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松崎駅 /山陰本線

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松崎駅は、温泉で有名な東郷池南端、鳥取県東伯郡湯梨浜町大字中興寺字松原(松崎地区)にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅です。


山陰地方の温泉どころ、東郷温泉への玄関口の駅です。かつては一部の特急や急行も停車していたが、現在は普通と一部の快速しか停車しない。快速列車は下りは約半数程度、上りは夜の1便を除いて停車する。以前は深夜に米子駅から当駅まで各駅に停車する快速列車があったが、2010年(平成22年)3月改正で運転区間が短縮された結果、倉吉駅止まりの普通列車になった。

元々は単式・島式2面3線のホーム、青い屋根の木造駅舎を持つ地上駅。駅舎入口には温泉送迎待ち用のベンチが軒下に並んでいます。2003年(平成15年)、鳥取県鉄道高速化事業により米子駅寄りの分岐について一線スルー化工事が行われ、上下線の通過列車が2番線(島式側)を通過するようになりました。同時にかつての3番線(上下副本線)は撤去され、相対式2面2線となりました。その2番のりば(本線)は停車列車同士の行き違いがない限りは特急や快速の通過用としてのみ使われており、停車列車は上下線とも原則として駅舎側の1番のりば(副本線)に停車する。なお、互いのホームは跨線橋で連絡しています。


鳥取鉄道部が管理し、平日のみ営業となる簡易委託駅であり、窓口にてPOS端末による発券を行うほか、駅舎内に簡易式券売機有り。待合室にはFRP製で背中合わせの長椅子が設置されています。便所は改札外・改札内(1番のりば)ともに男女共用の水洗式。構内にはコインロッカーはないが、隣接している観光案内所に設置されています。


松崎駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先 備考
1 ■山陰本線 上り 浜村・鳥取方面
下り 倉吉・米子方面
2 ■山陰本線 下り 倉吉・米子方面 行違い時のみ

3番線は撤去されましたが、保線車用留置線が数線あります。

奥に見えるのが東郷池です。羽合温泉はこの対岸にあります。二十世紀梨の最大の産地でもあります。

1904年(明治37年)3月15日 - 官設鉄道が倉吉駅から延伸し、その終着として開業。客貨取扱を開始。当駅で鉄道開通式が開かれる。
1905年(明治38年)5月15日 - 官設鉄道が当駅から青谷駅まで延伸。途中駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。山陰本線の所属となる。
1972年(昭和47年)2月10日 - 貨物取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。

電報略号 サキ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1904年(明治37年)3月15日
備考 簡易委託駅
POS端末設置

 


朝日ヶ丘駅 一畑電車北松江線

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朝日ヶ丘駅は、島根県松江市古曽志町に位置する一畑電車北松江線の駅である。駅名にある朝日ヶ丘団地の最寄り駅で急行も停車しますが、朝夕以外は利用者も少ない。

加えて駅の近くには島根県東部運転免許センターと松江市立湖北中学校があります。

松江方面に向かって左側に単式ホーム1面1線を有する地上駅(停留所)。基本的に無人駅だが、平日の7:31~8:33、17:45~18:53に駅員を配置する(ただし学校の長期休暇期間を除く)。

駅舎は待合室があり、見た目はモダンな大きな段違いの屋根で大屋根下の半分がガラス張りです。

待合室内にはカラフルに塗られた木造長椅子が設置されています。ホームは狭いのですが上屋は比較的長い。

ホームと駅は坂の上にあり、公道や畑地を見下ろします。


1988年(昭和63年)4月1日 - 開業。
2006年(平成18年)4月1日 - 一畑電気鉄道の持株会社移行に伴い、新設の一畑電車株式会社が鉄道事業を承継。

駅構造 地上駅
ホーム 1面1線


乗降人員
-統計年度- 277人/日
-2010年-
開業年月日 1988年4月1日

 

 

3月16日(月)のつぶやき

松江イングリッシュガーデン前駅 一畑電車北松江線

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松江イングリッシュガーデン前駅(まつえイングリッシュガーデンまええき)は、島根県松江市西浜佐陀町に位置する一畑電車北松江線の駅である。


駅舎には島根県立松江ろう学校の美術部が制作した絵が飾られている。

2001年、当駅近くにルイス・C.ティファニー庭園美術館がオープンしたのにあわせ、当駅の駅名を古江駅からルイス・C.ティファニー庭園美術館前駅へと改称した。これは駅名として南阿蘇鉄道の南阿蘇水の生まれる里白水高原駅を抜いて日本一の長さとなり、現在もこれより長い駅名は現れていない。

その当時は、車内放送や車内運賃表の次駅表示、整理券では「ティファニー庭園美術館前」「庭園美術館前」と省略された形で案内されていた。
しかし、美術館は2007年3月31日限りで閉館し、付属していた松江イングリッシュガーデンのみが残った。このため駅名も変更を余儀なくされ、同年5月21日付で松江イングリッシュガーデン前に再度改称された。これに伴い、日本一長い駅名は再び「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」に戻ることになった。駅の北側には田畑が広がるのどかな雰囲気です。

島式ホーム1面2線を有する地上駅。無人駅である。構内の配線は一線スルー方式となっており、ホームへは西側の構内踏切から直接出入りする。沿線で唯一駅舎のない交換可能駅です。列車交換も行われます。駅舎はなく、駅前には自転車置場があります。ホーム上に待合室が設置され待合室内には木製長椅子があります。

1964年に浜佐陀駅と古曽志駅を統合して誕生した(ただし古曽志駅移転の扱い)。開業以来40年近くの間古江駅を名乗り、駅前のスーパー等は現在でも店名に「古江」を冠している。


