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12月15日(月)のつぶやき


大内駅 JR四国予土線

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大内駅は、愛媛県宇和島市三間町古藤田にある四国旅客鉄道(JR四国)予土線の駅です。開業時から棒線駅です。

駅番号はG42。二名小学校、二名郵便局、二名保健所の最寄り駅は二名駅ではなくこちら駅になります。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。駅舎は平成元年に撤去され、出目駅や二名駅などと同様のデザインの待合室がホーム上に設置されています。駅前には駅舎を撤去した跡が残っています。ホームの待合所には木製の長椅子が設置されています。ホームへはホーム上屋すぐ横の短い階段を利用します。5両編成まで対応できる長いホームがあります。無人駅。かつては駅前の民家で切符の販売を行う簡易委託駅でした。駅前には整備された立派な自転車置き場が有ります。

1914年(大正3年)10月18日 - 宇和島鉄道の大内駅(おおちえき)として開業。
1933年(昭和8年)8月1日 - 宇和島鉄道が国有化。駅名の読み方を「おおち」から「おおうち」に変更。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR四国の駅となる。

電報略号 オウ←ヲウ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1914年(大正3年)10月18日
備考 無人駅

 

 

 

12月16日(火)のつぶやき

阿波大谷駅 JR四国)鳴門線

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阿波大谷駅(あわおおたにえき)は、徳島県鳴門市大麻町大谷前場にある、四国旅客鉄道(JR四国)鳴門線の駅である。駅番号はN05。

駅周辺は藍染めに使用される大甕で知られる大谷焼の生産地です。ホーム上からは、窯元の煙突が並んでいるのがよく見える。

ホームは1面1線で無人駅。築堤上にある。駅舎はなく、ホームに待合所が設置されています。ホームには小さな猿の人形が飾られています。説明看板によると、昔付近を荒らした大猿とのことです。

鳴門線の駅の中ではもっとも新しく、同線の駅では国有化後に作られた唯一の駅である。駅のすぐ横に踏切があるが、道幅は狭い。スロープ設置と嵩上げに際しては、鳴門側の1両分の長さを残して旧ホームを一旦撤去して、スロープからそのまま繋がる形で新ホームを2両分設置している。結果的に、ホーム全体の長さが1両分延長されている。

1961年(昭和36年)4月15日 - 開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR四国に継承。

キロ程 1.3km(池谷起点)

電報略号 アタ

駅構造 地上駅(盛土上)
ホーム 1面1線
開業年月日 1961年(昭和36年)4月15日
備考 無人駅

渡河ボート (Assault Boat ) 陸上自衛隊

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河川等において人員や物資の運搬用に用いる簡易なFRP製ボート。手漕ぎオールや船外機を動力として推進する。1艘では「半型舟」で、これが2個のドッキングで1セットとなる。半型舟の船尾を金具で連結して全型舟として運用するが、その際の輸送能力は人員26人となっている。

手漕の際に使用するオールや櫓、また錨等も専用で用意されている。また、この渡河ボート数艘を並列させて導板を渡して車両等の重量物を積載、渡河させることのできる「門橋」としても使用される。水害等における災害派遣では、浸水した地域に取り残された被災者を救助するために活用されている。

渡河ボート1漕(半形舟)
全長:4,300mm
全幅:1,765mm
全高:670mm
全備重量:145kg
材質:FRP製(強化プラスチック)
積載重量:約1,600kg
搭載人員:乗組員2人、武装隊員約10人
製作:ニュープロド株式会社(旧 プロドライ工業株式会社)
株式会社ニュープロド 事務所:〒366-0033 埼玉県深谷市国済寺519番地1 創立:平成16年(2004年)4月6日

12月18日(木)のつぶやき

御幣島駅 JR東西線

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御幣島駅(みてじまえき)は、大阪府大阪市西淀川区御幣島一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)JR東西線の駅である。
歌島橋交差点の北側に位置する。

駅のシンボルは、この周辺には川が多く、昔は渡し船が発達していたことにちなみ、「渡し船」です。ホーム壁にシンボルマークがあります。


島式ホーム1面2線を持つ地下駅です。8両編成対応。改札口は1ヶ所のみ。地上への出入口は、西淀川区役所付近の1番出入口、バスターミナル付近の2番出入口、尼崎寄りの3番出入口の3ヶ所。歌島橋交差点地下にある地下道や地下駐輪場にも繋がっている。なお、ホームに設置されているエスカレーターは上りのみです。

大阪市内を走るJR東西線の中では、数少ない他の鉄道路線との接続のない駅です。
直営駅(北新地駅の被管理駅)かつICOCA利用可能駅。出改札兼務となっているみどりの窓口と改札口。キオスクが営業してますが待合室はありません。

