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73式 特大型セミトレーラ/牽引車 陸上自衛隊

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73式特大型セミトレーラは、陸上自衛隊の装備。いわゆる戦車運搬車で、主に輸送科部隊に配備されています。

最大積載量40tの3軸トレーラです。流用元となった民間用の三菱ふそう・スーパーグレートと大差は無いが、上部に青い回転灯が追加される。塗装色はオリーブドラブ。悪路走破性を向上させるため、民間型よりも車高が上がっています。
戦車などの主として装軌車を運搬するためのトレーラー。74式戦車より10t以上重い90式戦車はそのままの状態では最大積載量をオーバーしてしまうため、運搬する際は車体と砲塔を分離させて搭載するか、特大型運搬車を使用します。


10式戦車は全備重量は約44t、約4t分の装甲などを取り外す事で、73式特大型セミトレーラの最大積載量に収めている。2010年12月までに、すでに73式特大型セミトレーラに10式戦車を乗せ砲塔と車体が一体の状態で輸送しているところが目撃されており、その際に東名高速道路および国道を走行している。牽引車も合わせると全長が17mにもなるため、平時の走行は夜間に限定されているらしい。
公道を走行の際には車両制限令に基づき、夜間に先導車をつけて走行しなければならない。

車輌等を積載する際は、トレーラー後部に車輌が登るためのローディングランプを取り付けるが、このローディングランプは1本で80kgほどもある。積載した車輌はブロックチェーンで固定する。

乗員数 3名
全長 11.32m(トレーラー)
全幅 3.29m(トレーラー)
全高 3.15m(牽引車)
重量 17,820kg(牽引車9,920kg+トレーラー7,900kg)
積載量 40,000kg
最高速度 59km/h
製作 三菱自動車工業(牽引車)、東急車輌(トレーラー)

 


旧伊藤伝右衛門邸 花子とアン (NHK連続テレビ小説)

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花子とアン (NHK連続テレビ小説)の登場人物 …伝右衛門が「嘉納伝助」として描かれています。


旧伊藤伝右衛門邸は、福岡県飯塚市幸袋にある伝統的建造物。炭鉱経営者であった伊藤伝右衛門が大正時代中期から昭和初期にかけて自身の本邸として造営したものである。門は福岡市天神の赤銅御殿から移築されたもの。飯塚市の有形文化財に指定されている。
庭園は「旧伊藤傳右エ門氏庭園」として国の名勝に指定されており、いずれも一般公開されている。


伊藤傳右エ門(は、大正時代中期から昭和初期にかけて、遠賀川中流左岸に形成された幸袋において、大規模な池泉庭園を伴う本邸を造営した。  

傳右エ門は明治44年(1911)に、後に白蓮の名の下に歌人として知られるようになった柳原?子と再婚し、本邸の建築と庭園を完成させた。  

庭園は、導入部の馬車廻しを中心とする広場部分をはじめ、建築群に挟まれた中庭の部分、敷地北半を占める大規模な主庭の3つの部分から構成される。

そのうち、特に主庭は、流れ及び2つの池泉の背後に緩やかに盛り上がる築山などから成り、主屋からの展望を意図した庭園であるとともに、様々な景を楽しむことのできる回遊式庭園でもある。

池泉に架かる石造の太鼓橋、2基の石造噴水、敷地の西北隅・東北隅に立つ石塔、随所に据えられた様々な形式の石燈篭、築山の頂部に建つ茅葺き八角形屋根の四阿など、近代の回遊式庭園として十分な質と量を誇る庭園景物が見られる。  

筑豊における炭鉱経営者の本邸庭園として貴重であり、変化に富んだ展望と特質のある景物には優秀な庭園意匠が認められ、その芸術上の価値は高い。

イベント:旧伊藤伝右衛門邸では飯塚市観光協会などの主催で各種イベント会場となる事が多く、『いいづか雛のまつり』(毎年3月)や各種企画展が開催される。


将棋の女流王位戦の対局場としても知られており、2014年5月21日には第25期王位戦対局(甲斐智美女流王位 - 清水市代女流六段)が開催された。

旧伊藤傳右エ門氏庭園:旧伊藤傳右エ門氏庭園は、旧伊藤伝右衛門邸の庭園である。邸宅南側の馬車廻しを中心とする広場、建築群に挟まれた中庭、邸宅北側の主庭の3つの部分で構成される。このうち主庭は主屋からの展望をも考慮した回遊式庭園である。2011年9月21日付で国(文部科学大臣)の名勝に指定された。傳右衛門の二度目の妻・柳原白蓮が嫁入り道具として持参した石灯篭 が残る。

場 所
〒820−0066 飯塚市幸袋300番地
指定面積
7,568.50?
開館時間
午前9時30分〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
入館料
高校生以上 300円(240円) 小中学生 100円(80円)
※( )内は20名以上の団体料金 ※土曜日に限り小・中・高校生は無料
休館日
水曜日(祝日の場合は開館)、年末年始(12月29日〜1月3日) ※なお、イベント開催期間中は無休
交 通
・福岡インターから 約45分・八幡インターから 約30分・筑後小郡インターから 約50分・JR 福北ゆたか線新飯塚駅下車 タクシー約10分・西鉄 「幸袋」バス停車下車後 徒歩2分
※飯塚バスセンターから「直方」「福祉センター(赤池)」「毛勝」行きに乗車
・JR九州バス 「幸袋本町」バス停車下車後 徒歩2分
※新飯塚駅バス停から「直方、福丸、宮田町」行きに乗車
駐車場 
旧伊藤伝右衛門邸駐車場、幸袋リサーチパーク内駐車場 無料 (計約150台分(大型バスも可))
※お問い合わせ先
旧伊藤伝右衛門邸
TEL 0948-22-9700
飯塚市 生涯学習部 文化課 飯塚市歴史資料館
〒820-0011 飯塚市柏の森959-1 TEL・FAX 0948-25-2930


伊藤 伝右衛門、1861年1月6日(万延元年11月26日) - 1947年(昭和22年)12月15日)は、明治・大正・昭和時代の福岡県筑豊の実業家・炭鉱主。傳右衛門、伝右エ門とも。
2番目の妻・?子(「あきこ」柳原白蓮)との離婚劇・白蓮事件でその名を知られる。

下浦駅 JR四国)徳島線

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下浦駅(しもうらえき)は、徳島県名西郡石井町浦庄下浦にある四国旅客鉄道(JR四国)徳島線の駅。

駅番号はB06。普通列車のみが停車する駅です。開業以来の無人駅で、戦前に休止され、戦後(1957年)に復活した駅です。

阿波池田に向かって右側に単式ホーム1面1線をもつ地上駅。開業以来無人駅で、ホームと待合所だけをもつ簡易な構造の駅となっている。ホーム待合所の中にはFRP製の椅子とごみ箱があります。ホームは2度に渡って延長した跡が残っています。ホームにはスロープで連絡します。駅前駐輪場は100mほど離れた川を渡った北側にあります。