1928年(昭和3年)4月5日 - 許曽志駅(こそしえき)として開業。
1946年(昭和21年)以降 - 古曽志駅(読み方は変わらず)に改称。
1964年(昭和39年)4月1日 - 移転のうえ古江駅(ふるええき)に改称。
1966年(昭和41年)9月1日 - 業務委託化。
1995年(平成7年)10月1日 - 無人駅化。
2001年(平成13年)4月2日 - ルイス・C.ティファニー庭園美術館前駅に改称。
2006年(平成18年)4月1日 - 一畑電気鉄道の持株会社移行に伴い、新設の一畑電車株式会社が鉄道事業を承継。
2007年(平成19年)5月21日 - 松江イングリッシュガーデン前駅に改称。

駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
乗降人員
-統計年度- 127人/日
-2010年-
開業年月日 1928年(昭和3年)4月5日
備考 無人駅

 

 

3月17日(火)のつぶやき

松江しんじ湖温泉駅 一畑電車北松江線

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松江しんじ湖温泉駅は、島根県松江市中原町に位置する一畑電車北松江線の駅である。同線の終着駅である。西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線松江駅へは、バスで15分程度(松江市交通局・一畑バスが運行)。宍道湖北岸の市街中心地区、市役所、県庁といった官公庁の最寄り駅でバスターミナルも併設されました。線内でも最大の乗降客数を誇る主要駅です。


頭端式ホーム2面2線を有する地上駅。ホームには上屋も完備されています。有人駅です。改札へ入って右側が1番のりば、左側が2番のりばとなっている。2層相当の背の高い現平屋駅舎は田中正夫建築設計事務所によって設計され、2001年に竣工したものです。屋根の高いガラス張りの斬新なデザインな駅舎です。

それ以前は開業当初の駅舎が1番のりばに面して設けられていた。駅舎の北側には温泉を引いた足湯がある(無料)。待合室は白を基調とした内装に赤い椅子が設置されています。売店も併設されています。一畑電鉄の旅行会社や不動産会社も並んでいます。

2002年に解体された旧駅舎の改札口の部材の一部が保存され、2007年3月に開館した島根県立古代出雲歴史博物館の館内に当時を再現する形で展示されている。駅で掲示していた出発時刻表も使用されているほか、デハ1のカットボディも傍らに設置されている。また、将来構想として松江駅と当駅を結ぶライトレール構想があり、2012年度中の開通を予定していたが、東日本大震災の影響により計画は凍結されている。

1928年(昭和3年)4月5日 - 北松江駅として開業。
1970年(昭和45年)10月1日 - 松江温泉駅に改称。
2002年(平成14年)4月1日 - 松江しんじ湖温泉駅に改称。
2006年(平成18年)4月1日 - 一畑電気鉄道の持株会社移行に伴い、新設の一畑電車株式会社が鉄道事業を承継。

駅構造 地上駅
ホーム 頭端式2面2線
乗車人員
-統計年度- 950人/日(降車客含まず)
-2010年-
乗降人員
-統計年度- 1,907人/日
-2010年-
開業年月日 1928年4月5日
備考 有人駅(一畑電車WebSt@tionより)

 

 

一畑電気鉄道2100系電車

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一畑電気鉄道2100系電車は、一畑電車が一畑電気鉄道からの分社前の1994年(平成6年)に導入した通勤形電車である。

一畑電気鉄道(現・一畑電車)の車両近代化に際し、1994年から1995年(平成7年)にかけて京王帝都電鉄(現・京王電鉄)5000系を京王重機整備で改造した車両である。デハ2100形 (Mc1) - デハ2110形 (Mc2) の2連4本8両が導入され、同社で初めて冷房装置・カルダン駆動装置・発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキを装備した車両となっている。

塗装はこれまでの一畑電気鉄道の車両から一新され、イエローをベースに、側窓下がホワイト、貫通扉・側扉がブルー、車体裾部分がグレーとなっている。
車体は普通鋼製で、前面窓にはパノラミックウィンドウを採用し、貫通扉と側扉付近に行先方向幕を装備している。また、ワンマン運転用に前面窓両側にサイドミラーが取り付けられている。1994年度譲受の2本は側扉が3扉のままであるが、1995年度譲受の2本は座席数確保のために中央の扉を埋めて2扉車として落成している。
車内の座席はロングシートとなっている。ワンマン運転用として、連結面側の側扉付近に乗車整理券発行器を、運転台後部に運賃表示器と自動両替機付運賃箱を設置している。また、連結面には防犯カメラを設置している(他の2系列でも同様)。

制御方式は抵抗制御であり、主要機器類は主電動機として三菱電機製のMB-3054 (75kW) を、駆動装置は中空軸平行カルダン駆動方式を採用、台車は帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)3000系から流用したFS510を履いている。パンタグラフはデハ2100形の連結面に1基設置されている。
クーラーは分散型で、デハ2100形は7基、デハ2111・2112・2114は8基、デハ2113は6基搭載する。また、デハ2113以外の7両はベンチレーターを備えている。これは、デハ2113が非冷房車からの冷房改造車、それ以外が新製冷房車という種車の差異によるものである。

1994年に運転開始した。現在は北松江線・大社線の全区間で運用されている。なお、5000系1編成が検査時の場合、平日朝方の特急「スーパーライナー」は本系列1編成が5000系と併結して代走する。
なお、臨時ダイヤで4両運転を行う際、2両目と3両目の運転台側には幌を取り付けないため、前後の車両を行き来することはできない。

一畑電車では2014年度より一部車両の更新を予定しているが、本系列については4本中2本が廃車される予定である。なお、残存する2本については2018年度から2020年度にかけて修繕工事を行い、15年程度の延命を図る予定である。ただし、どの編成が廃車または修繕されるかは不明。

 

 

千本駅 JR西日本)姫新線

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千本駅(せんぼんえき)は、兵庫県たつの市新宮町千本にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)姫新線の駅。