御幣島駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 H JR東西線 下り 尼崎・宝塚・三ノ宮方面
2 H JR東西線 上り 北新地・京橋・四条畷方面

日中時間帯は1時間あたり快速4本、各駅停車4本の合計8本が停車する。朝ラッシュ時は本数が多くなる。すべての列車が停車する。

歌島橋交差点は、御幣島駅の南・直上にある道路交差点。
国道2号、府道大阪池田線(みてじま筋・淀川通)、・市道淀川北岸線(淀川通)が交わる五叉路であり、大阪でも主要渋滞ポイントのひとつである。大阪市西淀川区のみならず、阪神間の交通の要所でもあり、大阪・神戸方面だけでなく、池田・豊中方面や阪神高速湾岸線方面との結節点になっており、交通量が多い。
交差点地下には地下道(自転車も通行可)が設置されており、御幣島駅や地下駐輪場にも繋がっている。
1998年(平成10年)度より歌島橋交差点改良事業が開始され、2010年(平成22年)3月30日に完了した。地下通路・エレベータが設置されて歩車分離された結果、交差点周辺の渋滞長が減少した。
なお、歌島橋は当交差点の南側に位置する大野川緑陰道路(旧大野川)にかかる国道2号の橋(大正13年完成)である。

1997年(平成9年)3月8日 - JR東西線開業と同時に設置。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。

電報略号 ミテ
駅構造 地下駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 11,952人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1997年(平成9年)3月8日
備考 直営駅
みどりの窓口 有
阪 大阪市内駅

 

国鉄スハ32系客車 マイテ39形式客車 車号マイテ3911

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国鉄スハ32系客車とは、日本国有鉄道の前身である鉄道省が1929年(昭和4年)から製造した20m級鋼製客車の形式群である。

国鉄が定めた正式の系列呼称ではなく、1929年より製造が開始されたスハ32600形(のちのスハ32形)および1932年より製造が開始されたスハ32800形(のちのスハ32形)と同様の車体を持つ客車を総称する、趣味的・便宜的な呼称である。

鉄道省最初の鋼製客車のグループであるオハ31系客車(1927年から製造)は、従来の木造客車の車体をそのまま鋼製としたような構造で、荷物車、食堂車など一部の車種を除いて車体長が17mであったほか、台枠も荷重に対して強度を確保できるが重量のかさむ魚腹形台枠を用いていた。ところがそれら最初の鋼製客車完成後に実施された荷重試験で、必ずしも台枠を魚腹形とする必要はないことが判明した。

その結果、スハ32形以降の客車台枠は、原則的に溝形鋼を用いた、単純で軽量な長形台枠に変更された。それと同時に、車体長は等級・用途を問わず、すべての車種で20mに統一された。
座席のシートピッチはオハ31形では木造車並みの1300mmで、ボックス席2つにつき3枚の窓が並んでいたが、スハ32形では、シートピッチを1455mmに拡大して居住性を改善し、ボックス席1つに2枚の窓が並ぶようになった。窓の左右幅は変わらないが、上下寸法は735mmに拡大された。また窓框の床面からの高さは、その後日本の旅客車両の多くが採用するようになる800mmとなった。

台車は、オハ31系では球山形鋼と呼ばれる特殊な断面の鋼材を使用する釣合梁(イコライザー)式のTR11(2軸ボギー式)およびTR71(3軸ボギー式)が採用されていたが、造船需要の急激な減少に伴い、用途の限られる球山形鋼の製造が打ち切られたことで、これらの台車の継続生産が困難となり、全面的に構造を変更する必要が生じた。

TR23形台車 スハ32600形などに装着されていた最初期型(図面番号VA3058)
そのため本系列では、ペンシルバニア形と呼ばれる鋳鋼製軸バネ部と一般的な形鋼による側梁を組み合わせた簡潔な構造の軸ばね式台車が新たに設計された。これらは2軸ボギーがTR23、3軸ボギーがTR73と呼称し、TR23は二等座席車・三等車(荷物合造車および寝台車を含む)・荷物車それに郵便車に、TR73は一等車(展望車を含む)・食堂車(合造車を含む)・寝台車(一等および二等。合造車を含む)などの優等車にそれぞれ装着された。なお、スシ37740形に限っては全車とも球山形鋼を使用するTR74[4]が装着され、台枠もこれにあわせて専用品が採用されたが、その理由は定かではない。
TR74を除くこれらにおいてはいずれも台車枠側面の大型部品であった釣合梁が廃止された。このため、摩耗部品であるブレーキシューの交換が容易となったほか、ばね下重量の軽減によって軌道破壊を抑制できるメリットがあった。
ブレーキはオハ31系で初採用されたA動作弁によるAVブレーキ装置が、車体シリンダー方式で当初より標準装備とされた。また、従来の客車では天井裏に単純な重力落下式の給水機構とともに設置されていた便所用水タンクが、このAVブレーキ装置のブレーキ管から流用して供給される空気圧で揚水するように変更され、保守面で有利な床下設置とされたのも、目立たないながら重要な改良点であった。

