90ヵ国以上で販売されている。主人公のナルトは「ニューズウィーク日本版」2006年10月18日号の特集「世界が尊敬する日本人100」に選出された。

2009年米Yahooの検索ワードランキングで6位につけ、テレビアニメが高視聴率を記録するなど、米での注目度も高い。


単行本の国内累計発行部数は2013年2月時点で1億3128万部。アメリカでは900万部。欧州でも熱狂的な人気を誇り、フランスでは書籍全体の週間売上で1位になるなど、1,900万部を売り上げている。また、テレビゲームのナルティメットシリーズは、世界累計800万本を記録している。
作者の岸本は「『NINKU -忍空-』の続きが読みたくて本作を描いた」と語っている。

キハ47形
1.3m 幅の両開き扉を車体中央寄り2か所に配置した、いわゆる「近郊形」のレイアウトである。キハ40形・キハ48形よりもラッシュ時などの客扱い能力を重視した片運転台車であり、仕向け地とトイレの有無により細かな番台区分がある。車内の化粧板はクリーム色系だが、初期に製造されたキハ47 1 - 16は緑色系である。デッキは装備せず、北海道向けの酷寒地仕様も存在しない。客室窓は2段上昇式ユニット窓である。

岡山駅のコンコースのガラスにNARUTOがデコレーションしてありました。



全天候型救命艇/海上自衛隊

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救命艇
救命艇は、船舶の基本装備のひとつであるが、膨張式救命筏や他の搭載艇によって代替えも出来るため、大型の遠洋海域航行用を中心に搭載されています。


近年の救命艇は全天候型で、風雨から乗組員を守るため全閉囲式となっており、艇内には食料や水などが搭載されていて、救助までの期間を安全に過ごすことが出来るようになっています。

現代のモーター救命艇(MLB)は、最初の追加改造されたエンジンより大きなパワーを持ち、波のうねりを乗り切ることができるようになっています。そしていかなる悪天候でも遠い沖合いで海に出ることができます。昔の救命艇は帆とオールに頼っていて、遅く、また風の状態や人力に依存していました。現在はこの両方のタイプが使われている。このタイプの救命艇はすべて標準的に遭難者を見つけるための国際VHFやレーダーなどの最新の電子装置を備え、生存者のために医薬品と食料を携えています。


最初のMLBは1899年に合衆国救命局(USLSS)で作られ、その船体デザインは1987年のモデルまで受け継がれた。USLSSは後にアメリカ沿岸警備隊となって、発足時の救命業務を継続しています。
救命艇は内陸で運用される場合もある。王立英国救命協会(仮訳)(en:Royal Life Saving Society UK、RLSS UK)などの組織は、河川や湖といった領域も行動範囲としている。

イギリスの最初の救命艇基地は1776年、フォーンビーの海岸にリヴァプール市会議員であったドック長ウィリアム・ハッチンソンによって設立された。
最初の救命艇はイギリスのライオネル・ルーキンの製作です。ルーキンは1784年、20フィートのノルウェーのヨールを改造し、浮力を増すために防水コルクで船室を満たし、復原性を高めるために鋳鉄製の竜骨を装着しました。
これらの救命艇には6人ないし10人の志願者が乗り組んでいました。彼らは王立救命艇協会(イギリス:Royal National Lifeboat Institution(RNLI)、1824年設立)や合衆国救命局(アメリカ:United States Life Saving Service(USLSS)、1878年設立)などの組織に属しており、船が遭難したときには海へ漕ぎ出し、船上の不運な命を救うために彼らの命を賭けた。イギリスの場合、彼らは一般に地元の船乗りでしたあった。
専門に作られた最初の救命艇はヘンリー・グレートヘッドの建造によるもので、1790年1月29日にイングランドのタイン川でテストされた。最初の救命艇の発明者としてはウィリアム・ウッダブとライオネル・ルーキンも名乗りを上げている。初期の救命艇の1例としては、リチャード・ホール・ガウアーによって設計された1821年のランドガード・フォート救命艇が上げられます。
イギリスの救命艇は帆とオールを備えていた。また回頭する必要がないように、船のどちらの端でも舵の操作が可能な構造になっていました。
1899年、マルケット救命基地の要請により、レイク・ショア・エンジン会社によって、スペリオル湖(アメリカ、ミシガン州)の34フィート救命艇に2気筒12馬力の内燃エンジンが取り付けられた。この初めてのモーター救命艇(Motor Life Boat、MLB)は成功し、救命艇基地は次々にその保有する救命艇にエンジンを取り付けていきました。
1909年には、アメリカのエンジン付き救命艇の数は44隻となり、出力も40馬力まで増加。1915年、USLSSと税関監視艇局(en:Revenue Cutter Service)が合体してアメリカ沿岸警備隊となった。当初の保有MLBは36隻でした。
最近では沿岸の救難に最適なものとして、風や波によって転覆する危険の少ない、固定式の船殻を持つ膨張式ボート(en:Rigid Hulled Inflatable Boat、 RIB)が使用される。特別に設計されたジェット救難艇もまた有効に使われている。普通のプレジャーボート等と異なり、これらの小型ないし中型の救難艇は、遭難者を吊り上げることなく船内に収容できるよう、一般にきわめて低い乾舷を持つ。通常の船とは異なり、浮力タンクにより浮力を得るよう設計されていることから、船体内に水が入っても行動可能である。(通常の船は船体が水を押しのけることにより浮力を得ている。)