佐用方面に向かって左側に単式ホーム1面1線を持つ地上駅(停留所)。外壁をライトブルーに塗られている大きな屋根を持つコンクリート製の簡易駅舎です。駅舎入口には階段があります。

かつては対向式ホーム2面2線であった跡が残っている。最長で2両編成の列車しか停車しないがホーム長は長い。

姫路鉄道部管理の無人駅で、自動券売機も設置されていない。窓口の跡が待合所に残っています。
また、棒線駅のため、佐用方面行きと播磨新宮方面行きの双方が同一ホームに発着する。駅前には、路盤跡と思しきスペースもあります。

構内ホームは新見方面、ゆるく左にカーブしています。

ホーム待合所にはアーバンエリア標準仕様の椅子が設置されています。

1934年(昭和9年)
3月24日 - 姫津線(当時)播磨新宮駅 - 三日月駅間延伸時に開業。
11月28日 - 姫津西線開業に伴い、姫津線が姫津東線に改称され、当駅もその所属となる。


1936年(昭和11年)
4月8日 - 当駅を含む姫路駅 - 東津山駅間が全通したため姫津東線が姫津線の一部となり、当駅もその所属となる。
10月10日 - 姫津線が姫新線の一部となり、当駅もその所属となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道の駅となる。

電報略号 セン
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 29人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1934年(昭和9年)3月24日
備考 無人駅


複合艇

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複合艇は、ボートの形式のひとつ。硬式ゴムボートあるいは複合型ゴムボート(主に海上保安庁での呼称)と呼ばれることもある。

インフレータブルボートをもとに船底を繊維強化プラスチックなど硬質の素材としており、通常、船体はディープV型など滑走船型を採用している。これにより、低速時にはインフレータブルボートと同様に大きな予備浮力によって復原力が確保される一方、高速時の波浪衝撃にも耐えられる強度も確保されている。全体を硬性素材で製作したボートよりも軽量となるので高速を発揮でき、また、ブルワーク兼用のゴムチューブが防舷材としての機能を兼ねることから臨検などにおいて特に有用である。また、船底が硬性素材なので、通常のインフレータブルボートよりも船内作業時の足元が安定することから、民間用途でも多くが使われている。また、近年では、船底だけなく浮体も硬質材料で作ったものも登場しており、これはRBB(Rigid Buoyant Boat)と称される。RBBは通常のRHIBよりも丈夫なので独航型の小型哨戒艇などに採用されることが多い。


なお、RHIBは従来の搭載艇よりも軽量であることから、大掛かりなミランダ型ダビットではなく、より軽量なクレーンによる一点吊り下げ(シングル・ポイント・リフティング)による降下・揚収が可能となっている。近年では、乗員を乗せた状態で降下・揚収を行なえるクレーン・システムが主流になっている。

日本の海上自衛隊では、アメリカ海軍と同様の11メートル級RHIBを特別機動船(SB)の名称で採用し、特別警備隊が装備している。これはソマリア沖海賊の対策部隊派遣に参加した護衛艦にも、通常の内火艇に代えて搭載された。
また、これとは別に、7.5メートル級RHIB、6.3メートル級RHIBおよび4.9メートル級RHIBが複合型作業艇の名称で採用されている。7.5メートル級複合型作業艇は、海上自衛隊がもっとも初期から運用している複合艇で、アメリカ海軍やNATO諸国と同様、ゾディアック社製のハリケーンH733が採用されており、2005年より調達されはじめた改良型(MIDIO型)は、必要に応じて艦載化されるともされている。6.3メートル級複合型作業艇は28ノットの高速を発揮して臨検に用いることができるもので、はやぶさ型ミサイル艇やひうち型多用途支援艦に搭載されている。一方、4.9メートル級複合型作業艇は比較的低速で、従来型の作業艇と同様に洋上作業に重点を置いており、多くの護衛艦に搭載されるようになっている。


一方、海上保安庁や水産庁でも、複合型ゴムボートなどの呼称で、RHIBの採用が進められており、7メートル級RHIBは大型巡視船に、6メートル級RHIBは中・小型巡視船に、4.8メートル級RHIBは巡視船およびPC型巡視艇、漁業取締船に搭載されている。これらはいずれも高速力を発揮でき、臨検の任務に使用される。ただし救難用途では従来使用されてきた高速警備救難艇のほうが使い勝手が良いことから、これらも、RHIBと並行して搭載されることがある。

3月21日(土)のつぶやき

土佐市トーチカ

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 アメリカ軍を迎え撃つため磯部(ものべ)川から仁淀川まで陣地構築がなされ、その一環として旧陸軍によりトーチカがつくられた。上陸してきたアメリカ兵を撃つためのトーチカは戦後、8つぐらい残っていたが現存は殆どない。トーチカは南北が11m、東西が8m、高さが4m、壁の厚さが2m。銃眼は5つ、砲口がある。現在は物置として個人が利用している。

また海岸沿いにトーチカ以外に無数の防空壕もつくられた。

トーチカは、鉄筋コンクリート製の防御陣地を指す軍事用語。日本語では特火点と訳される。トーチカが城塞と区別される点は機関銃やそれに準ずる自動火器、あるいは小型高性能な火砲の登場でごく小規模な単位で、敵部隊の攻撃を阻止できるようになった事である。