1934年(昭和9年)9月20日 - ガソリンカー専用の停車場として開業。
1941年(昭和16年)8月10日 - 休止。
1957年(昭和32年)11月1日 - 営業再開。
1969年(昭和44年)10月19日 - 当駅で列車衝突脱線事故が発生。機関助士1人が死亡する。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄の分割民営化により四国旅客鉄道の駅となる。

電報略号 シラ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1934年(昭和9年)9月20日
備考 無人駅

 

10月5日(日)のつぶやき

窪川駅 JR四国 /土讃線 土佐くろしお鉄道

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窪川駅は、旧・窪川町の駅で、平成18(2006)年3月に合併により四万十町となりました。高知県高岡郡四万十町琴平町にある、四国旅客鉄道(JR四国)・土佐くろしお鉄道の駅です。土讃線の終着駅になります。駅番号はJR四国がK26、土佐くろしお鉄道がTK26。

旧窪川町、現在の四万十町の代表駅であり全列車が停車致します。JR四国の土讃線と、土佐くろしお鉄道の中村線の2路線が乗り入れており、土讃線は当駅が終点、中村線は当駅が起点となります。1951年に国鉄土讃本線の終着駅として開業し、その後土讃本線の事実上の延長として中村線が1963年と1970年の2回に分けて開業しました。


中村線を土讃本線の一部とせず独立させたことが赤字83線・特定地方交通線に指定される原因となり、国鉄分割民営化後の1988年4月1日に中村線は土佐くろしお鉄道に移管された。この年の6月10日には土讃本線が土讃線に改称されて現在の形となっています。


2012年3月17日ダイヤ改正時点では当駅には10往復の土讃線の特急列車が乗り入れているが、窪川駅始発の「あしずり」上り1本以外は全て中村線と相互直通運転を行っており、乗務員は窪川駅で交替いたします。普通列車の直通運転は行われていません。


JRは地上駅で昭和26(1951)年11月開業時の平屋のコンクリート駅舎です。JRと土佐くろしお鉄道の駅舎は別々になっており、土讃線から中村線への乗り換え時のみ、構内のホームにある中間改札が使用されます。単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の計2面3線を有する。各ホームは跨線橋で結ばれています。駅舎内にはみどりの窓口があり券売機が2台設置されています。

待合室ではキオスクが営業、木製の長椅子が設置されています。改札を入って左へ行くと、土佐くろしお鉄道のホーム、1番線に行く事が出来ます。

土佐くろしお鉄道の駅舎は2階建てで、JRの駅舎の北隣にあります。ホームは単式ホーム1面1線を有する。

のりば
1 ■土佐くろしお鉄道中村線 中村・宿毛方面 (普通のみ)
2 ■JR土讃線 高知・土佐山田方面 (普通のみ)


3 ■JR土讃線 須崎・高知・高松・岡山方面 (特急・普通)
   ■土佐くろしお鉄道中村線 中村・宿毛方面 (特急のみ)


4 ■土佐くろしお鉄道中村線 JR予土線直通(宇和島方面)
特急及び宇和島方面の列車は、JRのホーム(前者は3番線、後者は4番線)に停車する。

1951年(昭和26年)11月12日 - 日本国有鉄道の駅として開業。これに伴い、窪川本線(自動車線)の駅は「土佐窪川」から「窪川」に改称。
1963年(昭和38年)12月18日 - 中村線開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により四国旅客鉄道(JR四国)の駅となる。
1988年(昭和63年)4月1日 - 中村線が土佐くろしお鉄道に転換。

電報略号 クホ
駅構造 地上駅
ホーム 3面4線
開業年月日 1951年(昭和26年)11月12日
乗入路線 3 路線
所属路線 ■土讃線(JR四国)


所属路線 ■土佐くろしお鉄道中村線
(■JR予土線直通含む)
駅番号 ○TK26
備考 共同使用駅(駅舎は別)
みどりの窓口 有

 

荷稲駅 土佐くろしお鉄道中村線

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荷稲駅(かいなえき)は、旧国鉄時代からある高知県幡多郡黒潮町にある土佐くろしお鉄道中村線の駅です。駅番号はTK28。

黒潮町の集落から外れた山沿い山奥に位置しており、駅前に店舗などはありません。

単式ホーム1面1線を持つ地上駅。駅舎は無く、待合室、トイレ、駐輪場のみが設置されています。無人駅です。

ホームは切り立った崖に面しています。

駅舎に見えますが立派なトイレです。

閑散とした駅前の駐輪場。


1963年(昭和38年)12月18日 - 日本国有鉄道中村線、窪川駅・土佐佐賀駅間の開通に伴って開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により四国旅客鉄道に承継。
1988年(昭和63年)4月1日 - 土佐くろしお鉄道に転換。

電報略号 カナ
駅構造 地上駅
ホーム 単式 1面1線
開業年月日 1963年(昭和38年)12月18日
備考 無人駅

 

国鉄181系電車

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国鉄181系電車は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流用特急形電車。

1956年(昭和31年)秋の東海道本線全線電化に伴い、東京 - 大阪間を6時間30分で運転する電車特急が計画され、翌1957年に完成した国鉄初の新性能電車である90系電車(後に101系に改称)のシステムを基本にして設計された特急用電車である。落成当時の形式称号は20系電車であった。1958年11月に最初に投入された列車の愛称から「こだま形」とも呼ばれる。東海道新幹線開業前の東海道本線のみならず、国鉄黄金時代を象徴する車両である。1959年の第2回鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。


20系電車は、1959年の車両称号規程改正で151系電車に改称され、1962年には、上野 - 新潟間特急「とき」用に製造された派生形の161系電車が登場。1965年には、上記の2系列からの改造と新製車の仕様を統一した181系電車に発展している。
外観:本系列を最も特徴付けるのは、高速運転に備えて運転士の視界を確保するため高く上げられた運転台、騒音発生源を客室からできるだけ遠ざけるため電動発電機 (MG : 150kVA) や空気圧縮機 (CP : 3,000l/min) を搭載するボンネットにある。
また前灯・尾灯はボンネットの両側面に設けられたケースに収められ、さらに前灯1灯を運転台屋根上に搭載した。
当時の日本国有鉄道運転規則(省令)では前灯は1灯と決められていたが、110km/hという未曾有の高速運転の実施のため、運輸大臣の特認を得て遠方視認性向上を目的に増設された。
屋根上前灯横左右には、通過標識灯やマーズライトの機能を持つ青紫色に点滅するマーカーライトを設置。そのほか、後方防護用として、編成後部時には下部前灯に赤色フィルターを取付け、予期しない停車時用に交互点滅回路が装備された。
車体幅は2,946mm(骨基準)。高速運転に備えた低重心設計の観点と乗客全員の着席乗車を前提としたことから、客室床面高さは1,110mm、天井高は2,100mm、屋根高さは3,350mmと極力低く抑えられた。車体長は中間車が20,000mm(最大長20,500mm)、先頭車が21,000mm(最大長21,250mm、1960年以降は21,600mm)である。
これらの設計は特急列車専用車として徹底的な配慮がなされたもので、設計後50年以上経た現在においても十分通用する車体形状である。
騒音防止と冷暖房効果向上から鋼体内面には石綿の吹付け、グラスファイバーの貼付けのほか、床はキーストンプレートの谷を利用し防振ゴムをはめ込んだ浮床構造を採用。電動車は電動機点検口を廃止した。
空気抵抗低減を目的に車体断面全周を覆う形でゴム製外幌が採用されたが、保守が容易でないことから「こだま」12両編成化の際にファスナーで接合するタイプに変更され、同時に内幌にもファスナー接合方式が採用された。ところが今度は曲線通過時等の強度に問題が生じたため1962年以降の製造車では外幌が省略され、以前の車両でも撤去。同時に内幌も一般的なものに変更された。
外幌は1960年に製造されたキハ81系気動車にも採用されたが、後に同様の理由で撤去された。
塗色は当時話題になっていた欧州のTEE列車に倣い、クリーム4号を地色とした上で窓回り・裾・雨樋に赤2号の帯。ライトケースは逆に赤2号を地色とし、クリーム4号による細線を3本通した翼をイメージさせるものとした。窓回りとライトケース回りの帯端部は、運転台前部窓に対して60度の傾斜角度を持つ。