 

 

児島駅 /本四備讃線

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児島駅は、倉敷市の南東部に位置する児島地域の中心駅。岡山県倉敷市児島駅前一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・四国旅客鉄道(JR四国)本四備讃線(瀬戸大橋線)の駅です。駅前広場は整備され、タクシーやバス乗り場として大きなロータリーが取られていますが、これは四国新幹線用地。周囲は市街地が形成されています。児島は倉敷市の一部で単独の市ではありません。

本州と四国を結ぶ瀬戸大橋の本州側の起点であり、全旅客列車が停車する運行上の拠点となる駅である。1990年末に下津井電鉄線が廃止された現在では岡山県で最南端の駅でです。
JR西日本とJR四国の会社境界駅でもあり、当駅はJR西日本の管轄である。会社境界標は宇多津駅方の場内信号機付近にあります。2008年時点では、旅客列車の乗務員はすべて児島駅で交代します。


かつてJR西日本の乗務員がJR四国線多度津駅まで乗務し、徳島駅からの「うずしお」ではJR四国の乗務員がJR西日本線岡山まで乗務していた時期もありました。これは当時、本州に直通する特急列車に運用されていたキハ181系の瀬戸大橋上での騒音が問題となり、気動車特急列車を65km/hに減速して運転する代わりに当駅通過となったことによります。その後本州に直通する気動車特急列車はすべて騒音が少ない2000系に置き換えられ、当駅に停車するようになりました。現在は全ての特急列車が停車し、当駅でJR西日本とJR四国の乗務員の交代が行われます。
四国方面発着の普通列車はすべて当駅で快速「マリンライナー」と特急を待避するほか、四国に入らずに当駅で折り返す普通列車は当駅にて四国方面行きの「マリンライナー」へ接続いたします。

駅の開業以来、一等地であるはずの市街地(西)側の表口広場が駐車場やバス待機場として使用されているのは、四国新幹線が新線で建設された場合の予定地とされているためです。ただし、JR西日本では軌間の異なる新幹線から在来線への直通運転を可能とするフリーゲージトレインの開発に参加しており、四国4県も宇野線岡山 - 茶屋町間の複線化を推進している状況で、新幹線建設はまったく具体化されていません。


島式ホーム2面4線を有する高架駅で、列車有効長が通常より長く取られています。これは、この先の瀬戸大橋が強風などで運転見合わせになって、四国へ渡る列車が進めなくなった時、できるだけ多くの列車を停車させられるようにしているためです。また、定期客車列車の運転が廃止されたことにより、2006年9月までにホームのかさ上げ工事が施工されました。

児島駅にはみどりの窓口・みどりの券売機があり茶屋町方のみに両渡り線があります。各ホームにはエレベーターが設置されており上下線ホーム上に乗務員詰所があります。駅舎内にはコンビニキヨスクがあり、土産物なども売っています。