トーチカは一般に円形や方形などの単純な外形で、全長が数メートルから十数メートル程度、銃眼となる開口部を除いて壁でよく保護された防御施設である。土嚢で作った壁の上に丸太類を渡して土を盛り天蓋とするだけでも簡易トーチカとすることができる。特筆すべきはコンクリート製の本格的なもので、榴弾砲の直撃にも耐えうるため、排除が困難を極めるところであり、資材が不十分な場合でも、必要とあれば現地部隊の努力で石やサンゴ礁の硬い砂、廃材など、あらゆるものが利用される。一般の家屋を改造してトーチカとすることもある。トーチカの壁には視察用と銃眼を兼ねた必要最小限の穴が設けられている。また、戦車を埋め、砲塔のみを露出させて即席トーチカとすることもある。初めから余剰の戦車/海軍艦艇の砲塔を利用して建築されたトーチカも見られた。
構造の大部分が地面より下になっており、他のトーチカ等に接続される場合の通路は掘り下げられた溝状の塹壕(トレンチ)や、地上からの直接の出入り口がなく地下道によって接続されるもの、さらにはその地下道によって後方の大きな保塁や要塞とつながっているものもあった。


トーチカは正面を向いた銃眼以外にはほとんど穴が空いていないため、視察観測が不能となる死角が多く生じる。このため、通常は複数のトーチカを並べて互いにカバーしあい、敵に対して十字砲火を浴びせられるように配置される。「大西洋の壁」のドイツ軍の一部の機関銃トーチカのように、海岸と正対する位置に(敵の艦砲射撃の的になる)銃眼を設けず、左右斜め前方に射線を形成できるようにしたものを組み合わせ、上陸してくる敵兵を十字砲火で制圧するように設計されているものもあった。
日本においても、遺構として北海道の根室市から苫小牧市にかけての太平洋岸に複数のトーチカ群が残されており、硫黄島では、破壊された一式陸上攻撃機を活用した掩体壕の残骸を現在も見ることができる。北方領土には、旧ソ連がトーチカとして設置したIS-3重戦車が遺棄されている。

3月23日(月)のつぶやき

のいち駅 土佐くろしお鉄道阿佐線

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のいち駅は、高知県香南市野市町西野2056番地2にある、土佐くろしお鉄道阿佐線(愛称:ごめん・なはり線)の駅。香南市の代表駅です。

駅番号はGN37。駅の開業によって、駅の西側を南北に走る道路が整備され、その道沿いに様々な店舗の出店が相次ました。ショッピングセンターが隣接しているほか、周辺にはレストランやコンビニエンスストアなどがあり賑わっています。計画当初の仮称は漢字で「野市駅」でした。土佐電鉄安芸線の時代は、野市駅と日章駅(現・立田駅)間に「西野市駅」がありました。

交換設備のある相対式2面2線のホームを持つ高架駅です。駅舎は高架線の北側に設置されています。1番線を上下主本線、2番線を上下副本線とした一線スルーとなっており、設備も両方向の入線・発車が想定されているが、現在のところホームは方向別に使い分けられています。


駅員無配置ではあるが、駅舎内の売店店雑貨屋で定期券や回数券を販売しており、乗車券自動販売機も設置されています。そのため、業態としては簡易委託駅に近い。入口は西入口と北入口があるが、時間帯によっては北入口は閉鎖されます。

待合室には長椅子を設置。朝夕の混雑時を中心に、後免駅 - のいち駅間では、ワンマン扱いの列車にも車掌が乗り込むことが多い。

両ホームに待合室が設置されています。


ホーム 路線 方向 行先
1 ごめん・なはり線 上り 安芸・奈半利方面
2 ごめん・なはり線 下り 後免・高知方面

イメージキャラクターの名称は「のいちんどんまん」。野市町で行われるちんどんコンクールにあやかったキャラクターで、ピエロのような服装をしています。このキャラクターのモニュメントは北入口付近に設置されています。

 

2002年(平成14年)7月1日 - 開業。

 

電報略号 ノチ
駅構造 高架駅
ホーム 2面2線
開業年月日 2002年(平成14年)7月1日
備考 無人駅(実質は簡易委託駅)


 

よしかわ駅 土佐くろしお鉄道阿佐線

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よしかわ駅は、高知県香南市吉川町古川字九六山542-1にある、土佐くろしお鉄道阿佐線(ごめん・なはり線)の駅である。駅番号はGN36。
開業当初、一部停車していた快速列車は現在全便通過し、普通列車のみ停車する。

駅周辺は人家が少なく水田やビニールハウスなど田園風景が広がっています。仮称は「吉川駅」であったが、埼玉県に同名の吉川駅が存在することから平仮名表記となった。土佐電気鉄道安芸線では、現在のよしかわ駅よりも西側200mの位置に古川駅が設置されていた。


単式1面1線のホームを持つ高架駅。無人駅で駅舎はなく、直接ホームに入る形になっている。ホームは線路から見て北側(安芸方面に向かって左側)にある。地上とホームを結ぶ階段には屋根がつけられている。

駅入口には待合室が設置されています。ホームに設置された待合室は木が長椅子や内装などにふんだんに使用されています。

イメージキャラクターの名称は「よしかわ うなお君」。旧・吉川村で養殖が盛んだったウナギがモチーフになっています。このキャラクターのモニュメントは階段の下付近に設置されています。

2002年(平成14年)7月1日 - 開業。

電報略号 ヨシ
駅構造 高架駅
ホーム 単式 1面1線
開業年月日 2002年(平成14年)7月1日
備考 無人駅

 

 

同和鉱業片上鉄道 キハ702

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国鉄キハ07形気動車(こくてつキハ07がたきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1951年に再生改造した一般形気動車(ディーゼル動車)である。旧形式名はキハ42500形(2代目)で、1957年の称号改正でキハ07形に改称された。

キハ42500形(2代目)の前身であるキハ42000形は昭和時代初期に鉄道省が開発したキハ41000形ガソリン動車を基本とし、大都市近郊路線に投入するために車体寸法を拡大して機関出力を強化したものである。
キハ42000形には、1935年(昭和10年)から62両が量産されたガソリン機関搭載の基本形式であるキハ42000形、および、1937年(昭和12年)に3両が試作されたディーゼル機関搭載の派生形式であるキハ42500形(初代)の2形式が存在した。キハ42500形(2代目) → キハ07形はこれらのうち、戦後まで残存していた車両について機関をディーゼル機関に換装して再生改造されたグループと、これらの設計に準じて戦後追加製造されたグループで構成される。