当初は側面の赤帯を前面へ回すことも検討されたが不採用となった。
前頭部に設置された特急の"T"を意匠化した逆三角形エンブレムはデザインは一般から公募されたものであり、側面に貼付されたステンレス製JNRマーク共々新たな国鉄特急の象徴として採用された。
これらは後に製造された殆どの国鉄特急用電車・気動車にも国鉄特急の一貫したイメージとして採用された。
本系列以前の機関車牽引特急列車では愛称と絵が入ったヘッドマークやテールマークが装着されていたが、本系列では五角形状のアクリル樹脂製電照式愛称板を前面中央部に掲出するスタイルに変更。白色の地に愛称名を文字で記すのみとなった。当初は「こだま」以外の定期運用がなかったため固定式であったが、1960年(昭和35年)の「つばめ」の電車化により交換可能な構造に変更された。
「つばめ」のヘッドマークは一目で「こだま」と判別を可能とする観点から愛称名上下に灰色の帯を入れるデザインとしたが、1961年(昭和36年)以降新たに設定された列車では簡略化のため「こだま」と同タイプに戻された。


車内設備:座席は、3等車が2人掛け回転クロスシート、2等車が2人掛けリクライニングシートを採用。
完全空調方式を採用したことから、側窓は乾燥空気を封入した二重ガラス複層固定窓とした上で、屋根上にはAU11形分散式冷房装置を独特のキノコ型カバーに2基ずつ納め各車に6基(先頭車は5基)搭載。暖房装置は従来と同じく座席下に電熱ヒーターを搭載するが、従来の架線から直流1500Vを直接通電する方式をやめ、先頭車に搭載する電動発電機 (MG) から供給されるサービス用交流電源から給電する方式を採用した。
トイレ・洗面所は各車両(モハシ150形は洗面所なし)に設置し、外国人客を考慮してサロ151形には洋式トイレを採用した。トイレ側窓は小さくして外部から人影が見えないように配慮し、臭気抜き窓は上部が内折式で7センチだけ開く構造である。

新製当時は20系電車と称したが、翌1959年6月の車両称号規程改正により151系電車と改められた。
落成当初より規定改正が検討中であったため車両番号表示は、車体とは別の鋼板にステンレス製の切抜き文字を貼り付けネジで固定し、改番時には旧番号板を取り外して新番号板と交換(のちに車体へ本設)する方法が採用された。

クハ181-45
廃車後は新潟車両センターに静態保存(通常は非公開)されていたが、鉄道博物館の開館に際して移転・展示された。廃車時には取り外されていた運転台上の前灯の他、ウインカーランプも復元されているが、ウインカーランプの色は異なる。
保存された2両は、クハ151形のトップナンバー、元々はクハ161形のラストナンバーとして製造された車両であるが、当初から181系としての製造車は保存されていない。

 

吉塚駅 JR九州)鹿児島本線・日豊本線・福北ゆたか線

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吉塚駅(よしづかえき)は、福岡県福岡市博多区吉塚本町にある、九州旅客鉄道(JR九州)の駅である。

1981年、それまで天神にあった福岡県庁が当駅の約600m西側の東公園地区に移転したことで、国鉄・JR九州としては福岡県庁の最寄り駅となった。

また県庁舎の少し西側には九州大学病院および医・歯・薬学部が立地している。駅周辺はマンションが多く建ち並んでいる。

開業当時の地名(筑紫郡千代村字吉塚)が由来。
「吉塚」は1586年(天正14年)、立花宗茂に攻められ高鳥居城で討ち死にした筑後の豪族・星野氏の星野鎮胤と星野鎮元の兄弟を祀る吉塚地蔵尊に因んだ地名である。

JR九州における福岡県庁への最寄り駅で、当駅の所属線である鹿児島本線と、当駅を終点とする篠栗線の2路線が乗り入れている。なお篠栗線は運転系統上は「福北ゆたか線」(黒崎駅 - 直方駅 - 博多駅間)の一部となっており、篠栗線の列車はすべて博多駅まで乗り入れている。日本国有鉄道(国鉄)時代は勝田線の起点でもあった。


吉塚駅 - 博多駅間は鹿児島本線の上下線と篠栗線(福北ゆたか線)の単線が並行しているため、通勤・通学時間帯には鹿児島本線の列車と福北ゆたか線の列車が同方向に並走するシーンも見られる。吉塚駅 - 博多駅間に篠栗線用の線路が敷かれたのは1991年(平成3年)3月16日のダイヤ改正に合わせてのことで、それまでは博多駅のホーム容量の都合上、当駅始発・終着の篠栗線の列車も多く運行されていた。


現在は普通・快速列車すべてと朝・夜間の一部の特急列車が停車しているが、初代の快速は通過しており、特別快速と統廃合されて設定された現行の快速(2代)は1982年(昭和57年)3月1日から一部が停車し、同年11月15日にすべての列車が停車するようになった。また当時運行されていた香椎線に直通する博多駅 - 西戸崎駅間の普通列車は当駅には停車せず、1985年(昭和60年)3月14日からは一部の特急も停車するようになったため、一時「一部の特急とすべての快速が停車し、一部の普通が通過する駅」となったことがある。また九州新幹線鹿児島ルート全線開業前の数年間は、県庁への利便性が考慮されて特急「有明」の一部が当駅始発・終着で運行されていた。

単式ホーム1面1線と島式ホーム2面4線、計3面5線のホームを有する高架駅である。テナントとして「フレスタよしづか」が入居している。
直営駅で、オープンカウンター式みどりの窓口が設置されている。旅行センターも併設されています。JRの特定都区市内制度における「福岡市内」の駅である。切符売場に券売機は4台。旧型のボタン式が半数を占めています。