本系列の台枠は、基本的には溝形鋼を主材料とするが、初期の二重屋根車から1933年度製までは側梁に乙形鋼が使用され、2軸ボギー車には基本的にUF21が、3軸ボギー車にはUF45が使用されたが、合造車であるスハニ35650・35700形、スハユ35300形の各形式については製造当初側面に大きな開口部を持つことによる強度不足が懸念され、オハ31系の20m級3軸ボギー車用魚腹台枠であるUF46の台車心皿位置を2軸ボギー式台車用に変更したUF22が採用され、さらに荷重の大きな荷物車については、オハ31系に属するUF46を使用した一世代古い設計のカニ39550形が1930年まで継続生産された。 従ってこれら3形式は本系列中でも例外的に魚腹台枠装備車となっているが、この懸念は後日実施された応力解析の結果杞憂であったことが判明したことから、1931年以降設計のグループでは開口部の大きな郵便・荷物車も台枠をUF21に変更している。
また例外的に台車に旧世代のTR71を改設計したTR74を装着するスシ37740形は台車側受取り付け位置の相違などの事情から枕梁の設計を一部変更したUF45Aを、展望デッキの関係で展望室側車端部の細部構造や寸法が変更された展望車については、スイテ37000・37010形がUF47を、そしてスイテ37020形がUF47Aをそれぞれ使用した。
1934年度製以降は側梁を入手が容易な山形鋼とするなど溶接技術の進歩などを受けて改良が施され、2軸ボギー車にはUF30が、3軸ボギー車にはUF48が、食堂車には出入台が必要ないことから側梁の設計が変更されたUF49がそれぞれ使用された。 その後の解析の結果、前後の枕梁間に合計8本設けられていた筋交い梁が必要ないことが判明したことから、1936年度および1937年度製ではそれまで2軸ボギー用と3軸ボギー用が共通設計されていた枕梁の設計をそれぞれ専用設計とし、溶接組み立てを各所に採用し、2軸ボギー車にはUF37を、3軸ボギー車にはUF50を使用、1937年度以降は溶接組み立てを大幅採用した2軸ボギー車用UF38と3軸ボギー車用UF51の登場で20m級一般型客車用台枠は完成の域に達し、次代のオハ35系客車に引き継がれている。

初期に製造された車両では、屋根は二重屋根[7]となっていた。この方式は、段差の部分に採光窓を設けることができるなどの利点があったが、構造が複雑で製造上の工数もコストも大きかった。そこで単純な丸屋根への変更が検討された[8]が、当初は形状が大きく変わることへの反対が大きく、実施には至らなかった。
ところが、1931年に製造された初の三等寝台車である30000形(のちのスハネ30形)において車両限界を最大限活用し上段寝台のスペースを確保する目的で丸屋根が必然的に採用され、同形式の製造過程で屋根製造にかかる工数とコストの削減が確認された。この結果他の車両についても増備車は丸屋根とすることとなり、1932年以降の新造車はすべて丸屋根に変更となった。
また、1934年度以降新造のグループでは溶接技術の進歩や台枠の設計変更でリベットの使用本数が大幅に減少し、ウィンドウシル・ヘッダーの他、長土台と側板の接合部などに各1列残るばかりとされた。
1938年になると、客用窓を1m以上に拡大したオハ35系の製造が開始され、以後製造される一般型客車はそちらに移行したが、保温や凍結による破損防止などの観点から、北海道向けの三等座席車には従来どおり狭窓のスハ32形の二重窓車が1941年まで製造された。また、オハ35系では転換クロスシート式二等車は戦後になるまで製造されなかったため、転換クロスシートの30850形(のちのオロ35形)が、やはり1941年まで継続製造されている。
一方客室内部も製造時期により変化が見られ、二重屋根車までは木製客車同様妻羽目中央に束が入っていたが、丸屋根車ではこの束を取り払い、四方の枠縁で鏡板となるベニヤ板を押さえる構造となり、1934年ごろからは押縁で押さえる構造に変更し、また37400形(のちのマロネ37形)の1940年度落成の一部の車両では鏡板一枚張りが試みられるなど室内から束や枠縁を取り払う構造が随所に現れている。
クシ桁は二重屋根車では「妻壁の一部」として木地塗りとされていたが、丸屋根車ではこれを「天井の一部」として天井と同色に塗装された。後年二重屋根車でも丸屋根車と同様にクシ桁を天井色とした車両が存在した。 1935年製で、東京都立小金井公園で静態保存されているスハフ32 2146はこの時期の製造で、クシ桁・枠縁が残っている。
このクシ桁には中央の引戸上部に飾り押縁が取り付けられ、優等車のものは扇風機取り付け座を兼ねていたものを用いた。しかし、1936年から扇風機の取り付け位置が天井に変更されたことからこの年以降飾り押縁は取り付けないこととなった。