キハ42000形は、1935年から1937年にかけて62両(42000 - 42061)が製造された。このほか、ディーゼル機関を搭載した試作車キハ42500形が1937年に3両(42500 - 42502)製造されている。
製造は、民間の川崎車輛、日本車輌製造、新潟鐵工所のほか、鉄道省の大宮工場でも行なわれた。1934年度製造(1935年竣工)の最初の4両は各種試験に投じられたのち、2両は西成線(現・桜島線・大阪環状線の一部)用に宮原機関区に、別の2両が中央本線名古屋口ローカル用に名古屋機関区にそれぞれ配属された。以後は日本各地で多くの場合、1933年以降すでに先行して41000形が導入されていた路線にこれを置き換え、あるいは併用する形で投入され、捻出した41000形で新たな気動車運行路線を開拓する措置が(42000形増備が停止する1937年の戦時体制期までの短期間であったが)進められた。
戦後にもディーゼル機関を搭載し、ドアのプレスドア化など細部の仕様を変更した同形車が製造されている。こちらは、1952年に20両が製造された。

キハ42000形気動車は、全長19m、自重約27t、定員125名、燃料積載量400リットルと、量産形気動車としては当時日本最大級の気動車で、機関も日本製気動車用床下吊り下げ形ガソリン機関としては最大のGMH17形を搭載していた。
基本設計は先行するキハ41000形に多くを負っているが、そのキハ41000形自体が江若鉄道C4形などの日本車輌製造製私鉄向け大型気動車の開発成果を基にしており、型鋼を多用した軽量車体構造や菱枠構造を採用した台車などにその影響は顕著であった。
 車体はウィンドウ・シルから上を灰黄色(黄かっ色2号)、下を藍青色(青3号)に塗装され、客用扉は3箇所に設置された。また車体前頭部は当時の流行を取り入れて流線型となっていたが、工程短縮のため半円柱の2次曲面とされ、窓ガラスには通常の板ガラスを使用したため、6枚窓構成となっている。
窓配置はD1231D1321Dという不規則なものであるが、これは戸袋部分の制約や構体の強度確保等に起因しており、車内に等間隔で並べられたクロスシートは窓とは不一致であった。

本形式はキハ41000形同様に動力伝達方式が機械式と呼ばれる、自動車のマニュアルトランスミッションと同様の手動変速方式で、総括制御ができない構造であったため、大都市近郊の路線で1両で頻繁運行するのが原則であった。ラッシュ時などに連結運転を行う必要がある場合は、各車両に運転士が乗車し、先頭車の運転士がブザーにより後方の車両へ合図を送り、後方の車両の運転士はその合図に従って運転操作を行う協調運転を行っていた。この協調運転は大阪市の西成線(現在の桜島線)などの路線で実施され、戦後も千葉県など一部で行われた。
機関はキハ41000形搭載の鉄道省と日本国内のエンジンメーカー各社が共同で開発したGMF13形6気筒エンジンをベースに、気筒数を増やして直列8気筒とした「GMH17」(水冷4ストローク縦型、サイドバルブ、排気量16.98リットル)ガソリン機関で、連続定格出力150PS/1500rpm、最大出力200PS/2000rpmであった。垂直シリンダエンジンの床下搭載という制約からくるストロークの限界と、GMF13がボア拡大できる余地が(ブロックの摩耗時ボーリング再生を配慮した気筒間肉厚マージンの大きさを考慮しても)十分なものではなかったことから、GMF13のボア・ストローク拡大ではなく、130mm×160mmのボア・ストローク比はそのままに気筒数を追加する、比較的技術のハードルが低い手段を採ったものである。ヘッド部分はGMF13が3気筒ずつ分割の2ブロック構成であったのに対し、GMH17では4気筒ずつ分割の2ブロック構成とした。
点火時期調整については、GMF13では遠心力制御による機械式ガバナを用いたのに対し、GMH17は出力増大を考慮して吸気負圧制御をも併用した機械・真空式ガバナに進歩した。キャブレターは排気量増大に見合った大容量キャブレターが作れず、日本気化器(現・ニッキ)製のGMF13用ストロンバーグ型アップドラフト・キャブレター「トキハUT-5」の同型品を2基装備したツイン・キャブレター方式で対処している。なお、国産機関の採用は、ウォーケシャ6RBなどの輸入機関を使用する例が多かった江若をはじめとした私鉄向け大型気動車群や外地向け気動車群とは一線を画していた。
円錐式クラッチ板、4段の変速機(D211)はキハ41000形と同一であったが、台車に装架される逆転機については、歯車比を3.489から2.976に変更して高速運転に対応したD208を別途設計している。
台車はキハ41000形の軸バネ式の菱枠台車TR26をベースに、約7tの重量増加に対応して下揺枕を設けて枕バネ構成を変更、車軸を10t短軸とし、ホイールベースを1800mmから2000mmに拡大したTR29を採用した。TR26・29系台車はその軸距の短さとバネ構成から、高速運転時にピッチング現象が発生しやすいという問題があったが、当時の国鉄車両用台車としては珍しく走行抵抗軽減を目的としてスウェーデンのSKF社製品を元に日本精工(NSK)などで国産化した複列テーパー(円錐)ローラーベアリングを軸受に採用し、軽量化に特に留意した構造と共に、日本車輌の私鉄向け気動車の設計を元にした先進的なコンセプトの下で設計された台車であった。
キハ41000形と比してより高性能な、幹線での運用をも可能とする走行性能が与えられていたが、ブレーキシステムは軽量化のためにキハ41000形と同じ、直通・自動両用型のGPSブレーキがそのまま継承され、前述の機械式変速機とあわせて、長大編成での運用は考慮されていなかった。