改札口に改札機は7台。県庁の最寄かつ周辺には学校が多数立地するため、出場専用機が過半数を占めています。


改札内高架下にもちょっとした待合スペースがあります。

のりば
ホーム 路線 方向  行先    備考
1■鹿児島本線 上り 香椎・赤間・小倉・門司港方面 特急「きらめき」は停車しない
 ■日豊本線                  (特急「ソニック」「にちりんシーガイア」) 小倉・大分・宮崎・宮崎空港方面 「ソニック」は夜間の1本のみ停車


2■鹿児島本線 (待避線)


3■鹿児島本線 下り 博多・二日市・鳥栖・久留米・大牟田方面 特急は朝・夜間の一部のみ停車
4■福北ゆたか線 上り 篠栗・桂川・新飯塚・直方方面
5■福北ゆたか線 下り 博多行き


ホームまでエレベータエスカレータ等バリアフリー施設も完備しています。


1904年(明治37年)
6月19日 - 吉塚 - 篠栗駅間(篠栗線の前身)開通に伴い仮設駅として九州鉄道(初代)が開設。
10月25日 - 駅移転正式開設。


1907年(明治40年)7月1日 - 九州鉄道(初代)が国有化され帝国鉄道庁が所管。
1919年(大正8年)5月20日 - 筑前参宮鉄道箱崎 - 新志免(後の志免駅)駅間開通。
1942年(昭和17年)9月19日 - 筑前参宮鉄道が大同合併し西日本鉄道宇美線に所属。
1944年(昭和19年)5月1日 - 西日本鉄道宇美線が戦時買収により運輸通信省勝田線が所管。
1963年(昭和38年)12月1日 - 吉塚 - 博多 - 竹下駅間路線移設により駅移転距離変更。
1985年(昭和60年)4月1日 - 勝田線全線廃止。
1987年(昭和62年)
2月5日 - みどりの窓口開設。
4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。
2004年(平成16年)3月13日 - 箱崎 - 博多駅間連続高架化工事完工により完全高架化。
2009年(平成21年)3月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。

電報略号 ヨシ
駅構造 高架駅
ホーム 3面5線
乗車人員
-統計年度- 11,775人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1904年(明治37年)6月19日
乗入路線 2 路線
所属路線 ■鹿児島本線
所属路線 ■篠栗線(福北ゆたか線)
備考 直営駅
みどりの窓口 有
福 福岡市内駅
* 全列車が博多駅まで乗り入れ。

所属路線 勝田線
キロ程 0.0km(吉塚起点)
開業年月日 1919年(大正8年)5月20日
廃止年月日 1985年(昭和60年)4月1日


75式ドーザ(ビッグブル) 陸上自衛隊

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75式ドーザは陸上自衛隊の施設部隊が使用している装甲付のブルドーザーである。製造は小松製作所、愛称はビッグブル。中型ドーザと同様の作業能力があり、同時に機動性及び防護性をもつ土木器材です。

戦闘下での土木作業が可能な、装甲を有する中型ドーザ程度のブルドーザーとして開発されました。1969年から開発が始まり、1975年に制式採用されました。

2つの運転台を有し、作業時はドーザーブレード側の運転台で、走行時には反対側の運転台で操縦します。ドーザーブレード側の運転台は回転式で、作業時、移動時にあわせて方向を変えることが出来る。ライトと方向指示器は車体の前後に取り付けられています。


ドーザーブレードは中央から2つに分割されており、作業に応じて外反、内傾させることが可能です。輸送時にはドーザーブレードの幅を縮めて行ないます。エンジンはドーザーブレード側に搭載されている。装甲は小銃弾および砲弾片から防護できる程度のもので、操縦席の窓にはシャッターを下ろすことが可能です。

第一線部隊の機動支援に使用する。主に建設工兵である施設団に配備されています。装甲を有する唯一の建設車両ということもあり、普賢岳火山災害やカンボジアPKOでも使用されました。
現在は施設作業車に更新が始まっています。

全長 6.99m(走行姿勢):6.3m(作業姿勢)
全幅 2.70m(走行姿勢):3.45m(作業姿勢)
全高 2.79m
重量 約19.2t
乗員数 2 名
装甲・武装:主武装なし :副武装 なし
備考 最大牽引力 11.5t
機動力:エンジン 160ps / 1850rpm
登坂能力 tanθ約60%
渡渉能力 約1.0m
最小回転半径 約6.5m
製作 小松製作所

 

伊与喜駅 土佐くろしお鉄道中村線

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伊与喜駅(いよきえき)は、高知県幡多郡黒潮町伊与喜にある土佐くろしお鉄道中村線の駅である。駅番号はTK29。

 

単式ホーム1面1線を持つ地上駅。駅舎は無く、待合室のみが設置されている。無人駅となっている。

1963年(昭和38年)12月18日 - 日本国有鉄道中村線、窪川駅・土佐佐賀駅間の開通に伴って開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により四国旅客鉄道に承継。
1988年(昭和63年)4月1日 - 土佐くろしお鉄道に転換。

キロ程 18.1km(窪川起点)
電報略号 ヨキ
駅構造 地上駅
ホーム 単式 1面1線
開業年月日 1963年(昭和38年)12月18日
備考 無人駅

土佐佐賀駅 土佐くろしお鉄道中村線

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土佐佐賀駅(とささがえき)は、中村線開業時(昭和38年)の終着駅でした。高知県幡多郡黒潮町佐賀にある土佐くろしお鉄道中村線の駅で旧佐賀町の中心に位置しています。

駅番号はTK30。全特急列車が停車する。駅名標にあるキャッチフレーズは「カツオ一本釣り日本一の町」。

また、近海にニタリクジラが生息しており、ホエールウォッチングも出来る。

島式ホーム1面2線を有する地上駅。平屋のコンクリート駅舎です。

現在は無人駅であるが、終着駅時代は年間100万人の乗降客で賑わい、駅舎内には売店もありました。駅舎には喫茶店が併設され看板がありました。


のりば
1 土佐くろしお鉄道中村線 (下り) 中村・宿毛方面


2 土佐くろしお鉄道中村線 (上り) 窪川・高松・岡山方面


ホームには狭い待合室も設置されています。

1963年(昭和38年)12月18日 - 日本国有鉄道中村線(窪川駅 - 当駅間)の開通に伴って開業。当時は国鉄バスが土佐中村まで接続していた。


1970年(昭和45年)10月1日 - 中村線が当駅から中村駅まで延伸。同時に無人駅化(簡易委託駅化)。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により四国旅客鉄道に承継。
1988年(昭和63年)4月1日 - 土佐くろしお鉄道に転換。

電報略号 トサ
駅構造 地上駅
ホーム 島式 1面2線
開業年月日 1963年(昭和38年)12月18日
備考 無人駅

 