展望車(改造車)マイテ39形
1949年9月特急「へいわ」用として使用され、1950年度には揺れ枕吊り延伸による乗り心地の改善が実施されて台車がTR73Aとなり、1953年に冷房改造工事が実施された。
1・21は1950年からは特急「つばめ」に使用されたが、11は予備車となった。一等室は共通のデザインで国鉄独自に開発した1人用リクライニングシート(特別二等車のものとは別設計)および向かい合わせ座席が採用され、カウンター式のサービスコーナー(売店)が設けられた。一等室の座席配置は戦前と異なり、前部の(進行方向)左側が1対1、右側が2対2の向かい合わせ、その後に前向き1+2の座席が2列、最後列は1+1で、定員は14名である。1956年11月にエメラルドグリーン(淡緑5号、青大将色)に塗色変更されたが、11は塗色変更されなかった。
1960年に一等車廃止によりマロテ39形に改称され、さらに同年特急の電車化により団体用などに転用されたが、1962年までに全車廃車となった。車号マイテ3911は東海道本線の特急用一等展望客車。桃山様式の荘厳な内装を誇る。

 

 


務田駅 JR四国予土線

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務田駅(むでんえき)は市街地の西外れにあたる、愛媛県宇和島市三間町迫目にある四国旅客鉄道(JR四国)予土線の駅。駅番号はG45。開業時から棒線駅です。


隣の伊予宮野下駅とはJR四国でも有数の短い長さ0.9kmしか離れていない。6.3km離れた次の北宇和島駅との間では急カーブや急勾配が連続し、車窓から壮大な風景を望むことが出来る。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。国鉄当時は造駅舎がありましたが現在、駅舎はなく、出目駅や大内駅などと同様のデザインの待合室が設置されています。ホーム待合所には木造の長椅子が設置されています。

ホームへは仕切りや階段がなく歩道からそのまま段差なくホームに入る事が出来ます。ホームは必要以上に長い。駅前には自転車置き場が設置されています。無人駅となっている。

1914年(大正3年)10月18日 - 宇和島鉄道の駅として開業。
1933年(昭和8年)8月1日 - 宇和島鉄道が国有化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR四国の駅となる。

電報略号 ムテ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1914年(大正3年)10月18日
備考 無人駅

 

 

 

12月21日(日)のつぶやき

宇和島駅 JR四国予讃線・予土線

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宇和島駅は、愛媛県宇和島市錦町にある、四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅です。宇和島市の代表駅で、辺りは宇和島市の中心街です。予讃線の終着駅であり、線路名称上は同線の単独駅です。

ただし、隣の北宇和島駅を線路名称上の終着駅としている予土線の列車も乗り入れているため、事実上2方向の列車が利用できます。

そのため、予讃線と予土線の双方の駅番号が割り当てられており、予讃線はU28、予土線はG47です。利用状況はJR四国で17番目に多い駅です。当駅から宿毛線が延びるはずでした。

小説家司馬遼太郎は、紀行文集『街道をゆく・南伊予・西土佐の道』において当駅で線路が途切れていることに感動し、宇和島が鉄道文明の面からも際涯であると感じた、と紹介しました。

宇和島駅前には宇和島自動車のバスが乗り入れている。多くの路線バスは駅から約800m離れた宇和島バスセンターが起終点となっており、高速バスなども同センター発着となっています。駅前には大和田建樹の鉄道唱歌歌碑があります。

頭端式ホーム2面3線を持つ地上駅。現在の駅舎は平成10年の建築でJR系ホテルクレメント宇和島と一体型の大きな駅舎です。

駅改良の前は線路は駅より先に集まり、車止めは1つのみでした。

松山方面の特急列車は全て改札口前の1番線から発着する。1番線、2番線の線路の先端部分は、若干右にカーブしている。

2番線・3番線は1番線よりホームが短く、原則普通列車のみが使用する(一部1番線に発着する普通列車もある)。改札口にはLED式の発車案内が設置。
直営駅で、みどりの窓口や自動券売機が設置されている。また窓口横に「ワープ宇和島支店」がある。