1936年に、GMH17をベースに日本国内の鉄道車両用機関の有力メーカー3社の手によってディーゼル化したエンジンが試作され、これらを搭載し比較試験を行うためにキハ42000形と機関系統の機器以外は同一の車両が3両、キハ42500形という別形式で製造された。
この時試作されたのは新潟鐵工所LH8、池貝鉄工所8HSD13、三菱重工業8150の3社3種で、いずれもGMH17を基本とする縦型8気筒150馬力級ディーゼル機関であった。前2社が渦流式の副燃焼室を持つ排気量16990ccの渦流室式、三菱が直接燃焼室に燃料を噴射する排気量19467ccの直噴式、と各社が自社の得意とする技術を生かした仕様での独自設計で、各部に様々な差違があり、特に前2社製と三菱製では口径・ストローク共に異なるシリンダヘッド周辺を始め、相互間の部品の互換性はなかった。
これら3種による試験の結果、比較的悪質な燃料での使用に耐え、シリンダ内圧が低いため工作技術面でのハードルも低く、また海外特許や輸入部品への依存度が低いため国内生産が容易な渦流室式の採用が決定され、鉄道省と試験に参加した3社と川崎車輌、神戸製鋼所の共同設計で、標準型8気筒150馬力級ディーゼル機関の設計と試作が行われたが、実質的には新潟鐵工所LH8Xの直系というべき設計となった。なお、戦時体制への移行で機関の開発が中断され、実車試験は実施されなかったが、この機関が戦後のDMH17系ディーゼルエンジンの原型機となった。

私鉄でのキハ42000形は戦前に鉄道省が製作した最大の量産気動車で、戦後も追加新製が行われており、戦後すぐの段階では払い下げ対象とはならなかった。例外的に戦災等による廃車体が茨城交通や羽幌炭礦鉄道などに早期に払い下げられ、車体復旧後バス用ディーゼルエンジンを搭載してディーゼルカーとして復活しているが[17]、この時期は戦時中の私鉄買収に伴う種々雑多な買収気動車群の整理・廃車が優先されており、私鉄からの気動車払い下げ申請には原則的にこれらが充てられていた。
そのため、この時期に本形式と同クラスの大型気動車の確保を企図した夕張鉄道と南薩鉄道の2社は、本形式をベースとした車両を1952年に相次いで自社発注している。
このように、国鉄での温存が図られたキハ42500形も、1950年代中盤以降は液体式のキハ10系やキハ20系の増備が進むにつれて余剰となり、最終的に廃車されたうち25両が同和鉱業片上鉄道、有田鉄道、江若鉄道、関東鉄道、茨城交通などに払い下げられた。
このうち、最多の7両[18]を揃えて主力車としていた江若鉄道では、当初は原型のまま使用された[19]が、のちに3両について片運転台化+切妻化した連結面側への貫通路設置あるいは両運転台のままでの貫通路設置+前面形状変更(平妻化)と乗務員扉の設置、前照灯のシールドビーム2灯化、機関のDMH17への換装、変速機の液体変速機(TC-2)への換装と総括制御化、車体補強(床下へのトラスロッド追加など)等々、国鉄のキハ10系と同等の機能となるよう改造を実施し、総括制御による「気動車列車」を運行していた。これらの車両は湖西線建設に伴う江若鉄道の廃止後は関東鉄道へ譲渡され、同社の気動車整備にも影響を及ぼした。
鹿島参宮鉄道(→関東鉄道(鉾田線)→鹿島鉄道)へ払い下げられ、最終的に鹿島鉄道キハ600形となった2両(キハ42032、42036。1936年/1937年製)は譲受後、変速機を液体式変速機に交換、前面形状を平妻に改造、冷房装置を搭載するなど大幅な改造・改修を重ねた。結果、車体側面の形態と台車(TR29台車)、床油引きの木張り床板等に、往年の姿を残すのみとなっていたが、2007年3月31日の鹿島鉄道線廃止まで第一線の主力車として運用された。現役最後の42000形気動車、かつ第二次世界大戦前製造車では日本最後の現役営業気動車となった2両の車齢は、鹿島鉄道線廃止時点で約70年に達した。これは、日本で一般旅客営業に運用された気動車の中でも、史上最長の運用期間記録である。

現在の保存車としてはキハ07 41(旧番号キハ42055)は宮原線での使用を最後に1969年に廃車後、豊後森機関庫で保管されていたが、1986年に大分運転所に移されて引き続き保管された後、2003年に修復され、九州鉄道記念館に展示車両として静態保存されている。
キハ07 5(旧番号キハ42029、同和鉱業片上鉄道キハ702)は1991年7月1日の片上鉄道廃止まで旅客営業に運用された後は柵原ふれあい鉱山公園で動態保存され、月に1回の割合で展示運転されている。なお、廃止以前の昭和43年1月に、ヘッドライトのシールドビーム2灯化工事が行われて幾分イメージが変わったが、正面の流線形のフォルムは維持されている。
キハ07 29(旧番号キハ42032、鹿島鉄道キハ601)は70年以上にわたって使用された現役最後の国鉄キハ42000形気動車であったが、2007年の鹿島鉄道の廃止による廃車後は、他の鹿島鉄道の車両1両とともに旧鉾田駅にて動態保存され、イベントで実際に運転された。その後、2009年11月に鉾田市に寄贈され、同年12月には鉾田市内の温泉施設にて引き続き動態保存されている。

 