国鉄オハ31系客車 オハ3126

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国鉄オハ31系客車は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が1927年から導入した、国鉄で初の鋼製車体をもつ客車の形式群。なお、この名称は国鉄が定めた正式の系列呼称ではなく、1927年より製造されたオハ44400形(のちのオハ32000形→オハ31形)と同様の車体を持つ客車を総称する、趣味的・便宜的な呼称です。

1926年9月23日、山陽本線安芸中野 - 海田市間で、折からの雨が原因で築堤が崩れて特急列車が脱線転覆し、34名が死亡する大事故が発生した(山陽本線特急列車脱線事故参照)。事故の被害が拡大した原因の一つが木造客車の脆弱性にあると考えられたため、鉄道省は翌年度から木造客車の製造を中止して鋼製客車の製造に切り替えることとして本系列が設計され、1927年3月に先行試作車4両が竣工し、1927年8月に量産車の第一陣が竣工した。

素材こそ鋼製に変わったものの、車体構造は木造制式客車の最終形であるナハ23800形などとほとんど変わらなかった。
つまり、魚腹式の強固な台枠を備え、その上に鋼材による柱や梁を組立てて、そこに外板をリベットを用いて打ち付ける、という従来通りの構造設計が採られており、当初は重いアンチクライマーが車端部に取り付けられるなど、自重軽減に対する意識はほとんど皆無といってよい。
車体長は2軸ボギー車は17m、優等車を中心とする3軸ボギー車は20mで、台枠は原則的には17m級の一般型がナハ23800形のUF15の設計を継承するUF17、荷物車用がUF18、20m級の一般型がUF44、荷物車用がUF46で、いずれも台車中心間の中梁が大きく膨らんだ魚腹台枠となっている。

台車は木造車時代以来の明治45年型を基本とするTR11 - TR13(2軸ボギー台車)およびTR71・72(3軸ボギー台車)で、いずれも本来は船舶用として八幡製鉄所が製造供給していた球山形鋼(バルブアングル)を側枠に使用する、イコライザー式台車である。なお、汎用2軸ボギーのTR11と合造車用2軸ボギーのTR12、同じく優等車用3軸ボギーのTR71と荷物車用3軸ボギーのTR72は基本的にはそれぞれ同一設計で、TR12・TR72では輪軸が10t長輪軸からより高強度の12t長輪軸に変更されている。さらに、荷物車用2軸ボギーのTR13では12t長輪軸を用いるTR12を基本としつつ、側梁の補強やつりあいバネの強化などによって大荷重に耐えられるよう設計変更がなされている。

自動空気ブレーキ装置は当初、ウェスティングハウス・エア・ブレーキ(WABCO)社の設計によるP弁を使用するPF・PMブレーキ装置であったが、量産中にブレーキ弁が変更されており、日本エヤーブレーキ社の手によって1928年に開発・実用化されたA動作弁を使用するAVブレーキ装置が1929年度分より制式採用され、P弁を搭載する在来車についてもこの新型ブレーキへの換装を実施して階段緩め機能の付加など、保安性の向上が実現している。これも特急列車脱線事故の残した影響の一つであった。

 

 

 

牛島駅 JR四国)徳島線

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牛島駅(うしのしまえき)は吉野川市の東端、徳島県吉野川市鴨島町牛島にある四国旅客鉄道(JR四国)徳島線の駅です。

駅周囲は静かな住宅地で普通列車のみが停車する駅。駅番号はB07。開業時に牛ノ島と称していたものの、いつの間にか「ノ」が取れてしまい表記と読みが一致しない駅。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅。互いのホームは屋根がない跨線橋で連絡しています。 駅舎反対側ホームの上屋待合所にはFRP製の椅子が多数設置。

入口のデザインが個性的な駅舎はモルタル木造で、一度改装されている。かつては平日午前中のみ駅員が配置されていたが、2010年9月1日に完全な無人駅となった。切符売場には簡易型の自動券売機が設置されている。

待合室は広く壁に沿って長椅子、中央には四角い椅子が設置されています。

のりば 路線 行先
1 ■徳島線 阿波池田・穴吹方面
徳島方面
2 ■徳島線 徳島方面(普通列車同士の上下行き違い時のみ)


徳島線は佐古 - 鴨島間のみ高速化改良がされており、当駅は石井駅同様2番のりばが一線スルー化されている(制限速度90km/h)。なお、普通列車は原則として1番のりばに入線する。

また、2014年3月のダイヤ現在、当駅で特急列車を通過退避する普通列車が下りで2本(1本は土休日運休)、上りで1本組まれている。
1番ホーム脇には貨物跡地が残っています。

1899年(明治32年)2月16日 - 徳島鉄道の牛ノ島駅として開業。
1907年(明治40年)9月1日 - 徳島鉄道が国有化される。
年月日不詳 - 表記を牛ノ島駅から牛島駅に変更。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄の分割民営化により、四国旅客鉄道の駅となる。
2010年(平成22年)9月1日 - 無人化

電報略号 ウシ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 297人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1899年(明治32年)2月16日
備考 無人駅(自動券売機 有)

佐賀公園駅 土佐くろしお鉄道中村線

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佐賀公園駅は、1993年(平成5年)に開業した新設駅です。国道56号沿い、高知県幡多郡黒潮町佐賀にある土佐くろしお鉄道中村線の駅です。駅番号はTK31。駅名標にあるキャッチフレーズは「くじらの見える」。

駅からは太平洋が展望できる。

単式ホーム1面1線を持つ地上駅。駅舎は無く、木製の待合室のみが設置され待合所壁には壁画(カツオの一本釣りと、クジラの絵)が描かれています。ベンチや灰皿に至るまで、自然木がそのまま使われています。無人駅です。駅入口には階段の他にバリアフリー対応スロープが設置されています。

ホームは切り立った崖に面しています。

1993年(平成5年)10月1日 - 土佐くろしお鉄道により開業。

電報略号 コウ
駅構造 地上駅
ホーム 単式 1面1線
開業年月日 1993年(平成5年)10月1日
備考 無人駅

92式地雷原処理車「マインスィーパー」 陸上自衛隊

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92式地雷原処理車(92しきじらいげんしょりしゃ)は、広範囲に地雷が敷設された地雷原を啓開することを目的としている自衛隊の車両。1988年より開発が開始され、1992年に正式採用された。主に施設科に配備されている。略称はMCV、愛称は「マインスィーパー」。平成4年度から装備している。

車体は73式牽引車の車体を延長して転輪を1個増やし、誘導輪を取り付けている。73式けん引車を改良した車体の上に2連装の92式地雷原処理用ロケット弾の発射装置が装備。地雷原処理用ロケット弾内には、ワイヤーで数珠繋ぎにされた26個の爆薬(導爆索)が収納されている。