高架ホームの4番下り待避線外側に1線分のレールが敷設できるスペースが取られているが、2009年時点ではレール及びバラストもしくはスラブ軌道や架線等の設置はされていません。
列車接近メロディは2012年3月から暫くの間JR西日本標準のメロディのみに変更されていたが、その後再度変更され現在は『瀬戸の花嫁』が流れ終わった後に続いてJR西日本標準メロディが流れます。
児島駅はJR西日本直営駅であり、管理駅として宇野線内の全駅(岡山駅を除く)と、本四備讃線の植松駅・木見駅・上の町駅を管轄しています。
児島駅から岡山方面ではICOCAが利用可能です。四国方面への乗車時はICカード利用不可となるため、四国方面行きのりばのLED式発車標では、その旨の案内がしばしば表示されます。なお、2012年3月17日に坂出駅・高松駅でのみICカードの利用ができるようになるが、この場合でも山陽本線本郷駅以西の駅、呉線・可部線各駅から乗車した場合はこの両駅に行けません。

児島駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先 備考
1 ■瀬戸大橋線 上り 茶屋町・岡山方面 普通列車(一部4番のりば)
2 ■瀬戸大橋線 上り 茶屋町・岡山方面 快速・特急
3 ■瀬戸大橋線 下り 四国(高松・松山・高知)方面 快速・特急
4 ■瀬戸大橋線 下り 四国(観音寺・琴平)方面 普通列車
内側2線(2番・3番のりば)が本線、外側2線(1番・4番のりば)が待避線であるが、待避有無に関係なく種別ごとにホームを使い分ける。児島駅始発の岡山方面行き普通列車は基本的に1番のりばから発車するが、一部の時間帯には4番のりばからの始発列車もあります。

児島駅は、児島旧市街地沖の野?浜と呼ばれた塩田跡に建設され、駅周辺は新たな市街地として整備された。この街開きのイベントでもあったのが瀬戸大橋架橋記念博覧会(瀬戸大橋博'88・岡山)であり、その会場(現在の児島駅前一丁目・四丁目の大部分)でもあった。現在は多くの店が進出し商業地区となっています。
見所として、北西の旧市街地に江戸時代に塩田開発を進め、野?浜の由来となった塩田王・野?武左衛門が建てた野?家旧宅がある。南方には児島競艇場があり、レース開催時には競艇場への観客で駅が賑わう。また、児島半島の南端にある鷲羽山には、絶叫マシンやバンジージャンプがある遊園地鷲羽山ハイランドもあります。

かつては当駅から西に約700m離れた場所に下津井電鉄下津井電鉄線の児島駅があったが、モータリゼーションの進行による乗客の減少のため、1991年1月1日に下津井電鉄線とともに廃止された。廃止後も、駅舎は下津井電鉄の旅行センターとして活用され残っています。

1988年(昭和63年)
3月20日 - 開業。「瀬戸大橋博'88・岡山」の観客輸送のため、当駅まで先行開業。
4月10日 - 瀬戸大橋開通、本四備讃線全線開業。
2007年(平成19年)
7月5日 - ICOCA対応の自動改札機導入。
9月1日 - ICOCA使用開始。

電報略号 コシ
駅構造 高架駅
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 4,027人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1988年(昭和63年)3月20日
備考 直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有
* 会社境界駅(JR西日本の管轄駅)
** 上の町方 - JR西日本
** 宇多津方 - JR四国

 

 

 

 

上郡駅 /JR山陽本線/智頭急行

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上郡駅(かみごおりえき)は、小駅ですが、智頭急行が分岐し、大阪方面からの列車の半数が折り返す、運行上の重要拠点駅です。兵庫県赤穂郡上郡町大持にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽本線・智頭急行の駅です。

JR西日本の山陽本線と、智頭急行の智頭線が接続する駅であり、智頭急行は上郡駅が起点です。上郡駅を経由して鳥取方面へ向かう特急列車は上郡駅から智頭線に入るため、上郡駅で乗務員交代が行われます。


上郡駅は兵庫県と岡山県の県境に位置しており、京都・大阪方面からの新快速・快速列車の運行は当駅までです。そのため、アーバンネットワークの路線図も、上郡駅が「終点」扱いとなっています。近畿統括本部が管轄する最西の駅であり、列車運用的にも、上郡駅が折り返し駅です。