キオスクは待合室横と駅舎外の2か所にあったが統合され、駅ビル内のウィリーウィンキー宇和島店(ベーカリー)脇にビッグキヨスク宇和島店としてリニューアルオープンしている。


駅構内に車両基地の宇和島運転区を併設し、夜間滞泊もある。

のりば
のりば 路線 行先 備考
1・2・3 ■予讃線 松山・高松・岡山方面 特急は1番のりばから発車
■予土線 江川崎・窪川・高知方面 高知方面は窪川で乗換
1番ホームから2・3番ホームへは、ホーム先端部分の通路を通る。
ホームは頭端式2面3線。給油設備があります。


3番ホームの奥には機回し線(客車列車の機関車を後部から前部に付け替える線)があります。


現在、大型時刻表では駅弁販売駅を示す駅弁マークは付されていないが、ビッグキヨスク宇和島店で「牛鬼弁当」(森田屋)と「宇和島名物じゃこ天むす弁当」(愛和観光)が販売されており、JR四国が実施している駅弁ランキング大会に出品されたことがあります。かつては白飯の上に甘辛く煮込んだ牛肉を載せた「斗牛弁当」が有名でありました。

1914年(大正3年)10月18日:宇和島鉄道の駅として開業。
1933年(昭和8年)8月1日:宇和島鉄道の国有化により、国有鉄道の駅となる。
1984年(昭和59年)2月1日:貨物の取扱を廃止。


1987年(昭和62年)
3月31日:貨物の取扱を再開。但し蜜柑の出荷時期に限定した取扱で、臨時貨物列車のみの設定とされた。
4月1日:国鉄分割民営化により、四国旅客鉄道(JR四国)と日本貨物鉄道(JR貨物)が継承。
1998年(平成10年)4月2日:新駅舎使用開始。
2004年(平成16年)4月1日:JR貨物の駅(貨物の取扱)が廃止。定期貨物列車の設定には至らないまま廃止された。

電報略号 ウワ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 1,417人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1914年(大正3年)10月18日
備考 みどりの窓口 有

 

 

移動コマンドポスト「移動指揮車」

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現場近くにおける情報収集とその解析が必要な場合、現場まで指揮機能を丸ごと移動できる特殊車両です。

地域周辺の情報収集を行うため、一時的な拠点としての役割を担っています。車体内部はちょっとした司令室で、オペレーター席、コンピューターを搭載し、遠隔地での簡易司令室として機能いたします。

「Military police(MP)」憲兵とは平時においては軍隊内部の秩序・規律を維持し、戦時においては主に交通整理・捕虜取り扱いなどの業務を行う兵科である。国によってその編成は一律ではないが、一個師団には概ね全人員に対して3%程度の人員が憲兵隊を構成しており、少なくても100人から200人程度で憲兵中隊が編成されている。大隊以上の規模を持つ憲兵隊では、犯罪捜査の要員や法曹有資格者も所属している場合がある。


規律正しさから特殊な任務を担うことも多く、日本では国賓に対する栄誉礼を行う特別儀仗隊は、警務科に属する第302保安中隊の隊員を以て編成される。また、朝鮮半島の共同警備区域(板門店)で南側の警備に当たっているのも憲兵である。

石井駅 JR四国)徳島線

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石井駅は徳島県名西郡石井町石井、所在地石井町の代表駅で四国旅客鉄道(JR四国)徳島線の駅。駅番号はB05。


特急「剣山」(4・5・8号)を除く全列車が停車する。周辺は住宅が多く町役場や高校があり徳島への通勤通学で賑わう駅です。

相対式ホーム2面2線をもつ地上駅。二つのホームは一本の古い跨線橋で結ばれているが、これは1915年と古くからのもので、柱には鉄道院の刻印がある。

構内には他に保線事業用車両を引き込んでおく留置線が設置されている。
木造の瓦葺駅舎があり、入口部分に2連の三角屋根による装飾のほどこされています。

直営駅となっている。駅舎内にはキヨスクがあったが閉店した。切符売場にはタッチパネル式の券売機が1台、有人窓口も営業していますが、マルスはありません。

待合室は。側壁と天井部分は県内産の杉で装飾され、木製の椅子があります。2003年頃に改築され、バリアフリーに対応したスロープや点字ブロックがつけられた。


のりば 路線 行先
1 ■徳島線 阿波池田・穴吹方面
徳島方面
2 ■徳島線 徳島方面(上下行き違い時のみ)