地雷原を処理する際には、まずこのロケット弾が発射され、空中で末端部のパラシュートが開き、ロケット弾本体の中から数珠繋ぎ状になった爆薬がパラシュートに引き出される。爆薬は縦一列に地雷原上に落下し、26個が同時に起爆して付近に埋設された地雷を爆破処理する。この作業により、地雷原内に安全な通路を確保する事ができる。


ロケット弾で紐状の爆発物を引き伸ばし、地雷原を爆破する処理機材は従来から存在するが、専用車両として開発されたのは92式が初となる。

車両による地雷原処理には、戦車などの前方に取り付けたローラー型機材で地雷を踏み潰して起爆させたり、ローラーから磁気を発して地雷を反応させる方式が第二次世界大戦中から確立されており、陸上自衛隊では92式地雷原処理ローラが存在するが、ローラー型処理機材は装備した車両の戦闘力を低下させる欠点があった。

92式地雷原処理車は、地雷処理専用の車両を導入することで戦闘車両に地雷処理の負担をかけず、ローラー型よりもさらに広範囲にわたって迅速に通路を確保することが出来る。

乗員:2名
全備重量:25t
主要寸法:7.63×3.00×2.77m
最高速度:50km/h


92式地雷原処理用ロケット弾×2
製造:日産自動車宇宙航空事業部(現在(株)アイ・エイチ・アイ・エアロスペース)
開設路 処理縦深:約200m 幅:約5.5m以上
ロケット弾射程 約800m


土佐白浜駅 土佐くろしお鉄道中村線

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太平洋を望む高台に位置する小駅、土佐白浜駅は国道56号沿いあります。

所在地は高知県幡多郡黒潮町白浜。土佐くろしお鉄道中村線の駅です。車を寄せる場所が駅周辺にはなく、アクセスが非常に困難な場所に立地されています。

駅です。駅番号はTK32。駅名標にあるキャッチフレーズは「渚の潮騒が聞える」。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。駅舎はなく、高台のホームにはつづれ折の山道を登りたどり着く事ができます。

駅入口にはトイレと待合所が設置されています。待合所はブロック造りで木製の長椅子が置かれています。無人駅です。

高台のホームからは太平洋と国道56号線が望めます。ホームの幅は十分広い。

1970年(昭和45年)10月1日 - 日本国有鉄道中村線、土佐佐賀駅・中村駅間の開通に伴って開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、四国旅客鉄道の駅となる。
1988年(昭和63年)4月1日 - 中村線の第三セクター化により、土佐くろしお鉄道の駅となる。

電報略号 シハ
駅構造 地上駅
ホーム 単式 1面1線
開業年月日 1970年(昭和45年)10月1日
備考 無人駅

 

 

新幹線0系電車「21形式新幹線電車 車号21-2」

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1964(昭和39)年の東海道新幹線開業に向けて最初に量産された360両のうち大阪方先頭車の1両。


新幹線0系電車は、日本国有鉄道(国鉄)が1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業用に開発した、初代の営業用新幹線電車である。
1964年から1986年まで38次にわたり、改良を重ねつつ総計3,216両が製造された。世界ではじめて200km/hを超える営業運転を達成し、航空機に範をとった丸みを帯びた先頭形状と、青と白に塗り分けた流線形の外観で、初期の新幹線のイメージを確立した。第8回(1965年)鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。
1964年の開業から、東海道・山陽新幹線用として足かけ44年にわたって運用されたが、2008年11月30日に定期営業運転を終了、同年12月14日のさよなら運転をもって営業運転を終えた。

史上初の高速鉄道専用車両として1964年から1986年までの23年間・38次にわたり、東海道・山陽新幹線用の初代車両として改良を重ねつつ、合計3,216両が製造された。先頭車は224両ずつ製造。初期製造車を0系新造車で置き換えたため、在籍両数は1976年の2,338両(うち2両は保留車)が最多である。JR発足時にはJR東海に1,339両(H編成53本、S編成38本、保留車35両)、JR西日本に715両(H編成32本、S編成5本、R編成21本、保留車17両)が承継された。

 

東海道新幹線時代の0系
航空機(特に旅客機)に範をとった丸みのある先頭形状と、青・白塗り分けのスマートかつ愛嬌のある外観を備える。初期の新幹線のイメージを確立した車両であり、戦後日本の高度成長時代を象徴する存在として、人々から長く親しまれた。1980年(昭和55年)頃までの書籍などでは「旅客機を思わせる先頭部」、「まるで地面を走る航空機」と形容されることが多かったが、晩年は後に登場した新型新幹線車両と比べ「団子鼻」と称されるようになった。
なお、「0系」と呼ばれることが増えたのは東北・上越新幹線用の200系が落成した1980年頃からのことで、1970年代以前は単に「新幹線電車」(しんかんせんでんしゃ)と呼ばれることが多かった。文献によっては「000系」と呼称していたこともあるが、1970年代以前にも鉄道関係の書籍や雑誌で「0系」と記した例は存在する。

東海道新幹線の建設から開業までは時間的にかなり限られていて、車両開発に十分な時間を割けなかったため、モデル車両「1000形」をベースにした車両(現在の0系)を開発し、そこから得られた改良箇所を後継車両に反映させる計画だった。この車両は全国新幹線網成立の時点で周波数50Hz/60Hz両用車両にする構想だった。この一環として951形・961形といった試験車両が製作された。また後継車両のために100系を欠番扱いとし、東北・上越新幹線用営業車両には200系の形式称号が与えられた。しかし、実際には計画どおりにはならなかった。
新幹線車両は、長距離高速運転による酷使の結果、当初耐用年数20年と想定されていたよりも車体・機器の劣化が早かったため(特に気密性の低下が問題になった)、初期製造車は12年目の法定検査切れの車両より廃車が始まった。以上のような理由から1976年9月より1,2次車が淘汰されていくわけであるが、当時、国鉄経営の悪化や労働紛争の影響で国鉄内部では車両を含めた技術革新が停滞しており、その一方で0系の基本性能は安定した水準に達していたことから、当時の動労をはじめとする労働組合は新型車両導入に否定的だった。さらには0系の増備が進みすぎた結果、編成中で車両の経年がまちまちだったことも加え、既存の車両と混成・編成替えを行う都合などから互換性を配慮する必要も生じた。
このため0系を新しく製造して古い0系を置き換える状態が続き、約22年間・38次にわたって、細部の改良を重ねながら0系が発注・製造され続けることになった。