JRの駅は直営駅であり、相生駅の管理下に置かれているが、地区駅として駅長が配置されています。ICOCAは両会社ともサービスエリア外のため使えない。


終戦後すぎには当駅発の定期長距離列車が存在していました。宮脇俊三の時刻表昭和史によると昭和20年9月号には上郡駅始発・青森行きの普通「507列車」の設定がされており、上郡駅を6時59分に出発して終着の青森駅には翌日の17時06分の到着(所要時間は34時間7分)であった。

明治28(1895)年4月開業時の駅舎。古い木造、地平駅舎の有人駅です。みどりの窓口はあるが自動改札機は非設置で、前述の通りICOCA等のカードは利用できません。バリアフリー化工事の完成により、新しい跨線橋の運用を開始し、合わせてエレベーターの利用も始まっています。

駅入口に若干の段差がありますが、スロープの改修によりバリアフリー化。改札外に売店(月曜 - 土曜の午前中のみ営業)と飲料の自動販売機があり、2番のりば・3番のりばホームには待合室と飲料の自動販売機があります。智頭急行線改札内にも飲料の自動販売機があります。

また、1990年代中途までは駅弁の販売があったが、店主が体調を崩して廃業しました。キオスクはシャッターが閉まっていたので撤退したのかもしれません。トイレは、1番のりばホーム及び改札外に多機能トイレが設置されている。智頭急行線駅舎内(改札外)には水洗式トイレがあります。


12両対応の2面4線のホームを持つ。1番線が上り本線、2番のりばが中線、3番のりばが下り本線という構成。山陽本線の貨物列車は、上りは1番のりば、下りは3番のりばを通過いたします。智頭急行線ホームは2・3番のりばホームの西側の切り欠き部にあり、智頭急行駅舎・中間改札で仕切られています。

智頭急行線には独自の跨線橋がJR上郡駅舎の岡山寄りにありJR改札を通らずに利用できる。また、2番のりばは当駅で折り返しとなる新快速・普通列車と当駅でスイッチバックを行う特急「スーパーいなば」が使用します。智頭急行線の普通列車は発着場所は智頭急行のホームを使用する。



上郡駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先 備考
JR線のりば
1 ■山陽本線 上り 姫路・大阪方面 京都行きの特急含む
2 ■山陽本線 上り 姫路・大阪方面 当駅始発列車(7時29分発のみ1番線)と21時21分発の岡山方面からの列車
□特急「スーパーいなば」 鳥取方面/岡山行き 両方向ともこのホーム


3 ■山陽本線 下り 岡山・三原方面
□特急「スーパーはくと」 鳥取方面
智頭急行線のりば


■智頭線(普通列車) 佐用・大原・智頭方面
3番のりばの隣にホームのない下り待避線(4番線)も敷設されていて、貨物列車の待機用などに使われています。その隣には留置線も敷設されていて、夜間滞泊に使われています。

日中時間帯は1時間あたり2本(1本は当駅折り返し)が停車いたします。朝の当駅始発・深夜の上郡駅止まりで大阪・京都方面への「新快速」・「普通」列車(西明石駅から「快速」)が上り4本、下り3本設定されており、始発は5時14分、最終着は0時34分である。

この方面で一番遠くは、米原駅経由で大阪近郊区間の北端である近江塩津駅まで行く新快速も出る(土曜・休日朝6時43分発)が、上郡駅始発の8両は米原駅止まりになっています。ただし、それ以外の時間帯の大阪・京都方面の列車は赤穂線播州赤穂駅方面に出入りするため、上郡駅に乗り入れる姫路方面の列車は相生駅または姫路駅で折り返す列車が中心となっています。


JR神戸線の大阪駅を発着する列車で最も遠い発着駅となっています。
日中時間帯は姫路駅に行く場合でも相生駅で乗り換えが必要となったことから、乗客がさらに落ち込んでいます。


山陽本線・智頭急行線(京都・鳥取方面)
特急「スーパーはくと」(京都駅 - 当駅 - 智頭駅 - 鳥取駅 - 倉吉駅)
山陽本線・智頭急行線(鳥取・岡山方面)
特急「スーパーいなば」(岡山駅 - 当駅 - 智頭駅 - 鳥取駅)
山陽本線(大阪・京都方面)
新快速(当駅 - 姫路駅 - 三ノ宮駅 - 大阪駅 - 京都駅 - 野洲駅 - 米原駅)※曜日によっては行き先が異なる。