東觜崎駅 JR西日本)姫新線

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東觜崎駅(ひがしはしさきえき)は、兵庫県たつの市神岡町大住寺にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)姫新線の駅。

駅の周辺には、古い町並みがよく残っています。

駅から徒歩約10分の所には、当地名産品の手延素麺揖保乃糸資料館『そうめんの里』がある。ここでは素麺の歴史などが解説されている。近くには大神神社の分社『素麺神社』もある。

 

相対式ホームを持つ、2面2線の交換可能駅で地上駅。駅舎はライトブルーに外壁面を塗っている古い木造駅舎です。

姫路鉄道部管理で、終日無人駅であるが、駅舎内に直立式の自動券売機が置かれている。

待合室は狭く椅子がわずかに設置されるのみです。駅舎は姫路方面側にあり、佐用方面ホームへは播磨新宮寄りの構内踏切を利用する。トイレは少し離れた所に水洗トイレがある。

のりば 路線 方向 行先
駅舎側 K 姫新線 上り 姫路方面
反対側 K 姫新線 下り 佐用・津山方面

2番ホームには長椅子が設置された待合所があります。
下りホーム西側には側線跡が確認できます。


1931年(昭和6年)12月23日 - 姫津線(当時)が余部駅から延伸した際の終端駅として開業。
1932年(昭和7年)7月11日 - 姫津線が当駅から播磨新宮駅まで延伸。途中駅となる。
1934年(昭和9年)11月28日 - 姫津西線開業に伴い、姫津線が姫津東線に改称され、当駅もその所属となる。


1936年(昭和11年)
4月8日 - 当駅を含む姫路駅 - 東津山駅間が全通したため姫津東線が姫津線の一部となり、当駅もその所属となる。
10月10日 - 姫津線が姫新線の一部となり、当駅もその所属となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。

電報略号 ヒハ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 455人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1931年(昭和6年)12月23日
備考 無人駅(自動券売機 有)

本竜野駅 JR西日本)姫新線

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本竜野駅(ほんたつのえき)は、兵庫県たつの市龍野町中村にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)姫新線の駅。たつの市の代表駅である。


山陽本線には竜野駅があるが、こちらはたつの市の揖保川町域にあり、2005年のたつの市誕生以前の旧龍野市時代は、龍野市ではなかった。
旧市名は「龍野」だが、駅名は「竜野」というように、龍の字が常用漢字になっている。龍野は播磨の小京都とも呼ばれているだけに、古い町並みが続いている。


2010年3月12日までは姫路方面からの列車の約半数がこの駅で折り返していたが、翌13日のダイヤ改正により大半の列車が播磨新宮駅・佐用駅発着に変更され、この駅での折り返し列車は平日朝の1往復のみとなった。この列車も10月12日の修正で播磨新宮駅折り返しに変更された。1日平均の乗車人員は姫新線で4番目に多い駅です。

相対式ホーム2面2線で、行違い設備を有する地上駅。以前は単式・島式2面3線であったが、駅舎から遠い1線は撤去されている。


姫路鉄道部管理の直営駅で、みどりの窓口設置だが夜間は不在、昼間でも不在の時がある。券売機は1台、自動券売機設置だが、ICOCAはサービスエリア外で使えない。改札口には有人ラッチが設置されています。ホーム間は跨線橋で連絡する。


駅橋上化工事のため2009年1月にホーム上にあった1941年竣工の旅客上屋を撤去し、2009年3月28日から駅北側に仮設駅舎を設置し営業を行っていた。橋上駅舎が2010年2月に完成し、2010年3月13日より使用開始された。新しい駅舎は総工費約11億円で、地元のたつの市がほとんどを負担した。面積は約700 平方メートルあり、1階に観光案内所や地域交流施設が、2階に駅施設が入居している。


初代の駅舎は、1931年(昭和6年)の開業以来の木造駅舎で、約136 平方メートルであった。2009年3月28日に仮駅舎に営業を移転して使用停止され、4月から解体撤去された。


なお、1階と改札、改札とホームへはエレベーターが設置されている。トイレは多機能トイレがある。待合室には長椅子が数脚設置されるのみです。


のりば 路線 方向 行先
1 K 姫新線 下り 佐用・津山方面
2 K 姫新線 上り 姫路方面


上屋は一部に設置されるのみです。


旧駅舎時代の跨線橋は橋脚のみオブジェとしてホーム上に保存されています。


ホームから童謡「赤とんぼ」の像をみることができる。

1931年(昭和6年)12月23日 - 国有鉄道姫津線(当時)余部駅 - 東觜崎駅間の延長により開業。旅客・貨物取り扱い開始。駅のホームを繋ぐ跨線橋には『TAKATORI WORKS 1912 IGR』と鉄道院時代の刻印がされた支柱が使われている。なお、この支柱は、新駅舎完成後の保存が決定している。
1934年(昭和9年)11月28日 - 姫津西線開業に伴い、姫津線が姫津東線に改称され、当駅もその所属となる。
1936年(昭和11年)
4月8日 - 姫路駅 - 東津山駅間が全通したため姫津東線が姫津線の一部となり、当駅もその所属となる。
10月10日 - 姫津線が姫新線の一部となり、当駅もその所属となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2009年(平成21年)3月28日 - 初代駅舎使用終了、仮駅舎に営業を移転。4月から初代駅舎解体。
2010年(平成22年)3月13日 - 2代目橋上駅舎使用開始。

電報略号 ホノ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 1,689人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1931年(昭和6年)12月23日
備考 直営駅
みどりの窓口 有

 

西栗栖駅 JR西日本)姫新線

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西栗栖駅(にしくりすえき)は、兵庫県たつの市新宮町鍛冶屋にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)姫新線の駅。