車体長24.5m、車体幅3,380mmと非常に大型の流線型準張殻構造車体である。在来線車両より5m長く、50cm以上(151系に対しても約43cm)広い。また、高速安定走行実現のため、車輪径が大きく台車の背が高くなったことや床下に艤装される電装品の制約もあって客室床面高さも1,300mmと高い。このように従来にない破格の大型車体であるが、1mmから6mmの範囲で部材の板厚を細かく変更し、必要に応じ高耐候性圧延鋼材(SPA-C)・熱間圧延軟鋼板(SPHC)・一般構造用圧延鋼材(SS)と鋼材の種類を使い分けることで、設計当時の技術で実現可能な普通鋼製車体としては限界の軽量化に近い、公称構体重量10.5tを実現した。
もっとも初の超高速電車として機器構成の冗長性を高めて信頼性を確保する設計であり、搭載機器が重装備であったため、各車の公称自重は52.5t(25形)から57.6t(21形)に達した。
そのデザインは、空力特性を考慮して形状を決定された。設計者の三木忠直の下で風洞実験に当たった鉄道技術研究所の技術者田中眞一によれば、レーシングカーや航空機などの設計を検討したうえで、ジェット機のDC-8の先頭形状をモディファイして前面形状を設計したという。
前頭部先端は丸いカバーを装着している。この中には非常用の連結器が納められている。開発当初、このカバーは半透明のアクリル樹脂製で、前灯の漏れ光線を光源にして光る構造となっており「光前頭」と呼ばれた。後に走行中の鳥との接触で破損することから、不透明の丈夫なFRPに変更し、「光前頭」は廃止された。前灯と尾灯は同一のライトであり、尾灯として使用する場合は赤いスクリーンを通して点灯させる仕組みである。前期車はバタフライ式スクリーン、後期車は半円形スクリーンである。
先頭車床下には、障害物を跳ね除けることのできる排障器を設けている。鋼板を多重にしたこの「スカート」部分は、少々の岩なら軽く跳ね除ける。高速運転時の脱線を警戒したものである。そして本来は揚力による浮き上がり脱線転覆を防ぐ意味があり、スカート両脇のフィンも、風の力で車体を押し下げる作用を持つ。これも三木忠直の航空力学を応用したものである。
先頭車屋上には、今や新幹線のトレードマークともなった、架線に電気が流れているかどうかを検知する逆L字型で薄い板状の「静電アンテナ」が装備されている。新幹線開業前の試作車1000形のものとは大きく異なっている。設置位置の変化はあるものの、この0系で採用された静電アンテナの形状は、N700系に至るまでほとんど変わっていない。
先頭車内部には警笛装置が在来車同様に備わっているが、それまでの国鉄車両とは違い2種類のラッパ(AW8、AW9)を組み合わせた。これは、やわらかく明るい音色を出すために和音で表現しようとした結果である。この和音での警笛は後の新幹線車両にも引き継がれている。
車両の連結部には、車端ダンパが装備されており、車両妻面上部にオイルダンパを設置して、それをアームとリンクを介してお互いを連結することにより、車体に発生するロール方向の振動を低減させる。また、ヨー方向の振動もある程度の低減を図る機能を持っている。
最初期の車両は列車種別・列車名・号数・行き先が書かれた行先票が取り付けられていたが、高速走行中の脱落の可能性や列車本数の増加による煩雑さ、さらには盗難が相次いだこともあり、早期に使用を取りやめ、しばらくは車両側に行き先表示がされることはなかった。東京 - 新大阪間のみだった当時は運行系統自体は単純であり駅の表示だけで事足りたが、岡山開業以降は複雑化したため、以後の新造車は現行の電動幕式が取り付けられた。電動幕に関しては、既存の車両に対し、当初は取付工事が行われた車両も存在したものの、新製車で旧来車を淘汰する方針となり、1976年以降は取り付けられることはなかった。また指定・自由席表示も当初の札式から、省略の時期を経て、スリムライン、電動幕と変化している。
塗装:オリジナルの塗装は、車体がアイボリーホワイト、窓周りがブルーの塗り分けだった。この青色塗装は、新幹線ブルーともいわれる。配色は、航空機をライバルとして意識し、青空と白い雲のイメージから採用されたものである[要出典]。配色の由来は太平洋の青、航空機など諸説あるが、JR東海の運営するリニア・鉄道館が保管していた旧国鉄の内部資料「東海道新幹線電車技術発達史」に記載のあることが判明し、それによれば、1962年、国鉄や車両メーカーの担当者、外部の画家やデザイナーらが参加した会合で配色が決定した際、卓上にあった煙草のハイライトのパッケージが議論の中で重要な役割を果たした。星晃へのインタビューによれば、塗色はパンアメリカン航空の旅客機の塗装と煙草のハイライトのパッケージを意識したものである[。当初は部外委託委員会の検討結果から「アクリル樹脂エナメル塗装自然乾燥」で行われたがその後変更された。なお21-2は保存の際にこれに近い材料を使い復元されている。1988年に登場した「ウエストひかり」用車両は100系と似た窓下に子持ちラインを追加した塗装パターンを採用した。当初地色は他の0系同様のアイボリーであったが、その後1995年に100系の地色と同じパールホワイトとなり、それ以外の車両も順次変更されている。

普通車(1969年まで二等車)の座席は、海側を3列とした合計横5列配置の輸送力重視型である。開業以前に二等車(現・普通車)はシルバークラス、一等車(現・グリーン車)はゴールドクラスとする案があったため、モケットはそれに合わせた配色となった。

当初普通車はその銀色と青色のモケットを張っている転換式座席(W-12、W-70)だったが、1981年以降の新造車両(2000番台)は東北新幹線200系とほぼ同様のオレンジ基調のフリーストップタイプ・回転式簡易リクライニングシート(D-23、D-32)に変更、交換された。3列側は回転させるスペースがないため、一方向固定(集団見合型との比較アンケートの結果、集団離反型を採用)とされた。残存する在来車も順次同仕様に交換されたが、「こだま」用の編成に組み込まれた車両の中にはJR化後も廃車されるまで転換式のままだったものもある。この転換式座席と同じ色のモケットが在来線車両の優先座席に使われたことが「シルバーシート」の名称の由来である。また、交換後の転換式座席は、キハ31形など新製費を抑えた在来線車両に再利用される例も多かった。後年、オレンジ色の D 系シートはJR東海の新幹線待合室に再利用されている。
東海旅客鉄道(JR東海)の「こだま」用Y編成とYK編成の指定席車(9 - 12号車)、西日本旅客鉄道(JR西日本)のSK編成「ウエストひかり」、WR編成の全車は左右それぞれ二人掛けの4列に付け替えられた。「こだま」用Y・YK編成の4列シートはR-56形を、「ウエストひかり」用SK編成と「ウエストひかり・こだま」用WR編成のシートはWRK-201形を名乗る。しかし、ドア位置は以前の3列+2列のままであったため、デッキから車内に入る際の動線がやや屈曲したものとなった。