徳島線は佐古駅 - 鴨島駅間のみ高速化改良されており、当駅は2番のりばが一線スルー化されていて上下本線となっている(制限速度100km/h)。当駅を通過する特急は3本しかないが、通過する特急はいずれも上下本線を通過することとなる。
上りホームには上屋があり下に多数設置された木製長椅子があります。

1899年(明治32年)2月16日:開業。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により四国旅客鉄道が承継。
2005年(平成17年)3月1日:特急列車の一部が停車するようになる。

電報略号 イイ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 926人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1899年(明治32年)2月16日
備考 駅窓口営業時間
07:00-11:30
12:30-15:20

昔の国鉄様式の駅名標も残っています。

別府大学駅 JR九州日豊本線

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別府大学駅(べっぷだいがくえき)は、大分県別府市上人ヶ浜町にある、九州旅客鉄道(JR九州)日豊本線の駅です。

駅名どおり別府大学の最寄駅で別府の市街地にある駅。

周辺はマンションが立ち並び、主要金融機関やスーパーも揃っています。駅の約150m東で国道10号が日豊本線に並行している。 鉄輪温泉 へは 西へ約2.5km。距離的には最寄駅であるが、当駅前から鉄輪方面へのバスの本数は少ないため、バス利用の場合隣の別府駅が便利です。 

相対式ホーム2面2線を有する地上駅。互いのホームは屋根なし跨線橋で連絡しています。市街地にできた新設駅ゆえホームの幅は狭く特急「ソニック」の通過時はちょっと怖い感じです。

駅本屋は下り列車進行方向に向かって左側にあり、別府市国際交流会館との合築となっています。駅機能は1階のピロティ部分のみで合築の駅舎内には待合室がありません。


JR九州鉄道営業が駅業務を行う業務委託駅で、マルスは無いが改札口にPOS端末が設置され頭上には液晶式の発車案内が設置されています。切符売場にはボタン式の券売機が1台あり委託の窓口も設置されています。開業時に出札小屋として使われていた駅舎は、新築時に豊肥本線の滝尾駅に移設されています。


ICカードSUGOCAは出入場とチャージのみ対応。駅西側には別府大学駅から別府大学へと続く別府大学通り商店街があります。駅東側、海岸沿いは上人ヶ浜海水浴場や別府市立美術館が近いです。

1987年(昭和62年)
3月9日 - 日本国有鉄道が開設。
4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。
2012年(平成24年)12月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。

電報略号 ヘク
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 1,602人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1987年(昭和62年)3月9日
備考 業務委託駅

 

 

高速無人標的機チャカ (CHUKARIII)

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高速無人標的機チャカ BQM-74E(CHUKARIII)

標的機は銃砲やミサイルの試射・射撃訓練を行う際に標的として使われる機体。
現代では専用の、もしくは通常の航空機を改造したドローンが使われ、基本的に無人機です。過去には爆撃機に搭乗するガナーの射撃訓練用として、訓練弾の着弾を機体表面のタッチセンサーで捉える有人機もありました。

「標的機」という名前から「一度こっきりの飛行で撃墜されるもの」と思われがちだが、必ずしも試射や訓練の度に撃墜されるわけではなく、普通は任務終了後に回収・再利用される。カメラやセンサーを搭載して記録を取り、「実戦であれば撃墜できていたかどうか」を検証するのが一般的。

用途の性質上、何らかの事故で墜落に至る可能性は否定できない。また、耐久性能、兵器による破壊現象、墜落の過程などを検証するために意図して撃墜されることもあります。

ファイアー・ビーを小型化した対ミサイル用標的機。訓練支援艦の管制システムTMCATS(標的機多重管制装置)によって飛行管制をする。ある程度の自立飛行が可能で、飛行管制が途切れても定められたコースを飛び続ける事ができる。2004年度には電波高度計を搭載し、低高度訓練用として運用を開始された。CHUKAR IIIはそれ自体がSAMの標的となるところがファイアー・ビーと大きく異なる点である。

全長  3.95m
全幅  1.76m
全高  0.71m
重量  220kg
運用速度 444~1000km/h
運用高度 450~12,000m
運用時間 30~45分
エンジン 1基 WJ24-8(ターボジェット)
推進力 約109㎏
製作 日本電気(米国ノースロップ社との技術提携)
回収方式 パラシュート
不可装置 M.D.I(射撃評価装置)

標的機整備隊(江田島)
標的機整備隊は、平成14年3月の部隊改編により、第31航空群隷下に編入され、艦艇部隊のミサイル訓練射撃の高速標的機FIREBEE改及びCHUKARⅢの整備並びに整備員の教育を主な任務としています。