対向式ホーム2面2線の交換可能な地上駅。ライトブルー外壁塗装の古い木造駅舎です。

駅舎は木造で、佐用方面行きホーム側にあるが、ホームは駅舎より一段高い位置にあり、階段またはスロープで上がる。駅舎の窓は板で打ち付けられている。

姫路方面行きホームとは佐用寄りの構内踏切で結ばれているが、その姫路方面行きホームにも駅舎のない勝手口があり出入可能。


当駅は国鉄時代の末期には運転扱いの要員は配置されていたが、旅客扱いの職員はいなかった。現在は完全な無人駅(姫路鉄道部管理)となっており、自動券売機も設置されていない。また、便所は改札外にあり、汲み取り式である。


駅舎前に、駅開業記念の石碑が設置されている。待合室にはFRP製椅子が設置されています。

のりば 路線 方向 行先
駅舎側 K 姫新線 下り 佐用・津山方面
反対側 K 姫新線 上り 姫路方面
長編成の多層建て急行が走っていた名残でホームは長い。

1934年(昭和9年)
3月24日 - 姫津線(当時)播磨新宮駅 - 三日月駅間延伸時に開業。
11月28日 - 姫津西線開業に伴い、姫津線が姫津東線に改称され、当駅もその所属となる。


1936年(昭和11年)
4月8日 - 当駅を含む姫路駅 - 東津山駅間が全通したため姫津東線が姫津線の一部となり、当駅もその所属となる。
10月10日 - 姫津線が姫新線の一部となり、当駅もその所属となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道に承継。

電報略号 クリ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線


乗車人員
-統計年度- 100人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1934年(昭和9年)3月24日
備考 無人駅

資材運搬車/陸上自衛隊

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資材運搬車は、陸上自衛隊で使用されている車両です。

民間向けのゴムクローラーキャリアダンプを陸上自衛隊仕様にして採用している。ゴム製の履帯により登攀能力30度、超塹能力1mと、高い路外走行性能があります。普通科部隊、特科部隊、施設科部隊に装備し、主として不整地地域における弾薬の運搬、築城資材等の極地輸送に使用する。コンパクトですがけっこう力持ち。クレーンは2tの物資を吊り上げる事もできる。座席はセパレート式で、左側が運転席となる。

操作はいたって簡単だそうで、両足の間に位置するT字型のレバーを前へ倒すと前進、後ろへ倒すとブレーキ、左へまわすと左折、右へ回すと右折、とまるで模型のリモコンのようである。

小型なことから大型トラックで輸送可能です。


民生品である諸岡製のキャリアダンプをそのまま流用しています。東日本大震災では、被災各地での行方不明者捜索に伴うガレキ撤去作業に使用されました。

全長 約4,300mm
全幅 約2,150mm
全高 約2,185mm
車輌重量 約5t


乗員 2人
最大積載量 約3t
最高速度 約20km/h
懸架・駆動 ゴムクローラー
製作 諸岡

あかおか駅 土佐くろしお鉄道阿佐線

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あかおか駅は、旧赤岡町中心から若干外れた海岸近く高知県香南市赤岡町字西浜374-1にある、土佐くろしお鉄道阿佐線(ごめん・なはり線)の駅です。駅番号はGN35。


全ての営業列車が停車する。夕方の時間帯には後免方面からの折り返し列車も設定されています。同じ場所に1974年3月31日までは土佐電気鉄道安芸線の赤岡駅があった。駅の北方を国道55号線が走っています。国道に沿うように香南市役所赤岡支所(旧・赤岡町役場)や各種店舗が立ち並んでいます。 徒歩約5分のところに鳴門競艇の場外売り場ボートピア土佐があります。

交換設備を備えた相対式2面2線のホームを持つ高架駅。無人駅で駅舎はなく、直接ホームに入る形になっています。1番線を上下主本線、2番線を上下副本線とした一線スルーとなっており、設備も両方向の入線・発車が想定されているが、現在のところホームは折り返し列車を除いて、方向別に使い分けられています。
高架下にはごめん・なはり線各駅のイメージキャラクターが並んだショーケースがあります。


ホーム 路線         方向 行先   備考
1 ごめん・なはり線 下り 後免・高知方面 ただし当駅始発は2番のりば
2 ごめん・なはり線 上り 安芸・奈半利方面

イメージキャラクタ ーの名称は「あかおか えきんさん」。幕末に赤岡に住んでいた絵師・弘瀬金蔵(絵金)をモチーフとしており、両手に筆を持っています。このキャラクターのモニュメントは2番ホーム入口下方付近に設置されています。

毎年、7月第3土曜と日曜に、高知県香南市赤岡町の本町・横町商店街で、「土佐赤岡絵金祭り」、通称「絵金祭り」が開催されます。幕末の絵師・弘瀬金蔵の屏風絵を展示する。2005年2月11日に資料館「絵金蔵」がオープンしています。

2002年(平成14年)7月1日 - 開業。
2003年(平成15年)4月 - 駅の高架下にキャラクター広場を整備。

電報略号 オカ
駅構造 高架駅
ホーム 相対式 2面2線
開業年月日 2002年(平成14年)7月1日
備考 無人駅

同じ場所に土佐電気鉄道赤岡駅がありました。同線の廃止に伴い廃駅となっています。最末期は交換可能な相対式ホーム2面2線で、木造駅舎を有する地上駅でありました。後免町方面からの折り返し列車も設定されていました。

1924年(大正13年)12月8日 - 高知鉄道の駅として開業。
1941年(昭和16年)7月12日 - 合併により土佐交通の駅となる。
1948年(昭和23年)6月3日 - 合併により土佐電気鉄道の駅となる。

駅構造 地上駅
ホーム 相対式2面2線
開業年月日 1924年(大正13年)12月8日
廃止年月日 1974年(昭和49年)4月1日
1974年(昭和49年)4月1日 - 安芸線廃止により廃駅。

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