1893年(明治26年)9月18日 - 大鳥圭介が兵庫県知事に上郡村への新停車場設置を請願。
1895年(明治28年)4月4日 - 山陽鉄道の有年駅 - 三石駅間に当駅が新設され、旅客・貨物の取扱を開始。
1906年(明治39年)12月1日 - 山陽鉄道の国有化により国有鉄道の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。山陽本線の所属となる。
1959年(昭和34年)9月22日 - 山陽本線 当駅まで電化完成
1972年(昭和47年)3月15日 - 貨物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。


1994年(平成6年)12月3日 - 智頭急行智頭線が開業。乗換駅となる。
1997年(平成9年)11月29日 - 特急「いなば」 当駅でスイッチバックする方式で運転開始
2006年(平成18年)3月18日 - 寝台特急「出雲」の廃止に伴い、鳥取方面の利便性を向上する為、「サンライズ瀬戸・出雲」が停車。
2008年(平成20年)11月22日 - バリアフリー化工事の完成に伴い、新跨線橋及びエレベーターの運用を開始。
2009年(平成21年)
8月10日 - 台風9号の影響による大雨の被害により、智頭急行線の列車(同線経由の特急含む)の発着が一時的に無くなる。
8月12日 - 「スーパーはくと」のみ、平福駅 - 大原駅間で代行バス輸送を介し運転再開となり、当駅への発着再開。
8月29日 - 智頭急行線が全面的に運転再開。
2010年(平成22年)3月13日 - ダイヤ改正により寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」が当駅には停車しなくなり、通過となる。
2011年(平成23年)7月1日 - 駅前広場築造工事完成。ロータリー運用開始。

電報略号 カミ
駅構造 地上駅
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- (JR西日本)
2,952人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1895年(明治28年)4月4日
乗入路線 2 路線
所属路線 ■山陽本線(JR西日本)
キロ程 89.6km(神戸起点)
◄有年 (6.5km)(12.8km) 三石*►
所属路線 ■智頭急行智頭線
キロ程 0.0km(当駅起点)
(4.8km) 苔縄►
備考 共同使用駅
両会社とも直営駅
JR駅舎にみどりの窓口 有
両会社は別駅舎で中間改札有
* この間に神戸支社と岡山支社の境界標あり(当駅から有年寄りは神戸支社管内)

 

 

 

 

 

 

 

6月1日(土)のつぶやき

キハ47形

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キハ47形 日本国有鉄道(国鉄)が製造した一般・近郊形気動車のグループである国鉄キハ40系気動車の改造により発生した派生形式です。

キハ40系は1977年(昭和52年)から1982年(昭和57年)にかけて計888両が製造され、日本全国の非電化路線に投入された。2010年現在でもJR旅客鉄道各社に多数が在籍し、主に普通列車用として広く用いられている。
電車に近い車体構造の大型気動車で、客室設備の改善や走行機器の刷新なども図られている。その一方で、それ以前の在来型気動車と比較してエンジン出力は若干増加したものの重量も増加しており、動力性能はほとんど向上していない。


キハ47形 朱色
2005年6月
1.3m 幅の両開き扉を車体中央寄り2か所に配置した、いわゆる「近郊形」のレイアウトである。キハ40形・キハ48形よりもラッシュ時などの客扱い能力を重視した片運転台車であり、仕向け地とトイレの有無により細かな番台区分がある。車内の化粧板はクリーム色系だが、初期に製造されたキハ47 1 - 16は緑色系である。デッキは装備せず、北海道向けの酷寒地仕様も存在しない。客室窓は2段上昇式ユニット窓です。

1000番台
キハ47 139
2010年5月
温暖地向け仕様車で、0番台車はキハ40形100番台車と相前後して1977年上期に製造が開始された。金属バネ台車装備。トイレ付きの0番台車は1983年までに193両 (1 - 193) が、その後1978年から製造が開始されたトイレなしの1000番台車は1982年までに134両 (1001 - 1134) が製造された。この温暖地向けキハ47形327両が本系列の最大グループである。