加島駅 JR東西線

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加島駅(かしまえき)は、大阪府大阪市淀川区加島三丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)JR東西線の駅である。駅南側は西淀川区に接している。駅周囲は住宅地で幹線道路から離れており静かな場所です。


東海道本線塚本駅 - 尼崎駅間の線路敷の直下に位置する。この駅の出入り口は東海道本線の線路両脇にあり、東海道本線を走行中の列車からも確認できる。

駅は一見、東海道本線の架線柱で地上駅に見える駅ですがホーム、コンコース等は地下に位置します。
島式ホーム1面2線を有しホーム有効長は8両編成分です。改札およびコンコースは地下1階、ホームは地下2階となる。
改札口は1か所。駅出口は北口(淀川区加島側)と南口(西淀川区竹島側)がある。北口にはロータリーとバスターミナルなども設けられているが、南口は住宅地に面した細い路地にあるため、駐輪場程度の設備しかない。南口は「加島駅」の表記が一切なく「竹島西口」「竹島東口」となっている。


北新地駅が管理している直営駅で、ICOCA利用可能駅。切符売場には券売機が3台。定期券発売機も設置されています。改札口はみどりの窓口と兼務、キオスクも営業しています。また、JRの特定都区市内制度における「大阪市内」に属する駅である。駅のシンボルは、当駅付近に「島」のつく地名が多く存在することから、その島に打ち寄せる波をイメージした「青海波」です。


加島駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■JR東西線 下り 尼崎・宝塚・三ノ宮方面
2 ■JR東西線 上り 北新地・京橋・四条畷方面
構内ホームは尼崎方面に大きく左にカーブしています。

駅開業までは鉄道空白地帯であったため、同駅付近から大阪駅まで多くの路線バス便が運行されていた。当駅開業後も路線バス便は運行されているが、開業以前と比べると減便されている。北口付近に加島駅前停留所、南口南側の竹島公園付近に竹島三丁目停留所がある。


1997年(平成9年)3月8日 - JR東西線開業と同時に設置。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。
2010年(平成22年)6月5日 - 乗客の男性が先頭車両同士の連結部から線路に転落し、そのまま発車した列車により重傷を負う事故が発生

電報略号 カマ
駅構造 地下駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 8,023人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1997年(平成9年)3月8日
備考 直営駅
みどりの窓口 有
阪 大阪市内駅

国鉄ケ220形蒸気機関車

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ケ220形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道省に在籍した、特殊狭軌線用タンク式蒸気機関車です。JR四国宇和島駅前に、宇和島鉄道1号機関車のレプリカが展示されています。

宇和島駅前に展示されているレプリカ


元は、宇和島鉄道(後の宇和島線、現在の四国旅客鉄道予土線の一部)に所属した機関車で、1913年(大正2年)に3両、1922年(大正11年)および1924年(大正13年)に各1両の計5両がドイツのオーレンシュタイン・ウント・コッペルで製造された。宇和島鉄道では、1 - 3, 5, 6と称したが、1933年(昭和8年)8月1日の国有化にともない国有鉄道籍となり、ケ220形(ケ220 - ケ224)と改番された。製造番号は、1913年製が5826 - 5828、1922年製が9846、1924年製が10838です。メーカーのリストによれば、もう1両(製造番号10886)が、宇和島鉄道に納入されたことになっているが、この機関車は、三蟠鉄道に納入予定だったものを、宇和島鉄道が先取りしたのを補充するため、取扱い商社が追加注文したものです。
形態は、新設計50PS形と称する車軸配置0-6-0(B)型9.6トン級ウェルタンク機関車で、固定軸距は1,400mm(700+700mm)である。本形式の炭庫は、オリジナルでは運転台前方の張り出しにあるが、後天的な改造により、運転台後方に炭庫の張り出しを設けています。


国有化後は、宇和島線の1,067mm軌間への改軌工事に8年余りかかったため、1941年(昭和16年)まで宇和島線にとどまった。改軌工事の完成後は、佐世保鉄道を買収した松浦線に移されています。最初に転属したのは、1937年(昭和12年)4月30日付けのケ222で、後の4両は1941年5月15日付けで転属しています。これらは、世知原支区に配置され、松浦線の改軌が完成する1944年(昭和19年)6月まで主力機として使用された。ケ224を除いて同年7月に廃車され、解体されたが、ケ224の廃車は1946年(昭和21年)12月17日まで持ち越され、佐々機関区で保管されていました。同機は、1948年(昭和23年)3月以降に遠州鉄道に譲渡され、奥山線で1956年(昭和31年)まで使用されました。同線での番号は9(後年C1907に改番)でした。