21形(Mc)
普通席(旧二等席)を備える制御電動車。36形を除く偶数各形式とペアを組んで使用される。博多向き運転台を備え、主制御器・抵抗器、電動発電機などを搭載する。側窓の大窓車は新大阪開業(1964年)から博多開業(1975年)にかけて143両製造されたが、当初の開通区間に達成した博多開業時より故障が目立ちかつ劣勢化しはじめた初期の1次車の置き換えで登場した小窓車1000番台車によって1976年から廃車が始まりさらにはメーカー都合などで当時製造が開始された200系と同じ接客設備と運転台開閉小窓が装備された改良型2000番台(1981年)も登場すると廃車が加速するが、編成単位での置き換えたのは最初の1000番台3編成だけで、以降は劣化した車両を置き換える方式のいわば車両単位に変わっている。この結果1000番台車は51両、2000番台は30両にとどまった。0系同士での置き換えは1985年度増備の38次車までとなり、1986年の100系量産車(X編成)が登場すると編成単位での廃車が再開され1970年の万博対応増備車もターゲットとされた。また、100系G編成車が登場するとひかり編成のこだま編成化も行われた。100系の増備が一段落し、1992年のぞみ用として300系が登場すると1994年には岡山開業用から博多開業用までの車両が廃車対象となり大窓車が全滅し1000番台車も廃車の対象となった。700系が登場して東海道新幹線区間運用が終了した1999年の時点では一部の1000番台車と2000番台が残るのみであった。最後まで山陽区間を引退した2008年の時点では2000番台改造7950番台が存在したが、これは25・26形の先頭改造車であった。

21-2
廃車後長らく大阪府吹田市 JR西日本社員研修センターで研修用に使用されていたが、埼玉県にある鉄道博物館へ収蔵されることになり、博物館に隣接している大宮総合車両センターへ搬送された。搬送は2008年8月27日JR西日本社員研修センター内でクレーン吊上げ、トレーラー積込み、同月28日にセンターから搬出、神戸港から船積み、東京港大井埠頭に到着後、同月31日未明大宮総合車両センターに搬入された。再塗装や車両内部の全面復元がなされた後、2009年9月13日未明に鉄道博物館に搬送され、10月21日から鉄道博物館に新設する展示棟内に展示された。前頭部は、アクリル樹脂製のものが取り付けられている。これはかつて交通博物館に存在した0系先頭部のモックアップ(後に解体)に取り付けられていたもので、カバーのみが鉄道博物館に継承、同車の展示に伴い取り付けられたもの。
埼玉県川口市にあった日本車輌製造東京支店蕨工場製で、1964年7月24日の車両落成時はN2編成と命名、1972年から「ひかり」用のH2編成に改称、1977年に営業運転終了、1978年4月から国鉄関西鉄道学園(現・JR西日本社員研修センター)で運転士・車掌養成用訓練設備として活用後、保管されていた。JR西日本から東日本旅客鉄道(JR東日本)に無償譲渡されたもの。ほとんどが東海道新幹線開業時の仕様そのままである。

 

 

 

 

 

有井川駅 土佐くろしお鉄道中村線

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有井川駅(ありいがわえき)は、高知県幡多郡黒潮町有井川にある土佐くろしお鉄道中村線の駅。

駅の周辺にはのどかな農村風景が広がっています。国道56号線沿いの集落から見える所に駅があります駅番号はTK33。

駅名標にあるキャッチフレーズは「磯づりと温泉の井ノ岬」。

単式ホーム1面1線を持つの棒線地上駅。無人駅で駅舎無く、築堤上のホームに待合所が設置されています。

ホームまでは畑の真ん中の長い通路を歩く事になります。ホームには階段で連絡します。待合室には長椅子が設置されています。

ホームからは太平洋が望むことができます。

ホーム入口には用途不明の構造物があります。

1970年(昭和45年)10月1日 日本国有鉄道の東大方駅として開業。
1982年(昭和57年)11月15日 有井川駅に改称。
1987年(昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化により、四国旅客鉄道の駅となる。
1988年(昭和63年)4月1日 土佐くろしお鉄道に転換。

電報略号 アリ
駅構造 地上駅
ホーム 単式 1面1線
開業年月日 1970年(昭和45年)10月1日
備考 無人駅

 

阿波川島駅 JR四国)徳島線

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阿波川島駅(あわかわしまえき)は、徳島県吉野川市川島町川島字春日北にある、四国旅客鉄道(JR四国)徳島線の駅です。

旧・川島町の玄関駅です。駅から500mほどのところに阿波九城の一つである阿波川島城があります。

駅番号はB11。以前は全ての特急・急行列車が当駅を通過していましたが2001年10月1日のダイヤ改正で特急「剣山」の一部を除く全列車が停車いたします。線内で唯一となる2面3線をもつ駅です。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを有する地上駅。洋風デザインに改装された木造駅舎です。ホーム間は屋根なしの跨線橋で結ばれています。

徳島線では珍しく3番のりばがあり、通過列車からの待避や徳島駅発当駅止まりの列車の折り返しに利用される。

かつては平日午前中のみ駅員が配置されていたが、2010年10月1日に完全な無人駅となった。また以前は系列のパン屋が入居していましたいましたが今は撤退しています。簡易型自動券売機が設置されています。汲み取り式トイレがある。

のりば
駅舎側から
1 ■徳島線(下り) 穴吹・阿波池田方面
2 ■徳島線(上り) 鴨島・徳島方面
3 ■徳島線 (待避線)

かつての貨物扱い所は、既に整地されて宅地などに変わっています。


1899年(明治32年)8月19日:徳島鉄道の川島駅(かわしまえき)として開業。
1907年(明治40年)9月1日:徳島鉄道が国有化される。
1914年(大正3年)3月25日:神後駅(じんごえき)に改称。
1915年(大正4年)7月1日:阿波川島駅に改称。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR四国の駅となる。
2001年(平成13年)10月1日:一部の特急列車が停車するようになる。
2010年(平成22年)10月1日:無人化

電報略号 ワハ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 530人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1899年(明治32年)8月19日
備考 無人駅(自動券売機 有)
* 改称経歴
- 1914年 川島駅→神後駅
- 1915年 神後駅→阿波川島駅

 

海の王迎駅 土佐くろしお鉄道中村線

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海の王迎駅(うみのおうむかええき)は、土佐くろしお鉄道の全線の中で一番新しく2003年に周辺の団地住民の便を図って開業した駅です。高知県幡多郡黒潮町上川口にある土佐くろしお鉄道中村線の駅。駅番号はTK35。駅名標にあるキャッチフレーズは「幡多青少年の家 浮津海水浴場」。


「海の王迎」という駅名は、鎌倉時代に後醍醐天皇の子、尊良親王が流刑された地で、海から王を迎えた地と言うことで名づけられました。

単式ホーム1面1線を持つの棒線地上駅。高台に位置する無人駅で駅舎は無く、待合室のみ。駅前には駐輪場がありクルマも停車できるようになっています。ホーム待合所にはFRPの椅子が設置されています。

太平洋が望む高台にホームがあります。バリアフリー対応のスロープ勾配は緩やかです。

てっぺんのパトランプで知らせてくれる列車接近案内がホームの線路をはさんで反対側にあります。

2003年(平成15年)4月22日 周辺の団地住民の便宜を図る目的に開業。

電報略号 ウミ
駅構造 地上駅
ホーム 単式 1面1線
開業年月日 2003年(平成15年)4月22日
備考 無人駅


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