全長21.3m(車体長20.8m)、幅2.9mという急行形気動車並の大型車体である。酷寒地や海岸沿いでの使用を考慮して外板、屋根板、床板には車両用耐候性高張力鋼板 (SPA) を用いており、耐久性を高めているが、板厚は例えば同じSPAを使用した201系電車と比較すると、外板厚が2.3mmに対して国鉄気動車標準の1.6mm、屋根板厚は1.6mmに対して1.2mmと薄く、台枠に設けた軽量孔とともに軽量化にも一応配慮している。落成時期の関係から、製造当初は全車が朱色5号と呼ばれる明るい朱色一色、一部地域で「首都圏色」と呼ばれる塗装で落成しており、従来の一般形気動車の標準塗装であったクリーム4号と朱色4号の2色塗り分けで落成した車両は存在しない[2]。
前頭部はキハ66系のものを踏襲したもので、踏切事故・衝突対策として高運転台化、運転室長さの350mm拡大、前面の外板を4.5mm厚に強化、床下前面にスカートを装着している。運転台窓は運転席からの展望性に配慮した側面部に回り込んだパノラミックウィンドウを用い、前照灯は前面窓上にRBS-24V形150/50Wシールドビームが2灯、尾灯は在来形気動車よりも高い位置に40Wのものが2灯、それぞれ左右に振り分けて設置され、貫通路直上には列車種別表示器も設けられている。なお、これらの構成は設計年次が近いキユニ28形などの改造車も同様で、当時の標準設計であった。
側窓は酷寒地形を除き、外はめ式のアルミ合金製2段ユニット窓として工数を削減している。酷寒地形は小型の1段上昇窓で、FRP製窓枠による内窓を組み合わせた、二重窓構造とし、冬季の車内保温を図っている。

キハ47形はやや車体中央寄り2か所に1.3m幅の両開き扉を設けている。いずれもステップ付で半自動扉であるが、ドアエンジンは在来車の様な当初からの半自動式用ではなく、自動式用ドアエンジンの指令回路のみを変更して半自動動作に対応させており、人力での開閉はやや重い。運転台は機器配置・座席形状共人間工学に配慮した構造となっている。また、投入線区の運用実態に配慮して製造時より側面にタブレットキャッチャーとその防護板を設け、タブレット閉塞式での通過運転に対応した。客室内壁の化粧板は、在来形気動車に比してやや明るい色調でまとめられている。座席はボックスシートを基本としてドア付近にのみロングシートを配したセミクロスシートとした。ボックスシートはシートピッチをキハ58系気動車までの急行形車両と同等の1,470mmとし、一般形気動車として初めて人間工学を採り入れた新形状のものとした。暖房はキハ22形やキハ56系と同じ温水暖房式であるが、機関廃熱および機関予熱器での軽油燃焼による熱を使用して床下の熱交換器で温風を作り車内に循環させる方式[3]を採用した。1両あたり2基搭載された熱交換器により暖房能力は公称30,000kcal/hとなり、従来の軽油燃焼式温風暖房に比して著しく強力な暖房能力を得た。これは機器搭載に床下スペースを必要とするという難点があるものの、温水を車体内に通す必要が無く、構造も単純であった。加えて運転室内には自動車用温水暖房装置が併設されている。

系列のエンジンは標準機関として従来のDMH17系エンジンに代えてDMF15HSA形を搭載する。このDMF15HSAは水平シリンダ形の予燃焼室式直列6気筒機関であり、TB11B形排気タービン過給器を装備、補機類はCW750D空気圧縮機、DM99AもしくはDM99B形4kVA交流発電機などで、いずれも歯車駆動としてVベルトを廃止している。
この機関は新系列大出力気動車の試作車であったキハ90形に搭載されていたDMF15HZAをルーツとするもので、ガスケット吹き抜け対策や新しいPE-P形燃料噴射ポンプの採用などの改良がなされたキハ66系用のDML30HSHを基本とし、これに加えてDMF15HS-Gの使用経験を反映させたものである。
なお、地方線区向けの本系列においてはキハ66系用DML30HSHの採用は重量・イニシャル・ランニングコスト共に増大するため現実的ではなく、6気筒のこちらを採用したものである。

 

キハ47系 番台区分1000 新造時形式・番台別特徴一覧
・運転台:片 
・客扉:両開き
・仕向け地:暖地
・枕バネ:コイル
・デッキ:無
・便所:無 
・番台区分1000の両数:134
・製造年:52年度1次債務 - 56年度1次債務

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