全長:5,492mm
全高:2,914mm
軌間:762mm
車軸配置:0-6-0(C)
動輪直径:600mm
弁装置:ワルシャート式
シリンダー(直径×行程):210mm×300mm
ボイラー圧力:12.3kg/cm²
火格子面積:0.40m²
全伝熱面積:18.4m²
機関車運転整備重量:9.7t
水タンク容量:0.90m³
燃料積載量:0.4t
機関車性能
シリンダ引張力:2,320kg
ブレーキ方式:手ブレーキ(後年、蒸気ブレーキを追設)

 

北宇和島駅 予讃線:予土線 JR四国

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北宇和島駅は、愛媛県宇和島市伊吹町にある四国旅客鉄道(JR四国)の駅。この駅を通過する特急列車で予讃線松山駅方面 - 予土線方面間を利用する場合は、分岐駅通過の特例で北宇和島駅 - 宇和島駅間を往復できます。周囲には住宅や郊外型店舗が並んでいますが、駅はとても静かです。

予讃線を所属線としており、予土線を加えた2路線が乗り入れます。予土線はこの駅が線路名称上の終点であるが、予土線の列車はすべて予讃線経由で宇和島駅まで乗り入れています。そのため、この駅を始発・終着とする列車は設定されていない。駅番号は、予讃線がU27、予土線はG46です。


島式1面2線のホームを持つ木造駅舎の地上駅です。現駅舎は昭和16(1941)年7月開業時のものをリニューアルした駅舎で少し短くカットされた様子です。高光駅方の両渡り分岐器で予讃線と予土線が分岐しています。

広めの待合室には木製の長椅子が設置されています。駅前商店で近距離乗車券を発売する簡易委託駅です。

のりば
のりば 路線     方向 行先
1・2 ■予讃線 上り 八幡浜・伊予大洲・松山方面
    ■予土線     江川崎・窪川方面
■予讃線
(■予土線含む) 下り 宇和島方面
駅舎反対側の2番線を一線スルーとした配線であるため、発着番線は一定していません。ホームは跨線橋で結ばれており、ホーム中程には短い上屋が設置されています。引き込み線等があった形跡は残っていません。

開業当初は宇和島からの宇和島鉄道の路線として開業したため、予讃線が分岐した際に当駅に0キロポストが設置されたようです。


1941年(昭和16年)7月2日 - 宇和島線(現在の予土線)から卯之町駅方面への路線(現在の予讃線)が分岐開通したのに伴い開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR四国の駅となる。

電報略号 キウ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
開業年月日 1941年(昭和16年)7月2日
乗入路線 2 路線
所属路線 ■予讃線
駅番号 ○U27
キロ程 296.1km(高松起点)
◄U26 高光 (2.2km)(1.5km) 宇和島 U28►
所属路線 ■予土線
駅番号 ○G46
キロ程 76.3km(若井起点)
◄G45 務田 (6.3km)(-km) (宇和島)* G47►
備考 簡易委託駅(駅舎外発券)
*全列車が宇和島駅まで乗り入れ

 

エンジン換装車 海上自衛隊

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エンジン換装用フォークリフト
P-3C型派生機のエンジン交換時に使用します。
クレーンのかわりにエンジンを吊り上げます。

 

全長     5.49m
全幅     2.24m
全高     2.9m


ブーム進長時 4.4m
最大荷重   約2t
重量     13t

高光駅 JR四国 予讃線

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高光駅は、愛媛県宇和島市高串にある四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅である。宇和島市街北部の山間に位置する小駅で駅周辺には人家も少なく、利用者も少ない。


片面ホーム1面1線の地上駅。中華料理店(JR四国経営の喜多方ラーメン屋跡)が隣接しています。かつてはJR四国によく見られる簡易型待合スペースもあった様子ですが現在は撤去されています。

ちょうどラーメン店とコンビニ店の二軒の建物に挟まれている「駅舎」でしたがラーメン店は閉鎖、コンビニ店は撤去されています。。コンビニ店は綺麗に撤去され駐車場の白線だけが残されています。

両店ができる以前は木造駅舎が建っていました。小さな待合室には木製の長椅子が設置されています。

ホーム上の待合スペースには貧弱な木製の長椅子が設置されています。

ホーム上屋の背中には駅名が表示してあります。またホームにはトイレがあります。

1941年(昭和16年)7月2日 - 開業。
1971年(昭和46年)11月6日 - 駅無人化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR四国の駅となる。

電報略号 タカ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1941年(昭和16年)7月2日
備考 無人駅

 

 

 

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